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Dec 11, 2006
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #50(舞台)

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辻企画 『世界』


12月3日 京都芸術センター マチネ


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奇妙な空間


昨年、第十二回OMS戯曲賞佳作を受賞し、にわかに注目を集めている司辻有香が主宰する辻企画を初見した率直な感想は、「何だか奇妙」の一点に尽きる。奇妙さを最大限に演出するのはなにを置いても司辻のその劇世界である。「愛されたい/愛したい」という、人間がこの世に生まれてから死ぬまで求めてやまない根源的な欲求を切実に希求する懊悩、吐露がこの劇で一貫して主張されることの全てである。その女とは司辻自身であるのだろう。舞台は途中休憩を挟んで女と母、女と男の関係が展開されるが、語られる事柄は母親の胎内へ回帰し、羊水の中で直接母親の温もりと愛情を受けていただろう時に戻りたいと願う女が登場する前半部、口先だけの愛情の言葉ではもはや人との繋がりを確認できず、直接的で安易な肉体接触であるセックスに依存する女が描かれる後半部の2部構成で成り立っている。


延々と続く、個人的すぎる「世界」の展開が奇妙なのである。したがって、この舞台で描かれる「世界」のある場面なり台詞なりに没入できるような、同様の問題系を抱えた観客でなければまったく受け付けることができないのである。『世界』という作品に出会うことになる観客は2手に分かれる。つまり先に書いたような親和空間を形成し、共用しようとする観客達にとっては、彼/彼女達を許容するくらいの連帯可能な要素は慰撫的だが持ち合わせている。もう一つは、愛だの人同士の繋がりだのは、個人が抱く肥大化した妄想が結果として暴力的に立ち表れたものでしかないと嫌悪感を持つ観客であり、諸刃の剣のような二者択一を迫られる「世界」が展開される。私は後者に当たる観客として居たため、その立場から劇評を書いていく事になるだろう。「世界」への共感の糸を取り逃した私はなぜ2部構成でなければならなかったのか、まずその点からして奇妙さを覚えてしまった。


劇世界とは所詮、ある個人が日常生活の中から形成された、とりあえず自我と呼ばれる領域に意識的に表出する「世界観」を基にして素描されたものである。いや、すべからく芸術活動とはそのように、自己を起点にして出発して何かを生み出すものであろう。司辻はしかし、非常に限られた人間にしか共感を得られない、独善的な「世界」だけに拘り追求しているように見える。だから、問題を普遍化したり「世界」を拡大した何かへ置換・接続するという作業に関心がないため、人前で表現する際に持ち込まれるサービスをも拒否して極端に私的なものに留まり、意識的に設定した針の穴ほどの共感への入り口に見合う観客=同士だけしか相手にしていないように思える。その入り口への入館証を有する者は、自己発見や真実の愛などという多少なりとも鼻白んでしまうような自己内省を常に試みる者である。


だからこそ受け付ける事ができない人間にはまったく理解し難いのである。確かに詩的ではある台詞で溢れる空間に身を置きながらしきりに思うのは「わざわざ演劇という形で披露する必要があるのか」という疑問である。分かる人だけ分かればいいのならば小説でも詩でもとにかく文字媒体で訴えかける方が効果的だろう。劇作家の思想を伝達することになった俳優達の身体が魅力的なものとして立ち上がってこなかったことが余計にそう思わせる。空洞を埋めるかの如く洪水のようにあふれ出る言葉を操りきれず、声が裏返るなど、身体は言語に負けてしまい伝達者としてその存在を十分発揮することがなかった。


そう、俳優達も奇妙である。俳優が舞台の上で生きた存在として立ち現れるように当て書きされた俳優本位の台詞でもなく、台詞を一字一句間違うことなくそれにふさわしい感情を乗せて発語する文学性本位の台詞でもなく、台詞を喋らなければならない義務感に追い立てられているように見える身体として舞台上にはあった。彼らは司辻の「世界」をはっきり理解していないのかもしれない。あるいは共感できずにいたのか。作家のあまりにも強すぎる「世界」を前にして俳優達は立ちすくんでしまったのではないだろう。おそらく誰が演じても同じような印象しか受けないと思う。となれば劇世界と俳優の関係性の齟齬もまた奇妙なものとしてあったのである。狭小な世界をただ延々と見せられることに苦痛を感じながら女/男から発せられる愛されたい/愛したい云々の台詞に対し「そんなことは誰だって知っている」と思うしかなかった。俳優にしても発語する身体が丸腰の無防備さで、決められた所作をすることに未熟さだけしか感じなかったのである。社会の底の方で他者からの救いをただただ希求する者、あるいは貧しい競争に明け暮れる者で溢れ、生きている時間の過ごし方、待ち方すら見えなくなっている私達のような若い世代を「底流する人間」という様に私は認識しているが、まさにそのような人間があの時の空間全体を覆っていたことの奇妙さ。


唯一私がこの舞台において関心を寄せたのはピクニックの昼食のために持ってきたサンドイッチを相手に投げ合う箇所についてである。舞台一面に引かれた白いスーツに散乱するサンドイッチ。さらに上からぐにゃぐにゃと踏み潰される。最も奇妙であるが興味深い場面として映った。食物に対する粗末な扱いへの嫌悪とは少し違う。私はサンドイッチが散乱し、べったりと貼り付けられたこのシートは終演後誰が一体どうしてしまうのかということを考えていた。ポーカーをしながら手軽に食せるからという理由で生み出されたサンドイッチに自分達もそのような存在として仮託して見ることは可能だろう。投げつけ、踏みつけ、そういう風に自分を殺し、生まれ変わりたいというメッセージが込められているそのサンドイッチはしかし何の思考を生み出す事もなくシーツごと捨てられてしまうだけである。次の公演のために。


変えたい自分、なりたい自分が託されたと見るサンドイッチはしかし、誰かに拾われ新しい息吹を吹き込まれることなく無残な状態になる。そう、散乱したサンドイッチの光景は汚く、決して誰も拾って食そうとはしない。そんなもの誰も解決してくれない、最終的には自分達の手で片付けなければならないのである。舞台上ではその後、サンドイッチを食べようという話になったはいいが、登場人物自身、新しいそれを普通に食してしまうところに「底流する人間」らしさが立ち現れているように思う。それは環境的、外的要因によって自分が手を汚すことなく変わりたいという人間だ。お手軽に食せるサンドイッチのように、自分を軽く受け入れ承認してくれる存在を見つけることは困難だ。そのことに司辻有香が付いてないとしたらこれ以上の奇妙さはない。女が口に入るだけサンドイッチを入れて台詞を喋る場面があったが、語りたい台詞がうまく発語されない状態になった身体から何かが始まるのではないだろうか。問題は言葉を尽くしてひたすら語る所にはないはずだ。


だから舞台ラスト、散乱したサンドイッチ(口から吐き出されたサンドイッチもそこにはある)に照らされた一筋の照明を非常に長い時間をかけて落としていく演出に何の感慨も生まれないのは当然である。何がしかの感慨を喚起することよりも投げ出されたサンドイッチをいかに回収(自分で落とし前をつけるか)に我々は目をそむけることなく対峙し、苦しまなければならないのではないだろうか。同世代人としてこの「世界」観のには同意し難かった。





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Last updated  Jul 21, 2009 06:01:23 PM


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