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番外編:あの周恩来が・・・(水間 政憲)
☆番外編:
あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
『正論9月号』2005(平成17)年9月1日初版発行
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あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
--水間 政憲(転載フリー)
『正論9月号』2005(平成17)年9月1日初版発行
「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」
日中復交にさいしての周恩来首相の有名な言葉である。
20世紀初頭の1917年9月、内乱状態の中国から、一人の青年が日本に留学して来た。天津の南開学校を卒業した若き日の周恩来であった。
中国人留学生は、日清戦争が終結した一八九六年、講和条約(下関条約)が結ばれて13人の留学生が来日したのが始まりであった。その時、清国との間で留学生の来日に尽力したのは西園寺公望文部大臣であった。
ちなみに1972年の日中共同声明に尽力したのは、西園寺公望の孫で、戦中ゾルゲ事件に連座した西園寺公一だった。
中国は、近代国家の実態を日清戦争によってまざまざと見せつけられた。そこで、我が国を通しての近代化を選択した。漢字を使用する我が国が、西洋近代文化を取捨選択して活用している現状を見て、西洋諸国から新たに学ぶより有益と判断したのである。
その後、中国人留学生は増加の一途を辿り、日露戦争を境にしてピークに達している。その人数は、1905年に8600余人、1906年には約2万人とも言われている。
我が国が過去千年以上にわたって送り出した留学生の数を、中国は1~2年で上回ったことになる。
当時、我が国で中国人教育の為に設立された学校には、成城学校(陸軍士官学校の予備校)、日華学堂(専門各科を学ぶ為の言語を中心)、振武学校(陸軍士官学校、陸軍戸山学校に入る為の予備校)、東亜商業学校、東京同文書院、弘文学院、東斌学堂、法政速成科、経緯学堂、早稲田大学留学生部などがあった。
蒋介石は陸軍士官学校卒となっているが、実際は振武学校に通っていた。また、中国政府官費留学生は、我が国の国立大学に入学したものだけが認められていた。日清戦争後は、中国が日本に学べとの流れの中で、両国の国民感情がよくなり、一気に「清国熱」が高まり、教育、軍事、外交、法政、農業顧問など様々なジャンルの日本人が中国へ渡った。その人数は、1899年の1725人から、1906年には1万6910人(東亜同文会編『支那年鑑』)となっていた。
「中国人の風気を開発」するとの信念を持った教育熱心な日本人の中からは、中国に学校を設立するものも現れた。
その主な学校は、北京の東文学社(1901年)、上海の留学高等予備学堂(1905年)、南京の本願寺東文学堂(1901年)、天津の東文学堂(1899年)、杭州の日文学堂(1898年)、厦門の東亜学院(1900年)、泉州の彰化学堂(1899年)などである。
「歴史はくり返す」とよく言われるが、1972年の日中共同声明以降と同じ様な状況だったのである。
当時、中国が文化交流の中で日本語から取り入れた言語は、王立達の論文「現代漢語中従日本借来的詞彙」(実藤恵秀著『中国人日本留学史』)によれば、「現在よく使用されている外国語の84%となり、また『新名詞辞典』『新知識辞典』などに収められている語彙のほとんど半分は日本語から借用したもの」だという。
そこで、高名凱、劉正タン(土ヘンに炎:タン)共著『現代漢語外来詞研究』(前掲書)を活用して、「中華人民共和国憲法」を見ると、「中華」以外の「人民」「共和国」「憲法」は日本人が創造した言語である。
その本文も、日本語を削除すると憲法として成り立たないのである。
その意味で、現代の中国国家及び国民の概念は、日本語なくして存在できないのである。
しかし、中国はあまりにも拙速に日本語を取り入れたので、未だに日本人が創造した意味を理解していない。
●
神田は革命運動に走る中国人留学生たちの拠点
日本に留学した周恩来は、中国政府が認める官費留学生を目指して1918年3月、東京高等師範学校を受験した。しかし、失敗している。
周恩来は同年7月、背水の陣で第一高等学校(現・東大教養学部)の受験に挑むが、また失敗した。
周恩来は、その時の心境を友人に手紙で次のように告白している。
「日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう! これを自暴自棄というのだ。いかなる国を救うのか! いかなる家を愛するのか! 官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」(『周恩来十九歳の東京日記』小学館文庫)
周恩来は中国政府の官費留学生の待遇を得ることは出来なかったが、共産党の指導者になるための社会主義思想に出合った。
河上肇京都帝国大学教授の雑誌『社会問題研究』を手にしたことが、周恩来における共産主義思想の原点なのであった。
周恩来は、河上肇に心酔して帰国までの半年間、友人の呉達閣に誘われて京都大学の聴講生になっている。
当時、中国人留学生は、神田神保町周辺に数多く住んでいた。神田には、中国人留学生の約三分の二を集めていた東亜高等予備学校(現在の神保町二丁目の愛全公園付近)と中華青年会館があった。周恩来も東亜高等予備学校に通っていた。
当時、中国国内は内乱状態で、愛国心の強い周恩来がとても勉学に専念できるような状況ではなかったのであろう。
1911年、中国15省で革命政府が成立し、翌12年に孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立した。翌13年、袁世凱が大統領に就任すると、独裁政権にもどってしまった。袁世凱は翌14年国会を解散して、わずか2年で清朝時代へ逆行して行った。我が国で学んだ孫文たちの近代国家建国の理想は形骸化した。
第一次大戦(1914~18)に乗じて、我が国は、対華21ヶ条要求を袁世凱に受諾させた。袁世凱は、1916年に病死して、翌17年、清朝復活クーデターが暴発した。それを収拾した段祺瑞国務総理は、ドイツに宣戦布告している。周恩来は、この様な激動の中で革命運動に参加して行った。
東京は、「中国革命同盟会」が発足したところで、孫文の革命家生活40年の3分の1を過ごした、中国近代国家建国の拠点都市であった。
孫文の父親、達成は中国広東省最大の暴力団といわれた「三合会」の会長だった。父親が死ぬと、孫文は22歳で会長に就任している。
孫文は、我が国の政財界(犬養毅元首相、頭山満玄洋社代表など)から、物心両面の絶大な支援を受けていた。その都度、革命が成就した暁には、満州の統治を日本に委ねるなどの甘言を弄していた。
1912年、中華民国臨時政府大統領として、南北妥協を策し袁世凱に大統領を譲り渡したことで、孫文には人道的使命もなく、政治理念もなにもない。あるのは、独善的な中華思想だけだったと覚醒した黒龍会代表、内田良平は以後支援を打ち切っている。
それにもかかわらず、1913年の第二次革命にまた日本から孫文を支援している。
●
靖国神社に親しみを感じていた周恩来
当時、中国人留学生の革命への熱い想いを発散できる場所は、サロンの役割と革命運動の拠点になっていた神田神保町にあった中華青年会館であった。
周恩来は、読書と散歩をこよなく愛し、神田神保町周辺を徘徊していた。
神保町は、当時も今と同じ様に書店が軒を連ねていた。東京堂書店などに入り浸っていた周恩来にとって大学の授業を受けることより有意義だったであろう。
おそらく周恩来は、神保町からすぐ近くにある靖国神社に行っているのではないかと、頁を捲ると、靖国の文言が眼に飛び込んできた。
1918年4月30日(火曜日)気候・夜・雨。
【治事】
「午前、授業のあと、青年会(著者注・中華青年会館)に行き、帰ってきて読書。午後、授業のあと、急いで帰ってきて、また読書。夜、九段に靖国神社の大祭を見に行くが、雨に降られたのでやめて、青年会に行って新聞を読み、伯鳴の部屋に行き、しばらく話す」
靖国神社は、神保町から4~5分。目と鼻の先にあり、公園がわりに散歩コースとして利用していたのであろう。この日は、靖国神社で春季例大祭が開催されることを事前に承知した上で、見に行っている。
同5月1日(水曜日)気候・雨のち晴れ。
【治事】
「朝、読書。昼飯のあと、半時間、昼寝。夜、九段をぶらぶらしていると、靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す」
周恩来は、昨夜見ることが出来なかった「大祭に出会い、それを見て…」とあるが、それは神官が隊列を組み、神門を通り拝殿、昇殿へと進む姿を拝観しての感想なのであろう。日記には、「九段をぶらぶらしていると…」とあるが、神官の隊列は靖国神社境内にいなければ、見ることはできない。
中国人留学生用の留学案内書には、『日本遊学指南』(章宗祥著)などがあった。その中の「東京の遊覧地」には、〈靖国神社「麹町九段坂の上にある。国家のために忠死した人を祀ってある」〉と記載されている。
周恩来は、青年会などで様々な留学案内書を手にして、「大祭」の行事がいかなるものか認識していて感動したのであろう。
当時、中国では戦死しても家族に通知されることもなく、まして恩給などの保証もなく、国家が殉国者を手厚く慰霊することなど夢のような出来ごとだった。現在でも中国に於いては、政府や軍の幹部でなければ八宝山(中国の慰霊場)に祀られることはない。
胡錦濤主席などの中国共産党第四世代は、社会主義の中で育ったのであり、宗教に基づく慰霊とはいかなるものか理解できないのであろう。しかし、中共第一世代は、宗教とはいかなるものかを認識した上で社会主義国家を創った。それは、周恩来の日記の中にも見ることができる。
1918年2月15日(金曜日)気候・晴れ。温度6.2度。
【通信】
「釈迦が『世界には成仏しない者が一人いる。私こそその一人だ』というほど大きくはなれないけれども、有縁の者と一人一人断絶させられており、私にできなければ、誰が達磨の面壁に学ぶことができよう。……私の心を依然として『自然』に用い、進化の軌道に従いながら、もっとも大同の理想にちかい最新のことをしなければならない…」
周恩来の南開学校時代の友人、厳智開は東京芸術大学に留学していて、台東区谷中の霊梅院(禅宗)に下宿していた。周恩来は、その友人との交流の中で禅宗にふれたと思われる。
日記の中で「達磨の面壁」と書いた周恩来が、一時禅宗に興味を示していたのは明らかである。
菩提達磨は、インドから中国に渡って来て禅宗の開祖になった。しかし、禅宗は中国で根付かなかった。周恩来が惹かれたのは、「進化」「大同の理想」(無差別自由のユートピア世界)、「最新」といったことか。その文言の意味する先にある社会主義思想に光明を見出したのであろう。周恩来が靖国神社に親しみを感じていたことは、その後の日記にも現れている。
六月二日(日曜日)気候・小雨。
【治事】
「朝、『新中』に行って集会に参加し、ついで夢九を訪ね、昼まで話し、いっしょに出かけて会元楼で食事。飯のあと『游就館』に遊び、私の寓居に帰り、しばらく話してからやっと別れる。夜、輪扉が来る」
この日は、小雨にもかかわらず靖国神社遊就館(当時は「游」と書いた)に行ったとあり、一月一日から六月三日までで三回靖国神社に行ったことが書かれている。
周恩来が、散歩がてらに靖国神社に行った回数はけっこう多かったと思われる。
その頃、周恩来をインタビューした東京日日新聞記者神近市子によれば、「下宿で新聞や本を読み、外へ出る時はかすりの着物に兵児帯をしめ、ロシア風の帽子をかぶったりしてなかなかおしゃれだった」(『日本人の中の周恩来』)と。日本の風俗を受け入れていたようである。
周恩来は、近代国家日本の殉国者にたいする慰霊の実態を見て、日本の伝統と文化の神髄をそこそこ理解していたのではあるまいか。
いずれにしろ中華人民共和国「建国の母」と称される周恩来が、日清、日露戦争の戦死者を祀っている靖国神社の「大祭」を拝観していた事実は注目してよかろう。
現在、中国は、日清戦争以降を日本が中国を侵略したと喧伝している。胡主席は、「宗教」の神髄を知る為にも、靖国神社の「大祭」を拝観した周恩来の真情を理解してほしい。
1921年7月の中国共産党創立者12名中、初代総書記陳独秀、李大ショウ(金ヘンにりっとう:ショウ)、李達、董必武、李漢俊、周仏海は日本留学組であった(早稲田大学で学んでいた李大ショウも靖国神社遊就館を拝観している)。中国共産党創立者である陳総書記以下主な指導者は、現中国共産党が批判する「軍国主義国家時代の日本」で社会主義を学んでいたことになるのだ。
中国サイドは、その辺の事情に気付いたがゆえに、靖国問題の論点をいわゆる「A級」戦犯にすり替えたのであろうが、ここにも大きな矛盾が生じる。
「A級」戦犯として処刑された七人は、各連合国側の自国民にも知らされていた有名人であった。中国の場合は、南京攻略戦の総司令官、松井石根大将である。しかし、松井大将は陸軍を代表する親中国派の聖将でもあった。 松井大将は、南京攻略に於いて「中国文化保持のための厳命」を発し、和平の「投降勧告文」を撒布したり、「南京城攻略要領」で国際法を厳守させていた。松井大将は、国際法をより徹底する為に、国際法と慣習法の権威斉藤良衛博士に同行してもらっていた。
東京裁判は、「A級戦犯」を裁くために、事後法の「平和に対する罪」を主に活用した。
「A級戦犯」で処刑された七人の「平和に対する罪」の訴因の有罪、無罪の数を見ると松井大将以外は、2~7つの有罪となっている。しかし、松井大将は、「平和に対する罪」に関する訴因のすべてが無罪であった。
松井大将は、B・C級を裁くための「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の訴因の中の一つだけの有罪で処刑になった。松井大将を「A級戦犯」とすることが、できないのである。
A、B、Cの区分けをするのであれば、松井大将は「B・C」級戦犯となる。となれば、直接中国と関係のある「A級戦犯」が存在していないことになり、中国が声高に批判する「A級戦犯」の根拠がないことになる。
●
中国は政治用語の基本概念を理解していない
1972年、中国はソ連との対立から開戦まで準備していた中で「資本主義帝国」と批判していた日本に接近して国交を結んだ。疲弊した国家経済をたて直すことが、最重要政策だった。
日中間の戦時中の諸問題は、1978年の日中平和条約の締結ですべて終結している。それが国際的な常識である。
にもかかわらず、中国がくり返し問題にしてくるのは、日本から取り入れた近代国家に於ける政治用語の基本概念を理解していないことに原因がある。
王毅駐日大使は今春、早稲田大学での講演などで、「日本が国際国家になりたければ、小泉首相は靖国参拝をするべきでない」「国際的な常識、コンセンサスでやることが利益になる」と述べていた。王大使がいう「国際」「国際的」は、日本が創造した言語である。
王大使は「国際」「国際的」を「中国中心」「中国中心的」と解釈している。王大使は、未だ世界の中心は中国との中華思想の幻想の中にいるのであろう。
国際的常識をもっている世界の主要国の政府関係者は、靖国神社に参拝している。参拝していないのは中国だけなのである。2002年3月には、韓国の大使館付武官の柳海軍大佐、徐陸軍大佐も靖国神社に参拝している。
中国が好んで使用する「歴史を鑑として」の「歴史」は、日本が創造した言語で日本語を取り入れた弊害が今頃になって現れて来たのであろう。未だ中国は、「歴史」を客観的に見ることなどまったく必要ないとの判断で解釈しているようだ。
一般的に日本が、西洋近代文化を学び始めたのは、幕末の西周や津田真道などのヨーロッパ留学以降といわれている。しかし、実際には西洋近代文化を取り入れ始めたのは、それより100年以上前の1720年(享保5)年からである。
将軍吉宗は、1720年、宗教書以外の洋書の翻訳を解禁したことで、一気に洋書熱に火が付いた(『中国人日本留学史』)。
中国は、同じ1720年、キリスト教を禁止して、以後100年間宣教師は中国でほとんどの活動が封じられた。中国では中華思想の高慢な態度で、外国人が漢訳した本には見向きもしなかった。それが、日本と中国の近代文化の吸収の差となって現代にも影響をあたえているのである。
本年4月の北京で開催された日中外相会談の席上、李肇星外相は、町村信孝外相にたいして「日本には人権問題がある」と意味不明な発言をした。
日本がいかに人権問題にかかわって来たのかを実例で示すと、1872(明治5)年、横浜に停泊中の奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、監禁されていた中国人苦力230名を解放して、中国に送り返しているのである(『明治維新と東洋の解放』)。
日本は、中国が人権の意味を知らない時、すでに現在にも通用する人権意識をもっていたのである。ちなみに「人権問題」は日本語である。
1919(大正8)年ベルサイユ講和会議において、日本は「人種差別撤廃決議案」を上提した。19人の委員の内11人が賛成し、2人は欠席して反対投票はなかった。
しかし、英国代表のロバート・セシル卿が強固に反対し、日本の提案を強く拒否した結果、議長の米国大統領ウィルソンは否決したのである。
この時、人間平等の精神が踏みにじられたことが、我が国における第二次大戦の淵源にもなっている。
●
かつて中国の要人は度量が広かった
人治主義の中国に於いて、表面的であっても友交関係が維持できたのは、日本留学組の郭沫若副総理(九大医卒)、周恩来首相の参謀役だった廖承志(早大で学ぶ)などが存命中の1983年頃まで。そのころは歴史認識問題など起きていなかった。
周恩来のあとを引き継いだ華国鋒首相の存在も見過ごすことはできない。1980年5月、中国人民外交学会(日中友好協会の上部機構)の招待で、国策研究会常任理事矢次一夫、三菱重工業相談役河野文彦、評論家細川隆元の三人は、準国賓の待遇で華国鋒首相、トウ小平(登ヘンにおおざと:トウ)副首相と会談している。度量の広い会談が交わされている。(『北京会談〈全記録〉』)
河野
西太平洋においてお国と日本と米国が協力していくことが世界の平和・安定を維持していく上にきわめて重要であるという点で、私はそのことだけ申し上げたいと思います。
華国鋒
すべての問題が完全に一致するのは大変難しいことです。それぞれの国が置かれている環境・条件が異なる。…問題を認識する場合、それを見る角度によって認識も異なってくるわけです。…私たちが自分の意見と異なる意見を耳にした場合、それはむしろよいことで、悪いことではないと思います。…相当な相違点をもっているというのはごく正常なことだと思います。
トウ小平
私たちの間には、多くの問題について、見方や見解に相違のあることを、私は承知しております。しかし、それは構わないことで、重要なことは、私たちの間の理解を促進していくことです。
天安門事件を武力弾圧したトウ小平のことばは、額面通り受けとれないにしても、現中共指導者の硬直した姿勢とは大きな違いである。そして、トウ小平は矢次氏に対して唐突に次のことを申し入れたのである。
「きょうここで、岸(信介)先生に対し正式に招待の意を表明いたします」
今、中国は、靖国神社に合祀された「A級戦犯」のことを大問題にしているが、岸元首相は戦前から満州の妖怪と畏れられ、戦後は、GHQに「A級戦犯」として逮捕された人物である。
中国は、利用価値がある国家や個人には遜り「A級戦犯」でも招待する価値があると判断する。
「白いねこでも黒いねこでもねずみを取るねこは良いねこだ」は、トウ小平のことばとして有名だが、これはトウ小平個人のことばというよりも、「中国四千年」の歴史の中で中国人の遺伝子に組み込まれ、変化することのない基本的意識なのである。
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