現在形の批評

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Sep 3, 2006
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #41(舞台)

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BATIK

8月27日 AI・HALL マチネ

BATIK 『SHOKU』2

BATIK 『SHOKU』1


脱皮する身体―脚が物語る―


大学時代に演劇を専攻していた私は、舞踊公演でパフォーマーをした経験が幾度かある。しかし関心が芝居であった事と、そもそも運動が苦手で動くことが好きではないという身体表現者として失格な理由から、あまりこの分野に関わらないようにしてきた。それ故、舞踊の授業も必要最低限しか履修してこなかったのだが、何を思ったのか、卒業制作で芝居ではなく舞踊を選択したばかりに、その1年間はそれこそ必死の形相で死に物狂いで取り組んだのだが時既に遅し、明らかに身体が舞踊対応ではなく、筋肉痛と不甲斐なさを禁じ得なかった覚えしかない。その時の事はいくら言葉を費やしても十分語りきることができないほどつらく厳しいものだったが、それでもあえて言語表現を試みれば「今後、どんな苦しいことが待っていようと耐えられる」、それくらいの経験だったことは確かに言える。


いきなり自分の思い出をつらつら綴ってしまったのは他でもない、頻繁には観ない舞踊公演に出掛けたからである。その公演は黒田育世が主宰するダンスカンパニー、BATIKの『SHOKU』である。朝日舞台芸術賞受賞記念・キリンダンスサポート公演と題されているのは、このダンスカンパニーが同名の賞を受賞したからであり、もともと『SHOKU』は02年の初演を経て世界公演を重ねている代表作であることがチラシのデータから伺うことができる。若手舞踊手としては、コンドルズの近藤良平、Noism05の金森譲らと共に近年実力を発揮している一人として私も様々な所で「黒田育世」の名は見ていたため、今回の観劇となった。


まず驚いたのは大音響の幕開きである。幕開き後に舞台に存在しているもの(舞台美術や俳優等)から情報を収集していき、徐々に作品世界に自身を摺り寄せて理解していくという近年の小劇場演劇の手法に慣れた者からすれば、舞台の側から有無を言わさず強制的に引きずられていく展開にはドキリとさせられる新鮮なものがあった。それから、真っ黒な舞台空間に真っ赤なマント(程なくしてワンピースである事が分かる)を纏った7人の女性が、「皮膚一枚に隔てられた内と外」(チラシ)をテーマにパフォーマンスを行いながらスコートの中に手や男性器に見立てた懐中電灯を突っ込んだり、SMまがいの行動を取ったり、黒田育世に至っては脱いだヒールに唾を入れたりと、とにかく『SHOKU』という名の通り、直接皮膚に触られるような生理的「ショック」を感じさせる60分であった。


しかし、なによりこの作品が目指しているのは露悪的にショッキングなものを見せることではない。その露悪的なものは、一種の動物的行動にも似た動きを伴うものでなければ掴み取ることのできない、我々の潜在性を抉り出すため、祈りと格闘という相反するものの混じった永久不変の運動の末に深く下降して見出そうとするものなのである。身体運動のしなやかさや見事さだけではなく、動物的な生(ナマ)の性を体現する「エロティック」さは女性ならではである。それが結果として彼女達自身の問題としての皮膚の内と外という身体が置かれた環境の発見に加え、舞台の内(パフォーマー)と外(観客)との新たなケミストリーを探るという事にまで繋がっていくのである。私が感覚的に反応したのはそれに呼応したからである。


では、具体的に何に着目して反応したのだろうか。始めに述べたように、少しだがパフォーマーの経験がある私が注目したのは足の使い方であった。しっかりと舞台を蹴り、踏みつけ、下半身で身体全体を支えていられるのはさすがだと感心するが、彼女達の動きはそういった運動神経の良さだけではなく別のものがある。足ではなく脚と言った方がより正しく言い表せるかもしれない。がに股になったり、高く振り上げたり、逆立ちになってワンピースを頭まで捲くってからハイヒールを股に挟んだ際の脚。もっとはっきりと言ってしまえば、腕の動きよりも強く印象に残るのはじんわり汗の玉で光る真っ白い2本の脚から引き起こされる身体運動が妙に艶めかしいということだ。7人分14本の白い脚が時に衣装に隠され、時に露に曝け出される様は筆舌に尽くしがたい魅力があるが、それは決して直接的な「エロティック」さにあるのではなくやはり「艶めかしい」という奥ゆかしい言葉が相応しく、それはコンテンポラリーダンスというよりも純和風的なもの、例えて言えば着物からはだけた脚に感じるものに近い感覚に似たものだった。


そういう何がしか女の性というか、動物的な雌の匂いを感じるのは男だからなのだろうか。確かに言える事は彼女達自身、パフォーマンスを行う姿からは羞恥心のかけらもないことである。表現者として当り前ではないかと思われるかもしれないが、得てしてこういうショッキングな表現につきものな徹底さを欠くが故に、かえって観客が恥ずかしくなってしまうという照れは微塵もない。それは彼女達が毎回の公演中、運動することによって自身の身体の内側を曝け出してその都度自身の潜在的情動といった事柄を再考する現在形の格闘が、我々観客を強く見据える強さに繋がる迫力を持ち合わせるのだろう。回転しながら飛び上がる運動の果てしない繰り返しは、かつて唐十郎が「痛みとは身体のことである」と語ったように、もがき苦しむことでしか舞台に立つ精神と身体の在り様を獲得することはできないという「特権的肉体論」をまさに自身の身体でもって記述する行為である。その軌跡を毎回の舞台で生き直されているのだ。その結果、彼女達が行う格闘はアクティングスペースに留まらず、外部=観客を十分侵犯するほどのものへと昇華するのであり、だからこそ我々はただただその迫力に圧倒することになるのだ。彼女達のパフォーマンスは、叶わぬかもしれぬ潜在意識の開放を出発点として身体全体を舞台に捧げる一種の儀式に似たものだと言えよう。


だから祈りと格闘にも似た儀式の後、舞台ラストで真っ赤な血に染まったように終始身体に纏わり着いていたワンピースをようやく脱いだ時、悪魔から天使へと脱皮するかのような聖性が宿るのである。同時に、舞台中央で真っ白なフリルの着いた下着姿の脚には既に艶めかしさは消え、しかも彼女達の顔は微笑んでいるように見えた所で、黒田育世とBATIKの面々による「脱皮する身体」の物語は終わる。





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Last updated  Apr 17, 2009 09:04:55 PM


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