映像四郎の百人斬り

映像四郎の百人斬り

「迷走」





 地下鉄A子ちゃんは、

 崖っぷちに立たされていた。

 「脊椎爆弾」

 「父母の死」

 「愛犬○の遺伝病」

 「多重人格症」

 「欝」

 「薬物依存」

 「出産不能」

 「性行為不能」

 「≒絶望≒死」

 西洋医学から、東洋医学へ。

 そこで、どうやら、よくある道筋から、

 「宗教」なるものに、

 「地下鉄A子ちゃん」は、

 はまりかけていた。

 関東北部の霊能力者の居場所に、

 明日いくことになっていたのだという。

 マッサージ氏からの仲介だったそうだ。

 ずいぶん、効き目はあったらしい。

 朝、携帯に着信がったが、

 夜、連絡してみると、

 そんなお話だった。

 友人に、メールで、相談して、

 いくのは、やめることにしていたそうだ。

 だが、いろいろなことが、ひっかかって、

 もやもやしてたみたい。

 身体も、心も、よくなっていた矢先に、

 ひとつの方法を手放すことへの不安で、

 途方に暮れている。

 「A子ちゃん」に、今の気持ちと、

 今までの経過を聞いてみると、

 「負の傷口」から、手を入れられて、

 全ての「負の原因」が、

 「A子ちゃん」の「魂のヨゴレ」に引っ掛けられていた。

 「≒死」な崖っぷち状況を軽減するためなら、

 別に、そういう世界も、否定はしないが、

 できることなら、「あっち側」に行って欲しくなかった。

 自分の「欲望」や「エゴ」に忠実な「情念の女」だからこそ、

 一緒に、飲んで、私は、癒され、生命力を注入されていたのだ。

 または、「欲望」および「エゴ」について、

 何かを学んでいたのかもしれない。



 目に見えないもの、

 それは、大切だ。

 しかし、それ以上に大切なのは、

 バランスと余白だろう。



 この世に存在しないものの価値に、

 上限なんて存在しない。

 つまり、値段は、青天井だ。

 だって、もともとないし、

 あるってことにすれば、あることになるし、

 まるきり自由な火星の土地みたいなものだ。

 しかも、「霊=魂」を最優先する思考は、

 肉体への介入を毛嫌いする可能性がある。

 手術を否定され、「A子ちゃん」が死亡した場合、

 「A子ちゃん」は、「天国」へ行ったことになってしまう。

 「A子ちゃん」が、それでいいなら、

 「A子ちゃん」は、「天国」へ行ったんだということにしてもいいが、

 私の基本は、「死=スイッチOFF」だけだと考えているので、

 「A子ちゃん」には、「生の可能性」を握りつづけてほしかった。



 「あたしね、ハタチのとき、お母さん死んじゃって、

  ものすぐ、悲しくて、

  今は、脊椎の腫瘍の手術で死んじゃうかもしれないわけじゃん。

  やっぱり、こういうとき、女って、お母さんに、甘えたくなるのよ

  それで、お母さんが死んだことや、犬の病気も、

  あたしのせいだって、いわれてすごく悲しかったの。

  あたしは、人を不幸にするんだって」



 たしかに、「A子ちゃん」の「不倫相手」は、

 奥さんに、暴力を振るってしまい、社長なのに、

 会社も解雇され、精神病になり、今は生活保護を受けるという、

 廃人にまで、追い詰められていた。



 「でもね、あいつが、落ちたのは、

  あたしのせいじゃないよ、えへへ、

  だって、あたし、もう、しらないもん」



 これだ。

 これでこそ、「地下鉄A子ちゃん」だ。

 「地下鉄A子ちゃん」に反省は、似合わない。

 私を、地下鉄に引きずりこもうとしたことや、

 形見として、残してくれると約束したCDのことも、

 翌日には、きれいさっぱり忘れていた。

 子供に戻っていたことを、教えても、



 「えー、あたし、覚えてない、

  最近、別人格でてきてないし、

  よっぽど、信用して甘えてたのね」



 違う。

 あれは、甘えじゃなかった。

 女じゃなかった。

 幼稚園の年長さんだった。

 別人格が、作動していた。

 この「A子ちゃん」の無責任な生命力によって、

 「あっち側」から、戻ってきた私は、

 「欲望」や「エゴ」の肯定という課題を、

 スパルタ的に、リハビリしていたのだ。




 民間療法は、シャーマニズムの流れを汲んでいる。

 古来から、人間は、病や不安に対して、

 名前をつけることにより、

 対処の方法の体系を編み出してきた。

 なんら、対処の方法を、持たないより、

 対処した方が、人間にとっては、

 安定がもたらされるという知恵らしい。

 だが、「余白」の介入を許さない、排他性が、首をもたげると、

 「問題」が、首をもたげだす。

 思考の枠組みや、文化の違いによって、

 何が、問題になるかは違ってくるし、

 問題の作り方や、体系だって、違ってきてしまう。

 「わからないもの」が「わかるもの」にカテゴライズされた途端、

 名前の裏側の仕組みの体系によって、対処法が析出される。

 「風邪」「癌」「花粉症」「精神病」、

 または、「悪霊」「神」「悪魔」

 「方法の限界を自覚」または、「余白を導入」することが、

 安全性につながるのだが、

 「宗教=神」という、

 「非限界性」を謳う「限界性」をもつ思考は、

 「非限界性」ゆえに、「限界性」の自覚を忘れ、

 足元をすくわれてしまうこともある。

 「中枢機能」を「あっち側」に吸収され、

 「こっち」にいても、気持ちは、

 「あっち」な状況になることもある。

 人間の認識を司るOSは、不確かなもので、

 いたって、不安定なものだ。

 脳という臓器は、習慣や、規律訓練で、

 内臓された世界観によって、

 どんな「リアル」だって、

 見ることができる。

 でなければ、「911」だって、存在しない。

 ビルに、突っ込んだ原理主義者には、

 「天国」と「70人の処女」と、

 「遺族への報償」が保障されていた。

 他者のココロの中に、

 動かしようのない映像が、稼動しているなら、

 それは、それで、否定する気はないし、できることなら、

 想像力も、もっていたいと考えるが、

 そんなわかりやすい強固な「映像」のために、

 死んだりしたくはないし、巻き込まれたくもない。



 「A子ちゃん」が、片足突っ込みそうになったものは、

 「カルト」の典型だった。

 「霊」に、体重がかかりすぎていること、

 「霊」が、金に結びついていること。



 「地下鉄A子ちゃん」は、私の飲み友達で、

 「地下鉄」に私を巻きこもうとしたときから、

 彼女に対し、できるだけ、

 優しくしようと、心掛けていたが、

 私の優しさの限度額は、いたって、低いので、

 焼きゴテを内臓に突き立てられると、

 「ナニサラスンジャ、コノアマ!」

 て感じで、必ず、焼きゴテで、

 私は、報復していたのだった。

 「リアル」とは、

 「人」との「リアクション関係」によって、

 形成されるものだ。

 私と「A子ちゃん」の「友達関係」は、

 あまり、健康的とはいえない。

 だが、その「あるかもしれないけど、なくてもいい」情念が、

 やっぱ「ある」ってことを確認したり、

 そんな「あほなこと」さえ、

 「リアル」として共有することも、

 人にとっては、大切なのかもしれない。

 だからこそ、「精神の内臓レベル」的な

 「情念」の「リアクション関係=ダチ」として、

 飲み続けていたのかもしれない。



 話してるうちに、「A子ちゃん」は、

 「A子ちゃん」のペースをとり戻した。

 人間魚雷のように明るい「爆裂女」として。



 そして、再度の飲みを約束した。

 だが、「地下鉄A子ちゃん」の

 「手術の日」は、近づいている。




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