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2018.05.17
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​​​​今日は、原理講論を開いてtomy4509が目にした箇所の引用をみてみたい。
モーセ路程のP.363から。

​​​第二の奇跡は、神の命令によって、モーセが最初に手を 懐  に入れたときには、その手がらい病にかかっていた。しかし、神の命令によって、再びその手を 懐  に入れたときには、らい病にかかっていたその手が完全に快復して元の肉のようになっていたのである(出エ四・6、7)。 ​この奇跡は、将来イエスが後のアダムとして来られ、後のエバの神性である聖霊( 前編第七章第四節(一 )を送られることによって、贖罪の摂理をされるということを、象徴的に見せてくださったのであった。​ 最初に手を懐に入れて、不治のらい病にかかったということは、最初に天使長がエバを 懐  に抱くことによって、人間が救われ難い立場に堕落してしまったということを意味したのである。そして、その手を再び 懐  に入れたとき、病気が完全に治ってしまったということは、 ​人類の父性の神であられるイエスが来られて、人類の母性の神であられる聖霊(前編第七章第四節(一))を復帰し、めんどりがそのひなを翼の下に集めるように(マタイ二三・37)、全人類を、再びその 懐  に抱くことによって重生せしめ、完全復帰するということを表示されたのであった。​​​
​このように、原理講論の随所に「お宝」が埋もれていた。それを掘り当てていったときに初めて、この「原理講論」の主人を発見することができるようになっていたのではなかろうか?!
以下は『ファミリー 2009年1月号』から。




因みに、原理講論の「前編第七章第四節(一)」葉といえば、これまでもtomy4509がブログで取り上げてきた「(原罪のない)善の父母」が記された箇所である。



(一) 重  生  論

① 重生の使命から見たイエスと聖霊

 イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。

アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。 しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。

我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。 彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。

ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。

このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。





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Last updated  2018.05.17 00:37:59
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