山田維史の遊卵画廊

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☆インタヴューVol.4



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シルフ 順調にこのインタヴューがつづいていますが、このあたりでまたコーヒー・ブレイクにいたしましょうか。

(サイトの東京側と大阪側で、それぞれコーヒーを煎れる。)

山 田 貴方は、いま、何を飲んでいる?

シルフ ブルーマウンテンをストレートで----。

山 田 私はモカだ。ストレート。

シルフ それではコーヒーを飲みながら。----池田満寿夫氏は最初に絵を売ったとき、相手は伯母で、価格は額代の千円だったそうです。でも、すごく嬉しかったそうです。貴方が最初に絵が売れたときの感想はいかがでしたか?

山 田 私の絵が最初に売れたのは、まだ絵の勉強を始めてすぐのころで、アルバイト先の老婦人に年賀状数枚に絵を描いてほしいとたのまれました。5枚ぐらいだったと思います。1点、500円でした。そうしたらまたすぐに、同じ人から額絵をたのまれた。はがき2枚分くらいの大きさです。私はたしか墨と青一色の淡彩で、さかさまになった子供の三輪車が空を飛んでいるのを描きました。それが5000円でした。その絵をそばで見ていた若い女性が、「私も描いてほしいわ」と言って、その人には、ほとんど抽象画にちかいのですが『春山』と題してクリーム色の紙に墨とペン・ピンクの淡彩をほどこした作品を買ってもらいました。やはり5000円でした。

シルフ 数日で12,500円になったわけですね。

山 田 そういうことです。やはり嬉しかったですよ。自分が作ったものが初めて売れたのですからね。

シルフ 初個展のときは如何でしたか?

山 田 1976年1月の『卵神庭園』ですね。「ギャラリー銀座三番街」という画廊の一応企画展でした。この展覧会で最初に売れたのが『私の頭は庭園』という20号の油彩です。

シルフ あっ、貴方が記録写真を撮影していなくて、最近になって推理作家の折原一氏が写真を探し出してくださったという作品ですね?

山 田 そうなんです。折原さんにお話ししたら、オークションに出品されていたのを見たとおっしゃった。それですぐにお知り合いの画商に問い合わせてくださったのです。画商が作品を撮影してあったというわけです。シルフさんが、あなたのホームページで私を紹介してくださったとき、この作品を掲載したのだそうですね。

シルフ じつは折原氏のサイトからダウンロードしたのです。無断で失礼しました。

山 田 ハハハハ。そのお蔭でこういう企画が生れたのですから。

シルフ 失礼ですが個展のとき、『私の頭は庭園』は最初のコレクターにいくらで売れたのでしょう。

山 田 たしか15万円だったです。

シルフ 1号あたり7,500円ですか。

山 田 いえ、そういう計算ではなかった。サムホールという、1号と2号の間ぐらいのサイズがあるでしょう? それが私の場合、6万円でした。2点売れました。

シルフ だんだん無遠慮にお聞きしますが、商業的に、つまり食べる糧として作品を創ることはありますか?

山 田 全部そうです。職業画家ですから。少なくとも人を楽しませるために描いている。自分のためではない。----そう言ってしまうと少し違うのですが、描くことで生活し、物を考え、自分の行為も言葉も作品にはねかえってくるとなると、人を楽しませるために描くことも自分のために描くことも、結局同じだということが分りました。

シルフ 出版の仕事などは制約はないのですか?

山 田 いえいえ、制約のなかで仕事をするんです。制約がないなど、むしろありえないです。装幀の装画だけに限っても、まず書名と著者名が入る。そして日本独特な付属物である帯(腰巻きとも言う)が、下から5cmぐらいを隠してしまいます。店頭効果を考えると、色調も制限される。場合によっては、コストを低く押さえるため、フルカラーを使えないということもあります。製作コストは、装幀デザインのあらゆるところに大きく影響します。使用する紙や布。印刷技術を駆使した斬新なアイデアがあったとしても、コスト高になるため断念しなければならないのは、しょっちゅうです。結局、本の定価にひびいてきますから、買い手の財布のことも考えなければならないでしょう? 商品を作っているのですからね。

シルフ そういう制約に創造上のフラストレイションは起りませんか?

山 田 ウ~ン、そうだな~。起らなくもないんだけれど、制約をかいくぐって面白いものをつくる。それが仕事の醍醐味でもあるんですよ。私は案外、きつい制約があっても平気なほうです。初めからその条件のなかで最良のイメージを生もうとしているから。

シルフ 企業広告の仕事はしないのですか?

山 田 いえいえ、やっています。「飛行する卵」シリーズは、日軽金のPR誌のための仕事ですし、この遊卵画廊で展示している『水の輪廻』は、東京電力の都市熱利用システムのパンフレット表紙。そして中部電力の碧南市タントピア館が所蔵している5点の作品は、もともと電気事業連合会の雑誌広告に使ったものです。

シルフ 商品広告もありますか?

山 田 あっ、そうですね、商品はないな。----いや、あるな。ずいぶん昔のことですが、カネボウ化粧品の夏と冬の雑誌広告をやったことがあります。女優のブルック・シールズがイメージ・キャラクターでした。----たしかに、企業広告といっても、私の場合は企業ポリシーのPRとか、商品には違いないけれど大きなプロジェクトが必要な、「システム」そのものについての広告などをやってきました。これは長年チームを組ませてもらった広告ディレクター山本勝人氏との共同制作が大部分です。そのほか、個々にエイジェントを介しての場合もありますけれど。----山本氏は、私の作品に自ずと現われる哲学性とか、カラリとした精神性を早くから注目してくれた方です。身体をこわされて引退してしまわれたのが残念です。

シルフ そういう仕事でもあまりイメージが制限されることはないのですか?

山 田 たしかに目的が純粋ですから、観客をミスダイレクションしないようにしなければならない。そういう意味では強く制限されているとも言えます。だけどクライアントが私に期待しているのは、企業が抱いている哲学的抽象論に具体的なイメージを与えることなんだと、私は理解しています。私を起用する意義を、私自身が理解していることが重要なんです。ほかのアーティストではなく、この私だ、ということです。そうなるとおのずとイメージは私独自のものであらざるをえないと言うことです。

シルフ 私の手許の資料には入っていないのですが、ポスターは制作されてますか?

山 田 はい、あります。早川書房の書店用ポスターや、演劇のポスターも作りました。劇作家で演出家だった故岸田理生さんが1977年に「哥以劇場」という劇団を旗揚げしました。その第1回公演が六本木の自由劇場でおこなわれることになり、私がポスターやチラシやチケットをデザインしました。装置もデザインしました。黒い箱のなかに浮んだ大きな卵がくるくる回るというものでした。このとき、岸田さんと話合って、舞踏家で現在は映画俳優でもある知り合いの田中泯氏に出演してもらいました。お客さんが劇場にはいりきれなくて、路上にあふれたほどの盛況でした。もともと岸田さんは寺山修司氏が主宰する劇団天井桟敷に所属していましたが、一方で私とは小説家とイラストレーターという関係で、『奇想天外』というSF雑誌でコンビを組んでいました。そんな経緯から旗揚げ公演の美術を引き受けたわけです。----そのほかに、やはり尊敬する友人、観世流能楽師の梅若猶彦氏の公演ポスターを制作しています。国立能楽堂でおこなわれた「松風」のポスターは、メキシコ・ポスター・ビエンナーレやモスクワ・ポスター・ビエンナーレで選定展示され、カタログにも掲載されました。


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