ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 231

千の想い 160  ぴかろん

*****

家に着き、また居間にイナを通す
風呂は?と聞くと入ったと答えた

「パニくってた割に冷静じゃん…」

僕は冷たいか?

「…。風呂場なら大丈夫かと思った…けど…」
「けど?」
「…余計…だめだった…」
「…ふぅ…ん…」
「…」
「…僕…シャワー…浴びてくる…。なんか飲むなら適当に飲んでて…」
「…」

僕は冷たいだろうか…

イナを残して風呂場に行く
シャワーを…
何故浴びている?
帰宅してすぐになんて入った事ないのに…

何を…期待して…僕は…

『寝てるくせに!』

君とは違う!まだ僕は…僕たちはそんな…

浮んでくるラブ君のきつい顔
迷いを断ち切るように冷水を浴びた
何の迷い?
僕の気持ちは…
イナと…どうなりたいの?

*****

俺を部屋に入れるとすぐ、掴んでいた腕を離し、テーブルに置いてあったタバコに火を点けて、テジュンは窓の外を見ていた
俺は自分の涙の跡を拭い、テジュンに近づいた

「ギョンジンは?」

背中を向けたまま、めんどくさそうにテジュンが言った

「…。家」
「心配してるだろ。帰りなさい、タクシーを呼ぶ」
「髪…切ったげるよ」
「いいよ、帰りなさい」
「…なんで部屋に入れてくれたのさ」
「廊下で喚かれちゃ迷惑だからだ」

タバコを揉み消して、イライラしている

「一人でいたいんだ。帰ってくれないか」
「せっかく鋏持ってきたのに」

わざと明るく言った

「髪、ボサボサでいいの?明日は久々の出社でしょ?」
「先輩しかいないから大丈夫だよ」
「…気持ち…切り替えようよ、髪の毛切って…」
「…」
「切らしてくんなきゃ帰んない」

振り返ってため息をつくテジュン
俺はバッグから鋏を取り出し、顔の前で構えてポーズを作る
諦めたようにふっと笑ってテジュンが俺の肩を叩く

「…切ったら帰る?」
「…ん…」
「ったく…おせっかいだな…」
「へへ」
「…どこで切るんだ」
「バスルーム」
「服は?脱ぐの?それともこのまま?」
「…。脱ぎたきゃ脱いで」
「…」

数秒俺を見つめて、テジュンはそのままバスルームに入って行った
俺はそこにあった椅子を持ってテジュンの後に続いた
後ろに椅子を置いてやると、テジュンはそこに座って鏡越しに言った

「本とに切るのか?」
「うん」

頷くとテジュンは着ていたシャツを脱いで裸の背中を露わにした

「髪の毛つくとイヤだから」
「うん…」
「変な髪形にするなよ」
「大丈夫。オシャレにしたげる」

備え付けのクシで柔らかい髪を梳かす
テジュンは目を閉じてもう一度ため息をついた
俺はクシで長さを揃えながらテジュンの髪に鋏を入れた

「待って!」
「なに?」
「…前髪とか切りすぎるなよ。まっすぐに揃えたりするなよ」
「…」
「なんだよ」
「…くふ」
「何笑ってるんだよ!」
「…ふ…ちょっと元気出たかなと思って」
「…急にコワくなってきたんだ!ヘルメットヘアーになったらどうしようかって」
「あははは。ちょっと長さ揃えてぇ、すかし入れてぇ、かっこよくしてあげる」
「美容師やってた?」
「いひひ。見よう見まね」
「おい、ほんとに大丈夫なのか?」
「結構カタチ整えるのうまいの、俺」
「…ほんとか?」
「ほんとほんと」
「ギョンジンの髪もカットしてるの?」
「ううん、自分の前髪だけぇ」
「えっ」
「大丈夫大丈夫」
「…」

心配そうな顔をしてチラッと俺を見る
可愛い顔
ホッペにチュッてしてやった

「こら」
「くふ。大丈夫だから前見てて」
「ふぅ…失敗したら丸坊主にすりゃぁいいか…」
「信用してよぉ」
「…ふふ。それ、ホンモノの鋏だもんなぁ…」
「解るの?」
「ブライダルのさ、メイクアップの人たちが持ってた。そういうの」
「ああ…なーる…」

話しながらテジュンの髪を少しずつ切った
この毛先をテジュンから切り離す
迷っているテジュンを
悩んで、苦しんでいるテジュンを
少しでも軽く、少しでも明るく
そう願いながら鋏を入れていった

*****

Tシャツと短パンをつけて台所に行く

「イナヤ~、何飲んでる?」

返事がない
僕は焼酎の瓶を何本か持ち、イナの好きな茎わかめとチップスやナッツ類を抱え、僕の好きなチョコレートの袋を口に咥えた
焼酎にチョコは合わない
でも
好きだから…

好き…だから…か…

フガフガ言いながら居間に行き、テーブルにそれらのものをドサッと置いた
イナは俯いて座り込んでいる
僕はイナの腕に触れ、チョコの袋を咥えた僕の顔を突き出した
イナはぼんやりとその袋を取り、テーブルに置いた

「なんだよ」
「え…」
「こないだはこうやって運んできたらウケたのに…」
「…あ…ごめん…」

元気がない
そんなに…好き?

「ここだっていっぱいだろ?」

僕は意地が悪い?

「え…」
「テジュンの…思い出が」
「…」
「パニくらないのは何故?どう?荒療治でもする?テジュンの部屋で寝て、夢にうなされて泣き叫んでどっちに行くか決める?」
「…どっちに…行くって…」
「戻るかそれとも僕と…」
「…」
「僕と…」
「…ヨンナム…さんと?」
「…。飲もう」
「…」
「ごめん…。意地悪だな、僕」
「ううん…」
「飲もうよ。はい、お前の好きな茎わかめだぞ」
「…ありがと…」
「これは僕の好きなチョコレート♪」
「…焼酎にチョコって…合わないんじゃ…」
「いいの!ほら、持って、かんぱーい」
「あ…かんぱい…」

どろりとした感情を押しやって、僕は傷ついたイナを元気付ける
そうしたいからだ!
このままどうこうなろうなんて僕は…

「テジュンのね…感触が…甦ってきて…頭が変になりそうだったんだ…」
「…ん…」
「ぐちゃぐちゃになって荷物詰め込んでさ…飛び出してきたけど…そんな時もどこかが醒めてるんだよね…」
「ん?」
「半狂乱になれば…誰かが同情してくれるって…計算してたのかもしれない」
「じゃ、なに?その罠にかかったの?僕」
「…。ヨンナムさんも…」
「…え?」
「そんな事ない?パニックになってるのにさ、こうすればきっと助かるんだって頭の片隅で感じること」
「…ああ…」
ああ

「あるかも…しれないね」
今の僕がそうだ…

「ずるいよね…こんなの…」

うん。ずるいよね、イナ。けど
「純粋だと本当におかしくなってしまうんじゃないかな?」
言い訳だ…
「だから…生きて行くためにうまく自分を助けるっていうか…そういう仕組みになってんじゃない?頭ン中って」
そうだろ?ラブ君…
君だってきっとそうやって生きてるんだ
僕にどうこう言える筋合いじゃない…

「そうなのかな…。そうなのかも…しれない…。自分に言い訳して繕って…。やだな」

くるりと瞳を動かしてイナが呟いた

「イヤなら狂うしかない」
「…それもイヤだ…」
「だろ?」
そうだろ?きっと誰もがそうなんだ
「そこんとこ抉りだす他人を…憎く思ったりする。そんな事あるよね」
例えばラブ君と僕…
突きあって…お互いをイヤな奴だと…

「けど…後から考えると…抉られた部分ってホントに自分のヤな部分だって解るじゃん?」

僕の言葉を遮ってイナが言った

「…イイコちゃんの答えだなぁ」
「…ヨンナムさんのが、イイコちゃんじゃないか」
「僕?」
「そうだよ。ヨンナムさんはいつも清く正しく…」
「僕が?そう思う?」
「…だと思ってた…けど…」

またくるりと、イナの瞳が動いた

「…けど?」
「…今はね…俺とおんなじだって思う…」
「ふ…同じじゃないよ、イナ…。僕はお前のようにキレイじゃない。僕は反省しないからさ。いつも自分の方が正しいって思い込んでて、自分のヤな部分を覆い隠してきたもの…だから…」

どろり…
いやだ…
見たくない…

「そうかな…。そんな事ないよ、俺、キレイじゃないし。一緒だよ、みんな」
「一緒じゃない。お前のように正直になれない、僕は」
「…ふ…」
「なに?」
「十分正直じゃん…今、貴方、反省文述べてたよ」
「…」

ああ…ほんとだ…
イナといると…こんな風にするりと…僕のイヤな部分を話せるんだ…
見たくないと思って隠していた泥の塊が、さらけだすと案外サラサラした砂だったりするんだ…
イナといるからこんな風に…

ゴクリと唾を呑み込んだ
あどけない顔のイナを真っ直ぐ見据えた

「僕…お前と一緒にいたいよ…イナ…」

イナの視線が僕を包み込む

「…とても…楽なんだ…お前といると…」
「…」
「お前もそう感じてくれるといいのにな…」
「…。貴方に…甘えても…いい?」

僕は頷いてイナの隣に体を寄せ、その肩を抱いた


千の想い 161 ぴかろん


*****

長さを揃えてから厚みを鋤く
テジュンの顔や肩や胸に、切り離された髪が落ちていく
落としちゃおう、いやなもの全部…
俺の好きなテジュンを、格好よく仕上げてあげるね
明日からは新しいテジュンだよ…

切った髪を払い落としてテジュンの両肩に手を置く
肩越しに鏡を覗き、そこに映ったテジュンに声をかける

「こんなカンジ。どう?」

目を閉じていたテジュンは、そっと鏡を覗く

「…あんまり変わってないじゃん」
「えー。かっこよくなったろ?この辺り、すっきりしたでしょ?」
「ふふ。…ぅん…さんきゅ…」

反転した俺達が、鏡の中から俺達の実像に笑いかけている
テジュンは俺の頬にキスをした
俺もテジュンの頬にお返しのキスをした

「くふふ」
「お前、本とに上手だな」
「んふ」
「ギョンジンの髪もやってやんなよ」
「…ふふ…気が向いたらね」
「ね…誰かにこんな風にしてあげた事あるんだろ?」
「…。ん…。好きだった女の子に…」
「…。ああ…」

テジュンは瞳を泳がせた
覚えてたっけ?俺の過去の話…

「さ。頭洗おう」
「え?」
「細かい髪の毛、洗い流す。やったげる」
「…じ…自分でやるよ」
「うふふん。いいから。少々お待ちを…」

俺は立ち上がってバスタブにお湯を入れた
それからテジュンのズボンのベルトを緩めにかかった

「え?!なに!なにしてんの」
「脱がせてんの」
「え?え?」
「服、濡れちゃうからいっそ裸で」
「ちょっと待てよ。何言ってるんだよ」
「照れてる?」
「あ…当たり前だろ?!」
「あはん…。俺達ってぇ、あーんな事したんだから平気平気♪」
「おい。こら。頭洗うだけだろ?!」
「うーん。頭洗った後、全身も洗ってあげる♪」

テジュンの瞳がくるくる回ってる
ちょっといやらしい光が灯る

「い…一緒に入るって…ことか?」
「入ってほしけりゃ入るけど?」
「…。どういう…風に…洗うの?」
「やだなー。テジュン、ふーぞく頭になってるだろ!」
「え…。だって…」
「とにかく浸かって。ほら。死守してないで脱いでよ!」
「あうっ自分でやるからっ!」

テジュンは俺に背を向けて、ズボンと下着を脱ぎ、急いでバスタブに身を隠した
キョロキョロ目が動いている
俺は笑って、心配しないでよ、襲わないからと言った
なんでもいい
テジュンが暗い気持ちに囚われなければ…

ヘッドの動くシャワーでよかった
テジュンの頭にお湯をかけ、シャンプーした
テジュンは気持ち良さそうに目を閉じている
バスタブのお湯を抜きながら、テジュンの泡や髪の毛を洗い流す

「さてと。マッサージいたしまぁす」
「は?」
「特別に、全身コースね」
「…なによマッサージって」
「くふ」
「お…あ…ひ」

シャボンを泡立ててタオルにつけ、テジュンの体をバスタブの外から擦る
ちゃんと前も洗ってやろうと思ったのに、そこは自分でやる!とか言って、テジュンは俺の手からタオルを毟り取り、俺に背を向けて体の前面を洗っていた
背中からシャワーをかけて泡を洗い流し、もう一度バスタブにお湯を張る
お湯が溜まるにつれ、テジュンは体をゆっくり伸ばす

「ああ気持ちよかった。ありがとうラブ。なんだか気分よくなった」
「まだだよ」
「…え…」
「マッサージ…まだやってない」
「…マ…ッサー…ジ?」

あちこちに飛ぶ視線

「完全にふーぞく頭だね、すけべじじい。…ちょっと、頭こっちに乗せて」

俺はテジュンの頭を引き寄せて、自分に近いバスタブの縁に凭れさせた

「…なに…なにすんの…」
「お顔がガサガサですので」

化粧用のオイルを見つけたので、それを塗りつけてテジュンの顔をマッサージした

「お…むぐ…」
「ガッサガサ…」
「…んむ…」
「結構気持ちいいでしょ?」
「…ん…うん…」
「へへ。エステでも開こうかなぁ、テジュン専用の…」
「…ばか…」

指でテジュンの顔を感じた
唇、顎、頬、眉毛、瞼、額

「いつも思うんだけどさ」
「なによ」
「テジュンって…鼻、デカいよね」
「…」
「すけべぇだ」
「なんでっ!」
「天然えろだもんなぁ」
「おいこら」
「それと」
「なんだよ!」
「睫毛が…長いよね…」
「…それは、けほ…自慢だ…」

その…睫毛が…好き…

「さ。終わり。顔洗おう」

コックを捻り、シャワーヘッドをテジュンの顔に向ける
テジュンは慌てて顔を押さえる

「ぶはっお前っ。いきなりお湯ぶっかけるなぶはっぶほっ」
「ひゃははは」
「こンの。くそっお前も入れ!」
「やだよっ」
「こいつ。このっ」

じゃれあっていたら体半分バスタブに浸かってしまった

「あーっもぉぉぉっ濡れちゃったじゃないかぁっ」
「…だから…入れ」
「…え…」
「一緒に入ろう。ラブ」
「…」

どういう…意味で言ってるの?
わからなくてテジュンを見つめた

*****

酒を飲みながらイナの話を聞いた
テジュンとの楽しい思い出を、イナは焦点の合わない瞳で語った
一つずつ、思い出に別れを告げているような気がした
酒の瓶が三本ほど空いた頃、イナは静かになった

「酔った?もう寝るか?布団敷いてやろうか?」
「…」

イナは黙ったまま、僕の太腿に体を凭れさせた

「…なに…」

ドキドキした

「どうしたの…」
「ん…気持ちいい…」

目を閉じて微笑むイナの顔を見つめた

このまま…イナと…寝てしまえばいいんだ…

過ぎった言葉を掻き消すように、僕は声を出した

「気持ちいいって言えばさ、今日、夜の配達の時に…」

『イナさん?』
『…配達です…』

またラブ君のきつい瞳が…

「配達の時になに?」
「…あ…ああ…その配達の時、casaでさ、チェミさんに…」

楽しい話をしよう
優しい時間を過ごそう
ギスギスした心を仕舞いこんで温かい心でいよう…
僕は口を開いた

チェミさんにお尻を撫でられた事や、テス君が派手なシャツを着てチェミさんの頬を引っ張っていた事、それから『オールイン』で見たマイケルさんたちのジャグリングの事やらをイナに話した
僕の太腿を枕にして、イナはうふふと笑いながら聞いていた
ジャグラーが禿頭のおじいさんに入れ替わった話をすると、イナは起き上がってぶははと笑い、ニヤニヤしながら僕を見つめた
あれはトファンの親父だよ、秘密を知っちゃったんだ、ヨンナムさん…と言ってまた悪戯っぽく笑っていた
その顔が可愛くて
僕の心臓はドクンドクンと大きく打つ
イナの頭を捕まえてキスをした
離れて…見つめあって…またキスをした…
昨日もおとといも…僕はイナとこんなキスをしている
頭の芯が痺れだす
このままイナと…ああ…

体を離して気持ちを落ち着かせる

「ちょっとトイレ…」

どきんどきんどきん…

立ち上がって逃げる
体が熱くなっている
顔を洗って鏡の中の自分を見る
赤くないか?かっこ悪くないか?
どうしてそんな事を気にする?
僕は…
イナが…
好きだから…
だから…

本当に?
本気か?
弱々しいイナが可愛らしく見えたってだけじゃないのか?

まだ…
まだ早すぎる
酒のせいだ
酔ってるんだ…
居間に布団を敷いてやって、イナをそこに寝かせて
僕は僕の部屋で寝て…
そう
こんなに早く寝てしまったら
アイツと…アイツ等と同じになってしまうだろ?

ぱんぱんと顔を叩いて、奥の部屋に行き、布団を居間に運んだ

*****

テジュンの指が、濡れたシャツのボタンにかかる

「昼からずっと…これ着てたね…」
「…気付いてた?」
「ああ」

外されていくボタン
肌に触れる指
心臓の音が大きく鳴りだした

シャワワワー

「ぶはっこらっラブっ!」
「きゃははは。やだっテジュンったらすっげぇすけべ顔になってんだもんアハハ」

耐え切れなくなって、俺は出しっぱなしだったシャワーのヘッドをもう一度テジュンの顔に向けてやった

「こいつ!」
「ああああっ」

テジュンがシャワーを奪い取り、俺に向けて浴びせかける
着ていた服がびしょ濡れになる

「やぁん!着替え持ってないのにぃっ!」
「お前が仕掛けたんだろ!」
「テジュンは裸じゃんかぁもぉぉ。着替え貸してよねっ!このままじゃ帰れない」
「いやだ」
「濡れ鼠で放り出す気かよっ!」
「帰るな」
「…。え…」
「帰るな」

呟くと同時に、テジュンは俺を抱き寄せた

「ここに居てくれ」
「…テジュン…」
「仕掛けたのは…お前だ…」

びしょ濡れになったシャツを、テジュンが優しく剥がす
テジュンの唇が俺の唇を迎えに来て、俺達はバスタブの縁を挟んで抱き合った
そうだ
俺が仕掛けたんだ…

テジュンの指が俺のジーンズをなんとかしようともがいている
唇を離してふふふと笑うと、色っぽい顔で呟いた

「濡らすと脱がせにくいんだよな…Gパン…」

俺の心臓
今にも飛び出しそうなの、知ってる?
ここはどこ?
あの海辺のホテルだっけ?
貴方は、俺と一緒に海の底まで一緒に沈んでくれた、あのテジュン?

違う…
頭の隅っこはクリアになってる
テジュンはイナさんと別れて
寂しくて哀しくて
ドロドロの海を漂ってるんだ
俺は自分を餌にして、テジュンに空気を送り込みたい
それだけ…
テジュンが浮き上がってくれたらそれだけでいい…

ほんとに?
それだけ?

キスしながらジーンズを脱ぎ、俺もバスタブに足を入れる
そのまま滑るように水の中に浸る

違う…
ずっと…触れたかった…
もうこんな風に抱き合うことなんてないと思ってたのに…

お互いのからだを支えあいながら、俺達はキスを繰り返した


個展にて 2   れいんさん

フロアに射しこむ陽の角度も変わり
抱えていたランチバスケットの中身も随分冷めた事だろう
フロアを横切り、北欧をイメージしたゾーンを通過し、また別のゾーンへと僕たちは進む

彼は老紳士の右隣に位置し、歩調を合わせるよう気遣いながらゆっくり歩いた
次のゾーンは先程よりもより重厚な印象を受けた
彼はそこですっと体を反転し足を止めた
間を置かず、彼の低く通る声が響いた


この空間は寝室をイメージしています
相手との距離を適度に保ち、それでいて互いの存在を近くに感じながら、思い思いに寛げる空間
あまり過度になり過ぎず、さりげなくデコラティブにそしてエレガントに…

老紳士は深く頷きながら、家具の細部にまで施された装飾を丹念に眺めている
その瞳の奥にあるのは決して優しい光だけではない


質のいいウォルナット材で作られたそれらの家具達が
いや、このフロア全体に展示されてある家具達が
洗練された美しさと、より優れた機能性を競い合い
専門化の目によって、値踏みされ、比較され、批評される
そしてそれらのもの達を送り出した彼こそが
誰よりも緊張に押し潰されそうな想いで、その審判を待っている
口元には笑みを絶やさぬまま

僕は知ってる
こうしてこれらのものがここに展示されるまで
どれほどの時間と手間を要したか

夜が更けてもずっと灯っていた工房の灯りも
時折、風に混ざり聞こえてくる機械音も
彼の事を案じながら
僕もずっと寝室の窓辺から見続けていたのだから

あの窓辺でも
今この場所でも
僕にできるのはそれだけしかない
たったそれだけ
気の利いた台詞の一つも言えなくて
力を貸す事もできなくて
ただ祈りながらあの人を見つめるだけ


老紳士は背広の内側から眼鏡を取り出し
腰を折り、チェストの装飾を確かめていた

次第に漂い始めた無言の空気に
息が詰まりそうで堪らなくなり
僕は目を逸らし彼らから少し離れた
最初から場違いな気がしてた
専門家の二人を残し、このへんで僕はフェードアウトした方がいいだろう



何となく宙ぶらりんな気持で、ぐるりと辺りを見渡し
目についたベッドの所に、のろのろと歩いていく
彼らの会話が微かに聞こえるくらいの距離だ

そのベッドはこの空間の中でも特別に存在を誇示していた
とても気持ちよさそうで、こういった場所でなければ寝そべってみたいところだけど
そんな事を思いながら、ベッドのスプリングを押してみる
硬めの弾力感がしっかりと掌に残った

隙なくメイキングされているベッドカバーにも
実は、彼なりの拘りがあった

フラックスという天然の花から作られているリネン
『丈夫で柔らかくて通気性に優れ、使いこむ程いい風合いになるんだ、まるでスハみたいだろ』
以前、彼が見せてくれたサンプルは本当に肌触りが良く気持ちよかった

ベッド脇に置いてあるあのグラスはショット・ツヴィーゼル社製のワイングラス
あれと色違いのグラスで昨夜二人でささやかな祝杯をあげた

「このガラスは硬質で傷がつきにくく、白曇りもしにくいんだ。これからも時々こうして乾杯しよう」
ワインのせいで眠くなりかけてた僕に彼はそう言った

ふふ
ずっと一緒にいると、知りもしなかったそんな知識がいつの間にか刻まれて
彼が発する言葉の一つ一つが、彼との記憶と一緒に僕の中に残っていく

そういった分野には一番遠い所にいたはずなのに
僕はくすりと笑い、指先で軽くグラスを弾いてみた
金属音にも似た快い音が短く響き宙に消えた


また彼の声が途切れ途切れに聞こえてきた


このアールデコ調のワードローブやチェスト、キャビネット、コンソールなどに施してある装飾
こうしたレリーフは僕が最も得意とするものです


だんだん彼らの声が近づいてくる
どうやらお目当てはこのベッドらしい
思った通り、今僕がいるこの場所で彼らの足は止まった

こちらのベッドの背板の部分…よくご覧になって下さい
このガーデントレリス風の格子組にも細かな彫刻があしらってあります


彼の声は自信に満ち、その指先は誇らしげにそれをなぞった
ゆっくりとしなやかに、宝物を扱うように
なぜか僕は軽い嫉妬を覚えた

それからこちらのチェアは
上質のベルベッド素材を座面に張り
その縁取りは真鍮の鋲で仕上げています


ベルベッドと真鍮の鈍い光沢が陽に反射していた

老紳士は時折相槌を打ち、彼の話に聞き入っていた
老紳士は最初に挨拶を交わした時の優しげな物腰そのままに
瞳の奥に見えた厳しい色が薄れていくようにも見えた

良かった…
ここにまた一人、彼を認める人が誕生した

嬉しいと思った
僕まで誇らしい気分になった
それは嘘じゃない
でも…
心の片隅で、何かが僕の邪魔をする
それが何なのか、どこから来るのか分からない

薄もやがだんだん僕を覆いつくしていくようで
そのうちに視界がぼやけてくる
正体のはっきりしないそれが一体何なのか
掴もうとすると
何もなかったように消えてなくなる

それは
取り残された寂しさ?
必要とされなくなるかもしれない不安?
分からない
分からない

思えば、今までも常に僕には
何かしら不安が付き纏っていた

彼と過ごす時間はとても楽しいのだけれど
幸せだと
幸せになりたいと
いつも願っているのに

ある時は、愛されているのかと不安になり
それが満たされれば、僕でいいのかと不安になる
そしてひょっとして彼は幸せを感じてないかもしれないと心配になり
その次は、本当に僕達は幸せになってもいいのだろうかと気が滅入る

それはエッシャーのだまし絵みたいに
終わりのない迷路に迷い込んだみたいに
いつの間にかまた振り出しに戻っている

彼と僕は同じ道を歩いているようで
実は全然違う道を歩いているのではないかと思う時さえある

前を見据えている彼と、後ろを気にしてばかりの僕
夢を掴もうとする彼と、遠くでそれを見ている僕
始まりを考える彼と、終わりを考えずにはいられない僕…

ふうっと溜息が零れた
立ち込めはじめた薄もやを振り払おうと頭を二・三度振った
気持を切り替えようと
また次のゾーンへと進んだ
もう彼らの声は聞こえない


ふと急に、目の前が明るくなった
今の僕には眩しい程だった
光源も考えて意図的にそこに配置してあるのだろう

温もりを感じるパイン材の小ぶりなデスクやベッド
ポップな柄のベッドカバーやクッション類
TRI-ANG社とロゴが入ったカラフルな三輪車
それらのものに陽の光はよく似合った

これは
子供部屋をイメージした空間
活動的で可愛らしくて
こういった物も彼は作っていたのかと
少し意外に思った
今まで彼が作ってきた作品とは明らかに傾向が違っていたから

彼の身辺で起きた事がらが
彼の心に変化を与え
彼の感性に刺激を与える
それによって活力を得
彼の新しい可能性は広がる
その変化はきっと彼を成功へと導いていくだろう

だから僕は彼と一緒にそれを喜ぶべきなのだ
簡単な数式のように
割り切ってしまえばいい
なのに、なぜそれができないのだろう
切なくて
心が痛いと感じるのはなぜだろう


子供用デスクの上にディスプレイされていたロックキャンドルを手に取った
正体の分からない何かに囚われてしまう前に
何でもいいから形のある物に触れたかった

ごつごつとしたそのロックキャンドルは
本物の石ころみたいにリアルで、どことなくコミカルで
香りもそう悪くない

目の高さに持ち上げたロックキャンドルを陽にかざしてみた
その時僕は漸く気づいた
そこにいたもう一人の存在に

その人は壁にかかった絵画の前で佇んでいた
ちょっと死角になりがちな位置だった事
壁にかかっている、のどかな田園の風景画とその人が
あまりにも違和感なく
まるで、その人ごと絵の中に描かれた人物のようで
だからそれまで気づかなかった

折れそうな程華奢で小柄な後姿
首の辺りで切りそろえられた髪
その人は僕に背を向けたまま熱心に絵画を見ていた

ぼんやりとしていた焦点が絞り込まれ
視覚が脳を覚醒させた
今はっきりと点と点が線になった
心臓が激しく僕を打ち据えた

山の木々がさわさわと揺れる音
小川のせせらぎ
懐かしい風の匂い
記憶の隅に置いたままの
開ける事を恐れていた
それらの記憶が一斉に僕を揺さぶった

ロックキャンドルが手から滑り落ち、ごろりと鈍い音を立てた
絵画の中のその人がゆっくりと振り向いた
ストーップモーションのようだった

その人が僕を見た
思わず息を呑んだ

「…ホンヨン…!」

それは僕が発した声だったのか
聞きなれない声のように掠れていた
僕の鼓動はさらに激しくなった


千の想い  162 ぴかろん

*****

「イナ、そろそろ寝たほうがいいよ。疲れたろ?」

布団を床に降ろし、イナの方を見た
イナは電話の横に突っ立って壁を向いて俯いている

どきん…
こうやって黙って流し台を向いていた時、イナはどんな風に僕を抱きしめたっけ…
イナの背後に忍び寄り後ろから肩を抱きしめる

耳元で…囁くんだ…

「何してるの?」
「…」

耳たぶに唇が触れるぐらい近づいて…囁くんだ…

「イナ…」
好きだよって…

「来たんだ…テジュン」
「…えっ…」

イナの指は、電話の横にあるメモの文字をなぞっていた
僕はその手を軽く押さえ、かける言葉を探した

「会社…行くんだ…。ラブんち出たんだ」
「…ん…あのね」

イナが僕の肩に凭れ掛かった
また落ち込んだんじゃないだろうかと心配になった

「イナ…これは」
「よかった」
「…え…」
「テジュン…前向いたんだよね?…」
「…イナ…」
「よかった…」

イナは優しい顔で微笑んでいた
思いやりのこもったその瞳

僕の何かが弾け飛んだ
イナの体をこちらに向けて顎を掴んでキスをした
舌を滑り込ませる
僕を見てほしくて強く吸う
戸惑っていたイナは、僕の体に腕を回し、キスに集中しだした

キスの好きな男
誰でもいいの?!

イナの舌が絡みついてきた時、僕はイナから離れた
僕は…我儘だ…

布団を敷き、もう寝るといいと言って居間から出ようとした

「ヨンナムさん…」

震える声が僕を引き止める

「…どうしたのさ…なんで怒ってるのさ…」
「怒ってなんかいない!」

そうか…僕は腹が立っていたのか…

「怒ってなんか…」
「怖い顔してる…。テジュンの事、言ったから?だから?」
「違うよ…」
「じゃあなんで…急に冷たくするのさ…」

頭を振って尋ねる僕
「…。なんで『よかった』なの?あいつがラブ君ち出て、なんでよかったの?」

戸惑うように答えるイナ
「…会社に行く気になったみたいだから…」

たったそれだけでお前、そんな穏やかな顔になるの?!
沸々とたぎりだす僕の泥
「心配するトコが違ってるよ!」
「…え?」
「一人でホテル暮らしするんだぜ」
「うん…」
「誰が訪ねてくるか解らないんだぜ!」
「…」

沸々と…滾る…僕の…
「これで堂々と会えるよな?あいつ」
「…。会えるって…誰と…」
「何カマトトぶってるんだよ!あいつには前科があるだろう?!」
「…なんのこと?」
「わかんないのか?…そこまであいつを信じてるのか?!ラブ君だよ!簡単に会えるじゃないか!誰に知られる事もなく、なんだってできるんだ!密室だぜ」
「…そんな…事…。ラブは…そんな事しないもの…」
「ラブ君まで庇うの?おめでたいな、イナは!」

弾けとんだのは僕の理性
傷つけないようにと蓋をした、僕の見たあの光景

「ヨンナムさん…どうしたのさ」

言っちゃいけない
「見たんだよ、昼間!あいつらが手に手をとって安ホテルに入って行くのを!」
言うんじゃない
「テジュンの泊まってるホテルじゃない!そこら辺にあるラブホだラブホ!」
イナをこれ以上…傷つけちゃいけない
「さっきも…さっきもラブ君が一人でタクシー飛ばして…テジュンの泊まってるホテルに入ってった!見たんだ僕は」

なんで…止められない…
なんでイナにこんな事を…
言わないでおこうと思っていたのに…

『よかった…』

好きなんだ…
イナはテジュンが好きで好きで忘れられなくて
戻ることもできずに
アイツが立ち上がったと信じて
あんな…
優しい顔で…

「…」
「信じない?僕の言う事は信じられない?」
「…ヨンナムさ…」
「どうしてお前はここにいるの?!どうして僕?僕に何がしてほしいの?!抱いてほしいの?それでアイツを忘れたいって?嘘つけ!忘れたくないくせに!どうやったってお前はテジュンを忘れられないんだ!そうだろ?テジュンは…テジュンの奴は…」

薄っすらとイナの心の輪郭が見えたような気がした
僕の傍に居ながら、僕を好きだと言いながら…
消してしまいたいと言いながらお前は…

「…テジュン…ラブと…また寝たの?」
「そうだよ!昼も夜もあいつらは」
「うそだ…ちがうよ…」
「僕は見たんだ!」
「一緒の部屋にいるだけだよ…だって」
「…お前は…本当におめでたい奴だな!どこまであいつらを信じるんだよ!」
「だって俺、感じないもの…」
「…なにが…」
「テジュンとラブがそうなったら…俺…解るもん…」
「…」
「何も感じない。寝てないよ…」

…そこまで…好き?

熱く張り詰めていた心に鋭い爪の掻き傷が走る
僕は今、何かを理解したはずなのに
爪痕の痛みが受け止める事を邪魔している

「…別れたのに?テジュンの事、感じ取るってぇの?」
「あ…」
「…」
「そ…だった…。俺、別れたんだった…。そか…今までと違うんだ…そ…か…」

瞳が揺れ、僅かに俯く
その姿に僕はひとかけらの安堵を覚える
…こんな風にしたのは僕

「…じゃ…も…感じないんだ俺…。テジュンとラブ…ヤッてても…わかんないんだ…そだ…」
「…。イナ…」

可哀想に…可哀想…

「ふふ…ふ…もういいよ…」
「ごめんイナ…言うつもりじゃなかった…」
「もういい…どうでもいいんだった、あの二人がどうなろうと…」
「…イナ…」

可哀想なイナをもっと僕に引き寄せようか…

「お前…テジュンを…好きなんだろ?大切に思ってるんだろ?」
「もう関係ないもの…消すんだもん…消す…消えて…」

イナの瞳が霞んで乾いた
虚空を見つめて体を強張らせていた
僕は自分の中の厭らしさを感じて項垂れた

さっき正直になれたのに…
優しい気持ちになれたのに…

*****

テジュンが俺のからだに泡をたてた
それがどういう意味なのか、まだはっきりと解らない
テジュンは瞳を伏せていて、本当の気持ちが見えない

「なんで洗ってくれるの?」
「…ん?…お返しだ…」
「お返し?洗ってあげた?」
「…ぅん…」

曖昧な返事

「…何…考えてるの?」
「…ぅん?別に…なぁんにも…」

泡のついた背中を抱きしめられた
チリチリと
導火線に
火がつく

テジュンの方に向き直って首に手を回す
俯いていたテジュンが顔を上げる

貴方が…
苦しみから立ち直れるように
俺は…俺は…そう…
手助けをしに…来たんだ…そう…

微笑んで軽くキスをする
テジュンも微笑んで俺の肩に残っていた泡を掬い取り、俺の鼻先にチョンとくっつけて笑う
泡のついた鼻先を、テジュンの鼻先とくっつける
うふふ、あははと楽しそうに笑い、俺達はまたキスをする
テジュンの背中がバスタブを滑り
俺達は一瞬、泡だらけの湯の中に沈む
テジュンが俺に、俺がテジュンにしがみつき
湯の中を漂う
お湯から体が浮き上がり、唇を離して息を吸う
笑う
抱き合う
そしてまたキスを繰り返す
テジュンと俺の体が入れ替わり、俺の背中はバスタブの壁に押し付けられる
鼻先をくっつけ、おでこをくっつけ、テジュンは目をとじたまま、くふっと笑う

ぅふふ…

テジュンを抱きしめる
俺の肩に顎を乗せ、あははと軽く笑って、テジュンはもそもそと動いた
テジュンは俺から離れ、自分の顔にシャワーを当てている
立ち上がって全身の泡を流し、その後シャワーを俺に向けた

「先に出るよ」
「うぷっ…ぅん…」

テジュンは、散らかっていた俺の濡れた服を持ってバスルームから出て行った
俺は自分の泡と一緒に、バスタブのお湯を流した

*****

飛び込んできた砂糖菓子をひとかけら、口に含んでもいいのだろうか

ラブといる間は現実を忘れられる
僕に触れる指から流れ込むラブの感情
優しさと励ましとそれから…

僕のためにここへ来たというのなら
慰めてもらっていいのだろうか…
迷いながら触れ合う

彼の笑顔が仕舞いこまれた僕の笑みを引き出す
彼に触れると甘い切なさが疼きだす
彼を見つめ、微笑み、触れ合い、ふざけ合う
彼と過ごした短い日々を思い出す

もう一度あんな風に過ごせるのかな
あの時みたいに二人でふわふわ漂えるのかな…

微笑みながら何度もキスをする
湯の中に沈み、浮び、彼を愛してみようかと捉まえる
恋人同士のように
鼻先とおでこをくっつける

…子供のような瞳…

僕は目を閉じ笑う
抱きしめられてまた笑う
彼の肩の上で笑いながら哀しむ
たまらなくなって自分に水しぶきをかけた

先に出ると言って彼の濡れた服を取り、部屋に戻って電話をかけた

*****

バスルームを出ると、バスローブを羽織ったテジュンが窓の外を眺めながらタバコを吸っていた
俺は腰にバスタオルを巻いて、テジュンの背中に凭れ掛かった

「お前の服、大至急でクリーニング頼んだ」
「…そう…」
「できあがり、明日の朝だ。…服を貸すから帰りなさい」

まだ迷ってるんだね

「…帰るなって言ったじゃない…」
「あれは…。冗談だよ…。ギョンジンが心配するだろ?」
「あいつはギョンビンの心配ばかりしてる」

俺の心配だってしてくれたけど…

「弟に妬いてるのか?お前はヤキモチ妬きだなぁ」
「…」
「僕の服じゃ似合わないだろうけど…」
「帰るなって貴方、言ったじゃないか!」
「…。ダメだよやっぱり…」
「なんで」
「ここにいたら僕はお前に何するかわかんない。だから帰りなさい」
「何されてもいい」
「…僕は…お前を傷つけてしまう…」
「傷なんかつかない!こんな貴方を放って帰れない!」
「僕は…大丈夫だよ…。お前にたくさん慰めてもらったから。明日から僕は」
「一人になったら思い出すくせにっ。今だってイナさんの事思ってたんだろ?!一人では…動けないくせに…」

怒り出すかと思った
でもテジュンは俺を優しく抱きしめた

「…そうだ…気持ちがイナから離れない」
「…」
「今抱きしめているのがお前だって解ってても、気持ちが」
「それでもいい」
「…ラブ…僕は…」
「好きだよテジュン…」
「…止めよう…な?止め…」

テジュンの唇に吸い付いた
何もつけていなくてもテジュンの香りがする

「ギョンジンが…」
「言わないで」

揺れている、俺も貴方も…
抱こうかどうしようか迷っている
抱かれようかどうしようか迷っている
言葉だけが走って行く
体が疼いている
キスをする
煽るようなキスを

おにいちゃんは心配で心配で…

過ぎるのはアイツの顔
アンタの一番はチフン君とギョンビン
俺を大切にしてくれるけど、俺はアンタの全部が欲しい
無理だと解っていても全部ほしい
それができないからテジュン?
テジュンはアンタの身がわり?
けど俺、テジュンが好きだよ
あのときからずっとテジュンのことが…


撮影ー傷   足バンさん

初めは思っていた
ジンという男を理解することができるだろうかと

しかしジンの歩いてきた道を幾度も想い描き
その心情の軌跡を繰り返し追っていくと
彼の背負ったものは決して特別なものではないということがわかってくる

自分の人生を”日常”という名で過ごしていた頃のジン
患者への真摯な微笑みの下に憐れみを隠している男
ひとを救っているのだと自負し錯覚している男

そしてやがて彼は思い知る
無自覚の抱擁は冷酷なまでの傲慢と背中合わせだということを

目を閉じてこれまでの自分を思い返せば

ジンは僕の中にいた

「そうそうそうそう!いい!最高!まさにジン!それで行こう」
「どちらかと言えば冷たい感じですか」
「うん、慇懃かつ自尊心を微笑みで隠してる感じでね…ヒョンジュに会ってからの変化がより引き立つ
 そんでね…うん…やっぱ時計は黒いやつにしよう」

高級ではあるが派手ではない黒革の腕時計は
ジンがひっそりと大事にしている祖父の手作りの机や
古ぼけた写真に通じるものを感じさせる
完璧と言われ続けてきた彼の深部は孤独なのだろう
自分でもそれと気付かずに

僕はぼんやりと…
初めてドンジュンを抱いた時に零した自分の涙を思い出した


助監督の「次、ヒョンジュのドアシーンに入ります」という大きな声に
横に立っていたミンチョルが天井を仰いだ

「大丈夫、行っておいで」
「スヒョン…その…どこかおかしかったら言ってくれ」
「それは監督の仕事」
「そうか…そうだな」
「ちゃんと監督の言うこと聞いて戻っておいで」
「”初めてのおつかい”みたいに言うな」
「ふふ…大差ないよ、大丈夫、ちゃんと見てるから」

スタジオに入ったミンチョルは思いのほか落ち着いていた
僕のシーンを見ている表情もずっと柔らかいものだった

催眠術でもかけたのかと監督は笑うけれど
そんなもので何とかなるのならどれほど楽だろうか
そう…ただあいつをどうにかすればいいという話じゃない
僕自身の問題だ

僕の身体のどこかに息を潜めているあいつへの想いと
幻を心から愛せという因果な許諾

引き裂かれてしまうのか、いや、きっとどうにかできると言い聞かせ
わかっていながらここまできたのは僕だ
何かをごまかしているような気がしながら
考えることさえ曖昧にしている

…よほどマシだ
自分の想いに突っ走った愚かな精神科医の方が


窓から風が吹いたらね…さっき言ってたこと思い出してごらん
ん?
ミンジちゃんとの懐かしい思い出
ああ…うん…

ジンの心に残る”風のシーン”はある意味ヤマだと言っていた
たった数秒のヒョンジュの表情に何十人もの人間が長い時間息を殺す
反射光の角度1度に妥協することのない空気は
演じる側には手出しのできない厳然とした技術者の世界でもある

順調に見えたそのシーンだったが
振り向くヒョンジュの絵には幾度も直しがかかる
遂に立ち上がった監督にカメラのユン女史も意外そうな顔をした

「うーん…抜群に美しいんだけど…ちょっと寂し過ぎるかなぁ」
「え…」
「何て言うのか…哀しさが前面に出過ぎ」
「哀しさ…ですか?」
「ヒョンジュ本人は自分の辛い過去を忘れてるわけだから」

どきりとした

ミンジちゃんとの思い出をヒョンジュに生かせると思ったのだけれど
その想いの延長上にある記憶については
通り過ぎてくれるだろうという甘い期待があった

暖かい家庭に手が届かなかった幼い頃の辛い記憶
そして自身の父親との苦い記憶
ミンチョルがそれを意識し出してしまったのなら
監督の求めているヒョンジュの表現とは違ってくるだろう
それをさらりと処理できるほど器用じゃない

あいつがヒョンジュ役に躊躇した理由のひとつは
そこに繋がっているはずだと…
僕は薄々気付きつつ
触れずにいようと思っていた

「でもジンは感じるんでしょ?その哀しさ」
「それはヒョンジュも意識してない、しまわれた哀しさだもの」
「でもジンは感じるんだから観客にも感じてもらわなくちゃ」
「だから出過ぎちゃダメなのよ」

ジホ君たちのやりとりを頭のどこか遠くで聞きながら
僕は監督の言葉を思い出していた

ー彼に演技は求めてないの、彼の咲き方を撮るつもりだから
ー何かを考えてもらおうとは思ってない…ただジンを愛してもらえばいいんだよ

監督が惚れ込んだのはあいつが持ってるあの目

ー彼の感情はあなたにかかってるってことです

チョプロデューサーが絶妙のタイミングで入れた休憩時間
僕はいくらか重い気持ちを起こして
ミンチョルの腕を取りスタジオの外に出た


いくつも並ぶ巨大倉庫のような撮影所の内部と外部は夢ほど差がある

裏手の無造作に積み上げられた木材にミンチョルが座り
僕はその右横に腰を下ろした

ポツンと1本だけ立った大きなけやきに風が通り陰が揺れる
建物の青い屋根よりも尚青い空が広がり
時折スピーカーから響くスタジオ毎の業務連絡が邪魔ではあるが
思っていたより落ち着く場所だった

ミンチョルは遥か向こうを通り過ぎるシェフと宇宙飛行士の衣装の一団を
不思議そうに見ていたが
その姿が見えなくなると小さなため息をついて俯いた

「きつい?」
「ん?」

振り返るその目がヒョンジュに重なる

「きつい?」
「今ひとつ…監督の言う意味がわからない…」
「そうか…」
「僕は言われた通りの気持ちを作って…」
「おまえ…ミンジちゃんなんかのことイメージした時 
 忘れようとしてた辛い思い出も一緒に引きずり出したんじゃないの?」
「…」
「でしょ?」

ミンチョルは視線を逸らすことで肯定した

「演技には関係ない」
「あるよ」
「ない」
「あるよ…想い描いてしまうことが目には映る…あそこでは何も考えていない彼の目が必要なんだ」
「そんな芸当はできない」
「できる」
「僕は僕なりにヒョンジュになろうとしてる」
「わかってる」
「監督の詩も何度も読んだ」
「わかってるよ」

左腕を伸ばしてそのうなじを柔らかく掴むと
ミンチョルはようやく僕を見た

「無理にヒョンジュになろうとしなくていいんだよ」
「じゃあどうしたらいい」
「言ったでしょ?ただ自然で素直な…」
「だから僕は」
「ただジンを見ればいい」
「ジンをって…」
「僕を見ればいい」
「スヒョン…」
「僕はスヒョンじゃない」

胸のどこかがするりと切れる

腕に力を込めて顔を近づけキスをする
限りなく唇に近い頬に

「ス…ひとが来るっ」

慌てて押しのけようとするその手をもう片側の腕で押さえ
背けられた頬に構わず唇を滑らせる
首筋に辿り着いた唇を柔らかく押し当てると
ミンチョルは眉を寄せ目を閉じた

「スヒョン…」
「スヒョンじゃない」
「ひとが…」
「スヒョンじゃない」

懐かしい肌に囁く度に僕の手の中のあいつの指が微かに反応する

「僕は誰?」
「…」
「誰?」
「…」
「…」
「…ン」
「ん?」
「…ジ…ン…」

糸のような傷口から冷たい痛みが流れ出る

ようやく唇を離すと
ミンチョルはゆっくりと目を開き
少し恨めしそうな濡れた視線で僕を見た
頬に赤味がさしたのが明るい陽の下でもわかる

「僕たちはこれから出会う」

目に柔らかい光が戻っていることに勇気づけられ
痛みを殺す

「ヒョンジュ…君はね…哀しみも渇きも…どこかに置いてきたんだ…」
「…」
「そして僕を見つけ…僕は君を見つける」
「…」
「わかる?」
「…」
「わかる?」
「ん…」

拘束を解いてもう一度その頬にキスをする
今度は僅かな抵抗もなかった

「君の中にしまわれた想いを僕はちゃんと感じる」
「…」
「だから無理しなくていい」
「…」
「僕だけを見てくれればいい」
「…」
「ね?」
「ん…」

ミンチョルが…たぶん僕の名前を口にしようとした瞬間
どこか建物の表の方で彼を捜す大きな声がした
監督が呼んでいるというようなことを言っている

ミンチョルはしばし僕を見つめてから
ちょっと行ってくると言って立ち上がった
僅かに絡んでいた指がゆっくりと優しく離れる

あいつが建物の角に消えると身体から力が抜け
僕の中に張っていた何かは大きなため息に変わった


ジンの靴を撫でている陰を辿って視線を上げれば
けやきの葉が揺れていて
ここに風が吹いていることを思い出す

ところでおまえはなぜこんなところに1本だけで立ってるの?

声を掛けたのは僕だろうか
それともけやきだろうか









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