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ぴかろんの日常
リレー企画 282
甘えられるのは… 10 ぴかろん
****
「…いな?」
「はっ…あ」
目の前に心細そうなギョンジンの顔があった
先ほどまで俺が感じていた、押し留められた歓喜の昂ぶりは跡形も無く消えている
ただ胸にその名残のような疼きと痛みがある
ギョンジンは潤んだ瞳で俺の顔を覗き込む
これが現実なのか夢なのか、俺は暫く解らなかった
「…ごめんね…イナ…」
呟くのはギョンジン本人なのか、それとも幻なのか…
彼は俺の頬に手を伸ばし、そっと触れた
彼の髪から俺の足の甲にぽたりと雫が落ちた
よく見るとギョンジンは濡れたスラックスを穿いていた
「…おまえ…このままシャワー浴びたのか?」
意識が覚醒した。ギョンジンはこくんと頷いてそのまま俺の膝に濡れた頭を乗せた
「ごめんね…ごめん…」
「体拭けよ。風邪ひくじゃないか」
夢の続きを漂っているようなギョンジンに、俺は現実を投げかける
偶然に助けられ、交わらずに、果てずに済んだのは、俺達の意志に拘らず有難い事だったのだ
夢に教えられた
そんな風になっていたら、耐え切れない
俺達はずたずたになっただろう
よかった…ほんとうに…
ごめんと呟きながら俺に縋っているギョンジンを押しのけてバスルームに行き、ローブとタオルを探した
部屋に戻ってギョンジンの背中を包み、溜息をつく呆けた男の頭をタオルでごしごしと拭いた
「着替えろよ。このまんまじゃ風邪ひいちまう…」
「ごめんね…僕…」
「謝らないでくれ。 お前を止められなかった俺だって悪いんだ」
ギョンジンは目をとじて静かに呟いた
「お前が望んでたこと叶えてやれなくて…ごめんね…」
「…俺は何も望んでない。それより着替えろよ」
「…抱いて欲しかったんじゃないの?」
「な!俺はやめてくれって言ったんだぞ?!」
「うん。そう言った」
「お前がクラブで俺に寝ようって言った時にも、俺は断わったはずだ」
「うん…」
「解ってるのに俺をこの部屋に引きずり込んで犯そうとした。お前がやったんだ。違うか?!俺は抱いて欲しいなんて思ってない!」
「…そうか…。じゃあやっぱり僕の思い込みだったんだ…。お前の体がこうして欲しいって囁き続けてたような気がしたんだ…」
ギョンジンの、言い訳のような言葉が癪に障った
突っ立ったまま、俺はいらついた調子でギョンジンを詰った
「…なにを…なにを馬鹿なこと言ってるんだ!俺の体がなんだって?!俺のせいにするのか?!こうなったのは俺が悪いって」
「違うよ、そうじゃない…、僕が仕掛けた。僕が悪い。でも、お前の『想い』に引きずり込まれたって感じてた」
想い?俺の…想いって?
「僕の思い込みだ。すまない…」
そうだ。ギョンジンのいう事は正しいのだ。俺は確かに悦びに打ち震えていた
もっと快楽を与えてくれと、俺の体はギョンジンに語りかけていたんだ
気づきたくないことに気づかされ、俺はまたいらついた
それでも平静を装い、『欲望』を揉み消し、俺は気になっていたことを聞いた
「…お前…何があった?」
ギョンジンは穴の開くほど俺を見つめ、それから深い溜息をついて静かに言った
「お前は何も聞かない人だと思ってたな…」
「いつ話してくれるのかずっと待ってたけどお前は一向に話さないじゃないか」
「ふぅ…そうだな…。ギョンビンが…苦しんでるんだ…」
「…あいつに何かあったってのは察しがついた。それでお前は俺に縋ってきたんだってのも解ってる」
「…お前に触れるとあの子は大丈夫だって思える…いつもお前を頼ってしまう…ごめん。僕は詰めが甘いんだ。失敗ばかりしてる…。その結果弟を苦しめてしまうんだ。幼い頃からそうだった…」
「…」
「お前に触れて気持ちを落ち着かせようと思ったんだ。けど」
「抱きしめた途端、発情したってわけか?」
「…お前の体が望んでた…ここにキスをくれ、ここに触れてくれって…」
「ちが…そんなこと…違う!」
違わない
きっとそうなんだ
耳から離れない、俺の喘ぎ…
俺は少なからず期待してた
ギョンジンとどうにかなってしまうってことを…
だけど…
「お…俺はお前に抱かれたいなんて思ってなかった!」
「『僕』に抱かれたいんじゃないよ、お前は…」
なに?
「ほかの誰かさんに抱かれたがってた…」
*****
僕は、卑怯な男だ
謝らなければならないのに、陥れようとしている…
見上げたイナの顔が見る見る泣きそうになる
涙の滲んだ瞳があちこちに泳ぎだす
図星だ
イナの中に深く埋め込まれた欲望を、僕は引き出したのだ
それに煽られたから僕は、あんなに夢中でイナを攻め立てたんだ
全てこの男のせいだ
そうしよう…そうしてしまおう…
「…わかってるだろ?誰のことか…。お前の大好きなあの…」
「言うな!言わないでくれ!」
「…」
「言わないで…」
―ギョンジンが皮肉な色をした目で俺を見つめている
一言何か言うたびに、俺が剥がされていく
どうしようもない、終わらせなきゃいけない気持ちを、抱えたまんまでいる俺が晒される
ギョンジンの言うとおり、俺は奴に組み敷かれながら、これがヨンナムさんだったら…と考えなかったか?
頭の、片隅の隅の隅で、チラッとでもあの人を思い浮かべなかったか?
「違う…そんな事思っていない。考えたってしょうがない!あの人は…あの人には、想う人がいるんだから…」
「奪い返したいんだろ?無理だと解っていても…」
イナがぎょっとして僕を見る
僕は巧みに言葉を操る
僕の得たい答えを導き出すために、僕は友人さえも操ることができる
そう訓練された…そんな事をここで試すなんて…
僕はイナに微笑み返して更に言葉を費やす
「お前は知ってるじゃない、僕が弟に固執してた時を…。あの時の僕と同じ。だから僕はお前の気持ちがよく解る。奪い返したい、無理だと解ってても…。解るから…お前の望んだことを感じ取れたんだと思った」
そう…イナが望んだから僕はその通りに進んでいったんだ
そうだよ…
…ちがう…ちがうだろう?
そうだよ!そうなんだ!
―もっともらしい事を言った後、ギョンジンは瞳を泳がせた
俺のせいなのか?こうなったのは全部俺が悪いのか?
例えば、ラブにギョンジンを頼むと言われた時に、不安だという事を、何故俺は言わなかったのか
こうなる事は予想がついていたのに、俺は安請け合いをしてこいつを部屋まで連れて行った
部屋に引き込まれ、抵抗しながら、俺はどこかで諦めていなかったか?『やっぱりこうなっちまった』って…
…違う…そんな…俺だけが悪いはずないじゃないか!
「お前、俺に罪をおっ被せたいのか?」
「罪?」
「お前が誘ったから、お前が俺を抱きしめてあんな事するから俺は…」
「そっちこそ僕に罪を被せようとしてないか?自分の中の欲望を認めたくないんだろう」
認めたくないんだろう?僕は自分の弱さを…
違う。イナがそんな気持ちを持っていたから、僕はそれに同調して彼を抱こうとしたんだ
僕のせいじゃない…どちらかといえばイナの方がいけないんだ
卑怯だな…そうやって擦り付けて誤魔化そうとしている
「欲望…持ってちゃいけないのか?!誰にでもある普通の欲求だろう?!触れられたい、抱きしめられたい、気持ちよくなりたいってのは!」
―何を開き直ってるんだ俺は…
鼻の奥がツンと痛くなる
「そうだね。普通だよ。僕はそれに応えてやっただけだ。慰めるっていうのかな、テジュンさんがラブにしたようにね」
嘘をつけ!自分がただ甘えたかっただけじゃないか!解っているくせに何故イナを責めている?見ろよ、可哀想に…彼は泣きそうじゃないか
「お前に慰めてほしいなんて思ってない!」
「ああ。別に『僕』に限ってないさ。誰でもよかったんだろ?抱きしめて夢心地にさせてくれる人なら誰でも」
「お前が!…お前自身がそうだったんだろ?!誰でもよかった、誰であっても抱きしめて気持ちよくさせて、それでお前自身の不安を紛らわせようとしたんだ!」
「僕は…好きな人にしか手出ししないよ」
「唯一、手出しできないのがギョンビンってわけか!」
「!」
嫌なところを突く。お前は昔からそうだ。僕が導く方に何故行かない?そんなところが弟そっくりなんだ!腹が立つ。お前を追い込んでいるのに何故僕に切り込むんだ!
「俺の気持ちが解るだって?無理だと解ってても奪い返したいだって?!俺はあの人の体が欲しいんじゃない!心が…ほんの少しでも俺を…ああ…」
『少しでいいから俺を見て』か?!夢見がちなお前の言いそうなことだ、嘘つきめ。欲望に底があるとでも思ってるのか?!腹が立つ。僕に逆らうな!
「…僕は…弟を自分のモノにしてこの世から消えるつもりだった。それ程苦しい想いをした!お前はどうなんだ?あの人の事でどん底まで悩みぬいたことがあるのか?」
―知りもしないくせに何を言うか!俺があの人の事をどんな風に思おうと、お前には関係のないことだ!
「自分の気持ちを適当に誤魔化して心の中に仕舞い込んで、一生それを引き摺ってテジュンさんを揺らし続けて…。あの人は『他人』なんだ!無理矢理お前の想いを貫いたって構わないさ!さよならすればいいだけだ!後腐れもない!ほんの少しこっちを向いてくれればいいなんて、きれいごと言うな!抱かれろよ、そうすればもう誰も迷わずに済む!」
「お前こそ!そんなにギョンビンが心配なら、今俺にしたみたいにあいつを組み敷いて『癒し』てやればいいじゃないか!」
「そんな事、できるわけないだろう!」
「昔しようとしてたじゃないか!お前ならできるよ、その唇と舌と指でな!」
「弟を侮辱するな!」
「ヨンナムさんを侮辱するな!」
僕は立ち上って憎らしい言葉を吐くイナを睨んだ
僕は、僕の落ち度を認めたくなかったし、イナは自分の欲望を小さなものだと認識したかった
―俺達は、痛いところを突き合っていた
こうなったのは相手のせいだと擦り付け合いながら、お互いの、最も痛い部分に近づいていった
「俺に甘えるな!」
「お前こそ僕に甘えるな!」
ああ言えばこう言う。掴み掛かればまるで
―子供の喧嘩だ…、馬鹿馬鹿しい
僕達は何をしているんだ?
―馬鹿馬鹿しいのに何故お互いに煽り続けるんだ
どうして僕はこいつに縋るんだろう
―どうしてこいつにならこんな風に言えるんだ?
傷つけ合っている
―俺達はお互いを切り刻んでいる
言葉と体とでお互いを
―テジュンとラブの代わりに罰しているようだ
「何故テジュンさんに甘えない?」
「甘えてるよ!心配しなくていい!」
「甘えたフリをしてるだけだ。お前の顔はいつも不安そうだ」
「甘え慣れてないだけだ!お前こそ、どうしてラブを頼らない?」
「…心配かけたくないだけだ!」
「ラブが待ってるの、わかんないのか?」
「テジュンさんだってお前が飛び込んで来るのを待ってるんだぞ!」
「俺は…」
「あの人への想いを持ち続けたままテジュンさんに飛び込むなんて失礼だ…とでも言うのか?」
「飛び込んださ!でも、テジュンを苦しめてる」
「中途半端に飛び込むからだ!」
「傷つけたくない!」
「そうやって隠すからテジュンさんは余計気をもむんだ」
「お前だって、ラブがどれほどお前を待ってるか知ってるのか?!ギョンビンの事で悩んで、俺のところに来たって、俺にできることなんて何ひとつない」
「祭で癒してくれた。僕のために体を張ってくれたじゃないか」
「あの時だけだろ?!また体を張れっていうのか?お前の自己満足のために?!」
「違うだろう?お前がそうして欲しかったんだろう?!」
「ちがう…」
「違わない。じゃなきゃあんな風にならない!」
言い切ってやった
イナは唇を噛んで涙を流した
(割り込みサイド)ミソ&フェルデ あしばんさん
ーひぃんひぃん
ミソさま、いかがなされましたか
ーフェルデしゃん、イナしゃんとギョンジンしゃんが…
読ませていただきました…ご心配ですね
ー同じ屋根の下なのに…ミソは何もしてあげられましぇん
きっとお気持ちは通じますよ
ーごさたんと連絡がとれましぇん
ご事情がおありなのでございましょう
ー今、主審室も密かに大変でしゅ…
はい、お話は遠く独逸まで続いておりますようで
ーてんどんも大変でしゅね
はい、外泊先にて混沌でございます
ー……
いかがなされましたか?
ーコントンって何でしゅか?…かわいいでしゅね
か、かわいいようなものでは…
ーみんな、そうやってコントンコントン仲良くなってほしいでしゅ
音だけでしたら…左様で
ーでもミソは、イナしゃんたちの気持ちもわかりましゅ…
と、申しますと?
ー誰かに甘えたい気持ちでしゅ
人間もパディントンズも、皆弱い生き物でございます
ーあい…
ひとりで全てを抱えこむのはいけません
ーあい…ミソもついフェルデしゃんにご連絡してしまいましゅ
ボスさまは何と?
ーボスは「んなもん放っておいたらええ」言いましゅ
ある意味、真理でございましょう
ーイナしゃん…心配でしゅ
神の御心のままです
ーミココロってかわいいでしゅ…ペットでしゅか?
いえ…ぺ…ペットでは…
ーあ、長話はミンしゃんたちに気づかれるので、この辺で失礼しましゅ
あ、はい、それではまた
甘えられるのは… 11 ぴかろん
僕はイナを責め続ける
何がしたいのかわからない
イナを抱こうとしていた時のように、僕は止まらない
―なんでコイツは俺に意地の悪いことばかり言うんだ!
なんで俺はうまく反論できないんだ?!
ギョンジンの言うように、あの人への思いが無意識の欲望になっていたからか?
そうかもしれない…止められなかったのは俺が求めていたからなのかもしれない…でも…
僕は僕を誤魔化している
何か大事な事を見逃している
ずっと前から感じていたのに
それを探そうとはしなかった
今も
目の前に現れそうな何かを
イナを責めることで誤魔化している
―こんな奴じゃない
本当は優しい男なんだ
俺は知ってる
俺が見つけ出したんだ!
イナに、こんな僕を曝け出せるのは、あの時イナが僕を見つけてくれたから…
―卑劣なふりを続けてきた心優しい男を、俺は確かに引っ張り出したんだ!
だから…
*****
俺達は睨み合っていた
様々な思いが浮かんでは消え、次に吐き出す言葉を探していた
突然、ギョンジンの部屋のドアが乱暴に開いた
驚いてそちらを見ると、息を切らしたテジュンがいた
「はぁはぁはぁ…イナ…大丈夫か?」
その切羽詰った瞳に、俺は釘付けになった
どきん…どきんどきんどきん
心臓が不規則に音を立てている
*****
ソファの前で睨み合っていたイナとギョンジンを、息を整えながら交互に観察した
ギョンジンは、バスローブを肩に引っ掛けている
髪が濡れているからシャワーを浴びたのだろう
おかしなことにスラックスもびしょ濡れだ
服のままシャワーを浴びたというのか?
イナは、きれいなピンクのシャツの前をはだけている
髪も服も濡れていない
こいつはシャワーを浴びなかったか
僕はゆっくりと彼等に近づき、二人の前のソファに座った
はだけたシャツを直せと言うと、イナは慌てて身ごろを掻き合わせた
シャツのボタンは全部取れ、頬には涙の跡がある
僕はギョンジンの方を向いて低い声で言った
「お前が引きちぎったってわけか…」
ギョンジンは口を真一文字に結んで答えず、イナは少し俯いてギョンジンを睨んだ
「それで?お前達、何をしていたんだ?」
二人は同時に僕を見た
*****
何故泣いていたのかを聞かれた
ギョンジンの、どんな可哀想なお話を聞いたのかと…
答えずにいると、テジュンは、ギョンジンに聞いた
イナに癒してもらったのか?
ギョンジンはきょときょとと瞳を動かすだけだった
それからテジュンは立ち上がり、俺の顎をクイッと上げ、掻き合わせていたシャツを捲り、小さな溜息をついて俺の頭を撫でた
*****
「喧嘩してたの?どうして?」
テジュンさんの静かな声が響く
息を切らせて駆け込んできたのに、暴れるでも喚くでもない
それが返って凄みを感じさせる
僕は…口を開いた
「僕達、罪を犯すところでした」
シニカルな声色に聞こえたろうか?
クソ生意気な男だと捉えたろうか?
テジュンさんはどう出る?僕がイナの体につけた痕を、どう思う?
「留まれたのは、貴方が電話をくれたからです。ありがとうございました」
平坦に言葉を並べた
僕は、テジュンさんを怒らせたかった
*****
「罪って?」
テジュンが俺に聞いた
「留まれたって?」
「つまり、貴方からの電話がなければ僕達は」
貴方とラブがしたように、交わってたってことです
冷たい声でギョンジンが言った
それから、部屋に俺を引き込んで抱きしめたことも
首筋にキスをしたら、俺が予想以上に反応したことも
俺が、口では抵抗をしながら体は要求し続けてたってことも
テジュンに淡々と伝えた
「だから僕は彼の欲するところに唇や舌を這わせたんです」
テジュンは黙って聞いている
まるで俺がギョンジンを操ったとでもいうような物語を…
*****
「イナは…感じてた?」
「とても…」
「…感じやすい奴だからね…」
「ええ。貴方の教育がいいからでしょう?」
「お世辞のつもり?嫌味だな。お前のテクニックがそうさせたんだろう?」
「テジュンさんこそ、僕にお世辞ですか?それとも嫌味かな?」
いつもと違って無礼に突っかかってくるギョンジンに僕は暫く耐えていた
彼の話しぶりが厭らしくなればなるほど、彼の抱える問題は見え難くなっていく
誰もが自分の最もイヤな部分からは逃れたいものだ
彼もまたそうなのだろう
けれど同時にそれを突いて欲しがっていると、僕は感じた
明らかに僕を煽るように話すギョンジン
『あいつ、ギョンビンが一番だって解ってないんだ』
ラブの文章は『完全』ではない
言葉を補うとすればこうだろう
『あいつ、「今は」ギョンビンが一番「心配なんだ」ってことが「自分で」解ってないんだ』
僕とイナが別れた時、ラブが僕のところにやってきて体を投げ出した
あの時、ギョンジンがラブを抱けずにいると聞いた
その原因も恐らく『今、一番心配なギョンビン君のせい』なのだろう
それが『解っていない』らしい
イナの体に刻まれた赤い印に腹立たしい思いを抱きながら、僕は耐えた
ギョンジンの、一方的な報告の中に、イナの膿を感じるところがあったから…
それは僕の頭の片隅にメモをしておけばいい…
僕は自分でも驚くほど冷静だった…
「そんなテクニシャンなお前なのにどうしてラブを抱けなくなったんだ?」
*****
「イナが泣いてた…何かあったんだ!ギョンジンに何かされたに違いない!」
「…」
「感じたろ?お前だってざわついたろ?」
「…うん…」
「行こう」
「…どこへ?」
「決まってるだろう?イナとアイツのところだ!」
「…」
「ラブ!早く!」
「俺は行かない」
「どうして!心配じゃないのか?なんでギョンジンがイナを襲ったのか知りたくないのか?」
「理由は察しがつく。行かない」
「知らんぷりしていたいのか!」
「そうじゃない!俺は信じてるんだもん!」
「何を!イナの声は上ずってた。何かされたからだ!嫌な気配を感じたろ?恋人を信じたいのは解るけど、あいつは今夜、お前の言うとおり、変だったじゃないか!」
「…きっとイナさんに手出ししたんだね…。でも最後まではいけないよ。抱けるはずないもん、あいつ…」
「けどイナは泣いてたんだぞ!」
「心配なら貴方行ってきて。俺は…ここで待ってる」
「ラブ!」
「できないよ、あいつ…。体調云々だけじゃなくて、愛もないのに人を抱ける奴じゃない。それは信じてやって」
「けどイナは…」
「だから、貴方は行けばいい。俺はあいつを待つ」
「…」
「もし俺が行ったら、あいつ、また色んな事誤魔化して終わっちゃう。だから行かない。待ってる」
「…」
「貴方は心配でしょ?イナさんの事。行ってあげればいい。俺は待つよ…あいつから来るのを…」
ラブは落ち着いていた
僕はギョンジンを見守ろうとしているラブの頬に触れ、その唇に軽くくちづけした
「…わかった…。随分オトナになったもんだ…」
「んふ…」
ラブに微笑みを送って、僕は部屋を出ようとした
するとミンギ君が追いかけてきて、車でマンションまで送ると言った
「…いや、いいよ、君さっきワイン飲んだでしょ?」
「…一杯だけっすよ…」
「だめ!飲酒運転はさせないよ。なぁに、ここから近いんだ。僕、走っていくから。それより、ラブのケアをよろしく頼むよ」
イナ電話をしてからラブの家を出るまでに為された会話
ラブは落ち着いていた
ギョンジンを『信じている』と言っていた
マンションまでの道すがら、不安な気持ちに何度も押し潰されそうになった
どのように部屋に入ろうか
もしイナが襲われているのなら、どうやって助け出そうか
そんな事まで考えた
ラブの冷静な顔を思い浮かべながら、奴の部屋のドアを開けた
甘えられるのは… 12 ぴかろん
*****
ラブを抱けなくなったのは何故か…テジュンさんはそう聞いた
僕は何とか答えようとしたのだが、言葉が見つからなかった
―ギョンジンがラブを抱けなくなった?どういうことだ?
俺はギョンジンとテジュンを交互に見た
テジュンはじっとギョンジンを見つめ、ギョンジンは…
迷路に嵌まり込んだ子供のように不安そうな顔をしていた
*****
「どうして知ってるのかって顔だな。洗いざらい話そうか?聞きたくない内容かもしれないけどね」
深呼吸を一つして僕は時を遡った
イナと別れたあとの、ボロ雑巾みたいな頃に、僕は思考を飛ばした
イナとヨンナムが一線を越えたと思い込み、偶然出くわしたラブに縋った僕
その夜誘われるまま、半ばヤケ気味にラブを抱いた僕
ラブが捨て身で気づかせてくれた僕の本当の気持ち、ラブに対する申し訳なさ
奴らの反応などお構いなしに僕は話し続けた
それは僕自身の気持ちを一つ一つ確認する作業でもあった
ラブを受け止めるギョンジンへの尊敬の念
未だ揺れ続けるイナに対する苛立ち、イナの全てを受け入れる決心をしたのに全くできていない自分への腹立たしさ
そして
ギョンジンがこんなにも脆い奴で、イナが本当に危うい奴だとはっきり知ったこと
「みんな、浮いたり沈んだりするんだなって実感した。そうやって毎日、生きていくんだなぁってね。みんな完璧じゃないんだよな…」
イナは唇を噛んだり真一文字にしたりしながら僕の話を聞いていた
彼もまた、自分の気持ちを確認していたのかもしれない
ギョンジンは、時折唾を呑み込みながら視線を彷徨わせ、違うことを考えているようだった
僕はギョンジンを見据えて告げた
「情事の後にね、ラブが洩らしたんだ。君ができなくなっちゃったってことを」
うろついていた視線が、斜め下に固定される
「意地の悪い事を言ってやろうか?君がイナを苛めた仕返しに…」
「…な…んですか…」
視線を逸らしたまま、掠れた声でギョンジンは言った
「ラブはその時、久しぶりに体が満足したそうだ」
床を凝視したまま、ギョンジンは唇を震わせた
「いつからだ?」
「…へ?」
「いつから、どうしてそうなった?」
「…しらない…わからない…」
「何か心配事でもあるのか?」
「…。別に…」
「ギョンビンだろ?あいつが心配なんだろ?」
イナが口を挟むと、ギョンジンは鋭い目でイナを睨み付けた
*****
…僕はいつからラブを抱けなくなったんだったろう…
あれは、そう…あれは…
多分、ミンチョルさんとスヒョンさんの映画の話が出た頃だ…
弟が、それまで見たことのないような辛そうな眼をしていたんだ…
あの瞳がずっと、僕の心の奥に焼きついている
そうだ…イナの言うとおり…僕は弟が…
*****
「ギョンビンが…心配…」
ギョンジンの口からか細い声が聞こえた
何も見ていない瞳に涙が溢れる
ラブ
どんぴしゃだ
こいつは『今、ギョンビン君の事が一番心配』なんだ
「だからってどうしてイナをこんな目に遭わせる?」
「…え…」
「イナが君を求めていたって?」
「…え…は…はい…」
頷いたギョンジンは、瞳を僕に向けた
渦巻く不安を掻き消すように彼は喋りだした
「…だって…そうなんです…。そう…僕は何故かとても不安で…イナに傍にいて欲しくて抱きしめて…そしたら感じたんです、イナの欲求を…だからそれで僕はイナの…イナの欲求に応えようとして…」
「君自身の不安を消そうとして…か?」
「…え?」
「イナを弄んで気持ちを紛らわそうとしたんじゃないのか?!」
語気を荒げた僕に、ギョンジンはビクリと体を震わせた
「全部イナのせいにするつもりか?君がそんな男だったなんてガッカリだな」
「だってイナは」
「予想以上の反応だった…そう言ったね?」
「…そう…そうです…とても…感じてた…」
「でも抵抗したんだろ?」
「…体が僕を欲してました…」
「イナがお前を誘ったとでもいうのか?」
ギョンジンはハッとして僕を見た
突然、呆けていた瞳に光が灯った
「…そうです。でもイナは僕が欲しかったんじゃない。貴方の従兄弟が欲しかったんだ!」
「違うっ」
僕はギョンジンに掴みかかろうとしたイナを制してギョンジンの前に立った
ギョンジンはニヤリと笑ってもう一言つけ加えた
「あれもこれも欲しがるんですよ、イナって奴は」
*****
テジュンさんは僕の言葉に口の片端を上げた
それから僕の肩をポンポンと叩き、バスローブの襟を両手でなぞった
その襟をぐいっと掴み、僕を締め上げた
殴られる
僕は目を閉じた
次の瞬間、僕の頬に拳が飛んだ
平手が来ると思ってたのにな…案外力があるんだ、この人…
口の中に血の味が広がる
テジュンさんはもう一度僕のローブの襟を掴み、また同じ場所を殴った
ひでぇ…
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」って主の教えを知らないのかよ!
僕はその準備をしてたのに…
かたっぽ殴ったんなら、相手がもうかたっぽのほっぺた向けるまで待てよ!くそジジイ…
ひでぇ…
「悪いね。僕は右利きだから思いっきり殴るにはこれしか方法がなくてね」
「…容赦なしですね…」
「当たり前だ。確かにみんな完璧じゃない。みんな揺れ動く。うまく行く時と行かない時とがある。そういうもんだよな?ギョンジン」
「…」
「お前が弟を心配する気持ちも解る。だからって、どうしてイナを巻き込むんだ!それが許せない!…覚えてるか?僕がラブに襲い掛かろうとした時、お前が僕に言った言葉だ!それを言った本人をどうやって容赦できるってんだよ!なんでお前がこんな事を…」
「じゃ、解ってくれるでしょう?誰かに縋りたいって気持ち!あの時、貴方の傍にはラブがいて、今、僕の傍にはイナがいた!だから」
「ふ…。イナを襲うほど痛手を負ったのか?弟が心配ってだけでこんな風になるのか?異常だよ、お前は!」
「…そう…だね…おかしいんだ僕は…」
ギョンビンのことになると、些細なことでも気になるんだ…
「弟には幸せでいて欲しい…。いつも笑ってて欲しいんだ…。辛い顔は見たくない…なのに、僕のせいで辛い思いしてる…」
「お前のせいで?そう言ったな?自覚はしてるんだな?!なら説明しろ、何故イナをこんな目に遭わせたのか」
「…貴方だってラブに縋ってた…。僕がイナに縋って何が悪い!」
「縋るだけなら構わないさ!どうして傷つけたかと聞いてるんだ!」
「傷?」
「イナの心も体も貶めた。イナには何の関係もないのに!」
テジュンさんがまたローブの襟を引っ張る
顔を背けた僕の目線の先に、潤んだ瞳のイナがいた
ごめんねイナ…だけどイナ…
涙と一緒に、僕の甘えた気持ちが流れ出ていった
「イナが僕を放り出すから…僕を一人にするから…頼りにしてるのに…。気持ちが落ち着くまで傍にいて欲しかっただけなのに…僕の手を離すから…」
ギョンビンのことでぐちゃぐちゃな僕をいつも助けてくれたじゃない…
それが心地よくて、イナを頼っていた
ここまで連れて帰ってくれたのに、放り出すなんて…
お前のせいにしたかった…
僕の失敗も失態も全部…
「ごめん…イナ…」
僕はもう一度、テジュンさんの拳を喰らった
イナが彼の腕に取り縋り何か喚いた
締め上げられていたローブの襟が放され、僕は床に崩れ落ちた
*****
俺だっていけないんだ、ギョンジンを拒否しなかったんだ、ギョンジンだけが悪いんじゃない、俺だって…
イナが泣きながら僕の腕を押さえた
あの時、僕を殴り飛ばしたギョンジンを止めたラブのように、イナが僕を止めている
そうだね、誰もが少しずつ悪いんだね、僕だってラブだっていけなかったんだ、ギョンジンの様子がおかしいことに気づいてたのに…
僕はだらしなく床に伸びているギョンジンの傍にしゃがみ込んで言った
「ギョンビン君を気にしすぎなんじゃないか?彼は子供じゃないし、お前よりずっとしっかりしてる」
「僕は昔から弟の心配をし続けてきたんだから…仕方ないでしょう?」
「お前が心配したってギョンビン君の抱えてる問題が解決するわけじゃないだろう?むしろギョンビン君にとっては重荷にだと思う」
「…重荷?」
「心配でたまらない、だから無茶をするな、なんて優しい言葉に聞こえるけど、そうやって相手の行動を束縛しようとしてるんじゃないか」
「束縛?」
「心配でたまらないのはお前自身の気持ちだ。ギョンビン君はひとりで問題を解決しようとしてるのに、お前のその心配性が彼の行動の妨げになるんだ
彼の手助けをしたいのなら、彼が相談に来るまでじっと待ってることだな」
「妨げ?」
ぼんやりしたギョンジンに浴びせた言葉は、僕自身にも根付かせなきゃなんないものだ
「つまり…人ってのは、自分も含めて、自分が考える通りには動いてくれないってことだよ、ギョンジン。僕なんか、こうなりたい、こうしたいって決心してるのに、なかなかそうなれずにいてね」
「おれもだ…」
イナが真っ赤な目をして呟いた
「僕は…理想どおりに動いていると思ってた。だけど弟の事になると…だめなんです、冷静になれない…」
一粒の涙が零れ落ちる
寂しそうな横顔だ
僕も…同じだよ
イナの事になると、だめなんだ…冷静になれないよ…
「…おにいちゃん…大好きだよって…。僕が落ち込んでるとそう言って僕を抱きしめてくれたんです…。可愛くて…僕…」
「ギョンビン君はもう大人だぞ」
「ええ…だから…もう、おにいちゃんなんて必要ないんです…」
ギョンジンは両手で顔を覆った
「そんなことねぇよギョンジン!ギョンビンはお前を頼りにしてるんだよ!絶対…絶対…」
体を震わせているギョンジンの横に跪いて、イナが叫んだ
僕はイナの肩を抱き、ギョンジンに言った
「ラブがな、お前を信じて待ってるってさ」
「…」
「何をどう信じてるんだか知らないけど、待ってるからって…」
イナを立ち上がらせた
ギョンジンを振り返るイナの背中を押して僕はその部屋のドアに向かった
「…すみませんでした…ごめんなさい…」
小さな声が聞こえた
イナは僕を振りきり、ギョンジンのところに走り寄った
「大丈夫か?」
「…ごめん…僕、お前に酷い事した…」
「もういいよ…ほっぺた、痛くないか?」
「…うん…」
全く…なんでそう甘やかす…
自分がどんな目に遭ったか忘れたのか!
本当に危うい男だ、イナは…
「そか、じゃさ」
そう言うとイナは、ボタンの取れたピンクのシャツを脱いでギョンジンの体に落とした
ギョンジンは顔を覆っていた両手を少しずらした
「このシャツ、ボタン拾ってつけといて。んで洗ってプレスして返しといて。ボタン、ちゃんと拾わなきゃダメだぞ!mayoさんが鬼のように怒るからな!こだわりのシャツだ、ボタンだってこだわってるはずだ、いいな、俺に悪いと思うなら、ちゃんとしろよ!」
「…え…」
「テジュン、行こ」
「は?」
イナはにっこり笑うと上半身裸のままギョンジンの部屋から外に出た
僕は、鼻から下を両手で覆い、呆然と寝転んでいるギョンジンに声をかけた
「ということらしい。シャツもお前も早いトコ元通りにしろよな」
そうしてイナの後を追った
甘えられるのは…13 ぴかろん
*****
パタンとドアが閉まり、僕は一人ぼっちになった
胸に落とされたピンクのシャツが優しく僕を包んでいる
シャツも僕も元通りに…ならなくては…
心配しすぎて苦しくなって、周りの人を傷つけて
僕はなんて馬鹿なんだろう…
瞳から熱い涙がどっと溢れ出し、僕は寝転がったまま嗚咽を漏らした
馬鹿な僕を哀れんで、馬鹿な僕を罵って、馬鹿な僕を蔑んで、僕は泣いた
もういいよ…
イナにまた救われた
何度目だろう、あいつにしがみついたのは…
関係ないのに引きずり込んで傷つけて…
ギョンビンはお前よりずっとしっかりしてるよ
そうだね。ギョンビンは自分の問題を自分で解決しようとしているもの…
僕は…どうしてギョンビンのことになると取り乱してしまうのかな…
お兄ちゃんにできることはないの?
お兄ちゃんにしてほしいことは?
お兄ちゃんが手伝ってあげるから…
一人でできると言って厳しい顔をする小さなギョンビン
けどその後、うふふと笑って、お兄ちゃん、大好きだよって抱きしめてくれたっけ
よっぽど情けない顔してたんだな、僕は
情けない兄貴だ…
もう『大好き』なんて言ってくれない
だってギョンビンは、大人だもの…
ごめんね、僕はお前の邪魔をしてばかりだね…
頼られたいのに頼ってるのは僕の方だ…
馬鹿だな、お兄ちゃんって馬鹿だよな…
僕はゆっくり身を起こし、ピンクのシャツを手に取った
もういいよ…悪いと思うなら、ちゃんとしろよ…
シャツもお前も早いトコ元通りにしろよな…
涙を拭って立ち上がった
下半身が重い
ああ、そうだ…
スラックスのままシャワーを浴びたんだ…
ふ…悲劇のヒーロー気取りじゃないか
ドラマだと、びしょ濡れの衣服はいつの間にか乾いてるんだけどな…
現実はそうはいかない
濡れた衣服を脱ぎ捨て、羽織っていたバスローブに袖を通して紐を縛った
大きく深呼吸して、気持ちを落ち着けた
『もういいよ…』か…。老成した五歳児だ…
だからお前が好きなんだ、イナ。こんな僕でも友達でいてくれる?
ボタン、探さなきゃ…シャツも僕も元通りに…
ううん…それ以上になりたい…
僕はシャツをベッドに広げた
ここでこうしてイナを…
―イナの眉間に皺が寄る―薄く開いた唇から漏れる躊躇いの吐息…
頭を振って視覚の残像を消す
ここでこうしてイナを押さえ、こうやってシャツを引っ張った…
―恐怖に引きつるイナの顔-怖がるなよ、気持ち良くしてやるから…
再び頭を振る僕
こう、シャツを引っ張ったなら、ボタンはこっちの方向に…飛ぶかな…
それとも…
不規則なシーツの『模様』は、僕が無理矢理イナに描かせたものだ
歪な負のライン
闇のうねり
そのうねりの間に、弾け飛んだボタンが三つ、散らばっていた
拾い上げてシャツの上に乗せる
イナは最初からボタンを三つ外していたから上のボタンは千切れてない
もう一つ…どこだろう…
ベッドの周りを探したが見つからない
床に這い蹲ってベッドの下も探した
見つからない…はぁぁ…
仕方ない、どこかで同じものを調達するか、それともなんとか許してもらうか…
見つけたボタンを無くさないようにデスクの引き出しの小箱に仕舞う
小箱の横に、幼い頃のギョンビンと僕の写真がある
幸せそうな笑顔を撫でる
ギョンビン、こんな風に笑っていてほしいんだ…
「お兄ちゃん、邪魔か?」
胸の奥からこみ上げてくるものを抑え、僕はデスクの端に置いてあったバーボンのボトルを掴んだ
酒に逃げるのは卑怯だ、解ってる、でも
この一口だけ…
このボトルだけ…
今夜だけ…狂いついでにもう少し狂わせてくれよ…甘えた自分に浸らせてくれよ…
「一人でなら、誰にも迷惑かかんないだろ?」
写真のギョンビンは笑ってる
隣の僕も笑ってる
幸せそうだ
幸せ…だったのかな…この頃は…
「幸せって…なんだろうね…」
ボトルから直接、酒を流し込んだ
まろやかでもストレートはきつい
腹に落とし、溜息をつく
じわじわと体が熱くなる
いつまでこんなことしてるんだ?
早いトコ元通りに…
どうやって?どうすれば元に戻れるの?
ヒトって少しずつ変わっていくものだろ?
…自分に屁理屈言ってどうする…馬鹿…
ストレートのバーボンを何度か体に流し込んだ
妙に頭が冴えていた
脱ぎ捨てたスラックスのみっともない山が目に入った
ああ…なんてこと…
大切なスーツをこんなに粗末に扱ってしまった…
片付けなくちゃと椅子から立ち上がると、さすがにふらついた
やはり酔いは回っているということか…
フラフラとスラックスの方に近づく
これはクリーニングに出さなきゃなんないなぁと、現実的な発想をする
ああ…人はフクザツだ
さっき深刻に悩んでいたのに、今は皺くちゃの服のことを考えている
時とともに、深く辛く悩みぬいた事柄が薄れて行く
人は飽きっぽい
人は長く悩み続けることができない
…少なくとも僕というヒトは、そうだ…
今夜が過ぎれば、少しずつ元通りになっていく…
元通り…元のまんま…
シャツも僕も元通りに…
ううん…それ以上になりたい
突然、部屋に音楽が流れた
それは携帯電話の着信音だった
電話…どこで鳴っている?
音のする方に近づく
ベッドの脇に落ちていたスーツの上着が発信源のようだ
ああ…上着も…なんて粗末な扱い方をしてしまったのだろう
「ごめんね…」
呟きながらポケットを探った
「ヨボセヨ…」
『…よかった…』
それは、僕の大切な、ラブの声だった…
*****
「大丈夫?」
『…ラブ…』
「弱々しい声だね」
『…僕…。僕、イナに…酷い事…したんだ…』
するするとギョンジンが懺悔する
鼻にかかった声が子供みたいだ
俺の心は途端にきゅうんと切なくなる
ぼそぼそと続く話を黙って聞いた
この、大人に見える迷子は、自分が苦しいことを解ってない
ただ、我儘に人を傷つけてしまったと、自分の情けなさを悔いている
『…消えてしまいたい…』
「ばか」
『馬鹿だ…僕は…。自分だけで解決できない…』
「一人で抱え込むより色んな人のアタマ借りたほうが、バラエティに富んだ選択肢、与えられるだろ?」
『へ?』
「だから…俺だってアンタの役に立てないかなってこと」
『…僕なんか…』
「ねぇ」
『…』
「俺がアンタをどれだけ大切に思ってるかわかんない?」
『…え…』
「俺がアンタをどれだけ好きか、知らないの?」
『…ラブ…。…。慰めはよしてくれよ。こんな時に…』
「ばかじゃない?」
『…。僕は…馬鹿だもん…』
「ほんっとばかだ、アンタは!」
『…自分でも情けないと思う…消えちゃいたい…』
「アンタが消えたら俺どうすればいいのさ!ばかっ!」
『…バカバカ言わないでよ!』
ギョンジンは電話口で喚いて泣き出した
ああ…すっ飛んでいって抱きしめてやりたい…
「ギョンビンのこととなると我を忘れて気に病んで、挙句の果てにイナさんにどっぷり甘えてさ!ば~か!」
『…』
「どうして俺に甘えないの?」
『…だって…お前んとこにはテジュンさんがいたじゃない…』
「テジュンが来る前は俺、フリーだったでしょう?」
『…フリー…』
「ったく、ほんとに頭堅いんだから!アンタさぁ、俺を甘えさせてくれるけど、俺には甘えちゃいけないんだって思い込んでない?」
『だって…前に甘えていいか聞いた時、お前、「やなこった」って僕のほっぺた抓ったもん…』
「それでも元スパイかよ!裏を読めっての!」
『…え…』
「こんだけ付き合ってても俺がどういう人間か解ってないんだ。それじゃアンタ自身がどういう奴かなんて解るはずないよな」
『…僕自身…』
「アンタさぁ、覚えてる?前に俺に言ったこと…。体だけの浮気なんてやめろ、やるなら心を忘れずちゃんと愛せ、欲望の処理だけなんて、自分を傷つけるだけだから…そう言ったんだよ」
『…』
「心も忘れて、体の欲望を処理しようとして、アンタったら自分を傷つけてさぁ。ほんっと、救いようのないばかだ」
『そうだね…救いようない…』
「だから好きなんだよ俺は」
『…』
「俺だって全然なってないだろ?我儘だし無茶苦茶だしさ」
『…』
「でもアンタは俺を大切にしてくれる。それがすっごく嬉しい」
『…ラブ…』
「それは俺がアンタのところに戻ってきたからって言ったよね?今度はアンタから来てよ。俺、待ってるんだから!」
アイツのひっくひっくしゃくり上げる声が聞こえる
ちょっといつもの俺らしくなくてかっこいい?
アイツが落ち着くまで黙ってた
ひとしきり泣いて、アイツはぐちゃぐちゃの声でラブと俺の名前を呼んだ
「ん?なあに?」
『…こないだ見た映画、覚えてる?』
「は?」
アイツは、こないだピーちゃんと俺と三人で見た、ピーちゃんもどきがとてもキュートだった死神の映画の話をした
死神が愛した女の子のお姉さんを覚えてるかとアイツは言った
ぐすぐすと鼻を啜りながら言葉を連ねた
長女は、父親を喜ばせたくて一生懸命になっていた
バースデーパーティーの計画やケーキの試作品や、父親に決めてもらおうと一生懸命だった
でも父親はあんまりそっちに気がいかない。パーティーもケーキも、どうだってよかったんだ
だから、つい、ぞんざいに扱ってしまう
長女はその度に傷ついてた
涙する長女を見て、父親は、しまったと思う
悪かった、お前の気持ちは十分解っているから…
そんな場面がいくつかあったろ?父親は長女よりも次女を気に入ってたんだ…
「…うん…。覚えてるよ」
『羨ましかった』
「…え?」
『あの長女は、父親に、傷ついたこと、ちゃんと伝えてたもの…。父親は自分の非を認めて、長女に詫びてたもの…』
アンタは違ったの?
『僕は…父の前では泣かなかった。僕を見て欲しいときも我慢してた…。ギョンビンは我が家の太陽だから…月はひっそりとしてなきゃなんない。それでもいいと思ってた…』
「…うん…」
鼻の奥がツンとなった
『あの長女も僕も空回りしてたんだね。僕も邪険にされたらちゃんと傷ついたって表せばよかった…』
「…うん…。アンタ、『お兄ちゃん』だし『男』だったから…我慢しちゃったんだね…」
そう言ってやると、アイツはまた泣き出した
今度は我慢せずに声をあげて泣いていた
くそ!抱きしめてやりたいのに…もどかしい…
泣き声が止んで落ち着いた様子を見計らい、俺は声をかけた
「ギョンジン」
『…ん?』
「俺は、どんなアンタも好きだから」
『…』
「今夜の、卑怯で情けなくて後ろ向きで僻みっぽいアンタも、好きだから…」
『…ラブ…』
「今夜しか言わないから、覚えておいてよ」
*****
ラブが僕の心を温かく包んでくれる
枯れるほど泣いたのに、また涙が溢れそうになる
『アンタの全てが欲しい。なにもかも俺に見せて欲しい。それで何か問題が起きたとしても、俺とアンタの間で解決していこう。俺達二人でできなけりゃ、周りの人に助けてって言おう。気持ち、誤魔化さないでさ。あの「長女夫妻」みたく、包み隠さず見せ合って、俺達、愛し合っていこう』
「らぶ…」
『ま、もちろんそれは理想なんだけどさ。あー、俺、かなりいいこと言ったよ』
「…あり…がと…」
ぽとぽとと涙が落ちた
僕は片手でそれを拭った
ラブの愛を感じる
僕だけが愛してるんじゃない
ラブが僕を愛してくれているんだ
「…ラブ…僕、お前に甘えてもいい?」
『…。やなこった!』
「…」
『ばーか。「ただいまから甘えさせていただきます」って宣言してから甘えるのかよ』
「…」
****
正直言うと、俺はちょっとばかり自分の科白に酔っていた
アイツがまたタイミングよく鼻を啜ったりげへんげへん泣いたりするから、余計に悦に入っていた
ここらで最終的な決め科白でも言うかな
「…待ってる。アンタが俺にめちゃくちゃ甘えてくンの…」
『…』
アイツはきっと感動して固まってるんだろう
沈黙が10秒ほど続いた
あっ!
どたん…がさ…がさがさごそごそかしゃばたばたばた…
がさん…
「…。なに?どうしたの?なんかあった?」
『らぶぅ…あった…』
「なに?どうした?何があった?」
『ぼたんがあったぁぁぁ』
「…ボタン?」
『よがっだぁぁ…シャツが元通りになるぅぅ』
「…シャツ?」
アイツは失くしたボタンが奇跡的に見つかったと興奮して喋りだした
聞いてもいないのに、極悪非道の欲望魔人がイタイケな誘惑五歳児のシャツを引きちぎり、あちこちにボタンを飛び散らせて失くしてしまった顛末をを丁寧に解説しだした
「…それはいいけど、アンタ、聞いてたの?俺の言ったこと」
『え?』
「…聞いてなかったの?!」
『…あは…なんだっけ…』
無茶苦茶腹が立った
と同時にこんなバカにあんな甘い科白を吐いてやったことを後悔した
『もう一度言って』
「…」
『ラブ、なんだっけ?』
「ぶぁが!」
思いっきりフリップを閉じた
ああ!もうっ!
世の中うまくいかないもんだぜ!
「…ばか!もう…」
まぁいいか…。今度ちゃぁんと、アイツの目を見て言ってやろう…
「できるのぉ?てれやさんなのにぃ…」
「えっ?!」
ソファで眠りこけているギンちゃんがふにゃふにゃと呟いた
寝言?ほんとに寝言?
「なんて間がいいんだ、ギンちゃんは…」
俺はギンちゃんを冷たく見下ろして、ふにゃふにゃしている唇にチュッとキスしてやった
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