ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 280

細長い闇7  あしばんさん

目を開けても、そこがどこなのか暫くわからなかった

身体を包んでいる大きなベッドから見回せば
四角い空間の隅に、若干明るい間口が見える
閉め切ったカーテンの隙間は暗く
まだ夜明けでないことを示している

そうだ…ホテル…
ドンジュンはようやく思い出して上体を起こした

バスローブのまま眠ってしまった気だるい身体には
違和感こそないが、まだスヒョンの熱が残っている
内にも外にも



撮影所からホテルに到着するまで
タクシーの中でも、どちらも口をきかなかった
ほとんどひと気のないロビーを横切る時も、エレベーターでも
ドンジュンの手は先をゆく男に取られたままだった

この部屋に入るまでに散々迷ったのだ
ここで、ワインを飲み、シャワーを浴び
じゃぁお休みと言ってベッドに入って眠るわけでないのは
お子様でない限りわかるというものだ

そうなることが嫌なわけではない
成人男子として当然の欲求を
撮影のためという理由でずっと我慢してきたのだから

しかし、逆に、自由にならないことに救われもした
他に向いている心に抱かれることに、耐えられるのだろうかと
それでも繋がることに意味があるのかと
堂々巡りの答えを出すには、まだまだ時間が欲しいほどだ

「何考えてる」

耳の後ろに低い声がした

部屋に入るなり
スヒョンは、それまで握っていた手に尚力を込めて
リビングを通り抜け、相手を奥の寝室に連れて行く
段差もないのに、ドアを抜ける瞬間によろめきそうになったドンジュンは
抱きとめられ、そのまま背中から抱きしめられた

「何って…何も…」
「嫌か?」
「…」
「嫌かと聞…」
「読めるんでしょ?」
「…」
「それでも抱きたい?」

言い終わるか終わらぬうちに
身体は半回転させられ、相手もろともベッドに倒れ込む
クリーニングされた清潔な匂いに包まれると同時に
スヒョンの四肢に組み敷かれたのは
部屋に入ってほんの数十秒後の出来事だ

真下から見つめる黒い目を凝視していた男は
微笑んだように唇の端を上げてから口を開いた

「おまえ、また身代わりだとか思ってるんだろう」
「思ってる」
「言っておくが、僕はおまえを一度だってそんな目で見たことはない」
「今まではね」
「今もだ」
「嘘ばっか」
「どこが」
「まだジンなんでしょ?ヒョンジュを抱けなかったジンなんでしょ?」

スヒョンの視線が、一瞬彷徨う
最近の状況で、この、ひと一倍負けず嫌いの恋人が
自分を無駄に煽ってくるだろうことはわかっていたが
いきなりど真ん中に入ってくるとは、予想していなかった

「撮影は終わっても終わってないんでしょ」
「…」
「抱きしめても抱きしめても消えちゃうから
 ジンみたいに誰かの身体で満たされたいって思うんでしょ」
「…」
「だから嫌いだ、あのシーン、絶対に嫌いだ」

また、言わなくていいことまで言っている
さっきモニターを見ていた時には、スルーできたはずなのに

「ドンジュン」
「だから、ヒョンジュのやつは馬鹿だって言うんだよ
 男ひとりをこんなにして行っちゃうなんて馬鹿野郎だって言うんだよ」
「…」
「ジンだって大馬鹿野郎だ、結局臆病なだけじゃない
 荷物全部おっ放り出して飛んで帰ってきたギスの方が、ずっとマシだ」
「…何?」
「わかれよ鈍感!」

湧き上がりそうになる涙を堪える分だけ声が大きくなる

どうして、この男の前ではこうもめちゃくちゃになるのか
ひとりでいれば、すべてクリアになっているのに
レコーディングでも、店でも何とかうまくやってきたというのに
必死に積み上げてきたものが、台無しになる
これだから子供扱いされるのだ

「こっちだって溜まってるんだから、ちょうどいいじゃん」
「そういう言い方は…」
「抱けよ!わかっててついて来たんだから!」
「ドンジュン」
「抱けってば!」

こんな時、自分の暴言を怒鳴りつけるような相手だったら
どれほど楽だろうかと、ドンジュンは思う
いつだって、ぶちまけただけの大きさの穴をそっくり用意して
全部を呑み込んでしまうのだ
悪かったと言われれば、倍も寂しい

しかし、その日はいつもと違った
スヒョンはその場に膝をつき
直ぐ下の、多少混乱している男を凝視したまま
自らの両手首のシャツのボタンをゆっくりと外した

「何をわかってついて来たって?」

いつになく険しい目に気圧されて、ベッドをずり降りようとした瞬間
ドンジュンは動きを封じられた
再び肩口を押さえられ
中途半端に落ちそうになった足は絡められている

「ジンだの、ヒョンジュだのって誤摩化すな」
「誤摩化し…」
「おまえが言いたいのはミンチョルのことだろ?」

ドンジュンの吸った息が小さく鳴った
スヒョンの口からその名が出るとは思わなかった

「聞きたいなら教えてやる、ヒョンジュを愛して溺れる日々に
 ミンチョルを重ね合わせて苦しいだろうと言われれば、その通りだ
 その先に行けないジンの苦しみが理解できるだろうと問われれば、その通りだ」
「…」
「撮影とはいえ、抱き合えば理性のどこかがぶっ飛ぶ
 どこまでが演技なのかそうでないのか、自分でさえわからなくなる
 お陰で、素晴らしい出来だと監督には随分褒められた」

ドンジュンは目を閉じて顔を背けた

知っている、そんなことは「知って」いることなのだ
この男の口から、この声で聞くのはやはり辛い
しかし、煽った自分の目的はこれだったのかとも思う

「あいつを抱きたいと思う気持ちを自制したのは、1回や2回じゃない
 それは祭の夜から何も変わっちゃいない」
「…」
「でも、おまえと一緒にしたことは一度だってない、一度だってだ!」

顎を掴まれて顔を上げられれば、真上の顔を睨みつける
涙を堪えるために、今度は唇を噛んだ

「レコーディングだと聞いて今日1日苛ついたのは
 おまえがどんな気持ちかと想像せずにはいられなかったからだ」
「…」
「多情で根性なしの哀れな男だと思いたいなら思え
 しかしもう一度言うが、おまえを何かの身代わりにしたことなど断じてない」
「…」
「嘘だと思うかどうかはおまえの自由だ」
「ス…」

反論の言葉を考える前に唇が塞がれた
初めから息もできぬほどのくちづけだった

少しばかり抵抗の意志を表した両腕も
この疲れ切っているはずの年上の男の
どこに残っていたのかと思うほど力で抱きしめられ封じられる

所詮、そんな抵抗も全力ではない

完全な拒絶をして、尚自分に引き止められる自信など
どこを探してもありはしないのだ
それどころか、この底のない海のような男が
相手を傷つけることを避けて、自分の中のすべてを塗り替え
身を引いてしまうことだってあり得るのだと思えば、それこそが恐ろしい
おそらく…いや間違いなく
この黒髪の男は、そういうことができる男なのだ

結局、自分はこの男が自分を想うよりも
余計に想ってしまっているのだと思い知らされる


忘れかけていた巧みな動きにきっかけを与えられれば
若い身体は素直に反応する
どれほど客観的に見ようと思っていても
一度小さな火が点いた身体は歯止めが利かなくなる

久しぶりに開いた身体は堅く
その男を受け入れるまでに長い時間を要した
それでも痛みすら覚えないのは、相手の経験の深さだろう


しかし、スヒョンもまた、らしくもなく昂っていた

言われた通りだ
ヒョンジュを抱けなかったジンを引きずっている
物語は物語で終わらずに
細く長く暗く自分の中へと繋がっているのだ

仕事を始めた時に覚悟はしていたものの
この愛おしい相手をこれほど苦しませるつもりはなかった
しかし、先ほど口から出た言葉に偽りはない
手を伸ばせば触れられるドンジュンを
身代わりだと思えるなら、それこそどれほど楽だろうか

目を開けて、どきりとした

ドンジュンが白いシーツに顔を埋めて泣いているように見える
動きを止めて耳元に「苦しいのか」と聞いても首を横に振る

身体を引き相手をこちら向きにさせると、再び自分を深く沈めた
ドンジュンの声が長く尾を引く
顔を覆うその手を引きはがし
呼吸のいとまを与えぬほどのくちづけをする

この時だけは何も考えさせたくはない
誰の代わりでもないのだと
何千の言葉を使ったところで意味のないことだろう

これ以上ないほどに密着をした身体は
嫉妬のように熱く
諦めのように冷たい

弓のように背を反らしたドンジュンの息が
一瞬止まったのを確認して
スヒョンは、その腕に最後の力を込めた


一緒に、ゆっくりと風呂につかり
バスローブのままベッドに転がったところまでは覚えていたが
濃い睡魔に襲われたドンジュンの記憶はそこで途切れていた
ただ、スヒョンが自分の、まだ濡れた髪を梳いてくれているのだけは
ぼんやりと感じていたのだが

喉の乾きに目が覚めると
ベッドの上には自分ひとりだった

リビングに続くドアは開けたままになっていたが
その輪郭がはっきりしなかったのは
ふたつの部屋の明るさがさほど違わなかったからだろう
そっと覗くと、中央にソファが置かれたその部屋は
いくつかのダウンライトと
サイドテーブルに置かれたスタンドの灯りだけに浮かび上がっている

一番長い革のソファに足を組んで深く座るスヒョンは
自分と同じローブを羽織っていた

いつの間にか届けられていたらしい白ワインのボトルは
ガラス製のクーラーに入れられたまま
グラスにつがれた様子はない

向こう側に灯るスタンドの濃い黄色い光に
スヒョンの横顔が浮き上がる
あの時もそうだった
高級フレンチをせがんだ時にうっかり見てしまった
紅い蝋燭の灯りに浮かぶ、虚空の一点を見つめる横顔

いつもゾクリとさせられる
ひとりきりのスヒョン

上質の絨毯は、決して足音などさせはしないが
ドンジュンが2歩ほど足を進めたところで
その、琥珀色の艶やかなシルエットは振り向いた


Linkage2 空港 オリーさん

「どうした?」
「ん?」
「電話か?」
「ちょっとね…」
「今日は疲れただろ」
「うん、疲れた。慣れない事はするもんじゃないね」
「ふふ、いい出来だったと言っただろ」
「あれだけ絞られたんだ、少しはかっこつかないとまずいよね」
「まだましな方だよ」
「そうなの?」
「そうさ。上には上が、下には下がいる」
「ひどい言い方だね」

彼はいたずらっ子のようにふっと笑った
一日の終わり
二人でベッドに入り静かに幕がおりていく

「明日なんだが」
「何?」
「CDジャケットのデザインが上がってくる。一緒に見てくれないか」
「明日はちょっとだめなんだ。先輩に会う約束があって」
「そうか。なら仕方ないな」
「ごめん」
「いや、気にしなくていい」
「CDジャケットなんて、ぴんとこないな。僕たちのCDだなんて…」
「お前たちは表には出さないで、映画のイメージを優先させるつもりだ」
「それは正解だよ。僕たちの顔がどどんと載ったら恥ずかしくて」
「そうか?案外いけるかもしれないぞ」
「やめてよね」
「わかってる。心配するな」
「うん」

彼の横顔を見ているだけで
僕は胸が一杯になる
この人がいなくなったら
僕はどうなってしまうのだろう

そして
だから
あの手紙にしたためられた愛を理解できる
あの人から先生に宛てたあの手紙の…

手を伸ばしたくても伸ばせない
触れたくても触れることは叶わない
それでも想いは断ち切れない

いつか
いつか…その日が来る
この想いをわかってもらえるその日が
たとえそれを見届けることができなくても

いつか
いつか…触れることができる
願っても願っても触れることができなかったその心に
たとえそれを自ら確かめることができなくても


目を閉じている彼の横顔の輪郭が少しぼやけた
僕は彼に背を向けて
唇を噛んで涙をこらえた

泣くな

僕が泣いても何もならない
ロジャースさんの言ったとおり
僕には何も変えることはできない…

先生…


突然
彼が後ろから僕の肩に顔を寄せた

「ミン…」
「え…」
「どうかしたのか?」
「別に」
「ならいい…ミン?」
「何?」
「すまなかった」
「え?」
「色々無理を言ってすまなかった」
「レコーディングのこと?」
「それもある。とにかく色々だ」
「別に…気にしなくていいよ」
「そうか…その…」
「何?」
「ありがとう」

僕はこらえきれず振り返り
彼の胸に顔を埋めた
そして涙があふれそうになるのをこらえて言った
「今日は疲れたね。よく眠れそうだよ」
彼は僕の髪に唇を寄せておやすみと囁いた

ああ
僕は温もりに包まれて
僕は満たされて
僕は幸せで…

ごめんなさい
ごめんなさい


そこまで思い出した時、
窓の向こうで日を受けてキラキラと輝く白い物体が動き始めた
そうか、空港にいたんだ…
空を飛びたくてどうしようもなかった
そんな日々があった
これから僕は
どこへ飛んでゆくのだろう

僕は冷めかけたコーヒーを口に運び、一口飲みこんだ
その時、頭の上から声がした
「待たせたかな」
見上げると先生が立っていた


「ミン君…」
「夜分にすみません」
「いや、大丈夫だ」
「あの・・・大学のこと聞きました」
「ロジャース君か?」
「ええ。とんでもないことになってしまって」
「いいんだ」
「よくはありません。誤解をときましょう」
「いや、その必要はない」
「でも…」
「心配してくれてありがとう。だがその事はもういい」
「先生…」
「これから忙しくなりそうなんだ。だから…」
「でも一度、明日にでもお会いできませんか?」

「明日はちょっと出かける予定があってね」
「どちらへ?」
「ドイツだ」
「ドイツ?それはまた…」
「友人から呼ばれてね、急きょ決めた」
「だったら…何時のフライトですか?空港までお送りします」
「いや、いい」
「先生…」
「見送りはいらない」
「でも…」
「そうだな、じゃあ空港でちょっと話そうか」

電話の向こうの君がどんな顔をしているか
手に取るようにわかった
心配をかけてしまった
私としたことが
そのことにまで思い到らなかった

一度君には話しておいた方がいいだろう
今私には大学よりも気にかかることができた
だから、クビになったことは気にしなくていいと
だが、今回はこちらの事は嗅ぎまわられたくない
いずれそうなるとしても
どこまで君に話したものだろう
君と君の兄さんと、ロジャース君は
どこまでつながっているのだろうか

昨夜の電話からそこまで思い出した時、
滑走路が見渡せるラウンジの窓際に
君を見つけた
全面ガラス張りの窓の際で
差し込む秋の黄金色の陽射の中に
君はいた


「考えたんですけど、やはりこのままではいけません」
君は私が席につくなり
思いつめた表情で言った
「彼には予告されていたんだ」
「え?」
「いつだったか何枚か写真を見せられてね」
「脅されたんですね?だったらなおさら…」
「私がほおっておいた」
「僕が何とか…」
私は片手をあげて君を遮った
「もう済んだことだ。私も、少し休みたいところだったからちょうどよかった。
学生には中途半端になってしまって申し訳なかったが」

私の言葉に、君はちょっと戸惑った風情で聞いた
「何か予定でも?」
「まあ古い友人を訪ねたりして、少しのんびりするよ」
「それでいいんですか?」
「人生、時には立ち止まって休んでもいいだろう。
今後君にも迷惑がかかるとしたら問題だが…たぶんそれはないだろう」
「僕の事はいいんです。でも…」

「この話はこれで終わりだ。それより、最近はどうかね?」
「え?」
「映画の主題歌を歌うとかいう話は?」
「昨日、レコーディングをしました」
「ほお…売れそうかな?」
「どうでしょう。正直よくわかりません」
「一枚は確実に売れたよ」
「買ってくれますか?」
「何ならまとめ買いしようか?」
「いえ、いいです。恥ずかしくて」

「完成したら連絡してくれたまえ。メールは通じる」
「ドイツにはいつまで?」
「それがわからないんだ。どういう事になるのか」
「お友達と一緒に仕事をするんですか?」
「いや、そうではない。彼とは畑違いでね。科学者なんだ」
「科学者?」
「マックス・プランクにいる。急に会いたいと言われて」
「ミュンヘンですね」

「それでひとつ頼みがある」
「何でしょう?」
「私がドイツに行った事はロジャース君には知らせないでほしい」
「…」
「もちろん、彼が調べようと思えばあっという間だがね」
君の顔からすっと血の気が引いたような気がした
「わかりました。僕の口からは言いません」
「あまり干渉されたくないんだ」
「はい」
君は少しうつむき加減で小さな声で返事をした
真直ぐな視線を持つ君にしては珍しい

「そろそろ行かなくては」
私がそう言うと君ははじかれたように顔を上げた
「先生」
「ん?」
「僕に…できることがあれば、言ってください。
どんな事でも、僕にできることがあれば」
「わかった。何か思いついたら頼むよ」
「はい、きっと」
君は今度は私を真直ぐに見つめて言った


「気をつけて」
ゲートの入口で君はそう言って
少しわずかに唇を上げて微笑んだ
「ありがとう」
私は君の腕を軽くたたいてから背をむけた
その刹那、微笑んでいた君の顔がわずかに歪んだ

もしかして…
今日の君はどこかいつもと違う
数歩歩いた所で振り返った
君は変わらずその場に立っていた
そして、ぎこちない微笑みを再び浮かべた
もしかして君は…

私はしばし立ち止まり
そして君の立っている場所まで戻った
ゆっくりと君の頬に手をあてて
声に出せない言葉をかけてみる

君はもしかして、あの手紙を読んだのか?

聞いても答えないのはわかっている
君の瞳を覗きこむと
うっすらと膜がかかっているのがわかった
「ニーバーの祈りの言葉を覚えているか?」
私の問いに君はこっくりと頷くとその言葉を唱えた

変えることのできるものについて
 それを変えるだけの勇気を我に与えたまえ
 変えることのできないものについては
 それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
 そして
 変えることのできるものと、
 変えることのできないものとを
 識別できる知恵を与えたまえ

「私は、今ほどその言葉の重さを感じたことはない」
「先生…」

君の瞳の膜がますます膨らんでいくのを見て
思わず君の腕を掴んで抱き寄せた
君の体の温もりが胸のあたりに伝わってきた

「君の事はいつもどこかで見ていたいと思っていた。
だが、私たちはそれぞれの道を行った方がいいだろう」
腕の中の君に囁いた
君は腕の中でわずかに体を震わせた

「時々はこの言葉を思い出してくれたまえ、私の好きな言葉だ、いいね?」
私は腕の中の君を一瞬強く抱きしめ
それから体を離した
後を振り返らず、君の顔も見ず
私はゲートに向かって歩きだした

君が残した胸の温もりは私への最後の贈り物
君は君らしく、何に臆することもなく
顔を上げ前を向いて歩いていってほしい
望むべくは
私とサラのために

どうか元気で幸せに…

離陸までの時間
私は祈りの言葉を何度も心の中で繰り返していた


甘えたいのは… 5・6・7 ぴかろん

*****

バカの背中を見送った
薄暗いフロアにたむろする人達を避けながら
刺すような光の雨の中、白いワイシャツの男が進んで行く

普段はピシリと決めているスーツの上着が、今夜は考えられないぐらい無頓着に扱われている
スツールの短い背もたれにだらりとかけられたそれは、哀れなくらい品格を失っていた
無造作に捲り上げた袖も、外したワイシャツの第一ボタンも、緩められたネクタイもあいつらしくない

こんな振舞いをする奴じゃないのに…

ここに来てアルコールを入れてから、奴はどんどん自分の中に潜り込んでいった
確かにここんとこ、ふわふわしていた
妙に優しかったり物思いに耽ったりはしゃいだり…いつものあいつを『演じて』いるのは感じ取れた
得意な分野がかなりの期間ダメだったってのも、それが急に回復したのも、それから今の状態も、全ての原因は何か解っている
解ってないのはお兄ちゃん、アンタだけだよ

遠ざかって行く白いシャツ
いつもらしくないその姿
俺は…俺はさ…
どんなアンタも好きなんだからね…それも解ってないんだろ?

時折混じるブラックライトに浮かび上がる背中
駆け寄って抱きしめてやりたいけど…まだ俺の出番じゃなさそうだね…悔しいけどさ…

だから俺、目の前の問題を片付けることにするよ、いいだろ?
だけど…
俺は待ってるから
今度ばかりは俺が待っててあげるから…

「はぁ…」

『目の前の問題』が大きな溜息をついた
短くなったタバコを、更に短くする
指が熱くなってようやくテジュンは火を消した
それからまたテキーラのボトルを掴み、立て続けに三杯ほど液体を流し込んだ

「ぜーったい悪酔いするよ」
「…ふ…」
「やめなよ」

またグラスに酒を注ごうとしたその腕を押さえてやった

「酔いたいんだからいいだろ?」
「なんで酔いたいの?」
「…さぁね…」
「イナさんの気持ちが捉まえられないからでしょ?」
「…。気持ちは捉まえてるよ。ただ…」
「ただ、なに?」

テジュンは言葉を飲み込んで、軽く首を傾げた後、眉毛をピクリと動かした
それから急に笑い出して、俺の腕を引き剥がした

「飲ませてくれよ。飲みに来たんだからさ」
「酒で誤魔化すの、良くないよ」
「…。ヤな奴」
「そう?」
「ふ…ふふ…」

俯いて笑い出すテジュンの体をこちらに向けて両手で頬を包んだ
テジュンは目を合わさずに笑い続けている

「なぁ~飲みたいんだよ~酔いたいんだよぉ…今日ぐらいいいだろ?」
「こんな飲み方ダメだよ」
「いいじゃないか、傷心の男っぽくてキュンとこないか?ん?」

テジュンの頭を抱き寄せた
キュンとくるさ
貴方の仕種全てが俺の体と心のあちこちをきゅっと締め付ける
俺の肩に埋められた頭から、うふ…うふふと薄笑いが漏れ出した
俺はテジュンの髪に頬擦りをする
んふふ…うふふふ…んははふふ…
嘲りや憐れみを含んだ空気が押し出される
俺はテジュンの頭と背中をそっと撫でた

「ふ…うふ…ふ…くっ…。…は…」

苦しげな息を漏らした後、テジュンは俺の首にしがみついた
次の瞬間、俺は耳朶のあたりに刺激的な快感を覚えた
テジュンがうなじを強く吸い、それから俺の耳朶を唇で啄ばんだのだ
声が出そうになり、唾を飲み込む

「…我慢しなくていいぜ。好きだろ?ここでこうやって囁かれるの…」

テジュンは俺の耳に熱い息を吹きかけながら呟いた
執拗に俺の耳を甘く噛み舌を這わせている
俺は目を閉じて暫くじっとしていた

「…あれ?こんなとこじゃダメ?ベッドでないと感じない?」
「…誰かさんと間違えてない?」
「ん?」
「俺は『左耳』が弱いの」
「…」
「酔っ払いすぎて忘れちゃったの?それとも最初から覚えてないの?」
「…あは…」

苦笑いする顔が瞼に浮かぶ
クックッと笑いながら俺の頬に唇を滑らせて、俺の唇を捉えようとしている
すんでのところで俺は目を開けた

「誤魔化さなくていいよ」
「え?」
「キスで誤魔化そうなんて、そんな小細工しなくていい」
「…何を…」
「俺にはぶつけていいんだよ、テジュン」
「だから…何を…」

少し離れた唇が語気を強めた
俺はもう一度彼の頭を抱きしめて撫でた

「…何…だよ…」
「貴方のまんまでいればいい…」

この人は泣きたいんだ…これが俺の出番
それじゃとっときの科白を言うよ…
少しでも、貴方の心が軽くなりますように…

「泣いてもいいよ」

耳元に囁いた

ん…ふ…ふふ…

一瞬止まった笑いを、無理矢理動かした後、それは徐々に嗚咽に変わった
何も言わなくていい、貴方の気持ちが鎮まるように、俺にぶつければいい…
俺はテジュンの体をゆっくりと撫でながら囁き続けた
溜息まじりの嗚咽が止み、強張っていた体からふっと力が抜けて、テジュンは俺の肩に頭を乗せた
深呼吸して、そのまま彼の体を擦っていると、僕…と小さな声がした

「僕…あいつの前ではいい男でいたいんだ…
ちっともできやしないけど…ギョンジンみたいにどっしり構えていられたらいいのにって思うけど…
心が広くなったり狭くなったりで情けないんだ…」
「あのバカだって何だか解らないことで揺れまくってるよ。今日、変でしょ?」
「…ギョンジン、何も言わないの?」
「ん。まだまだだ、俺達」
「…そ…じゃ、僕達なんか全然ダメだね」
「ダメじゃないさ。頑張ってるんだもん、テジュンもイナさんも…」そして俺も
「…はぁ…。そか…。ギョンジンでも揺れるんだ…」
「見りゃ解るだろ?おかしいの」
「…だっていつもおかしいから、あいつ」
「…まぁそうだけどさ…」
「…ふ…、そか…」
「何だってそうだろ?揺らぐ時もあれば鎮まる時もある。その繰り返しじゃない、今までだってそうだったでしょ? 」
「…説教しないでくれ…」
「あはは、ごめん」
「…甘い匂いがする…」
「貴方もいい香りがするよ、基本的に」
「…基本的にってどういう意味?」

テジュンは俺の肩から少しだけ顔を上げて言った
俺はその頭を抱え込んでテジュンの耳に囁いた

「テキーラ臭がする…」
「…ぅふっ…」

肩を揺らした後、テジュンは体を緩めて俺に凭れかかった
こんな関わり方ができるなんて、あの、祭からの帰り道には思ってもいなかった
体を交えなくても一つになれるんだと俺は実感した

「気持ちいいね」
「…うん…」
「やっぱり貴方といる方が、一生穏やかな気持ちでいられるのかなぁ…」
「…それはつまり…恋人としてずっと一緒にいるっていうことか?」
「そう。お互いの気持ちを包み隠さず話せて、尚且つ穏やかな気持ちで受け止め合えるの、なんで貴方とならできるんだろう。俺達二人なら、こんな時間を沢山持てる恋人同士になれると思わない?」
「…。思わない」
「そう?」
「…お前とずうっと一緒にいるのに、こんな柔らかいハグだけでなんて我慢できないだろう?」
「…。セクハラオヤジ」
「お前とは恋人同士でいられない。いられないって言うより、『いたくない』な…」
「ぅふん…そうだね、俺もそう思うよ…」
「…もう少しこうしててもいい?」
「勿論、好きなだけくっついてて」

ゆったりと抱き合いながらテジュンの頭と背中を撫でた
遠くに視線をやると、ブラックライトに揺れる白いシャツとその肩から覗く濡れたような瞳が見えた
悔しいけど…こんな状況下におけるその男の『相手役』は、まだ俺には回ってこない
お互い様だね…なんだか不思議な同志に思えるよ、イナさん…
あなたがテジュンを揺らしてるはずなのに、あなたは今穏やかな目をしてる
どういった穏やかさなのか知りたい
諦めなのか悟りなのか…
濡れた瞳が俺を捉えた
俺達は暫くお互いの『塊』を見つめあい、それから合図を送った

*****

「ギョンジン、ちょっと待っててくれる?トイレに行ってくる」
「…」
「ほら、ここに座れよ」

ふらふらと踊っていた俺達のすぐ傍には、幾つかの背の高いスツールと小さなテーブルがあった
その一つにギョンジンを腰降ろさせて、俺は、すぐ帰って来るから待っててねと優しく言った
ギョンジンは俯いたまま頷きもしなかった

足早に化粧室に向かうと、ドアの前の薄暗い廊下の壁にだらりと凭れたラブがいた

「…どう?あのバカ、何か吐いた?」
「…いや…」

ラブもまた、いつもと違う雰囲気を漂わせている
ギョンジンが揺れる分、こっちがしっかりしなきゃってことか
小生意気な口調にほんの少しいらついた

「そっか…、あなたでもまだダメか」

俺でも?

「あなたになら素直に吐き出すと思ったのになぁ。ね、イナさん今日RRHに帰る?」
「…なんで?」
「あいつ、連れて帰ってくれる?」
「お前は?」

まさかテジュンとどっかにしけこむつもりじゃないだろうな?
でも…
それでもいいかと心の中で声がする

「俺はウチに帰る」
「一緒に連れてってやれよ」
「俺ンち連れてってもあいつが苦しむだけだもん」
「なんで」
「…その疑問、解ってて言ってるんでしょ!」

ラブは落ち着いていた。嫉妬も危うさも感じない
それでさっき天女に見えたのだろうか
それなら、と俺はラブに言った

「テジュン、お前に…お前に任せてもいいか?」

おやっという目で俺を見た後、ラブが皮肉っぽく言った

「へぇ~、店ではヤキモチ妬きまくりだったのに。いいの?タダじゃすまないかもよ」

ニヤリと笑う悪戯っぼい顔に、それはこっちのセリフだと言いたかった

「俺があいつの面倒見てもいいのか?心配じゃないのかよ?!」
「心配なのは、あいつが抱え込んでる何かを吐き出さずにいることだけだよ」

きっぱりした口調に俺は気圧された

「お前が吐き出させてやればいいじゃないか」
「じゃ、イナさん、テジュンのモヤモヤ、吐き出させてやれる?」
「…」
「ま、イナさんと俺とじゃ立場が違うから比べられないけどさ、それでも似たようなモンなんだよ、オッサン達のナイーブなハートは。俺に遠慮してんの?しなくていいよ、俺がいいって言ってるんだから」
「…やっかいなジジイどもだな…なんでパートナーとっかえて頼るんだろう…」
「よく言うよ。イナさんだってテジュンに全てを見せてないじゃない」
「お前だって…」

いや…、ギョンジンはラブがテジュンと寝た事を知ってたんだ…
それでもラブそのものを受け入れたんだ…なのに今頃になって、どうしてそれを蒸し返す?
『抱え込んでる何か』を吐き出すことができずにこんな風に揺れているのか…

「…ギョンジンみたいに凄い男がこんなにガタガタになるなんてな…」
「原因は解るでしょ?」
「…おおよその見当はつく」
「その原因についてグチャグチャ悩む時は、アイツ、あなたのところへふらふら寄って行くじゃない。解ってるんだろ?イナさん。ギョンジンにはあなたを必要とする瞬間があるってこと…」
「…」
「俺にはまだ、その役割は与えられてないもん」

役割?

「それに…俺んち、ギンちゃんが来る予定…っつーか、多分もう来てると思う。時計の仕事の話でさ…。だからあいつの面倒見てられないんだ」
「…じゃあテジュンの面倒も見れない?ヨンナムさんちに送り届けるなり、お前んちに泊めてやるなり…」
「ああ、解った。じゃ、俺んちに連れて帰る。ギンちゃんがいるからエッチィィなことにはなんないだろうしぃ、フフ。それにテジュンはあなたしか見えてないからね。大丈夫だよ。安心して。俺、今回は何にもしない」

真っ直ぐな瞳で微笑むラブは、ここにいる4人の中で一番大人だと思った

「俺は…」

俺はあいつに寝ようって誘われたんだ、組み敷かれたら抵抗できないかもしれない

…そんな事、ラブに言えるはずがない

「あいつ、すんごく不器用じゃん?自分では気づいてないみたいだけど…。だから何とかしてやってよ。ね?」
「…。何してもいいのか?」
「何してもって…何するつもりよ…」
「…き…きすとか…」
「ああ。それは当然アリだろ?もしアイツが望んで、イナさんがオッケーなら」

『寝てもいい』なんて言うなよ

「一緒に風呂に入るのもアリだ」
「…。やだよそんな事…。そんなさ、一緒に風呂に入ったりしたら…勢いでヤっちまうかもしれないぞ」
「できっこないよ」
「なんで!」
「できないよ、アイツにもあなたにもそんな事。だから大丈夫」
「…わかんねぇぞ…しらねぇぞ…」
「うんうん。トレード成立。頼んだよ」

ラブは軽く頷きながら、そろそろ戻るねと先にフロアに溶け込んでいった
わかんねぇぞ…本当に…
俺は今夜、あいつがしつこく仕掛けてきたら…どうなるか解らない…しらねぇぞ…ラブ…

色とりどりの稲妻が飛び交う四角い空間を、薄暗い場所からぼんやり見た
戻らなくちゃ…俺が今夜、面倒をみなきゃいけない『お兄ちゃん』のところへ…

*****

ギョンビンに知られてしまった
ギョンビンに知られてしまった
失態だ

父さん、ごめんなさい、ギョンビンに知られてしまいました…
僕のせいです、ごめんなさい…僕が悪いんです…


弟のことになると、僕は冷静さを欠く
昔からそうだった
あんなところであんな話を聞くべきじゃなかったんだ、あのゴリラ野郎!

知られたくなかった
知らせたくなかった
教授、申し訳ありません、弟に知られてしまいました
秘密にすると約束したのに…

弟の事が頭から離れない
ギョンビンは大丈夫だろうか
ちゃんとマンションに帰りついたろうか
ミンチョルさんと仲良くしているだろうか
まさか、教授を訪ねたりしていないだろうな…

ギョンビン、ギョンビン、ギョンビン


僕は化粧室に行くふりをしてギョンビンに電話した
思ったとおり、通じなかった
…ギョンビン…
…ギョンビン…ギョンビン

可愛い男の笑顔が映る電話の画面を見つめながら、僕は弟の大きく揺れた肩を思い出していた
それから…雷に打たれる幻覚を見ながら、僕はフロアを歩いた
見上げた先に、目を閉じて揺れているイナがいた
僕はイナに吸い寄せられていく
辿り着いてすぐに、彼をそっと抱き寄せた
それから後の僕の記憶は夢なのか現なのか解らない


ギョンビンを追いかけていったあのホテルで
僕はこの男に出会った


僕はまだ『ミン・ギョンビン』で
僕から弟を取り上げようとする奴等を片っ端から傷つけてた
みんなが弟を守ろうとしていた
僕の大切な弟なのに…
僕が守るべき弟なのに…
奪い返してやる
お前の幸せは僕の目の届くところにいることだ
僕がちゃんと、お前に相応しい住居も服も仕事も相手も見つけてあげるから…
僕の言うとおりにしていれば間違いはないから
ずっとそうしてきたろ?
それでお前はいつも輝いていられただろ?
僕から離れていかないで
離れようとするのなら…
お前をこの手で…


あの時の僕から狂気の衣を引き剥がし、僕を『ミン・ギョンジン』に戻してくれたのは
僕を恐れることなく近づいてきたこの男だ
苦しくてどうしようもなくなると僕はこの男の姿を探し求める
傍に近づくとそれだけで震えが止まる


まだ幼かった頃、ギョンビンを守りきれずに傷つけた時、僕は父に叱られた
可愛らしくて清らかなギョンビンは、家族の宝物だった
みんながギョンビンを誉めた(僕も誉めた)
みんながギョンビンを抱きしめた(僕も抱きしめた)
みんながギョンビンを愛した(僕も愛した)
みんなの目はギョンビンを向いていた
僕は誉められなかった(小さなギョンビンだけが褒めてくれた)
僕は抱きしめられなかった(小さなギョンビンだけが抱きしめてくれた)
僕は愛されなかった(小さなギョンビンだけが愛してくれた)
ギョンビンの目は確かに僕に向いていた
それはとても幸せなことだったけれど
僕は父に誉められたかった
僕は父に抱きしめられたかった
僕は父に愛されたかった
僕は父に…僕を見ていてほしかった…

気づいていなかっただけだと、そう教えてくれたのはこの男だ
体に触れると、頑なな僕が緩められて感情が全身を巡る
僕が今何をどう感じているのかがよく解る
この男に抱きしめられると、僕は父に誉められ、抱きしめられ、愛されていると感じる
そして父は、ずっと僕を見ていてくれたのだと理解できる

いつもなら、イナを抱きしめればそれで気持ちが鎮まるのに
今夜はてんでダメだ
弟に悲しい想いをしてほしくない…
どうすればいい?僕は何をすればいい?
イナと抱き合いながらチークを踊った
ざわり、と悪寒が走った
ラブの狂おしげな表情が、網膜に映る

ラブを傷つけてテジュンさんに奪われた時を思い出す
そう…僕のやることは何ひとつうまくいった例がない…

その光景から視線を外し、イナを誘った
途端に周りの空気が渦を巻いて僕をあの日に連れ戻す
イナに初めて甘えたあの時に…

僕は我儘を言う
僕はしがみつく
僕は弱音を吐く
そうして温めてもらう…


イナがここで座って待っていろと指示して僕を腰掛けさせた

僕はぼんやりと携帯を取り出してマンションの番号をプッシュした
十数回のコールの後、低い声が聞こえた
ミンチョルさんだった

『もしもし…もしもし?もしもし?!…ああミン、何だか解らないけどイタズ…☆』

微かに聞こえた『ミン』という声に、僕は安堵を覚えた
けれど…
あの手紙を読んだ弟が
ミンチョルさんの許でその事をひた隠しにしているのだと思うと…

ああ…なんて失態だ…
ごめんよギョンビン
…いつもこうだ…いつも…
守ろうとして守りきれず見抜かれて傷つけてしまう…

イナがどこかへ行ってしまった
傍にいてほしいのに…僕を温めてほしいのに…

*****

フロアを歩いていると、待たせておいたギョンジンがふらりと立ち上がるのが見えた
立ち上がって、そのままその場で動かなくなった
俺は慌ててギョンジンの傍に駆け寄り、顔を覗き込んだ

「どうした?ん?」
「…」

無表情なギョンジンがこちらを見た
俺だと認識できた瞬間、奴はくしゃっと顔を歪めた

「…いな…」
「踊るか?」
「…もういい…」
「ん。じゃ、あっちに合流するか?」

頷いたようなそうでないような、曖昧なギョンジンの手を引いて、カウンターに戻った
それから暫く、俺達4人は何事もなかったように飲んだ

「あ…ギンちゃんからメール入ってる…。帰らなきゃ」

ラブの呟きをきっかけに店を出ることになり、俺はテジュンにギョンジンを連れてRRHに帰ると告げた

「テジュンは?どうする?」
「…。僕、ヨンナムんちに帰る…」
「そう?気をつけてね」

俺はギョンジンの手を引いて、ラブとテジュンより一足早くクラブを出た
外は随分静かに思えた
道でタクシーを拾い、ギョンジンを押し込め、RRHに向かう
テジュンの事は気になったが、ラブに癒されたからか穏やかな顔をしていたのでまあいいやと思った

*****

「テジュン。送ろうか?」
「一人で帰れるよ…」
「…もし寂しいなら俺んちに来る?」
「…誘ってるのか?」
「うん。友人としてね。ギンちゃんもいるしえっちはできないよ(^o^)」
「…ほんとにミンギ君来てるの?」
「…なによ、嘘ついてると思ったの?!失礼だな!そんなにまでして貴方と寝たいなんて思ってないからね!」
「…んなこと言ってないじゃないか…。でもミンギ君がいるなら安心だ。…行こうかな…」
「安心?!じゃあギンちゃんと二人でえっちぃぃなサービスしてやろうか!」
「…」
「してほしいの?!セクハラオヤジ!ギンちゃんは純情派なんだからねっ<(`^´)>」
「いや…その…それも捨てがたいけど、そうじゃなくて、一人で居たくないし…それに…」
「それに?」
「アイツの顔、見たくない」
「アイツって?ヨンナムさん?」

テジュンは鼻にくしゃっと皺を寄せて、そうだよ!と吐き捨てた

「言っとくけど、俺んちに来たとしてもほったらかしだよ。文句言わない?」
「言わない…」
「んじゃ行こ♪」

ラブは嬉しそうな顔をして僕に腕を絡めた

*****

ラブに腕を絡められ、僕はいい気分で夜の街を歩いた
イナはギョンジンを連れてあっさりとマンションに帰ってしまい、僕はあれこれと悩んでいた事を馬鹿馬鹿く思った
ギョンジンのような男でもあんな風に不安定になるんだ
ギョンビン君に何かあったとき、ギョンジンは決まって無意識にイナを頼る
それは僕も薄々解ってはいたが、今夜のギョンジンはかなり弱々しく思えた

「あの五歳児にうまくあしらえるだろうか…」
「イナさんが何もしなくても、ギョンジンは勝手にイナさんに癒されるんだ」
「そうかな?」
「そうだよ。パブロフの犬だ」
「条件反射?」
「うん。ギョンビンの事で悩むとイナさんに擦り寄って、それで治っちゃう…。でも…」
「でも?」
「今夜は確かにちょっとタイヘンかもね」
「…大変だと思うのにイナに託したのか?」
「だって…俺じゃどうしようもないもん…」
「どうして?」
「…あいつさ、自覚してないんだもん、ギョンビンが一番大切なんだってこと」
「一番?」
「…うん…」
「一番はお前じゃないの?」
「違うよ。俺はせいぜい三番手ってトコ」
「三番?」
「ライバル多いんだ…」
「…ギョンビンと…誰だよ…」
まさかイナ?
「息子」
「息子?…ああ…チフン君とか言ったっけ…」
「うん。血の繋がりには勝てないもん」
「まぁ…そりゃそうかもしれないけど…。でも、三人ともが『一番』なんじゃないの?」
「…まだだよ…俺は…。まだ俺に何もかもを話してくれないしね」
「そりゃ…何もかも曝け出すのは難しいよ…」
「テジュンもそう?」
「イナだってそうだ」
「…そういや、俺だってそうかな」
「だろう?」

ラブは柔らかく微笑み、僕の腕に体を寄せた

「ありがと。ちょっと元気出た。よっしゃぁ!仕事頑張るぞぉ!」
「…。ほんとにお前んちにミンギ君、いるの?」
「…」
「ほんとは居ないんじゃないの?」
「酷い!俺を嘘つきだと思ってるの?!居るもん!待ってるもん!俺の部屋で待ってるもんっ!」

微笑んでいたラブが一瞬にして涙目の膨れっ面になる

だって…僕はお前によくひっかけられるからさぁ…
こんな時に貴方をひっかけようなんて思わないもんっ!
ごめんごめん…じゃ、早く帰らなきゃね
ふんっ!
怒るなよ、お前の日頃の行いを見れば誰だって…
ばがっ!でじゅんのばがっ!ひぃぃんうぇぇぇん

泣き喚くラブがとても可愛らしい
疑って悪かったと謝りながらそっと抱きしめて背中を擦ってやった
すんすんと鼻を啜る音が聞こる
この子が居なかったら僕はとても嫌な男になっていたんじゃないだろうか…
そうだ、僕だって無意識にこの子を頼っている
ギョンジンがイナに頼りたくなるのも解るな…

「…テジュンのばか…」
「まだ言ってる。機嫌直して」
「…直んないもん…」
「…しょうがないなぁもう…」

ラブの顔を上に向け、唇にチュッとキスをする

「こんなんじゃ直んないもん!」
「…さっきは拒否したくせに!」
「あの時のテジュンはセクハラジジイだったもん」
「今は?」
「…ちょっと好み…」
「くふふ…」

僕達は、人通りの少ない歩道でキスをした
確かにラブとなら…全てを見せ合えて信頼し合える恋人同士になれるかもしれない…
だけど僕達が本当に解りあいたいのは、僕達より先に、あの喧騒の場所から手に手を取り合って出て行ったあの二人なんだ…

「変だよね、俺達4人…」
「ほんとだ。これでもし、あいつらに何か…」

そこまで言いかけた時、僕達は眩しい光に晒された
そろりと近づいてきた車のヘッドライトだ

「ったくもう!早く帰ってきてって散々メールしたのにっ!」
「…あ…ギンちゃん…」
「なによこれは!なんでまたテジュンさんとイチャついてるのさ!」
「…てへ…」
「『てへ』じゃないっ!ちょっとこっちに来て!」

車から降りるなり僕達を叱責し、さらにラブの襟首を引っつかんだミンギ君は、僕の腕の中から可愛い男を引き摺って行った

「いやぁぁんギンちゃん、そんなとこ掴むのかっこ悪いからやめてぇぇ」
「カッコイイも悪いもない!前々から言ってるけど、ラブちゃんは何でそんなに時間にルーズなの?!人を待たせておいて平気なわけ?!」
「だってギンちゃん合鍵持ってるじゃぁん…」
「<(`^´)>鍵忘れたから駐車場で待ってるって最初のメールに入れたでしょ?!」
「え?ちょっと待ってぇ…。…。あ…、これ、読んでなかったぁへへっ」
「『へへ』じゃないっ!もうっ!返事一回しかくれないし!そのメール頼りにここまで来たんだからねっ!」
「くふん、目論見どおり…」
「なにっ?!」

ミンギ君は噛み付きそうな勢いでラブに目と歯を剥いた
そう言えばミンギ君は、イナやBHCのホ○ト達に顔立ちが似ている
ミニ・イナだのヤング・ソヌだの言われることもあるらしい
その後もミンギ君はガミガミとラブを叱り、でへでへと対応していたラブも段々ションボリし始めた

「あ!また涙目になる!僕にはその作戦、まーったく効かないからねっ!わかってるでしょっ!」
「…ぐしゅ…テジュン~ギンちゃんがぁぁ…」
「お~よしよし…可哀想に」
「可哀想じゃなーい<(`^´)>」

縋り付いてきたラブをヨシヨシしながら、ミンギ君のキリキリっぷりを大いに楽しんだ
若い二人に挟まれて、僕はいい気分だった
なのに、一瞬、背中がぞくりとした
イナの顔が浮かんで消えた

…ごめん、イナ。ちょっとだけ彼らに癒されたいんだ…

頭を過ぎったイナの影に言い訳めいた言葉を送った
それから僕達はミンギ君の車に乗り込み、ようやくラブのマンションに到着した
部屋に着くまでは静かにしていたが、部屋に入った途端僕達3人は騒ぎ始めた
ラブに騙されて部屋に連れ込まれて襲われるのかと思っていたと言うと、ラブがぺしんぺしんと僕の腕を叩き、どうして信じてくれないのさ!と拗ねた
それを見ていたミンギ君が、日頃の行いが悪いからだよと切り捨て、僕は、ほうらミンギ君だって僕と同じ事思ってるぞと煽る
リビングに入るとミンギ君がテーブルに雑誌を広げ、これに何ページか仕事を任されるらしいんだ、と告げた
ラブの目の色が変わり、二人はどんな風に時計を紹介しようかと意見を戦わせ始めた
そんな二人を見ながら、僕はラブに断わってコーヒーを淹れた

ラブのコレクションから、僕に似合いそうな時計を渡され、二人の指示でポーズを取った
ミンギ君が遊び半分で写真を撮り始め、そうこうしているうちに本格的な撮影『もどき』になっていった
夜中の楽しい時間が過ぎて行った

突然…

僕は胸騒ぎを感じた
なんだろう…
今頃酔いが回ってきたのかな…
いや違う、そんなざわつきじゃない…
さっき、歩道で感じた悪寒のようなものがひときわ大きくなったような…ざわざわする…
なんだか大切なものが捻り潰されそうな、そんな落ち着かなさを感じた

「どしたの?ラブちゃん…気持ち悪い?」
「…あ…ううん…違う…」

ミンギ君の言葉にハッとしてラブを見た。ラブもまた何かを感じたようだ
と言うことは…まさかあの二人…

僕とラブは顔を見合わせた
心臓の鼓動が早くなり、イナの叫びが聞こえたような気がした
無意識にイナをコールしていた
長い呼び出し音の後に、ガサガサという音が聞こえた
相手が何か言う前に、僕は強く呼びかけた

「大丈夫か!」
『…テジュン…』

弱々しい涙声が聞こえた
ラブの顔が蒼ざめた

*****

タクシーの中では落ち着いていたギョンジンが、マンションに着いた途端ソワソワし始めた
俺はまたギョンジンの手を引いてトンプソンさんの横を素早くすり抜け、エレベーターに奴を押し込んだ
箱の中は危険が一杯だ
だから奴を壁際に追いやって俺は扉のすぐ前に陣取った
奴は溜息ばかりついていた
箱はすぐに40階に着き、俺の懸念は杞憂に終わった
扉が開きフロアに降りた
ギョンジンは項垂れたまま降りてこようとしない

「ギョンジン。着いたぞ」

ゆっくりと顔を上げたギョンジンは、困惑した目で俺の後ろの空間を見つめた
もう一度箱に入ってギョンジンを引っ張り出す
背中を押して廊下を歩かせる
ミンチョル達の部屋に視線をやり、立ち止まろうとするギョンジンを抱え、俺は奴の部屋まで連れて行った

部屋の灯を点け、奴を押し込み、おやすみと言って立ち去ろうとした時、物凄い力で腕を引かれた
ギョンジンは素早く扉を閉め、俺を抱きしめた











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