ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

創作の部屋 2~ただ抱擁の時は過ぎ

ただ抱擁の時は過ぎ 足バンさん

時はゆく

うるりと動かぬ 
ふりをして
水面(みなも)の影は
色を変える

時はいう

すぎる風の肩に 
ゆだねよと
はける波のひだに 
ゆだねよと

酷にみえるその時も
ただ宙(そら)の法則にすぎぬ
草も虫も水も肉も
ただそこに生まれ逝く

意味はない
かたちなどというものに

おまえは愛し
おまえは生きた

それだけでいい
ただそれだけでいい


ジンヒョンジュ



ただ抱擁の時は過ぎ   足バンさん

一、

窓に陽がほとんど当たらなくなったころ
ジンはゆっくりとベッドから抜け出し紺色のカーテンを開ける。
それは彼の日課となっていた。

薄暗い窓の外をぼんやりと伺う彼の瞳は風景など見てはいない。

ジンは小さな電灯がついたキッチンへ向かい冷蔵庫を開け
ほとんど空の庫内からボトルに入った水とクラッカーの箱を取り出した。
クラッカーをそこにしまう理由は自分でもよくわからなかったが
気持ちが外に向かなくなってからのことだ。

暗い書斎で祖父から譲り受けた年季の入った木製のデスクに向かう。
パソコンが立ち上がり人工の光が口を開ける。
ジンはこのわずかな待ち時間がどこか恐ろしく好きになれなかった。
クラッカーをかじり水を口にしながら気を紛らわす。

彼の仕事はいわば執筆業。
健康雑誌などに毒にも薬にもならない精神分析の文章を書き
2週に1度の割合で出版社に原稿を送っている。
ジンを心配した元同僚の紹介で生活のために仕方なく引き受けた仕事だ。

2年前までジンは精神科医として多忙な毎日を送っていた。

相手の内面に的確に触れていく彼のカウンセリングは
多くの患者の闇を解きほぐし、患者の家族からも信頼されていた。

その自信に満ちた態度から時にやっかみも聞かれたが
ほとんどの同僚から慕われ、上司からも将来を期待されていた。
洗練された容姿は女性の熱い眼差しを集め多くの女性と付き合いもしたが
将来を考えるような出会いは一度もなかった。

両親は郊外で静かに暮らし
たったひとりの妹は結婚を控え幸せな時を送っている。
仕事に充実感をおぼえるジンにとって順風といえる日々だったのだろう。

その男、ヒョンジュが彼の患者としてやって来るまでは。

仕事に取りかかる前のメールの確認。
普段受け取るメールはほとんどが出版社からのものだが
しかし今日はあの女性からの着信があった。

ソニと名乗る相手とのやりとりが始まったのはずいぶん前になる。
彼女は出版社を通してジンへのメールをよこした。

ファンレターと呼べるものではない。
むしろジンの書いている文を理解できないという内容だった。
最初は全く無視していたジンも何度目かのメールに気になる箇所を見つけ
長く考えた末に返事をした。

それから週に1度ほどのやりとりが始まった。
初めは用心しながら事務的に応答していたジンも次第に緊張がほぐれ
お互いの文章も少しずつ柔らかいものになっていった。
本名も年齢も本当の性別すらもわからぬその相手との交信は
他人との関わりを避けてきた彼にとって唯一の外界との繋がりとなっている。

 先生。今日、雲の上まで飛んで上から見下ろしてみました。
 私はあの街のあの辺にいるんだと思いました。
 なんてちっぽけなんでしょう、私。

ジンは相変わらずの文章に苦笑しながら返信のキィを叩く。

 お疲れさま。そのちっぽけなあなたの中に宇宙があります。

送信して深呼吸をする。
最近ソニとの会話はとても感覚的なものが多くなってきていた。
それがジンにはどこか心地よく
見知らぬ彼女に小さな親しみさえ感じている。

仕事に取りかかろうとして、ジンはいきなり頭が冷たくなるのを感じた。
目眩のような感覚に似ている。
そっと腕に頭を乗せ
スリープに変わったパソコンの淡い画面をぼんやりと見る。

いつものことだ。

昔の自分に戻れるかもしれないと何度か思ったこともある。
しかしいつもずるずると闇の中に引きずり込まれる。

もう自分の心臓はとうに張り裂けてそこには何も残っていない。
もがいて何かに掴まりたくても、手はいつも空(くう)をかいて終わる。

ようやく身体を起こすと一番上の薄い引き出しに手を掛け
暫く躊躇してから箱を引いた。

雑多の一番奥から1通の封筒を取り出す。
しわのよった白い封筒。

ジンはそれの表に書かれた「ジン へ」という文字をそっと指でなぞる。
そして中から1枚の紙を取り出した。

 もう苦しまないでください。

その短い文を何万回読み返したことだろう。
そしてその文字を目にする度にジンは果てしない闇の波の中にゆっくりと横たわる。
そこが一番安らげる場所であるかのように。

ヒョンジュ…ヒョンジュ…
君に触れたい…どうしようもなく触れたい…
孤独と哀しみの波が容赦なく彼を呑み込む。

ヒョンジュの幻影に捕われる日は何も手につかず
そんな時は頭の闇を払い夜の街に出る。

適度に雰囲気のある店のカウンターで濃い目の酒をあおれば
しばし苦痛の泥から解放されるような錯覚をおぼえる。
暫くすればたいがい女性の視線が絡んでくる。
端正な顔立ちに深い影をおとす夜の彼は妖しく魅惑的に映ることだろう。

気分が乗れば自分からグラスを持って立つ。
ふたり連れの女性を口説いたこともあれば
男性の連れがいるはずの女性をレストルームの入口で落としたこともあった。
罪に背を向ける瞬間の自嘲の快感。

しかし誘いの甘い会話を交わすその瞬間も
相手が自分の言葉に沈んでいく時も
ホテルで恍惚に喘ぐ相手を見下ろしている時でさえも
何らかの情が沸き上がることはない。
身体の火照りとは裏腹に暗く冷たい感情が奥底に潜んでいた。

ヒョンジュへの想いに押し潰されそうになった時
誰でもいい、ただ暖かい肌に触れていたい。
その虚しい時間の愚かさを自身もわかってはいる。
しかしそんなことでしか紛らわすことができずにいた。

期待していた時の経過はまだ何の癒しのヒントも与えてくれない。

時々妹がそっと彼の部屋を尋ねて来る。

医者としてのジンに過度な期待をかけていた父親とは
長い間冷たい沈黙の時を送っている。
嫁に行った妹はそんな兄と両親の間をそれとなく取りもっていた。
そして父に遠慮し口をつぐんでいる母からの手料理を必ず持って来た。

妹は母親の料理に口をつける兄の横顔をいつも優しく見守った。
小さい頃からいつも自信に満ち輝いていた兄。
その態度を高慢と誤解し敵対する人間も少なくはなかった。
そんな彼に不安を感じる時もあったが
それでも自慢の美しい兄だった。

あの男、ヒョンジュが現れて兄は変わった。
最初はただの患者だった。
他の患者と同じようにカウンセリングを受けていたはずだ。

しかしいつだったか兄が言ったことがある。
かわいそうな男なんだ…
でもあんなに澄んだ心には初めて出会った
側にいると自分が洗われていくようなんだ
わかるかな…この感じ…
その時の遠くを見る眼が今でも忘れられない。
あんなに優しい兄の眼を見たことはなかったから。

兄が愛した月のように美しい男。
二度ほど見かけたヒョンジュの哀しみを閉じた深い瞳の色を思い出す。

兄の人生が音を立てて崩れかけているのを知った時
妹は嫉妬と怒りで一杯になった。
目を覚ましてもらおうと虚しい努力を試みたこともある。

しかしヒョンジュを失ってからの憔悴した兄を見ているうちに
そんな感情も少しずつ萎えていった。

そんな愛もあるのかもしれないと。
そんな人生もあるのかもしれないと。
今は兄がまた明るい陽射しの中を歩いてくれることだけを祈り見守っている。

ジンは時々海に行く。
決まって曇った日の午後。
砂浜に座り
あれ以来やめている煙草を吸う。

ヒョンジュと一度だけ来た砂浜。
ヒョンジュが好きだと言った灰色と緑色の混ざった海の色。

そして…
ヒョンジュをのみ込んだ白い波。


二、

ヒョンジュが初めてジンの前に現れたのは5月のある晴れた日だった。
開け放った窓から緑の香りがするような
気持ちのいい午後だったことをジンは憶えている。

彼がヒョンジュの担当になったのは
単なる病院内の医師のローテーションによるものだ。

ヒョンジュには彼を見守ってきた叔母が付き添っていた。

失った言葉だけでも取り戻してやりたいと専門家に相談してはいたが
効果は見られずここ何年かは諦めていた。
たまたまジンの病院の噂を聞き尋ねる気になったのは
その頃すっかり自分の世界だけに生きているヒョンジュの目を
少し外に向けてやりたいと思い始めたからだ。

ヒョンジュは初対面のカウンセラーをただじっと見つめ
初夏を予感させる風が白いカーテンを揺らすと
それに誘われるようにふわりと窓の外に目を向ける。

彼の瞳はまるで音楽を”見て”いるように穏やかだったが
しかしその奥には拭い切れない哀しい色が潜んでいるようだとジンは感じた。
そして実際に彼の歴史は
仕事がら辛い人生を多く見てきたジンにとっても心痛むものだった。


ヒョンジュは裕福な家庭のひとり息子であったが
幼少より父親の教育は異常なまでに厳しく
それは年を追うごとに度を超すものとなっていく。

捻れた愛情というものがあるとすればまさにそれだろう。
父は自身が得られなかった親の情というものを我が子に遮二無二与えようとし
それは息子の全てを管理するという歪んだ形で表された。

愛情という名の大義は心ばかりでなくしばしばヒョンジュの身体をも傷つけ
彼を庇おうとすれば母親にも容赦なく刃(やいば)が向けられる。

学業、全てにおいて父の面目を傷つけるようなことがあれば仕打ちが待つ。
ただ恐怖の日々を過ごし
父の理想の自分に近づくために怯えながら息を殺し続けた年月。
母のために全てを封じ込め受け入れ続けてきた彼の心は
長い長い時間をかけて感情を滞らせていった。

怒りや怖れ、嫌悪を感じなくなること
それが生き抜く方法だった。
自分を守るために。
母親を守るために。

ジンは同じような親との関係を持つ患者の事例をいくつか経験していた。
ほとんどは他人への暴力や自傷行為、多重の人格形成などに繋がることが多かったが
ヒョンジュはそのどれにも当てはまらない。
彼は死んだ海のように深い哀しみを閉じ込め続けたのだ。

そう…苦手な他人との関わりを克服さえすれば
どうにかうまく生活していくこともできたのかもしれない。

しかし
ある日突然全てが終わった。

ヒョンジュの大学最後の夏。
彼の母は夫と十年近くも続いていた女性の存在を知り
その心は粉々に破壊された。
長年夫を怖れ、張りつめ耐え続けてきた最後の一線が鈍い音を立てたのだ。

息子ヒョンジュへの愛と対面を必死に守ってきた彼女はもう既に限界だったのだろう。
彼女は無言のまま刃物で夫に切り付けた後
息子の目前で自身の命を絶った。

その光景がヒョンジュの目にどう映ったのかはわからない。
ひとが駆けつけた時、彼の顔に表情はなかったという。
ただ膝に抱いた母のその身体を決して離そうとしなかったらしいと
ヒョンジュの叔母は辛そうに話した。

母は還らず、怪我を負った父は彼を残して家を出た。
母の妹である叔母に引き取られたヒョンジュは社会に溶け込むことなく
家業の小さな花園でひっそりと花に水をやり生きてきた。

詩を読み、音楽を聴き、花の世話をし…
皮肉にも愛する者を亡くして初めて手に入れた穏やかな日々。

母の狂気の日以来、彼は言葉と自分を失った。

長い年月の呪縛の喪失は彼自身の喪失でもあったのだろう。

全ての記憶がはっきりしているにも拘らず
自分の過去と今ここにいる自分が分離している。
過去はまるで映画を観た記憶のように客観的にしまわれ
彼が持って生まれたいちばん純粋な部分だけが生き続けた。

ジンはヒョンジュに接し
次第に心揺さぶられる自分に気づく。

人間は生まれた時はみな無垢だったことを思い知らされる。

恐れも嫉妬も焦燥も忘れた凪いだ瞳。
ヒョンジュに流れる時間とはただ生きることを意味している。

飛び立つ鳥を風のように見送り
木漏れる光をその手のひらで受け
頬づえをついて雨の滴の行方を飽きることなく追う

夢を歩くように遠くを見る彼を見ればジンは思う。
自分が費やしてきた欲望の時間はいったい何だったのだろうと。

異常であるというボーダーを引かれた彼は本当に異常なのか。
自分が考えてきた正常とはいったい何なのか。

沢山の患者と接し闇を取り除こうとしてきた。
それが彼らのためだと自負してきた。
しかしもはやその自信は底から大きく揺らぎ      
それはジンの中で哀しみを伴った焦りと苦痛となっていった。

せめてこの魂を守りたい…
医者としてではなく。
ジンがそう感じるのにさほど時間はかからなかった。

ある日カウンセリングで公園を歩いた時
ヒョンジュは子供が持っている白い風船を眩しそうに見て筆談用のノートに書いた。

 小さなころ買ってもらった風船をわざと飛ばした
 一緒に飛んで行きたかった

過去と自分が束の間繋がったのかもしれない。

ジンは風船を見つめるヒョンジュの手を握った。
そして握り返すその手のぬくもりに
ささやかな甘えを感じたのを憶えている。

ヒョンジュにとってのジンは春の空気のようだった。
自分の目を真っ直ぐ見つめ静かに語りかけるジン。
ゆっくりでいいんだよと
無理に変わろうとする必要はないんだと微笑むジンは
それまで会った誰とも違う。

母のものでも叔母のそれでもない彼の優しい眼差しは
次第にヒョンジュの心に深く入り込み
静かな安堵の存在となっていった。


一度だけヒョンジュが泣いたことがある。
何かの繋がりで大きな桜の木の話をしている時だった。
筆談の手が止まりヒョンジュの目が遠く彷徨う。

そしてゆっくりとジンを振り返るその頬にひとすじの涙が伝った。
突如父との針の先ほど僅かな幸せだった時間が蘇ったのだ。
しかしそれが一体どういう感情なのかわからないまま懐かしい涙が流れた。

自分でそれとは気づかずに
全てを諦め生きながら絶えず父の愛情を求めていたであろうヒョンジュ。
ジンは長いカウンセリングの中で彼の深い複雑な想いを痛いほど感じた。

そしてその涙はジンの想いそのものでもあった。

同じように父に厳しく育てられたジン。
貧しさのため何もかもが自由にならなかった父は祖父を蔑み自力で地位を築いた。
そしてその屈辱の記憶が息子ジンへの厳しい教育の執着となった。

ジンは父に暗く冷たい反発を感じながらも思いをおくびにも出さず
父を越えるべく抵抗を続けた。
自分の価値感を押しつける父には絶対に屈したくない。
そんな思いは妹にも見せたことはない。

30余年の時を経てついに父を見返したかのごとく成功を収めた自分だが
目の前のヒョンジュを見れば深い虚しさを感じる。

自分をなくした彼と一体どれほどの違いがあるのだ…
泣きたくなるほど心細い気持ちになり
そして自分もまた
父に認められるために足掻いてきたのだということを思い知った。 

ジンは安楽椅子に座るヒョンジュの涙を指で拭い
ゆっくりと唇を重ねた。
そうすることが自然だった。

目を閉じて静かに応えるヒョンジュ。
ジンの柔らかい唇が何度も触れそして優しく包み込む。
彼にとって生まれて初めて感じる潤いの瞬間。
何という温もりだろう…
言葉にはできない溢れるほどの安らぎに満たされた。


今でもジンはヒョンジュとの狂おしい夢をみる。

うねった白いシーツに潤んだ目で横たわるヒョンジュ。
丹念なくちづけの後ジンは彼と深く繋がる。
寄せられた眉とこぼれる涙
彼の恍惚の表情に気が狂いそうな昂りをおぼえ…夢はそこで終わる。

朦朧とした頭にヒョンジュの喉の残像が揺れ
ジンはひとり暗闇の中で自分の肩を抱く。

実際にジンはヒョンジュと最後の繋がりをもったことはない。

いつそうなっても不自然ではなかったのかもしれない。
優しく抱き合いその滑らかな肌に唇を這わせた。
時間をかけてヒョンジュの昂りの全てを受け止めてやった。
しかし最後の繋がりだけは躊躇われた。
どうしても踏み込めなかった。

なぜそうしなかったのだろう。
あまりに純粋なその魂を欲望で貫きたくなかったのか。
いっそそうしていれば美しい思い出に溺れることができたのか。
より悪魔のような泥沼にはまっているのか。

出るはずのない答えを求めてはもがき
浮上の夢と諦めの間(はざま)を彷徨っていた。


三、

ソニからのある日のメールに展覧会の知らせがあった。
フリーダ・カーロ展。
メキシコの女流画家だ。

 この人の絵にとても興味があります。

ただそれだけだった。

フリーダの作品を知ってはいた。
特徴ある彼女の作品は一度見たら忘れられない。
ずいぶん昔に美術雑誌で目にしたことはあるが
その頃多忙だったジンには深く感心を持つ余裕はなかった。

今回もそれきり忘れてしまうところだったが
思いもかけぬ状況で思い出すことになる。

久しぶりにバーで出会った女性とホテルでの時間を過ごし
珍しく眠り込んでしまった翌朝のこと。
目を覚ますと相手の姿はもうなく
ベッドの足元には幾枚かの紙幣が置かれていた。

そんなことは初めてではない。
ジンは裸のままシーツから這い出して紙幣を無造作にちぎった。

ちぎってからその中に感触の違う紙片があることに気づく。
片隅に”フリーダ・カーロ展”と記された使用済みチケットだった。
紙幣の間に挟まっていたことに女性が気づかずにいたのだろう。

ベッドの上でその断片を繋ぎ合わせてみると
ちょうどその日が最終日だということがわかる。
ジンはそれを暫く眺めていたが
紙幣と一緒に丸めてクズかごに放り込みシャワールームに立った。

その日の夕方、仕方なく買い物に出る用事ができなければ
或いはそれまでだったのかもしれない。

いつものOA機器店で買い物を済ませ外に出ると
街のショウウィンドウが美しく灯り始めている。
そして美しいヘッドライトが流れる向こうの大通りに
カーロ展のギャラリーがあることを思い出した。

ジンは暫くそこに佇んでその通りを見つめていた。
そこは微かに胸痛む場所でもある。
自分しか知らないヒョンジュの思い出があるからだ。

ヒョンジュと穏やかに過ごした僅かな時間
ささやかではあるがふたりで外出を楽しんだこともある。

その日もヒョンジュが読みたがっていた本を買いに行き
帰りにその通りの小さなカフェに立ち寄った。
窓際の席でヒョンジュは買ったばかりの詩の本をめくっている。

ジンがふと車の行き交う通りの向こうのショウウィンドウに目を留めたのは
そこに何となく違和感を感じたからだ。
年配の清掃員が窓の中からこちらを凝視している。
定休日なのか店の中に人影はなく
窓を拭きかけたまま人形のように動かない男のシルエットは妙だった。

初めは見るともなく見ていたジンだが
暫くして突然心臓がズキリと痛み、慌ててその男を見直した。
いきなり身体が熱くなる。
以前ヒョンジュの叔母が見せてくれた一枚の写真とその男がはっきりと重なったのだ。
ジンの心拍数はたちまち上がった。

ヒョンジュの父親…そう直感した。

ようやくジンのただならぬ視線に気づいたその男は
ジンが思わず腰を浮かしかけた瞬間、咄嗟に小さく首を振り
作業用の帽子を目深に被り直した。
それが強い拒否の表れであることはすぐに理解できる。

ジンはどうすることもできず
ただ目の前のヒョンジュを見つめた。
頬づえをつき本を読んでいる穏やかな表情に
胸が締めつけられる。

彼は戻らなければならぬ時間になったことを理由に
ヒョンジュを促してその店を出た。

歩き出してから車の行き交う向こうを振り返ると
窓に手を付きこちらを見送っていた男は肩を丸めて背を向けた。

ジンは思わず目を閉じた。
哀しい父子の時間に腹立たしささえおぼえた。
何も知らず、どうしたのかと腕を掴むヒョンジュに
熱く潤んだ目を見られぬよう苦労したことを思い出す。

その後二度とその男の姿を見かけることはなかったが
あの時の自分の行動はあれでよかったのか
今でも後悔のような気持ちに襲われる。

ジンはゆっくりその通りに向かった。
避けてばかりはいられない…そんな気持ちもどこかにあった。

しかし久しぶりに目にするその一角は見慣れない雑居ビルとなっており
向かいのあのカフェも日本料理店に変わっていた。
ジンは交差するライトをぼんやり見つめ暫く立っていた。
何もかもが遥か昔の夢のように思える。

ジンは深いため息をつき
ふらりとギャラリーの方向へと歩き出した。  


比較的大きな会場は最終日の閉館間近であるためか
人もまばらで静かだ。
ジンは入口付近の略歴を読み中へ進む。

フリーダはメキシコ革命のころに幼少期を過ごしている。
6歳の時に発症した小児麻痺と闘い、孤独な少女期を経て医学の道を目指すも
交通事故で脊髄を損傷、絶望と苦痛の中、絵の世界を知る。
その後画家ディエゴ・リベラと結ばれるが
夫の女性問題によって愛憎渦巻く過酷な結婚生活を送った。
蝕まれた身体を引きずり後年はベッドの中で作品を描き続け47歳の生涯を閉じる。

おびただしい数の自画像。
力強いというにはあまりに激しい表現。
ジンは職業がらフリーダの心理状態を分析しながら絵を見た。
絵は壮絶であり恐ろしいほどの静寂をもって彼女の内面を物語っている。

結婚生活に絶望しているころ、
お腹の子供を亡くしたころの作品は特に目を引く。
その自分を切り刻むかのような表現に
ジンは自分の悲痛な想いを重ね合わせていた。

次第に会場を歩いているのが辛くなった。
頭の奥が痺れるようだ。
フリーダの何十もの眼差しが自分をえぐるような錯覚をおぼえる。
「おまえはなぜまだ生きているのだ」と言われている気さえする。

しかしようやく最後の部屋に辿り着いた時ジンはある一点に目を奪われた。
そこにはひとつのまったく違った印象の作品があった。

瑞々しいスイカの絵。
フリーダの遺作だった。

ジンは静かにその絵の前に立った。
「Viva la Vida」と題されたその絵は美しい色彩で生命感に溢れ
太陽と大地の匂いがする。
ジンはずいぶん長いことそのスイカの鮮やかな赤に見とれていた。 

「生命万歳という意味です」

不意に背後から声がしてジンは振り返った。
声の主はその部屋に入って来た時からそのソファに腰掛けていた若い女性。
ジンが微笑んで会釈し絵に視線を戻すと
またその女性の声がした。

「こんな人生なのに…なぜ最後にこの言葉なんでしょうね」

ジンはもう一度振り返り今度はゆっくりとその女性を見た。
白いブラウスに黒いスラックス。
長い髪を無造作に後ろで束ねたおとなしい印象の女性だったが
背筋をピンと張って座る様子からどこか芯の強い一面も伺われる。

ジンはソファに近づき女性の横に腰掛けた。
彼女は座ったままスイカの絵を見続けている。
ジンもその場でその絵に目を向けた。

「でも…死ぬ間際にはわかるのかもしれませんね」

ジンはその言葉にどきりとしてまた彼女を見た。
少し茶色味を帯びた瞳は絵の向こうの遥か遠い場所を見ているようだ。

閉館のアナウンスが流れふたりは同時に立ち上がった。
そのまま出口に向かい会場の石段を下りて彼女は初めてジンの顔をじっと見る。
何かを言いかけたような気がしたが
彼女は静かに微笑んで頭を下げ右方向に歩き出した。
ジンはその後ろ姿を見送り反対方向に足を向けた。

その夜は仕事をする気にもなれず
書斎でぼんやりと過ごしていた。

ソニからメールが届いたのはかなり遅い時間だ。

 今日はお会いできて嬉しかったです。
 名乗る勇気はでませんでした。すみません。

ジンは驚いて声を出しそうになった。
そして慌ててあの女性の顔を思い浮かべる努力をした。
ホテルの年上の女性でもなくOA機器店の愛想の無い店員でもない。
展覧会場の女性だ。

ずいぶん考えて、ソニは雑誌の紹介写真でジンの顔を知っているのだと
いうことに思い至り苦笑した。
思い返してみればちょっと不思議なあの女性は
確かに”ソニらしい”ように思える。 

心動かされるできごとではあったが
しかしジンは返信をしなかった。
あなただったんですか?
そんな陳腐な言葉を書くことに意味があるとはとても思えず
ジンはその日はそのままパソコンを閉じた。

 こんな人生なのに…なぜ最後にこの言葉なんでしょうね

その夜は彼女の言葉が何度も頭に浮かび消えた。

それから数日ジンは妙に落ち着かなかった。
あれ以来ソニからのメールはない。
自分が返事をしないことに問題があるような気にもなった。

「でも…死ぬ間際にわかるのかもしれませんね」

突然その言葉を思い出しジンは深夜にベッドから飛び起きた。
彼女が死を選ぶのではないかと思ったからだ。
そんな気持ちになったのも
以前彼女は死について長いコメントをよこしたことがあるからだ。

パソコンを立ち上げたジンの目に飛び込んできたのは
彼女からのメールだった。

 今日左腕に火傷をしてしまいました。
 手当てをしている間にタッケジャン※も焦げて台無し。 ※鳥辛口スープ

ジンはしばし呆気にとられていたが
大きく深呼吸をするとそれは安堵のため息に変わった。
何度も文を読み返していると小さな笑みがこぼれる。

 お大事に。鳥もお気の毒。

送信を押した時
彼はささやかではあるが愉快な気分になっていた。

その日以来
ジンは買い物に出ると少し足を伸ばしてあのギャラリーに行く。

ソニのことを意識していたわけではないが
久しぶりにひとと関わったような気分を持続したいと
どこかでそんなことを感じていたのかもしれない。

フリーダ資料


四、

ソニとの再会の機会は突然やってきた。

このところ少し気分のいい日が続いていたジンは
出版社に出向き編集者との打ち合わせをした。
担当は珍しいジンのお出ましに驚き昼食まで馳走してくれた。

他人と食事をしたのはどれくらいぶりだろう。
帰り道ジンはヒョンジュとの最後の食事を思い出した。

海岸に面した食堂でヒョンジュはメウンタンをおいしそうに食べた。
嬉しそうに微笑むその顔が忘れられない。
辛いと言いながら食べる僕の顔を穴があくほどじっと見つめていた。
あの眼が忘れられない。

あの日寄り添って歩いた海岸の空気。
風に吹かれ遥か水平の彼方を見渡すヒョンジュの深い瞳の色。

突然
ジンはまた痺れる感覚に襲われた。
足元の歩道がゆがみ周りの一切の音が遮断される。
頭の中が冷たくなりその場にうずくまった。

目を開けると白い天井と匂いから、そこが病院であることがわかり
見渡せば救急のベッドに寝かされていることもわかる。
通りかかった人に支えられすぐ側の建物まで歩いたことは
ぼんやりと憶えていた。

医師が近づきいくつか質問をする。
ジンは自分の精神的な病の話をしてもう大丈夫だと告げ
心配はなさそうだと判断した医師の許可でベッドを下りた。
いつもはこれほど酷くはない。
今日は少し無理をし過ぎたのだろうか。

受付で言われた通りの手続きを済ませ
隅のソファーに座ろうとして動きを止めた。
ロビーの向こう端にあの展覧会場の女性が立っていたのだ。

彼女は病院のヘルパーと思われる制服に身を包み
手に何やら沢山の白い布の束を持って驚いた顔でこちらを見ている。

ジンがゆっくり彼女に近づくと
ソニは少し緊張したように小さく頭を下げた。

「火傷はどうですか?」
「まだ少し痛みます」
「ここで働いてるの?」
「ええ…あの…」
「はい?」
「いつもありがとうございます…おつき合いいただいて」
「僕も楽しんでいますから」

ジンは何か他に言うべきことがあるような気がしたが思いつかなかった。
ちょっとした沈黙の隙にソニはにっこり笑ってお辞儀をし
待っている同僚らしきスタッフの元に走り去ってしまった。

その日からジンは何かの拍子にソニを思い出す。
病院での彼女は展覧会の時ともメールでの彼女とも違った印象で
同一人物なんだろうかとちょっとおかしな興味も持った。


ソニのメールに初めて返事を出したのは
もうずいぶん前のことになる。
ジンが書いた「皆同じように苦しい、ひとりではない」というような内容の文に
頭ではわかっている、しかしそれをどうやって自分の実感にすればいいのだ
というようなメールをよこした時だった。

確かにそうだ。
こうすべきだと思うことと実際にできることは違う。
それはヒョンジュに出会って痛いほど経験したことだ。
なのに自分はこうしてさらりと雑誌に戯言を書いている。

それまで読者のメールには一切反応しなかったジンだが
ささやかな反省の思いも込めて
その文から滲む痛切な孤独の空気に返事をしたのだ。

カウンセリングの要領を思い出しやりとりしているうちに
見知らぬ彼女の気持ちがゆっくりとほぐれてきたような気もした。
暗闇の底を漂い続けているようなジンの生活の中で
ソニとの繋がりは微かな日常との接点でもあった。

病院の日以来彼女からメールは来ない。
ジンからも送ってはいない。
あえて今伝えたいようなことは何もない、とは思っていた。

ある夕方
ジンは懐かしい香りに目を覚ました。

閉め忘れた窓から急に強く降った雨の香りが立ちのぼる。
ジンは窓際に肘をおいて目を閉じ外の空気を思いきり吸ってみた。
そんなことをしてみたのは本当に久しぶりだ。
自分にもまだこういう余裕が残っていたのだろうか。

「こんな人生なのに…なぜ最後にこの言葉なんでしょうね」

ぼんやりと頭の中にあの言葉が蘇る。

暫く考えてジンは観念したように息を吐き
そして出掛ける仕度をした。
ソニに会いに行こう、と頭のどこかがそう言った。


病院に出入りする全ての人が通ると思われる場所で
大きな樹に寄りかかって行き過ぎる人々を眺め
さわさわと流れる風と葉の音を聞いていた。

もちろんソニが通りかかる確証などない。
昔のジンならそんな非効率なことは決してしなかっただろう。
女性との付き合いも仕事のようにさらりとこなしていた。

しかし今は細かいことなどどうでもよかった。
実際は彼女に会えようと会えまいと構わない
そこにそうして立とうと思えたことに意味があるように思えた。
長い暗闇の小さなほころびだと思いたかったのかもしれない。

1時間が過ぎたころ、緩やかなスロープを下りて来るソニの姿があった。
下を向いて歩いている彼女が自分の前を素通りした時もジンは動かなかった。
そして何歩か先で立ち止まったソニが振り向いた時
彼は初めて微笑んだ。

「こんばんは」
「先生…」
「もし夕食がまだでしたらご一緒に…タッケジャンなんかいかがですか?」

ソニは驚いた様子で彼を見つめていたが
なぜ”タッケジャン”なのかを思い出して思わず吹き出してしまい
それがOKの返事になった。

近くの小さな店で食事をする間
ふたりの会話はこれといって踏み込んだものではなかった。
元々ふたりともそれほど口数が多い方ではない。
今まで雑誌に掲載されたジンの文や
メールで交わしてきた内容などの当たり障りのない話をした。

こんな時でもジンはやはり彼女の内面を観察してしまう。
静かな物腰のソニのどこかに見える閉じ込められた憂いと強い意志は
メールのやりとりのころから感じていたものと変わらなかった。

 こんな人生なのに…

あの言葉の意味するところに彼女の想いの底辺があるのだろう。

「あなたはいつも違った印象ですね」
「よく言われます…何を考えてるのかわからないって」
「患者さんにも?」
「ソニさん起きてますか?って言われます」
「空もよく飛ぶし…忙しいね」
「あれは…」
「空気を吸いに行くの?」
「そう…私の…避難場所みたいなものです」

ジンはそれ以上踏み込むのをやめた。
詮索などという愚かな行為で台無しにしたくはなかったし
無遠慮に立ち入らない彼女との時間が心地よくもあった。

ふたりは店内の客のざわめきを聞きながらゆっくりと時間を過ごした。

「また会ってもらえますか?」

歩いて帰るという彼女を無理矢理タクシーに乗せながら言うと
ソニは「はい」と小さな声で応えた。
ジンは車の灯を見送りながら、らしくもない自分に苦笑した。
以前の自分は会って”もらえるか”などという誘い方はしなかったものだ。

ジンはその日の自分に僅かなゆとりを感じた。

冷蔵庫からいつもの水のボトルを取り出すと
暗い仕事部屋に暫く座る。

ようやくデスクライトをつけ一番上の引き出しを開ける。
そしてあの封筒をデスクの上に出し
もう一度引き出しの中を探った。
奥の方にそのものの手触りを感じそっと取り出す。

それはあの封筒と揃いの未開封の手紙。
表には「また笑ってくれたジン へ」と書いてある。

ジンはこの封筒を開けられずにいた。
その言葉通りの自分など全く想像できずにいた。

目を閉じれば瞬く間にヒョンジュの暖かい肌を思い出す。
カウンセリングルームの小さな灯りの下で
ジンの背中に腕を回しくちづけに応えた彼を思い出す。

まだ…

ソニとの新しい状況に明るい何かが見えたような気がしたが
それもほのかな灯でしかない。
まだ何も動いてはいないのだと自覚し
またふたつの封筒を引き出しの奥にしまい込んだ。 

その後ジンとソニは外で幾度か会った。
彼女の仕事が忙しく長い時間ではなかったが
それでも食事をし、無名作家の小さな個展を覗いたりもした。
ジンにとってはどこか根の部分で波長の合う彼女との時間に安らぎを感じた。

そしてソニの言葉から彼女の人生が見えはじめた。

父は日本人であること。
自分が生まれる前に日本に帰ってしまい父のない子供として育てられたこと。
そんな境遇が偏見を呼び彼女にとってあまりに辛い幼少期だったこと。
母は長患いで他界したこと。
成人して結婚を誓った男性にひどく裏切られ死のうとしたこと。
そしてその時期にたまたまジンの文に出会ったこと。

「先生はあの時こう書かれていたんです。死は人を救わないって」
「君はそこに突っ込んで来たんだ」
「もの凄く頭にきたんです。何にもわかってないくせにって」

ちょっと照れくさそうにソニは俯いた。

もともと自分の気持ちを出すことは得意ではないが
ソニも最近のジンとの時間にどこか安らぎを感じていた。
メールの時期から自分の勝手な想いに静かに応対してくれたジンには
感謝の気持ちを持っている。

ひとと関わることが苦手で自分の世界に閉じこもりがちな彼女は
ともすると”変わり者”と受けとられることも多い。
自分の空想など反応が恐くて誰にも話したことはないが
ジンとのメールでだけは彼女はいつも自由に自分を出せるような気がしていた。

だから現実のジンとの関わりが正直言えば恐かった。
今までの自分の世界が壊れていくのではないかと思った。
カーロ展に現れた彼にも
結局わけのわからぬ自分しか見せられなかったし
その後もなぜそんな自分なのかを表現することもできない。
火傷の話など本当はどうでもよかったのだ。
メールを”送信”してからソニはいつも後悔する。

しかしジンはそれでもいつものようにさらりと受け止めてくれる。

こんな自分に興味を持ってくれるのは
精神科の専門家だからなのだとは思いながらも
もうずっと忘れていた穏やかな気持ちに
束の間身を任せていたいとぼんやりと感じていた。


五、

ソニの父は当時まだ多くはなかった朝鮮語学研究の研究員として
70年代に韓国を訪れた。
そしてちょうどそのころ田舎を出て働き出した母と恋におちた。

当時の韓国内は南北の緊張は勿論、日本との間に横たわる根深い確執、
学生運動、加えて金大中事件など世間は極端に不安定だった。
日本人であるソニの父が入国する際も念入りに荷物検査をされ
物によっては帰国時まで没収の措置がなされた時代である。
懐疑の目を向ける者はいてもふたりの恋の障害に心を砕く者などいなかった。

母は日本人と付き合っている事情を親に知られ監禁状態となり
何度も実家に足を運ぶ父はひどい言葉とともに追い返され続けた。
ふたりで逃げ出そうとし連れ戻されたこともあったという。      

若いふたりにどのような物語があったのか今となっては知る由もないが
父は結婚の決意を親に報告すると言いおき帰国して
それきり戻ることはなかったとソニは聞いている。

母が子供を身ごもっていることを知ったのはその後だった。

母にとってのそれからは地獄のような日々となったが
彼女は決して動じることはなくソニの父の存在を隠すこともなかった。
針のような環境の中子供をひとりで産み育て働いた。
ついに身体を壊してソニのために実家の世話になるまで。

その後のソニの悪夢はそれまでを遥かに越える。
夫を早くに亡くし育てた娘をそこまで追い込んだ日本の男の子供…
祖母の怒りの全てがソニに向けられた。

たったひとり影から手を差し伸べてくれた小学校教諭の存在がなければ
学校に通い続けることさえ難しかったかもしれない。
その女性教諭の気遣いはソニが都会に出てから後も変わらず
彼女と故郷との橋渡しとなってくれた。

母はなぜ自分を捨てた男の子供を産んだのか。
私は生まれてきてもよかったのか。
そればかりを考えて過ごした少女時代。
ひとりで裏山に行きあらゆる幸せな自分を想像して飢えをしのいだ。
空想癖はその頃についたのだろう。

それでも生きてこられたのは強い母の存在だった。

どんなに父が素晴らしい人間だったかを語り続けた母の微笑み。
ソニはそんな言葉を受け入れることはできなかったが
彼女の気持ちを否定することだけはしなかった。

なぜそこまで想えるのか理解できずにいたが
どこかでそんな女性としての母を羨ましく思っていたのかもしれない。

その母が亡くなってソニはひとり家を出た。
都会で様々な仕事を経験しながら友人を作ることもなく過ごした青春。
そしてはたちを前に出会った男性との初めての恋。
ずいぶん年上の優しい男にソニはのめり込み
それは惨い形で終わりを告げた。             


「”死は人を救わない”…あのころ僕も生きることが苦痛だった…
 あれは自分に言い聞かせた言葉だったんだ」

よく晴れた気持ちのいい午後、ジンとソニは公園を散歩した。

ジンの思いもよらぬ言葉にソニは足を止める。
いつも冷静にひとの心を分析している彼の文からそんな影は感じられず
その言葉はにわかには信じがたかった。

心理学者は自分を隠すのもお上手なんですね?
そんな言葉をかけようとした時ソニはジンの異変に気づいた。

手を繋ぎ寄り添って歩くカップルを何気なく見ていたジンの足が
目眩をおこしたようにふらついている。
ソニは咄嗟に彼の身体を支えた。

頭の霧が晴れると
いつの間にか濃いグリーンのベンチに座っていた。
ジンはソニの肩にもたれて深呼吸をする。
さきほどのカップルが夢のように樹々の向こうに消えていくのが見えた。

また襲われた。
ヒョンジュと歩いた初夏の空気に取り巻かれ
ヒョンジュの香りに支配されてしまった。 

ちらちらと降る無数の小さな光がジンとソニを包む。
呼吸が整い落ち着いてくるのを感じながら尚もそのままでいた。

そして何も聞かず肩を貸してくれているソニに
ジンはゆっくりと自分の話をし始めた。

他人にヒョンジュの話をするのは初めてのことだ。
彼との思い出はあまりに愛おしく
誰の理解も同意も同情もいらないと思っていた。

ソニはジンが語る小さな愛の歴史を
本の頁をめくるように自然な気持ちで聞いていた。
ジンの低い声が肩を伝わって心に響く。
自信に満ちていると思っていた彼の黒い澱のような哀しみに
ひどく揺れている自分に気づいた。

ジンの目からひとすじ涙がこぼれる。

ソニはずいぶん躊躇して
ジンの手の甲にそっと自分の手を重ねた。
ふたりはそうしたまま木漏れ日に包まれ
錯綜する思い出の中に漂った。                     


六、

あの日
突然ジンのカウンセリングルームに引きつった顔の院長が入ってきた。
そして彼はヒョンジュの件を問いただしはじめた。

「私の耳に入ったことは全てくだらない中傷だということにしておいた」
「どういう意味です」
「私にこれ以上言わせるな」
「何がおっしゃりたいんです」
「いいか、たいした問題に至らぬうちにカタをつけるんだ」
「院長…」
「今なら全てを忘れてやる」
「忘れていただくようなことは何もありません」
「生意気な口をきくな」
「クビにしたらいかがですか」
「わからんヤツだな!君の力と将来を買っているから言ってるんだ!」
「僕は自分に嘘はつけない」
「ここまで築き上げた人生がめちゃくちゃになるぞっ」
「築いたものなどない」

いつかこんなことになるだろうとは思っていた。

「私の顔に泥を塗るつもりか!」
「辞表を出します」
「この馬鹿者がっ!あの男のために全てを捨てる気かっ」
「僕の人生です!」
「君も家族も地獄に堕ちる前に目を覚ませ!」

いまいましそうに拳固でデスクを叩き部屋を出ようとした院長に
ジンは低く静かな声で言った。

「彼に直接何か言ったら…僕は許しませんよ」

しかし
そのジンの言葉が守られなかったことを知ったのは
ずいぶん後のこことなる。

ジンは怒りに震える自分を抑え暫く目を閉じていたが
いきなり立ち上がりその部屋に続く待合室のドアを開いた。
そろそろヒョンジュが訪れる時間であったのを思い出したのだ。

ドアの向こうの椅子に彼は座っていた。
初めて耳にしたジンの怒鳴り声に戸惑うかのように力なく微笑んだ。

院長との会話に彼の名は出てこなかったが
ヒョンジュがその内容に気づかないはずはない。
ジンは彼を部屋に引き入れドアを締めると思いきり抱きしめた。

…大丈夫…大丈夫だから…

狂うほどヒョンジュが愛しかった。
覆い被さるように激しくくちづけソファに倒れ込む。

院長の言葉などどうでもよかった。
家族など
自分の将来など何の関心もなかった。

こうしてヒョンジュを抱きしめていることだけが真実に思われた。

自分が求めるものは間違っていない。
挫折というものを知らぬジンにとって
それはあまりに当然の権利のような気さえした。

どんなに苦しくても君を手放したりしない…

唯一具体的に後悔できることがあるとすれば
そんな陳腐な言葉をヒョンジュに聞かせてしまったことだろうか。

あまりに深く心奪われていて
ジンはヒョンジュの気持ちを考える術を持たなかった。
純粋な彼がジンのために何を思うか
自分を見る辛そうなジンを見て何を思うか

それを想像する余裕はその時のジンには塵ほどもなかった。

その電話はあまりに突然だった。
ヒョンジュの叔母から。
ヒョンジュの姿が見えなくなったと。

病院を辞めるつもりで仕事の整理を始めていたジンは
頭の中が痺れるような嫌な予感をねじ伏せて
家族や警察と共にあらゆる事故を考えて捜索に加わった。

そして唐突に
唐突にあの海を思い出した。

ヒョンジュが突然見たいと言い出した海。
ジンの一番好きな海が見たいと言ってきかなかった。

垂れ込めた雲が海面に映り少しうねっている。
グレーと深緑の果てしない水面を見ながらヒョンジュはとても満足そうだった。

「この色好き?」

ヒョンジュは微笑んで頷くと砂浜に座ったジンの肩に頭を預けた。
ジンが煙草を取り出すと自分にもと目がせがむ。
初めてのことだった。
仕方なく手渡すと、たったひとくちを時間をかけて吸う。

遥か遠くの雲の切れ目から海面に光が降りそこだけが輝いていた。
まるでそこに全ての祝福が注がれているように。

「あそこに行けば陽が降り注いでるんだな…」

ジンの言葉を聞きながら
ヒョンジュは長い間その光の彼方を見ていた。

彼はゆっくりと空を見渡し
そしてジンの頬にそっと手を添え目の奥を見つめた。
その潤んだ瞳は”ずっと側にいるから”と言っているようにも思え
ジンの中に静かな安堵が広がる。

ジンはその身体を柔らかく抱きしめ唇を重ねた。
ふたりは砂浜に横たわり
飽きることなくくちづけを交わした。

そしてそれが
ふたりの最後のくちづけとなった。                    


まさかと疑いながら警察に申告したその海で
ヒョンジュは発見された。

家族たちと共に呼ばれた病院の地階。
どうやってそこまで辿り着いたのかは今でも思い出せない。

ジンはその色のない部屋に入ることができなかった。
足が動かない。
叔母たちが入って行くドアの隙間から目に入った白い布。
暗い廊下にひとり佇んでジンは頭の中が冷えていくのを感じた。
何も見えなくなった。
何も聞こえなかった。
そこがどこなのか…次第に感覚がなくなった。

その日
ジンの”時”も停止した。


事故として処理されすべてが終わってから
ヒョンジュの叔母がひっそりとあの2通の手紙を持ってきた。

叔母はひと言だけ言って帰って行った。
「先生にお会いしてからのあの子は本当に幸せそうでした…」
深々と頭を下げる彼女にかけられる言葉はなかった。

手紙の1通の封を開けたのはずいぶん後のことだ。

 もう苦しまないでください。

ヒョンジュが逝ってから一度も出ることのなかった涙が堰を切った。
僕のためだ。
僕のためにヒョンジュは一番確実な方法を考えた。

ヒョンジュの真っ白な愛情は迷うことなく自分のすべきことを決めた。
お気に入りの詩の本を手に取るように。
気持ちのいい朝窓を開け風を入れるように。

執着というものを知らぬ彼にとって死は特別な意味を持たない。

ジンの苦しみを取り除く…
ただそれさえ
それさえできればよかった。

あの光注ぐ海の彼方を目指して
鳥のように飛び立ったのだろうか。
ただ生まれてきたところに還っただけなのだろうか。
ジンに抱(いだ)かれる夢をみながら。

ジンは悲鳴をあげた。

地獄のような叫び声は自分の部屋に響きその声に耳を塞ぐ。
もう抱きしめることのできないぬくもりをかき抱き叫び続けた。

そして自らの命を絶つ気力さえなく
狂ってしまうことさえできない自分を責めて過ごした。

天も底も見えぬ沈黙の中にたったひとり残された。




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