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大日本帝国下の朝鮮半島・・・(水間政憲)

水間政憲レポート:転載フリー


◎「『 大日本帝国 下の朝鮮半島』 近代化 の真実」 :『SAPIO』(2007年11月14日号)-- 水間政憲・転載フリー

常に外交において「歴史カード」を突きつけられる日本にとって、歴史を正しく評価することが今ほど大切なことはない。時には植民地統治の「功」の部分を強調してみせる必要もあるだろう。実はあの朝日新聞がその手助けとなる。貴重な発掘史料をレポートする。

 福田首相は10月初旬に南北首脳会談のため平壌を訪れた盧武鉉韓国大統領に、金正日総書記へ「過去を清算し日朝国交正常化を実現させたい」とのメッセージを言付けたという。「過去の清算」とは北朝鮮にとっては植民地支配への謝罪とともに巨額の経済援助を日本から引き出すことに他ならない。

 しかしこれはおかしな話だ。02年9月17日、小泉首相と金正日総書記が交わした日朝平壌宣言では「両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」ことに同意している。

 さらに、GHQの試算では、北朝鮮に残した日本政府と民間の資産は462億2000万円。これは現在の物価で8兆7800億円相当にあたる。(『産経新聞』02年9月13日付)。

 交戦国でなかった北朝鮮に残した日本資産の請求権は国際法上認められているが、平壌宣言によって日本は8兆7800億円の請求権を放棄したのである。国交正常化にあたって「金」を支払う必要などどこにもない。

 以上は北朝鮮の話だが、韓国も含めて朝鮮半島における植民統治が残した遺産とはいかなるものだったのか。外務省が把握している終戦時の朝鮮半島における日本の資産は702億5600万円となっており、現在の物価で13兆3486億円に上る(1945年8月15日時点の朝鮮在外財産評価額)。

 今回筆者は、国会図書館に眠る貴重な史料を発掘した。日本が朝鮮半島を植民統治した1910(明治43)年の5年後、1915(大正4)年から1945(昭和20)年まで発行された朝日新聞の「朝鮮版」である。

 当時は『大阪朝日』の地方版として朝鮮西北版、南鮮版、北鮮版、西鮮版、中鮮版、鮮満(朝鮮・満洲)版などが存在していた。研究者の間では植民統治の真実を知る上で「幻の史料」とも呼ばれ復刻もされているが、まだ一部であり、今回、戦後初めて読者の目に触れる記事も多い。

 本稿では、これら「朝鮮版・朝日新聞」に掲載された記事を中心に現在も朝鮮半島で社会インフラとして利用されている日本の「遺産」を紹介する。

「処女列車は走る
 試運転は上首尾」


 先の南北首脳会談では、南北縦断鉄道・京義線の輸送を開始することや開城・新義州間の鉄道の共同補修を南北共同宣言で謳い上げた。これらは元々朝鮮併合前の1899年に始まった鉄道整備計画によって作られたものだ。鉄道は国家の基本インフラと言っていい。記事から当時の様子を拾ってみよう。

 <処女列車は走る 愈(いよい)よ開通の京慶線永川・友保間 試運転は上首尾>

 「大型機関車両に連絡の二等車両、食堂併用の三等車一両、計二両の試運転列車はすがすがしい朝陽を浴びて午前八時三十六分大邱駅を出発、(略)列車は坦々たる畑中の直線コースを時速五十キロで邁進している、(略)この開通によつて今後の輸送に期待するところが多い」(『大阪朝日・南鮮版』1938年12月1日付)

 <京慶線を一部電化 明年度から工事に着手>(同1938年12月10日付)

 JR北海道の一部(小樽-滝川間)が電化されたのは、1968年8月のことだった。北海道に電車が通ったのは朝鮮半島の30年後なのである。それらに付属した駅舎も豪華版で、東京駅よりも重厚な佇いの京城駅(04年まで使われてきた旧ソウル駅は今後博物館として利用される)は、

 <竣工した京城駅>

 「既にほぼ工事の落成を告げている新築の京城駅開通式は来る十月十三日朝鮮神宮に奉納すべき宝物が京城に到着する当日を以て盛大に挙行せらるる予定である」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月15日付)と報じられている。

 国有鉄道と私設鉄道は朝鮮半島全域に及んだ。1937年1月までの国有鉄道の総延長は3575.9km、私設鉄道は1463.6kmとなっており膨大な鉄道網が敷かれたのである(『半島の近影』朝鮮総督府鉄道局、1937年刊)。

 最近、朝日新聞は戦時中の新聞報道は、大本営発表、政府寄りで真実を伝えていなかったなどと自ら釈明している。たしかに当時の新聞を今眺めると「光」の面が強調されすぎている嫌いはある。しかし、「地元新聞」に「嘘」が報道されたのであれば、日本語教育を受けていた現地の人々は当時でも問題にしていたであろう。また史料を渉猟しながら筆者は、新聞による「宣伝」の面を考慮してもあまりある「事実」が存在していると考えざるを得なかった。

本土と同等の
 教育を実施


 物資輸送で鉄道と対をなす港の整備も実行された。

 <仁川築港工事竣成式>

 「工費四百万円を投じたる仁川築港、(略)自転車競走及び仮想行列其他の催しあり未曾有の賑ひを呈せり」(『大阪朝日・鮮満版』1918年10月29日付)

 北朝鮮の羅津駅、清津港(今もほぼそのまま「利用」されているという)なども日本時代の築港だ。『大阪朝日・南鮮版』1938年12月13日付によると、羅津港は3000万円(当時の国家予算は28億6779万円)を投じ、はじめから遠距離貿易を予定して埠頭も広く、清津港、雄基港以上に近代的な港だったという。今となってはなんとも皮肉な話ではあるが、羅津港は中国に50年の租借権を獲得され中国の“北朝鮮植民地化”の象徴となり、清津港は対日工作の拠点となっている。

 「富国強兵」の名の下の工業発展も「光」の部分として有名だが、韓国だけでなく北朝鮮の工業発展に決定的な影響を与えたのは当時、世界一、二の規模を誇った水豊ダム発電所の建設である。これによって1941年から北朝鮮の送電が始まっている。その他にも当時の記事は、

 <絢爛たる化学工業 北鮮各地に勃興す>

 「東洋のイー・ゲー(当時のドイツの大手化学会社)を思はす興南朝窒工場を中心として絢爛たる化学工業の花を咸南各地に満開せしめている野口コンツエルンの躍進も、日本鉱業をトップとして幾多の資本系統によつて開掘されんとしている」(『大阪朝日・朝鮮西北版』1936年10月1日付)

 と工業発展を遂げる熱気を伝えている。朝窒(朝鮮チッソ)は当時世界最大級の窒素工場だったことは戦後の史料でも数多く評価されているところだ。公衆衛生の向上も近代都市インフラの大切な柱だ。

 <平壌の臭気一掃 愈よ糞尿地下タンク新設>

 「府内の糞尿は現在府内大馳嶺里の貯畜場にためているが(略)、大都市としての面目上の問題であり、矢野平壌府尹(いん)も先般内地六大都市の糞尿処分施設を視察し原始的な府の処置について改善意見を持つに至つたので糞尿地下タンクを新設する」(『大阪朝日・朝鮮西北版』1938年12月11日付)

 学校教育は、近代国家の礎であり、欧米諸国と日本の植民政策の決定的な違いは、本土と同等の教育を植民地でも施したことにある。戦後は「内鮮一体」の施政の負の面ばかりが強調されるが、この点も再評価されるべきであろう。例えば最高学府の帝国大学を植民地内にも設立した。

 京城帝国大学(現在は文化関連団体が入居)は1924年に設立され旧帝国大学(9校)の中で6番目だった。当時の記事はこう伝えている。

 「目下京城府東崇洞に新築中の京城帝国大学の工事もその後順調に進み来年四月の開校期までには万違算なきはずである、しかし四月の開校日までに竣成するのは大学予科の卒業生法文科八十名と合せて百六十名を収容すべき校舎だけで、なほ十五年度には五十万円の予算で図書館、心理学教室、医学部本館および講義室を(略)完成する」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月27日付)

 日本統治時代の朝鮮半島には、1924年までに、法学専門学校、高等工業学校、高等商学校、高等農林学校、師範学校、官公立中等学校など148校が開校していた(『朝鮮年鑑』大正15年度版)。

「記念碑的建造物」として
 ソウルに残る日本建築


 各記事のマイクロフィルムや当時の写真集を総覧して目につくのは、学校、銀行、裁判所などが次々と建設されていることだ。歴史的建造物として残され今も利用されている。

 例えば韓国政府は、1995年に朝鮮総督府庁舎を植民統治の負の象徴として解体したが、現ソウル市庁舎は旧・京城府庁舎をそのまま使用している。

 <新築の京城府庁舎 工事着々と進行す>

 「鉄筋コンクリートで四階建平面山字型をなし正面二十八間(約50m)、(略)高さ百十八尺(約36m)の塔屋を設くる等真に半島有数の大建築である」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月27日付)

 また現在、ソウル市立博物館に転用されている元高等法院は1908年に開庁している。

 「併合前は司法と行政との混淆が甚だしく、裁判はすべて行政官が之れを行ひいたのであるが統監府時代に全然行政事務より切り離され現在は地方法院(内地の地方裁判所)覆審法院(内地の控訴院)高等法院(内地の大審院)の三階級とし司法制度は確立せられ」た(『大阪朝日新聞』1924年5月25日付)。つまり国家の基本である三権の一つがこの時確立されたのである。

 「反日」として名高い現在の韓国紙さえも「新世界百貨店旧館は『韓国流通史の記念碑的建造物』」(『朝鮮日報』ネット版06年9月26日付)と評価せざるを得ないのは旧「三越」である。現在は韓国資本に渡り「新世界百貨店」となっている。隣に新館が造られているものの旧館を「韓国では例を見ない工法」(同)まで使って、大改修工事を行い、07年12月に当時の建物を残してリニューアルオープンする予定らしい。三越は1906年に「京城出張員詰所」を開設してから朝鮮半島に進出し、1929年に「三越京城支店」を開店している。

 今回紹介できた史料はごく一部にすぎない。国会図書館に所蔵されている膨大な史料を冷静に分析すれば、戦後言われているような朝鮮半島統治時代のイメージは一新されるのではないか。日朝交渉が国交正常化と経済援助を両天秤にかけて進められようとしているいま、北朝鮮の罠に嵌らないためにも「植民統治の評価」=「過去の清算」はしっかりとした資料のもとに日本側の理論を構築することが急務である。



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