ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 262

ごさいじ・たびのきろく あらしのゆくえ 2 ぴかろん

*****

イナと話すうちに、済州島出張旅行に多大なる期待を寄せすぎて自滅した自分の愚かさを漸く認めることができた
電話をくれたイナに礼を言ったのだが、彼は上の空だ
目の前で、ヨンナムがチョンエさんといちゃついているらしい
イナが泣くのは嫉妬だろう

「ねぇイナ」
『…ぐすっ…』
「もしこれが電話じゃなくて、僕の目の前で起こっていたら…、僕きっとキーキー言ってるな…」
『…』
「昨日、お前、ラブに嫉妬しなかったって言ったけど、もしあの時あそこにラブがいて僕に纏わりついてたら、お前それでも嫉妬しない?」
『…』
「そこにいるって大きいよ」
『…そこにいる?』
「生身の人間は、僕やお前が想像したものよりずっと大きいから…。昨日の夜、僕達はお互いの気持ちを宥めたけど、その相手に対して嫉妬を感じなかった。そこにいなかったからだ。今も僕の前にヨンナムはいない。目の前にいないと冷静になれるね。僕はあいつのいいところを知ってる。あいつは可愛い奴だよ、イナ」
『てじゅ?』
「近づいて見る、離れて見る、色んな角度から見る、話してみる、触れる、味わう、感じる…」
『へ?なに?』
「何かを理解しようとする時の人間の行動。あと、想像する…かな」
『…』
「お前、今のヨンナムの気持ちがわかんないだろ?」
『うん』
「でも自分の気持ちは感じ取れる」
『…感じ取る?』
「何故だか悲しい、何故だか腹立たしい、そんな気持ち」
『…うん…』
「ヨンナムを取られたくない」
『…。…ん…』
「ちっ」
『…ごめん…』
「しょうがねぇや、お互い様だもんな」
『…。ん』
「は…。んと…あのね、僕はどこへも行かない。それは覚えておいてね。…僕はお前とずっと一緒に生きていきたいと思ってる」
『…ん…』

「目の前にヨンナムがいても、平然としてられたらいいのになぁ…」
『…ん…』
「今は無理だね。へへ。さ、昼から仕事に頑張るよ。明日、ソウルに戻ったら電話する」
『…うん…』
「気をつけて帰れよ」
『てじゅも…』

僕はフリップを閉じた

ヨンナムは僕にとって腹の立つ存在
ヨンナムは僕にとって愛すべき存在
僕にそっくりな従兄弟
大切な『友達』

「僕もあいつには幸せになってほしいんだ、イナ」

もう一度海を眺めてテーブルの上の書類を整え、早目の昼飯を取るために、僕は社員食堂へ向かった

*****

魚介をおかずにキムパプを摘む僕達
僕は何故チョンエさんがマッサージの仕事をしているのか訊ねてみた

「人を癒したいから…かな?」

片頬を膨らませたまま答える顔が、イナと被る

「なんでチョンエは人の目をじっと見つめるの?」
「目を見れば、大抵のことはわかるもん。嘘かマコトかっての」
「…不思議な人だなぁ…」
「オッパはなんでイナにイジワルするの?」
「意地悪なんかしてないよ」
「そう?イナを意識しすぎてない?」
「は?」
「私をここへ呼んだ本当の理由はなに?」
「…会いたかったからだよ!」
「うわぁ~嬉しいっ」

チョンエさんは僕の腕に纏わりついて僕に凭れ掛かった
その直後に顔を上げて僕をじっと見た

「…また見る…怖いってば…」
「それだけじゃないわよね。イナと2人で行動するのがヤだったの?」
「え?」
「意識しちゃうから?」
「…何言ってるのさ」

チョンエさんは僕の肩越しにイナを見た

「…イナ、泣きながら電話してるわ。彼氏にかしらね」
「…」
「イナの彼ってオッパの従兄弟だったよね?そっくりの…。何話してるのかなぁ…」

チョンエさんが首を伸ばしている方向を、僕も見た
俯いて、顔を顰めてしゃくりあげているのが離れていても解る
どうしてお前が泣くのさ!
ソプチコジ?城山日出峰?
そんなもの、テジュンと行きゃあいいじゃないか!
ツイっと胸が痛んだ

いいよな、お前にはテジュンがいる
寂しくなったらテジュンが慰めてくれる
僕には誰もいない

ああ…
だめだそんな風に僻んじゃ…
僕の悪い癖だ

けど…でも…イナ…僕は…

「オッパ…」

耳元に聞こえた透明な声の主を振り返り、思わずその肩に顔を伏せた
鼻の奥がツンとして、目が熱くなって、胸の奥から不規則な震えが起こって
どうして僕が泣くの?
どうして僕は泣くの?
人を癒したいというその掌が、僕の震える背中をゆっくりと撫でる

「海はキレイだけど、色んなものが混じってる。ひとつひとつは『純』なものなんだけどね」
「…」
「寄り集まって海になってる。みんなそうだと思うよ、人も自然も。白と黒、正と邪。美と醜。清と濁…。正反対だけど、みんな両方持ってるのね。どっちが多く出てくるか、どっちを押さえ込むか…その人のその時の気持ち次第」
「…また…哲学…」
「オッパ…イナが好きなのね」
「…ちがう…」
「好きなのね」

そう…
心の中で答えた
正反対の想いを僕は同時に持っている
それを認めた瞬間、胸の奥の震えが嗚咽になって溢れ出す
僕の背中を撫でる掌に毒づく

「人、癒すって言ったくせにっ!僕は癒してくれないのかっ」

掌は透明な声で平然と告げる

「お手伝いできて光栄だわ」
「わかんない!お前の言ってること、意味わかんないっ」

毒づきながら彼女を抱きしめている僕は『矛盾した存在』だ

「私はお手伝いするだけよ。その人を癒すのはその人自身。私はそう思ってる」
「…」
「さあ、オッパは自分をどうやって癒すの?」

僕はもう、嗚咽を堪えることをやめた
どうして僕が泣くの?
どうして僕は泣くの?
イナを泣かせて楽しい?

「オッパ、ソプチコジと城山日出峰、行きたかったんじゃないの?」
「行きたくなんかないっ!」
「行きたかったんじゃないの?」
「…。行きた…かっ…た…」
「イナと2人で?」
「…行きたかった…」
「んふふ」

嗚咽が止んだ
チョンエさんが笑った
両方が僕の気持ち
彼女を抱きしめた

「イナが好き?」
「…」
「好き?」
「好きだった…」
「今も好き?」
「…友達として…」
「好き?」
「…好きだ…」
「まだ好き?」
「…うん…」
「辛いわねぇ~」
「…」
「辛いでしょ?」
「…つらい…」
「でも、好きでいるって楽しいわよね~」
「…」
「楽しくない?」
「…たのしい…」
「くふふふ。オッパ、可愛い~い」

癒しの掌が、僕の背中を撫でる
僕は僕の気持ちを一つずつ理解していく
僕はまだ、イナが好きだ

「なんで2人だとヤだったの?」
「…またキスしてしまいそうだったから…」
「むうっ!やぁぁん、オッパとイナのキス、みたああああいっ!(>▽<)」
「…」
「やんやん!濃いの?」
「…」
「じいいっ」
「…やめろよ…」
「あははは。可愛いっ(>▽<)」

僕が泣きやんだのと同じ頃に、イナは電話を終えてキムパプの残りを口に突っ込んでいたらしい
チョンエさんの笑顔で僕の気持ちはかなり晴れた
僕達は立ち上がり、チョンエさんはイナのいる方に近づいた
泣いた顔を見られたくなくて、僕は滝壺に見入るふりをした


火の鏡2  足バンさん

声の主は、目の美しさと強い光が印象的な男…
スヒョンに腕を回し
積極的にくちづけに応えていた映像がミンチョルの中に蘇る

「ヒョンジュ候補か」
「僕をご存知?それは話が早いな」

シン監督に観せられたビデオテープの2番目に出てきたその青年は
黒いTシャツにジーンズで、あの映像よりもずっと若く見える
そして、悪ぶっているその声の調子が虚勢であるのも直ぐに見て取れた

「何の用だ」
「あなたがヒョンジュになってるとこが見たくて潜り込んだ」
「たいしたセキュリティだ」
「言っとくけど、僕もこの業界の端くれだからコネくらいはある」
「で?」
「あなたにヒョンジュ役を持っていかれてから不運続きでさ」
「わざわざ逆恨みを言いに来たか」
「まさか」

青年はゆっくりと足を進めて
椅子に腰掛け振り向いた姿勢のミンチョルの前に立ち、彼を見下ろした

「うちの社長が、ヒョンジュ役が急展開したのは裏があったからだろって
 もしかするとカラダでとったんじゃないかって言ってたけど」
「ばかばかしい」
「この業界はわかんないからね」
「それで?」
「音楽も担当するなんてすごいよね
 僕はよく知らないけど、あなた有名な人なんだってね、音楽業界じゃ」
「どうかな」
「今回僕を使ってくれません?まだ遅くないでしょ?」
「もうすべて決まってる」
「ミュージカルの経験もある、歌には自信があるよ」
「話にならない」
「…そんなこと言っていいの?今回の『取引』吹聴されたらまずくない?」
「勝手にしたらいい」

平然と向けられるミンチョルの視線に青年はたじろいだ
見下ろしているのは自分なのに、圧されているような気さえする
真っ白いシャツとパンツの目の前の男は
実際に見ると、匂い立つほどの美しさだ

ノックの音がして、それが何度か繰り返された後
ドア越しに、スヒョンの「どうかしたのか?」という声がする
青年の少し狼狽した目に促されて、ミンチョルは抑揚のない声で応えた

「何でもない、もう少し時間を下さい……スヒョン、さん」
「…」
「ひとりになりたいんだ」
「…わかった」

思いの外、あっさりと去るスヒョンの足音を聞き留めた青年は
改めてミンチョルを見下ろす
ミンチョルはその目を見ながら椅子に座り直した

「まだ何か?」
「その…今回じゃなくてもいい」
「売り込みなら、事務所を通してくれ」
「わ…わかんない人だな、今回のこと売られてもいいの?」
「身体で仕事をとったって?気が済むまで触れ回ったらどうだ」
「何だよその態度は」
「もう話は終わりだ」
「使う側はいつでもそうだ、ヤバくなるといつでも終わり終わり終わり!」
「仕事中だ、帰れ」
「聞いた話だけど…あなた…スキャンダルは2度とご免なんじゃないの?」

無視しようと逸らしかけていた目線をもう一度戻して
ミンチョルは青年を睨み上げた

その息の詰まるような視線にどきりとして思わず後ずさった時
青年の指がカウンター上の手鏡に引っかかる
意外なほど小さな音とともに
鏡面は冷たい床でほぼ二つに割れた

青年の目が動揺に泳いでいると
突然キィを回す金属音が響いてドアが開けられ
そこに蒼いニット姿のスヒョンが立っていた

沈黙は数秒間ほどだっただろうか
スヒョンは、まだ充分記憶に新しい美しい目の青年と
少しばかり哀しげな、大切な男の姿を交互に観察してから
静かにドアを閉め、再び部屋の鍵を掛けた

「君か…お久しぶりだね」
「う…」
「で、何をしてるんだ」
「スヒョン…」

ミンチョルが立ち上がりかけた瞬間
青年は足元に落ちている子供の手の平ほどの大きさの鏡の破片を拾うと
自分の開いたTシャツの襟元にかざして壁際に下がった

「も…もし近づいたらここで首切るからね
 そんなことが起こったら、こ、この映画メチャクチャになるよ」

唐突なその動きに呆気にとられていたミンチョルは
彼の言葉など聞いていなかったかのように歩き出したスヒョンに驚いた

「くっ来るなって言ってるだろ!」
「スヒョン!」
「この手の駄々っ子の扱いには慣ならされてるんだ」

そう言いながら、握手でも求めるのような調子で青年の前まで進むと
一瞬身体を引こうとした彼の右手首を掴んで壁に押しつけ
空いている手で、たいして力の入っていない指からゆっくりとその破片を外して落とした
鏡は、今度は高い音を立てて砕けた

「ミンチョルに何の用?」
「あいさつに…あぅっ」

握っていた手を捻り上げるスヒョン

ミンチョルは青年の戯言よりも、鏡に写るスヒョンの厳しい横顔に気を取られた
院長とのシーンで見せたあの目に似ている
ヒョンジュのために震えていたあの目

「だから、どういう挨拶?」
「し…仕事をくれってお願いしただけだよ」
「何と引き換えに?」
「何って…」
「何?」
「しゃ、社長が…ヒョンジュ役はきっとカラダを売って掴んだんだって
 おまえもそのくらいの度胸で仕事とってこいって…」
「で?」
「だから…その…ちょっと揺さぶったら…この人はスキャンダルには敏…」

しまいまで言わせず、スヒョンの右手が彼の顎を押さえた

「ずいぶん役立ちそうなことを教わっているみたいだね」

低い声は、静かだが切れるようだ
目の前の怒りの色を含むスヒョンの瞳に、青年の頭が冷たくなる
カメラテストの時の、柔らかい微笑みの人物とは思えなかった

「だ…だって…そうでもしなくちゃ…」
「スヒョン…」

力ないミンチョルの顔をちらりと見たスヒョンは、手を緩め
短い息をついて声の調子を変えた

「どうしたっていうの?君はそんな男じゃないでしょ?」
「…」
「あんなに一生懸命役を掴もうとしてたじゃない」
「僕は…」

溢れ出した涙を合図に、彼はうなだれて
スヒョンに手首を掴まれたまま小さな声で口を開いた
ヒョンジュのオーディションに落ちてから事務所とうまくいかず
自棄になり自分で仕事を調達しようとして、思いあまったと

「ヒョンジュ役は…期待されてたんだ…ものすごく…事務所初の映画だって…だから…」

俯いて涙を零す青年の拘束を解いたスヒョンの目は
いつものような優しいものに戻っていた

「ヒョンジュはシン監督が作品のことだけを考えて決めた…他には何もない
 信じるかどうかは君に任せるけど…それだけは嘘じゃない」
「…」

青年の涙は止まらない
先ほど凄んでいた影はもうなく、スヒョンの顔を見つづけながら
唇を震わせて子供のように泣いていた

「そんな事務所はできるだけ早く辞めてやり直せないかな」
「…」
「君には華がある、その証拠に僕も彼もちゃんと憶えてたでしょ?
 きっと違う方法がある…今日の勇気があるなら、何だってできる」

ミンチョルは椅子の背に手を掛け立ったまま、その様子を眺めていた

スヒョンの中で次第に小鳥のようにおとなしくなる青年
自分は…
こんな若者の夢を踏み台にして、この仕事をやっているのか
そういう世界は嫌というほど経験してきたが
コマを動かしはしても、自分が渦中にいることはなかった

青年の微かな嗚咽に心苦しさを感じながら
かける言葉も浮かばない

「今日のことは僕たちは誰に言うつもりもないから、安心して」
「え…」
「そしてね…事務所を出てシン監督のところに連絡しなさい、話を通しておくから
 勿論それが即うまい話になるわけじゃないけど、きっと今よりはずっといい」

青年の目に初めて彼らしい光が灯る

こくりと素直に頷く彼は、その言葉を聞きながら
先ほどからミンチョルの表情を追っていた
目の前のスヒョンの身体で直接は見えないが、横の鏡に写っている

静かにスヒョンの背中を見つめる眼差し
憂いを含みながらもすべてを任せているようなその立ち姿は
たおやかに伸びる、カラーの白い花束を思い起こさせる

ヒョンジュだ…そう感じた

「いいね?」
「…は…い」
「じゃ、僕たちは仕事に戻るから」

青年はミンチョルをまともに見ることができぬまま
手で涙を拭って小さく頭を下げた

「それから、これ管理室に返してくれる?」

眉を上げて微笑み、その部屋の鍵を自分の手に落としたスヒョンは
あのテストの日、必ず共演したいと思った存在感のある美しい男

部屋を出る青年が振り返れば
並んで自分を見つめる彼らは、やはり”あのふたり”のような気がして
彼は、深い敗北感に押されてドアを閉めた
それはしかし、決して後味の悪いものではなかった



傍らのスヒョンが、聞き取れぬほどの小さなため息をついた
彼はいつもこうだ
そうして、ひとのためにため息さえ殺す

「スヒョン…」
「大丈夫、悪い子じゃない…ちゃんと話を通してやろう」
「すまない」
「何でおまえが謝るの…おまえこそ大丈夫?」
「少し…参った…」
「…」
「過去の話には我ながら酷い拒否反応だ…」
「気にすることじゃない」

ミンチョルは暫く床を見つめて、鏡の破片に写る天井の蛍光灯を見ていた
それを拾おうと腕を伸ばしかけたが
スヒョンにその手首を掴まれ、向き合わされる形となった

「僕に…」
「ん?」
「彼の夢を台無しにするほどの価値が、僕にあるのか」
「それは周りが決めることだ」
「何で僕なんだ」
「…」
「何でこんな僕がヒョンジュなんだ」
「ミンチョル」
「ここまで来てまだ何もわかっていない、ヒョンジュがどんな役なのかも」

言葉は、唇に置かれたスヒョンの指先に遮断された

「ヒョンジュはジンに愛される役、それだけだ」
「…」
「わかる?」

片手を背中に回され、もう片方手の指が頬に触れれば背中が波立つ
その指は繊細なワイングラスを愛でるように優しく滑る

「監督が、作品のために僕とおまえを選んだ、それ以外何もない」

ミンチョルにスヒョンの気持ちを読む術があったなら
不揃いに絡み合った複雑な想いを受け止め
同時に琥珀の目の哀しそうな理由も理解できただろうか

鼻の先が触れ、唇がミンチョルの唇に微かに触れる
思わず背けようとしたミンチョルだったが
追われて何度も小さく吸われるうちに頭がじんわりと痺れる
自分たちだけに聞こえる小さな音

それ以上入ってこないキスに
じれったささえ感じさせられたままスヒョンの唇は離れて
半ば開きかけた唇が行き場を失う

「他には?」
「…」
「さっきスタジオで何を考えてた?」
「…」
「ジンはヒョンジュに何を求めたのか?」
「…」
「精神的な愛情に満たされてたんじゃないか
 だからヒョンジュを抱かなかったんじゃないのかって?」
「…」

口にしなくても、その目が答えている
この男は…
どうしてこうも邪気なく僕を煽るのだろう

「だから今日のシーンは必要ない?」
「え…」
「監督に進言してみようか」
「いや、そういう…」

一度離れかけたスヒョンの腕を捕まえようとした瞬間
ミンチョルは抱きしめられ唇を覆われた

勢いで後ずさったミンチョルの背中が壁に当たった
どちらかの靴が先ほどの破片を踏み
そのキチリという音がやけに大きく聞こえた

ようやく唇を離したスヒョンは
片手で相手の顎を捕らえて、静かにねめつける

「精神的な愛情?」
「ス…」
「それで満足?」
「…」
「そんな男がこの世のどこにいるの?」
「スヒョ…」

口は再び塞がれた


(替え歌) 「アゲハ蝶」 ロージーさん

砂漠が見せる幻のように
ユラリ揺れるアゲハ蝶
夢の中に浮かぶ月の下
情熱を隠すレッド 憂いで染めたブルーに
世の果てに似ている漆黒の羽

旅人に尋ねてみた どこまで行くのかといつになれば終えるのかと
旅人は答えた 終わりなどはないさ終わらせることはできるけど

引き止める言葉も無く見送ったのもこんな季節
ここに未だ還らない
彼が僕自身だと気づいていた
ほんとうは始めから

おまえに逢えたそれだけでよかった
世界は色を灯した
夢で逢えるだけでよかったのに
愛されたいと願ってしまった
世界が表情を変えた
世の果てでは空と海が交じる

詩人がたったひとひらの言の葉に込めた意味は風に散らされても
そう カケラになっていつの日かおまえに届けばいいと思う

魅せられて彷徨へば羽は残酷に煌いて
手をのばせば消えてしまうだろう
漆黒の闇に行き暮れる僕を残して

おまえを守るためにこの身など
いつでも差し出していい
降り注ぐ火の粉の盾になろう
ただそこに一握り残った僕の想いを
すくい上げて心の隅において

おまえに逢えたそれだけでよかった
世界は色を灯した
夢で逢えるだけでよかったのに
愛されたいと願ってしまった
世界が表情を変えた
世の果てでは空と海が交じる

砂漠に咲いたアゲハ蝶
揺らぐその景色の向こう
近づくことはできないオアシス
冷たい水をください
できたら愛してください
僕の肩で羽を休めておくれ

(ポルノグラフィティ『 アゲハ蝶 』) 


ごさいじ・たびのきろく あらしのゆくえ 3  ぴかろん

*****

2人が抱き合っていました。ショックでした。僕はヨンナムさんがチョンエのものになるのがイヤだと思っています
それは僕がまだ、ヨンナムさんを好きだからなのでしょう。でも僕にはテジュンがいます。テジュンは僕のこの不安定な気持ちを落ち着かせてくれます
僕にとってテジュンは神様のような存在です。大切にしなくてはと思います
もう少しスケベさを控えてくれたら…すなわち、ヨンナムさんぐらいのお色気だったら…僕はテジュンに夢中ですのに…

そんな事を考えると、泣いている最中でも可笑しくなります
やっぱり僕にはテジュンが必要です
そう。別れた時、どんなに辛かったか…
にゃのに僕はろーしてこう気が多いのれしょう(;_;)
ダメです!しっかりしなくては!僕が運転しなきゃいけないのに!
今何時ですか?ええっ?もう12時近いではありませんか(@_@;)
ぐずぐず泣いていてこんなに時間を使ってしまいました!いけません!

2人も時間が気になったのでしょう、僕の方に近づいてきました
れもヨンナムさんは怒っているのかそっぽ向いています(;_;)

「ぼうしゅっばづじないどひごうぎのれだい」

(@_@;)
いけませんっ!鼻が詰まって何を言っているのかわからないではありませんかっ!
チョンエがケラケラ笑いながら近づいてきました(@_@;)
来るなっ!きいっ!

「あははは、何て言った?『棒出罰寺内土、非合議乗れ台』?あははは」
「うるざいっ(;_;)ばがにじゅるなっ」
「…あーあ。幻滅ぅ…」
「なにが(;_;)」
「私の好きだったイナは硬派でかっこよかったのに…はぁぁ…何よこのガキンチョ」
「うるざいっ(;_;)」
「ハルラ山越えていくの?」
「へ?」
「5.16道路なら、まっすぐ済州市に帰れるけど、傾斜とカーブが多い。しかも急。だからま、休み休みで2時間見といたほうがいい
12番道路は海岸沿い走って…アンタの運転だと2時間弱かな。他にもルートはあるけどねぇ…説明しても…アンタわかるかなぁ」
「むぅ…スピード出せば余裕だろ!」
「無人カメラに注意しないと…。スピード違反チェックされるのよ。制限速度は市内50キロ、2車線道路では60キロ、4車線道路では80キロって厳重にチェックされるんだから!それも覚えてないの?」
「…ぐしゅっ…」
「ま、 12番道路 ならほぼ80キロ制限だから大丈夫だと思うけど、気をつけて運転してってね。チスアッパに電話しとくわ。適当に土産物見繕っといてって。それからレンタカーの返却と空港に送ること、頼んどいたげる」
「…あでぃがど…」
「ぷ」
「なんら!」
「お礼言うとこが律儀だわぁ(>▽<)可愛いっ。ちゅっ」
「げ」

チョンエは得意の電光石火チュウを決め、るんるんしながらヨンナムさんの方に行きました

僕は立ち上がって駐車場に向かいました
チョンエは、オッパァ~、行くわよぉと大声で叫び、僕のあとに続きます
ヨンナムさんを待ってあげればいいのに!
僕は立ち止まり、ちっとだけ後ろを振り向きました
チョンエがニヤっと笑います
俯いたヨンナムさんが少し離れてついてきます
ホッとして前を向き、駐車場に向かいます
チョンエはヨンナムさんを呼び寄せ、一緒に来るようです
勝手にすればいい!(;_;)

ああ…怒ってはいけません
こういうところがダメなんですね…はぁぁ…

先に車に乗り、2人を待ちました
20mぐらい離れたところで、チョンエはヨンナムさんの腕を引っ張って立ち止まりました
何か喋っています
そして、二言三言言葉を交わした後、ヨンナムさんに電光石火チュウをしました…

ヨンナムさんは驚いたでしょう…固まっています
チョンエはコロコロ笑っています
ヨンナムさんの腕を叩いて車を指さしています
ヨンナムさんは…

チョンエにキスしました…
チョンエに…
マジなキスをしました…

怒ってはいけません…
怒っては…泣いては…いけません…
ヨンナムさんの気持ちはヨンナムさんのものなんだから…

「…ふぇ…」

情けない声が漏れてしまいます
もうどうでもいいから
僕に見せ付けないでください…お願いです…

*****

チョンエさんに呼ばれて僕は俯きながら歩いて行った
もう出発した方がいいわ、海岸沿いを走って行けば、イナの行きたがってたソプチコジと城山日出峰の近くを通るからさ…
内陸の道路走ればもう少し時間短縮できるんだけどなぁ…ねぇ、聞いてる?オッパ?

「聞いてるよ」
「…オッパ…」
「なに」
「私のこと、好き?」
「…好きだよ」
「じゃ、キスして」
「え?」
「オッパからキスしてよ」
「…なんで…」
「私のこと、好きなんでしょ?」

面食らった。好きは好きだけど…

「…そういう『好き』じゃ…ないよ…。第一、チョンエは僕をどう思ってるのさ」
「好きよ」
「どういう『好き』?男として好き?」
「うーん…」
「友達として…だろ?僕も」
「人として」
「え?」
「人として、好き」
「…」
「それと私キスも好きなの」
「…」
「だから、オッパからキスしてよ」
「…は…。そんな…」

そんな理由でキスするなんて…

笑って背けた顔を引き戻され、僕はチョンエさんに唇を奪われた

「いひっ。やったあ!ほんとはオッパからしてほしかったのにな~。さ、イナがイジイジしてるから、早く行こうよ、こっち見て泣きそうだもん。ほら」

僕の腕を叩いて引っ張る彼女を捉まえ、僕は唇を求めた

柔らかくて小さい唇が
ただ軽く触れただけなのに
僕の心臓はドクンドクンと波打ち
その唇をもう一度味わいたいと切望した

柔らかな唇を割って
僕は舌を滑り込ませる
僕も彼女もお互いの目を見ている
素早く上下する長い睫毛
長い髪
細い手足
華奢な体

抱きたい

思った瞬間彼女の瞳が透明になった

唇を離し自分の衝動に驚いた
唾を呑み込んで言い訳を考えた
何か言わなくちゃと戸惑っていると
よく通る澄んだ声がその場を翻した

「見たか」
「…。え…」
「ふふん。どうだ!」
「…。え…」

微笑んで腕を引く彼女に、慌ててごめんと呟く
彼女は振り返って言った

「女を感じたか!」
「…え…」
「感じた?」
「…あ…うん…。その…久しぶりだったから…」
「え?キスが?」
「うん…女性とのキスは…」
「…。あーそぉ!」

答えが悪かったのだろうか、彼女は頬を膨らませてぐいぐい僕の腕を引き、イナが哀しげな目で乗り込んでいる車の助手席に座らせた

「あれ?ナビついてるじゃない!なぁんだぁ。じゃ、もうちょっと早く帰れるルートがあるわ。オッパ、ここまで行ったらこうきてこう…。聞いてる?」
「え?あ…ああ…」

あの一瞬女を感じたのに…
窓の外から体半分を車に突っ込んでナビを操作し、帰り道のルートを説明する彼女は、もう、女を飛ばしている…

「ふ…」
「ん?」
「不思議な人だね、チョンエって」
「それはどうもありがと。でね、こう行ってこう行けば…、聞いてる?!イナも聞いてよね!」
「…あい…」
「…あんた、ヤキモチ妬いたでしょ」
「…」
「いいじゃんか!ちょっとぐらいキスしたって!あんたのモノじゃないでしょ?!」
「ぢょんえのぶぁが!」

チョンエさんとイナの会話…というか喧嘩は、男の子同士の言い争いみたいだ
僕は大体のルートを把握できたけど、イナは口に手をあてて、頭上に『?』を浮べている
チョンエさんは体を外に出し、にっこりと微笑んだ

「じゃ、気をつけてね」
「いろいろありがとう」
「あ!」
「ん?」
「イナ、ちょっと」
「あんだよ」
「私もう一度オッパにキスするけどいい?」
「「えっ(@_@;)」」
「いいでしょ?」
「…どうぞ…ご勝手に…」

ふてたように呟いて、イナは目を閉じた
僕の心臓は再びドクンドクンと波打った

「なんだよ…改まって…」
「またね、オッパ」

そう言ってチョンエさんは僕の唇にしっとりとキスをした
これは、これはただの『友達のキス』なんだ…
言い聞かせている僕の唇に彼女の舌が触れた
甘い痺れが僕の体に流れ、僕は夢中でくちづけをした
そっと離された唇が僕を制する
これ以上追ってはいけない…

イナに合図しようと運転席を見ると、イナは手の指を全部逸らした状態で、目に押し当てていた
あんまり可愛らしくて可笑しくて、僕はそっとチョンエさんに教えてあげた
助手席の窓にもう一度頭を突っ込んで中を覗いた彼女は、首を竦めて微笑んだ
その頭を引き寄せて僕はもう一度彼女の唇を吸った
…ん…
小さな声が漏れた

抱きたい

また強くそう思った
その瞬間、彼女は僕の頬をぎゅっと抓った

「でぇぇぇっ!」
「すけべじじい!イナ!この手の顔はみんなスケベジジイね!」
「なっ」
「…ん?終わった?」
「終わった。出発しなよ」
「うん。チョンエ、元気でね」

イナは平然と答えた
…見てなかったから妬かなかったってこと?
なんて単純…

「イナも元気でね。それと、テス君によろしくね」
「あ…チョンエ」
「なによ!早くいきなよ」
「…今日はごめんね…俺、態度悪くて…」
「…。んもーっ。やっぱりイナは可愛いっ(>▽<)」
「…あ…の…チョンエさ…」
「すけべじじいに用はないわ!じゃあね!」
「…ち…」
「じゃあ、ありがと、チョンエ」
「バイバーイ」

ブロロロォォォ…

え?ええ?
あんなにムーディーなキッスをしたのに…
え?こんなお別れってないんじゃないの?

イナは車を発進させてしまった。止めさせるべきなのだろうか?ああ…(@_@;)何がなんだか…ああ…

「ヨンナムさん」
「え?は?」
「…チョンエ、照れ屋だからさ」
「…」
「照れ屋なんだよ、あいつ」

イナの言葉の意味を理解して、僕は慌てて窓から首を出した
チョンエさんの名前を大声で呼んで手を振った
ありがとう、また会おう、マッサージ教えろよ、今度は抱いてやる
つい、そんな事まで叫んでしまった

おおばかどすけべじじい~またね~

チョンエさんの声が聞こえた
彼女の姿が見えなくなるまで手を振った

ちゃんと座ってウインドウを閉めると、イナが「抱くつもりなのかっ?!(;_;)」と涙目で怒鳴った
いや、その、久しぶりに女性に触れたからその…いろいろとその…

「ヨンナムさんのぶぁが!」

イナはぶんむくれて暫く口を聞いてくれなかった


※12番道路=一周道路
済州観光地図、ご参照くださいm(__)m



仕事 オリーさん

「お久しぶりです」
「こちらこそご無沙汰してます」
「調子はどうです?」
「調子?」
「映画ですよ」
「ああ・・まあ何とかやってます」
「またまた、公開が楽しみだなあ」
「勘弁してください」

「ふふ、ところでね、あれ評判いいですよ」
「あれ?」
「やだなあ、CMですよ。オンエア始まりましたけど、反応いいです」
「そうですか?実は僕はまだ見てなくて」
「困りますねえ、そんなことじゃあ」
「すみません」
「冗談ですよ、お忙しいんでしょ」
「申しわけない」
「クライエントも満足してます」
「よかった」

「先日本国の社長が突然やってきましてね」
「ああ、そう言えば撮影現場にも来てました」
「でしょ?その後こちらにちょっと寄ったんですよ。
で次のラインもやってみないか、みたいな話が出ました」
「やりましたね」
「結構デカイ仕事ですからね」
「確かに」
「おめでとうございます」
「人ごとみたいな言い方して」
「でも・・」
「これからも協力お願いしますよ。
そっちの業界にツテがあると僕も何かと心強い」
「僕の方はまだ立ち上げたばかりで」
「謙遜はなしで行きましょう。具体的な話になったらまたご相談させてください」
「僕のできることでしたら」

「CMソングから歌手デビューなんてのもいいでしょう?」
「そうですね。異業種でコラボできたら幅が広がる」
「撮影はいつまで?」
「僕の部分はだいぶ進んでますので、あと少し」
「そうですか。そっちも期待してますんで。試写会の招待状待ってます」
「正直、知り合いには照れくさいです」
「あちこちアンテナ張らないといけない仕事ですから、しっかり見せてもらいますよ」
「まいったな」
「ふふ、これでも応援してるつもりですから」
「ありがとうございます」
「じゃあまた」

久しぶりにデスクに座ってすぐ、マッキャンのカンさんから電話があった
まるでこちらの動きが見えているようだ
千里眼か
そう勘ぐりたくなるほど

受話器を置いて前を見ると
トレイの中には決裁待ちの書類が詰まれている
軽くため息が出る
だが久しぶりのカンさんとの会話が
程よいカンフル剤になったようだ
手を伸ばし、書類の束を手に取った

そこへキチャンが入ってきた
手にはもう一束書類を抱えている
「そちらが終わったら、こっちも目を通してくださいね」
にこやかな笑顔で書類をトレイに置いた
「たくさんあるからって、ノーチェックでサインしないでくださいよ」
笑顔が輝いている
書類の山に埋もれた僕を見るのがよほど楽しいらしい

「すべて順調に進んでいるんだろ?」
「もちろん」
「なら決裁なしで進めてくれてもいい」
「それはいけません。最終的な責任は室長が取っていただかないと」
「当然だ」
「なら目を通してサインを」
思わず大きなため息が出た
揺れる前髪の隙間から、キチャンがにっこりと微笑んだ

「室長っ!」
大きな声がして、小さな影が飛び込んできた
「ラブシーンがあるって本当ですかっ!」
「キュソク・・」
「いえ、あの、その、例の映画でラブシーンがあるって・・」
「・・・」
「キュソク、室長は今お忙しいんだ」
「でもラブシーンが・・」
「ラブシーン、ラブシーンてうるさいっ」

「だって、主任が大騒ぎしてて、室長に確かめて来いって」
「主任が?どこからそんなデマを聞いてきたんだ」
「デマ?」
「デマに決まってるだろ。室長は映画に出るけどラブシーンなんかあるわけないだろ」
「そうかあ、言われてみれば室長はド素人ですものね。
ラブシーンなんかできませんよねえ」
「当たり前だ。ですよね、室長?」
「・・・・」

「室長?」
「けほっ。その・・書類は見なくていいのか?」
「いえ、しっかり目を通してください」
「でラブシーンは?」
「キュソクっ!ないって言っただろう」
「お前はな。室長はまだ答えてないもん」
「だからラブシーンはありませんよね?ね、室長?」
「・・・」

「くどいようですが、ラブシーンは?」
「ラブシーンは・・」
「「ラブシーンは??」」
「当然、ある」
「「ぎょぇ!!」」
「当たり前だろう。愛がテーマの映画、すべてラブシーンだ」
「「あ・・」」
「これで納得したかな」
「なるほど、すべてのシーンがラブシーンですね」
「そういうことだ」

「主任というか私が聞きたかったのはですね。その濃厚なヌレバが・・」
「キュソク、いいからもう出て行け」
「だってぇ・・」
「主任には愛の映画だからすべてラブシーンだと答えておけ、いいな」
「何だかはぐらかされたような・・」
「いいから行けっ!室長はお忙しいんだ!」
「はいはい~」

濃厚な濡れ場の撮影は明日あるんだ、
そう答えたら、キチャンとシチュンはどんな顔をするだろう
それよりも
第三者の目にはどう映るのだろう
あの映画は・・
今更ながらとんでもない所へ踏み出したものだ
スヒョンのあの横顔が脳裏をかすめ
どこかで風が吹いたような気がした
思わず首を振り、持っていた書類に目を移した

何とか書類をやっつけ
午後からはHPのチェックに入った
「新しいうちのHP、アクセス数はかなりいいです」
「ソヌさんがだいぶ手を加えてくれたからね」
「わかりやすくてセンスがいいというアンケート結果が出てます」
「なるほど。映画とのリンクは?」
「だいたい準備できてます」
「あの二人の映像は上がってる?」
「ファーストバージョンは出来てます」
「見せてくれ」

ドンジュンとミンの主題歌を紹介するHPは
BHCのHPとだぶっているが
うまく映像処理されている
BHCのメンバーと踊る場面をすべてシルエットにして
時折二人にフラッシュをあててインパクトをつける
バックにメロディだけが流れ
最後にTo you coming soonの文字が浮かび上がりフェイドアウト

「いい出来だ。早速流そう」
「レコーディングの方は?」
「キム先生がアメリカから帰ってきたらすぐ」
「大丈夫ですか?」
「何とかなる。主題歌はネット配信のみだから早めに映画のHPとリンクさせたい」
「了解です。扱うサイトは今交渉中です」
「アップルは必ず落としてくれ」
「感触はいいです」
「必要なら僕が直接交渉に行く」
「来週にはわかります」
「いいだろう」

途中でミンから電話があった
「どうした?」
「仕事は終わりそう?」
「どうかな」
「店には行けそう?」
「たぶん・・」
「怪しいの?イヌ先生怒るよ」
「わかってる。出るよ」
「じゃ、そっちに寄ろうか?」
「今どこにいる?」
「割と近くに」
「用事はすんだのか?」
「うん、終わった」
「じゃあ、こっちに来ればいい」
「わかった」

ミンは今朝僕をミューズに送り届けた後
仕事の話があると言ってどこかへ出かけた
何の仕事なのか聞くのを忘れていたのだが

撮影を見に来たと聞き、少し後ろめたい気持ちになったのは
やはり昨日のあの場面だったからだろうか
それとももっと別の理由からだろうか
それでもヒョンジュになっていると言ってくれたその気持ちが
僕にはありがたかった
そしてミンは今朝もいつもと変わりがなかった・・

「OSTの方はどうなってる?アレンジは上がってきてる?」
「こちらももうすぐですべて出揃います」
「CDのジャケットデザインは?」
「それが今ひとつなんです」
「デザイナーを変えたらどうだ?」
「なかなか候補がいなくて」
「そうだ、マッキャンのカンさんに連絡してみるといい。
あそこに出入りするデザイナーは使えそうだ」
「室長からお願いできませんか」
「わかった。さっき電話をもらったばかりだから
僕から頼んでおこう。場合によったら丸投げしてもいい」
「あそこならできますね」
「ああ」

しばらくするとミンがやってきた
手に大きな紙袋を抱えている
「差し入れだよ。きっと夕食食べる時間ないと思ったから」
「気がきくな」
「当然」
「で、差し入れって?」
「パンだよ」
「パン?」
「Casaの強面に頼んでおいたんだ」
「なるほど」
「焼き立てのもあるよ、いい匂いでしょ。
たくさん買ってきたからみんなで食べようよ」
袋の中から香ばしい香りがただよった
キチャンとキュソクを呼び、主任にコーヒーを頼んだ

「お気に入りのチョコやクリームのパンはないよ。
あれはイナさん特製だからね」
「別にあいつのパンが好きってわけじゃない」
「ふうん。そっか、じゃ僕が食べる」
「あるのか?」
「きゃはっ!ひっかかった」
「・・・」
「室長ってチョコパンが好きだったんですか?」
「意外だなあ」
「あれ、知りませんでした?よだれたらすほど好きなんですよ」
「「へええええ」」
「余計な口をきくな」

コーヒーを持ってきた主任は
ミンのことを穴のあくほど見つめた後で
ようやく差し出されたミンの手を握った
「主任も一緒にどうです?」
僕は固まっている主任に声をかけた
「いえ、私は・・その・・」

「このベーグルのサンドイッチ、美味しいですよ」
ミンもにこやかに笑って誘った
「ええ、ええ・・それはそうなんですけど・・」
主任はそう言いながらじりじりと後ずさりして
最後にきゃっと悲鳴を上げて出て行ってしまった

「僕、何か悪いこと言った?」
「別に」
「気にしなくていいです。主任のことは」
「そうそう」
「ほんとに?」
「いいから」
「そうそう」
「そうなの?」
「主任は新たなライバルの出現で衝撃を受けてるとこだから」
「しばらくほっといてあげた方がいいんですよ」
「ライバル?」
「ライバル!」
「僕が?」
「そうそう」
「・・・」

「ところで室長何となくすっきりしましたね」
「すっきり?」
「そう肉が落ちたって言うか」
「くくっ」
「ミン、何がおかしい」
「別に」
「顔が締まったっていうか。な、そう思わない?」
「そう言えば、スリムになったような・・」
「だろだろ?」
「けほっ、若い役どころなので少し落としたんだ、肉をな」
「やっぱりっ!痩せましたよね、ね?」
「キュソクっ痩せたとはっきり言っちゃ失礼だろう」
「くはっ」
「ミン、何がおかしい」
「別に」
「いや、そのあの、室長、体型がどうでもカッコいいから」
「キュソクっフォローになってないっ」
「そっちこそよけいフォローになってないっ」
「くはっ」
「ミン、何がおかしい」
「別に」
「・・・」
「皆さん、食べましょう」
「「「はい」」」

それからしばらく打ち合わせをして
ミンはその間、ソファで何か資料を読んで待っていた
主任がコーヒーのカップを下げにきた時には
ミンは丁寧にご馳走様でしたと挨拶をしていて
再び主任は固まってしまったのだが・・

そして何とか店に間に合う時間に仕事を切り上げた

「大丈夫?店で倒れたりしないでよ」
「大丈夫だ」
「ならいいけど」
「それよりキム先生が帰国したらレコーディングだから」
「いいのかな」
「何が?」
「先生には叱られっぱなしなんだけど」
「僕はそう聞いてない」
「え?」
「結構サマになってきたと言ってたけど」
「ほんとに?」
「あの人に褒められた歌手はいないよ」
「そうなんだ・・」
「心配ない」
「うん・・」
「ところで今日は何の仕事?」
「ちょっと先輩とね」
「また翻訳か?」
「そんなとこ」
「そうか。そうだ、さっきのパン美味しかった、ありがとう」
「美味しかったね。あの人がパン作ってるってのが僕には新鮮な驚きだけど」
「あの強面さんか?」
「相変わらずぶっきら棒だったなあ。客商売大丈夫かな」
「その当たりはテス君がフォローするだろ」
「そうだね。今日もおまけしてくれたのはテス君だった」

僕とミンはそんな話をしながら店に出た
ミンを一緒に店に行くのは随分久しぶりのような気がした

それがかけがえのない愛しい時間であったのだと、
僕は後になって思い知った・・







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