山田維史の遊卵画廊

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■Yamada's Article (5) 城と牢獄の論理構造


Copyright 1995-2007 Tadami Yamada. All rights reserved.
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     城と牢獄の論理構造

       山田維史

“The Structure of the Logic on Castle and Prison” by Tadami Yamada




   はじめに

 牢獄が監禁の場所であると同時に、また夢想の場所でもある[1]という牢獄文学発生のトポスを、澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』は、まことに鮮やかに開示している。「文学」を、夢想を本質とする芸術全般と言いかえてもよろしかろう。
 〈胡桃(くるみ)の殻の中に閉じこめられても、私には広すぎる。その中で私は、無限の大宇宙の支配者だと思うことができるのだ〉と、シェークスピアはハムレットに言わせている(第2幕第2場)。
 あるいはまた、シャルル・ノディエは次のように言っている。〈想像しうる世界の地図は、夢想のなかでしか描かれない〉と。
 あえて幽囚と言わないまでも、現実的な閉塞感あるいは肉体的な不如意が、精神を覚醒させ、内部に向けられた眼が自由の夢想を肥大させるというメカニックは、いわば芸術家誕生の秘密に属することである。18世紀の末から19世紀の始めにかけて、サド侯爵は10有余の牢獄を経巡り、その幽囚生活は27年間にわたった。牢獄の扉が鎖されては開き、開いては鎖された。そしてついにバスティユの重い扉が目の前で閉まったとき、真のサド侯爵が誕生したと、澁澤は指摘した。
 ちなみに英国人ジョン・ハワードは、1783年5月にバスティユの内部を見学しに行ったが、衛兵に無言で押し出された。そこで彼は自著の中では、10年前に刊行され、当時フランスで販売を禁止されていた元囚人の手記を引用した。それによれば、バスティユの「自由の塔」の独房の扉は二重で、かんぬきと錠前がついていて、内側の扉は鉄張りであったらしい。サド侯爵が「自由の塔」に幽閉されたのは、1784年2月であった。ジョン・ハワードが衛兵に押し出された9ヵ月後のことである。
 澁澤龍彦は『サド侯爵の生涯』の始めに、少年時代のサドの肖像を描いてみせた。神経質な、片意地な、自惚れの強い、負けず嫌いな、好き嫌いの激しい、癇の強い、少年サド。自然に対する百科全書的な、旺盛な好奇心をもった博物学愛好者である、少年サド。それはいささか私たちが知っている澁澤自身の肖像に似てなくもない。この少年が、光の世紀と称された18世紀の啓蒙思想を一身に吸収し、やがて天国への裏階段を仮借ない論理で構築する「怪物」ヘと変貌するさまを、澁澤は、明晰なことばで描きつくす。
 〈今や、サドを取り巻く環境は最悪になった。かくてサドはいよいよ‘書かねばならない’羽目に追いやられた[2]。〉
 〈幾度かの絶望の危機を過ぎて、彼は次第に自己の運命について毅然たる確信をいだいて行くのである。もとより獄舎の不安や苛立ちが払拭されたわけではないが、その混濁した怨讐と狂躁の熱っぽい泥土の底をつらぬいて、地下水のごとく滾々と流れる清冽な決意が読み取れるのである。それこそ、作家としての決意でなくて何であろう。彼はようやく、外部の現実の攻撃に対して、完全に自己の人間的尊厳を守り抜く術を会得したもののようである[3]〉と。
 私はここで、澁澤龍彦のサド論考、なかんずく『城と牢獄』を繙きながら、それを足掛かりにしながら夢想のトポスとしての城と牢獄を地形分析的(トポアナリティカル)にたどり、その空間がどのような論理構造をしているかを考えてみようと思う。

   光の世紀の牢獄

 『城と牢獄』のなかで澁澤龍彦は、サド文学における城の重要性に注目している。
 サど侯爵家は中世以来のアヴィニョンの領主であり、偉大なるブルボン王家に縁を結ぶ名家であった。〈サドは南仏のラコストにみずからの城をもち、少年時代から青年期あるいは中年期にいたるまで、しばしばここで読書三昧の生活を送ったり、芝居や大饗宴を催したり、さては少女たちを集めて秘密の快楽にふけったりしていた貴族サドの生涯にとって、城は切っても切れない重要な意味をもっていたはずである。(略)またサドは囚人として、大革命以前のフランスで牢獄の役割を果していた、ヴァンセンヌやバスティーユやミオランをはじめとする、いくつかの名高い城に住むことを余儀なくされた。サドの牢獄は城だったのである[4]。〉
 専制君主の具体的象徴である城と、その反抗者(犠牲者)の具体的象徴である牢獄を、サドはその一身に体現していた。
 18世紀は知性と合理主義の時代であった。ルソーやディドロやヴォルテエル、そしてゲーテ、『百科全書』の序説を執筆したダランベール、『精神について』のエルペシウス、『自然の体系』のドルバック、『博物誌』のビュフォンや『回想記』のカザノヴァの時代。
 そして同時に彼らの光の世紀は、〈魔術と似而非(えせ)神秘思想、異様なほどの超自然主義などがアクティヴに横行した時代[5]〉(マルセル・ブリヨン)でもあった。すなわち、夜の闇を透かして人間意識の深淵を見つめたピラネージやゴヤの時代である。
 あるいは「牢獄のテーマが強迫観念のように、作家たちの頭に取り憑き出した」(澁澤)のも、この世紀である。
 ルソーの影響を受けて牢獄の大改革者となった『犯罪と刑罰』のベッカリーア。先に紹介した英国人ジョン・ハワードは、みずからの監禁経験からヨーロッパ11カ国の牢獄を歴訪し、『監獄事情』を著した。
 「大監禁」の時代とミシェル・フーコーは呼んでいる。前世紀の古典主義は人間の非理性を閉じこめてきた。しかし閉じこめたのは非理性だけではなかった。
 〈監禁の砦は、隔離と浄化というその社会的役割に、それと正反対の文化的機能をつけ加えていたように見える〉とフーコーは言う。
 〈社会の表面では監禁の砦が理性と非理性とを区分していたが、他方、その砦は深層部では、理性と非理性とが混じりあい一つになっている様々のイマージュを貯えていた。その砦は、いわば長らく沈黙を守ってきた大きな記憶力のように機能してきたのであり、人々が追放したと信じこんだ想像力を暗闇のなかで保持してきた[6]。〉
 古典主義が閉じこめ、沈黙を強いてきた非理性は、かくして啓蒙時代の光のなかで、「言説および欲望」として現れる。
 ゴヤは連作銅版画『カプリーチョス』や同じく『ことわざ』において、その啓蒙的な暗示あるいは政治的な暗示にもまして、無意識の深いところで自然の欲望としてのみずからの非理性を告白している。
 つまり、ゴヤは、夜の「おばけ」を皮肉たっぷりにちゃかしながらも、一刻も早い真昼の安心を希求しているのだ。彼は記憶の遥か彼方にある闇の世界、魔女や魔法と結びついているのである。聾、そして重病という肉体の牢獄のなかで、また、フェルナンド7世の強圧的な絶対君主制の反抗者として、みずからを「聾の家」(ゴヤの別荘兼アトリエ)に幽閉し、深奥から噴出する恐怖や怒りや絶望、ときには陶酔さえ入り混じった夢想に身をまかせたのだった。
 しかし息子ハビエールが伝えるところによれば、ゴヤは毎日、自分の全作品を克明に点検し、違った角度から眺めていたのである。
 この事実は、18世紀という時代について、なんと多くのことをわたしたちに示唆していることだろう。まさに理性と非理性とが、ゴヤという芸術家において渾然一体なのだ。それが光の世紀といわれる18世紀なのである。

 ところで、ガストン・バシュラールは『空間の詩学』のなかで、「家」は鉛直の存在として想像されると言っている。「家」を「城」と言い換えてもよいかもしれない。
 鉛直性は屋根裏部屋と地下室という極性によって裏付けられ、想像力を合理性と非合理性に対比される異なった二方向にひらく。屋根の絶対的有用性が屋根裏部屋の存在を保証しているのだ。一方、地下室は家の暗い存在である。
 〈これを夢みることによって、われわれは深部の非合理性と接触する[7]。〉
 しかしまた、地下的な力は、相対的なものとして扱われることを許さず、ついには己自身のみを誇示するにいたると、ヤスパースはいう。サドの夢想は、そのように立ち顕われた。
 サドの城と牢獄の意味について、澁澤は、ベアトリス・ディディエの次のような見解を紹介している。
 〈城は一つの空間の全体を閉じこめている。しかしサドにあっては、その空間は本質的に垂直的であり、しかも下降的である[8]〉と。
 サドの小説の主人公やその犠牲者たちは、厚い城壁によって外界から完全に隔絶した城の内部に入ると、その空間の垂直軸にそって上下したあげく、密室にいたるのである。ディディエは、このサドの下降的空間を、死のイメージと結びつけている。
 城はネクロフィル(屍体愛好)な欲望が志向する、一種の墓なのである。

   ピラネージの無窮階段

 城であり墓である空間のイメージは、サドより1世代年長のピラネージの形而上的な連作銅版画『想像の牢獄』に、ほとんど直接的ともいえる結びつきをしめしている。ピラネージの版画は、ゴヤが身辺に置いた大切なコレクションでもあった。
 「ヴェネツィアの建築家」を誇らしげに自称したピラネージは、しかし建築家としては、ローマの聖マリア待降教会の部分改築に唯一の実際的仕事を残したにすぎない。のちにその教会は、彼の人生の安息所=墓になった。
 彼の名を巷間に高く馳せしめたのは、銅版画家また考古学者として、ローマ古代遺跡の廃墟を綿密に調査観察し、その悲劇性を開示したことによる。ピラネージといわゆる廃墟の画家たちとを明らかに分かつのは、後者がただ廃墟の絵画的効果に感動し、甘やかな郷愁にひたっているにすぎないことである。ピラネージは、建築家の記録とみなされる連作『ローマの景観』においてさえ、窮極のところ哲学的瞑想のさまざまな象徴をちりばめた芸術家だったと、マルセル・ブリヨンは言っている。
 しゃれこうべ、あばかれた墓、蛇、頭巾付きマントを着て廃墟をうろつく骸骨----。
 これらはピラネージのネクロフィルを証明しているのだろうか。
 『ハドリアヌス廟墓あるいはサン・タンジェロ城の基礎』は、その題名が示すとおり、土木建築学的な古代の石積みの記録である。しかし、よく見ると画面右上方の石塁の上に、いまにも転げ落ちそうな三角帽子をかぶった極小の人物に気づくであろう。
 巨大石造建築は永遠を志向した者の確かな痕跡である。風が吹けば飛んでしまいそうな人間の存在は、はかない。とはいえピラネージのメッセージは前者の範疇にあるのだ。
 マルグリット・ユルスナールは『ピラネージの黒い脳髄』において次のように言う。
 〈ピラネージにあっては、廃墟の形象は帝国の栄枯盛衰や人の世のはかなさを強調し敷衍するために働きかけるのではなく、事物の持続あるいは事物のゆるやかな消耗についての、また建造物の内部で石戸しての長い生存をつづける石塊の不透明な在り様(よう)についての、瞑想をうながすものである[9]〉と。
 わたしたちが眩暈(めまい)をおこしそうなピラネージの空間を支配する不安な印象は、純然たる夢想の産物である『牢獄』の連作すべてに感じられる。この悪夢の空間は、しばしば夢の諸相を決定する遠近感の喪失や遠近の逆転、あるいはだいしょうの混同とはまったく無縁である。
 ピラネージの牢獄空間の第一の特質は、きわめて厳格な幾何学の論理性である。巨大構造物の錯綜した内部は、細部まで計算されつくしている。極小の人間たちは正確な遠近法の尺度をさまよっている。そのことは、わたしたち観客も、いきなりその巨大牢獄に幽閉されてしまったことを意味する。まるでカフカの主人公のように。
 〈観客は、この構成的世界を全体として展望する位置にはいない。彼はまたどこにもこの世界の限界を認知することができない。ひとはまた、いきなりこの世界のなかに位置しているのだ。観客はこの出口なしの怖ろしさをまざまざと感じる[10]〉と、ハンス・H・ホーフシュテッターは書いた。
 19世紀のイギリス監獄に、無窮梯子という刑具があった。ちょうど愛玩用の栗鼠や二十日鼠の檻に据え付けてある車輪梯子を想像すればよろしかろう。囚人は永久に尽きることのない梯子のぼりをつづけるというわけだ。紀田順一郎によれば、この刑具は、囚人労働が経済的効果から見てもはや問題ではなかったので、囚人たちにただ恐怖と苦痛を味わわせるために用いられたのだった。
 ピラネージの牢獄は、それ自体が無窮梯子である。牢獄の内部に縦横に渡された架橋も、空中の跳ね橋も、螺旋階段も、この空間からの脱出を夢みさせるものではない。むしろ架橋の行きつくさきに、また同じような巨大な獄舎があることを予想させるのだ。囚人(そして観客)は、暗黒の論理に幽閉されて、二十日鼠のように、際限なく無窮螺旋階段の昇降を強いられるのである。

   レンブラントの瞑想

 また時代を遡る。
 ピラネージよりさらに1世紀前のレンブラントが夢想する螺旋階段は、もっと垂直性がきわだっていた。それは天上へと上昇している。
 レンブラントは、一つのパラドックスを画家としての存在に内包していた。すなわち、画家とはおよそ目の興趣を求めて外部へとつきうごかされているのだが、レンブラントは内部の何かわからぬ光を求めて目をつむるのが好きだった。
 『瞑想の哲学者』と題された銅版画を見てみよう。
 老哲学者が窓際に置いた机のそばに坐っている。戸外の光がさしこんで、机の上にひろげられた書物の頁にも光があふれている。しかし哲学者は、むしろその光を避けるように、半身を闇に浸して瞑目している。
 部屋の中央に奇妙な螺旋階段がある。それは哲学者の頭上の空間をすっかり覆って上昇し、深い影のなかに消えている。老哲学者の求める光は外界の光ではない。外界の光に照らされた書物の知識は、瞑想に優るものではないらしい。彼はみずから肉体を独房に閉じこめ、瞑目して外光を遮断するのだ。彼は瞑想によって、新たな光を求めて魂の上昇階段をのぼるのである。
 このようなイメージとして表現されたレンブラントの思想は、ネオ・プラトニズムの伝統にくみするものであると言ってよいだろう。特に、プロティノスにおける三つの実在、すなわち「一者(ト・ヘン)」、「精神(ヌース)」、「魂(プシュケー)」が階梯として発展させられた教説と、それを引き継ぎ、「神的原理」、「天上の階梯」、「教会の階梯」という新たな三段階構造に展開したディオニシオスのキリスト教神秘神学に、ゆるやかに結びついているのである。
 ディオニシオスは言う。
 〈思うに、階梯(ヒエラルキア)とは、聖なる秩序であり、知識であり、活動である。階梯は、到達の段階に応じて、神の姿に似たものになろうとし、神より注ぎ込まれた照明の程度(マナロギア)に応じつつ、神と類似のものに向って高まってゆく。----それゆえ、階梯について語る人は、ある完全に聖なる秩序について語っていることになる〉と。そして、〈理性(ロゴス)は下なるものから上なるものに向って上昇しながら、その上昇の程度に応じて収縮しつつある。だから、理性(ロゴス)は完全に上昇したその暁には、完全に音声なきものとなって「言語に現わし難いもの」(知られざる神ということ;山田註)と合一する[11]〉と。
 レンブラントの『瞑想の哲学者』は、このような聖なる階梯を語っているのである。老哲学者の理性は、螺旋階段を上昇し、やがて「精神(ヌース)」を超えた闇、すなわち知られざる神のうちのめくるめく深い闇に入りこんでゆくのである。

 さて、私は次に、時代をさらに遡り、レンブラントより340年以前の、もう一人のディオニシオス神秘神学の後継者ダンテについて述べることにしよう。ダンテの『新曲』が、聖なる階梯の物語であり、ジグラット型の螺旋階段のイメージであることを。

   ダンテの目の力

 『神曲』に表現されたダンテの世界像(imago mundi)は、垂直軸にそって上昇する同心円の空間として開示される。
 天堂篇の第14歌は次のようにはじまる。

 〈圓(まる)き器(うつわ)の中なる水、外または内より打たれれば、その波動中心より縁にまた縁より中心に及ぶ[12]。〉

 このようなダンテのイメージについて、ジョルジュ・ブーレは次のように言う。〈ダンテ的な神が所有しているこのような絶対的中心と絶対的円周という二つの特徴は、最後には一個の円と点という形象をかりた神の至福のヴィジョンに達する一連の経路のなかによく表わされている[13]。〉
 この経路は、私見によれば、同心円の水平性に対してその中心に垂直する世界軸に沿うているのである。すなわちダンテが幻想した世界像は、世界の最下部に漏斗状をした地獄があり、人の霊魂は、煉獄の火によって罪を浄化され、ジグラット型の七つの階梯(浄罪の山)を踏んで天国に入るのであるが、天国はさらに同心円状に第一天(月天)から第七天(土星)を経て第十天(天堂)にいたるのである。
 ダンテは地上の女性ベアトリーチェに導かれて、地獄(精神の苦悩)―煉獄(霊魂の浄化過程における昂揚)―天国(至福)という世界軸に沿うて上昇して行ったのであった。
 500年後にゲーテは、『神曲』の天堂篇を退屈きわまりないと酷評したが、みずからの『ファウスト』第2部を、「永遠に女性的なるもの、われらを引きて昇らしめん」と、結んでいるのは御存知のとおり。
 ダンテは、天上の純白の薔薇のなかに立って、次のような光景を見る。

 〈高き光の奥深くして燦(あざや)かなるがなかに、現はれし三(みつ)の圓あり、その色三にして大いさ同じ。その一はイリ(虹;山田註)のイリにおけるごとく他の一の光をうけて返すと見え、第三なるは彼方此方(かなたこなた)より等しく吐かるゝ火に似たり。あゝわが想(おもひ)に比ぶれば言(ことば)足らず弱きこといかばかりぞや、而してこの想すらわが見しものに比ぶればこれを些(すこし)といふにも當らじ[14]。〉

 ダンテが世界を認識する感覚は、純粋に視覚的なものである。このことをしばらく御記憶いただきたい。私はのちに、視覚的に認識された空間構造と触覚的(皮膚感覚的)に認識された空間構造との相違について考察しようと思う。
 さて、もう少し『神曲』を読み、ダンテの視覚的な認識を確認しておく。
 第33曲、『神曲』の最終部である。(以下の傍点‘’は山田)

 〈反映(てりかえ)す光のごとく汝の生むと‘みえし’輪は、わが‘目’しばしこれを‘まもりいたる’とき、同じ‘色’にて、その内に、人の‘像(かたち)’を描き出しゝさまなりければ、わが‘視る力’をわすれすべてこれに‘注げり’。あたかも力を盡して圓を量らんとつとめつゝなほ己が要(もと)むる原理に思ひいたらざる‘幾何学者の如く’。我はかの異像(いしょう)を‘見’、かの像のいかにして圓と合へるや、いかにしてかしこにその處を得しやを知らんとせしかど。わが翼これにふさはしからざりしに、この時一の‘光’わが心を射てその願ひを満たしき。[15]〉

 ダンテがいかに見ることに意を注いでいるかがわかる。見ることによって対象を認識しようとしているかがわかる。「幾何学者の如く」ということばほど、この場にふさわしいものはないだろう。
 視覚を原理とする論理構造は、一点透視の遠近法ということができよう。つまり客体を一点に固定し、客体を距離をとった直線上に置くのである。他方、触覚を原理とする論理構造は、客体に対する主体の位置は固定されていず、全方位からの触知にまかせられているので、おのずと距離感を喪失しているのである。このように対象認識には、常に距離の問題が含まれている。しかし、「幾何学者」というイメージは、視覚型にこそふさわしかろう。ダンテは、生理的視覚が限界に達すると、ついには「心の眼」をもちいるのである。
 ところで、さきにふれたベアトリス・ディディエのサド論で、澁澤龍彦がいたく感心しているのは、彼女がサドの城を、16世紀の神秘思想家アビラの聖女テレジアの著書『霊魂の城』と比較していることだ。〈サドが肉体の黒いエロティシズムをだいひょうしているとすれば、テレジアは、目に見えない霊魂の白い神秘的エロティシズムを代表しているとも言えそうだ[16]〉と、澁澤は書いている。私は私自身の関心から、この聖女の『霊魂の城』が触覚型の論理構造であることを指摘しておこう。
 アビラの聖女テレジアの神秘思想が、ディオニシオス・アレオパギラースのそれのようにいわゆる教父のキリスト教神秘神学の系列に入るかどうかは、神学的にはなかなか難しい問題のようだ。ありていに言えば、テレジアの世界像は、ダンテの世界像にほんの少しだけ似てなくもない。
 〈私たちは私たちの霊魂を、完全に透明な一個のダイヤモンドあるいは水晶で出来た、一つの城と見なすことができる。天に多くの住居があるように、この城のなかにも多くの部屋がある。[17]〉
 その城は----澁澤の見解では、サドの城とまったく同じように----同心円の中心にあり、城の内部にある七つの住居は階層を成している。第一の住居から第七の住居にいたる過程は、霊魂の完成の度合いに対応しているのである。しかも霊魂は、地獄の責苦にもひとしい試練を受けつつ上昇してゆくのである。テレジアはその試練を、ケルビムの火の槍が彼女の肉体をつき通すのだと言っている。

 〈わたしは金の槍を手にし、胸にわずかな火を燃やしているようなかれの姿を見た。いくどもわたくしの心臓にそれをつきさし、臓腑にまでそれがとどく気がした。かれが槍をぬき出すと、臓腑までもぬき出されるように思われ、神の大きな愛の火のなかにすっかりおいてゆかれる気がした。苦痛は非常に大きく、わたしに悲鳴をあげさせたが、この過度の苦痛の甘さのために、わたしはそこからぬけ出したいと思わなかった。魂はいまや、まさしく神によって満たされていた。肉体がある関係をもち、それも大いに関係していたけれども苦痛は肉体でなく、精神的であった。‘魂’と神のあいだにかわされる愛の触れあいはじつに甘美なものであるから、わたしの言うことが嘘言だと思えるひとにはすべて、これを体験させ給えと祈る。[18]〉

 聖女テレジアのことばは、ほとんど性交のアナロジーと思えるほど触覚的である。私はこの一節を精神分析学者マリー・ボナパルトの著書から孫引きしたのだが、彼女は、アビラの聖女テレジアの神秘的体験を、性的オルガスムと同一視しているのである。
 テレジアは、俗界の女性がその肉体の内部に男根を受け入れるように、神の存在に直接‘触れる’のである。
 ダンテが見ることにその意を注ぎ尽し、ついに‘心の目’で見神するのとは、なんという違いであろう!

   カンパネッラは水平を目指す

 同心円状に展開する都市構造の構想は、イタリア人にとっては、まったく現実的であった。
 イタリアの中世都市国家の典型的な構造は、丘の上の城を中心として建設された同心円状の空間である。ローマ人が言うムンドゥスとは、都市を囲繞する環状濠のことである。正確には、都市を建設するに当って、地上界と地下界との結界としてムンドゥスを掘鑿したのであった。城は世界の中心であった。その上層部が天上に向って展(ひら)いていたとすれば、ダンテの世界像との観念的距離は非常に近い。
 そういえば、カンパネッラが構想したユートピア『太陽の都』も、同心円状の構造であった。
 カンパネッラはカトリックのドメニコ会修道士であった。しかし、しばしば異端者として宗教審問所に召還され、残虐な拷問にかけられ、その71歳の生涯のうち29年間は牢獄につながれていた。(サドは74歳の27年間が幽囚の身であった。)
 カンパネッラは、生き長らえるために執念を燃やし、考えうる限りのことを実行した人間である。『太陽の都』が執筆されたのは1602年、かつて13世紀にアンジョー家の居城であったナポリのカステル・ヌオーヴォ(新宮殿)の牢獄に幽閉されていたときである。
 この牢獄は城の地下にあるのではなく、まことに皮肉なことに、城の最上階の天井裏だった。銅版を葺いた屋根裏は、冬は氷のような寒さ、夏は銅版が焼けて焦熱地獄と化した。国家的宗教的残虐の想像力は、倒錯した垂直軸に沿って限りなく深化するのである。
 カンパネッラが異端と見なされたのは、その思想が原始キリスト教的な共産主義共和国の樹立を説くものだったからであり、その根底には、「人間キリスト」という見解があった。それは無論、太陽の都の構想に反映している。
 都は広い平原のただ中にそびえる丘の上に、それぞれ惑星の名前がついた七つの環状地帯から成るように、七重の城壁をめぐらして建設されている。丘の頂上の中心に、美しい円柱に囲まれた完全な円形の神殿が建っている。神殿中央の祭壇の上には、非常に大きな天球儀と地球儀が置かれている。
 神とは自然そのものの謂い。この都の人々は自然の法則だけに従っていて、キリスト教は自然の法則にただ数々の秘蹟を附加しただけであると認識しているのだった。キリスト教は、自然の法則に導かれるとき、世界の主たる法になると。
 彼らの死後の霊魂は、天国にも煉獄にも地獄にも行かない。彼らは、霊魂の不滅を信じており、人間は死ぬとその生前の功績により善霊か悪霊かに伴われる、と考えているのである。
 すなわち、ここにカンパネッラの輪廻転生説を見ることができる。
 輪廻転生は場所と時間の問題を内包するが、転生の認識は触覚的であると言ってよい。
 たとえば、ダライ・ラマの転生がいかなる手つづきを経て確認されるかを思い出すがよい。
 あるいは、三島由紀夫が輪廻転生の物語『豊饒の海』において、転生のよるべを、いかに描写したかを見るがよい。

 〈----瀧へ近づいた本多は、ふと少年の左の脇腹のところへ目をやった。そして左の乳首より外側の、ふだんは上膊に隠されてゐる部分に、集まってゐる黒子(ほくろ)をはっきりと見た。本多は戦慄して、笑ってゐる水の中の少年の凛々しい顔を眺めた。水にしかめた眉の下に、頻繁にしばたたく目がこちらを見てゐた。本多は清顯の別れの言葉を思ひ出してゐたのである。「又、會ふぜ。きつと會ふ。瀧の下で」[19]〉

 〈ジン・ジャンの腋はあらはになった。左の乳首よりさらに左方、今まで腕に隠されてゐたところに、夕映えの残光を含んで暮れかかる空のやうな褐色の肌に、昂(すばる)を思はせる三つのきはめて小さな黒子(ほくろ)が歴々とあらはれてゐた。[20]〉

 不滅なる霊魂は、この世界以外の別世界に甦るのではなく、完全に同一の地平に生れてくるのである。しかし、その微視的でありかつ巨視的でもある変貌は、視座を固定した遠近法によっては認識しがたい。すなわち、そのとき距離感は、対象を撫で廻すべく多点から発生して近接性のうちに消失しているのである。
 自然の微細な一片がそのまま大いなる自然に変貌する三島文学の描写について、服部達がつとに「触覚的遠近法」と称したのは、まさに卓見であった。三島の目は、かぎりなく視姦にちかい。
 『太陽の都』の語り手が、コロンブスの航海長をつとめたジェノヴァ人であることに、あらためて注意を促しておこう。大航海時代とは、地球のありようを、全方位的にいわば‘触診’しようという意志に支えられていた。彼らは母港を中心に、波紋をひろげるように、地球の表面を撫でていったのであった。
 その触覚的空間認識は、カンパネッラの太陽の都の構造に色濃く反映していると言えよう。この都は同心円状に地表にひろがっているが、垂直軸の存在はきわめて希薄か、無いにひとしい。
 カンパネッラは29年間の長きにわたって牢獄のなかで呻吟したものの、その牢獄空間の垂直性は、彼の夢想のなかで、まったく無効にされたのである。

   夢想が生まれぬ場所

 〈----一切の感覚は、冥府へ墜ちる魂のように真逆様に転落して、奈落の底へのみこまれるのを覚えた。あとには、ただ沈黙と、静寂と、そして闇夜と、それだけが宇宙であった。[21]〉
 E・A・ポー『陥穽と振子』の一節である。
 その恐ろしき殺人者の館は、フランス占領前夜のトレドの異端審問所、その牢獄ということになっていた。僧侶たちの拷問に関する絶妙の工夫による牢獄は、高さ3,40フィート、金属製の壁で囲われた全周25ヤードすなわち一辺およそ6メートル弱の、暗黒の部屋。石畳の床。その中央に深い陥穽。そして天上には偃月刀(えんげつとう)型振子がぶらさがり、ゆっくりさがってくる。その刃を避けるためには、みずから陥穽に身を投げるほかはない。
 しかし、思い出していただきたいのは、この牢獄そのものがすでにして陥穽だったということ。落とし穴のなかに落とし穴があるという二重構造。いや、三重、四重----。
 なんという工夫! なんという奸知!
 墜ちても墜ちても果てしなく墜ちて行くというのは、想像するだに身の毛がよだつ。
 じつは、私が最も恐怖を感じるイメージが、この暗黒の無底への落下なのである。
 渋沢龍彦は、『城と牢獄』を擱筆するに当って、〈主人公の目からは城に見えたものが、奴隷の目からは牢獄に見えるのであり、この二つは要するに同じ場所にすぎない。城とは裏返しにされた牢獄であり、牢獄とは裏返しされた城である。サドは、生きているうちに、牢獄が城となり、城が牢獄となるという稀有な体験を味わったのである。[22]〉と、みごとに結論を下し、その論評の円環を閉じている。
 私の恐怖感を煽る無限入れ子の陥穽である牢獄は、もしかしたら絶対的に夢想の生まれない場所(トポス)なのかもしれない。
 いかがであろう。


   引用文献
   [1][4][8][16][17][22]澁澤龍彦『城と牢獄』 青土社
   [2][3]渋沢龍彦『サド侯爵の生涯』 桃源社
   [5]M・ブリヨン『幻想芸術』 坂崎乙郎訳、紀伊國屋書店
   [6]M・フーコー『狂気の歴史』 田村俶訳、新潮社
   [7]G・バシュラール『空間の詩学』 岩村行雄訳、思潮社
   [9]M・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』 多田智満子訳、白水社
   [10]H・H・ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』 種村季弘訳、美術出版社
   [11]A・ラウス『キリスト教神秘思想の源流』 水落健治訳、教文館
   [12][14][15]ダンテ『神曲』 山川丙三郎訳、岩波書店
   [13]G・ブーレ『円環の変貌』 岡三郎訳、国文社
   [18]M・ボナパルト『クロノス・エロス・タナトス』 佐々木孝次訳、せりか書房
   [19][20]三島由紀夫『豊饒の海』4部作、新潮社
   [21]E・A・ポー『陥穽と振子』 田中西二郎訳、東京創元社

   初出:『AZ』1995年春号、新人物往来社刊 




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