パスターハリー(Pastor Harry) の書斎

パスターハリー(Pastor Harry) の書斎

詩編第1編


詩編1編
1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。 (新共同訳)


【 序文 】 ある中学校の入学式で、校長先生が「今日、入学式の記念にあなたの心に一本の木を植えなさい」というお勧めをされた。これはとても印象的な式辞であった。小学校を卒業して新しい学生服を着て参加した新ピカの一年生の心に、さわやかな緑の新芽の生えた希望という名の「一本の木」が、しっかりと植えられるような気がした。

【 詩編第1編の概略と区分 】 この詩編の第1編は、信仰者を「流れのほとりに植えられた豊かな実りを与える一本の木」として描いている。この詩編には表題がない。多分この詩は詩編全体の序文のように添えられたのであろうと言われる。まさに詩編全体の表題にふさわしい明瞭な、さわやかな詩である。「知恵の詩」に分類される。この詩の構造は以下のようである。神の従う者の祝福と神に従わない者の滅びが明瞭に語られる。
1節 正しい者の消極的行為 悪しき者の計画、罪人の道に立たず、嘲る者の座に座らない。
2節 正しい者の積極的行為 神のみ言葉を喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ。
3節 正しい者の実例的描写 流れのほとりの木。時が来れば実を結ぶ。
4節 悪しき者の実例的描写 風に吹きさらわれるもみがら。
5節 悪しき者の積極的行為 神の裁きに堪えず、義人の集いに堪えない。
6節 悪しき者の消極的行為 その道は滅びに至る。義人の道は主に知られる。

【メッセージのポイント】
1) いかに幸いなことか/ 神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとど
まらず/傲慢な者と共に座らず/(1節)
→ 幸いな人 罪から遠ざかって歩む人!
「幸いなるかな(アシュレー)!」は詩編の最初にある言葉である。この語は「直く歩む(アーシャール)」から来ている。詩編全体の基調をなす(詩32:1,41:1,119:12,128:1等)大事な言葉である。モーセの最後の言葉も(申33:29)、また、新約聖書の神の国の律法の初め(主の山上の説教)もこの語(マタイ5:3)である。
「歩む」は実践の強調。神に逆らう行為を企画し実行する姿。
「罪ある者の道にとどまる」は神に逆らう行為の継続を意味し、的外れの人生の繰り返
し、習慣となり、そしてその人の立場を形成して行くの意味。
「あざける者の座にすわる」は信仰の世界をあざけり、揶揄する反信仰的な立場の論客
となり、信仰者に反対する立場のリーダーとなっていることを意味する。
「歩む」「立つ」「座る」は、次第に悪に世界にはまりこむ、段階をも示す。

2)主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。(2節)
→ 幸いな人 み言葉と共に生きる人!
「主の教え(トーラー)」とは神のみ言葉のこと。トーラーは律法をも意味するが、もともと「射る」や「投げる」という言葉で、弓で射た矢(あるいは石)の軌跡を目で追う線を意味し、そこから、方向、教訓、基準の意味となる。み言葉を「思う」は、「口ずさむ」の意味もある。獅子が「吠える」とも訳される。ある方は、ライオンが獲物を捕って、「ウメー」と言うように、われらもみ言葉を最大の獲物として「おいしい!」と頂く姿と比較できるとユーモラスに言う。

3) その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び/ 葉もしおれること
がない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(3節)
→ 幸いな人 流れのほとりの実を結ぶ木!
ここでは信仰者は「1本の木」に喩えられている。ユダヤの地域は砂漠地帯である。樹木が生えて行くのは大変なこと。枯れてしまう危険は至るところにある。しかし、この木が栄えてゆくのは「流れのほとり」に植えられているからである。日照りの中にあっても永遠の大河である神御自身のみ言葉である聖書に「昼も夜も」聞きながら、深く深く、根を張って生きて行く人生は、養分が涸れることがない。そして、枯れているように見えたとしても、時が来ると豊かな実を結ぶのである。葉も生い茂り、やがて、神の栄光を現す事を語る。信仰は繁栄をもたらすことと矛盾しない。

4)神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。(4節)
→ 惨めな人 風に吹き払われるもみがら!
「神に逆らう者(悪しき者)(ラーシャー)」は「正しき者」の反対語。新共同訳でははっきり「神に逆らう者」と訳される。特にエレミヤ書では40回使用され、神への不服従、不真実を表す語。神への反逆を続けている人は、人生の実質を失い、もみがらのように、風に吹かれて飛んでいってしまうと描写される。実を結ぶ木とは、対照的な喩え。ヘブル語で木は「エーツ」、もみがらは「モーツ」で、ここには語呂合わせがある。また、「悪しき者」は裁きに堪えない、と言われている。神の最終的な裁きの御前に神から離れた人間は立ち得ないのである。また、礼拝のような集いに来るのが恐ろしいことになる。ただし、新約聖書から見れば、本当は人間は皆、裁きに耐え得ない、と言える。

5) 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
→ 惨めな人 最後は滅びに至る道を歩む人!
知恵の詩の特徴は、義人と罪人の明瞭な区分にある。神に逆らう生涯の最後は、滅びに至る道であることが語られる。神に従う人の道を知っていて下さるのとは対照的である。「知る」というヘブル語は実際的に、体験的に知ることを意味する。神は、わたしどもを深く愛し、どこまでも祝福して下さる。それは「キリストの花嫁」とわたしどもを呼ぶまでに、深く知り、共に歩んでくださることを示唆している。

【 結論 】 神こそ創造者にして審判者。主に従うものは祝福を得、主に逆らうものは主の裁きの前に立ち得ない。神のみ言葉と聖霊の満たしの中で豊かに実を結ぶ「流れのほとりの木」でありたいものである。


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