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現在形の批評 #23(書籍)人気blogランキングへ日本演出者協会+西堂行人 『演出家の仕事 六〇年代・アングラ・演劇革命』 (れんが書房新社)演出家から見た真実のあの頃一般的に「アングラ」という言葉を見聞きすれば、そこからは<いかがわしさ><反権力><マイナー=サブカルチャー>という概念が浮かび上がるだろう。演劇を少しでも勉強した者ならば1960年代後半以降に活動を開始した演劇人たちによる「小劇場運動」を「アングラ演劇」として称したことは知っているだろう。本書は「まだなにも終わってはいない」という趣旨の下、演出家から再考した「アングラ演劇」を「思い出でも、伝説でもな」(帯文)い視点で再考を試みている。本書は西堂行人による新劇を含めた近代演劇史を参照にしつつ、演出家の誕生と変容を論じた一部、唐十郎・佐藤信といった60年代演劇の代表者4人からの「聞き書き」(二部)、「演出家論」(三部)、「演出論・エッセイ」と主に四部から成る。以後、西堂行人の総括論考を中心に本書の内容を紹介したい。まず、西堂は「『アングラ』とは六〇年代後半に開始された『演劇革命』の別名であり、それを根拠づけた精神を表わ」し、「『演出』とは実践にもとづいた演劇の思想とする。劇作家が戯曲創作のみならず、演技や空間の造形まで含めて劇作を構想する時、そこにはすでに『演出家』の眼が随伴している」(11頁)と本書のキーワードとなる二語をこう定義する。そうすると、なぜ演出家を主軸にしなければならないのかが了解される。二〇世紀とは演出家の時代である。シェイクスピアやモリエールといった劇団座長が書いたのとは違い、自立した劇作家であったイプセンの戯曲上演のためには、戯曲を最も作者の意図を汲んで舞台化できる人間が必要であった。その出自が自由劇場のアントワーヌであり、彼をもってして演出家の誕生であり、その発展系が「『劇作家/演出家』を兼ね備えた演劇作家(ドラマティスト)」(12頁)となるのである。近代=新劇を否定して肉体の復権からを唱えることによる身体の深層意識と言語性とが有機的・根源的にシンクロさせて表層的な制度を食い破るということを標榜した「アングラ演劇」の実践者は、広義の意味で舞台創造のオルガナイザーとしてドラマティストであることにより、職能化された役割を破壊したことにより、前近代的であった。いわば演出家とは「演劇革命」の代表者であり、演出家を取り上げることは、たとえ活字であろうとも、当時から生き続ける生々しい身体と思想を突きつけることと同義である。その革命者を固有名詞で挙げると唐十郎はじめ、寺山修司・鈴木忠志・佐藤信といった面々となるのだ。すでに触れたように、アングラの思想とは近代という制度を如何に破壊し、自立した人間となるのかを思想する文化を含む社会運動であった。具体的な特徴とは「意識に対する無意識、正気に対する狂気、正統に対する異端といった近代的な価値観で下位に置かれたものの復権」(34頁)である。60年代当時は安保を筆頭にパリの五月革命と連動し、世界中が騒乱の時期にあった。革命家達は、徒手空拳でテントや喫茶店、街頭、公園等それまでには考えられなかった場所で公演し、ロマン的な台詞を唯一無二、誰でもない己が肉体一つで熱情を放出しながら演じる「演劇作家」達に自らを仮託した。それは明日を築く同士であり、確実に社会と文化が連動して上昇を目指した社会制度と、身体と言語の根源的関係性一致を目指した演劇制度改革が見事に同時多発的に可能となった瞬間であった。しかし、この蜜月は程なくして消滅する。それを西堂は、1968年から1973年の五年間であると規定する。72年の連合赤軍事件、新左翼の内ゲバにオイルショックが陰りの原因である。そして何より演劇にとっての73年とは、蜷川幸雄と清水邦夫が中心であった現代人劇場の解散の年である。闘争の新宿で活動していたこの劇団にとって、敗北による観客の冷却化はそのまま小劇場運動の士気低下に繋がっていくことになる。つかこうへいが登場する70年代後半以降、演劇の商品化が加速し、大衆ジャーナリズムに侵食された過程がそれを体現している。80年代の高度情報化社会において完成された演劇のPOP化も「社会」と連動した点においては同意である。ただし、その地点から脱出できなくなり、むしろ脱出よりも積極的に乗りかかろうとする今日の演劇状況に疑義を呈することが本書のねらいでもある。つまり、「演劇でなければならない」必要性の欠如を問うているのだ。ジャーナリズムに歩調を合わせ、劇団活動を単なる役者からTV・映画俳優へ、劇作家から脚本家・放送作家になるための単なる踏み台にしか考えていない姿勢には演劇をする意志と倫理の無さが窺い知れる。近年では、大手芸能事務所のタレントが演技修行の意味で舞台出演を企画する逆流入という事態が増加し、そこに観客動員が見込めれば、演劇という一つの<マーケット>の成功が完成する。今や、本来の「持たざる演劇」は捻れて変質した。その問題はかねてより、さまざまな識者によって問題視されてはいるが、社会全体が金銭主義で覆われている以上、弱者側からの遠吠えでしかない。一時、初期アングラ世代によって萌芽を認められる「フェミニズム」や「ポストコロニアル」という側面から創造する作品が独自の演劇性として期待されたものの、80年代以降、霧散してしまい、90年以降は公共劇場建設ラッシュによる「国家と演劇」の問題も浮上し、いよいよ演劇は大衆はもとより国家に守られつつあることが書かれている。(62~64頁)それでは、演劇の理想形として、アングラ時代へと戻ることが至上なのだろうか。西堂は以前、「60年代演劇という神話」とその「準拠枠」が存在するためにあらかじめ観客に対し、<見る>ことの先入観を抱かせ、ニュートラルな観劇態度を阻害する「亡霊」そのものであるとし、「彼ら(60年代演劇を知る者)の『体験』は『方法』化され、『理念』化されない限り、かえって表現の可能性を摘むことに加担してしまうだろう」(『見ることの冒険』274~256 1991)と記した。ここからは、60年代を単に褒章してしまうことに対する危惧が読み取れる。昨年の唐十郎作品連続上演が示すように、未だ我々はあの頃の神話という呪縛からは逃れられないでいる。しかし、方法化はかなり進められているのではないだろうか。アングラから40年を迎えようとする本書もその一つとして位置するだろう。二部の「聞き語り」で太田省吾が「(困難ながらも)自前でどうやってやるかをもう一度考え直さないといけない。」と述べるように、アングラ世代から引き継がなければならないのは、創作の模倣ではなく、演劇それ自体が全てであった時代の倫理と理念を理論化しつつ、いかに現代に転用するかである。現に今もジャーナリズムには取り上げられないが実験を継続して演劇固有の身体性を追求する劇集団が存在する。演劇にどう拘るのか、そのことを個々において探っていかなければ、いつまで経っても「何も終わりはしない」のだ。
Mar 25, 2006
現在形の批評 #22(書籍)人気blogランキングへ貴志哲雄 『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』(集英社新書)距離を取ってから始まる認識昨今の「お笑いブーム」は息が長い。かねてより劇団ひとりは自らそれを終焉させる発言を自虐的な笑いとして生み出している。しかし、それは芸人としての将来性の危惧と自戒の意味として機能し、常にパースペクティブを見据えて戦略的にならなければ渡り歩けない、芸能界の一端を示す「笑い」として象徴的だ。「笑わせてみろ」と高所に構えている視聴者を笑わせるため、お笑い芸人は日々1ステージ500円という世界から夢を目指す。興味のない人間からすればこれほど馬鹿で無駄なことはない。しかし、ブームの先頭を行く芸人を見れば分かるように、「笑い」は今やファッションとして、モテる男のファクターとして、そしてもちろん人気者の絶対条件として認知され、若者の憧れの職業の一つでもある。本書はそんな「笑い」を、演劇における「喜劇の手法」を構造的に解き明かす。「1 だます・2 迷う・3 間違える・4 語る・5 考える」の章から成り、即したテーマについての手法をシェイクスピア、モリエール、二ール・サイモンといった作家達の作品を具体的に分析することによって導いていく。貴志哲雄は、「笑いとは、事件の当事者ではなくて事件とは無関係な―少なくとも、事件からある程度距離を保った―者にのみ可能な反応である」と書く。つまり、笑いとは対象に一定の距離を保ち、客観的な立場にあることで引き起こされるのである。その限りでは、自己客体化すれば当事者でさえも笑いの対象となる。「ある状況において笑いが生じるかどうかは、やはり、その状況で起こった事件に対して自分がどんな立場にあるか、どんな関係をもっているかによって、決まる」。それが貴志による笑いの定義である。それに習えば、冒頭に挙げた劇団ひとりの笑いとは、「お笑いブーム」があるからこそテレビに出ていられるという己についての自虐的な笑いと、「お笑いブーム」そのものの虚構性を笑いにしているという2つの意味が存在していることが分かるのである。「笑い」は蔑み、パロディ、風刺、スラップスティックという性格を持つ以上、同化ではなく異化的なのである。そして、異化であるからこそ、劇構成は複雑で知的ゲームのようなものへと転化しやすく、時に観客に思いもかけない現実のアイロニーを提示することがある。ブラックユーモアはその典型であろう。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』で妖精パックの台詞に含まれる言葉から、俳優と役、見る者と見られる者、劇中劇が含まれていることから観客自身はいつしか見られる者へと化す可能性を示唆する部分は圧巻である。(199~206頁)笑いがブラックな点は、この無限展開を示唆する所にあるだろう。得てしてそのような笑いには、人間の機械化、主体性への疑義、社会構造全体の虚構性といった人間と世界の根源的な部分を立ち表すことがある。だから、『ゴドーを待ちながら』も『桜の園』も喜劇と呼ばれるだ。燐光群が1月に上演した『スタッフ・ハプンズ』が喜劇的であるのもメタシアターという劇構造であるからである。そうすることにより、我々の記憶にも新しい9.11イラク戦争についての考察を推進させるのだ。(詳しくは拙稿「現在形の批評 #18」参照)たかが笑い、されど笑い。本書は単なる笑わせる台詞や状況を設定するにろ、作家がいかに緻密な伏線と効果考えているのかを教えてくれる。したがって笑いだけでなく、戯曲の作法という側面も本書は持ち合わせている。平田オリザが演劇的効果をもたらす登場人物と場所設定、そして「人は、お互いがすでに知っている事柄については話さない。話をするのは、お互いがお互いの情報を交換するためであり、そこから、観客にとっても、物語を理解するための有効な情報がうまれてくる」適切な情報量を持ち、説明的にならない台詞とは何かを述べた『演劇入門』(講談社現代新書・1998)を思い出した。併せて読めば戯曲の構造は理論的に理解できるだろう。しかし、貴志自身述べるように、喜劇を演じる俳優からの笑いは一切触れられていない。いくら戯曲として完成度が高くとも、観客にたいして行われるものである以上、間とタイミング、台詞回しを備えた演者でなければ噴飯ものになってしまう。俳優が、シェイクスピアやモリエールの喜劇を古典作品というだけで意固地になり、高尚な姿勢で臨めば、リアリズム的な演じ方になってしまう。ネタの完成度とキャラクター性は常に新しく、新鮮なのものを提供してくれるが、演技の上達の必要性をお笑い芸人に求めたい。
Mar 17, 2006
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