山田維史の遊卵画廊

山田維史の遊卵画廊

☆インタヴュー Vol.1




 遊卵画廊の設計者であり山田維史の協力者シルフ氏が、現在進行形でインタヴューをします。
 なおシルフ氏はコラージュ作家で大の美術愛好家です。シルフ氏の作品は次のサイトでご覧になれます。
 〈http://plaza.rakuten.co.jp/prexus/〉

Copyright 2005 Tadami Yamada & Sirufu. All right reserved.

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シルフ まず月並みな質問ですが好きな画家とか作品は何ですか?

山 田 その前に私が美術に関心をもった経緯をお話ししましょう。小学校5,6年の頃ですが、母が毎月『主婦の友』という雑誌を購読していました。そのほぼ巻頭に「世界美術館」というグラビア頁がありました。私はそれが楽しみだったのです。中学生になって、私は勉学のため親許を離れ、父の会社の子弟のための学生寮に入ることになりました。その学生寮は大学生や高校生がおもで中学生も他に2人いましたが、1年生から入寮したのは後にも先にも私が初めてでした。やはり淋しくて、学校から帰っても友達もいないし、何かしないではいられないのですね。そんななか、自宅に帰ったとき例の「世界美術館」の頁を切り抜いて、寮に持ち帰りました。それと当時『蛍雪時代』という受験雑誌がありまして、上級生が購読していたのですが、それに「世界の名画画廊」というグラビア頁があったのです。受験用の美術参考作品ですね。私は上級生に頼んでその頁を切り取り、もらったのです。そうした絵や彫刻写真が随分たまりまして、私はそれを自分で製本したのです。洋品店から黒いビロード布をほんの少し買ってきて、表紙もつけました。私がつくった文字どおり一等最初の本です。じつはこの自作本、現在でも手許に保存してあります。だからどんな作品を見ていたかわかるのですが、ジョット「小鳥の説教」はじめ、「モンナ・リーサ」、デューラーの細密な肖像画「ホルツシューアーの肖像」やレンブラント「ヘンドリキエ・ストッフェルス」やピカソの「白い婦人」もありました。それにこれはやはり私の美術観に何等かの影響を与えたと今では思うのですが、華道家の勅使河原蒼風氏が当時パリで展覧会を成功させ、その収益でお買いになったというピカソの小品「婦人像」もその切り抜きに含まれていました。私はこの話に感心したのですね、何かあたらしい世界だった。
    まあそんなことが、私の美術に対する関心の初めにあったのです。

    それで、私が好きな画家ですがまずピエロ・デラ・フランチェスカですかね。あの静謐感や、幾何学的精神の成果というような作品がとても気になります。それに個々の作品では、無名画家「アビニヨンのピエタ」が第一ですね。これは25年くらい前、ルーブルで実物を観てきました。意外にひっそりしたところに展示してあって、私は知らずに歩いていて、いきなり目の前に現れたという出会い方をしました。
    でも、自分でも意外なのですが、自分の作品製作に影響を与えているのはピカソかもしれません。
    シルフさんもピカソが好きだと言っていましたね。どういう点がすきなのですか。

シルフ なによりもまず「スタイルにこだわりを持たない」という点です。一つの絵画スタイルが完成しても、それに踏みとどまらず、すぐに新たなスタイルの作品を創りつづけた旺盛なチャレンジ精神。それと、生涯に油絵だけでも2万点を描きあげたという強靱なエネルギー。作品点数だけ考えれば、今後も不世出ではないでしょうか。

山 田 そうかもしれませんねェ。

シルフ それに類い稀なデッサン力。私が最初にピカソの作品を見たのは、初期の小さな素描だったんですが、それまで美術書なんかで紹介されているキュビスムの絵のイメージが強烈だったので、背中に電流が流れるぐらい衝撃でした。その後、数多くの画家の素描を見ておりますが、ピカソほどの衝撃を、残念ながら受けておりません。そして最後に、彼は後年たいへんなお金持ちになりましたが、描き手でありつつ買い手にもなり、若い才能ある芸術家を援助したそうです。そういうことは、できそうでなかなかできないことじゃないでしょうか。とても好きな話です。

山 田 そうですか。たしかに芸術家として成功することは、強烈な自我を形成するでしょうから、それが人間的な人格の陶冶につながるとは言い切れませんからね。

シルフ ところで、画家になられたきっかけをお聞かせ願えますか?

山 田 つまりプロになったきっかけですね? 1971年2月に東京・銀座のギャラリーオカベではじめてグループ展をやりました。それから1ヵ月後くらい経って、一本の電話が入りました。講談社の編集者からでした。「先日の展覧会を見せてもらいました。山田さんの作品に何か異様なエネルギーを感じました。いかがでしょう、講談社の仕事をしてみませんか」というのです。私はじつは大学では法律の勉強をしまして、絵を描いていたとはいえ、美術界へのアプローチのノウハウはまったくありませんでした。それで、この電話はいわば晴天の霹靂だったのです。その方は「のちほどあらためて御連絡さしあげますから、是非やってください」と言って、その日はそれだけでした。それから確か2週間後くらいだったと覚えていますが、またその編集者から電話が入って「これから御自宅にお伺いしたい」と言う。「どうぞ」と返事をして、その方は実際の仕事を持って来訪したのです。当時、講談社は少年週刊誌を2種出していました。
   『少年マガジン』と、それよりやや低年齢向けの『ぼくらマガジン』です。その『ぼくらマガジン』の怪奇特集のイラストレーション、それが私の本当に最初のプロとしての仕事でした。出版原稿の書き方さえ分らない頃でした。しかも厳然とした〆きりという時間制限があるわけでしょう? どうやって描いたのだろう、夢中だったからそんなことも覚えていないです。----でも、これには後日の話があります。
    私は出来た原稿をかかえて編集部の部屋をたずねました。すると編集部ぜんたいが、なんだか暗く沈んでいるのです。担当の編集者がやってきて、「山田さん、まことに申し訳ないことが起りました。じつは『ぼくらマガジン』がたったいま、無期限の休刊とすることが社命で決定いたしました」と言ったのです。「御原稿は一応お預かりし、もちろん原稿料もお支払いいたします。そして、たぶんそうなるでしょうが、廃刊が決定しましたら、この埋め合わせ必ずさせていただきます。その時は、これに懲りずに、執筆してください」。わたしのプロデビューは、こうして出ばなをくじかれ、潰えてしまいました。でも、その編集者はそのときのことばをまもり、しばらくして転部先から仕事のオファーがありました。シリーズものでしたが、1年間ほどで大小あわせて約300点の作品を描かされ、これで私は鍛えられました。これでプロとしてやってゆく「根性」のようなものが出来上ったような気がします。

シルフ 学校教育での美術の教育についてどう思われますか?

山 田 私は実際の教育現場も現状も知りません。ですからこれは私としての一般論です。
    小・中学校については、美術教育というより情操教育といったほうが適切でしょうね。ですから作品製作も大切でしょうが、それより感受性が柔らかいこの時期に、本物の美術をたくさんたくさん見せることでしょうね。昔の譬え話に、質屋の小僧さんには上物だけを見せて修行とするという話があるでしょう?あれはまったくその通りだと思います。ですから頻繁に美術館に連れて行くべきです。国や地方の行政機関は、学校の授業として当該施設を訪問することに一切の手続きを不要とし、当然ながら無料とするべきです。なにしろ将来の日本をになう大事な人材を育成するのですから、子供達は最優先しなければなりません。一般観客の迷惑になるなどと言うひとは大ばかもので、社会のあらゆる局面が人間関係から離れられないのだから、隔離された行動なんて教育の中にはありえないのですね。さまざまな人達の中でどういう振るまいをするかが、人間としていつも問いかけられているのですから、美術館などを一般のおおぜいの観客と一緒に見てまわるというのは絶好の機会なわけです。
    教師はよほど勉強する必要がありますよ。展示作品の美術史的な背景はきっちり説明しなければいけません。そのほかの何かはむしろ言わないほうがいい。そして後にでもいい、あるいはその場で車座になって、ああだこうだと感想を言い合うのです。これが大切です。つまり、感覚でとらえたものを、きっちり自分のことばに置き換えること。言葉の発見なんですね、情操教育にしろ美術教育にしろ、けっきょくのところは----。「文化」と誰もが言いますけど、私はそれはつまり「文(言葉)」に置き換える作業だと、まあ少し粗雑な言い方ですけど、そう考えます。自分の感じたこと、心にあること、それをありきたりの言葉でなく、自分の言葉で表現すること。
    そういう子供を育てなければいけないでしょう。初めはむずかしいでしょう。「いっしょうけんめい描いていて、すごいと思いました」などと言うでしょう。いいのですよ、それで。しかしそこからが教師の役目で、いろいろの問を投げかけ、真に成熟した大人の精神でおおきく包み込みながら、あたらしい言葉がでてくるまで導いて行かなければなりません。
    そして、17歳までは褒めることが大事でしょうね。欠点や悪い所などは指摘することはありません。これはいいねえ、すばらしい色だねえ、君はすごいところに目をつけているんだなあ、君はやさしい心のもちぬしなんだなあ。嘘をいうのではなく、ひとりの人間の作物に対する敬意をもってね。 ----結局、幼少年時代の美術教育や情操教育というのは、教師の人間教育の側面があるのじゃないかしら。口で言うのはたやすい。教師というのは大変なんだ。それだけに、くだらないことに目くじら立てて、子供いじめなんかしてられないんだよ。
    さて、17歳以後は、褒めながら叩く。実際ぶつんじゃないよ。それはことばのアヤ。このくらいの年令からは、技術面の研鑽を徹底しなければいけないでしょうね。いや、このくらいから自分の道を歩みだすでしょう? そういう時期にだらだらしていては、何事でもものにならない。たとえば私のような画家を職業とすると、創作することを毎日の習慣にしなければなりません。気がむいたときに筆を執るなんていうものじゃないんです。自由業というから、気侭にやっているように思われるかもしれません。全然違うんです。画家もそうだけど小説家も音楽家も、私が知っている人達はみんな恐ろしいほど勤勉です。そういう生活のタイム・テーブルが習慣として肉体化しているのだと思います。
    シルフさんがおたずねの美術教育とは、もっと一般の領域のことかもしれないけれど、いまの私の話から何かを汲み取ってください。

シルフ シュルレアリスムはお好きですか?

山 田 はい好きです。私の作品をご覧になればお分かりのように、シュルレアリスムを勉強したことは、一目瞭然だと思います。もっともシュルレアリスムは正確に言えば、1920年代頃のひとつの美術運動です。アンドレ・ブルトンを中心としたね。だから一時そこに入って活動した画家でも、後にシュルレアリスムから離れたひとはたくさんいますでしょう? でもその画家の主題も画風も変ったわけじゃない。
    私もシュルレアリスムが自分の気質に非常に近いことはすぐ気がつきました。だから技術的なことも随分取り入れました。けれども決定的な違いは、私の場合、作品製作に無意識を信じません。自分の無意識が、結果として表出することは全く否定しませんが、私の方法論は徹底した自己分析を経て、むしろ主題としては哲学的抽象に向かおうとしています。ですからとてもイラストレーションのような画風になるのだと思いますし、それこそ私が意識してやっていることです。この方法がうっかりすると、通俗に堕す危険性が充分過ぎるほどあるのも自覚しています。それでもなお、従来もそして現在も強く存在するいわゆるファイン・アートとキッチュを分ける美術意識に疑問をもっていますので、その両者を自作のなかで融合させたいのです。
    シルフさんは、この質問、「好きですか?」と尋ねましたね。じつは、これはもしかしたら珍しい感覚かもしれないのですが、私のなかに「好き、嫌い」の感覚がないのです。なんでもフワーッと受け入れてしまうんです。ひとが目をそむけるようなことでも、なんともありません。とても興味深く感じて、おもしろいなァと思うんですよ。ただね、規準はあるんです。中途半端なできのものは、歯牙にも掛けないと言うところがあります。最上のものに鋭敏に反応し、どんどん受け入れてゆきます。プロフェッショナルもアマチュアもありません。そんなこと全然関係ない。それから精神主義も関係ありません。汗水流して一生懸命やろうと、そんなことわたしには全く問題になりません。ちょいちょいとやって、ものすごいものを創造するひとは沢山いるんです。私はそういうところ、とてもはっきりしていて、冷酷ですよ。そのかわりいいものを発見すると、その物を心の中で子供のようにかわいがります。シルフさんの作品のなかに好きなものがある、と申しあげたことがあるでしょう? そういう作品は、一度見ただけなのに、たぶん生涯忘れることなく細部まで記憶しているでしょうね。そういう記憶力は自分で言うのもへんですが、たいへんなものなんです。

シルフ 現代美術はどう思われますか?

山 田 おおいに関心があります。先端的な思想の動向をさぐるため、アンテナを張りめぐらしています。

シルフ 最近ご覧になった美術展は?

山 田 前のご質問に関連することでもありますが、職業上の秘密ということで、申し上げられません。

シルフ 貴方が大好きな美術館もしくはギャラリーについて海外も含めてお教えください。

山 田 うまいなァ、そこから私がいま何に関心をもっているか推理しようというのでしょう?

シルフ いえいえ、ちがいますよ。(笑い)

山 田 じゃあ答えます。それは即座に答えられるんです。ニューヨークのクロイスターズです。The Cloisters;The Metropolitan Museum of Art.というのが正式名称です。メトロポリタン美術館付属の中世美術館で、クロイスターズ・チャーチとも言います。マンハッタンの北西ですかね、ハーレムの北の丘のうえに建っています。フランスにあった毀れかけた中世の教会を移築したものです。じつは寄せ集めなのですが、中世教会建築のスタイルはきっちり再構築してある。これが中世美術を展示している美術館になっているのです。庭園は、当時の修道院の薬草園や花壇にあった植物を中世のスタイルで植えてあります。そこの石のベンチ、それもみな中世の物なのですが、そこに坐ってなんにもせずに半日は過ごせますよ。ハドソン河や対岸に煙るニュージャージーを眺めながらね。すばらしい美術館です。

シルフ 国内の美術館はいかがですか?

山 田 東京ステーション・ギャラリーと東京近代美術館工芸館が好きです。どちらも昔の建物を修繕し改装して美術館として使用しています。工芸館は旧近衛師団の指令部庁舎ですね。両者ともにこじんまりしていますが、落着いた、いい雰囲気があります。

シルフ 建物に時間が蓄積されているのですね。

山 田 そうなんです。ですから展示物のもっている、なんと言ったらよいか、力量でしょうかねェ、そういうものが備わっていないと、たぶん建物のすみずみの造作のなかに静かに静かに降り積っている時間の無言の威厳に圧倒されてしまうかもしれません。

シルフ ウェブでご自身の作品を展示することについてはどう思われますか。

山 田 これは時間が蓄積した建物で展示するのとは対極にあるような展示方法ですよね。これまで自作のウェヴ・ギャラリーを考えないでもなかった。他人のそういうギャラリーを見たこともありますし、私の作品が私の知らないところで掲載されているのも見ました。でもなぜかあまり本気じゃなかったんです。

シルフ じつは私のサイトで貴方の作品を紹介したことがあります。

山 田 その画像は見ていないのですが、それを私はあとで知って、見ず知らずの方がご自分のホームページで好意的な紹介をしてくださっていることに心をうごかされました。それですぐにシルフさんに御連絡しました。それがきっかけで、その後しばらくメールのやりとりをしましたね。

シルフ そうです。そのやりとりの中で私は、ウェブ・ギャラリーに作品を展示する企画をご相談したのです。

山 田 はい。私はそのとき何のためらいもなかったですね。この方ならおまかせしてもいいと思いました。

シルフ ご自身の作品を批評家の立場でご覧になった場合、何と言われますか。

山 田 ウ~ン、すごい質問だ。そうですねェ。----でも、作家というのはみな、自分の作品に対するもっとも厳しい批評家なのです。これはもう間違いない。一筆のタッチにも、頭の上から別の自分がつねに批評している。だから、身も蓋もない言い方に思われるかもしれませんが、完成した作品が、作品に対する批評かもしれません。というのも、批評家の批評って、作家にとってあまり意味をなさないと思っています。絵描きは絵のなかで人生を生きていますから、他人にどうのこうの言われても仕方ないんです。むしろ批評家の問題じゃないでしょうか。そういうことで、この質問は勘弁してください。

シルフ 今の職業(画家)をもしやっていなかったとしたら、何をやっていましたか?

山 田 これも今まで考えたこともないなァ。でも、前にお話したように、プロになったのは偶然のようでもあるし。----出発はともかく、いま私60歳ですが、この年になって自分の過去を幼少年時代から回想してみると、どうも成るべくして成ったという気がしないでもないです。私は別に、ひまがあると紙に絵を描いていたとか、漫画を描いていたという子供では全然なかった。毎日、山野をうろつきまわって植物や昆虫を観察し、標本をつくっていました。小学校6年間、ずっとそうでした。美術学校だって行ってませんからね。それでも、やっぱり絵描きになるべき道を歩いて来たようなきがします。

シルフ ご自身の作品でもっとも気に入っている作品と、逆に嫌いな作品はありますか? あればどれですか?

山 田 一番最近の作品がもっとも好きなのですが、じつは私の場合、作品が完成したと同時にもう次の作品の構想に気が向いていることがほとんどです。それというのも、先に述べたように、描きながら思考を深め自作を批判していますから、それに対する回答として次の構想がでてきます。好きだと言って執着している暇がない。私、しばしば、画風が一定していないと言われることがあります。ヘ~ッ、そう見えますか?と気がない返事をしていますが、まあ、言っていることが分らないでもない。これが私の画風だと決めた中で仕事をしたくないんです。それが画家としてのひとつの重要なアイデンティティであることは十分承知しています。画家と世間とを経済的に結び付けるひとつの拠り所ですから。それを無視したり否定するほど、私は無邪気ではありません。でも、私にとってどうしたら「この思想」にカタチを与えられるだろうということが一番問題で、それができそうな表現方法を模索し、採用してゆくのです。結局、私の描いたものが、私のスタイルです。しかし、いかがでしょう、この遊卵画廊に作品をならべてみますと、やはり山田維史の作品ではないでしょうか。少しご質問の主旨からはずれましたが----。

シルフ 日展や二科展など、いわゆる同人展についてどう思われますか?

山 田 その種の展覧会を一度も観たことがありません。ええ、そうですね、いま気がつきました。ほんとうに観に行ったことがない。----だから、べつに何も思いません。

シルフ 亡くなった画家にこれだけは聞いておきたかったという事はありますか?

山 田 フ~ン? (笑い)どうしてそんなことを考えるんだろう。面白い質問だけど、----べつに、ないなァ。画家その人の人間性に興味がまるでないと言ったら嘘になるけど、作品だけで十分です。

シルフ 絵を描くとき、色と形、どちらにウエイトをおかれますか?

山 田 それは切り離せないものです。同時に決まってくる。油彩の場合、----私の場合ですが----表面の色調を出すために、キャンバスの一等最初に塗る下地から準備をしています。絵の具の層をつくって行くわけです。それが部分部分によってみな違う準備です。ということは、おのずと形もきまっているということです。

シルフ オブジェや彫刻とかの立体作品は創られたことがありますか?

山 田 あります。装幀に実際に使用したものもあります。この遊卵画廊のブック・カバー選集で現在展示中の花輪莞爾氏の『石原莞爾独走す』は半立体(レリーフ)です。いつか展示しようと思いますが、サンリオで出したSF評論集『悪夢としてのP・K・ディック』はオブジェです。早川書房のイギリス・ミステリ傑作選の中の1冊にも半立体を使いました。

シルフ そういえば、この遊卵画廊に画像をアップしながら気がついたんですが、作品の使用材料として「油彩、針金」などと記録されていました。あれは実際に針金を巻き付けるか何かしているのですか?

山 田 そうです。『プレッシャーに抵抗するアンドロジヌ』ですね。正確にいうと、可塑性のプラスチックの線で、私がつくったフェイク(模造)です。作品に傷がつかないようにするためと、もしかしたら観客がさわってみるかもしれない。そのとき怪我をされてはいけないので、柔らかい素材で有刺鉄線の模造をしたのです。キャンバスの両脇に留付けてあります。----そういうことはWebでは情報が伝わりませんね。じつは伝わらないことを意識してやっています。『泡立つアダム』は、画肌が1cmくらい盛り上がっています。これは、アクリル樹脂を塗った下地に、油彩用の樹脂媒材で発砲スチロールの大小のボールを貼付けてあります。その上に油絵の具で彩色しました。あるいは『花と礫のなかのアダム』はアルミ箔をはってから彩色しています。透明な油絵の具の下でアルミが金属の輝きをしています。微妙な色彩の美しさを感じていただけると思うのですが、いかんせんウェブでは伝達不可能な情報です。

シルフ 私も昔、剃刀の刃をコラージュしたことがあります。

山 田 そうですか。それはちょっと見せてもらいたかった。


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