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Aug 10, 2008
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #85(舞台)

桃園会

7月31日 ウイングフィールド ソワレ


小さな大統領が放つ魔力


ある日突然、自分の家族の顔が見知らぬ他人のもののように思えてしまう。そのことを伝えられた当の家族や周りの者はさぞ驚き、どうかしたのではないかと疑うことだろう。人は多分に顔で人物を特定し峻別しているに違いなく、本人にとって見知った顔が他人のそれであるならば、異世界に迷い込んだとしか言い様がない。まただからこそ、空気が如く当然のように思っている、そのことすら忘却してしまった近しい者の存在を異化し、再考する機会ともなろう。


キャリアウーマンの妻と美術教師の夫。二人の間に10年来の待望だった子供が生まれた。泣く赤ん坊のあやし方に四苦八苦、夫がいくらあやしも最後は乳を与える母親のもとへ赤ん坊は落ち着く。その母子の姿を美術教師らしくデッサンする夫。ここには確かに幸せの象徴としてのゆったりとほがらかな時が流れている。この妻に突然、先の変調が起こる。長年飼い続け、浴槽で飼育するまでに成長した亀の顔つきが違うと言い始める。その程度なら気のせいだと笑って済ませられるだろう。なにせ、動物の顔などよほどの事がないかぎり峻別することができないからであり、あくまでも主観が作用する思い入れの強弱でしかないからだ。しかし、対人間、それも愛する我が子の顔が違うと言い出したらどうか。動物の場合よりも関心を持って人は接しはするだろうが、きっと疲れてどうにかしてるのだとなだめられるだけで大して重要視されないのではないか。そして言った本人はその奇妙な疑念が解消されることなく言葉が突き返され、もどかしさの膨張が進んでいくことになる。第一、夫は紛れもなく自分達の赤ん坊だと認識している。疑義を差し挟むものはいつでもどこでも体よくあしらわれる。


その実、舞台中央のベビーベッドに鎮座する赤ん坊は大の大人が扮しているどころか性別までも入れ替わった別人になっていることから、とりあえず視覚的に我々は妻の言い分を受け入れることはできる。ここで妻・観客と他の登場人物との齟齬が生じる訳だが、決して妻の言い分が正しいことにはならない。物語世界へと入り込んで生きる妻はまさに現在進行形で翻弄されている存在であり、我々観客はそれをも含めて生じる様々なズレから生じる滑稽なやり取りを客観化して見る存在だからだ。佃典彦の放つナンセンスなプロットの妙を視覚的に表出する演出が巧みである。


この、赤ん坊の顔が入れ替わる点が示唆的なのは、どれほど違うじゃないかと訴えたにせよ、赤ん坊自身は肯定も否定もしないからで、したがって周りの者は突拍子もない事を言って狂ったとあしらい、病院に連れてゆくしかないからである。すなわち言葉が全てはね返り、孤立状況が強調されてくるのだ。舞台上の「二人の」赤ん坊は、はっきりとした口調で喋り、らしくない振る舞いを見せる(橋本健司の個性的な演技が笑を誘う)のだが、何をしても全て大人達の都合の良い様にあやされてしまう。赤ん坊と妻の置かれた現状とが対応関係を成してゆく所に一つの核があるだろう。つまり、ベビーベッドからあらゆる要求を大人達に飲ませる赤ん坊は、通常の意味での無垢で無害な存在と決め込むよりは、お世話係に身の回りの全てを任せる小さな大統領のように思える。その上で尚且つ、言葉が通じないばかりに、大人は自分のしてほしいように動いてくれない。その苛立ちが自らに帰結してしまう非理解性が妻と赤ん坊の共通事項としてあるのだ。赤ん坊にしてみればその苛立ちを他ならぬ母親にこそ最も分かっていてもらいたいはずなのにである。ピンク色のベビー服姿の<大人の>赤ん坊二人はだから、同じ状況を母親に味合わせようと企図したのではないかと思いたくなるほど、ベビーベッドを中心として同心円状に魔力を発するかのように異様な存在感を示す。「きっとどこかにあるはずだ、もっとよい国よい暮らし」とつぶやきながら。その後妻は、友達・会社の部下、そしてついに夫までが他人の顔になったと言い、誰もが信じられない状況に陥ってしまう。


舞台中盤より、突然この取り残された状況に妻は順応したかのように振舞い始める。周りの人間は妻の病気まがいの狂性が治ったと捉える。しかしそうではなく、「きっとどこかにあるはずだ・・・・・・」の呪文に従うように、翻弄されている状況の改善をただ希求することから反転攻勢に打って出、自ら主導券を握らんと動き出したのである。その果てが、家族や友人を殺そうとガスマスクをし、硫化水素が入っていると思い込んだ水を吹きかける行為へと繋がる。ここにきて状況はますます混迷してゆくのである。そしてついに他の登場人物も完全に入れ替わりが完了してしまう。その入れ替わりによる偶然が弛緩した時間を呼び込む。弟の顔がかつての夫のそれになり、男の性になった赤ん坊に乳を飲ませる妻が、弟にその姿を写生するよう頼む箇所がある。ここにようやく、かつての幸福な日々の追憶が束の間蘇生され、安息感が漂う。改めて自分の夫を、視覚のみならずその佇まいから発せられる匂いや声といった五感を総動員して記憶から引き出し、肉感的なものとして確認したからこそ、「なんだか懐かしい」という台詞が生きたものとして屹立するのだ。


だが、その安息は皮肉である。劇中匂わされるように、妻と弟の長年に渡る不義理と、目の前の赤ん坊は弟との間に生まれたということが思い起こされるからである。この作品は、突然家を出た妻の謎を、残された日記から辿ることから出発する。その理由は、結局のところ顔の入れ替わった状態が改善することがないために逃げ出したのか、はたまた夫の顔に親近性を再度見たところで、それは弟との不義密通を重ねたことに向けられたものでしかないことの倫理的な反省によるものなのか、はっきりとは提示されない。近しい者の存在を異化し、再認識することで自ら秘匿にしていたものをも露呈させることになった。それは堕天使とならざるを得なかった赤ん坊の差配による切実な訴えのようにも思われる。客席から劇場外へと妻が出て行った後、「二人の」赤ん坊の内の女性の方が「ただいま」と入れ替わりにやって来る。妻の入れ替わり相手が赤ん坊という点が、両者の両義性をより強調する。


全員が入れ替わった後、冒頭の、妻の失踪に悲観するシーンが再び繰り替えされる。この時、登場人物達は顔をなで、つねるといった自らの顔への疑問を差し挟みながら台詞を喋る。おそらくこの中から誰かが妻と同じ事を言い出すのかもしれない。そしてそれは、ゲームのように順繰りに回っていくのだろう。ラストのこの、ベビーベッドを中心に合わせ鏡のように並び立つそれぞれ二人ずつの人物構図が示すように、「きっとどこかにあるはずだ、もっとよい国よい暮らし」を求めて、明確な答えが見つかることなくとも自己の存在を延々と問うていくことだろう。言葉が相手に届かず、自己に虚しく帰ってくる絶望的な状況にありながら、案外この舞台の登場人物達は均衡の取れた関係性を営んでいるように思うのは、まさに自己存在への問いは、相対化し承認する他者の存在を不可欠としながらも、自己を他者化する視線をも必要とするからであり、言葉の跳ね返りとはそのことを示しているからである。加えてそれは役と俳優の関係ともパラレルに響き合う問題なのだ。


佃の新作を上演した今作は、桃園会が放つ、死とエロスの要素を用いて人間存在の最下層にまで降り立とうとするこれまでと大きな隔たりは感じさせない。特に、桃園会を単なる日常の風景をリアルに切り取って表現する集団から解き放つ、球体の地球全体を小さなプロセニアム空間にぶち込むことで生じる、球形と平面の同時存在が醸し出す浮遊感は、登場人物の顔が延々と変わっていくという、透視図法のような奥行きと永遠性を伴う戯曲構造が補完している。他劇作家の作品の上演という選択は、前作『追奏曲、砲撃』の、死とエロスがひとりでに匂い立つまでには至らず失敗に終わったことがあったために新鮮だったことは確かだ。だが、多くの部分で戯曲の現前化に重きが置かれているため、幻想的な照明美や、スピーカーを使用した声の二重性といった演出の巧緻と戯曲とがあっさりと体よく共存した無害なものに映った。だから、ねっとりと粘ついて観る者を絡め取る全体的な力、すなわちそれはいわく言いがたいじとじとと染みだしてくるような感覚的な居心地の悪さの方を私はあえて支持したいと改めて思ったのだ。





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Last updated  Apr 30, 2009 10:39:45 PM


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