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「自分探し」とか「自分探しの旅に出る」とか、意味が分かりません。なら、今ここにいる自分は誰?どこかに行ったら見つかるの?今の自分に不満があるから、本当の自分を見つけに行くって…なに?そもそも本当の自分ってなに?ようわからんのです。本音と建前、の本音だけで生きている人は、多分稀ですよね。きっと本音は弱虫だったり、わがままだったり、するから。本音のほうが本当の自分なのか?それは違う気がする。本音も建前も本当の自分なのだろうと思う。それは認めたくないかもしれないけど、そうなんだろうと思う。ここにいるのに、探す必要はないと思う。新たな発見!は、あるかもしれない。けど、探したところで、まったく別の自分が見つかるわけではないような。それともあれかな、未知なる自分の部分を発見したい、と、そういう意味なのかな。あるいは、自分自身を掘り下げて考える、と、そういうことなのかな。
2009.02.17
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挫折は、重要で大切な経験のひとつです。いまのままじゃだめだよ、ということを気づかせてくれます。挫折は、むしろ歓迎すべきチャンスかと思われます。
2009.02.06
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「うるさい!!」と怒鳴りたくなることがたびたびありますが、ぐっとこらえます。なぜか。その後が面倒だからです。自分が我慢すれば丸く収まるのなら、我慢するのも自分のため。エゴです。エゴのくせに、フラストレーションたまります。後先考えずに言いたいことを何でも言える人は、ある意味うらやましい。でもある意味かわいそう。「本音で生きる」と「言いたいことを言う」は、きっと違う。「歯に衣着せぬ」と「言いたいことを言う」も、きっと違う。言葉を選べないのは不自由です。自ら嫌われる要素を作ってしまうのは哀れです。それに気づかず無神経でいるのは幸せかもね。でもそんな幸せは いらない。
2009.02.03
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とあるお客様の言葉。「自分もやりたいんだけど、近くにもっと上手な人がいて、どうやってもかなわないから、やめてしまった」それは、良くない。絵を描くことでたとえるなら、描きたいんだけど、自分より上手な人がいるから、描かない。って言ってるようなもので。それってつまりプライドが高いのでしょ。負ける戦いは、最初からしたくない。負ける自分を認めたくないから。描きたかったら、下手だっていいじゃない。上手になりたいなら、その人に描き方を教わるとか、いろいろと自分なりに努力をしたらいいでしょ。それに身近な人と比べて自分を卑下するのはおかしい。外にはもっともっと上手な人がたーくさんいるんだから。いちいち比べて、自分は下手だから…と諦めないで。描きたい!と思うその気持ちは大切にして欲しい。上手かどうかは問題じゃない。描きたいから描く。それでいいではないですか。好きならやるべし!バンプの曲を思い出した。「才脳人応援歌」
2009.01.19
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もしかしたら私の個人的で勝手な感覚かもしれませんが、人によって「湿気」が違うんです。すごく湿った感じのする人と、乾いた感じのする人。性格的なものなのか、話し方なのかわからないんですが、なんかこの人湿ってるなぁと思ったりするんです。好き嫌いの問題じゃないんですけど。見た目の問題でもないんです。湿った人の特徴を説明するのも難しく。そして、湿った人の方が少ないです。湿ってる人って、なんなんだろうな…
2009.01.09
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お釈迦様の教えを読んでいていつも思うんですが、時代を超えてるんですよね。今でも充分通用する。んー通用するって言い方はふさわしくないかも。それはいいとして、だってお釈迦様って紀元前の方ですよ?2000年以上前ですよ。それが今でも通じるってことは、すごいことですよ。つまり、それこそ真理なのではないだろうか。そして、人は2000年たっても、大して変わってないってことにもなりますねぇ。文明的には発展しても、根本的な悩みや不安は、2000年たっても似たようなものなんだなぁ。
2008.12.11
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熱しやすくて冷めやすい私は、最近お釈迦様に熱いです。いろいろ調べていて、ふと疑問に思ったんですが、といってもお釈迦様とはちょっと離れますけども。ていうか、仏教ネタですか?「南無阿弥陀仏」という念仏なんですけどね。南無というのは、サンスクリット語の「帰依します」という意味で。阿弥陀仏(阿弥陀如来)は人々の死後、極楽浄土へと導いてくださる、と。なんで「南無阿弥陀仏」で、「南無薬師如来」とか「南無大日如来」という念仏は無いんだろう??きっと宗派の問題、なんですよね?それはいいとして。死後、極楽浄土へ導いてほしいから、南無阿弥陀仏と唱えてるのですか?だとしたら、ちょっとがっかりだなーと思うのです。なんかね、自分だけいいところに行きたい!しかも他力本願!的な気がしてしまうのです。とはいえ、あまり知識もない故、私の浅はかな考えなんでしょうね。「南無妙法蓮華経」についてはもっと不思議で。お題目を唱えるだけでいいんですか?法華経のことをまったく知らなくてもいいんですか?いや、きっとね、きちんと意味を理解していればこそ、唱える意義もあるんじゃないかなと思うんですよ。般若心経もそうだと思います。そんなわけで、もうちょっと勉強が必要なのです。なむ~
2008.12.09
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ありがとう。漢字で書くと「有り難う」。ひっかかりますねー。有り難い、つまり、有るのが難しいんです。それが感謝の言葉っていうのが、すごくひっかかる。これは放ってはおけません。あくまで私の考えなので、語源はちゃんとあるとは思いますが。よく時代劇で「有り難き幸せ」って台詞が使われますよね。「有り難き」ってのは、そうそうない、めったにない、ってことか。「有り難き幸せ」の「有り難き」だけが残って、「有り難し」→「有り難う」になったのかな。関西弁の「おおきに」は、「大きにありがとう」の「ありがとう」が省略されたらしいですね。「大きに」はとっても、って意味で。そういえば、時代劇での良く聞く台詞、「かたじけない」。調べてみたら、どうやら「ありがとう」よりも丁寧な言い方らしいですが。私はずっと「申し訳ない」ということかと思ってました。「かたじけない」は漢字で書くと「忝(な)い」…うーん読めない。今日もおつきあいいただいて、有り難き幸せに存じます。
2008.11.12
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うちの職場の話。いちばん残業が少なく、考えもせずにやっつけで仕事をしていて、ただ早く終わらせればいいくらいにしか思ってない人が、いちばん「忙しい」と言っている。自称「忙しい」だ。端から見たら暇そうだよ。本当に忙しい人は、そんなことを言う暇もなく黙々とやってるのに。実に滑稽。うーん、「忙しい」というのは、あくまで主観なのか?他人から見て「忙しそう」でも、本人がそう思ってなければ、それは「忙しい」ではないのかもしれない?かも、しれないね。忙しいは、心を亡くすと書く。
2008.10.30
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・不完全であることが完全である・変わることが変わらないことである・見えないものを見ようとしないほうがいい・隠されているものを暴きたいのなら覚悟が必要・機嫌は空気で伝わる・流れはとどまると濁る・愛は無限でなければならない
2008.10.29
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会社の人で、謙虚そうにしている人がいるんだけど、謙虚ではなく卑屈にしか思えない時がある。卑屈というのは、つまるところ「ずるい」と思う。「自分なんて、そんなのできないよ」と言うのは、やりたくない時なのだ。できないわけじゃない。「どうせ自分なんて」というのは、甘えなんだろうと思う。でしゃばらないのを謙虚とも言うけれど、わかっているのに知らんふりをするのはケチだと思う。時と場合にもよるけど。
2008.10.07
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しつこいですが、まだ「寄生獣」がちょっと関わったネタ。右手に寄生された主人公は、だんだん強くなってきます。力だけでなく、精神的にも。同級生からは「変わったね、ほんとうに新一君なの?」と聞かれます。主人公自身も、自分が本当に自分なのか、疑問に思うシーンがあったかと思います。自分が自分であることの証明をしろと言われたら?名前と性別、こうこうこういう性格で、顔はこうで、背丈はこうで、生年月日はいつで、住所と電話番号はこれで、○○という会社に勤めていて、家族の名前はこうで…というようなことを答えるかもしれません。でもそれはただの情報で。それは自分が自分であることの証明にはならないんじゃないかな、と。身分証明証、例えば免許証とかありますが、それもただの情報。なら記憶はというと、記憶はすり替えることも多分可能なので、却下。書き始めてからすでに1時間以上経過しているのですが、これといった答えが見つかりません。きっと禅問答なら「無」と言いそうなところですが…自分が自分であるかどうかは、自分にしか分からないことなのかもしれない。話は飛びますが。認知症。認知症になると、自分がわからなくなるんでしょうか。自分が自分でなくなる?それは辛いことなのか、それとも逆に楽なのか(周りの人は大変なんだけれども)自分が自分であることが分からなくなってしまうのだとしたら、それは悲しいな、と思うんですが、それも考えられなくなるのかな。自分自身すら分からなくなってしまったら、生きている意味とかなんとか、そんなのなくなってしまいそうで。だからといって、生きている価値がない、って言ってるわけじゃないですよ。多分、そうなってしまっても、心では分かってるんだと思うんです。ただ、外に出せない、表現できないだけで。身体をうまく操ることができない、と言ったほうがいいのか。そうなったらそうなったで、きっといろいろと感じてるし、そうならないと学べないことも、きっとあるんだろうと。なんで今頃からそんな心配をしてるんでしょうね。鬼に笑われてしまいます。
2008.10.06
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今朝、通勤途中にふと田んぼの方を見ると、彼岸花が真っ盛り。縁起が悪いという人もいますが、そんなこたぁない。あの花の造形は、素晴らしいものです。彼岸花と言えば、救荒植物。昔、飢饉の際に食用とされた。なのですが、彼岸花には毒があります。きっと毒の抜き方も教えられたんだと思います。そして救荒植物と言えば上杉鷹山。上杉鷹山と言えば、有名な言葉があります。「なせばなる なさねばならぬ なにごとも」ここまでは聞いたことがあるかと思いますが、実はその続きの方が重要だと思うのです。「ならぬは人の なさぬなりけり」「井の中の蛙 大海を知らず」も、続きの方があまり知られてない。「されど 空の青さを知る」全部を知れば、ちょっと、世界が広がります。「健全な精神は 健康な肉体に宿る」というのもよく言われますが、ちょっと違う。原文は You should pray to have a sound mind in a sound body.上の訳だと、完全に「should pray 」の部分が無視されているんです。原文は「宿る」って断言してない。should ~すべき、~しなくてはならない、~のはずだ、きっと~だろう(このへんの英語の曖昧さが苦手です。 ~すべき と、 きっと~だろう では、全然違いますよね。)そして pray は、「祈る」です。つまりですね、きちんと訳をするならば、「健全な精神は 健康な肉体に宿ることを祈るべきである」もうちょっとやわらかくすると、「健全な精神は 健康な肉体に宿るといいね」あるいは、「宿って欲しいものです」くらいでいいんじゃないかな、と。ちょっと違ったことが正しいことのように広まってるのって、なんだかなーと思います。あれ…彼岸花はどこへ行った?いつもの脱線です。えーっと、彼岸花、好きです。
2008.09.26
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「美しい」と「きれい」って微妙な差です。どう違うんだろうと思っていて結論が出なかったので調べました。「美しい」は、「日本の美しい自然」「美しい心」などのように、心を打つ内面的な好ましさについて用いることが多く、「美しい友情」を「きれいな友情」とは普通はいわない。「きれい」は、「きれいに掃除する」「きれいに食べる」とかのように、外面的な清潔さ・鮮やかさの意が強い。「きれいな空気」を「美しい空気」とはいわない。なるほどー。きれいになるより、美しくなる方が難しいんですね。着飾ったらきれいにはなるけど、美しいは別なんですね。たとえば景色を見た時に、「きれいだね」は言うけど、「美しいね」ってあんまり言わないなぁ。言葉にしづらいですね、「美しい」って。つまり、きれいなものよりも、美しいものの方が、少ないのかもしれないなぁ。
2008.09.23
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夕べなんとなく見ていたテレビで気になった言葉。「知識は古くなる」そうだ。確かにそうだ。いろんなことが分かって来るにつれて、今まで定説とされていたことがくつがえることがある。知らなかったことが分かってきたり、日々知識は増えていく。知らなくてもいいこともあるけどね。知らないと恥をかくこともあるかもね。一生勉強が必要です、ね。
2008.09.14
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ストレスは万病の元、です。「病は気から」という言葉通りですねぇ。昼間見ていた番組で、「気に病み度チェック」があって、かなり高かったのです。出演者の人達より高かった。。。将来、病院に通う可能性がかなり高いらしいです。人前では(特にお姑さんの前では)ズボラで通してますが、内心気にしてるんですよ。それでも気にしない、気にしない、って言い聞かせてるんですが。(だーりん、これは内緒ね。)幸い、今のところは特に病気らしい病気にもなってませんが、これからどうなるか分かりませんよね。人生は死ぬまで修行、だと思うのです。もしストレスが溜まってしまう性格なら、それを徐々に直していこうとするのも修行です。他人や環境を直すのは難しいのです。自分の意識を変える方がずっと楽なのです。気にしない、気にしない、って自分に言い聞かせているうちに、そうなっていくような気がします。以前よりは、だいぶ気にしなくなってきましたしね。それに、自分が変わっていけば、人も変わってくる気もします。考え方や見方を変えれば、許せない事も許せるようになりますし。やっぱり…気合いだっ!!精神論になってしまいましたが、いいんです。病は気から、だから。
2008.08.31
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この前「ワイルドライフ」っていう獣医師さんのドラマを見て。所長さんが口癖のように「面白いねー」と言うんです。とてもそんなこと言える場面じゃないんですよ。(部下が)失敗したらまずいんじゃないか、立場的に切羽詰まってるんじゃないか、そんな場面に「面白いねー」と言える。これは気持ちの「余裕」ですよね。部下が失敗しても、なんとかフォローはできるだろう、尻ぬぐいできるくらいの手札は持ってるぞ、と。だから、あいつにやらせてみよう。「面白い、面白いねー。」焦ったり、イライラしたり、心配したり、小心者の私ならそうなりそうですが、あんな風に余裕をかましてみたいもんです。余裕を持つには…実力が必要ですよね、きっと。余裕がある人ってカッコイイなー。
2008.08.30
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会社の玄関に、「不易」と書いた額が掛かっています。「不易」の文字と一緒に、丸が描かれています。不易とはなんぞや。世の中の普遍の法則。変わらない真理。それと対になる言葉として、「流行」。つまり、変わらないものと、変わるもの。会社的に「不易」とは、変えてはならない経営理念ということみたいです。うん、それはまぁいいとして。なぜ丸が描かれているんだろうか…えーっと、ただいま外では雷がなりまくっていまして、いつ停電してもおかしくない状況なので、これにて。続きは…いい考えが浮かんだら書くことにします。
2008.08.29
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「これだけのことをあの人はしてくれた」ではなく、「あの人はこのことをしてくれなかった」〈神経症的愛情要求〉をする人は、そう考えるらしいです。自分のために他人が何かををしてくれて当たり前だと思ってしまう。感謝できないのは悲しいことです。
2008.08.26
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いつ買ったのかもすっかり忘れていて、その当時は「格言」みたいなことが書かれていたような記憶があって。その本を本棚から見つけ出したので夕べ読んでみたんです。『ドロシーおばさんの大事なことに気づく』加藤諦三 著ドロシー・ロー・ノルト 詩石井千春 訳扶桑社読み直してみたらね、テーマは、ナルシストについてだったんだな。著者は心理学者。なんだかとっても身につまされる思いです。読んでいて思ったのは、小泉吉宏さんの「ブッタとシッタカブッタ」に出てくる悟っていないブタたちは(登場するのはすべてブタです)ことごとくナルシストなんだな、と。以前にも書いたと思いますが、「ブッタとシッタカブッタ」のシリーズは禅の思想が描かれた漫画です。多分。ひとことでまとめてしまえば、禅の思想は脱ナルシズムではないか。なんだか知った風なことを書いてますが、それほど知らないです(汗
2008.08.25
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ポーニョポーニョポニョ ポニョポニョポー♪「崖の上のポニョ」の歌を全部「ポニョ」で歌うと、ちょっと楽し。昨日観た「スカイ・クロラ」で、気になってる台詞があるんです。『明日死ぬかもしれないのに、大人になる必要なんてあるんですか?』キルドレの彼は、毎日のように戦闘機に乗って戦っています。明日死ぬ可能性は確かに非常に高いです。でも…生きてる人も動物も、みんな明日死ぬかも知れないですよね。事故に遭うかもしれないし、事件に巻き込まれるかもしれない。明後日も絶対に生きてるとは断言できない。でもそれを、実感してない。今でも世界のどこかでは、銃を持った子供たちが実際にいるんですよね。物心付いた時にはすでに銃を持たされていて。彼らにとってはそれが日常になってしまってる。彼らにとっては「明日死ぬかもしれない」は実感があるんだろうな。日本にいたら、少なくとも私の生活においてそれは実感できないんですね。だから、あの台詞は、実感を伴った理解ができないのです。「明日死ぬかもしれない」という状況を、想像してみます。…虚しいです。内戦とかしてる国の大人達は、子供達に銃の替わりに夢や希望を持たせてあげるべきなんです。大人達がバカなんですよ。「スカイ・クロラ」でも、子供の彼らを戦わせている大人が悪いんです。うー脱線したのを無理矢理戻そうとしてるのが見え見えですね。そんなときは…ポーニョポーニョポニョ ポニョポニョポー♪ポニョポニョ ポニョポニョ ポニョポニョッポー♪
2008.08.11
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クサイ台詞とか、あつくるしいくらいの情熱とか、真剣とか真面目とか一生懸命とか一本槍とか猪突猛進とか熱い人、結構好きなんですよね。だから、「ルーキーズ」の川藤先生好きです。「人の夢を、ばかにするなーーーっ!!」って台詞、いいっすよねー。バンプ・オブ・チキンの「グングニル」の歌詞、「世界の神ですら それを 笑う権利なんて持たないのに」にも通じてますなぁ。んー熱い人と言えば、テニスの松岡修三さんもいいですね、熱くて。
2008.08.08
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言いたいこと=言うべきこと ではなくて。言うべきでも、言えないことってあって。これを言ったら嫌われるからという理由で言えないのは、傲慢だと江原さんは言う。確かにそうだと思う。でも、言うべきことでもないのに言いたいことは、きっと言わない方がいいことも多いんだろうとも思う。言おうと思ったら、ちょっと考える。本当にそれは言うべきことなのか。そして、言葉は、選ばないとね。失敗することもあるけども。失敗しないとわからないこともあるし。すごくわかりにくい感じですがお許し下さい。
2008.08.07
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昼休み、車じゃ暑くて昼寝ができない。で、屋上へ出る踊り場のところでボーっとしていると、目の前の壁に大きなハエがたかった。前足を忙しそうにこすり合わせている。そんなハエを見ていて、思った。産まれて、餌を食べて、卵を産んで……その、それだけの繰り返し。他に何をしているんだろう。他にすることがあるんだろうか。ハエに限ったことじゃないんだけど。人は、産まれて死ぬまで、そりゃあいろんなことをして、覚えていられないくらい、いろんなことを思ったり考えたりしている。泣いたり笑ったり、悩んだり怒ったり、つまづいたり苦しんだり、喜んだり、くよくよしたり……それはそれはいろんな経験をする。が、例えば虫たちは、なに?なんで生きてるの?野生動物たちだって…単純な命の営みだけじゃないか。その命を、次の代へ繋いでゆくために存在している。なんなんだ。人間って、お腹が満たされればそれでいいわけじゃない。いやそういう人もいるけど、おいしい物が食べたいだとか、栄養がかたよらないようにとか、贅沢なことを言う。なんなんだ。人に近い動物だって、感情や知能は、ある程度持っている。人には、欲が動物以上にある。なんのためか、向上するためじゃないのか。じゃあ向上ってなんだ?出世して高い地位につくとか、お金を必要以上に儲けるとか、そういうことか?向上心ってのは、よくわからない。悟りを開いた人は、凡人よりも欲がなくなる、よね、きっと。それでも向上心はありつづけるんだろうと思う。つか、ハエを見てここまで思う自分も暇なんだな。。。
2008.07.16
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最近頭に浮かんで、お、いいじゃんと思ったコピー。「好きになると、世界は広がる」誰かを好きになるってことだけじゃなくて、好きっていうのは、興味を持つってことです。それは人の場合もあるし、物や動物や場所や、いろんなものも含めて。なんか良いですよー。
2008.07.07
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今日は出張。近場だったので楽かと思いきや、なぜか異様に疲れた。-----------ストレスは、受けるのも人ならば、原因の側も人なんだ。現代社会を象徴するかのように言われるけれど、そんなもの、きっと太古の昔からあったんじゃないか。人間関係のストレスなんて、人と接する限り、あり続けるものなんだろうし。かといってまるっきり孤独で生きていくのも、それはそれで別のストレスがあるんじゃなかろうか。昔は「ストレス」という言葉がなかっただけで、実際には存在していたんだろう。それは「肩凝り」という言葉を知ったため肩凝りになるのと似てる。ストレスを軽減するには、考え方を変えるのが一法。なのは百も承知だけど、それが簡単にできるくらいなら、誰もストレスなんて受けやしないよね。ストレッサーから逃げるか、あるいは、ストレスを受けないもしくは軽減する方法を身につけるか。選択肢は2つしかなさそうで。何かで発散したところで、ストレッサーが消滅するわけでもなく。じゃあなぜ発散したほうが良いのかといえば、気分転換、ということなんだろう。そうすれば、別の考え方が浮かんできたりもする。どうでもよくなったりもする。そうやって、ちょっとずつ強くなるしかないねー。こんなことを考えるのは疲れてるせいかも。
2008.06.28
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鬼についての説も、鬼の形態もいろいろとありますが。昔話に出てくるような鬼や、なまはげの鬼みたいなのって、いまいちリアルじゃない。本当に、昔は鬼という生き物がいたのか?いない、ですよね。きっとある種の「象徴」だったんじゃないか、と。あるいは見間違いとか、戒め的な存在とか。いろいろあるとは思うんですが。昔話に出てくる「嫌われもので退治されてしまう鬼」は、盗賊とか追いはぎとか、そんなものじゃないのかな。昔話って子供向けだから、悪人を分かりやすく「鬼」とした、とか。私が思う鬼は、人です。実在します。怒った人の顔って、鬼に見えませんか?悪徳なことをしている人とか、非道い人とか。悪口を言っていたり、怒ってる人の顔をよく見ると、美しくはないんです。醜い。その状態が、鬼です。歳をとってくると、生き様とか考え方とかが、顔に表れてきますよね。穏やかな人は、穏やかな顔になるし、ささいなことで怒ったり怒鳴ったり、ねたんだりうらんだりしている人の顔って、それなりになるんじゃないか、と。だから、鬼にならないように気を付けなければ。
2008.06.27
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書くの忘れてた。ちょっと前に、「妖精ミュージアム」ってとこに行ったんです。用事があって行ったビルの中にあって、入場無料だったので、入りました。有料だったら…入ってなかったかも…なんか夢があってね、いいですね。で、妖精ってのは、精霊みたいなもんなんですかね。どこの国でも、羽根が生えてるのが多い。てことは、共通事項なんでしょうか。中には生えてないのもいますけども。幽霊に会う確率と、妖精に会う確率だったら、妖精の方が低いだろうな。。。ピュアじゃないと見れないんですよ、きっと。ええ、無理ですね。無理ですとも。。。今週は残業ウィーク。
2008.06.16
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何かをして誉められる。また誉められたくて、する。誉められてばかりいる子供は、誉められることが目的になってしまうんじゃないだろうか。(そうならない人もいると思いますが)つまり、何かをしても誉めてもらえないなら、やらない。誉めてくれる人が見ているところでしか、やらない。その意識のまま成長すると、ちょっと怖い事になると思う。裏返せば、誰も見てないから、いいや。誉めると叱るはちょうどいい感じで。今回の秋葉原の事件の容疑者は、子供の頃親に叱られてばかりで誉められたことがなかった、とか。親の影響はどれほど大きいのか?親がいなくたって、立派に育つ子もいるのにね。でも…そういうのって、責任転嫁にしか聞こえない。親のせいだ、学校のせいだ、社会のせいだ、他人のせいだ、ってそりゃ影響はあるかもしれないけど、結局は自分のせいでは?私が子供の頃は、どちらかというと誉められる方が多かった。叱られると、押入に閉じこめられたり、夜、墓石にロープでしばられたりしたこともある。でもそれは、虐待だの折檻なんてのとは違う。なんでこんな目に遭わされるのか、子供でもそれくらい分かっていた。自分が悪い事をしたからだ。親だって好きこのんでそんなことをしたわけじゃない。もちろん趣味でもない(ぉだから、誉められようと努力した。えーっと…だいぶ話が迷走してるんですが…脱線しまくりついでで暴走します。自分の世界は、自分で作ってる。外からの影響を受けつつ、取捨選択して、自分のフィルターを通して。人によっては影響を大きく受ける人もあれば、それほどでもなかったり。でも受けることは受けるんです。あとは、自分のフィルターをどれだけ強くできるか。とはいえ、そのフィルターは影響と感情と経験と本質からできていて。3層構造なんです。一番外側が影響と感情。二番目の層が経験。最も内側の層が本質。こんな感じで。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
2008.06.13
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しつこく「夜爪」いきまーす。調べてみると、一昨日書いたようなこともありましたが、他にもいろんな節がありました。(コメント書いていただいてありがとうございます)新たに調べた節を大きく2つにわけます。1、戒め1-1夜中の静まりかえった時間に爪を切る音は他の人に不快感を与えるため1-2呪詛が盛んだったころ、髪や爪を使って呪いが行われたことがあり、暗がりで切ってなくしたものを使われて呪われてしまうため1-3夜、囲炉裏の側で切ると、切った爪が囲炉裏の火に入ってしまったら燃えて臭くなったり爆ぜて危険だから2、語呂合わせ2-1江戸城の夜の門番を「夜詰め」といい、親が死んでも家に帰れなかったことから他にもあると思いますが、このくらいでやめときます。で、それぞれ時代が違いますよね。2-1は江戸時代。1-1は、比較的新しい気がします。あの音は、今の爪切りの音です。昔はハサミのようなもので切っていたはずで、今の爪切りのような「パチン」って音はしないと思うのです。(もしかして音します?ハサミで切った事ないのでわかりません)1-2は、何でしょう、陰陽師とかの時代なんでしょうか。あるいは黒魔術が行われていたヨーロッパ起源なのか。まぁ今でもやっている人がいないとは言えませんケド。1-3なんですが、囲炉裏って歴史が古い、ですよね。多分、縄文時代の竪穴式住居にも囲炉裏状のものがあったわけで。でもって、もちろん切った爪が囲炉裏の火に入ったら、まぁちょっとは臭いとは思うんです。でも…そこで私説!「こぉら!権兵衛、このたわけが!」「な、な、なんだよ、おとっつぁん」「囲炉裏端で爪を切っちゃーなんねーだ!」「え…だってここが一番明るかろーが」「囲炉裏っちゅーのはみんなが集まる場所だべ。 切った爪が落ちて足にでも刺さったら危ないべ。(裸足のため) しかもこれから飯だっちゅーに、 鍋ん中(囲炉裏の上の自在鍵には鍋が掛かっている)に 爪が入ったもんなんて食えるか!」「わ、わかった、わかったよおとっつぁん」「それに間違って指切るかもしんねーぞ。 爪なんぞは昼間に表で切っとけ」以上、寸劇「夜爪はいけない~囲炉裏編」でした。
2008.06.05
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会社からの帰り道、お葬式の家の前を通過。最近は葬儀場でやることが多いから、家でやってるのは珍しくなったな、と思いながら、その家の前を通過する時、なにげに親指を隠した。親指を内側にして手を握るんですが。迷信。親指を隠さないと、親の死に目に会えない、という。地方によっていろいろと違うもんですよね。お姑さんに聞いたら、掌から亡くなった人の魂が入ってくるから手を握る、とか。それって、妊婦が葬式に出る場合、お腹に鏡を入れておく、っていうのと似てるな。妊婦の場合は、亡くなった人の魂がお腹の子に入らないように、っていう迷信だった気がする。あり得ない…けど、ついついやっちゃう。それが迷信。なんで?なんでやっちゃうの?あれですよね、「げんかつぎ」みたいなものですよね。それをしないと、悪い事が起こるかも…っていう不安。不安な事はできるだけ取り除きたいもの。だから、あり得ないと思っていてもやってしまうんだ。本気で信じてるわけではないのに。いや、本気で信じてる人もいるかもしれませんね。迷信といえばもうひとつ。(迷信じゃないかも)夜、爪を切ることは「夜爪=世詰め」といって、やってはいけない、と。世詰めってことは、つまり寿命が短くなるってことですよね。現代っ子はそんなの聞いた事無いかもしれないけど、子供の頃、祖母から言われました。で、この迷信(?)には理由があると思うんです。昔は、今みたいに明るい電灯なんてなかった。夜は薄暗かったわけです。だから、そんな薄暗がりで爪を切ったら、誤って指先なんかを切ってしまう危険性があります。そんなわけで、夜に爪を切るのはいけない、と。勝手な憶測ですけども、間違ってないと思うんです。いやそうじゃなくて、こういう理由だよ、というのをご存じの方はお教え下さいませ。「迷信」って、迷いごとを信じる、のか、それとも迷って信じるのか、あるいは信じて迷うのか。。。
2008.06.03
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会社の人で、独り言のものすごく多い人がいます。しかも、独り言なのに声が大きい。言う内容は「疲れた」「いやんなっちゃう」「やだやだ」そんなのばっかりです。聞いてるこっちがいやになっちゃう。周りの人間もいやになっています。本人はほとんど意識してないみたいです。良くないですよねー。そういう言葉にだって「言霊」があると思うんです。マイナスのオーラ放出してたら、部屋中が良くない感じになるようで。どうせなら「やったー」とか「ラッキー」とか「よーしよしよし」とか。(ムツゴ○ウさんか!)まぁとにかく、ネガティブな言葉なら黙っていて、ポジティブな独り言を言って欲しいもんです。
2008.06.02
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以前うちの会社にいたAねーさんとそっくりな人を見かけて。それが大型トラックの運転手だったんです。それを先日出張へ行った時に話したら、同行の氏が「あの人は体面を気にするから、 社会の底辺の仕事はしないんじゃないですか」と言ったんです。ちょっとショックでした。確かにAねーさんは、ものすごく見栄っ張りで、他人の目をすごく気にする人でした。でも…社会の底辺って言い方…ちょっとひどくないですか?「職業に貴賤無し」って言葉があることを知らないんでしょうか。しかもトラックの運転手って底辺ですか??私の弟が、今、その仕事をしています。だから、かばうという訳でもないんですが、はっきり言って運送業者がいなかったら、日本の流通は成り立たないんですよ。店に商品が並んでいるのだって、彼(彼女)たちのおかげなんですよ。あらゆる物は、みんな運ばれてきてるんです。夜中に走ったり、長距離走ったり、大変ですよ。それを底辺だなんて、失礼すぎるんじゃないでしょうか。世の中にはいろんな職業があって、自分じゃ知らないところで、いろんな人が働いてるお陰で生きていられる。職業で他人を見下すような言動は、慎まなくちゃいけない。
2008.05.28
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ギリシャ神話に出てくる神々って、意地悪だなーと思う。なんかすごく試すじゃないですか、人間のこと。いや「パンドラの箱」のことなんですけどね。パンドラは神々からいろんなものをもらったんですよ。そして「決して開けてはいけない箱」をもらい、さらに「好奇心」をもらった。つまり、「好奇心」さえ与えられなければ、箱を開ける事もなかった。わざわざ箱を開けさせるために、「好奇心」を与えたってことになるじゃない。だったら最初から「開けるな」なんて言わなきゃいい。だ「自制心を鍛えるために、好奇心を与えたんだよ」ふ「いや、自制心は与えられなかったんだよ、きっと」だ「うーん、それじゃ罠だな」ふ「だよねー」まぁゼウスの目的は人類に災いをもたらすためで、そのために人類初の女性パンドラを作らせたっていうから、パンドラは思うつぼってわけだ。むしろパンドラが箱を開けなかったら神々は困るわけだ。つらい役目じゃないか、パンドラ。。。嫌な役目をおしつけられて、きっと開けてしまってからひどく後悔したに違いない。やっぱギリシャ神話の神々って意地悪だよなぁ。まぁ救いがないわけじゃないけど。最後に箱の中に残った一つ。諸説あるけれども。それがなかったら救いがない話です。
2008.05.27
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糸井重里さんのことばを集めた本、「思い出したら、思い出になった」っていうタイトルなんですけど。さすがだなー。いいタイトルですね。そういえば、「思い出」と「記憶」の違いってなんだろう。両方とも、過去に体験したことや見聞きしたことで。「記憶」よりも「思い出」の方が、感情が入ってる気がしますね。どっちにしろ、曖昧で、勝手に歪めてしまっていることには違いないような。ちなみに私は「思い出」よりも「想い出」の字の方が好きです。なんとなく。
2008.05.23
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表現のための手段にはいろいろある。文字だったり、映像だったり、絵画だったり、写真だったり、音だったり、そんな感じでいろいろと。それって、誰かに伝えたいんだろうか。何かを伝えたいために表現しているんだろうか。ちょっと違うんだと思う。伝えたいわけじゃなくて、表現せずにはいられない。だから、他人に何も伝わらなくても構わないんじゃないか。共感する人がいたら、それは送り手の何かが伝わったというより、受け手がうまく感じ取ってくれたというだけで。そんな気がするんです。誰かに何かを伝えたいという目的が最初にある場合は、別ね。それは表現手段というよりも、伝達手段。……相変わらずの感じでごめんなさい。
2008.05.16
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服屋に行くと、似たような形の物ばかり目に付く。流行って恐ろしいね。
2008.05.15
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お人好しの条件。それは、悪意のない嘘をつけること。
2008.05.13
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隣の芝生は青いのか?右隣には右隣の青さがあり、左隣には左隣の青さがあるだけだ。青いということは見えるけれど、その青を保つためにどれほどの努力をしているのか。見えない部分を知らずに、見た目だけの青を羨むのは愚か。---------------釣った魚に餌をやらなければ、魚は死ぬ。---------------「武士は食わねど高楊枝」「腹が減っては戦はできぬ」矛盾してる…---------------三人寄れば文殊の知恵仏の顔も三度まで三度目の正直三年目の浮気3には特別な何かがあるんでしょうか。最後のやつはどうかと思いますが。
2008.04.28
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最近思いついた座右の銘。「人生気のせい」むふふ。なかなか気に入ってます。そう、この「気に入ってる」の気。「病は気から」の気。「気配り」の気。「気がとがめる」の気。「気持ち」の気。「気を遣う」の気。「気分」の気。「気休め」の気。「気を付ける」の気。「勇気」の気。「気合い」の気。………まだまだたくさんあります。「気」のせいな気がしてきましたでしょ?「気のせい」っても「思い過ごし」的なニュアンスではないのです。何事も「気の持ちよう」なんですわ。こまごまと書くとすごーく長くなりそうだから、やめておきましょう。
2008.04.11
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「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」って言葉があるじゃないですか。出展は「史記」南越伝 「史記」は、司馬遷によって編纂された中国の歴史書、だそうで。まぁそのへんは置いといて。「禍福は糾える縄の如し」の意味がねぇ…幸福と不幸は、より合わせた縄のように交互にやってくるということですよ。どうですか?交互ですよ、交互。そんなマメに幸と不幸が入れ替わり立ち替わりやってきますか?司馬遷という人は、それだけ波瀾万丈な人生を送ったんでしょうか。こんな「交互」だなんて。せめて、三つ編みくらいにして欲しいです。幸、幸、不幸、幸、幸、不幸、くらいで(笑なかには、不幸ばかり連続でやってきてしまうような、学びの多い方もいるのかもしれません。他人から見たら幸福そうでも、本人は不幸だと思ってる場合もあったり。幸福ばかりで、自分が幸福だとは感じられなかったり。まぁいろいろなわけです。えっとそれで……「禍福は糾える縄の如し」って言われても、それがなにか?なのです。だから、諦めなさいということなのか。仕方ないでしょ、正負の法則なのよ(美輪さんが言う)とか。幸福にいても、不幸の事を思って思い上がらないように、不幸だったら、次は幸福が来ると希望を持つように、とか。結局は何が言いたかったのだろう、と。まぁ私は、不幸よりも幸福の数の方が圧倒的に多いと思っているので。不幸というのは、言葉を換えるなら「試練」だと思うのです。だから、それはそれで有り難く受け取らなければならないと思うわけです。なんか微妙に脱線してますけども。
2008.04.10
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「もう限界だー」なんて言葉はよく使われますが、限界を超えるということは、そうそう無いんじゃないかと思う。もしも本当の限界を超えてしまったら、こうやってここにはいないはずだよね。ん?限界っていうのは、超えられるものなのか???それ以上行けない境界が限界なのだったら、「限界を超える」というのは…つまり壊れるということか。ふむ。壊れる前に、何とか対処しようね。
2008.03.26
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先日、書店に行った時のこと。文房具コーナーの上に、大きな張り紙。「合格おめでとう!」の文字がでかでかと書いてある。うわー。合格できなくてへこんでる受験生がここへ来たら、さらにへこむんとちゃいますやろか。合格した人だけが買いに来るわけじゃなかろうに。などと思った。みんながんばれ。会社では鉢植えのしだれ桜が満開です。
2008.03.24
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ほぼ日刊イトイ新聞のトップにある「今日のダーリン」。最後に「わかりあわなくても、たがいを大切にはできる」ってあって。そうだよなー。たとえどんなに仲が良くても、気があっても、その人たちが同じ経験をしたって、100%わかりあえるって思うのは傲慢なんですよね。一つの痛みだって、感じるのには個人差があるんだし。ただそれが「痛い」という、それだけは分かるとしても。同じ本を読んだって、同じ映画を見たって、どこで感動するとか、どこに共感するとか、それは人それぞれで。同じ事をしても、楽しいと思う人もいれば苦痛に思う人もいるわけで。考え方なんて人それぞれと言ってしまえばそれまでなんだけど。人の立場に立って考えると言っても、所詮は想像の範囲にすぎなくて。だから、人の立場に立つなんて言うことも傲慢かもしれず。つまり、糸井さんの「わかりあわなくても、たがいを大切にはできる」っていうのは、よく考えたらとっても謙虚なんですね。やっぱ糸井さんてすごいなー。
2008.03.23
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はかないものとか、繊細なものとか、弱いものとか、そういうものに惹かれるのは、自分の性格がその反対だからだろうか。
2008.03.18
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「緻密」というものに憧れます。なぜなら私は「ズボラ」だから。何事においてもズボラなんですよねぇ。そして…面倒くさがり。大雑把。どんぶり勘定。……はぁ。。。
2008.03.14
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会社の人達と昼食を食べに行った時のこと。店の外にトイレがあったんです。そのトイレには「雪隠」の看板が下がっていました。「あれ、なんすか?」若者が聞いてきました。「トイレだよ」「え、あれでトイレって読むんですか?」「あれは『せっちん』って読むの。昔の言い方」「へぇ~」うむ。言ってみれば死語だよなぁ。今時のトイレの別の呼び方は、お手洗い洗面所便所(女性はあまり言わないと思うけど)くらいが一般的ですよね。他に知っているのは、雪隠(せっちん)厠(かわや)御不浄(ごふじょう)くらいです。で、他にもいろいろあるんだろうなと調べたところ、すごいんですよ。トイレの歴史やなんかを研究している人がいたり、そういう研究団体とかあるんですね!そして方言を含めたトイレの呼び方、なんと650!うへぇ。すごいっすよ。いやどうしてトイレの呼び方なんか気にしたのかって、「御不浄」ってのが引っかかって。昔、水洗なんてなかった時代ですよ。私が子供の頃は、まだ水洗トイレじゃなかった。つまり、便器の下を見れば、見えるんです。ニオイもそれなりにある。まぁ綺麗とは言い難い。でも人が生きるからには、必ずすることです。食べたり飲んだりしたら、出すのが当たり前。それを「御不浄」なんて言ってしまったら、身も蓋もないぞ、と。それに、まだ日本のトイレなんて綺麗なもんですよねぇ。歴史的に見ても。そういえば、その汲み取り式のトイレ、未だに夢に出てくる時があります。落ちちゃったりするんです。しかも、底なし。怖いですよぉ。子供の頃の印象って、結構強いもんですね。そしてトイレについて調べようとすると、すごく奥が深い。それはまるで夢の中のトイレのように……綺麗にまとめたつもりですがネタがネタだけにねぇ。
2008.03.13
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仕事をしながら、翻訳の通信教育を受けた事があります。結婚する前の話です。翻訳だったら、結婚してから家で仕事ができるかな、と。それが理由で。でも始めてみて気付いたんですが、他人が書いた物を訳すよりも、自分で書いちゃった方が面白いんじゃないか?って思ったわけです。それがこれだったんですけども。ああ、しばらく更新してないなぁ。。。まだ続いてるんですが…なかなか筆は進まない。折ったわけじゃないんですよ。なんかこう…降りてこなくなっちゃったんですよね。そんなの言い訳なんですが、他に説明がつかない。そのうち、きっと…書きたいです。しかも、読み直すと修正したいところが満載だ。若気の至りというやつです。勢いだけで書いてたからなぁ。ほんと直したいなぁ、文章下手だなぁ我ながら。。。
2008.03.11
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書店で見かけた本。「KY式日本語」あれですよ、KY(空気読めない)とかの略語の本。ご丁寧に解説してくれて、それについて考察されているらしい。ターゲットは??ま、いいか。KYとか聞いた時には、なんだかなー。と思った。これも一つの文化だというのなら、何てけったいなんだろう。まぁ現代の日本人を象徴してる感がありますね、こういうのが流行るのって。まぁ過去を顧みるに、こういったものは、すぐに廃れる。こんな愚痴を垂れるってぇことは、オバサン付いて行けてないってことなのさ。付いて行く気もないのですけどね。AI(ああいやだ)RD(理解できない)YS(世も末だ)勝手に作るな。しかも川柳みたいになってるし。
2008.03.07
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姪には、母の胎内にいるときの記憶がありました。「薄暗くて、温かかった」それだけのようですが。記憶って、言葉だけではないですよね?姪の記憶は、生まれる前、お腹に居る時です。つまり彼女には、まだ言葉がない。「うすぐらい」も、「あったかい」も、その言葉を理解するようになってから、記憶していたものに当てはめた、ということになります。言葉はなくても、記憶はあるんだ。たとえば、考え事をする時には、頭の中で言葉にして考えている。でもイメージ、例えば風景や画像なんかを思い出している時は、その視覚的な記憶だけで、言葉を使ってないこともある。記憶は言葉だけではないと思ったのは、五感による記憶もあるって気付いたことで。視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚、それぞれに記憶がありますよね。覚えている「匂い」とか、覚えている「痛み」、なんていうふうに。それはきっと感覚の記憶。(専門的には別の言い方があるのかもしれないけど)感覚的なものなので、言葉では言い表せない。つまり、「痛い」という言葉を使ったとしても、その痛み自体を言葉にはできない。でも覚えている。ここ2~3日、相変わらず車を運転しながら考えていたんですが、どうにもまとまらないのです。なんとかまとめようとして出した結論としては、「記憶は言葉だけじゃない」ってことだけでした。
2008.03.06
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