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現在形の批評 #48(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・デス電所 『夕景殺伐メロウ』11月18日 精華小劇場 マチネ 夕日と炎のドゥーブル夕日の事から書き始めたい。夕方とされる午後4時から午後6時頃までの時間帯が抱かせる孤独と虚無感といったらない。「烏が鳴くから帰りましょ」の歌が代表するように、夕景と対になって喚起される烏の鳴き声は子供達の遊びを強制終了させて家路に帰す不思議な力がある。そして何と言っても夕日である。斜めの角度から全てのものを眩しく照らすオレンジ色の光は紛れもなく太陽でありながらこの世の終わりを告げる何か別の姿であるようにも錯覚させる。昼と夜との間に存在する鬱々としたこのまどろみを演出するこれらは、場に居る人を総入れ替えするために設定された時間帯のようだ。放課後の学校帰りの子供達、会社帰りのサラリーマンを追い立てるのは「これ以上この場にいると危険だぞ」とぎりぎりまで人を健康体に保つための自然からの警告だ。好奇心の強い子供達が怖いもの見たさで道をはずれたいと思いながら後ろ髪を引かれつついそいそと帰ってしまうのは、夕食の匂いと母親の温もりを想像し、幸福な家庭への帰属心を掻き立てられるからであろう。しかし、天体の周期に同調して生活することを止めてしまった人間は、いつしか夕方の時間帯の警告を無視し、それ以後の夜という異界への誘惑に惑わされはじめた。自然のまどをみをまどろみと感じない社会に生きる自由な行動はしかし、歪んだ孤独を私たちの無意識の内に買うことになる。さらに、それを無きもののように抑圧するためにはあくなき背反を突き進むしかない。孤独者同士の人間関係の慰撫と仕事や受験勉強がもたらす目標達成にあくせくと励むといったように。そんな夕日がもたらすまどろみむ警告に落ち込んだ人間達がこの舞台には登場する。舞台奥に上から吊り下げられている大きな額縁にオレンジ色の照明が当たり、浮かび上がる所から舞台は始まる。他は背景と床面に雲の縁取りがされた水色の板張りのみで目立った装置はない。額縁には少女が座っている。歌やダンスといった時以外は常に斜に構え、視線は常に客席に向けたままじっと座っているこのカナ(奥田ワレタ)と呼ばれる少女は額縁に閉じ込められ、絵画の中に生きる人物である。そこへカナの姉、ハナ(山村涼子)がやってくる。カナとコンタクトを取れるのは姉だけだ。三方から当たった夕日の照明が、伸びた何本もの額縁の影を背後の壁に焼き付ける。その影がカナを捕えた格子のようにも見えた時、夕景に落ち込んでしまったいたいけな少女が犠牲になった姿が示された。自身の身長に不釣合いな大きさの影を作り出す夕日が恐ろしさの象徴に見える。日常生活において主導権を握っていた「私性」が突如遠景に後退し、隠れた別の貌が出現して自己を飲み込み、一人歩きし始めるのではないかという分裂症的恐怖。オレンジ色の光が演出する孤独とは自己の消失のことに他ならない。ハナが太陽の別の姿である夕日が作用する身勝手さを糾弾しようとも、姿態の似た一心同体のもう一方であるカナの身柄は拘束されたままで家に帰りたくても帰れない状態のまま。窪みに落ち込んでしまった後になってようやく大切さに気づく。私達はいつもそうやって後悔しつつ生きる存在だ。カナは死人なのである。舞台にはハナを含む集団「粒子」を構成する登場人物達がいるが、集団の秩序を守る為の供物としての犠牲者にカナは祀り上げられたのだ。面々は各々親族を殺された遺族達。日夜「ボス」からの司令によって「萌と萎について」「ボーイズラブ」「地球の大きさの観測」といった問題を手分けして調査している。登場人物全員が孤独者である。これまでの作品のようにただ一人の人物(それは山村涼子演じる少女だったりするのだが)の不幸をヒロイズム的にクローズアップし謎解きをしていく作品構造とは毛色を変え、全員が心の空洞を抱え込む人物としてを設定したことに竹内佑の新たな手法が見て取れる。なぜこんな瑣末な調査を行うのか。それは太陽が刻々と接近しつつあることへの恐れからだという。地球に輝かしい光をもたらし、生命の生きる源としての恵みや温かみとしてではなく、全てを焼き尽くす核の脅威にも似た終末観、炎のイメージとして太陽が設定されている。自分達がそれで死んでしまおうとも確かに生きていた証を残したい、そんなことは太陽の何千度という熱の前では望むべくも無い願望だが、そうせずにはいられないかすかな生への希求を彼らは持ち続けている。実は瑣末な調査はハナの個人的な趣味で、「ボス」自体がハナだったことが後半明らかになるが、太陽を前にした人間はとても小さく無力な存在であることをとりあえずこの場は示している。だが太陽など一向に地球には迫ってはいなく、いつも規則正しく昇っては沈んでいく円環運動を繰り返している。地球を脅かすつつあるからこそ孤人が共通の共同幻想の下にかろうじて集団を維持する、という大儀は崩れる。全ては、集団を維持するためには太陽は迫ってこなければならなかいというハナの妄想であったのだ。太陽は地球を焼き尽くさなければならない。でなければ妹のカナは太陽が発する灼熱の脅威のためではなくマッチの火によって焼死した忌々しい事実が前景化してしまうのだ。それも当のハナの手によって。舞台が真っ赤に照らされ、「パチパチ」と火が燃え盛るシーンは夕日のまどろみを通り越した先の異界に落ち込んだ孤独者の姿、倒錯した妄想の実現とその維持を完遂しようとする現実との境が崩れつつある社会とそこに生きる私達の在り様が浮かび上がった瞬間である。作品の骨子となる登場人物の侘しさや孤独感が幕切れ近くに急速にひも解かれ解決へと収斂していき、それまでは確信部分や劇的な要素を周到に抑圧する過剰な歌とダンス、笑いで塗り固めてる手法は、極めて絶叫型で多分にヒロイズム要素を全面に出す「アングラ的」なるものに類似性を求める事ができる。唐ゼミ★は唐十郎のテクストを新たに読み直すことで新たな劇的想像力の模索を行い、毛皮族は「ネオアングラ」と称されてもいる。大人計画のような現代のエロ・グロ・ナンセンスに代表される不気味さと暴力性といったアングラなるものを形作るこういった要素を揚言して、アングラの復活などというとオリエンタリズムに陥ってしまうだけでしかなく、安易にこのタームを用いるのは危険だろう。アングラの思想や倫理を根本の所で踏襲しようとする劇集団も今や先に挙げた唐ゼミ★含めわずかである。アングラを批評的に読み解くことにさしたる実行力がないような現在の状況でありながら、上澄みを掬おうとすればあちこち散見することが可能なスタイルとしての「アングラ的」なる劇集団とは一体何なのか。かつてとはまた別の文脈を志向していると言えるのだろうか。だらだらした身体性をそのまま俎上に上げるというある種定型化したスタイルに慣れきっている冷めつつ安心して身を任せたいというわがままな観客に対しては、確かに別の方向性を持つ表現方法は、硬直した状況を穿つ可能性があるかもしれない。現在の観客は今や「アングラ的」な舞台をも許容し、できることなら積極的に感情移入しようという姿勢を持ってはいるだろう。確かにデス電所の持つアングラ臭は、『デス電所のテーマ』を取り上げてみても、かっこいいと許容するだけの観客は大勢存在するようだ。しかし、観客席には完全に乗ってしまうことに対する躊躇が邪魔をして未だ冷静な視線によって終始覆われていたように感じる。役者達の演技はある一定の水準に達しているが、乗せるための仕掛けである笑いを大部分ではずしていることが理由の一つになるだろう。近作のデス電所のスタイルは少女であったり大人になりきれてない大人、いわゆるアダルトチルドレンが背負わされた不幸の謎解きに収斂していくものであるが、それはヒーローとヒロインが有り余る想像力と若さで世界を変性させ、最後に劇的上昇を迎える「アングラ」の試みた私探しでなく、明らかに下降を描くベクトルを持つ劇世界である 。それは何とも暗く陰惨な世界であるが、結局そういった事を模糊させるために歌やオタク要素満載の笑いを導入しているように見える。暗く自閉した人間の世界と一部の観客との共有コードのためにポップさを用いているのだとしたら、それは私にはテーマへの照れ隠しなのではないかという気がしてならない。今作では竹内佑の新たな人間の描き方が伺えると書いたが、もっと踏み込オタク世代のナイーブな人間性を直接テーマにしてはどうかと思う。歌とダンスと笑いが持ち味の劇団であり、はずす事ができないのでありばそれを効果的に合致させる方策を練り、オタク世代の感性が生み出すメロドラマとして成立させようとする方に私は共感する。孤独な現代人に求められているのがメロドラマ的なものではないかという感触は十分伝わってくるし、それは先述した炎のシーンを取ってみても明らかである。だからこそそれを雲散霧消にしかねない、テーマを曖昧模糊とする笑いとダンス等の用い方に不満を感じるのである。
Nov 24, 2006
現在形の批評 #47(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・上品芸術演劇団 『まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史』10月28日 ウイングフィールド マチネ以下、劇評は『週刊マガジン・ワンダーランド』にて掲載。【目次】◆上品芸術演劇団「まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史」 「確かな芝居」の世界へ切り替わる 内閉した心情をぶつけるシーンで 藤原央登◆タテヨコ企画「フラミンゴの夢」 不条理な展開が生むおかしみ ナチュラルな行為の積み重ねの先で 楢原 拓◆エジンバラ演劇祭2006-5 分かりやすいダンスにきわどい性描写 DANCE BASEの独自プログラム 中西理(演劇コラムニスト)
Nov 24, 2006
現在形の批評 #46(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・AI・HALL+岩崎正裕 『ルカ追送~中島らも「ロカ」より~』11月11日 AI・HALL マチネダブルネックギターの言霊死者とは、現在形で年を重ねる生者達の人生の糧として、いつまでもその時の状態を保存したままで閉じ込められ寵愛されるものである。頭に思い浮かべるのが有名人でも知人・親族であってもいい。思い浮かべた人達と共に想起される、生前のテレビ・雑誌メディアでの活動、あるいは親しい人との生活が突然に切断されてしまうことに対し、生者側が抱く取り残されたような侘しさの心情が、死者を記憶の中へ幽閉へする。そして急逝、夭折した人達にしばしばカリスマ性、神秘性という要素を伴って語られるのは、それは「もう居ない侘しさ」に加え、生前行っていた主義主張が志半ばで頓挫されざるを得なかったこと、それ以後の動線が想像させる活動への期待が実現不可能になったことに対する悔やみが追加されるからである。盲目的に何かを貫き通そうと奮闘し続けた姿に私達は敬愛と恋慕の念を持って己の糧にするのだ。『ルカ追走』は、近未来私小説と名づけられた中島らもの『ロカ』という未完の作品をベースにして、小説家・コピーライター・エッセイスト・劇作家・歌手・俳優と多方面に活動してきた氏への、構成・脚本・演出の岩崎正裕による恋慕の念を投影した好舞台であった。私は原作小説は読んではいないが、ダブルネックのギターを愛用する落ち目のシンガー、小歩危ルカが根城にしていた新宿のホテルから突然失踪するという『ロカ』のはじまりの部分である『バンド・オブ・ザ・ナイト』に描かれた印刷会社へ就職した時のエピソードや「もち」と第されたコント等、私が知る中島らもを思わせる要素が多分にコラージュされている。照明美を武器に幻想的な演出が魅力の岩崎の演出が遺憾なく発揮されている。ブルーの鮮やかな照明と、舞台開始直後の大量に原稿が散らばった空間、その2点だけ見ても光と影が可視的に表現されており、見事な演出となっている。ただ岩崎自身、『ロカ』の物語を自分が解釈し、完結させようとはしていない。それはラスト部分、小歩危ルカを死なせていることからも分かる。絶筆の小説は誰にも完結させることは出来ない。したがって劇の主眼は中島らもの何に岩崎は感銘を受け、恋慕の念を抱こうとするのかに注がれる。それを岩崎は「ROCK」を愛した男という側面から浮かび上がらせたのである。個人的な話になる。音楽面での中島らもに私はあまり強い印象がない。CDやライブ活動をしていることや、自伝『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』は確か学生時代フォークに熱中したことが書かれていた、くらいの記憶を引っ張り出そうとすれば可能な程度である。それよりも私がいたく中島らもに感心したのは『最後の晩餐』(00~02 読売テレビ)という深夜テレビで見せた文化人タレントとしてのそれである。中島らもを含む5人のタレントが毎週週替わりの企画に取り組むこの番組を私は欠かさず視聴していて、黒いサングラスを掛け、落ち着いたトーンで朴訥とした喋り、時として危なっかしく思わせるつたない動き。そういった中から発せられるコメントや仕草に私は何度となく笑わせられた。独特なアトモスフィアーを持っているとしか言い表す事のできない画面内の人柄は共演の笑福亭鶴瓶を食ってしまうくらいの時もあった。著作を読むようになったのはそれからである。だから音楽を機軸に紡がれる舞台は新鮮であり、万華鏡のように多変化してきた中島らもはどの一面から見ても魅力を損なわないことを発見した。小歩危ルカを3人の俳優(寺田剛史、奇異保、亀岡寿行)が学生時代、会社員時代、老境時代とその時々に応じて入れ替わりに演じる。3人の中では特に奇異保の、細面の風貌と退廃的な思想、それでいて女には不器用な優しさを持つ小歩危ルカを古沢クク(中田絵美子)との居酒屋でのやり取りで見せるが、これはまさに中島らもを彷彿とさせる好演技であり、見逃してはならない印象的なシーンであった。ロックを愛するシンガーとしての小歩危ルカから強調させられのは反骨と平和の精神であり、ダブルネックのギターが重要なアイテムとして舞台に終始存在感を保ちつづける。それはブルーカラーのこのギターこそが紛れもなく中島らもという人物がまるごと内包された遺物であり、人から人へ渡ることで次第にその思想が瀰漫していき、劇の幕切れ『いいんだぜ』という名曲を登場人物全員が熱唱する時、得も言われぬ感情に捕われてしまう。ダブルネックのギターの奏でる音が中島らもの言霊として舞台空間を覆ってしまった瞬間であった。ダブルネックの一本は常人から浮世離れした生活から成り立つ人間性を、もう一本は誰しもが理屈では理解しながら、積極的に関わらず穏便にその場を済ませ素通りしてしまう、反骨・反戦・反差別とのため行動し、実行に移してきたリベラリストとしての一面のシーニュである。そのことの顕現が岩崎の込めた中島らも観であったのだろう。多彩な人物象を大筋で一点に絞ったことがこの舞台の成功だったと言る。出版だけに留まらず演劇での動きとして今後も、中島らもの戯曲の上演等、関西に異才がいた事を掘り起こす試みが持続し、発信されることを願う。
Nov 16, 2006
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