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現在形の批評 #30(舞台)人気blogランキングへ・青年団 『上野動物園再々々襲撃』5月21日 AI・HALL マチネ以下劇評は『wonderland』に掲載。
May 26, 2006
現在形の批評 #29(書籍)人気blogランキングへ堀井憲一郎 『若者殺しの時代』(講談社現代新書)1983年という転換点自分が生きている今という時代はいかにして成り立っているのか。それを読み解くキーワードとして60年代論、80年代論がよく取り上げられる。本書は後者の80年代という時代システムが現代の若者の荒廃に繋がっているということを著者自身の経験とデータに基づいて指摘する。吉崎達彦は1985年を時代の結節点としたが(『1985年』新潮新書)、著者は1983年という時代に着目する。1983年。それは私が生まれた年でもある。その時、何が起きたのか。クリスマスが恋人と過ごす日に「作り変えられ」、バレンタインデーが「作られ」た。ディズニーランドが開演して女の子達はかわいいもの、メルヘンチックなものへと傾斜して女性の賭け金が上がった。連続テレビ小説では83年の『おしん』を最後に国民は貧乏者の気持ちが分からなくなった。他にも様々な例を出して時代の切れ目を提示している。「若者」という属性が発見され、消費ターゲットになったのがこの時代であり、そのシステムを用意したのは団塊の世代だと著者は主張する。90年代、行き詰った経済を招いたのは、そういった団塊の世代の「作り上げた」時代に「若者」が追随するしか方法がなかった。そういう風に見れば、「革命・闘争」の60年代と「おいしい生活」の80年代を比べても人間の精神構造が実は同じだったのだ。「若者」は決して自由ではない。「若者」は決して得ではない。時代のテールエンドに必死にしがみつきながらどうにかして社会システム逃れようとしている。ただ逃れたいだけなのに逃げた途端、「ニート」と呼ばれて怠け者のレッテルを貼られる。1983年。その時代は演劇の世界にも大きな断絶を生んだ。寺山修司が死去し、天井桟敷が解散。86年には暗黒舞踏の土方巽が死去した。これにて日本の前衛は死に、時代はポップ化した売れる商品(劇団)によりいっそう群がり始めた。ハイエナのように群がり、食い物にしたのはこれまた金を持った団塊の世代の人間であった。「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。うまく、逃げてくれ」(194頁)と著者は励ましの言葉を我々「若者」に送る。その答えは教えてくれない。誰にも分からないからだ。逃げるとは堕落することではない。逃げるとは拝金主義の自転車操業の世の中に絡め取れられないようにしろということ。著者は伝統文化を学ぶことを提示はする。さあ、電脳世代の貴方は、どうやってこのシステムから逃げる?
May 19, 2006
現在形の批評 #28(舞台)人気blogランキングへ・関西芸術座 『心と意志』5月12日 関芸スタジオ ソワレ劇団紹介・・・1957年の創立以来、 青少年対象の学校公演をはじめ、「全国演劇鑑賞会」「全国こどもおやこ劇場」等で200以上の自作作品を上演。話題作も多数。劇団員も百十余名を数え、劇団の内外で活躍中。(HPより抜粋)以下劇評は『wonderland』に掲載。
May 17, 2006
現在形の批評 #27(テレビ)人気blogランキングへ賞をSHOW UP化するな 『橋田賞』に触れながら10日、第14回『橋田賞』が発表された受賞者・作品は以下の通り。滝沢秀明・泉ピン子・村田雄浩・米倉涼子・仲間由紀恵『火垂るの墓』『熟年離婚』・NHK教養番組『歴史の選択』遊川和彦(脚本家)こういったテレビを対象としたものや日本映画を対象とした「日本アカデミー賞」は、映像俳優が受賞するためにどうしてもワイドショーと連動されて報道されるに嫌悪感を覚える。もちろん受賞は俳優個々の成果の現れであり、それ自体喜ばしいことなのであろうが、私がいつも思うのは、カメラのフラッシュで眩い壇上に上がった途端、一人の俳優=役者としての「私」ではなく、大衆の羨望を一身に背負い、常に自身を虚像として取り繕わなければならぬ「公」としての、つまり芸能タレントとしての立居振舞を余技なくされてしまうことの悲劇である。なんだか受賞式そのものも芸能タレントの商品価値の向上とそのためのパフォーマンスの場に見えてしまう。橋田壽賀子氏は選考には関わっていないとのことだが、では一体誰が選考委員なのかがメディアを通して何も伝わってこない。我々には結果としての受賞者一覧と受賞者コメントが華々しく伝えられるのみである。厳正な選考を行ってはいるはずだ。何時頃に第一次選考が行われたのか、それによって誰が、どの作品が残ったのか、途中講評も含めて発表すべきではないかと思う。選考委員の話とも連動するが、「広く大衆に支持され感動を呼び起こした、芸術性豊かでなおかつ放送文化の振興・向与した番組や人に送られる賞」が理念の『橋田賞』ならば、受賞者・作品の何が、どこを評価されたのかをなぜ伝えないか疑問である。専門家であるはずの選考委員が表舞台に出、自身の言葉でもって尚且つその場で受賞理由を述べたときにはじめて受賞者共々、この賞の重みが伝わるというものだ。ひいてはそれこそが、芸能タレントではなく一人の俳優=役者として改めて己を省みる絶好の場となるはずだ。そんなことより、芸能情報の連続として話題を提供する。放送業界に携わる者の役割を果たしているではないか、という声も聞こえてきそうだ。それは開き直りであり怠慢でしかないとあえて強調しておこう。
May 11, 2006
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