映像四郎の百人斬り

映像四郎の百人斬り

「龍井晶子展」





 先日、見てきました。

 不思議な画風です。

 色が、色として存在しています。

 目を、閉じたとき、まぶたの裏側に感じられるような

 「色のせめぎあい」「色の混じりあい」「色の流れ」です。

 自分の作品が、「予定調和」になりそうなときは、「放置」するそうです。

 描くの辞めちゃうんだそうです。

 同時並行で、何枚も描いてて、自分の中の何かが「描いてる」ときだけ、

 描くそうです。

 子供たちは、「池の中で、お魚が泳いでる」ように見えたり、

 私には、「七夕の国」の「窓の外?」に見えたり、

 「色の温度」や「色の感情」を感じさせてくれます。

 「疑問符」として、「ぴょん」と日常に紛れ込んできたような「作品」です。

 人によって、感じ方が違うのだ、という一般的なお話がありますが、

 この「作品群」の場合、違わざるをえない。

 目に触れた瞬間に、「考える」ではなく「感じる」モードに、

 自然に移行せざるをえない。

 「やさしさ」と「つよさ」と「こわさ」と「やすらかさ」と何か、

 びりびりくる感じ、または、感想を拒否してるような、

 禅の「公案」を出されてるような、

 作家が、何を描いたかではなく、見る人が、何を見るか、

 または何が見えてくるかを、

 「考え」から、解き放って「感じる」ことに、

 身体の状態を、調整してしまような、

 「深い森」に迷い込んで、地面に、腰をおろして一服してるような、

 「心地よさ」を感じさせます。

 何はともあれ、「撮る」ということで、よいのは、

 実は、「肉眼」で「作品」に触れらる滞空時間が、

 長くなることことかもしれない、と感じました。

 カメラを介さなければ、そう長いこと、

 「作品」を前にしていられない。

 間接的に向き合う手段があるからこそ、

 逆に、「作品」に対して、直接的に、向き合う時間も長くとれる。

 私にとって「絵」というものは、

 「印刷媒体」で、触れることの方が、多い状況です。

 なかなか、時間の流れの中で、「絵」というものに触れられる機会はないので、

 少しでも、長いこと、接していられることは、よいことかもと思いました。

 わかることでなく、「感じる」ことなんかなぁ、と感じました。

 頭が、考えられることって、もっかして、範囲狭いんかなぁと。

 そこから、ちょこっと、足踏み出して、何か河みたいなものに、

 つま先、ちょびっと、つけてみたって感じでした。

「?」「!」「?」「!」「?」




© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: