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Peterborough Vision
講談:花瓶の心遣い
■■■
講談:花瓶の心遣い
■■■
★★★ 作・金澤理奈絵 ★★★
<枕>
いまから三十年ばかり前のお話です。三十年前というと19○○年、
随分と昔のように思われますが、浅間山荘事件の頃といえばご記憶
に新しい方もいらっしゃるのではないでしょうか? 日本中がモノ
クロテレビにかじりついて事件の行方を見守っていたあの頃のこと
です。最近では映画にもなっているあの大事件ですけれども、巨大
な鉄球で打ち壊される山荘と、機動隊員達が寒空の中でほおばるカ
ップヌードルの映像を思い起こせば、ほんのつい最近の話と言えな
いこともありません。カップヌードルが全国に知れ渡るきっかけと
なったのが、この浅間山荘事件だというのはあまりにも有名な話で
すが、かくいう私もそのカップヌードルとほぼ同い年であります。
さあ、少々脱線しましたが、おぎゃあと生まれた赤ん坊が、これだ
け育つのに十分なだけ昔の、大分のとある小学校が舞台です。イジ
メや学校崩壊が叫ばれる昨今ですが、今ほどではないにしても、イ
ジメというものはどの時代にもありました。数多い講談の古典の中
にも「番町皿屋敷」や「○○○○」皆さんご存知の「忠臣蔵」の浅
野内匠頭も虐められた末に刃傷沙汰に及んでしまったという説もあ
るくらいです。たいていは虐められ、それを耐え忍んでいた善人が、
いじめていた悪人に仕返しをして・・・・といった筋書きが多いよ
うですけれども、現実社会ではなかなかそう簡単には割り切れない
事もあります。
暖かい日差しが眠気を誘う昼下がり、古い木造校舎の二階にある六年
二組の教室では午後の授業が行われていました。窓から見える校庭の
桜の木は花もすっかり落ちてしまい、黄緑色の若葉が眩しく輝いてお
ります。
このクラスの担任・田城宏先生は学校を卒業して三年ばかりの先生です。
学校にもだいぶ慣れ、他の先輩教員や父兄にも信頼されるようになり、
教師として自信もつき始めていた頃でした。
鉛筆のコツコツという音だけが聞こえている静まり返った教室内。今日
は読書の時間に読んだ本の感想文を提出する日です。
真面目な様子で原稿用紙に向き合っている子供達三十六人を若い田城先
生は教卓から満足そうに眺めております。
頬杖をついて船を漕ぎ出しそうな子供がいるものの、流石に六年生とも
なると、落ち着き無く動き回る子や、始終喋っているような子は見当た
りません。
そういった点では、この教室の三十六人は田城先生にとってもご自慢の
クラスなのではありますが、一つ気がかりなのは子供同士の人間関係で
す。
別段悪い子というのはいないのですが、元気というか、集団になると多
少悪ふざけが過ぎるのが玉にキズ。特に倉田靖男。彼は六年生にしては、
まだまだ子供らしいというか子供っぽいうというか、元気で活発といえ
ば聞こえはいいものの、悪戯や悪ふざけが過ぎて他の子供を泣かせる場
面がしばしばあるので手を焼かされています。
そんな事をぼんやりと考えながら、田城先生が窓際の一番後ろの席に座
る靖男に目をやったときです。それまでそわそわしながらも大人しく座
っていた靖男が突然立ち上がりました。
靖男「先生、花の水を代えてきます」 靖男は言うが早いか、席の後ろの本棚に置かれた花瓶を手にすると走り
出しました。常日頃「授業中は集中するように」と口を酸っぱくして言
っている田城先生ですから、いくら活発で悪戯坊主だとは言っても、こ
の靖男の行動には驚きました。靖男が今まで花の水を気にしたのを見た
ことがありませんし、ましてや静まり返った授業中の出来事です。
田城「こらっ、靖男! いまは花なんかいいから座ってなさい!」
呆気にとられながらも反射的に田城先生が大声を出したとき、不運にも
事件は起きました。クラスの中でも大人しい愛子の席のところで靖男が
花瓶をひっくり返したのです。スカートを伝って愛子の足元まで水浸し
で、床には児童の父兄から差し入れられた黄色やピンクの花が散らばっ
ています。
それまで静かだった教室は「あーあ!あーあ!」の大合唱。女子児童は
靖男に対して非難の声を上げ、男の子たちは面白がって囃子立てます。
1「靖男の奴、わざとやったんだよ」
2「愛子ちゃんかわいそー」
3「ヤッチャン、ひどいよー」
田城「静かに! こらっ、静かにしなさい!」
仕舞いには口笛を吹いて面白がる始末。こうなると先生が幾ら言って
も無駄です。普段から大人しくて恥かしがり屋の愛子は、みんなの注
目を浴びてかわいそうなほど小さくなっています。
田城「靖男! 何やってるんだ!」
お調子者の靖男が、悪戯心を働かせてわざとやったのではないかと慌
てて田城先生は2人の所へ駆け寄りました。ところが、悪戯の後に靖
男がいつも見せる得意顔は見られません。
靖男「ごめんね。ごめん」
靖男は申し訳なさそうに、俯いている愛子に頭を下げると、花瓶を持
って走り出したときと同じような素早さで、教室の後ろからバケツと
雑巾を持ってきてこぼれた水を拭き始めました。びしょぬれのスカー
トで座ったままの愛子は本当に気の毒な様子で押し黙っています。
田城「みんな、静かにしなさい。いったいどういうつもりなんだ?
授業中に花瓶の水を替えなきゃならない理由はないだろ」
靖男「先生、ごめんなさい」
靖男はよっぽど反省しているのか、いつも元気な悪戯坊主が、し
おらしく小さな声で田城先生を見上げております。
田城「今度騒ぎを起したら、お母さんを呼ばなくてはならなくなる
って、先生君に言ったよな?」
靖男「はい・・・・」
田城「どうして花瓶の水を替えようと思ったんだ? 訳があるなら
言って見なさい」
靖男「窪田さんが花の水を替えるの忘れたんじゃないかと思って・・・」
窪田「先生! 私、ちゃんと替えましたよ!」
田城「はい、分かったから。皆さんは騒がずに感想文の続きを書い
てください。先生は愛子さんと保健室に行って来ます。いいですね?」
一同「はーい・・・」
靖男と愛子を除いた三十四人は不満げに返事をしましたが、興奮し
た子供達がそうすんなりと大人しくなるはずもありません。そんな
クラスメートとは対称的に、靖男は真面目な顔で黙りこくって床を
拭いています。
さあ、一度騒ぎ出した教室は、簡単に静まりません。ましてや先生
がいないとなると当然です。愛子の濡れた服を着替えさせるために
田城先生は、ザワザワでいっぱいの教室を後にして、愛子と保健室
に行ってしまいました。クラスの子供達は靖男が何も言い返さない
のをいい事に言いたい放題となっていきます。
1「靖男は感想文出さないつもりだろー」
4「私も書くのやーめた。だって、靖男君が邪魔するんだもの!」
3「何を書こうとしてたか忘れちゃったよね」
2「うーん、本の感想なんか忘れた!」
5「いつまで拭いてるのよ。水なんかそのうち乾くんだからね!ち
ゃんと感想文書いて出しなさいよね」
2「愛子ちゃんは感想文出さなくてもいいのかなー」
5「いいんじゃないの?靖男君のせいだもの」
「そうだ、そうだ、靖男のせいだ」といった具合の野次が入り乱れ
て廊下にも聞こえております。その声は保健室に向かっている田城
先生と愛子の背中にも聞こえていました。他の教室への迷惑を考え
ると、田城先生はすぐにでもクラスに飛んで帰りたい気分ではあり
ましたが、びしょ濡れの愛子を一人で保健室にやるわけにもいきま
せん。田城先生は歩く足を少し速めて歩きます。隣の六年一組の担
任は学年主任の大塚先生ですから、気が気ではありません。あまり
にも急ぎすぎて、六年生としては小柄な愛子を置いていきかける程
でした。
残してきた子供達の事で頭がいっぱいになっていた、田城先生は肘
をつかまれてハッと愛子を振り向きました。見てみると、半べそを
かいています。
田城「大丈夫だからね。皆心配してくれてるだけだし、スカートも
帰るまでには乾くから」
愛子「先生、靖男君はちっとも悪くありません」
田城「うん、そうだね。彼もきっと、わざとやったわけじゃないだ
ろう」
愛子は、とても思いやりのある子でしたから、きっとみんなに責め
られている靖男を庇うために言ったのだと先生は考えました。とに
かく子供達を落ち着かせるためにも、愛子の為にも、靖男がわざと
やったとかわざとじゃないかとは問題にしない方がいいのかもしれ
ない。所謂、穏便に事を荒立てずに。それが最善の対処方法かもし
れないと田城先生は思いました。
保健室にはベテランの大野先生がいます。経験豊かな先生で、子供
達にも大変尊敬されている女性です。田城先生はその大野先生に事
情を話すと、愛子の濡れたスカートを体操服に着替えさせてくれる
ように頼み、急いで六年二組に戻るつもりでいました。
田城「そういう訳なので愛子さんをよろしくお願いします。僕は、
教室に戻って騒ぎを何とか静めないといけないので」
大野「田城先生、その前に深呼吸」
田城「深呼吸ですか?」
大野「怖い顔してるわよ。ねえ、愛子さん。愛子さんも怖がってる
じゃない」
田城「悪戯小僧を相手にしてると、ついつい感情的になってくるん
ですよ。水を零した靖男ですけど、どうしても叱らないと分からな
くて困ります」
大野「あの子は元気な悪戯坊主ですものね。でも、悪い子じゃない
でしょう」
田城「時々悪魔に見えますよ。昨日も彼はクラスの子の筆箱を隠し
て、そりゃ大騒ぎでした。しかも、最悪なのは隠した筆箱の場所を
忘れたことです」
大野「(笑う)まあ、あの子らしい」
田城「笑い事じゃありませんよ。とにかく、愛子さんを宜しくお願
いします」
田城先生が部屋を出て行こうと愛子を見ると、それまでじっと黙
っていた愛子は堰を切ったように泣き出しました。
愛子「先生、靖男君は悪くありません」
田城先生も大野先生も驚きました。確かにそれまで半べそをかい
ていた愛子ですが、まさか泣き出すとは思っていません。
大野「愛子さんは優しいのね。大丈夫よ、田城先生も靖男君を悪い
子だなんて思っていませんよ」
田城「靖男君を叱ったのは彼が悪戯をしたからで、嫌いなわけじゃ
ないんだよ。あの子も悪戯っ子には違いないけど、いい所もある。
例えば元気がいい所とか、運動が得意な所とか・・・えーと、えー
と・・・」
愛子「先生・・・そうじゃないんです。靖男君は私を助けてくれた
んです。だから・・・」
田城「助けてくれたって?」
田城先生の問いかけに、愛子はとても言いづらそうに俯くと決心し
たように頷きました。
愛子「私、授業中に、・・・トイレに行きたくなって・・・・」
田城「授業中になんだって?」
消え入りそうな小さな声でぽつりぽつりと喋る愛子の声に、田城先
生はつい大きな声で言ってしまい、しまったと思いました。それで
も愛子は勇気をふりしぼって言葉を続けました。
愛子「授業中にトイレに行きたくなったんです。でも、・・・先生
にそう言えなくて・・・・、私、あの、おしっこ我慢できなくて・
・・その、漏らしちゃって・・・だから、靖男君はそれに気づいて、
きっと、花瓶の水をこぼしてくれたんだと思います・・・」
下を向いている愛子の目から大粒の泪が落ちて廊下の床板にはじけ
ました。内気でなくても多感な時期の女の子にとっては、大変な勇
気のいる告白だったに違いありません。
話を聞いていた田城先生と大野先生の目にもいつしか泪が滲んでい
ました。そして、田城先生は靖男に対して謝罪したい気持ちと反省
とで涙が止まりません。いつも悪戯ばかりしている、時にはクラス
メートに嫌がらせをしていると思っていた靖男が、愛子の事情を察
して無言でかばっていたのです。クラスメートがどんなに野次を飛
ばしても、先生に怒鳴られても愛子をかばいとおしたのです。悪ふ
ざけの為に花瓶をひっくり返したのではないかと、理由もちゃんと
聞かずに靖男を疑った自分が恥かしく、恥じをしのんでの愛子の告
白は美しく、教師として熱意はあるものの毎日ただ授業をこなす事
だけに一生懸命だった自分の浅はかさをどうにかしなければという
焦りのような、走り出したいような、すぐに誰かに聞いてもらいた
いような、そんな衝動に田城先生は襲われていました。いや、クラ
スの子供達に靖男の厚意を話してやらなければならない。そして、
靖男の濡れ衣を晴らしてやるべきだと思いました。ところが、その
様子を見て取った大野先生が言いました。
大野「先生、それをしたら愛子さんに恥かしい思いをさせることに
なりませんか?」
田城先生はハッとしました。いくらどれだけ感動した話であろうと、
愛子のことを考えると教室の子供達に話すべきでないのは十分分か
っています。ただ、靖男の事をこのまま悪者にするのも、自分の過
ちを隠すようで絶えられません。
田城先生が六年二組の教室に入っていくと、まだ靖男が雑巾を片手
に床に這いつくばっています。廊下まで響いていた子供達の声は、
田城が教室に入った途端に静かになりました。田城は愛子の机の横
で蹲っている靖男の肩を優しく叩きました。
田城「靖男君、ご苦労様。愛子さんも後で教室に戻ってくるから、
大丈夫だからね」
と、せめてもの靖男への敬意を込めて田城先生はウィンクしました。
すると靖男は嬉しそうにニコっとして席に戻っていきました。
クラス中にあれだけ非難されて辛かったはずなのに、靖男はちっと
も気にしていない風です。気にしていないどころか、誇らしい自信
に満ちた、大人びた顔に見えました。
その日の放課後、帰ろうとしている靖男を田城先生は呼び止めました。
田城「靖男君、花瓶に水を入れておいてくれたんだね。ありがとう」
靖男「僕は最初から水を代えるつもりだったんだよ。そりゃ、途中
でこぼしちゃったけど」
田城「今回は先生が悪かった、ごめんな。愛子さんも君に感謝して
いたよ」
まだ教室に残っている生徒を気にして、田城先生が小声で言うと靖
男は急に恥かしそうにモジモジしています。
靖男「先生、僕は本当に花瓶に水を入れようと思っただけです・・・」
靖男は謙遜しているのか、照れているのか、最後まで本当の理由は
口にしませんでした。
たぶんそれが、靖男の愛子に対しての最大の心遣いだったのでしょう。
相手を思いやり、その気持ちが伝わるのに言葉だけが重要ではないのだ
と、田城先生は改めて思いました。そして、行動で気持ちを伝える事こ
そが、本当に相手の心に響くのではないかと教えられた気持ちでした。
言葉で伝えられる事は多くても、相手の心に響くには言葉だけでは駄目
だということです。表面的な物事だけで子供達を判断していた自分を反
省しつつ、田城先生はこの出来事以来、より、子供との心の伝達を大切
にするよう心がけたそうです。
BR>
終わり
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