ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

創作の部屋 4~ただ抱擁の時は過ぎ 3


「は?」

長い沈黙の後ソニの父は初めて僅かな微笑みを見せて言った。
彼はゆっくり立ち上がり
奥の部屋から雑誌ほどの大きさのスケッチブックを手に戻ってきた。

中程のページを開くと
そこには白いブラウスとスカートの女性の絵が描かれている。
淡い水彩の透き通るような緑の中に座っているその女性は
陽を浴びて明るく微笑んでいた。
決して慣れた絵ではないがそこには穏やかな時間を感じる。

「おふたりで…いらした場所ですか?」

ジンはソニが話していた母親の”壁の絵”を思い出し何気なく尋ねた。

「いえ…彼女が…いつもこんな所に行ってみたいと言っていたんです…」

日本に帰ってから描いたものです
本当はこんな感じじゃないけど…
でもこれが私の中の彼女なんです
いい歳して…何だか…滑稽でしょ

「いえ…そんなこと…」

そんなことありません…
言葉が出なかった。
そして絵の中の彼女を見つめる優しい眼差しから目を逸らせずにいた。

「結局彼女には…何もしてやれなかった…
 私にできたことと言えば…ただ正直に愛したことだけです…」


ホテルのベッドの横でソニは携帯を耳に当て泣いていた。

ジンが”通話”にしたままのそこから父の静かな声が届く。
押さえてはいるが絞るような哀しみと想いが伝わる。
涙が止まらなかった。
震える片手で口を塞ぎ嗚咽を押し留めた。


「ジェヨンは本当に…」
「…はい」
「私を…恨んでいなかったんでしょうか」
「それは…ソニさん…娘さんに直接聞いて下さい」
「…」
「ソニさんに会っていただけますね?」
「いや…」
「そのつもりで連絡を下さったんですよね」
「そのつもりでしたが…どんなに酷い思いをさせたかと思うと…」
「過ぎたことです」
「私の中ではあの時のままです」

よくわかる。
ジンにはその男の気持ちが自分の腹の痛みのように伝わる。
しかし
だから…言わなくてはいけない。

「彼女はこれからのために来たんです」 
「しかし…こんな…」
「…」
「こんな私が今更何を話してやれるのでしょう」
「お父さん…」
「沢山の人間を不幸にして…彼女を苦しませて…我が子の存在も知らずに…」
「…」
「なのにこうして生きながらえてるこんな私が…何を言ってやれるでしょう」

スケッチブックの端を握りしめ顔を歪める男が揺れる。

ジンの前にいる男はもはやソニの父ではなかった。
そこには”自分”が座っている。
思い出をただ抱きこのまま静かに呼吸をしていたいと目を閉じている。
苦痛を逃れることはそれを忘れることだと言いながら。
なぜそこに留まっているのかさえわからずに。

”また笑ってくれたジン へ”

ジンは何度も唾を飲み込み…ようやく口を開いた。

「笑うこと…は…忘れることですか?」
「…え…?」
「ジェヨンさんは…大切な…」

大切なものを…

ジンの目の奥は熱く潤み唇は震えていた。

「ものを…残していってくれたんじゃないんですか?」

ジンはあの日のヒョンジュを思い出していた。

海のヒョンジュではない。
初めてカウンセリングに訪れたあの5月の彼。
ふわりと風にふくらむ白いカーテンを見る瞳がどれほど穏やかだったか。
初夏の風を受ける口元がどれほど優しかったか。

彼が置いていってくれたのは
そんな時間だった。

僕は…まだ…

「ありがとうも…」 …言っていない。

「え?」
「お父さん…」
「はい…」
「ソニさんの口から…ジェヨンさんの言葉を聞いて下さいませんか」
「…」
「まだ…僕たちに…やれることは沢山あるはずです」
「…」
「お父さん!」

男が立ち上がり
ソニに渡してほしいものがあると言った時
ジンの手の中の携帯から声が響いた。

『待って!待って下さい!』

その声はひなびた部屋の温もりに静かに吸い込まれていく。

言葉は続かぬまま小さな泣き声に変わった。

驚いて立ち尽くす父に
ジンはゆっくりと携帯を差し出した。


十二、

ジンはひとり
運河の中程を通る陸橋の手すりに手を掛け
港の高層ホテルの夜景の中に佇んでいる。

全ての溢れる光が運河の黒い水面に映り眩しいほど輝く。
それは時間が止まっているかと錯覚するほどの
圧倒的な美しさだった。

陸橋はところどころ抜けてその下を小さな船が通るが
その時間には繋がれたボートが眠るように波に揺られているだけだ。

時折橋のすぐ下の水が小さくパシャリと音を立てる。
対岸の古い倉庫前のビァテラスからはジャズの演奏がこだまし
光の中まばらに行き交う人々のシルエットさえ夢のようだ。
支柱の光が時を刻む観覧車にはまだ客が乗っているのだろうか。


ジンの携帯を受けとった父の手は震えていた。
暫く目を閉じ向こうの言葉に耳を傾けていたが
やがてジンに背中を向けゆっくりと畳に膝をついた。

父の声は涙を含みながらも限りなく優しい。

いや…いいんだ…
いや…うれしかったよ…
え…
いや…そんなことは…ない…ないよ
わかった…

ああ…ああ…わかったよ

ソニとの会話を終えた父は背中を向けたまま言った。

明日…会います…娘に…

スケッチブックを抱きかかえ声を殺して泣く父の後ろ姿を
ジンは長い間ただ黙って見ていた。


きらめく宝石の華の中に佇むような錯覚をおぼえながら
ジンは潮の香りに目を閉じた。

こんな場所でこんな時間を過ごすなどと
少し前の自分は夢にも思えずにいた。
深呼吸すれば自分の身体の中の空気が入れ替わるような気さえする。
夜の酒場でふらついていた自分がもうはるか遠い昔に思える。

ー私にできたことと言えば…ただ正直に愛したことだけです

ソニの父の言葉が静かに波紋を広げる。

そう…それだけなんだ…
それだけ…
何の証しもないけれど…


不意に背中から回される腕の感触。
そしてその瞬間
その懐かしい香りに息をのむ。

ジンは目を閉じ
何度も呼吸をし
目を開き
ゆっくりと振り向いた。

そこにはあの微笑みがあった。
あの微笑みがふわりとジンの腰に腕をまわしている。

ヒョンジュ…

ヒョンジュなの…?

ジンが身体の向きを変えると
ヒョンジュの腕はジンの身体を滑り背中にまわされる。

ジンは溢れる光を映すその瞳を見つめ
暫く動くことができなかった。

そっと髪に触れ…頬に触れ…瞼に触れ
唇に触れてその感触を確かめる。
指が震える。

両手でその頬を包めば全ての身体の中から愛しさが溢れ出る。

涙でヒョンジュの顔が霞む。

今まで…
どこにいたの…
会いたかったんだよ…
君に…
会いたかったんだ…
ずっと…
こうして
抱きしめたかったんだよ…

ヒョンジュの深い瞳の色が昔のように潤み
その目はジンを真っ直ぐ捕らえて離さない。

腕がジンの背中を抱きしめ
その口もとが静かに動く

ジン…

その囁きは確かに聞こえたような気がした。

ヒョンジュ…

ふたりは静かに唇を重ねた。

周りのすべてがかき消える。
あの海岸のあの潮の香りに包まれる。
遠く波の音が聞こえる。
ああ
今までのことはみんな夢だったのだろうか…
そう?
本当は君はずっと僕の側にいて
僕はずっとこうして愛してきたんじゃないのだろうか。

ふたりのシルエットが光の空気に揺れる。

ゆっくりと唇を離すとヒョンジュは閉じていた目を開けた。
その瞳はあの日のように
”ずっと側にいるから”と言っているようだった。

そしてジンの腕からするりと抜け出すと
彼の身体をそっと押す。
風に押されるようにジンは一歩足を引いた。

どうしたの…?
なに…?
行けっていうの…?

ヒョンジュは何も言わずに微笑んでいる。

ジンがヒョンジュの名を声に出そうとした時
遠くの空に汽笛が響き
…それを意識した瞬間
…ヒョンジュは見えなくなった。

ジンは降るような光の中にただひとり残された。

ジャケットの中の携帯が震える。

暫く目を閉じて
携帯を手にする。
その向こうにはソニの暖かい声がした。

今…どちらですか。
戻ってきたよ。
ホテルの前で待っていていいですか?
すぐ行く。

ジンは携帯を閉じ橋をゆっくり歩き出した。

一度だけ振り返ってみたが
ヒョンジュの姿はどこにもなく
そこにはただ夢のような光が溢れている。

ジン…

あの声は
その光の中に祈りのように溶け込んでいた。


ソニはホテルの前の石の広場にぽつりと立っていた。
外灯に照らされたその顔は優しくゆったりとした表情でジンを迎える。

「ありがとうございました…」
「明日会えるね?お父さんと」
「はい」

ジンはソニをそっと抱きしめた。

そしてその夜は
彼女の肩を抱いてやり横になった。
朝まで…ただそうしてやった。


十三、

それほど心静かな時間を過ごしたのは
本当に久しぶりのことだった。

ソニを鎌倉の父親の家に送り届けた後
緑濃い古都を気の赴くまま歩いてみる。

神社の池の鯉に歓声をあげる子たちを眺め
幼い子の口についたアイスクリームを拭ってやる母親の
限りなく優しい顔に目を留める。
朱に染め抜かれた大きな暖簾がことのほか美しく思え
しばし立ち止まったりもした。

そういった風景を意識したのはどれくらいぶりだろうか。
いや…そんな時間を持ったことなどないのかもしれないとも思った。

横浜に戻り、港を一望できる丘の公園まで歩いてみれば
そこにも人々の笑顔が溢れている。

遥か海の向こうを見渡す人々の表情は皆似ているように思える。
国を違(たが)えても同じように流れる想いがあるのだろう。


ベンチに腰を下ろし
透き通るように香る潮の空気を肺に入れた。

薔薇でも有名なその公園の花の季節の素晴らしさは容易に想像でき
ジンは母と妹にも見せてやりたいとぼんやり考えた。

今回、ただ微笑んで送り出してくれた妹の瞳を思い出す。

小さな頃から僕の後について歩いた小さな妹。
何があってもずっと見守り続けてくれた彼女は
もしかしたら僕よりずっと強い人間なのかもしれない。


手を繋ぎ零れるような笑顔のカップルが通り過ぎた時
ジンはもうずいぶん忘れていることに気づいた。
あの頭の芯が冷えるような感覚を。

最後にそうなったのが遠い昔のことのように思えた。

”もう苦しまないで下さい”

それは…
うまくできなかったけれど
ヒョンジュ…
でもね
何か変われそうな気がする。
君を置いていくんじゃないってわかったような気がする。

君は夕べ
それを言いにきてくれたんでしょ?

どうだろうか。
少しはうまく…できそうだろうか。

ふと目を向ければ
陽に輝く緑たちが伸びやかに空に腕を差し出している。
光を浴び大地の声を呑み深呼吸をしている。
また夢のような花のひと時のために。


夕暮れに横たわるの運河のほとり。
そこに長く添う芝の広場にジンは腰を下ろしている。

少し向こうの小さな遊園地のきらめきと観覧車の光が浮きはじめる頃
約束の時間を少し過ぎソニは戻ってきた。

軽い足どりで人々の間を縫い近づく彼女が微笑んでいるのは
遠くからでもよくわかる。
穏やかな時間を過ごすことができたのだろうか。

その日は風が心地よく
夕刻になってもそこここにカップルや親子連れがくつろいでいる。
周りのオフィスビルの社員らしき人影の歩調だけが
ほんの少しだけ早い。


ソニはゆっくりとジンの横に腰を下ろした。

何も言わずに見つめる水面には
昼間の最後の名残が美しく揺れている。

その横顔はいつかを思い出させる。
あの展覧会場の彼女。

真っ直ぐ前を見る目はあの時と変わらない。
しかしその奥に映る穏やかな光がまるで違ったものに見えるのは
美しい夕景のせいだけではないだろう。

「ちゃんと…話せた?」
「はい」
「ちゃんと…聞くことができた?」
「はい」
「ゆっくりできたんだね…3人で…」

ソニは少し照れたように振り返って
そして「はい」と答えながら微笑んだ。

彼女はバッグの中を探り
小さな和紙の包み紙を取り出してジンに手渡した。
丁寧にくるまれたそれが出てくるまで
ソニは子供のように嬉しそうな顔をしている。

紙の中味は装飾のない金のリングだった。

「父が…韓国に迎えに行った時…母に渡そうと思っていた指輪だそうです」
「そう…」
「小さな私を見かけたその日も…なぜか持っていたそうです…
 海にでも投げようと思って…ずっとできずにいたって…」

ソニの目が辺りの光を映しきらきらと光って見える。

「父は…私にありがとうって言ってくれました…
 辛い思いをさせただろうけど…最後まで彼女の側にいてくれてありがとうって…」
「そうか…」

彼女の微笑みはその日の空気のように穏やかだ。

「私…わかったような気がしました」
「ん?」
「あんな人生の母がなぜずっと強くいられたのか」
「…」
「心からあの人のことを愛したから何も恐くなかったんじゃないかって…そう思えます」
「うん…」

ジンはゆっくりと片手を伸ばしてソニの肩を抱き
その髪に頬を寄せた。


昨夜、帰り際に父と交わした言葉を思い出す。

 お父さん…ひとつだけ…お聞きしていいですか?
 はい。
 あなたとジェヨンさんを裂いた時間を…溝を…恨みますか?

 そう…それができれば…楽でしょうね…
 …
 でも自分も…その一部分ですから。
 え…?
 人も時間も…何かひとつを切り離して考えるなんて…できませんからね。

玄関の小さな黄色い電燈の下
ジンの胸の隙間にその言葉は急速に吸い込まれていった。

視線を落としたその男の表情に
3人の父親たちの想いが幾重にも揺れる。


「" Viva la Vida " … 」
「ん?」
「何となくわかったような気がします」
「…」
「あなたのお陰です…」
「僕は…何もしてないよ…」
「あなたに会わなければ…きっとここにはいません」

真っ直ぐ見つめるその瞳の色が
心に沁み入る。

長い間自分を捜してきた彼女が自分の力でそこにいる。
彼女の姿は
前に進むことは決して恐いことではないと語っていた。

ジンは包み直されていたリングの和紙を暫く見つめ
ソニの顔をちょっと覗き込んだ。

そしてもう一度その包みを開けリングを取り出すと
彼女の手を取り
その指にはめた。

「ここなら無くさない」

驚いた彼女の表情はやがて穏やかな微笑みに変わる。

ジンは静かにその肩を抱き寄せ
ゆっくりと唇を重ねた。

ソニに再び忘れた痛みが走ることはなかった。


その日
ふたりは結ばれた。

ソニの白い肌に丁寧にくちづける。
柔らかいその感触に包まれ身体の底が熱くなる。
あまりの安らぎに
今自分がどこにいるのかさえわからなくなる。

やっとここまで辿り着いた。

もう二度とこんな気持ちにはなれないのではないかと
なってはいけないのだと言い聞かせてもきた。

しかし今は目の前のその瞳を心から愛しいと感じる。
この気持ちにもう逆らいたくはないと思った。

ソニの手首の傷跡にくちづけた時
自分は彼女の人生を請け負うのだと予感した。

それでも深い愛撫の途中
全く予期せずにジンの心にヒョンジュの幻影が降りてきた。

目の前のソニが霞みヒョンジュの微笑が重なる。
ありがとうと言っているかのような優しい眼。
ジンはきつく眼を閉じソニの胸に顔をうずめて動けなくなった。

ああ…僕は…

ソニはジンの言葉を遮り長い間その胸に抱きしめた。

私は
あなただけじゃなく
あなたの想いも
受け止められたらと…
そう思っています…

胸に抱かれたジンに
ひとすじ涙が伝う。


彼女は時間をかけゆっくりと彼を導いた。
春にまろぶ陽のように。
地を抱く海のように。

ジンは暗い淵から這い出すようにただ導かれるままに任せた。 

強く絡む指に自分の行くべき場所を感じる。
言葉にできぬ安堵。
ついに深く繋がることができた時
ジンは間違いなく彼女を抱きしめていることを実感した。


帰国の朝

ソニの父は空港まで見送りに来た。
彼は初めて会ったときとは違った人物のように生き生きとした目をしていた。

改めて母の墓に出向くことを約束し別れる。

別れ際父はジンに娘を頼みますと深く頭を下げ
ジンは「はい」とはっきり返事をした。



十四、

ジンはあの海岸に立っている。

暫く目を閉じて静かに空気を吸い込み
ポケットから封筒を取り出した。

「また笑ってくれたジン へ」

もう一通の手紙。
二度と開けられぬような気がしていたそれは
波の音に促され静かに時を解く。


 ありがとう。僕はしあわせです。


そのたった一行は…ヒョンジュの全てだった。

ジンの黒い瞳に涙が溢れた。

そして横に描かれた” 小さな箱”の絵 を指でなぞる。

胸の中に愛する面影が満ち
かけがえのない大切な気持ちをまた抱きしめる。

僕は
どれほど遠回りをしてきたことだろう。

線で描かれた小さな箱が涙で歪む。

これを…
置いていってくれたの?
大事なものを
置いていってくれたの?                      

君にはいったい
どれくらい沢山のものを
貰ったんだろうか。

ジンは涙を拭うことも忘れ
長い時間そこにそうして立っていた。


ー僕の手はもう君には届かない。

でも今君をこんなに近く感じる
この腕に抱きしめていた時よりもずっと。

僕は大切な命と共に生きていく
その命は僕を受け入れてくれると言ってくれる。
僕のすべてを。
君への思い出も何もかもすべてを。
そして僕はその命のために生きる。


僕は君を忘れない。
君の笑顔も
哀しみ裂かれた記憶さえも。

僕はまた歩き出すよ。

ヒョンジュ…
確かにここにいた
君のために。


海岸の奥に人影が見える。
柔らかい陽を受けて手を振るソニ。

笑顔で近づく彼女の中には新しい命が育まれていた。

ジンはゆっくりと彼女に手を差し出した。



その日の海は遥か彼方まで晴れゆき
空の空気と繋がっていた。

すべての時を包みこみ
海は昨日と同じようにそこにある。

そして
それは静かに語りかける。


おまえは愛し
おまえは生きた。

それだけでいい
ただそれだけでいい。






「ジン へ」   足バンさん

初めて会ったあの日
窓からの風を受けている僕にあなたは言った。
君には風が見えるの?

そんな言葉をはじめて聞いた気がして
僕はあなたを見た。
あなたは柔らかな光に包まれているような笑顔で
真っ直ぐ僕を見ていた。

あなたは僕に
いつも繰り返し言った。
無理に変わろうとすることはないんだよと。
それまでの僕を囲んできた
優しく親切で、少しだけ離れたところから聞こえる声とは
どこか違うような暖かさに満ちていた。

握ってくれる手も優しかった。
とても懐かしかった。
いつだかは思い出せないけれどずっと昔
そんな風に手を握ってもらったことがあると
ずっと考えていた。

古い桜の樹の話をしている時だった
僕は何か無性に胸が熱くなって。
あなたの指で頬を拭ってもらってはじめて
涙をこぼしていたことに気づいた。

あなたは僕に静かにくちづけをしてくれた。
あの時のあなたの深い琥珀のような目はとても綺麗だった。
そのままずっとそうしていたかった。
しあわせという音がふわりと胸にひろがった。

あなたと一緒にいろいろなものを見た。
家の薔薇も好きだったけれど
あなたとたまに行く公園の
名前も知らない小さな花も好きだった。

柔らかい草の上に寝て
空との間に歌うように輝く若い緑を見るのも
落ち葉が割れる音を聴きながら手を繋いで歩くのも
あなたの膝の間に座って寄りかかり
ただ目を閉じているのも好きだった。

あなたは時々本を読んでくれた。
僕の肩を抱いて片手で小さな本を持ち
この子は君みたいだねなどと笑いながら
静かに丁寧に読んでくれた。
時計の針がいつもよりゆっくり動いて見えた。

あなたに触れられるととても気持ちがよかった。
あなたの目も声も手もみんな好きだった。
あなたが笑ってくれると僕の胸は潤った。
花も雨も風も空も土も虫も鳥もみんな好きだけれど
あなたはそんな風に笑う。
僕を見てそんな風に笑う。

美しい夕陽の光をそのまま止めたいと思うように
僕はあなたの笑顔をずっと見ていたかった。


僕がすっかりいなくなったとわかるところを
たったひとつだけ見つけた。
僕がすっかり見えなくなったらあなたは
また笑ってくれると思う。

そんなあなたを想像すると
僕の中は空に抱かれるように満たされる。

あなたの好きな海がとても好きだ。
あの日歩いた遥か下方の浜辺が光っている。
沖の向こうは同じように陽が映って
そこだけがあなたのように暖かそうで
心がとろけそうに美しい。

風がなんて綺麗なんだろう。

たくさん空気を吸って
風に身体を乗せると
僕はふわりと浮いた。
いつかの懐かしい風船のように。

風を抜けて僕がひろがる。

きらきら光る波の中にあなたが立っているのが見える。
溢れる光の中にあなたの背中が見える。
僕は羽根のように舞い降りて
あなたを覆うように背中から抱きしめた。


あなたはゆっくり振り返る。

ヒョンジュ…
ヒョンジュなの…?

静かに向きを変えたあなたの背中に腕をまわして
僕はいつものようにあなたの目を見た。

あなたは震える指でそっと僕の髪に触れ…
頬に触れ…瞼に触れ…唇に触れ…
両手で頬を包むとその琥珀から涙が溢れた。

今まで…
どこにいたの…
会いたかったんだよ…
君に…
会いたかったんだ…
ずっと…
こうして
抱きしめたかったんだよ…

どこにも行っていない…
ずっとあなたの側にいた。
今日までずっと。
僕はあなたを見ているのが
とても好きなんだ…

ジン…

僕たちはくちづけをした。
海の香りが胸に広がり
小さな気泡が僕たちを取り巻き包み込む。
ゆらゆらと光が渦巻いて
海の底か宙の向こうか…
境目のない凛とした漆黒に浮かんでいるよう。

ゆっくりと唇を離して目を開けると
あなたは笑ってくれていた。
今まで見たどの笑顔よりも優しくて
僕は感謝に満たされる。
その顔が見たかったんだ…

あなたをそっと押すと
僕の身体がまたふわりと浮いたような気がした。

尚もあなたの温もりが僕を包む。
僕はあなたで満たされ
空気に溶け出したかのように身体が軽い。

僕の中にあなたの声が聴こえる…

ー風が見えるの?

僕を見つけてくれて
ありがとう…僕はしあわせです…






抱擁番外編 遠き瞳  あしばんさん

彼が…まだ14か15くらいの頃だったろうか
私が彼と出会ったのは

ヒョンジュは、とても綺麗な少年だった

肌は透き通るように滑らかで
相手をじっと見つめる瞳は、いつも濡れているかのようだった

彼の母親が、連れてきた

その頃、私は医療裁判を専門とする弁護士をしていた
初めての手記を出版した頃、彼女から連絡があった
十数年ぶりの再会
彼女は、私の学生時代の後輩であり、幼なじみだった
ある一時期、お互いに好意を持っていたが、それ以上にはならず
いつの間にか連絡先さえわからなくなっていた

友人と呼べる人間がいなかった彼女は
自分の息子の将来を憂い、長い間、信頼できる者に相談したかったのだろう
私が、主に小児医療に関わっていたことも
役立つと考えたのかもしれない

息子の相談相手になればと思ったのだろうが
しかし、結局、母親の意図するところとはならなかった
私は、彼が何かを吐露できる相手にはなれなかった

ヒョンジュは、頭のいい子だった

苦しみや哀しみを、決して表に出さなかった
どんな小さな愚痴も口にしたことがない
ただ私の話 ー旅の話が多かったー に耳を傾け、静かに相づちをうつ

それは彼が身につけざるを得なかった術
服従という、生きるための術だったのだと気づいたのは
ずっと後のことだ

私は、彼の、静かな話し相手でいる以上のことはできずにいた

3度目に会った時、彼の首筋にはひどいあざが付いていた
父親の仕打ちの話は、母親から聞いていたが
実際に目にすると、その痛々しさに胸が痛んだ

しかし、彼は言ったのだ

大丈夫です、先生、ご心配なく
僕がいけないんですから
みんな…僕がいけないんですから

それを…微笑みながら言うのだ、あの子は

そんなことはない
そう言おうとして、私は言葉を呑みこんだ
呑み込んでしまった

すべてを我慢している…そう思っていた
強い忍耐のみが彼を支えている
だから時が過ぎ、彼が成長すれば状況は変わる
そう思っていた

しかし、私は酷い間違いを犯していた
あまりに長い間繰返されてきた苦痛に
彼の思考、彼の心そのものが闇の中に麻痺し、壊死しようとしていたのだ

私は…私だけではない
周りの者たちは、誰ひとり気づいてやれなかった
いや、気づいてしまうのが怖かったのかもしれない
彼を無に追いやったのは
決して…父親だけではないのだ


私の事務所で、彼はよく本を読んでいた
ほとんどが、面白くもない法律関係のものだったが
中には、数冊、小説じみたものもあったのだ

家では自由に読ませてもらえないという本を
ほんの短時間ではあったが、静かに読んでいた

その横顔は穏やかで
滑らかな頬はほんのりと薄紅を帯びている
伏せられた睫毛は、その頬に優しげな影を落としていた
私は、よく書類から視線を上げて
こっそりと見入っていたものだ

特に、どうといったこともなかったが
定期的に私の事務所に寄って、時間を過ごす彼は
その状況を気に入っているように見えた
彼のささやかな避難所になってやれているようで
愚かな私は、その役目に満足感さえ覚えてもいた

いつ頃だったろうか
彼の言動が少し変わり始めた

反応が鈍い…というより
時に、記憶が抜け落ちてしまったかのようで
私に微かな不安が灯った

父親のあまりに理不尽な言動
極度の緊張と、絶望
通っていた進学校をやめざるを得なくなったのも
僅かな友人との関係を絶たざるを得なくなったのも、その頃だと
そんな話を聞いたのは、少し経ってからのことだ
母親は、彼のいないところで泣いていた

我慢できなくなった私は
意を決して、彼の父親に直談判に行ったのだが
しかし、それは逆効果だった
母親との関係を邪推した父親は、ひどく怒り
私たち(私と彼女、私と彼)が二度と会えないように計った

母親に、法に訴えて離れることを強く勧めたのだが
彼女は、それだけは断じて受け入れなかった
築いてきた地位、自分のプライド、世間体
そんなものゆえに、彼女は見失っていたのかもしれない
何を考えねばならないのかを

密かな説得は、惨めなほど失敗した
長い間培ってきた弁護士の経験が
これほど役立たずだと思えたことはない

当事者が否と言えば…
できることなど、塵ほどもないのだから

小さな救いは
その後、彼自身から電話が入るようになったことだ

父親がいない時間を見計らってのことだろう

会っていた頃と同じく、どうということもない会話
でも、彼は必ず聞きたがったものだ
私が仕事で出掛けた先の、その時々の風景を

田舎の街で見た、見事な蓮の花
人で混み合ったシカゴの街の聖夜
いつも車で通り過ぎるだけのチェジュドの海
受話器の向こうで、彼は静かに聞き入っていた

何度か、思い切って聞いてみた
他に、何か私にしてほしいことはないかと
しかし答えはいつも同じだった
今のままで充分です…

それでも、私は嬉しかった
彼が、私という人間を忘れることなく、頼ってくれる

ほんの10分ほどの会話
私は、益々美しい青年になったであろう彼を想像しながら
月に一度ほどのその電話を待ち望んでいた

それが、どれほど続いただろうか
父の希望の大学に進んだ頃は、落ち着いているように感じた

進学の祝いに、たった一度だけ
密かに昼食に誘った時のことは忘れない

久しぶりに見る彼は、背が伸びて
あの潤んだような瞳は、より濃くなっていた
古いレストラン、縦長の窓の外の新緑
深紅のビロードの椅子に腰掛ける彼は
息を呑むほど美しかった

このまま、何とかうまくいくのではないかと
そう思った根拠は、何だったのか

ある日、電話が鳴った

しばらく連絡がないので、不安になっていた頃だ

か細い、息を吸う音がした


電話の向こうに聞こえるのは
震える息づかいだけだったが、私にはわかった
異常な空気を感じて、たまらずに私は彼の家に向かった

陽の射し込む広い居間には
あまりにも哀しい現実が待っていた

部屋の隅にうずくまる父親
ソファの横で母親を抱きかかえる彼
絨毯に転げたままの受話器

もっともショックだったのは
近づいた私を、彼がまるで見ていなかったことだ

私に連絡を入れた時の微かな気力は、とうに事切れていた

ただ力ない母親を抱き
何も見えていないかのような目
その網膜に写っていたのは
揺れる白いレースのカーテンだろうか
それとも、それを揺らす風だろうか

警察が到着しても
彼は、母親の身体を離そうとはしなかった
抗うでもなく、声を立てるでもなく
ただ母親の身体から離れまいとする彼

それを無理矢理引きはがしながら
私は、声を上げて泣いていた

カラになった彼の身体を抱きしめて、尚泣いた
あまりに怠惰であり、無能だった自分を呪いながら

彼は、涙のひとつぶを流すこともなく
私の肩に頬を乗せて、静かに同じ場所を見ていた

風に揺れるレースのカーテンが波を作り
動く度に、美しいモワレの虹を描いていた

私は、自分の涙が枯れるまで、彼を抱きしめていた

それが…
私が彼に触れた…最初で最後だ

私は、弁護士を辞めて故郷に帰った
その理由は、今だに誰にも話してはいない


彼が、叔母に引き取られたという話は伝え聞いた

今…どうしているだろうか

穏やかに暮らしているだろうか

あの美しい瞳は
何を見ているのだろうか

思い出す
蓮の花を目にする度に
聖夜がくる度に
遥か蒼く広がる海を見る度に

そして、繰返し悔いるのだ
あの時
どうして言ってやれなかったのかと

そんなことはない
君はいい子だよ

君は
とてもいい子だよ、と



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