ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 290

沸点4 接触 オリーさん

朝の7時過ぎ、LH718便は定刻より30分ほど遅れてICN空港に着いた
戻ってきたという感じがするのは
この地にも愛着が芽生えたという証拠だろう
何日か前に、君が見送ってくれたこの場所にこれほど早く戻ってくるとは
私自身予想もしていなかったが…

朝のラッシュに巻き込まれたせいで
ホテルに着くと10時近くになっていた
部屋に戻るとすぐに私はあの男に連絡を取った

***

「はい、ロジャース」
「私だ、ワインバーグだが」
「おやおや先生、これは国際電話?それともドメスティック?」
「今朝、こちらに着きました」
「それはそれは、おかえりなさい。よく僕の携帯がわかりましたね」
「先日名刺をくれたでしょう」
「そうでした。で、ミュンヘンの旅はいかがでしたか?」
「楽しい旅でしたよ」
「それはよかった、それで僕に何か?」
「君に頼みがあるんだが」

「こりゃまた珍しいですね」
「実はあの青年の事なんだが…」
「あの青年て、ファン・ミンスそれともミン・ギョンビン?」
「ファン・ミンスなんだが」
「何か?」
「彼の名前は本当にファン・ミンスだろうか?」
「なぜ…なぜそう思うんです?」
「偽名を使っているらしい」

「何のために偽名を?」
「正体を隠して私に近づくために…」
「それじゃあの青年は本当は誰?」
「本名はフランシス・ガードナー」
「イギリス人ですか?」
「イギリスとコリアのハーフだが、両親が亡くなってイギリス人の家に里子に出された。ガードナーはその家の名前だろう」
「それで?」
「彼は…アーメッド・バルガティとごく親しい関係にあった」
「何ですって?」

「調べてもらえないだろうか。ガードナーがあの事件の後どうしたか。
ロンドンを出ているのか、それともまだイギリスにいるのか」
「もう一度名前を、正確に」
「France, Rome, America, Norway, Canada, Italy, Swiss、姓の方はGermany, America, Rome, Denmark, Norway, England, Rome」
「了解、Francis Gardnerですね」
「組織には入っていないと思う」
「わかりました、すぐ問い合わせします。ですが教授どこでこの話を?」
「…」

「詳しい話を聞かせてもらえますね?今ホテルですか?」
「そう、ホテルにいる」
「わかりました。問い合わせを済ませたらそちらに行きます」
「いや」
「まだ協力してもらえない?」
「いえ、私がそちらに行きましょう」
「ほぉ」
「本当に今戻ったばかりなので。一息入れてからそちらに行きましょう」
「わかりました。いつ?」
「昼過ぎには」
「わかりました、お待ちしています。必ず来てくださいよ」
「わかっています」

***

ロジャース氏との会話を終えてバスルームに行き
バスタブに熱いお湯をはった
お湯に浸かると、肩から下の筋肉が徐々に緩んでいくのがわかった
長いフライトで体がこわばっていたのだろう
しばらくバスタブの中で時間をかけて体をほぐした
ふと湯気の谷間に君の顔が浮かんだ

「僕に…できることがあれば、言ってください」
空港でそう言ってくれた君の顔が、君の瞳が
湯気の向こうでゆらゆらと揺れている
もしこの件がいい方向に向いたら
サラが遺してくれた物も含めて
君の瞳を曇らせている物を少しでも取り除けるだろう

互いの道を歩もうと言った言葉には嘘はない
ただ、いい形になれば、
それだけは君に報告できるかもしれない
それだけは…

バスルームを出ると頼んでおいたルームサービスが届いていた
搾りたてのオレンジジュースを飲み、クロワッサンを少しかじった
それからスーツケースの荷物を簡単に整理した

サラのファイルを取り出し、
しばし考えた末にまたスーツケースの中に戻した
サラ
あの子は私を許してくれるだろうか…

***

「ロジャースだ」
「アジアのイケメンが何の用っすか?」
「アジアじゃない、極東だ」
「で何すか?」
「仕事に決まってるだろ」
「ですよね」
「例のオックスフォードの件で調べてもらいたいことがある」
「何か進展でも?」
「どうかな、とにかく調べてくれ。フランシス・ガードナーについて」
「誰?」

「フランシス・ガードナーだ」
「あのグループのメンバーじゃないっすよ」
「確かか?」
「あーたのかわりに僕が書類整理したんすから」
「そうだっけ。念のためもう一度調べてくれ。
それと出国してるかしてないか。出国していたら、いつどこへ」
「いいすけど、ちょっと時間くださいよ。こっちは真夜中っすから」
「得意のコンピュータでちょちょっとやってくれよ」
「コンピュータも夜中は眠いって言ってますんで」

「寝たがるコンピュータがいるかっ!」
「持ち主に似るんすよ、僕は夜勤苦手なんすよぉ」
「何を今さら、こっちはビンビン昼間なんだよ」
「どおりでテンション高いわけだ。ええとフランシス・ガードナーね…
フランシス…フランシス…あれ?」
「どうした?」
「この名前、どこかで聞いたことがあるっす」
「どこで?」
「ちょっと待ってください…ええっとね…」
「どうした?」
「ちょっと待って…ああ、やっぱそうだ」
「何?」
「ソーホーに立ってる僕ちゃんですよ」
「…」
「で、バルガティが2度ほど買ってます。それで覚えてたっす」
「お前、すごい記憶力だな」
「それが僕の取り柄っすから」

「それで?」
「それだけです」
「それだけ?」
「ええ、フランシスだけ、姓もわからない。同一人物?」
「たぶんな。出国してるか?」
「それはちょっと時間かかりますよ。写真要ります?」
「あれば欲しい」

「わっかりました。じゃ後でメールします」
「ついでにそのフランシスが載ってる資料も送ってくれ」
「これ、超コンフィデンシャルなんすけど」
「僕が担当じゃないかっ!いいから送れよ」
「だったら何で読んでないっすか」
「記憶はしばし風と共に忘却の彼方へ…」
「あほくさ。ばれたら始末書っす」
「始末書で済むくらいなら大丈夫だ、送ってくれ」
「フランシスについてはたった2行ですよ」
「じゃ、その2行送ってくれ」
「もうっ…わっかりました。後でまとめてメールします」
「愛してるぞ、ラリー。始末書は僕が書いてやるから」
「どうもご親切に。でも愛してもらわなくて結構っすから」
「そりゃ残念」
「じゃあ待っててください」
「ありがとう!」

***

ロジャース君にはどう話したものだろう
彼がずっと追い続けていたのは、あの資金
だが、あれは絶対に渡せない

ピーエリーブでさえ、その出処を突き止められなかった
だが、MI6とCIAが見逃すだろうか
あの資金がいくらきれいに洗われたとしても、
ほんのわずかな綻びがあれば、たちまち食いつかれてしまうだろう
ピーエリーブと諜報機関、どちらが上だ…
いくら有能でも、個人と組織
勝負は見えている

だが、仕方がない
今はあの彼の正体を確かめるのが先だ
ロジャース君に頼るしかないのだ
後の事は運にまかせよう
フランシスの件だけに焦点をあてて…
大丈夫だ、うまくやれる
やるしかない

昼すぎに、支度をして部屋を出た
フロントには顔なじみのホテルマンが入っていた
「お出かけですか?」
「ちょっと友人に会いに」
「ご旅行から戻られたばかりでお疲れではありませんか?」
[時差ボケになってるヒマがなくて案外いいかもしれない]
「あまりご無理なさいませんように」
「予定がたてこんでしまったので仕方がないんだ」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「ありがとう」

ホテルマンに片手で応じて、エントランスを抜け外へ出た
タクシーを拾おうと車寄せまで歩き始めた時
かたわらにワゴンが停まった

ウインドウガラスにスモークがかかった黒い大きなワゴンだった

***

「ラリーです」
「おお、愛しのダーリン!わかったか?」
「今メール送りました。お尋ねのフランシス君、そっち方面にいますよ」
「そっち方面て?」
「サウス・コリアです」
「いつ出国してる?」
「あの事件から少し後です」
「写真は?」
「パスポート用のが1枚見つかりました。ああいうのが好みっすか」
「ああいうのって」
「めっちゃイケメン。売れっ子に間違いないっすよ」

「ちょっと待て、今メール開けるから…」
「でね、ひとつ新しいネタ」
「何?」
「ちっと渡航歴なんか調べてみましたら、1年前に二人で旅行してますね」
「お前ってば、やっぱり愛しちゃうぞ。で、どこに?」
「フランクフルト、あ、愛してくれなくていいっすから」
「ドイツ?ミュンヘンへは?」
「ミュンヘンはどうだか。入ったのがフランクフルトで帰りがジュネーブっす」

「何で当時わからなかったんだ?」
「わかってましたよ」
「わかってた?」
「というか、バルガティの方はわかってました。
ただ二人が一緒だとわからなかっただけっす。僕ちゃんの方はノーマークだったすから」
「そっか、そうだな…」
「んじゃ、そういうことで」
「待て。そのドイツの件、調べられないか?」

「ええ?」
「フランクフルトでレンタカーを借りてるはずだ」
「どうしてそんなことわかるんすかぁ」
「じゃあ、どうやってジュネーブまで行ったんだ?飛んでないんだろ?」
「そりゃそうっすけど、記録がないってことは当時もフランクフルトとジュネーブしかわからなかったんすよぉ。何で今さらぁ」
「一応あたるだけでいい。ミュンヘンあたりをかすってないかどうか」
「ふぇ…」
「それからガードナーのバックグラウンドを調べてくれ。両親の事とか、里親の事とか」
「両方ともすぐには無理っす」
「いいよ、夜が明けてからで」

「夜が明けたら僕はまず帰って寝るっす」
「ダーリン…」
「だめっ!」
「頼むよぉ」
「夜シフトの残業ってめっちゃ体調崩すんですっ」
「そこを何とか」
「いやですっ!」

「お前、メイド喫茶行きたくない?」
「え…」
「秋葉原って面白いぞぉ。アニメのフィギュアもめっちゃあるし」
「ガンダムとか?」
「おお、それそれ!ガンダムにマジンガーZ」
「行きたいっす!」
「よっしゃ、出張作ったる」
「マジ?」
「極東支局長が言ってるんだぜ。1週間くらいリサーチってことで」
「ううう…いつ?」
「この件に片がついたら」

「本当でしょうね?」
「信じる者は救われる」
「…」
「どうよ?」
「い、いいでしょう、里親の件は、朝役所が開いたら調べときます」
「レンタカーもね」
「はいはい…」
「ダーリンっ!」
「愛さなくていいっす」
「ラジャっ!」

「ところで写真見れました?」
「ああ、今…開いた」
「イケメンでしょ?」
「僕より落ちるけどな」
「くはっ!よく言うっす。じゃ、アキバの件忘れないでくださいよ」
「わかってるって。そうだ、もうひとつ」
「何すか?」
「この事は部長にはまだ言うなよ」
「またっすか?」
「お願いっ!」
「やな感じっす」
「愛してるってば」
「切りますっ!」

ラリーが電話を切った後もしばらく受話器を握りしめたままだった
パソコンの画面には
まっすぐにこちらを見つめる愛らしい少年の顔が映っていた
先日の写真よりかなり幼い感じがするのはなぜだろうか

ハロー、フランシス
僕は探す相手を間違えてたのかい?
もしかして君がキーマンだったのかい?
ドイツで何してた?
フランクフルトからレンタカーでミュンヘンへドライブしたんだろ?
それからどうした?
国境を越えてジュネーブ…
君がここへ来たのは、もちろん教授に会うためだろうな
そして、ただ会うだけじゃ物足りなかっただろうな

それと
パトロンがいなくなったのに、どうやってここまで来た?
どうやって今まで暮らしてた?
もしかして、大変なお金持ちじゃないのかい?
一生かかっても到底使いきれないほどのお金を
君は持っているんじゃないのかい…


映し出された青年の写真にどれくらい見入っていただろうか
気がつくと、時計はすでに1時を回っていた
教授、だいぶわかりましたよ
とっとと来て、色々話してくださいよ…


沸点5 錯綜1 オリーさん

「ホテルリッツカールトンでございます」
「そちらにワインバーグ氏が滞在していると思うんだが
電話をつないでください。ロジャースと言います。」
「少々お待ちください」

「お待たせいたしました。ワインバーグ氏はお出かけになっております」
「確かですか?」
「はい」
「彼は長旅から帰ってきたばかりなんだ。部屋で寝込んでいるのかもしれない。
申しわけないが急用なので、もう一度確かめてほしい」
「お待ちください」

昼過ぎというだけで時間を指定しなかったことは失敗だった
すでに2時近いが、教授は現れない
気が変わったのだろうか
いつになく協力的な態度だったのに…
すぐにでも押しかけるべきだったか
ドジを踏んだかもしれないという予感が頭をかすめた時
受話器の向こうから返答が聞こえた

「お待たせいたしました。フロントチーフのキムです。
ワインバーグ氏は確かにお出かけになりました」
「それは何時頃?」
「確か1時を少し回ったころかと」
「1時?」
「はい、朝お戻りになられて、またお出かけでしたので、お声かけをさせて頂きましたから」
「何か言ってましたか?」
「ご友人にお会いになる予定だとおっしゃっておられました」
「僕がその友人なんだが、まだ現れない」
「それは…」
「昼過ぎと言う約束で今まで待っていたんだが。彼はタクシーを使った?」
「いえ、そこまでは私は確認しておりません」
「そう…わかった、どうもありがとう」

どこへ行った?
あのホテルからこのホテルまで車なら10分とかからないはず
それとも、約束したのは僕だけじゃない?
あの話しぶりは、嘘ではないと思ったが…

ミン弟の携帯にメールを入れてみた
が、メールはすぐ戻ってきてしまった
電源を入れてないのか
どうした…

***

「どこまで行くんだ?」
「ちょっとしたドライブだ、静かにしてろ」
「市外に出るのか?」
「黙ってろ!」
右隣に座っている男が声を荒げた

運転席の男がちらりと私を振り返った
初老で小柄な男のようだったが
運転は正確ですばやかった

車寄せにたどり着くかつかないうちに、
目の前でワゴンが急停車し、その扉が開いた
同時に後ろから誰かに突き動かされ、中からも引きずり込まれた
後ろの男は私を押しこみながら乗り込んできて急いで扉を閉めた
あっという間の出来事だった

押しこんだ男と中から引きこんだ男にガードされる形でシートに座ると
車は瞬時に動き出した
あの彼が動きだしたのだろうか
まず間違いないだろう
ロジャース君にこちらに来てもらっていればよかったか…

車は市内を離れ、外へ外へと向かっていくようだ
黒っぽい窓からは何も見えない
フロントガラスに走って行く道とその脇の風景がわずかに見えるだけだった

運転席から声がした
「小一時間ほど行くと、温泉がある町に着きます。いい所ですよ」
「温泉…」
「おやじ、よけいな口きくなよ」
「それくらい教えてやったっていいだろ。それよりその人は携帯を持ってるか確認したか?」

運転手の声に、男ふたりは両脇から同時に私の背広に手を突っ込んだ
そして一人が私の携帯をポケットから取り出すと、急いで電源を切った
どうやらあの彼は本気らしい
こうなったら腹を括るしかない…か
私は黙って目を閉じた
これ以上、この不愉快な二人を見たくなかった

***

「ハローハローっ!もしもーっし!」
「お前か」
「いやん、つれないお言葉ぁ」
「何の用だ?」
「お前の愛しの弟はどこ行った?」
「さあな」
「教えろよ」
「昔の仕事仲間に何か頼まれたらしい。それが何か?」

「携帯がつながらないからさ」
「着信拒否じゃないか」
「ひっどい!」
「たぶんそうだぞぉ」
「へえ、そうですか」
「何かあったのか?」
「いや…」

「何だよ、やけにあっさり引くな」
「聞きたい?」
「聞きたくないよ」
「だろうね、いいよ」
「何もったいつけてんだよっ!」
「ほんとは聞きたいんでしょ?」
「聞きたくないっ!だが言いたいなら言えよ」
「いや、また連絡する。これからちょっと出かけるから。じゃあな」

あいつにしては、随分あっさりとしたものだった
何かあったのか
ギョンビンは昨日店に出ていない
RRHにも戻ってきていないようだった
また何かつまらない頼まれごとでもされて断れないのか
まったく、お人好しにもほどがある
そうやっていつもお前は人に物を頼まれては…
ま、人の事は言えない
これは血筋か

ただ、あの人のさりげない態度がやや引っかかる
いつも弟の事をわざわざ報告してくれることはないのに
あの件を話したからだろうが…

ええい、くそっ!
あいつから電話があるといつもろくな事がない
馬鹿野郎が
いい加減で自分のテリトリーに帰れよ
いつまでチョロチョロしてるつもりだ

***

「お兄さん、気がついた?」
目を開けると青年がこちらを覗きこんでいた
「逃げようなんてするからこんな目にあうんだよ、ばーか」
青年はそう言ってくすくす笑った
その笑い声を聞いて、途切れた記憶が蘇ってきた

朝、たぶん朝なのだろう
男がパンと飲み物を持って降りてきた
昨日、最初に車から出てきた男だった
食事をする時だけだと言って縄をといた
黙ってパンをかじり冷めたお茶を飲んだ
それからトイレに行きたいと言った
男は考えた末に、手を前でしばり足の紐をとき
代わりに腰に紐をくくりつけた

それから階段を登って地下室から外に出ると
広い廊下が左右に通っていた
左側に少し歩くとトイレについたので用をたした

男は紐を持ったまま後ろで見張っていた
トイレから出た所で紐を掴んで引っ張り男を引き寄せ
思い切り肘で腹部を蹴り上げた
ふいをつかれた男があっけなく倒れたので
そのまま走り出した

が、脇の廊下から出てきたもう一人の男と鉢合わせになった
その男ともみ合っているうちに
倒したもう一人も起き上がってきた

『あいつらはプロじゃない。この意味はわかるな?』

昨夜あの初老の男が言っていた事を体験する羽目に陥った
自分の体がサンドバッグになっていくような気がした
どこからか怒声が響き、男たちの攻撃がやんだ時には
廊下の端にくずおれていた

「兄さん、だから言ったろうが」
耳元で、あの男の声がしたが
顔を上げることもできなかった

そこまで思い出してからふと気がついた
ここはどこだろう?
地下室ではない
顔がついている床はコンクリートではなくフローリングだ
そして背中には陽ざしを感じる

目の先にテーブルの脚のような黒い棒が見えた
あれは…そうだ、ピアノの脚だ
誰かの別荘だと言っていたけれど
グランドピアノがあるのか…

背中に感じる陽の暖かさが心地よく
3本のピアノの脚が何本にもぶれていって
考える事が億劫になってきた

少しだけ眠ってもいいだろうか
目を閉じてから、青年が手に持っていた物を思い出した
体の中に何かを入れられた
何だろう…たぶん…

ずきずきとした痛みが徐々にやわらぎ
体中が温かくなって、
引きずり込まれるように暗い闇に落ちていった

***

「誰か、見かけた人はいませんか?」
「申しわけありません。ご挨拶の後は他のお客様の応対で目を離してしまいましたので・・・」
「その時のドアマンとか、入口近くにいたベルボーイに会いたいのですが」
「あの方に何かありましたでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ約束を破る人ではないので」
「わかりました、調べてみます。ロビーでお待ちください」

リッツカールトンに直接行って、フロントマネージャーに会った
彼は感じがいい
まだ若そうだが、機転がきき手際もよさそうだ
しばらく待っていると、ドアマンとベルボーイを連れてやってきた
やや年のいったドアマンと、若いベルボーイが
マネージャーの脇にやや緊張した面持ちで立っていた

「ご指摘の時間帯にはこちらの者が入口におりました」
そう言って紹介されるとさらにふたりの顔がこわばった
大したことではありませんと、まず安心させ、
教授の姿を見かけなかったかと聞いてみた
ドアマンは挨拶をしたと言ったが、その後はやはりわからないと答えた
ベルボーイは申しわけなさそうに、まったく覚えがないと言った
期待していたわけではないが、やはりそうか
まあそんなものだろう
いくら長期滞在で顔が知れていても、そんなものだ
人の記憶などあまりあてにはならない

二人を返すと、マネージャー氏が僕に聞いた
「何かあったのでしょうか?」
「いや、まだわかりませんが、誰か教授を訪ねてきたりはしませんでしたか?」
「何日かお出かけになっていらっしゃったので、特に注意はしておりませんでした」
「そうですか…」
「あの・・・」
「彼が帰ってきたら、連絡していただきたいのですが」
「わかりました」
「それと、誰か彼を訪ねてきたら教えていただきたい」
そう言って大使館職員の名刺を渡すと、マネージャー氏の顔色がわずかに変った

「何、大した事ではないでしょう。
ここだけの話、あの人は本国ではかなりの重要人物でして。
それで時折所在を調べる事になっているんですよ」
「重要人物と言いますと?」
「悪い意味ではありません、我が国にとって重要な人材、文字通りVIPだということです」
「そうでしたか。承知いたしました」
マネージャー氏は、名刺を内ポケットにしまいこんだ
もう一度彼に挨拶をしてロビーを出た

入口に立つドアマンは先ほどとは変わっていた
外に出て、車寄せまで歩いてみた
タクシーに乗ったのか、歩いたのか…
どこへ行ったのだろう

ラリーから何か連絡が入るにはまだ早いか
だがあいつのことだ、何かまた調べてくれたかもしれない
とりあえず、自分のホテルに向かって歩き出した

***

車内の空気は乾燥していて、喉の奥がちりちりと痛むような気がした
時折目を開けてフロントガラスから垣間見える風景を見た
市内から遠のいていることはわかる
乾いた道と、その脇に広がる枯れた畑
季節になれば作物が実るのだろうが、今はただ砂埃を舞い上げるだけしか能がない
いや、乾いた道の方が砂埃を舞い上げているのか
たぶんどちらも正解だろう

実際一時間も走ったころ車のスピードが落ちた
そこは、ある集落のはずれのようだった
広い敷地に乗り入れて、車が停まった場所は、
今まで見てきた風景とは全く異質の洒落た洋館の前だった

着きましたよ、と運転席の男が振り返った
左脇にいた男が素早くドアを開けて降りると、
もう片方にいた男が、降りろという風に体を小突いた
どこまでも無礼だ
だが、文句を言っても通る相手ではないだろう

車を降りると、すぐ目の前が洋館の玄関だった
そしてそこに思ったとおりの人物が立っていた
腕を組んでにっこりと微笑みながら

私はゆっくりと進み、数段の階段を上り彼の前に立った
「先生、ようこそ」
彼は機嫌よく挨拶した
「やはり君か」
「何だか久しぶりだよね」
「君に大事な話があるんだ」
「へえ、そっちが用事があるなんて珍しいね」
「会えてよかった、とても大事な話だ」

青年はわずかに首をかしげた
「ふうん、大事な話ね…実は僕もね、大事な用事があるんだ。
その前にさ、まず先生に見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
「そう、とってもいいものだよ。とにかく中に入ってよ。どう、立派な家でしょ?」
青年はそう言うと、
大きな扉に体を預けるような格好でそれを開き、私を招き入れた

私は誘われるまま、
大理石が敷き詰められたエントランスホールに足を踏み入れた
その先に何があるのかまったくわからないままに…


ため息の行方4  あしばんさん

店のドアを開けた僕は
あまりのことに一瞬、完全に「凝固」してしまった



指定の時間通りにBHCに来たリタは
昼間のカッチリしたスーツとは打って変わって
真っ赤な、タイトなワンピースに黒いファーを羽織って現れた
巻き上げたブロンドはそのままで、イヤリングが黒い宝石に変わってる

そりゃもう、その華やかさたるや凄まじいもので
入口で迎えたソグやジョンドゥたちが
口をパクパクさせて何も言えなかったのは正常な反応かも

いや…

僕が凝固した原因はそれじゃない

その彼女の横に…立ってたからだ…パク・ウソクが

もう…
その日何度目かの…目眩がした


紺色のスーツをいつものように着こなした長身が
華のようなリタを、サラリとエスコートして入って来た
ソグたちとは違う理由で口をパクパクさせてた僕を、チラリと見たヤツ
その瞬間、ようやく保ってたなけなしの勇気が萎える

「ちょ…何であなたまで…」
「あからさまに迷惑そうな顔をするな」
「だって…」
「私が無理を言ったのよ、せっかくの夜ひとりじゃつまらないでしょう?」
「でも…」
「”人も金も右から左に動かすことしか頭にない”俺でも、仲介した責任くらいは負う覚悟はある」

ヤツは、昼間に僕が投げつけた言葉をそのまま返してよこした

「いらっしゃいませ~!来てくれたんだね~!」

パク・ウソクを見つけたラブ君が飛んで来て、ちょこんと頭を傾げた

「でも俺、今日は予約いっぱいなんだけど」
「あの、ラブ君…」
「悪いな、今日は彼女の付き合いで予約済みだ」
「あんっ、じゃ次は是非ご指名お願いね」

投げキッスをして向こうに行くラブ君に、ヤツも眉を上げて微笑む
お互い自分たちの素性を名乗らないままのふたりを前にして
ひとり僕だけが非常に居心地の悪い思い
ほんっとに…こいつに関してはロクなことがない


「それにしてもドンジュン、昼間とはずいぶん違う雰囲気ね」
「ネ…ネクタイを替えただけですよ」
「その方が明るくて似合ってるわよ、それに髪にも櫛が入っててカッコいいわ、ね、ウソク」

その質問にヤツがどう反応したのかは知らない
やたら頭に血が登ってた僕は、ロボットのように目的のテーブルに歩き出してて
イヌ先生がふたりに挨拶してるのも
リタが何やらペラペラと喋ってるのも耳に入ってなかった


ソファの奥に座った客ふたりは、まるで絵のようにしっくりいってる
こういう場合、僕は普通、角を挟んでリタの隣に座るんだけど
彼女がお酒は何でもいい?なんて、甘えたようにヤツに話しかけ
ヤツはと言えば、えらく優しげな涼しい目でもって頷いたりしてるから
そこにいていいものかどうか決めかねて、おしぼりなんかを持ってうろうろしたり…

「えと…あの…リタさん…」
「リタでいいわよ、スヒョン氏少し遅れるそうね?」
「すみません…もう間もなく…」
「チェ・スヒョンが参りますまで、しばし私でご容赦願えますか」

音もなく僕の横に立ったのは黒いスーツのソヌっち
その隙のない笑顔に、リタは「あら…問題ないわ」と微笑み返した

「何で、ソヌっちが出てくんのさっ」
「フォローに行ってって先生がネ」
「僕ひとりでダイジョブだよっ!」
「そうでもなさそうヨ」

パチリとウインクをして、さっさとリタの隣に滑り込むソヌっち
仕方なく、僕はパク・ウソクの横に回って座った

まぁ、正直言えば助かったような気もする
こういう公私混同…いや、気持ちの上での混同だけど
こういうのってけっこう弱い
パク・ウソクに言われるまでもなく、スッパリ切ることも
かと言って知らんぷりすることもできないんだから

肉が苦手なリタのために、テソンさんが野菜中心で腕を振るってくれた皿
勇気を奮って「ううううえるかむっっ!」と言いながら
注文の酒を運んで来たテプンさんや、
リタに一緒に写真を撮ってくれと言いに来て
ドンヒに連れて行かれたホンピョは、えらく雰囲気を和らげてくれた
もっとも、雰囲気が硬かったのは僕ひとりだろうけど

「いつもの勢いはどうした」

ソヌっちが、NYのホテル事情なんかの話でリタの相手をしてる間
僕は、ただぼんやりしてその会話を聞いてたんだけど
やっぱりほとんど黙ってグラスを傾けてたパク・ウソクが
上物のウィスキーを含みながら、僕にだけ聞こえるような声で話しかけて来た

「え…あ…何だか…何話していいんだか…」
「俺が邪魔だったか」
「打ち合わせの続きみたいで…どうも調子狂っちゃって…」
「そんなことでよく客商売が務まるな」
「元々得意じゃないんです…それがいいってお客さんもいますけど」
「変わった店だな」
「これでもよくなった方です、初めは目も当てられなかった」

そう…まるっきりだめだった僕を、スヒョンが教育した

「わからないでもないな」
「は?」
「わからないでもない、我が従弟殿がここを辞めようとしないわけ」
「え…」
「社長のあんな脅しに君がうんと言わないわけもな」
「…」
「ロクな世界じゃない、あんなところは」

店内を見渡すパク・ウソクの目が、妙に頼りげなく滑る
そこここで笑ったり騒いだりしてるメンバーが彼にはどう映ってるのか


「もう…酔ったんですか?」
「これぐらいの酒で酔うか」

そう言った口元にするりと流し込まれる濃い液体
少し開いた唇に時折触れる氷が、灯りに一瞬だけきらめく
僕は、その絵のようなラインの鼻筋の上に位置する
店内の灯りにぼんやり紫がかって見える切れ長の瞳に見とれた

「あなた…」

友達って…いる?


長い間喉に詰まっていたような質問が口から出そうになった瞬間
直ぐ横に影が近づいた

「お待たせしました」

驚いて見上げた僕の真横に、いつの間にかスヒョンが立ってた

濡れたような漆黒の髪の先は
ほとんど黒に見える濃い紫のシャツの襟に溶け合うように絡み
僕と揃いのペンダントが掛けられた胸元は
白く艶かしくダウンライトに映えている

リタは、一瞬目を見開いた後、紅い唇で微笑んだ


ソヌっちに「ありがとう」と言い席をすり替わる瞬間
ソヌっちは、スヒョンの耳元に何かを囁いたように見えた
あまりにも素早くてほとんどわからないほどだったけど

なぜか軽くパニクってた僕の肩を、ソヌっちがポンと叩いて離れると
スヒョンは、遅れたことへの詫びの言葉を綴り
リタの白い手の甲にキスをして
パク・ウソクには僕が世話になってることへの礼を言う
それは、文句なく見事としか言いようのない対応

僕はのろのろと、スヒョンにリタとの仕事の関係と経緯を話した

「お会いできて嬉しいわ、短い滞在だから今回お会いするのは無理かと思ってましたの」
「お忙しい中ありがとうございます」

リタは、何やら嬉しそうに話しかけ
パク・ウソクは、さっきまでの和らいだ表情は跡形もなく引っ込めて
いつもの高飛車なVIPの顔に戻って手短かに挨拶をしてる

わかると思うけど、僕は半端な笑顔を貼付けたまま凍ったように座ってた
ぼやんと見とれてたパク・ウソクの横顔に
いきなり懐かしいスヒョンの微笑みが飛び込んで来て
僕は、そこに設けられた席の目的を急に思い出したからだ


永遠に続くのかと思われた社交辞令を切ったのは
思いがけずスヒョンだった

「わざわざ僕をご指名下さったからには、理由がおありでしょう?」
「未来のスターに是非お会いしてみたかったの」
「スターなんかになりませんよ」
「あ…あの、ね、スヒョン…」
「その謙虚な感じがいいのよね」
「謙虚じゃなくて事実を言っただけですよ」
「うーん、いいわ、その感じ」

妙な雰囲気に困り果ててパク・ウソクを見ると
ヤツは、まるで別世界にでもいるかのように知らんぷりで
ゆったりと背もたれに身体を預け、新しいグラスに口を付けてる
ちょっと笑ってるようにも見えるその顔は相変わらず憎たらしい

スヒョンは、リタの顔を見つめてソファの背に腕を掛け
足を組み替えると、サラリと微笑みかけた

「で、本題はなんでしょうか?」
「あなたをスカウトに来ましたの」

あまりに直な展開に、驚いて絶句したのは僕だった

当のスヒョンは、平然とした顔で片方の眉をちょっと動かしただけ
パク・ウソクに至っては、明後日の方を向いてる

「なるほど」
「あら、驚かないのね」
「いや、充分驚いていますが」

そう言ってスヒョンはチラッと
ホントに一瞬チラッとこっちを見たような気がしたけど
僕にその視線の意味を捕らえる余裕なんてありゃしない

「僕にグラフィックデザイナーの才能があるとは思えませんが?」
「デザイナーは間に合ってるわ、うちはAM社との提携を進めているの」
「なるほど」
「それで、お話はおわかりになるでしょう?」
「あちらにはお断りしてあります」
「存じてますわ、ですから私が参りましたの」

タチの悪い目眩がしそうだった

「で、ここで交渉を始めるおつもりですか?」
「ええ、私、無駄なことは嫌いなんです」
「お酒も無駄?」
「お酒は心の糧よ、水割りは終わりにして白ワインでも頂こうかしら」
「お会いできたお祝いに?」
「ええ、私たちの未来のために」

あう…もう…熱が出る…

僕は、即刻そこからトンズラしたかったけど
この危うい状況を放っておくわけにもいかず強張ったまま座ってた
ため息を逃がしながら店の奥に目を向けると
ソヌッちがチラチラとこちらを見てる
よく見れば、あちこちでメンバーがこの「現場」を気にしてくれてる

「こうして間近で拝見すると確かにいいわ、セクシーね」
「それはどうも」
「AM社のCEOは、ウィバーの広告で惚れ込んだそうよ」
「あれは映画とのタイアップ効果です、僕ひとりのものじゃない」
「可能性を感じると言ってたわ」
「そういう人材は星の数ほどいますよ」
「プロをなめちゃいけないわ、スヒョンさん
 その星の中から選ぶ力量の差が成功するか否かを決定づけるのよ」
「勿論、AM社の力は存じてますよ」

話の中にキリョンのことは出てこない
もしやあからさまに取り引きでもされるのかと思ったのに
リタはひと言も僕との契約の件には触れない

でも、その時になって初めてわかった
そんな子供じみた真似をしなくたって
パク・ウソクがここに座ってるってことだけで
何を言わんとしてるのか、スヒョンには充分に伝わるんだろう

そう、この3人にはそれがわかってる
僕は、ただひとり子供になったようで意気が下がった

スヒョンが悩むのを承知で
こんなことにしちゃったことへの罪悪感と情けなさと…

「どう?ドンジュンさんはどう思う?」
「ひぇっ?」

いきなりリタに水を向けられて、僕は飛び上がった

「なっ…何がですかっ?」
「だから、スヒョンさんが世界的な仕事をするチャンスについてよ」
「え…あの…僕は…」
「賛成か反対かなんて言わなくていいのよ、素直な意見でいいの」
「あ…ええ…」

そう来るとは思わなかった
顔が、火のように熱くなった
脂汗が出て来る
ヤバい感じが漂ってる

固まってる僕を見てるのは真っ赤な服のリタだけだ
あとのふたりは黙って…
向こうの男はテーブルの上のクリスタルの灰皿を見つめ
直ぐ横の男は、ただ酒を口にしてる

僕は、慌てて目の前のパク・ウソクのおしぼりを引っ掴んでデコの汗を拭った
それ以外できそうなことが思い浮かばない

その時
顔を上げたスヒョンの穏やかな声が通った

「同じことは何度も申しません、お断りします」

リタが大きな目を開けて振り返り
パク・ウソクが目線だけをスヒョンに向けた
僕のゴクリという喉の音が誰かに聞こえただろうか

「あら…」
「何です?」
「いえ、今そんなハッキリしたお返事をいただくとは思ってなかったので」
「初めから決めていることです」
「でも…」
「諦めて下さい、どんな条件の提示も無駄です」

清々しいまでに決然としたスヒョンの目

その瞬間の僕の胸の中をどう説明したらいいんだろう
震えるほどほどホッとした気持ちと
泣き出しそうになるほどがっかりしたような気分と

正直に言う
スヒョンがそれほどあっさりと断るとは思ってなかった
…って言ったら変なんだけれど…
僕は、その、もちょっと悩ましい顔のひとつもするんじゃないかと
つまり、僕の立場を考えちゃって困り果てるんじゃないかと
わけもなく、そんなことを勝手に想像してた

妙な沈黙の後
リタは、おもむろにバッグからシガレットケースを取り出し
言われてもいないのに、パク・ウソクに「吸いたくなるのよ、こういう時は」と
紅いマニキュアの指で、濃い茶色の煙草を挟んだ

ヤツが、ほんの少し可笑しそうに「どうぞ」と言うのと同時に
スヒョンの手が彼女の口元に近づけば
カチリというライターの小さな音がする

僕は、一瞬、小さな火に映し出されたスヒョンの顔を見つめて
…ドキリとした

煙草に火を与えながら
微笑みを浮かべるその目は、リタじゃなくて隣の男を見てる
息を詰めながら、そっとその男に目を移すと
…そいつも…唇に笑みを浮かべて相手を見返してる

「さすが、ドンジュン君の上司だ」
「ただの上司じゃありませんよ」

僕は、また椅子から飛び上がりそうになった

「ス…スヒョ…」
「ただの上司なら、可愛い部下のために大いに悩むところでしょうが」
「ほう」
「彼のためにも、そんな話は受けられません」
「なるほどね」
「…あの…」
「ウソクさんも、ワインをいかがですか」
「白は好きじゃないんでね」

もう…僕はほとんど泣き出したくなりながら
テーブルの淵の辺りを見つめてた


沸点6 錯綜2 オリーさん

ギョンビンは今日も店を休んだ
おまけにミンチョルさんもいない
二人が休みなので、イヌ先生はまたため息をついていた
申しわけないような気になって僕は一所懸命カバーした
もちろんダーリンと一緒にね
ダーリンも、なぜか人手が少ないとやる気になるみたい
いつにもまして僕はくんくんとダーリンにまとわりついた
あ、もち仕事でね

そんな僕に、またあいつから電話が入った

「仕事中」
「わかってるよ、やっぱり弟君と連絡が取りたい。あの人ならわかるだろ?あの麗しの君」
「ミンチョルさんのこと?」
「That’s it!」
「あいにくだな、今日は彼も休みだ」
「休み?」
「ああ、音楽の仕事が押してるみたいだ」
「どいつもこいつも忙しいこった」
「そう、僕も忙しい」

「ちょっと待ってくれ、じゃあどうしたら弟君と連絡が取れるんだ」
「知らんよ。そっちから連絡してみりゃいいだろ、こっちの部長にでも」
「したよ」
「何?」
「弟君はいないと言われた」
「…」
「悪いが、麗しの君の携帯の番号教えてくれ」
「待てよ、何でギョンビンとそんなに連絡が取りたい?」

「教授だよ」
「あの先生が何か?」
「行方不明だ」
「行方不明?」
「会う約束をしてたのに来ない」
「あの先生にも嫌われてたじゃないか」
「やかましい。だが今回はすっぽかされる理由がない」
「へえ」
「だから弟君が何か知らないか聞きたいんだよ。教えてくれ」

何だか嫌な予感がした

「いや、僕が聞く。あと少しで店は終わる。そうしたらミンチョルさんに話を聞いてみるから」
「ほんとに?」
「ああ、店がはねたら連絡してみる」
「頼む。必ず連絡くれよ」
「わかったよ」
「ラブ君によろしく」
「伝えないよ」
「ふんっ!」

電話を切った後、ざわざわと嫌な感じがした
やはり何かあったか…

席に戻ると、ダーリンがすくいとるような視線を投げた
僕は笑顔を作ったが、きっとダーリンは何かを感じたに違いない
ダーリンの勘はとっても鋭いのだ
そんな時は、すっと僕から離れて行く
だが今回はまとわりついてきた

「どうしたの?」
「いや、ぴーがまたわけのわからない電話よこしてさ」
「ふうん」
「いや、仕事の話だよ」
「チョーホー関係?」
「まあね」
「ピーちゃん、仕事してるんだ」
「珍しくね」
「ふうん」

素気ない口調とは裏腹にダーリンの視線が熱い

「今日はRRHに帰るわ」
「そ、好きにすれば」
「ごめんね」
「別に」

ダーリンはそれきり何も言わなかった

***

I I … … …
I wanna say these words to you
I … I love you
I wanna say these words to you
I I … … …
I wanna say these words to you

君に出逢うまでは
前に進むことがすべてだった
僕が見ようともしなかった
大切なことを教えてくれたね
But step by step I've realized
君の愛に 守られていたことに
I I … … …
I wanna say these words to you
I … I love you
I wanna say these words to you
I I … … …
I wanna say these words to you

ついこの間上がったばかりのドンジュンとミンのCD
ふたりの声がエンドレスに部屋に響いている
いい出来だ
予想以上に…

特にドンジュンがリードを取って
ミンがバックに回った時のバランスがいい
のびのあるドンジュンの歌声に
ミンの抑えめなバックコーラスがだぶる時…

I I … … …
I wanna say these words to you

その歌声を聴くと、体の中で得体の知れない獣が暴れ回り
それから傷を負ったかのようにのたうちまわる
やがて静かになるが、
しばらくすると、また獣は立ち上がりうろつき始める
そしてまたもがきだす
それでもCDを止められない

このCDは売れる
CD本体の出来の良さと映画の効果があいまってヒットする
そのためのプロモーションも手を打ってある
聴くたびに身を引き裂くこの歌を
これから僕は笑いながらセールスするのだ

何のために?
それは、神が僕に与えた罰だから
世界で一番愚かな僕に神が与えた罰だから

この歌の持つ意味を考えて欲しい
そうドンジュンにアドバイスしたのは僕だ
何て偉そうに…
歌詞の意味を本当に理解していなかったのは
誰だった

気がつくと窓の向こう側はすでに帳がおりている
窓辺に立って外の景色を眺めた
綺羅星のような無数の灯りがまたたいている
この灯りの下のどこかにミンはいるのだろうか
それとも
どこか違う空の下へ行ってしまったのだろうか

いずれにせよ
もう手が届かない…

獣は僕の中で暴れ回り傷つきながら、何度も立ち上がり
やがてその息を止めるだろう
僕の心をすべて食いつくしたら…

それはいつの事だろう

その時、ドアがノックされているのに気づいた

音楽を止め、戸口に向かって歩き出した
誰だろう…もしかしたら…

そう思って開いた扉の向こうには
お兄さんが立っていた

***

通された広間は応接室として使われているのだろう
入って正面の大きなガラス張りの窓が
灯篭と池のある立派な庭の風景を映し出しているが
庭はやはり季節のせいか生気を感じられない
部屋にはスタインウェイが右側に置かれ
左側の奥には飾り棚、その前には応接セットが置かれている
スタインウェイのすっきりとした立ち姿と
派手な色合いのソファは妙にそぐわない感じを受けた

そして
ピアノの脚の向こう側に異質の塊があるのに気づいた
布袋のようなその塊が人であるらしいと気づくのにしばらく時間がかかり、
それが君なのだろうかと思い当たるまでに、さらに時間を要した
驚いて振り向いた私の顔を見て、青年が大きく顔をほころばせた


「どう?気に入った?」
そう言ってから青年は大きな笑い声を上げた

その声を背中で聞きながら、私はピアノを通り越し君に駆け寄った
近づくと、ただならぬ様子が一目でわかった
床の上で体をくねらせ横たわっている君の手には手錠がかけられている
いつもきちんとプレスされたシャツは薄汚れ
閉じられた目の脇と頬には紫色の痣があり
かすかに開いた唇の端には血のりがこびりついていた
跪いて肩に手をかけても、君はぴくりとも動かない

「これはどういうことなんだっ!」
私は振り返って青年に叫んだ

青年はくすくす笑いながら答えた
「本当はあんたの目の前でお兄さんボコボコにしたかったんだけどさ
あんたがいないから順番が逆になっちゃったんだよぉ
お兄さん往生際が悪くて逃げようなんてするから自業自得だよねぇ」
「自業自得?」
「大丈夫、寝てるだけだから。逃げられると困るから、ちょっと薬使っただけ
そろそろ目が覚めるんじゃない」

自業自得という言葉に、私の頭の中が熱くなった
私は立ち上がってまっすぐに青年の視線をとらえた

「相手が違うだろう、フランシス」

青年の笑い声がやんだ
「相手が違うだろう。君が恨んでいるのは私のはずだ。彼は関係ない」
「何だって?」
「私の言っている意味はわかるだろう、フランシス・ガード…」
「その名前を言うなっ!」
鋭い叫び声が広い空間に響いた

「そんな名前、知るもんかっ!」
「どっちの名前が気に入らない?フランシスか、それとも里親のガードナーか?」
「うるさいっ!」
さきほどまで笑っていた青年の瞳は、一転して怒りで充血している

やはりそうだった
この青年はサラの…
すべてを
私はすべてを受け止めなくてはならない

「最初に大事な話があると言っただろう」
「お前の話なんか聞きたくないね」
「私を怨むのは仕方がない。私もまだ自分が許せない。だが、このやり方は間違ってる」

フランシスは美しい顔を歪ませて叫んだ
「お前に何がわかるんだっ!」

そう、私にはわからない
ただ君の哀しみを想像するだけだ
私の苦しみと照らし合わせて…
だが
「少なくともサラは君がこんな事をするのを望んでいない」
「何だって?」
「なぜスイスに行かなかった?それがサラの望みだったのに」
「うるさいっ!うるさいっ!やめろっ!」
フランシスは怒鳴り散らした

「やめない、君にはサラの最後の望みを伝えなくては。それが私の義務…」
「やめろっ!あの人は、あの人はそう呼ばれるのが嫌いなんだっ!
サラなんて呼ばれるのは大っ嫌いなんだっ!畜生っ!馬鹿野郎っ!」

その叫び声を聞いて、懐かしい空気が私を包んだ

「そうだった、サラはそう呼ばれるのを嫌ってた」
「お前いったい…」
フランシスは幽霊を見るような目つきで私を見つめた

「なぜサラがそう呼ばれるのを嫌ってたか知っているか?」
「うるさい!やめろったらやめろっ!」
「同じクラスにサラ・ジーンという女子学生がいた。プライドの高い気取った娘だった。
その彼女がサラに気があった。同じ名前のその彼女の事で私は随分サラをからかった。
そしてそれからサラと呼ぶようになった。当然サラは嫌がったが最後にはあきらめて…」
私の回想をフランシスが遮った

「お前いったい…何なんだ…」
フランシスが唸った

私は深呼吸をして
それからなるべく平静な声を出そうと努力した

「サラは、私の初めての相手だ。愛していた、とても…」

私の言葉がしんとした部屋の空気を伝わり、フランシスに届いたのがわかった
なぜならその瞬間、
フランシスの体から青白い炎がゆらめき立ったのが見えたような気がしたのだ

***

店が終わってから、あの人の携帯に何度か連絡を入れたが
繋がらなかった
事務所の方へかけると帰ったという
嫌な予感がますます膨らみ、
僕はRRHの彼らの部屋をノックした

何度かドアをノックしてやはり誰もいないのかと思った時
その扉がその人によって開かれた
僕の姿を認めた瞬間、わずかにその人の瞳が震えた

「帰ってたんですね。携帯に連絡したのですが繋がらなくて」
「携帯?ああ、すみません。携帯はどこかに置き忘れてしまって…」
「そうですか。実は弟の事でちょっと」
「え?」
「実は弟の奴、先輩の所へは行っていないようなんですが」
「…」
「それで至急連絡を取らなくちゃいけなくて」

「連絡を…」
そう呟くと扉に片手をかけたまま、その人は長いこと下を向いていた
そして大きく息を吐くと顔を上げた
その瞳の色を見て、僕はとても落ち着かない気分になった

「やはりあなたには隠しておけませんね」
「え…」
「先輩の所へ行ったというのは嘘です」
「は…」
「ミンは…」
「…」
「出て行きました」
「え…」
「あの先生の所へ行きました」
その人はそう言うとひっそりと微笑んだ

「それは…どういうことですか?」
僕は心臓が激しく波打つのを感じた
「どういうこととは?」
「教授のところへ行ったというのは…」
「そのままの意味です。もうここへは戻らない」
「そんな…冗談でしょ?」
「冗談…」
その人はふと視線を泳がせた
その視線が数秒彷徨って再び僕を見つめた時には
薄い膜が降りた感情のない瞳になっていた
その人はその瞳と同じ感情のない声で言った

「もう戻りません…ミンがこんな冗談を言うと思いますか?」

動悸が激しくなった
まるで体中が心臓になったようだ
頭の中からぐわんぐわんと音がしてきた
嘘だ…
嘘だろ…

















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