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ぴかろんの日常
リレー企画 294
ため息の行方5 あしばんさん
目をかけ、慈しんだものが、自分のあるべき方向に気づき離れていく
慣れたことだろうと言われれば、反論もできない
今更だろうと言われれば…
そう…今更ではある
イヌ先生から連絡を受け取ったのは午後だった
ドンジュンが大事な客を連れてくるから予約を入れさせて欲しいと
少々遅れて店に入ってみれば、やはりあの男がいた
連れの女性とふたりで、そこだけ雰囲気をごっそりと変えている
どちらが客だかわからないほど小さく座っているドンジュンは
遠目から見ても、緊張しているように見えた
ここのところすっかり店の状況を把握してくれているイヌ先生が
「ワケありみたいだから気をつけてみて」と忠告をくれた
厨房の辺りから覗いていたテソンが手招きし
「今夜はこれくらいの艶が欲しいとこだな」と言って
僕が羽織っていた黒いジャケットを剥がして、ボタンをもうひとつ外す
彼が横に同意を求めれば、腕組みをしていたmayoさんがチェックをして頷く
ひとは、自分にないものを持つ者を羨ましく思うものだが
今の僕に言わせれば、テソンたちの落ち着いた生活がそうだ
波風のない日々などあるはずもないけれど
ただ愛しい者と日だまりに座っているような時が恋しい時もある
「大丈夫?チーフ…撮影、順調ですか?」
「監督の機嫌はいいよ」
「何かできることは?」
「うん、閉店後にうまいお茶を頼もうかな」
「了解、とびきりいいやつ煎れますよ」
ボォっと隣の男の顔を見ているドンジュンの背中から顔を出すと
あいつは電気でも浴びたみたいにビクリとしやがった
それまで相手をしてくれていたソヌさんが立ち、すれ違い様に耳元に囁く
ー遠回しはダメだ
彼の言葉は、その先の客の質問を知っていたわけではありえないが
十二分に的確なアドバイスだったと思う
たっぷり時間をかけた丁寧な挨拶の後
僕の方から切り出した「本題は何か」という質問に
いかにも優秀で頭の切れそうなリタという女性は
こともなげに「スカウトに来た」と告げた
ドンジュンが、あれほどブータラ言っていたあの男と連れを僕に引き合わせるなど
それ相応の理由があるとは思ってはいたのだが…
まぁ当たらずも遠からずの線ではあったかな
ーあら、驚かないのね
ーいや、充分驚いていますが
その一瞬、ちらりとドンジュンを見れば
干涸びた二日酔いのフグのような顔で固まっていた
最近、僕はおまえにそんな顔ばかりさせているような気がする
ーどう?ドンジュンさんはどう思う?
ーひぇっ?
いきなりリタ嬢に水を向けられて、ドンジュンが椅子から飛び上る
ーなっ…何がですかっ?
ーだから、スヒョンさんが世界的な仕事をするチャンスについてよ
ーえ…あの…僕は…
ー賛成か反対かなんて言わなくていいのよ、素直な意見でいいの
ーあ…ええ…
僕が心配してるのは、おまえのそういうところだ
自分の「最善」だけを考えられない
普段は後先考えずに突っ走るくせに、情が絡むと直ぐによろける
それがいいっていう世界じゃないだろう、今おまえがいる場所は
僕こそがつきたいため息を殺して相手を真っ直ぐ見る
ー同じことは何度も申しません、お断りします
見てはいなかったが、ドンジュンが息を呑むのがわかった
ーあら…
ー何です?
ーいえ、今そんなハッキリしたお返事をいただくとは思ってなかったので
ー初めから決めていることです
ーでも…
ー諦めて下さい、どんな条件の提示も無駄です
リタに、少々強すぎるかと思う射抜かんばかりの視線を送れば
彼女は、ほとんどわからぬほどの困惑の色を漂わせ煙草に手を伸ばす
火を差し出すとその向こうの男と目が合った
仕立てのいいスーツに乱れも無く流された髪
切れ長の目には、あのテジュンさんを思い出すほど長い睫毛がかかる
鋭い目つきは、大概の人間を萎縮させるようなそれだが
弱い部分を悟られないよう慎重に訓練されたものかもしれないとも思う
まぁ…あいつは、そういうところは敏感に感じているだろうな
無意識に…
「さすが、ドンジュン君の上司だ」
「ただの上司じゃありませんよ」
僕は、今一度椅子から飛び上がりかけたドンジュンよりも
男の目が興味深そうに…と言うより
僕の言葉に、ほんの僅かだが不快感を表したことに反応した
「ス…スヒョ…」
「ただの上司なら、可愛い部下のために大いに悩むところでしょうが」
「ほう」
「彼のためにも、そんな話は受けられません」
「なるほどね」
「…あの…」
「ウソクさんも、ワインをいかがですか」
「白は好きじゃないんでね」
「では、赤を持ってこさせましょう」
「けっこう、そういう気分じゃない」
「あ…あの…」
「ふたりとも、いきなりハングルにならないでよ」
「失礼、ミス・リタ」
「おや、少しはハングルを勉強したと言わなかったか?」
「そんな早口じゃわからないわよ」
「あの!えと!ウソクさん!」
「何だ」
「あっあの、何も食べてないじゃないですか、お腹の足しになるもの持ってきましょう!
ジャ、ジャージャー麺とかどうですっ!すっごくうまいですここの!」
いきなり上がったドンジュンの素っ頓狂な申し出に
男ふたりよりも先にミス・リタが笑い出した
「知ってるわ、ジャージャー麺!いいかもね~ウソクとスヒョンさんが並んで
麺をすすってる絵ってセクシィだわ~ドンジュン、やっぱりあなたって面白い」
「ム…」
小学生のように口を尖らせたドンジュンをチラリと横目で見て
満更でもなさそうな男は「そろそろ失礼する」と言い、立ち上がった
「あら、もう帰っちゃうの、ウソク」
「ここに連れて来るまでが役目だ、仕事を残して来てるんでね」
「私はもう少し遊んで行くわよ、スヒョンさん、お相手して下さるでしょう?」
「もちろんです」
「あまり飲み過ぎるなよ、君は…」
「うふふ…大丈夫よ!仕事の相手とは寝ないから」
「ほぉ…そうだったとはね」
意味深に微笑み合うふたりに
ドンジュンは固まって(口はまだ尖ったまま)目だけを動かしている
ただの付き添いだからと、頑に僕の見送りを断った男をドンジュンが送った
ドアの外でさっさと追い返されたのか、直ぐに席に戻って来たあいつは
胸でもつかえたように小さなため息を繰り返しついている
頭に犬の耳でもついていたなら、ハッキリと下向きになっていることだろうな
これ以上、あいつが無駄に疲れることもないだろうと
リタにふたりきりで話したいと申し出ると
彼女は、意外そうな顔をしつつも笑顔でドンジュンを解放した
結局、ドンジュンの大事なお客様は閉店間際までいて
売り上げにずいぶん貢献してくれたが
さして酔った風でもなく、趣味のスカッシュや
飼っている名無しの猫の話で盛り上がっていた
何よりも、少しは警戒をしていた「スカウト」の話が
その後、一切、ひと言たりとも出なかったのは流石というより他はない
下手に突っ込みを入れるのは逆効果だとでも思ったのだろう
もちろん「諦めましたわ」の言葉もなかったが
店の外、街灯の明かりの下ですら華のような彼女は
タクシーに乗る寸前に、僕の首に腕を回して頬にキスをして来た
挨拶…にしては少しばかり感情がこもっていたかな
「素敵な方にお会いできて…仕事に感謝だわ」
「明日のお帰りはお気をつけて」
「また…必ずご連絡させていただくわ」
「お待ちしています」
「じゃ、明朝ね、ドンジュン」
僕の後ろに立っていたドンジュンに小さくウィンクすると
華は、ようやく車に滑り込み街に消えた
「あの…ごめん…」
夕刻、少しばかり雨でも降ったのだろうか
いつもより澄んでいるような街の灯から振り返ると
店のドアの前で、肩をこわばらせたドンジュンが立っている
口ではごめんと言いながらも
尖らせた唇と僕の目から逸らされた視線は
どこからどう見ても何かの「不満」を表しているらしい
近づき顔を覗き込もうとすれば、相手は後ずさって
意図せず、僕はドンジュンをドアに追い詰めたような形になる
「ごめん…いきなり…説明する時間もなくて…」
「大丈夫、僕もきっちりとお客様の相手をしただけだから」
「…うん…」
尚も僕から逸らす目を追いかけて覗き込めば
眉の形にまで「不満」がくっきりと映し出されたようだった
「おまえ、僕が速攻で断ったのが気に入らないんでしょ」
「…そんなこと…」
「僕が、あんな取引きじみた話に乗ると思う?」
「…」
「いずれにしろ、僕が断ったくらいでおまえの仕事に影響するようなら
もう、今からそのプロジェクトは諦めた方がいいと思うね
僕ひとりの価値より低いってことだからね、おまえのやろうとしてること」
「そりゃそうだけど…」
「でも…あの男は、わかってて彼女を連れて来たんだろ?」
「はぁ?」
やっぱりわかってないのかな、そこまでは
「おそらく僕が断ると踏んで彼女を連れて来た」
「まさか…ヤツは彼女の味方なんだよ?」
「彼とおまえの目の前で断られれば、彼女だってバカじゃないから無理な手段は使わない」
「でも…」
「僕が断った時の彼の顔は何やら満足そうだったけれどね」
「そうかな…」
「降り掛かる粉はさっさと片付けたいんだろ」
「何のためにさ」
「おまえのプロジェクトをどうあっても成功させたいみたいだな」
「そりゃ…ヤツは自分の得しか考えてないから…」
「…」
「言ってたから…ダメなら即刻手を引くって…ビジネスだって…」
ドンジュンの目の中に、ほんの小さな揺れを感じて
僕は言いようのない気持ちに突き上げられる
そう、その時まで忘れていた光景
あの男のオフィスビルエントランスでの光景が頭をよぎった
事情はどうであれ
こいつを抱えるように抱きしめていた長駆のシルエット
「スヒョン…」
「ん」
「スヒョン…やっぱ怒ってんじゃないの?」
「何で」
「何でって…だって…」
先ほどまでの不満が不安にとって替わった黒い目を覗き込み
左の頬にそっとキスをすれば
もうすっかり掻き消えているホテルの石けんの香りを思い出す
今日撮ったシーンが重なるのはどうしたわけだろう
ヒョンジュの影をぼんやりと頭に描き
二度と戻らない残り香にただ身を任せ…既に哀しみも感じぬ身体
「おまえ、もう少しずるくなりなさいよ」
「どういう意味?」
「裏で手を回して、僕を売るぐらいしたらどう?」
「売る?」
「そう」
「本気で言ってんのっ?」
「ああ」
「バッ…そんなのっ…できるわけないじゃん!」
「ふふ」
「ふふじゃないっバカッ!何ふざけたこと言ってんのさっ!何で僕がスヒョンを売るのさっバカッ!」
本気で怒りかけた唇を指の先で押さえる
「いずれにしろ、脇が甘すぎる」
「脇なんかっ」
「甘すぎる」
「じゃ…じゃぁ…このままでいいっての?」
「ん?」
「その…リタがこれからどう出ようと、僕は僕の仕事のことだけ考えても」
「堂々としていればいい、僕のことなんかに振り回されるな」
「…」
「…」
「…大丈夫なの?」
「ああ」
「ホントに…」
「他の条件に左右されるような仕事はしないことだ」
「…」
「ん?」
「…なんか…同じこと言う…」
…彼と?
「誰と?」
「…いや…ううん…ナンでもない…」
「ドンジュン」
「ね…今夜…一緒にいてくれるでしょ?」
「…明日、早いんだろ?」
「大丈夫、全然大丈夫だから、ダメ?ダメなの?」
街灯を映して濡れている
おそらく自分で何を不安がっているのかわからぬ黒い目
僕は、返事をせぬまま柔らかくキスをした
背中を包む夜の街のざわめきが
小さなすれ違いに帳(とばり)を下ろす
ため息の行方6 あしばんさん
その夜、僕はスヒョンに抱かれた
抱かせたって言った方が正しいのかもしれない
焦るなと、何度か困ったような顔をされたけど
僕は…そう、なぜだか急いていて…言うことなんか聞いちゃいられなかった
仕事の話が妙な方向に行っちゃったモヤモヤだとかのせいじゃない
だいたい、今日のスヒョンの一件が結局どうなったのか僕にはさっぱりだし
そりゃ、一瞬の躊躇いもなく断られた時は複雑な気分だったけど…
でも、今思えば、本人があんだけハッキリ断ってくれたのは良かったような気さえする
そんなのとは関係なくて
何でもいいから、とにかくスヒョンの側にいたかった
スヒョンと隙間なく身体を合わせていたかった
そうすれば、このワケのわかんないざわつきが収まるような気がした
ー残念だったな
店のドアの直ぐ外で僕の顔を見もせずに言ったのは、あの男だ
「すみません…あの…」
「まぁ、あとは彼女が何とか考えるだろう、どうしても “彼”が必要ならな」
残念と言ったわりには、別にどうってことのなさそうな…
って言うか、むしろサッパリしたってくらいの横顔のパク・ウソクに
少々ムッとしたのは、その日の午後散々気を揉んだ僕の方だった
元は、こいつがスヒョンの情報を彼女に提供したんじゃないか
「彼は、この店にだって必要な人間なんです」
「俺の知ったことか」
「スヒョンが…意思を変えることはないと思います…あんな軟派ですけど…その…」
まだ夜は肌寒さが残るこの季節
薄手の白いコートの胸元を合わせながら視線だけをこっちへよこす男は
唇をほんの少しだけ動かしかけたように見えたけど
逆光の中の表情はほとんど読み取れない
「みっ…妙な小細工はしないで下さいよ!」
「小細工?」
「そうですよ!…かっ…彼は」
言ってやるつもりだったんだ
スヒョンは、そんなことに左右されるような男じゃないって…
だから脅したってすかしたって意味ないってことを
そのいけ好かない顔に言ってやるつもりだった
でも、僕の口から出たのは…
「大事な人なんです」
自分でもドキリとするくらい
何て言うのか…ため息みたいな声だった
僕は、男がいつものようにクソ意地悪く切り返してこないことに戸惑った
ふん、のひと言でもよかった
相変わらず甘い男だとバカにしたような視線でもよかった
なんか反応してくんないと肩の辺りがビリビリする
妙な沈黙は、ほんの一瞬だったんだろうけど
自分がひどく滑稽で場違いなことを言ったみたいに思えてきて
顔が熱くなるのを感じながら、のどをごくりと鳴らしてしまった
同時にカツという靴の音がして男がいきなり歩き出し、僕は慌てた
「あ?…ウソクさん…?」
普段は、お客が店を出る時は必ず車の手配を確認するのに
すっかり忘れてたことに今更気付く
「車、あの、車を呼びますから!」
「けっこう」
「あの、でもっ…」
「仕事に戻れ」
そう言って動き出した身体は
数度瞬きをするほどの間に雑踏に消えた
ぽつねんと取り残されたみたいな僕の中には
街の少しくすぶった灯に浮かんでた横顔が残像となって…
ー俺の知ったことか
彼の横顔は、なぜか、いつもヨーロッパの古い陶器か何かを思い起こさせる
パリのマレ地区の路地にあった骨董屋か…
いや、違う、夜の博物館の…ショウケースの中の陶器だ
ホールの真ん中に、堂々と、完璧な美しさで展示されてるんだけど
いつもひっそりと、ただひとりで佇んでるやつ…
広大な空間の、永遠と思われる孤独を甘受しているかのような…
…ンジュン…
つぶやきみたいな声に目を開ければ
スヒョンが短い息をつきながら「ちょっとは加減しろ」と言って僕を見上げてる
気づいたら、僕の身体は汗でびっしょりで
ベッドのシーツは、黒い龍のように乱れて渦を巻いていた
熱に浮かされたみたいに呼吸を整える僕の頬に、スヒョンの片手が伸びる
その、少し笑みを含んだ目は店からずっと変わらない
仕事が終わって、ジホのおっさん達が
今日の美麗カップルを使った映画の妄想なんかで盛り上がってる時も
微笑んで仕事のファイルに目を落としてただけだし
ラブ君が、スヒョクさんを連れて出て行きながら
ちょっと口を尖らせてスヒョンを睨んだ時も
いつもみたいに眉を上げて応えただけだった
今だって
上の空で自分にまとわりついてるバカな男に腹を立てるどころか
全部吐き出させてやろうかとばかりの落ち着いた濃い海の色
その夜初めてスヒョンの目をちゃんと見たような気がして
じわじわと申し訳なさのようなものがこみ上げる
僕はスヒョンを受け入れたまま、ゆっくりと身体を倒してキスをした
「ごめんね…スヒョン…」
「ん?」
「ごめん…」
「何に謝ってるのか、わかってるの?」
「…」
「わかってる?」
「ううん…わかんない」
本当にわからなかった
どうしてこんなに落ち着かないのか
どうしてこんなに不安なのか
そして…どうして目の前の男は、いつも以上に優しいのか
撮影の仕事は中盤に差し掛かり
ホントは、こんな僕に付き合ってる余裕なんてないはずなのに
「おまえの思う通りにすればいい…」
それが、今ここでの行為のことじゃないってことは
いくら上の空だった僕にだってわかる
「してるよ…僕はいつだって思うように生きてる…知ってるでしょ」
「ああ」
「ね…僕の心が何か言ってるの?…何か矛盾したこと考えてるの?…ヒョンジュのこととか?」
「ヒョンジュ?」
「ちゃんと理解しつつあるつもりだけど…僕、まだ腹立ててる?」
「腹立ててたのか?」
「ねぇ」
「いや…」
「じゃ、何でそんなこと言うの」
スヒョンは口を閉じたまま、僕の目にかかる汗に濡れた髪を優しく梳く
「何か…答えてよ…」
「いいから、続きだ」
「だって…」
「もう、加減しなくていいから」
「だから…」
尚も、何らかのさぐりを入れようとした僕の首の後ろに両手が回り
乱暴って言ってもいいくらいの力で引き寄せられたかと思うと
息もできないほどの口づけに引き込まれる
濃密な口づけに頭の奥が痺れ出せば
この人が好きだっていう、とても単純な想いが身体の芯を熱くする
そう、こうしていればいいんだ
こうして、ぴたりと隙なく身体を合わせてればいい
それだけで何もかもが大丈夫だと思えるから…
僕は、いつもよりずっと強い快感に没頭した
頭の中の、古い蜘蛛の巣のような薄いもやを切り捨て払いながら
ため息の行方7 あしばんさん
早朝、ベッドの中からスヒョンを見送った
だるだるで、目を開けるのがやっとだった僕に
ジジィのくせに何事もなかったかのように元気なスヒョンは
薄紫のジャケットを羽織りながら近づき、行ってくるよと声を掛けた
夕べ、僕がシャワーを浴びてる間に替えられてた新品のシーツに身体をあずけたまま
僕は極力何でもない感じで笑いかけてみる
「今日の撮影は移動が多いんでしょ…頑張ってね」
「おまえも…」
「僕はめちゃめちゃダイジョブです、トッショリは直ぐ心配するんだから」
「ふふ」
優しく微笑んだまま身をかがめて、羽根みたいなキスをしてくれる
ふわっと香るのは、いつもの香水
こんな瞬間は、すべてを忘れて幸せだなと感じる
好きだよって言葉は、とうとう言わなかったな
夕べから何度も言おうとしたんだけど
何だか…当たり前すぎて、今更って気もして言えなかったんだけど
でも、ホントは、言わなくちゃいけないんだよね
わかってるからって、大丈夫だからって、気持ち読んでくれるだろうって
そう思うのが一番よくないんだって…
スヒョンの台本からも…ジンからも学んだはずだったのに
僕は、満たされた身体と、それでもまだ残るモヤを引きずって
リタとの約束の時間まで甘い残り香の中でまどろんだ
「おはよう、ドンジュン、夕べは最高に楽しかったわ」
ホテル、ラウンジの窓際のテーブル
向かいの大きな革のソファには、リタと昨日のデザイナー氏のふたりが
昨日の会議の時より幾分親しげな表情で座ってる
今日のリタは、白いポロシャツに生成りのパンツといういでたちで
朝陽の中、後ろで無造作にまとめられたブロンドが絵のように映えてる
「こちらこそ、ありがとうございます」
「で?スヒョンさんは何か言ってた?」
「え?」
「私個人に興味を持ったかっていう意味よ」
「は?」
「久しぶりにいい男に会ったって気がするのよねぇ」
「はぁ…」
「あのセクシィな囁き声が今も耳に残ってるわ」
「…」
そんな言葉を聞けば、あいつが “何を囁いたか”を想い巡らすよりも先に、夕べの僕らが蘇る
思わず顔が熱くなり口ごもる僕に構わず、足を組み替えて座り直したリタは
ちょうど来た給仕が丁寧に珈琲カップを並べ終えるのを待ってから口を開いた
「お請けするわ」
「へ?」
思わず間の抜けた声を出した僕を、真っ直ぐに見てリタは続ける
「早朝、CEOに了解をとったわ、キリョンのプロジェクトに参加します」
「…えと…」
「ただし、昨日こちらが提示した諸条件は完全に満たしていただくし
細かい約束を2、3加えていただくことになりそうよ
あと、契約はプロジェクト毎ではなく1年更新の形をとらせていただくわ、OK?」
「ええ、はい、問題ないと思います」
「では、よろしく」
「ありがとうございます!」
僕は、昨日と同じく勢いよく立ち上がって頭を下げた
スヒョンの一件で、正直、もうどーにでもなれって気分も多少あったから
すんなりOKが出たのは、おあずけを食らってた犬みたいに嬉しい
でも…確認しないわけにはいかない
僕は、座り直し、なるべく何でもない感じを装って “そう言えば思い出した”程度の
軽い感じで聞こうとしたんだけど…あまりうまくはいかなかったかも
「…それで…」
「何か?」
「その…チェ・スヒョンの件は…どうなりましたか」
「ああ…あの交渉は継続するわよ、もちろん」
「継続…」
「大丈夫、変な小細工なんかしないわよ」
「や…その…」
「この男は疑り深いんだ、ちゃんと説明してやったらどうだ」
釈然としない顔の僕の背後から割って入った低い声に
僕の身体は、必要以上に脈打った
「おはよう、ウソク、いいわね、地味な色も似合うわ」
僕の隣のソファにドサリと腰を下ろしたパク・ウソクは
チラッとこっちを見てから、いつものように鷹揚に足を組んだ
地味って…いくら薄いベージュのスーツだってコイツが着ると十分派手で…
や、そんなことはどうでもいいんだけど
とにかく、昨日の店でのこともあったんで、僕の目は多少うろついた
「朝から嫌なものを見たって顔だな」
「とんでもないです、あなたが来るとは思わなかったので…おはよございます」
「スヒョンさんのことはね、ドンジュン」
「え?あ…はいっ!」
「私に言わせれば、あれだけの人を埋もれさせておくのは業界の損失よ」
「…」
「何とか彼をものにしたい」
「でも…」
「だからじっくり交渉することにしたわ
違う話に絡めて彼のご機嫌を損ねるのは頭のいいやり方じゃないようだし?」
ここに来て、遂に彼女は僕の件とスヒョンを絡めようとしてたことを白状したけど
こうあっさり言われると、なじるわけにもいかない
「だから、あなたは心配しなくていいわよ、この話は忘れてくれていいわ」
「…」
「まるきり信じちゃいないって顔だが、彼女がそう言うならその通りってことだ、俺が保証する」
ヤツに保証されたって全然ありがたかないけど
でも、本当はちょっとはほっとした
とにかく向こうが切り離して考えてくれるんなら、それに越したことはないし
スヒョンは…絶対にうんと言うはずがないから
「わかりました…じゃ…遠慮なく忘れます」
「OK、交渉成立ね、仲介ありがとう、ウソク」
「どういたしまして」
そうだった、彼女との間に入ってくれてたのはヤツだったことを思い出し
僕も慌てて頭を下げる
「じゃ、私たちは支度しなくちゃね、ウソクは近いうちにNYへの出張はないの?」
「無理に作ろうか?」
「ふふ…50万ドル以下の仕事じゃ電話もかけないくせに」
相変わらずのふたりの意味深な会話
僕の中では、このふたりは絶対に過去にあれだと思うんだけど
と、何気なくそんな余計なことを考えた瞬間
ふと、あのモヤモヤがわき上がってくるような感覚に捕われて…
しかし、それは直ぐに、聞き覚えのない声に遮られた
「ウソク」
案内のホテルスタッフに先導されてロビーを通り抜け
点在する植栽の向こうから足早に近づいて来た人物はパクの会社の次期社長
パク・ウソクの、いわゆる腹違いの兄だ
写真で見る限りは、兄弟はどこか似ているような気もしてたけど
こうして間近で見る生真面目で神経質そうな表情は
ヤツの厚顔を絵に描いたような感じとは “人種”が違って見える
彼は、リタ達に社交用の笑顔でちょっと頭を下げて
(僕には一瞥もくれぬところは、初対面時の弟とまったく同じだ)
立ち上がったパク・ウソクに歩み寄って、小声で話しかけた
「探したぞ」
「何です、こんなところまで」
「携帯が繋がらないじゃないか、秘書がここだって言うんで、わざわざ来たんだ」
「今日の出社は午後からです」
「わかってるよ、幹部連中が午後に緊急会議をすると言ってるぞ」
「ベンガロールの件かな?」
「そうだよ!まったくお前は、勝手なことばかりして」
「直ぐに答えが出ます」
「とにかく、幹部らを説得しろよ」
「今日はこれから外せない用がありますから…」
「ジヨンさんとの昼食なら、私も一緒に行くことになったぞ」
ジヨンさんってのは、ヤツの叔母さんの名前だ、あのインコー条例違反の…
なんてぼんやり考えてると、ヤツの表情が見る見る変わったのに気付いた
「兄さんも?…何でです?」
「今朝、本日帰国の挨拶の電話が入ったからだ
お前と食事するって言うからご一緒願うことになったんだ、社長も一緒だ
彼女のご機嫌を取りたがってたから丁度よかったらしい
で、その席でおまえからインドの話が出ちゃ面倒だから、釘を刺しに来たんだよ」
見た目と違ってけっこうおしゃべりらしい兄貴はいいとして
その時のヤツの感じを…どう言ったらいいんだろう
およそ感情的なんて言葉は、その身体のどこを探したって見つからなそうなのに
一瞬、ゆらりと苛立ちのようなものが感じられて…
でも…それは見間違いだったかと思うほどあっという間に消えた
「それならご心配なく、俺は行けなくなったので」
「あ?しかし彼女はおまえが…」
「急に用事が入ったのでね、断りの連絡を入れるところだったんです」
「そうか…じゃ…」
「ええ、よろしくお伝え下さい」
「会議は大丈夫か?」
「3時には戻ります」
兄の顔から目を逸らしながら頷いたパク・ウソクは
今度は別人のような表情でリタに向き直り、仕事の成功を祈る主旨の言葉をかける
彼女とデザイナー氏は立ち上がってヤツと握手をした
何だかよくわからぬままに座り込んでいた僕は…
「行くぞ」
「え?はっ?僕?」
「茶を飲んでる場合か、さっさと仕事に行ったらどうだ」
「あ、はいっ」
もちろん長居する気はなかったし、ギスに報告に行かなくちゃならない
飛び上がった僕は、リタとデザイナー氏に謝意を述べてペコペコとお辞儀をした
「では、よろしくお願いします」
「契約書についてはまたご連絡するわ」
「お見送りできなくて済みません」
「そんな時間があったら、他に回して」
「他?」
「スヒョンさんを口説いてよ」
一瞬こわばりそうになった僕に、リタは「ジョークジョーク」と笑い
綺麗な白い腕を伸ばして握手を求めてきた
ポカンとしてるお兄さんにお辞儀をして ーよく考えたら大株主の次期社長なんだけど
その時はすっかり忘れてたー その場を離れた
とっくにロビーを抜けてたパク・ウソクが、まだいるとは思わなかったから
エントランスの自動ドアから勢い良く飛び出したところにヤツの背中があった時は
驚いてコケそうになった
ふいっと振り向いたヤツを無視するわけにもいかず
取り敢えずひと言礼を口にすると、低い声が「送ってやる」と言う
「え…」
「ギスの会社まで送ってやると言ったんだ」
「いいです!ケッコウです!」
辺りに響くほどの声で拒否したのに
相手はまるで聴こえなかったかのごとく、回されて来た車の方に眼を向け
運んで来た車係からキィを受け取って、スルリと乗り込む
「早くしろ、時間がない」
なら、とっとと行けよ!
…と喉元まで出かかったんだけど
横に立ってるホテルマンもその向こうにいるドアボーイも
うやうやしく頭を下げたまま静止してて…きっかけを失った
車の中では、どちらも口をきかなかった
って言うか…少なくても僕は昨夜の店の前での会話だとかを思い出しちゃうし
何考えてるのかさっぱりわかんない男に、話題なんて浮かばない
革張りの高級車は、ほとんど振動を感じさせることなく走る
あと数ブロックの辛抱だと、下を向いてたんだけど
何となく、滑らかにギアを動かす手に目が行き
やがて視線はその腕をそっとのぼり、気付かれぬようにヤツの横顔に辿り着く
どうして、僕はいつもこいつの横顔ばっか見てるんだろうかと思えば
そう、相手はいつも明後日の方を向いてて
それを僕が…僕が…盗み見てるからなんだということに気付く
信号で停車している間
ヤツは対向車線の向こうに見える宝飾店に眼をやってたんだけど
「ちょっと寄っていく」
「は?どこ?」
「急ぐなら適当な場所で降りろ、叔母と姪への土産を買う」
「ああ…」
「また長い間会えないからな」
なるほどと、まったく普通に了解した僕の耳にその言葉は飛び込んで来た
「大事な人間くらいいる」
どきりとした
『…大事な人なんです』
昨夜のあの言葉を返してよこしたんだろうかって想像と
あまりの唐突さと
絶対に似合わないだろっていうセリフへの驚きが混ざり合って
一瞬、言葉が出なかった
「何だ、その沈黙は」
「あ…いや…その…さっきの兄貴にだってあんな冷たい態度全開で…
同じその口でそんな言葉を聞かされると…驚くでしょ」
「…」
「…でしょ?」
「まぁ…そうだな」
そう…素直に返されると…困るんだけど…
その宝飾屋のセキュリティのかかったドアを
ヤツの後にのこのこと入って行く僕はどうにもこうにもカッコがつかなくて
とにかくヤツが店の真ん中で店主らしいおっさんに揉み手されてるのを
かなり離れたところから見てた
初めは、どうせこういう店でいつも女に贈り物してるんだろって思ったんだけど
やりとりを聞くと、少なくても常連ではないらしい
じっとケースを見つめる顔は、意外なほどマジに見えて…
決めかねるって、そんな言葉がこの男の中にあるとは思えないんだけど
確かにそんな感じがして、僕の口元は思わずほころんだ
それこそ、一番高いやつでも出してもらってさっさと包ませるのかと思ってたから
僕の彼への評価は塵ほど上がったような気もする
と、いきなり振り向かれ「来い」と言われて、慌てて顔を引き締めた
「姪にはどれだ」
「はぁ?…わ、わかりませんよ!」
「若い子の好みくらいわかるだろう」
「そんなの、秘書の女の子にでも聞けばいいじゃないですか」
「そんな面倒なことできるか」
確かに、この男の前じゃ緊張するか赤くなるかどちらかの女性社員を捕まえて
わざわざ無用の騒ぎを引き起こすこともないだろうけど
僕は、2度ほど会ったあの姪っ子を思い出して
小さくてシンプルなプラチナのピアスを選んだ
形は違うけど、彼女が付けてたものとどこか通じる気がしたから
伯母さんの方のは自分で選べるって言うんで
僕は、店員に勧められた椅子を断って、ドアに近い場所で待った
飴色になった木の家具と、重厚な装飾、深紅の絨毯
シャンデリアの光を映すショウケースの前のヤツを眺めてて
僕はあの連想を思い出した
あの…美術館に飾られてる綺麗な陶器のこと
万人に美しいと評価されるけど
硝子の中で、ずっとただ独りで居る…
「昼食に付き合え」
「はぁ?」
店を出て車に戻るなり、またヤツのあれが始まった
「どうせ予定などなかろう?」
「失礼な!…ってか、あなたさっきお兄さんに急用でランチがだめになったって言ったじゃない!」
「あれは嘘だ、問題ない」
「うそって…大問題でしょっ!どーしてまた…」
「うるさいやつだな、嫌なら嫌と言え」
「嫌ってわけじゃ…」
「では、1時に先日のイタリアンだ」
「うん…や、でも…」
「でも、何だ」
「いや、何って…」
「この辺でいいな、さぁとっとと仕事に行け」
停車したのは、ギスの会社から2本ほど手前の道路
ちょっとは慣れてきたとはいえ
相変わらずのヤツの自己中にムッとしながらも礼を言い降りると
黒い高級車は、名残惜しさなど微塵もなさそうにUターンして車の流れにまぎれた
…ったく…
ため息をついて見送った視線を交差点の上空に向ければ
あのウィーバーのでかい広告塔のスヒョンが
朝と同じ微笑みでこっちを見てた
酒と薔薇 あしばんさん
その日のスヒョンを、シン監督が「雨に濡れた薄紫」と称したのは
ジャケットの色のせいだけではないだろう
早朝、撮影現場に現れた彼は、いつにも増して落ち着いて見え
また、いつにも増してしっとりとした色香が漂っているように思えた
その日の前半にジンと行きずりの女たちとのシーンが入っているので
我らが主役は、すっかり “そのモード”に入っているのだろうと
スタッフたちは勝手に納得しはじめていたのだが
その原因を知っているのはスヒョン自身だけ
いや、抜け目のないジホはほんの少しは推察しているだろうか
何しろ、前日の店での、彼曰く “壮絶な対峙”を見ているのだから
「スヒョンさん、最初のシーンの衣装ここでーす」
「ありがとうございます」
「大丈夫?今日はいろいろあるから大変よ」
「大丈夫そうに見えませんか?」
「昨日は店でもお疲れだったみたいだしぃ」
「ふふ」
「ちゃんと…寝た?」
「ええ、ご心配なく」
もちろん、この会話の中の「寝た?」が微妙な響きを含んでいることは
それぞれが十分に認識しているのだが、確認することなく会話として成り立っているのは
お互いの性格を知る者同士の大人の余裕でもある
ジホは「じゃ、良かった」と含み笑いをしながら
スタイリストに向かって「悩める男前に磨きをかけてやって」とウィンクした
女優との濡れ場など、スヒョンにしてみればどうということもない
哀れなジンには、最近スルリと入りやすくなってる上に
過日のミンチョルとの絡みに比べれば
どれほど「仕事」として打ち込めることだろう
「女を抱いていても、頭の中はヒョンジュの幻影でいっぱいだからね
もう、ただただ肌っていうものにまとわりついていたい感じね」
先ほど受けた監督のアドバイスに、可笑しなものを感じる
昨夜のドンジュンを思い出さずにはいられないからだ
あれほどねだられたことはなかった
いつも好き勝手をしているように見えるヤツではあるけれど
スヒョンの置かれている状況には変に敏感で
乱暴に自分の気持ちを引っ込めたりする悪い癖が出るのはしょっちゅうだ
しかし、昨夜は違った
水底に足がつかないことがわかった子どものように、必死にまとわりついてきた
好きだよ、好きだよと
それが自分に投げられた一筋の細紐ででもあるかのように
繰り返し、心の奥底で叫びながら食らいついてきた
あいつにそうさせているのはー
自分の仕事の成功には僕の犠牲を伴うかもしれないという
ただそれだけの申し訳なさ、不安だけではない
それを見抜けぬほどね、鈍感でもないし枯れてもいない
ギスのところで思った以上に時間がかかり
ドンジュンが約束の店に到着したのは、1時を少し過ぎていた
高級な店にはおよそそぐわぬ慌ただしさで入ってきたドンジュンは
パク・ウソクは既に到着しているが、今、席を外して電話中であると告げる案内係の向こうに
その後ろ姿を見つけた
数メートル離れて立つ長身のスーツは見まごうことなくパク・ウソクで
店内のざわめきが届かぬ飴色のダウンライトの中
艶のあるシノワズリ風の黒い家具が配されたインテリアに
絵のように溶け込んで見える
その場に立ち、息を整えながら電話が終わるのを待つことにしたドンジュンは
初めはまったく頓着しなかったものの
次第に、何とはなしにいつもと違うムードを感じた
肩を落とすっていうのはこんな風だろうか
朝、別れた時と同じベージュのスーツには皺ひとつないけれど
その背中を見ている限りでは
あの、スタッフを辛辣にやり込めている姿は思い浮かばない
などと、ぼんやり考えながらも
通話が終わり次第、声をかけるつもりだった
「はい…それでは…お元気で…」
最後の言葉だけが僅かに聞き取れ
会えなくなったと言っていた叔母への電話だったのだろうと察しをつける
しかし、ウソクは、携帯を握ったままの腕を下ろした後も尚動かない
息をしているのかと思うほどに静かに佇んでいて
声をかけるどころか、自分の気配さえ消さねばならぬかと思うほどだった
と、いきなりウソクが振り返る
この瞬間に電気が通ったように身構えてしまうのは
ここのところの、どうにも抜けないドンジュンの癖のようだ
それまでの背中が別人のものだったかのように “ウソクらしい”不遜な態度が現れる
「遅い!」
「あ…済みません…あの…」
「面倒でも起きたか」
「いえ、少し手間取って…」
「ネクタイが曲がってる」
「う…はい」
「で、ギスは全てOKしたか?」
テーブルに向かう僅かな間に、早速仕事の話になり
さっきの背中は幻だったのかとさえ思った
食事が始まっても湧いては出る今回の仕事の課題を聞きながら
そうか、これはビジネスランチだったのかと変な納得をしていたドンジュンだが
その納得のほんの微かな部分に…
わかりやすく言えば「がっかり」が潜んでいることに
ドンジュン自身はまだ気付いてはいない
ようやく、仕事の話が落ち着いたのはデザートの頃だ
それにしても今日のウソクはよく喋るなと思っていたのだが
朝からの忙しさで腹も減っていったドンジュンは、さして気にも留めずにいた
しかし、すっかり皿が下げられてみれば
お互いに1杯だけ頼んだグラスワインにウソクがほとんど口を付けていないことに気付く
味からすれば、かなりの高級な品だと思われるのだが
ため息、と言うには小さな息を漏らしたウソクは
先ほどとは打って変わって黙り込み、テーブルに置かれた自分の指の先などを見ている
その時になって、ドンジュンはその日の朝のいきさつを思い出した
「あの…朝、買ったプレゼント…渡したんですか?」
「ああ、ホテルの支配人に預けた」
「直接会わなかったんですか?」
「彼女たちも忙しいからな、朝から挨拶回りらしい」
「喜んでくれるかな、あれ」
「さあな」
「あの…今日…ランチに行かなかったのは、どうしてですか?」
「あ?」
「今日、キャンセルしたんでしょ?」
「ああ」
「どうしてですか?こんなとこにいるくらいなら行けたでしょ?」
「君には関係のないことだ」
「ありますよ、こうしてあなたに付き合ってるんだから」
「は…」
「何が、は、ですか」
「この俺に “付き合ってやってる”と言ったのはふたり目だ」
「あ、もしかしてリタ?」
「俺に入れあげてたオカマバーのママだよ」
「ふんっ、一緒にしないで下さい!」
ムッとふくれたドンジュンに、ウソクの口元がほころぶ
ドンジュンにとっては、ウソクのそういった表情は珍しくもないが
彼の会社の人間がこんな場面を見たら、ギョッとするだろう
何しろ、2億ドルの商談がまとまっても眉も動かさないという噂の男なのだから
馴染みの給仕が、いつもの紅茶でいいかと尋ねれば
ドンジュンの言葉を待たずに即答する
「僕、エスプレッソの方がよかったな」
「紅茶にしろ」
「そういう態度って、女の子にモテませんよ」
「不自由はしていない」
「でしょうけど、相手の嗜好くらい…」
「嫌いなんでね」
「何が?」
「珈琲の香りがだ」
「は?」
「煙草の香りもだ」
「あなたって、嫌いなものだらけなんじゃない?」
「それほどでもない」
「ピーマンとかも細かくしてもらえないと食べられないとか」
「何とでも言え」
「あのね、好き嫌いってのは先入観からくることが多いんですってよ、例えば…」
「昔の記憶に繋がる」
「…え…?」
「いや」
「あ、珈琲中毒でヘビースモーカーの女の子にこっぴどく振られたんだ
それか、厳格な新興宗教に入ってるんだったりして?」
ウソクは、最近慣れてきたドンジュンらしい挑発に反応することなく
テーブルの向こうから真っ直ぐに相手を…おそらく30秒ほども見ていたが
少しだけ息を吸って、目を閉じて、また相手を見た
「たまに…父が来ると、母が珈琲をいれた」
「へ…?」
いきなり、ドンジュンの胸の辺りがズキリとした
正確には、ズキリとしたのは、ちょっと経ってからのこと
初めは何の話なのかまるでわからず
しかし、ウソクの母親はいわゆる妾であったことを思い出した瞬間、顔が強ばった
まさか、そんな話がこんな場で
しかもこのパク・ウソクの口から出て来るとは思わなかった
「ひと月に数度だけ、その香りがした」
ウソクの視線は相手からゆらりと離れて、一度店内の奥の窓の辺りを通り
テーブルの上の一輪の薔薇に帰ってきて止められた
その花弁の陰影を丹念に追うような目は
自尊心の塊のようなウソクのものとは思えないほど静かに見え
先ほどの、飴色の暗がりに立っていた背中の印象に繋がる
「その時だけ、戸棚の奥から灰皿が出された」
ドンジュンは声を出せずにいた
肝心なところでは、案外鈍いこともあるという自覚のある自分にも
それがどういう状況なのかぐらいはわかる
ウソクの子どもの頃の思い出というものは、まずそこに行き当たるのだろう
自分も片親だったとはいえ、似て非なる思い出
妙な沈黙を先に断ったのは、ウソクの方だった
花の薄片からドンジュンに戻った視線は思いがけず穏やかで
しかし、その中になぜか自嘲のようなものが含まれている気もしたのだが
「こういう説明で満足か」
「…ごめ…んなさい…」
「謝るようなことではなかろう」
「でも…その…茶化してごめんさない…」
給仕が、運んで来たカップやら何やらを丁寧に並べる間
ドンジュンは真っ白なテーブルクロスを仇のように睨んでいるよりなかった
どうにもこうにもバツが悪かったから
「とうに昔の話だ」
ポツリと言いながら、長い指が、スプーンでカップの中の液体をくるっと混ぜる
確か、以前もそうだった
砂糖もミルクも入れないのに、スプーンで一度混ぜる
それはヤツの単なる癖なんだろうけれど
何て言うか…無駄なことを嫌うヤツらしくないような気がする
「冷めるぞ」
それ以上、ウソクは何も言わず
ドンジュンも、何も聞こうとはしなかった
「はい!そこで後ろから抱きしめる、いや酔ってる感じじゃない、目はマジで」
「ちょっと口元に笑みを作るくらいでいいな…」
「うん、いいね、居ながら居ないって感じね、うん」
相変わらずのシン監督の指示に、スヒョンはぴたりとついていく
セットはホテルのセミスィート
ドアの閉まる音を待たずに
見知らぬ女を抱きしめ、憑かれたように唇を吸う
もちろん、スヒョンには細かい動作のアドバイスなど必要ないことは監督も十分承知だ
女の長い髪の毛に差し込まれる指の先まで色香が漂う
俳優の個人的な事情には一切口を出すつもりはないが
この罪と罰とでもいう表情を作り出している誰かがいるとすればーどうもカメラのユンには
わかっているらしいのだがー感謝せずにはいられない
まさぐる指の向こうには、ヒョンジュの滑らかな肌が広がり
目の前の白く柔らかいそれとはまるで違うはずなのに
暖かさだけは懐かしく自分の首に絡み付く
忘れるための肌
スヒョンの中に、ヒョンジュとドンジュンの手触りが交錯する
その混乱は目眩にも似た感覚だった
好きだよ…スヒョン…大好き…
夕べ…
きつく抱きしめれば抱きしめるほどに流れ込んできた、ブレた映像
それが何なのか、腕の中の相手は少しもわかってはいない
ラブが、帰り際に口を尖らせて僕に向けた視線
ー知らないからね
わかってるよ、ラブ
あの…男だろう?
名前は…何と言った?
ーパク・ウソク
伝票に走ったサインをぼんやりと見届け
ドンジュンは、相手が動くのを待って席を立った
紅茶を飲む間、ふたりはほとんど無言だった
触ってはいけないものに触ってしまったような気分のドンジュンだったが
無理に取り繕うような気にもなれずにいた
ようやく口を開いたのは
店を出て大通りに面した歩道を歩き出した時だ
昼過ぎの目抜き通り
周りのオフィスの者たちと買い物客の歩調の違う雑踏の中を
比較的ゆっくりめにふたりは歩いている
日差しは季節に見合った強さだったが、ささやかな風が気持ちよく
街路樹の木漏れ日は、行き交う車の音を和らげていた
「そろそろ会議の時間…ですね」
「ああ、招集がかかったとか言ってたな」
「何かまずいことでもやったんですか?」
「どうってことのない話だ」
「ベンガロールって…あの I T 都市?」
「ああ、そこにORMの事務所を置く」
「全部集約するんですか?」
「繊維工場もテコ入れ済みだ、搾取の時代も無駄金使いも終わりだ、高級化と効率化を計る」
「それで幹部が慌ててるんだ」
「古い頭には理解できんだろう」
「そういう話って根が深そう」
「俺なら1年で片をつけてくる」
「…え」
ドンジュンが思わず立ち止まれば
ウソクもつられて足を止め、丸く見開かれた目を見返す
「インドに…行くんですか?」
「必要ならな」
「でも…今あなたが本社からいなくなったら困るでしょ」
「何とでもなる」
「でも」
「こういう時、肩書きがないのは気楽なものだ」
「こっ…困ります!」
咄嗟に、片手でウソクの左袖の肘の辺りを掴んだのはドンジュンの無意識だが
その思いがけない強い感触に、ウソクは本気で驚いた
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