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昨夜、ご覧になりました? ワールドカップ「日本対パラグアイ」戦? いやー、私も120分間、死力を尽くした応援をして疲れ果てました・・・。日本チームもよく頑張りましたね。 だけど、PK戦での勝敗というのは、やはり後味が悪いですなあ。あんなの半分「運」みたいなもんですもん。じゃんけんで決めるのと大差ない、と言ったら言い過ぎかも知れないけれど・・・。120分やっても勝敗がつかない場合、30分くらい休憩をとった後、サドンデス方式で決める、というようにならないもんですかね? その方が、双方のチームとも、また応援している双方のサポーターの側としても納得すると思いますが・・・。 閑話休題。 先日某古書店でゲットした菅原正二さんの『ジャズ喫茶「ベイシー」の選択』(講談社+α文庫・絶版?)を読了しました。菅原正二さんというのは、岩手県は一関でジャズ喫茶「ベイシー」を経営する、ジャズ喫茶のオヤジさん。ジャズ好きなら誰でもその名を知る人です。 なんでそんなに有名か、というと、そのオーディオにかける情熱がただ事ではないから。私はベイシーに行ったことはないので、本での知識でしかありませんが、凄いらしいですよ。菅原さんがセットしたオーディオで聴くと、「音が見える」そうですから。つまり、そこに演奏者が実際に居るがごとき音がするのだとか。 じゃ、どんな演奏者がジャズ喫茶ベイシーに立ち現われるかと言えば、カウント・ベイシーその人です。菅原さんのお店の名前からして明らかなように、彼はカウント・ベイシーの大ファンでありまして、若かりし日、たまたま数百円で買ったカウント・ベイシーのレコードを聴いて痺れ、以来、カウント・ベイシー楽団の音を追求して今日まで来た人なんですな。 で、菅原さんは、その渾身のオーディオ・セットでカウント・ベイシー楽団のサウンドを、まるでカウント・ベイシーがそこに居るように再現するだけでなく、本当に一関にカウント・ベイシーを呼んでしまった、と。 菅原さんはカウント・ベイシーの大ファンになったのが嵩じて、というのか、ついにはカウント・ベイシー本人の知遇を得ることともなり、彼の日本公演では付き人のように立ち働いて、その献身的な働きぶりにより御大から「スウィフティー」なるニックネームまでつけられたという・・・。で、しまいにはカウント・ベイシーが自ら仲間を引き連れて一関の菅原さんのお店を訪れるほどにもなった、というのですからこれは凄い。 とまあ、この本はそんなジャズ・マニア、オーディオ・マニアにして、ベイシー・マニアの菅原さんの、「音」との格闘の日々を綴ったエッセイと言えましょう。 そんなわけですから、その内容はややマニアックなところがありまして、オーディオに興味のない人にはなんのことやら、というところがある。しかし、それでも虚心坦懐に読めば、ある意味恐ろしいことが書いてあることも事実。 例えば、我々、音の素人は、レコードやCDの音というのは、あらかじめ決まったものだと思いがちです。(でしょ?) ところが菅原さんのようなマニアからすると、そうではないんですな。つまり、プレーヤーを変えれば、まったく違う音が出る、というわけ。同じように、アンプを変えれば音は変わるし、針を変えれば音は変わる。スピーカーを変えれば音が変わるのは当たり前。それどころか、オーディオ機器をつなぐケーブルの種類や長さを変えるだけで音は変わるのだそうで。それもケーブルの長さを数ミリ変えるだけで音はまったく違ったものになってしまうのだとか。あと、コンセントを差し込む向きを逆にするだけでも音は変わる。 となると、レコードやCDの鳴らし方というのは、無限の組み合わせがあるということになります。その中で、いかに自分の理想に近づけて行くか。これはもう、指揮者がオーケストラを指揮するのと同じで、LPやCDを自分は如何に演奏するか、という、創作の世界に限りなく近づいていくわけです。 そういうオーディオの奥深い部分。それを知るだけでも、勉強になります。 でまあ、そういうオーディオの深淵に触れる、というのも面白いのですが、この本で私が最も惹かれるのは、やっぱり浪花節の部分といいますか、菅原さんのカウント・ベイシーへの思いの強さ、ですね。 大体、好きになったからといって、その本人からニックネームを付けられるところまで行くことなんて、普通、ないではないですか。しかもカウント・ベイシーなんて、斯界の大御所も大御所。神様みたいな存在ですからね。例えば、私がソニー・ロリンズの大ファンだったとしても、ソニーが来日するたびに名古屋の自宅に遊びに来るようになることなんて、普通は考えられないでしょ。 そんな神様に信頼されるほどになる、というのは、並大抵のことじゃない。その並大抵じゃないことを菅原さんはやっているんですから。 だから、この本の最後の方に、菅原さんが1984年に亡くなったカウント・ベイシーの墓参りをする場面があるんですけど、サラっと書かれている中に、どれほどの思いが込められているか、というのがね。いいわけですよ。 それから、そういうジャズへの一途な思いの中で構築されていった、菅原さんの交友関係がまたよくてね。例えば、作家でジャズ・ファンでもあった色川武大さんが晩年、一関の菅原さんの家のすぐ近くに引っ越した時の話なんて、なかなかよろしい。そして、色川さんが亡くなった後、色川さんと親しかった女優の渡辺美佐子さんが、ふらっとベイシーを訪れ、「色ちゃんが少しでも住んだ町がどんなところなのか見てみたいと思って駅から歩いて来て、ちょっと(「ベイシー」を)覗いて黙って帰ろうかと思ったの・・・」なんてしみじみ語った、なんて話も、おお、いいじゃないですか・・・。 というわけで、この本、万人受けする本じゃないとは思いますが、この方面に少しでも興味のある向きにはおすすめします。新刊は手に入らないかと思うので、古書でどうぞ。 それにしても、一関のジャズ喫茶「ベイシー」、いつか私も行ってみたいもんですなあ。そちらの方でまたいつか学会とか、ないかしら?
June 30, 2010
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角界賭博の問題について、一応の方向が打ち出されたようで、それによると件の琴光喜は解雇、または除名ですか・・・。うーむ・・・。 かなり厳しいですな・・・。三十代前半の若者の将来を奪うような・・・。もし本当に解雇・除名になったら、彼の人生にピリオドを打つようなもんですよ。それはちょっと、罪の重さに対して、罰が重すぎる。 よく、若くして重大な事件を起こした者に対して厳罰が下される可能性がある場合、「将来のある身ですし、本人も反省していますから、なるべく穏当な処罰を・・・」というような声が出てくる場合がありますけど、今回はそういう声はどこからも出ないんですかね? 今や「角界粛清」の世論の波には抗い難し、というところなんでしょうが、天邪鬼なワタクシとしては、こういう一方的な世論の波、というのが大嫌いでありまして。 日本人の気質として、熱しやすく冷めやすいというか、熱している状態では問答無用で一つの判断がどこまでも通ってしまうところがある。今は「腐った角界に鉄槌を!」という意見だけが暴走している状態ですけど、昨日まで角界のことなんかなーんとも思ってなかった人たちまで、この路線でモノを言ってますからね。世論の波に乗ってれば安全ですから。 しかし、ワタクシは、繰り返しますが、今回の処分は少し重すぎるような気がします。先代時津風部屋の「弟子・リンチ殺人事件」とは事件の性質が違います。 私に処分が任されていたらですね、まず関係した連中はまず謹慎。そして警察の捜査を受け、立件された場合は、裁判所が適当と判断した処分を受けさせる。その上で、刑を受けてから社会復帰した親方や力士を、相撲協会としてどのように遇するかを決める。例えばアメリカでよくあるように、「福祉施設などでのボランティア何百時間」というような、建設的な処罰の仕方も視野に入れて検討する。 ってな感じなんですけどね。だから、琴光喜に関しても、もし立件されるのであれば、どの程度の処分を受けるのか。罰金刑なのか、禁固刑なのか。もし仮に禁固半年だったら、当然、二場所以上の休場となって大関陥落、いや前頭下位くらいに降格になるでしょうけど、そこから再起させればいい。罪を償った元大関の奮闘を見たいじゃないですか。罪を償ったら、その後は普通の社会人として受け入れるのがルールってもんじゃないすか? 大体ですね、日本は法治国家なわけですよね。で、今回のような法律に触れることが行われた場合、それ相応の処罰というのが決まっている。罰金の場合もあるし、最悪禁固3年だそうですが。ですから、私はそれに沿って処罰を決めればいいと思うんですね。それ以外の処罰をしたら、それは法治国家としてまずいのではないでしょうか。だって、民間に処罰の方法や程度を勝手に決めさせるというのなら、それは「リンチ」を認めるようなもんだもの。 私に言わせれば、今回の琴光喜やその他関係者への処罰は、リンチですね。 ちなみに、よく政治家が不正な金銭の受け渡しなどをした場合、すぐに「国会で証人喚問を」みたいな話になりますけど、私はあれも気に入らないです。犯罪を捜査するのは警察のお仕事、処罰を決定するのは裁判所のお仕事。国会は、犯罪捜査をする場所でもなければ、処罰を決める場所でもないはず。立法とか、予算決定とか、国民にとってはるかに重要な仕事があるはずなのに、それをほったらかして、何で証人喚問なんかしなきゃいかんのか。しかも証人喚問して何かが明らかになるのならまだしも、当該の「証人」とやらの嘘八百を聞くために、どうして国会本来の仕事をなおざりにしなければならないのか、私にはさっぱり。 つまり、私がここで言いたいのはですね、「犯罪の捜査は警察に任せよう、処罰の決定は裁判所に任せよう」ということですね。犯罪捜査・処罰の一元化を図ろう、と。 私はそのように思うのですが、もはや世論の流れは押し戻し難し、ですかね・・・。琴光喜、可哀想だな・・・。
June 29, 2010
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私が通っている八光流柔術の道場では、稽古の後、「八光流体操」というものをします。 八光流では、柔術の他に「皇法指圧」というものも教えています。指圧と言っても他流の指圧とは考え方が異なっていまして、点としての「ツボ」を刺激する、という方法は取りません。そうではなくて、線としての「経絡」を刺激することで、体内の様々な流れを良くし、それによって健康改善・健康増進を図る、というものなんですね。 で、この皇法指圧の考え方は、武道としての八光流柔術と一体のものであって、柔術の動きそのものに、経絡を刺激する形が採り入れられているんです。 例えば足の配置もそうで、八光流の場合、常に左右の足が直角の角度になるように構えるのですが、この形は「撞木」といい、これは左右から別々に攻撃してくる敵に素早く対処するため、という護身の目的の他に、この足の配置にすることで足の経絡が伸ばされ、流れが良くなる、という健康増進の意味も込められているのであります。 とまあ、かくの如く八光流柔術では「敵からの護身」と同時に「病魔からの護身」を図るということを重視するのですが、「八光流体操」もまた、「皇法指圧」の考え方を「体操」の動きの中に採り入れた、この流派独自の体操なんです。 と言っても、別にむずかしい動きをするわけではありません。動きそのものはすごくシンプル。 例えば、コサックダンスのように両腕を胸の前で組み、その状態で片足を後ろに上げ、軸足で1分ほど立っているというのがあります。この時、顔を上げ、胸を張り、後ろに上げた足はつま先まで伸ばすことが重要なんですが、最初のうちはこの状態で片足で立っているだけで結構しんどい。これを左右の足で1、2回、朝晩に行うだけで下半身の経絡が刺激され、健康増進に随分役立つのだとか。 で、これを師範に教わってから、私も思い出す度にこの体操を行っているんですけど、これがね、きついんだけど、やり終わった後、妙に快いわけ。ああ、確かに効いているのかなあ、という実感があります。なかなかいいもんですよ。 それにしても、単なる武道ではなく、ここまで総合的に「護身」ということを考えている八光流柔術。入門して本当に良かったと、つくづく感じている私なのでありました。
June 28, 2010
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今日は日曜日。ま、現在のところ毎日が日曜日の私ではありますが、やはり日曜日というのは、なんとなくのんびりしてしまうものでありまして。 ということで、今日は午後3時頃から家内をつれて近くのカフェに出向いてまったりすることに。 向かったのは我らのお気に入りの「q.e.d.」というカフェ。名東区にあります。ここ、カフェオレもケーキも実においしい。ランチもおいしいんですけどね。 というわけで、今日はカフェオレとストロベリー・チーズケーキを注文し、備え付けの雑誌を熟読。この店には私好みの雑誌、例えば『エル・デコ』だとか『ku:nel』、『自給自足』、『Pen』、『フィガロ』などが置いてあるので、私としては至福の雑誌タイムが味わえるわけ。家内は『シュプール』辺りを読んで楽しそうでした。 で、おいしいコーヒーとケーキ、それに各種雑誌を味わった後、併設している雑貨コーナーへ。ここで家内は愛媛県今治市で生産されているという吸水性に優れたハンカチ(可愛いリャマの絵が描いてあってカワイイ!)と、ネックレス(高いものではないけど、デザインが良い)をゲットしてご満悦。 で、このお店は明日が定休日ということで、カフェで提供しているランチのおかずを格安でパック詰めしてあったので、これもゲットして充実のカフェライフを楽しんでしまったのであります。ここのランチ、旨いからなあ! さて、q.e.d. を出てからは、近くのスーパーでちょいと買い物をして帰る予定だったのですが、「ものはついで」ということで、もう一か所、このお店の近くにあるブックオフ的な古書店を覗いていくことに。ちょっとハーレクイン・ロマンスを数冊、買って帰ろうかなと。古書店なら1冊100円で置いてあることが多いですからね。さすがにアレを定価で買うのもちょっと、と思われるので。 ところが生憎、このお店にはハーレクイン・ロマンスが置いてなかったという・・・。そこはちょっとがっかりなんですけど、その代わり今日は妙にジャズ系の本が目につきまして、寺島靖国『JAZZリクエストノート』(講談社・単行本)、後藤雅洋『ジャズ完全入門』(宝島新書)、菅原正二『ジャズ喫茶「ベイシー」の選択』(講談社+α文庫)の三冊をゲット。特に最後の奴は掘り出しものだったのではないかと。Jazzリクエスト・ノート価格:1,575円(税込、送料別)ジャズ完全入門!増補改訂版価格:840円(税込、送料別)ジャズ喫茶「ベイシー」の選択価格:819円(税込、送料別) というわけで、今日は日曜日らしく、のんきに過ごすことができたのでありました。今日も、いい日だ!
June 27, 2010
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お昼を食べ終わって、何となくテレビを見ながらリラックスをしていたら、NHK で、『極める』という番組の再放送(4回分一挙放送)をやっていて、テーマが「コーヒー」だったので、つい見てしまいました。 この番組、このテーマに関しては「アリとキリギリス」のアリさんの方、石井正則さんが「一コーヒー好き」として狂言回しとなり、コーヒーを巡るあれこれを視聴者と一緒に学んでいく、という趣向なんですが、1回目が「美味しいコーヒーの淹れ方を学ぶ」という観点からテイスティングや焙煎のことを扱い、2回目は「喫茶店の変遷」として名曲喫茶やジャズ喫茶、カフェバーなど、時代毎の喫茶店の歴史を追い、3回目は「コーヒーと健康」として最近見直されているコーヒーの健康増進効果を科学的に実証、最終回となる4回目は「究極のコーヒーを作る」として、石井さんが自分好みのコーヒーを豆から追求していき、最後は自分好みのセッティングの中でコーヒーを飲む、というところで終わりました。 で、どの回も面白かったのですが、やっぱり一番面白かったのは2回目の「喫茶店の変遷」だったかなあ。 結局、コーヒーってのは、もちろん「味としておいしい」ということも魅力ですけど、もっと魅力的なのは、「誰と飲むか」「どういう場所で飲むか」ということじゃないすか? つまり、コーヒーそのものよりも、それに付随する雰囲気というか環境というか、その辺が文化的に面白いわけでありまして。 例えば、戦後、日本の都市部に名曲喫茶なるものが生まれてきた、というような史実がある、と。で、その背景には当時日本がまだ貧しくて、また物が無くて、クラシックのレコードを自宅で聴くだけの余裕がなかった、ということもあるわけですけど、とにかくこうした名曲喫茶の向こう側に、戦後の混乱と慌ただしさの中で、たとえひと時であれ文化的な憩いの場所が欲しかったという、当時の日本人の希求が見えてくるわけですね。 そして60年代から70年代にかけ、今度は学生運動の高まりと同時に「ジャズ喫茶」が登場してくる。クラシック=白人音楽に対抗して生まれた黒人音楽としてのジャズ、というところからしてジャズにはカウンターカルチャーの素養があるわけですが、当時の学生たちはそういうものに喫茶店で浸りながら、安穏とした音楽としてではなく、思考の具としてのジャズに入れ込んだんでしょうな。 で、やがて80年代のバブルの時代となって、「カフェバー」が登場。喫茶店がファッションになってくるわけです。 しかし、その後バブルがはじけ、時代も平成になると、今度は「カフェバー」時代のようなマーケティングの産物としての喫茶店ではなく、オーナーの個性を前面に打ち出した個性的な喫茶店が登場してくる。古民家を改装した喫茶店、オーガニックを売り物にする喫茶店、家具調度に凝った喫茶店、ま、そういった感じです。で、それが今日の状況であると。現在の喫茶店は、「そこで皆で一緒に何かを共有する」という場所ではなく、「個々の人間が、自分の好みにあった場所を選択していく」、その結果として見出された場所、ということでしょうか。 とまあ、喫茶店の変遷をたどるというのも、なかなか面白いものでありまして。 ちなみに、この回に関して、石井さんにコーヒー文化のなんたるかを教えていたのは、上智大学の小林章夫教授。『コーヒーハウス』なんて著書もある小林先生が登場したのは当然なんですが、実は私、小林教授とは知り合いなんです~。以前、私が務める大学に小林先生をお呼びして、集中講義をしてもらったことがあったもので。先生は、上智大学にお勤めではありますが、ご自宅はたしか軽井沢にありましてね。普段は高原にお住まいで、仕事の時だけ都会に出てくるというライフスタイル、私も大いに憧れるところであります。 でもいいな~、小林先生。こういう番組があると、NHKからお声が掛かって。私もNHKに出たい~っ! ま、それはともかく、この「極める」と言う番組、次は佐野史郎さんが狂言回しとなって「石」についてあれこれ学ぶそうですから、今度からは再放送じゃない奴をちゃんと毎回見ようかなと思っているのであります。というわけで、NHKの「極める」、教授のおすすめ!です。
June 26, 2010
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さすがに夜中まで付き合うことはできませんでしたが、今朝、起きてすぐにテレビをつけ、岡田ジャパンの快挙を知りました。決して楽な敵ではないと思われたデンマーク相手に3対1の勝利。仮に決勝トーナメント進出が決まるとしても、決定力のない岡田ジャパンなら、せいぜい1対1の引き分けがいいところかと思っていた(私を含む)多くの日本人のマイナス方向の期待を、見事に裏切ってくれたというところでしょうか。 ということで、W杯直前の一連の練習試合を見て、岡田ジャパンを酷評したワタクシとしては、ここで己の非を認め、公に謝罪しておきましょう。お見逸れいたしました! はい、私はちゃんと己の不明を認めて謝りましたよ! さあ、私の他にも、岡田ジャパンに対して謝らなきゃいかんマスコミ各社がいるんじゃないですか? ま、今後のマスコミの対応は見ものですな。これで決勝トーナメントで1勝でもしようもんなら、この間までの口ぶりは忘れ、手のひらを返したように岡田監督を持ち上げ出すのでしょう。持ち上げるかと思えば、奈落に突き落とす。突き落としたかと思えば、偶像視する。 ま、それはある意味仕方がないことかもしれませんけど、手のひらを返す前に、一応はちゃんと謝ろうよね! それから、ついこの間までは沖縄・普天間基地の問題について口角泡を飛ばしていたマスコミの方々、および市井の方々、もうすっかりそのことは忘れて、今は消費税10%の是非ばかりのようですが、どうなんでしょうか。やっぱり、そこも謝った方がいいのではないでしょうか。結局、我々本土に住む多くの日本人にとって、沖縄の問題なんぞ対岸の火事だったということを認めた方がよろしくはありませんかな? しばらく時間をおいてみると、首相の交代劇という一大事が、如何にその時のその時の社会的「気分」に流されて決まっていくか、ということがよく分りますけど、その辺の事情についてもどこかで立ち止まって反省した方がよろしいのではありませんか? ま、そういうことも含め、日本人は「固定的な観念」、まあ「信念」と言ってもいいですが、そういうものを持つべきじゃないかなと思います。そして、ある時点でそれが間違っていたことが判明したら、そこで反省し、謝罪すべきは謝罪し、新たに正しいと思える信念を持つと。 とにかく、私の場合、岡田ジャパンに戦略もタレントもなし、という間違った信念を持っていたことが分りましたので、それをここで誤りを認め、その筋に謝罪し、修正しておきます。岡田ジャパンの組織的なディフェンスは機能しておりました。そして、ディフェンスだけのチームでもないことが分りました。 ということで、次はいよいよベスト8をかけての大勝負。頑張って下さいよ! ところで、話は変わりますが、昨夜、ついにこのブログも「30万アクセス」の大台に乗りました。延べ30万人の方々に読んでいただいた、ということ、驚きもし、また感謝もしております。これからも日々、更新を続けていきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
June 25, 2010
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人も知る相撲ファンの私ですが、なんだか角界もえらいことになっておりますなあ・・・。 まあね、昔は相撲の地方巡業なんて、地元のその筋の人たちが仕切ったのでしょうしねえ。私としては相撲取りの全員が聖人君子だとは最初から思ってないし、賭博そのものが悪だというのなら、競馬やトトやパチンコも禁止しなくちゃ筋が通らんと思いますが、ここまで騒ぎが大きくなるとどこかに落とし所を見つけないと収拾がつきませんよね。 それにしても、発端となった琴光喜・・・。 彼が最初に上位に挙がってきた時、お、なかなか相撲の上手い奴が出てきたなと思い、優勝した時はさらに期待したんですけど、その後が良くなかった。 優勝した途端、急に相撲が変わりましてね。以前とは打って変わった速効相撲になり、とりわけ立ち合いでものすごい当たりをするようになった。多分、師匠か誰かから「幕内上位で相撲をとるなら、もっと厳しい立ち合いをしなきゃだめだ」とか何とか入れ知恵をされたんでしょうけど、その結果、バランスを崩して彼の相撲はめちゃくちゃになってしまった。 彼はもともと相撲が遅い人で、四つ相撲でじっくり取りたいタイプなんですな。で、小兵ならともかく、彼は身体も大きいので、下がらない程度に当たって、ゆっくり相手を料理すりゃーいいんです。ところが、そんな自分の持ち味を捨てて無理やりバーンと当たるようになったので、立ち合いですっかり身体が伸びきってしまって、その後、叩かれてバッタリ落ちたり、変化されて相手に主導権を奪われたりすることが多くなってしまった。 しかし、「もっとゆっくり相撲をとれ」とアドバイスをする人がいなかったんでしょうな。強く当たって負けるもんだから、もっともっと激しく当たるようになり、さらに大幅にバランスを崩すようになってしまった。 この頃からですかね、琴光喜の顔つきが変わってきたのは。 新入幕の頃には、まるで子供のように無邪気で、優しそうな顔だったのに、この頃になるとどんどん人相が悪くなっていって・・・。生来の気の弱さを覆い隠すように、立ち合い前の形相なんて、まるでその筋の人のようになってしまった。そしてその悪い人相のまま、大関へ。 ま、あんなバラバラな相撲をとっていて、それでもどうにか大関の地位まで上がったのは大したものですが、その後も勝ったり負けたりの低空飛行。元々の自分らしい相撲をとっていれば、その上の地位も夢ではなかったと私は密かに思っていますが、あれでは大関の地位を守るだけで精いっぱいでしょう。 で、今回の事件。そしてその対応。「関係ありません」と断言した後の事実暴露。人相の悪さの下に隠しきれなかった気の弱さが露呈し、さらに情けないことになってしまった。 まあ、自分の気質に合わない相撲とって、成績も上がらずでは、面白くないでしょう。その面白くなさが、賭博に引き込まれていった遠因ではないかと、私は勝手に想像しております。 この先、彼の身にどのような処分が下るのか。最悪、角界追放というようなことになるのだとしたら、まだ幕内に入りたての頃、子供のような顔を上気させてインタビューに臨んでいた彼のことを覚えている私にしてみれば、何だか可愛がっていた親戚の子が、次第に不良になっていくのを傍から見ているような気になりますなあ。 さて、もうすぐ名古屋場所ですが、開催されるかどうか自体がペンディング、開催されてもNHKが中継するかどうかもペンディングという前代未聞の状態ですけど、まあ、良いようになってくれればいいと思います。もうこの際、文部省管轄の公の団体であることなんて止めて、自主経営のプロレス団体みたいになる、というのも、案外一つの道なんじゃないかしらと、思わなくもないワタクシなのでありました、とさ。
June 24, 2010
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今日、と言いますか、昨日の話になっちゃいましたけど、昨日は仙台から彦根に引っ越した姉一家のもとへ両親を連れていくべく、私と家内も彦根まで軽くドライブしてきました。 名古屋と彦根、ちょうど100キロほど離れていますが、名古屋・仙台間の800キロと比べれば近い、近い。名神高速を使って1時間ちょいで行ってしまいます。 で、彦根のマンションに釈迦楽家3家族が集結したわけですが、さすがにこれでは手狭ということで、夕食は家からもほど近くにあるかんぽの宿に移動、そこで近江牛のしゃぶしゃぶを堪能しつつ、両親はそのままそこに泊まることになりました。 で、久々に琵琶湖を見たんですけど、やはり琵琶湖はでかい! 向こう岸が見えない日本でも唯一の湖ではないでしょうか? パッと見、海ですよね。潮の香がしないだけで。 で、この琵琶湖のほとりにあるかんぽの宿ですけど、ま、施設そのものは若干お疲れ気味ではありますが、さすがに立地はばっちり、部屋もひろびろで全室レイクビュー。今まであまり積極的に「かんぽの宿に泊まろう!」という発想がなかった私ですが、今後は選択肢に入れとこうかな、と。しゃぶしゃぶも豪華でしたしね。 で、食後、私と家内は両親を姉に預けて名古屋に帰宅。私が東京に行ったり、両親を名古屋でもてなしたり、この1週間というもの、慌ただしく過ぎましたが、それも今日でおしまい。家内には色々面倒をかけましたが、感謝、感謝でございます。 さて、今日からはまた普通の日常に戻ります。少し遅れた勉強を取り戻さないとね!
June 23, 2010
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今日は家内と両親を連れて蒲郡へ行き、紫陽花を見てきました。 東名・音羽蒲郡インターを降り、そのまま有料道路(オレンジロード)に乗って蒲郡へ一直線。なんですが、まずはお昼ご飯を食べようということになり、地元の名店、うどんの「清田庵(せいだあん)」へ。 ここ、創業は大正時代ということで、相当、歴史のあるお店なんですが、さすが地元の人気店だけあって平日にもかかわらずお昼時は満杯。それでも何とか空いたテーブルについてあれこれ注文します。 で、結果から言いますと、私が注文した「あんたまうどん」、これ、最高! 卵をとじたあんかけ風のおつゆの中に腰のあるうどんが入っていて、具としてはほうれん草だけ、というシンプルな構えですけど、これが絶品。実においしいものでありました。うーん、この辺には時々出没する私ですけど、リピートもありだなあ・・・。いいお店、見つけちゃった。 さて、腹ごしらえした釈迦楽家が向かったのは、まずは本光寺。松平家を祭った名刹のようですが、この時期、寺に植えられた数多くの紫陽花が満開で、観光バスなんかも止まるほどの人気です。ま、紫陽花も多いけど、蚊も多くてね。じっくり見ていると何か所も刺されてしまうのが玉に瑕。 で、このお寺をそこそこ楽しんだ後、やはり蒲郡周辺で紫陽花といったら形原温泉の近くにある「あじさいの里」に行くしかないでしょうというわけで、今年もそこへ行ってしまいました。私と家内は毎年ここへ来ていますが、父や母は初めて。山を覆い尽くす色とりどりの紫陽花に、写真好きの父は夢中でシャッターを切っておりました。ここはいつ来てもいいねえ。 とまあ、そんな感じで紫陽花を堪能してから、一旦帰宅。 そして一休みしてから繰り出したのは、日進駅の近くにある鰻の名店「まるや」。本当は石川橋の「とみた」に連れて行きたかったんですが、今日はちょっと疲れてしまったので、家の近くにあるお店の方がいいかな、と。 で、そのまるや、本店は植田の方にあるので、ここはその支店。ですが、なかなかの人気のようで、今日も大きな駐車場がいっぱいでしたね。 で、かなり待った揚句、ようやく店内に入って「ひつまぶし」を注文。やはり東京に住む父母には、これでもてなさないと、名古屋に来てもらった甲斐がないですから。 で、私と家内も初めて食べるまるやのひつまぶしですが、全体としてかなり高得点をあげてもいいのではないかと。ま、「とみた」と比べちゃうと、やっぱりアレですけど、そういう絶対王者と比べなければ相当旨いと思います。店員さんたちの応対もとてもいいですしね。 というわけで、今日は「清田庵」「紫陽花」「まるやのひつまぶし」で、親孝行のハットトリックを成し遂げた私だったのでありました、とさ。 ところで、カウンターを見て気付いたのですが、もうすぐこのブログも30万アクセスですなあ! 明日か明後日にはこの大台に乗るんじゃないかと。いやあ、感慨無量。さて、果たしてどなたが記念のキリ番を踏んでくれるのか、ちょっと楽しみでございます。
June 22, 2010
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昨日、池田満寿夫の対談集のことを書きましたが、よく見たらこの『芸術家になる法』という本、1997年1月14日に初版が出版されているということに気が付き、ちょっと感慨がありました。 というのも、池田満寿夫が亡くなったのが1997年3月8日だからです。つまり、上の本が出てからわずか2ヶ月後に、彼は亡くなったんですな。本の中の池田満寿夫は元気満々で、もちろんその2ヶ月後に自分が死ぬなんて、想像すらしていなかったのではないかと。 ところで、池袋の夏目書房でこの本の他にもう一冊、安原顕氏の『やっぱり本は面白い』と言う本を買ったと言いましたが、偶然、この中に「池田満寿夫追悼」と題された文章が載っておりましてね。その中でヤスケン氏は、友人だった池田満寿夫のことを次のように回想しております。 「彼と出会った一九六一年、池田満寿夫は二十六歳、ぼくは二十一歳だった。有名人嫌いなぼくが、なぜ三十七年もの長きにわたり、彼との友情が持続し得たのか。それは、貧乏版画家時代とその後の彼の人柄が、まったく変わらなかったからだ。編集者という職業柄、ちょっと名声を得た程度のことで地が出るというのか、コロっと人格が豹変、態度のデカくなる人間をイヤになるほど見てきたぼくにとって、彼のような人間は稀有なる例外だった」(130-131頁) おお、毒舌家のヤスケンにしてこの言あり。池田満寿夫という人の人柄がうかがい知れるというものであります。やっぱり私は好きだな、池田満寿夫。 さて、話は変わりますが、今日、両親を連れて東京から名古屋に戻って参りました。久しぶりに名古屋の我が家に来たいというもので。ということで、明日はアジサイを見に蒲郡の方にでも行ってみようかと。毎年この時期、アジサイを見るのが我ら夫婦にとっても楽しみになっておりますので。 ということで、今日からしばし、親孝行の日々なのであります。それでは、また!
June 21, 2010
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昨日、池袋の立教大学に行ったのですが、駅から大学までの道すがら「夏目書房」という古本屋がありまして。ここ、とてもいい古本屋さんなので、立教に行く時の私の密かな楽しみになっております。 で、昨日も学会の前にちらっと立ち寄ったところ、あーら、『芸術家になる法』(現代書林)という本が700円で売っているではないですか。私速攻で買いましたよ。他に安原顯氏の『やっぱり本は面白い』という本も買いましたが、これは500円で出ていたからで、ヤスケンの本は古本屋に出回っている500円ぐらいの本で買うのが似合うような気がしたから買ったまでの話。 一方、『芸術家になる法』の方は、これは前から探していた本だったのであります。何となれば、これ、池田満寿夫と書家の金田石城氏との対談集だからで、私は池田満寿夫の本を、今時の言葉で言えば、「コンプリートする」(全て集める、の意)のを目標の一つとしているのでね。 ですから、この本がいい本か悪い本かは問わないわけ。いい本であろうと、悪い本であろうと、とにかく池田満寿夫の本は全て集める。これがコレクター魂というものでして。だけど、この本を実際に読んでみた結果から言いますと、これ、決して悪い本ではないです。タイトルだけみると、促成のやっつけ仕事なのかなと思ってしまいますが、そこまで内容のない本ではありません。 例えばね、対談相手が書家ですから、サービス精神旺盛な池田満寿夫も気を使って話題を「書」の世界の方に持っていくのですが、彼の日本の書の世界に対する批判というのは、結構、当たっているところがあるんじゃないかと思うんですね。 で、満寿夫曰く、日本の書というのは、外国のアーティストへの影響と言う点から言えばすごく大きい、と。例えばウィリアム・デクーニングやジャクソン・ポロックとか。ああいう連中が、アクション・ペインティング的に、キャンバスに向かって絵具を叩きつけ、その爆発的な絵具の散らばりで「怒り」を表現したり、あるいはチューブからじかに絵具をキャンバスにたらたらと垂らして、それでもって「哀しみ」を表現したりする。あれは、要するに「書」じゃないか、と池田満寿夫は言うわけ。うーん、なるほどねえ! そういう風に言われると、そんな気がしてきますなあ。 しかし、そういう書の持つ影響力について日本の書家自身が自覚的かというと、どうもそうではないのではないか、というのが池田の書の世界に対する批判です。それぞれの流派のトップがタコ壺的にお山の大将をやっているばかりで、大同団結して世界に打って出ようと言う気概がない、と。また、たまにそういう感性をもった勢いのある若手が出ても、「異端」として仲間外れにするばかりではないかと。 大体、絵の評論家はいるのに、書の評論家はどうしたのだ、と池田は問います。例えば東山魁夷のように、たいていの日本人が知っているような画家は数いれど、日本人の誰もが知っているような書家がいないじゃないかと。こういう現状は、結局、優れた書の評論家を育てなかった書の世界の怠慢ではないかと。もっと、日本の誇るべき文化である書を大々的にプロデュースしようという発想はないのか、と。 いちいち、ごもっともで。 とはいえ、この本は別に池田満寿夫の書に対する持論だけを披歴したものではなく、対談相手の金田石城氏の問いに答える形で自分のアーティストとしての来し方を語っている部分の方が多いわけ。で、そんな中にも面白い部分が随所にありまして。 例えば彼がまだ無名だった頃、油絵が売れないもので、版画なら安いから人に買ってもらえるかと思い、版画に取り組み出すのですが、何しろ無名の版画家ですから一枚100円でしか売れない。額の方は200円くらいするものを使うので、額縁の方が中の絵よりも高い、という時代が結構続いたらしいんですな。 で、そんな時、彼に版画を勧めた張本人である先輩画家の瑛九が、こう言ったそうなんです。版画が安い値段でしか売れないのはいい、と。いい絵を安い値段で売る、これは無名であることの特権だ、と。逆に、有名になると、絵の値段は高くなるけど、絵そのものの内容は悪くなる場合が多い。だから、若くて無名の時に絵の値段が二束三文なのは素晴らしいことなのだ、ただし、いい絵であることが条件だが、と。 「無名であることの特権」か・・・。瑛九もいいことを言うねえ! しかし、そんな感じで瑛九の世話になるところもありながら、やがて池田満寿夫は、瑛九の影響力の強さに自己を見失うような気がして、彼と決別するわけ。そういう二人の関係も、潔くてなかなか良いではありませんか。 ということで、私としてはこの本、かなり楽しんで読むことができたのでした。『芸術家になる法』、もちろん今は絶版ですが、古本として入手可能ですので、興味のある方はぜひ! 教授のおすすめ!です。 しかし、こういう本を読むと、売れている頃の池田満寿夫というのが、いかにジャーナリズムに乗ったか(乗らされたか)、というのがよく分かります。人気マルチタレントの走りだった池田満寿夫を、当時のジャーナリズムは放っておかなかったんでしょうな。池田満寿夫と誰か、その時点で話題性のある人物を掛け合わせ、対談をさせれば一応、そこそこ売れる対談集が作れる、という計算が出版界にはあって、でまた池田満寿夫の方も、ある意味自分が使い回されていることを知りながら、それに乗るだけの好奇心とサービス精神を持ち合わせている。そこがね、私が池田満寿夫という人に対して歯がゆさと好感を同時に抱くところでありまして。 出版業界の思惑に乗っちゃって、そんな連中にサービス精神全開にしなくたっていいのに、と思う反面、そういうジャンクな企画に対しても時間の許す範囲で全力でサービスしてしまう満寿夫の人の良さに、多少苦々しく思いながらも好感を抱かざるを得ないというか。 だけど、池田満寿夫にそういうところがあるからこそ、彼には玉石混淆の対談集が山ほどあって、私のようなコレクターからすると、集め甲斐があるところなんですけどね。
June 20, 2010
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今日は学会関連の仕事で東京に来ております。学会誌に掲載する投稿論文の審査がありまして。 ところで、論文審査自体は非公開なので、その審議過程について云々することはできませんが、しかし、審査が行われるのを聞いていると、一つ、気がつくことがありまして。 それはですね、投稿論文が扱っている作家・作品の選択の幅が非常に狭い、ということですね。 今、日本中のアメリカ文学会の会員たちが論ずるアメリカ作家って、順不同ですけど、「トニ・モリスン」「ウィリアム・フォークナー」「ナサニエル・ホーソン」「エドガー・アラン・ポー」「ヘンリー・ジェイムズ」くらいなもの。これらが「特権的な作家」でありまして、投稿論文のほとんどがこれらの作家を扱ったもの。他の作家を扱う論文の数なんてたかが知れています。 一昔前、私が学生・院生だった頃は、もう少しヴァリエーションがあったと思うんですよね。例えば「ユダヤ系作家」とか「黒人作家」とかの枠で、常連さんがもっと沢山居た。しかし今、ソール・ベローとかバーナード・マラマッドなどというユダヤ系作家を扱う論文なんてお目にかかることはないし、リチャード・ライトやラルフ・エリソンやジェイムズ・ボールドウィンやアリス・ウォーカーなどの黒人作家連は完全に無視されております。もう、黒人作家はトニ・モリスンだけに集約されちゃった。 あと、ジョン・アップダイクなんて作家は、昔、人気がありましたけど、今はもう誰も扱わない。トルーマン・カポーティもそう。 女性作家枠もほぼ全滅で、キャサリン・アン・ポーターとかユードラ・ウェルティあたりは絶滅。辛うじてフラナリー・オコナーが生き残った他、ウィラ・キャザーもそろそろ絶滅危惧種。 あと自然主義作家も全滅。スタインベックも忘れられました。演劇もほぼ全滅。 前衛でもウィリアム・ギャスなんてのは忘れ去られて、ピンチョンとデリロだけが残った感じ。 というわけで、「今は誰も論じなくなりました」という作家の多いこと、多いこと。 しかし、千人近い学会員を要する学会において、頻繁に扱われるのはわずか数名の作家だけ、というのはどうなのかと。こういう視野の狭まりは、アメリカ文学会だけではなくて、他の文学会もそうなのかしら? とにかく、その辺、もう少し考えた方がいいのじゃないかと、他人事ながら思いますなあ・・・。もっと他の研究者が扱わない作家を論じるとか、常連の作家を論じるにしても、他人とは違う観点から論じるといった工夫が必要なのでは? ってなことを考えながら、学会帰りに道を歩いていて、あるところで道を渡ろうとしたら、ガードレール的にはりめぐらされていた鎖に気づかず、足を取られて激しく転倒! アイタタ・・・! かくして私自身も、視野狭窄でコケてしまったと。学会も私も、かなり痛い状態でございます。トホホホ・・・。
June 19, 2010
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四国旅行記・最終日でーす。 昨夜、高知駅前のビジネスホテルに宿泊した我ら、この種のホテルの朝食の常で朝はトースト主体の洋食系でしたけど、旅館系の和食の朝食が続いた後で、結構新鮮。やっぱ、食事は多様性が重要ですな。 で、食後、クルマを飛ばして有名な「はりまや橋」を通過しつつ南下して海を目指します。今日は「桂浜」観光がメイン。高知駅から桂浜までは10キロちょいの短いドライブです。 ところで、高知駅周辺の道路に関して興味深いのはですね、交差点の名前です。普通、交差点というと、地名や通りの名前、それに番地が加わったりするものですが、高知駅周辺の交差点は、なんとアルファベットが割り振られているんですな。だから「Sの交差点を北へ」とか、「東へ向かって走ってMの交差点を左折」とか、そういう感じになるわけ。「Xの悲劇」とか「Yの悲劇」というのはありますけど、「Wの交差点」というのは・・・割といいかも。 さて、それはともかく、桂浜。着いてみると、いきなり海に向かってどーんと突き出したような形の建物があります。あれが「坂本龍馬記念館」ですな。ま、龍馬ってあんまり興味ないけど、ここまで来てここに寄らないのはアホかも、と思い直し、とりあえず寄っておくことに。入場料は500円とリーズナブル。 で、入って見ると、まあ人が沢山いること。四国に来て初めて人込みを見ました。大河ドラマの影響かもしれないけれど、龍馬って人気がありますなあ。っていうか、高知県、龍馬に頼り過ぎ。飛行場まで「高知龍馬空港」とかいう名前なんでしょ? で、展示を見て行くと、あまり関心のない私にとっても面白くなくはないものでありまして、ははあ、坂本龍馬ってのは、こういう人だったのか、ということはお勉強できました。それにしても弱冠32歳とか33歳とか、そんなもんで死んでいるんですよね、彼。その割に激動の人生だったとは言えましょう。時代も激動の時代だったしね。 それにしても日本人ってのは、坂本龍馬みたいに「とりあえずでっかいビジョンを持ちながら、結局志半ばで倒れました」ってな感じの人に弱いね。土佐は岩崎弥太郎の出身地でもあって、龍馬と岩崎弥太郎を比べれば、現実的な観点から言えば、「三菱」を育てたという意味で、後者の方がよっぽど力を持つことになったわけですが、人気度から言ったら断然、龍馬の勝ちですもんね。それが判官贔屓という奴なんでしょうが。 さて、龍馬記念館をさらりと見た我らは、次に桂浜の海岸に向かいました。海岸って言っても、波が荒くて海水浴なんか出来そうもないですけど、ま、有名な観光地ですから、とりあえず地元名物の「アイスクリン」を食べながら浜辺で一休み。日本の夜明けは近いぜよ! とはいえ、やっぱり観光地、観光地したところはね、私たちとしてはあまり感銘を受けないのでありまして、風景という意味では、昨日見た足摺岬周辺の方がよっぽど素晴らしかったですな。というわけで、もうあとは俗っぽく楽しむしかない、ということになり、桂浜のもう一つの名物を見に行ってしまいました。そう、「土佐闘犬」です。 ま、闘犬と言いますと、動物愛護の観点からどうなんだと言われそうですが、ま、その辺は清濁併せ呑む私。この種の伝統にむやみに反対する前に実物を見ておこう、というわけで、土佐闘犬を見物してしまいました。 ところで闘犬ってご存知? ま、その名の通り、土佐犬という国産の大型犬同士を戦わせるわけですけど、やっぱり犬は賢いというのか、訓練された犬同士ですから、戦い方をちゃんと心得ているんですな。つまり弱点となる耳や前足を互いに狙いに行くわけ。そういう意味では、ボクシングや相撲と同じく、非常に知的なスポーツと言えましょう。 で、戦う過程でどちらかの犬が上になったり下になったり、咬む側になったり、咬まれる側になったりするんですけど、闘犬の勝負はそういうのでは決まらないんだそうで。一方的に下になって咬まれ続けたって、それは負けではないんです。最後まで反撃しようとして、闘争本能を失わなければ、負けにはならないの。闘犬において「負け」の判定が下るのは、どちらかの犬が闘う意志を失ったと思われた時、特に、声を出して鳴いた時。それ以外は、負けではない。 うーん、なかなかに考えさせるではないですか。人間の人生だって、おんなじかも知れませんよ。例えば事業に失敗したって、会社を首になったって、それは負けではない。「よし、もういっちょ、ゼロから立て直して見せる」という気合いさえ残っていれば、まだ人生に勝ち目はあるかも知れない。闘犬は、そういうことを人間に教えてくれているのかも知れませんぞ。 とまあ、そんなこんなで桂浜を堪能した我らは、これにて高知県の観光を終了。帰りがけに徳島県の名所、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)へ向かいました。ここは要するに渓谷でありましてね。川下りの遊覧船があったり、平家の落武者が作ったという「かずら橋」なる吊り橋があったりする。もちろん、我らは遊覧船にも乗り、かずら橋も渡りましたよ。特にかずら橋は、ぐらぐら揺れる吊り橋ですから、結構、スリルがあって面白かった! ってなわけで、4泊5日に渡る四国一周旅行、これにてすべて終了~! 午後6時頃に大歩危・小歩危を後にし、その後徳島自動車道・高松自動車道を経て瀬戸中央自動車道へ、そして「瀬戸大橋」を渡って本州に戻り、後は山陽道・中国道・名神高速と乗り継いで名古屋ICまで。家に帰りついたのは夜中の1時でございました。 いやあ。初めての四国旅行、面白かったです。駆け足とはいえ、四国4県の主要な観光地は見て回りましたし、各地の名物も色々味わいました。とりわけ道後温泉での経験、足摺岬の美しさは今なお心に残っております。そして「大学時代の恩師の亡くなった息子さんの身代わり地蔵に会う」ということ、「中学時代の恩師に再会する」ということ、この二つの目的も無事、果たすことができましたしね。 ところで、ここまで一度も言及しなかったことですが、今回の四国の旅を通じてもう一つ、深く心に残ったことがあります。それは、「お遍路さん」のこと。 いや、もちろん私とてお遍路さんってものが存在することは知っていましたが、知っていることと、実際に歩いているお遍路さんを見るということは違います。例えば、「お百度参り」という言葉は知っていても、本当にお百度参りをしている人を見ることって、あまりないでしょう? それと同じで、「お遍路さんってのは、言葉だけじゃなくて、本当に実在するんだ・・・」という実感、これは今回の旅を通じての驚きでもあり、また何度も反芻して考えたことでもありました。 一体、あの人たちは、何のために、何が原因で、お遍路の旅に出たのであるか? 梅雨前の、かなり厳しい日差しの中、白い装束に身を包んで黙々と歩いている彼ら、彼女らを、お遍路に駆り立てたものは何なのか? エアコンをかけ、CDをかけた快適なクルマであの人たちを追い越す度に、軽い良心の呵責を受けるのは何故なのか? っていうか、ワタクシ自身の中にも「お遍路に出たい・・・」というかすかな願望が潜んでいるようにうっすら感じられるのは、一体何故なのか? それを探るために、出会った一人ひとりのお遍路さんに、片端から「あなたは何故、お遍路しているの?」と聞きたかった! とにかく、四国を巡る旅の先々で出会ったお遍路さんたちのことは、その他の思い出と共に、私の記憶に妙に長く残りそうな予感がしているのでございます。
June 18, 2010
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さてさて四国の旅も四日目を迎えました。 四国最南端の岬、足摺岬で朝を迎えた我ら夫婦は、宿で朝食をいただいた後、早速、足摺岬を直にこの目で見届けることに。宿から岬までは、クルマでわずか5分の至近距離でございます。 で、このあたりが生誕の地というジョン万次郎の銅像に挨拶しながら、まずは展望台で足摺岬の風景を一望。そして一驚。まあ、なんという海の美しさ! 岩場に打ち寄せる波はまったく濁りのないエメラルド・グリーン、そしてそれが沖へ行くほどに紺碧の度合いを増していくという。こんなに美しい海がまだ日本に残っているんだ、という発見にまずは驚愕です。足摺岬から灯台を遠望 次に展望台から草木の生い茂る崖沿いの遊歩道を5分ほど歩いて足摺岬の灯台へ。白亜の灯台というのは、まあどこにあるものであれ独特の美しさを湛えているものではありますが、足摺岬の紺碧の海を崖下に見下ろすこの灯台の美しさはやはり格別。切手の図柄になっているのも分ります。灯台のすぐ前には、弘法大師が亀を呼び寄せたと言われる「亀呼場」があるのですが、確かに泳いでいる亀が見えそうなほどの透明度でしたね。 かくして足摺岬の光景を堪能した我らは、駐車場のところに居た人懐こい猫ちゃんとしばし戯れてから、そこからクルマで数キロ走ったところにある「白山洞門」や、さらに数キロ離れた「臼婆(うすばえ)」などを見て回ります。前者は黒潮の強い波が岩山をくりぬいて出来た洞門、後者はちょっと福井県の東尋坊に似た、火曜サスペンスっぽい光景です。白山洞門と臼婆 ちなみにこれらの景観を見るためには、いちいちクルマを駐車用スペースに停め、そこから階段や小道をしばらく降りていかなければならず、結構、体力が要ります。でも、そうやって苦労して見ると一層、景観に輝きが増す気もする。まったく観光地化されていないことの良さを味わうためには、それを観光しようとする側の体力が必要、ということですね。 さて、足摺岬周辺のあまりにも美しい光景の数々を見た我らが次に向かったのは、「竜串海岸」。ここは串状になった岩が海に突き出している奇観が見られるところで、その岩の形から「竜の串」なる名がついたんですな。 が、その前にお昼にしようということになり、「海の家あしずり」というところに立ち寄ることにしました。ここはジョン万次郎資料館やお土産ショップを併設したレストランなんですが、レストランたってそんな洒落たもんじゃありません。が、他にめぼしい食事処もないようだし、とりあえずここへ入って見るしかなさそうだな、と。で、さほど期待もせずに土佐清水港でとれる「清水サバの漁師漬け炙り焼き丼」なるものを食べてみたわけですよ。これ、サラダバー付きで、コーヒーまで付けると1,200円というシロモノ。すると・・・ 馬鹿ウマ! 嘘みたい。いやあ、これは旨いわ! 新鮮なうちに醤油漬けにしたサバを、さらに軽く表面だけ炙ったものを丼にしたものなんですけど、ご飯にかかった塩ダレ(?)の絶妙な味とも相まって、ものすごく旨い。期待値の10倍は旨かったね。足摺岬方面にいらっしゃる方、「海の家あしずり」を訪れ、ぜひこのどんぶりを味わって下さい。教授の熱烈おすすめ!です。 で、そんな旨いどんぶりを夢中で掻き込みながらふと隣を見ると、アレ、なんかはっきりした顔立ちの、ハンサムなオジサマがいますな。しかも、どこかで見たような・・・。 と思ったら、何と、まさか、まさかの布施明さんでした。数名のスタッフ(?)に囲まれてお食事中。あらー、よりによってこんなところで芸能人に会おうとは・・・。サインもらおうかな~、なんて。 ま、私もシティ・ボーイの端くれ。もちろんそういうことはしませんでしたけどね。それにしても偶然も偶然、よくもまあこんなところで会いましたなあ。ちなみに布施さんたちご一行、この風光明媚な土地に居りながら、食事中の会話はすべて東京の不動産の話だったという・・・。いやーん、ちょっとロマンがなーい! さてさて、それはさておきまして、満腹の我々が向かった竜串の海岸をご覧くださいまし。 ここ、この奇岩をえっちらおっちら30分ほどかけて散策するようになっているんですけど、フナ虫やカニが走りまわる岩場の散策、非常に面白かったです。いい運動にもなりますしね。で、この後、近くにある足摺海洋館という水族館に立ち寄ってマンボウやタツノオトシゴと戯れた後、今日の日程終了~。いや、今日は四国の海の美しさを堪能したなあ・・・。素晴らしかった・・・。 で、そこから再び四万十川方面に戻り、さらに56号線を高知方面に走ること2時間半。今日の宿泊地である高知に着いたのでありました。そして夜は「土佐藩」なるお店でカツオのたたきやどろめ(イワシの稚魚)、ウツボのから揚げに一豊寿司(カツオのたたきを使った押し鮨)など、地元の海の幸をたらふく食べたと。ま、そんな具合で四国旅行四日目の夜は更けたのでございます。 さて、明日は四国一周の旅・最終日の模様をお伝えします。お楽しみに~!
June 17, 2010
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さて、宇和島を後にした我らは、そのまま県道31号線をひた走り、松野町なるところに入りました。実はここが今日、二番目の目的地だったのであります。 実はかつて私が中学生だった頃、お世話になった副担任のY先生が、今はこの松野町にある中学校の校長先生になっているんですな。というわけで、私は懐かしいY先生に会いたくて、四国の西の果てまでやってきたというところもあるんです。 Y先生は我々が中学校に進学するのと同時に赴任されたので、当時は大学を出たばかりのバリバリの新人。我々とは10歳しか年齢が離れていないこともあり、まあいわば「兄貴分」として我々生徒に慕われたものでした。しかも専門が「生物」で、私の所属した「生物部」の顧問をされましたし、また、やはり私の所属した「バスケットボール部」の顧問でもありましたので、私とY先生は、ホームルームでも生物部でもバスケットボール部でも一緒という関係。それだけ一層、親しみもあったというわけで。 ちなみに、今、サッカーの解説なんかやっている俳優の川平慈英と私は、このY先生の指導のもと、同じバスケ部に所属していたのでありまーす。奴は今、W杯で引っ張り凧だろうと思いますが。 それはともかく、その松野町の中学校に到着した我らは、とりあえず教員室に顔を出して校長先生との面会を願い出たわけですが、なんとY先生、校長室にふんぞり返っているどころか、校舎の周りの草刈りをやっているとのこと。で、手すきの先生に呼びに行ってもらったのですが、しばらくして現れたY先生、ノータイのワイシャツの袖をまくりあげ、まさに今まで草刈りやってました状態。はっはっは! やっぱりY先生、昔と変わってないや! というわけで、元新任教師と中学一年坊は、三十数年の時を経て再会したのであります。いや~、お懐かしや! Y先生も、わずか2年間だけ勤務した東京の中学校の教え子が、わざわざ四国の中でも辺境といえる町までわざわざやってきたということで、大歓迎してくださいまして。後で聞いた話ですが、当時の教え子の中で年賀状の付き合いが続いているのは何人かいて、皆一様に「いつか四国に行ってみたい」と言うのだけれど、本当にやってきたのは私が初めて、とのこと。 で、ひとしきり近況を報告しあった後、先生の後についてこの中学校の見学をさせてもらうことに。 しかし、この少子化のご時世ゆえか、過疎化のせいか、Y先生の中学校でも生徒数の減少が著しいようで、各学年40名をちょっと超える程度しかなく、今はかろうじて一学年2クラスを維持しているけれども、来年あたりからはもう各学年1クラスになっていくだろうとのこと。昔建てた校舎も、教室が余って余って仕方がないようでしたなあ。で、生徒数がそんなですから、先生の数もどんどん減らされているのだそうで。だから、ある意味暇なのは校長先生だけなので、それで校舎周りの草刈りだとか、そういうのは皆、校長先生の仕事になってしまうのだとか。 それでも、田舎の中学校ゆえの良さというのもあって、問題児もいないし、クレーマーのモンスター・ペアレントもいない。また自然にも恵まれていて、校舎の周りでY先生が栽培しているモモや、別な先生が育てているスイカなんかを子供たちに食べさせることもできる。校庭では野兎が跳ねまわり、この季節、夕方にはホタルが飛び交うと。 そんな教育的には恵まれた環境で、Y先生はのんびりと校長先生やっているんですな。 ところでそんなY先生、42歳の時からスキーにはまったそうで、今は指導員の資格も取られ、冬はスキー三昧。四国の中にあるスキー場はもちろんのこと、ときには車を12時間も飛ばして信州あたりのスキー場まで繰り出すのだとか。で、その資金をためるために、夏はどこにも旅行もせず、冬に備えて体作りに余念がないと。ま、学生時代に少林寺拳法をやっていたほどスポーツマンのY先生ではありますが、まさかそこまでスキーに夢中になられるとは、ちょっと意外でしたね。ま、私とて当時は生物部主将で、当然、将来的には理科系に進学するかに見えたのに、今は文系も文系、アメリカ文学なんかやっているんですから、お互い様なんですが。 とまあ、そんな感じでお互いに昔と変わってないところもあり、変わったところもありの再会だったのであります。 で、この日のお昼は、学校の近くにある「末廣」という名店で、四万十川の天然もの鰻をY先生にごちそうになってしまったのですが、これがまた実にうまいものでありまして。養殖ウナギとは全然違う。もちろん、身の大きさでは養殖ウナギに負けますが、天然ものは歯ごたえがあって、「ふっくら」というよりは「シコシコ」という感じ。味も濃いんです。それから、合わせて四万十川の川エビ(手長エビ)もいただきましたが、これもうまいものでした。 それにしても、田舎の中学校の校長先生ってイイナと思ったのは、たとえばこういう鰻の店に行っても、店の人がY先生のことを知っていて、「校長先生、校長先生」と呼ぶこと。なんか町の皆に慕われているという感じがして、いいじゃないですか。 しかし、楽しい時間ほどすぐに経ってしまうものでありまして、もうY先生とはお別れの時間です。今日の宿泊地として足摺岬へ向かうのに四万十川沿いの道を行くという我々に、「あの道は道幅が狭いところが多いから、気をつけて行けよ」と心配してくださるY先生とがっちり握手し、いつかまたお目にかかることを約束して、私たちは中学校を後にしたのであります。先生、いつか私が信州に引っ越したら、スキーをしに来て下さいよ! さて、松野町を後にした我らは四万十川沿いの道を川と共に南下し、海を目指したわけですけど、これがY先生がおっしゃっていた通りのスリリングな道でありまして、車一台通るのがやっとというような場所が随所にある難関。それでも我らがスバルR1は持ち前の小柄さを活かしてズンズンと進んでまいります。で、松野町から3時間ほどのドライブにて足摺岬に到着~。今日はここにある「足摺テルメ」という国民宿舎に宿泊です。 で、この「テルメ」ですが、海を見下ろす崖沿いに建つ白亜のモダンな造りで、国民宿舎としては異例におしゃれに作ってみました、というような、しかし、やっぱり所詮は国民宿舎でした、みたいな、微妙にダサいモダンさをもった、良い宿でした。って、褒めているのかけなしているのかよくわかりませんが、とにかくそんな感じの素敵な宿でした。いや、私は好きですけどね、こういうのも。ただ、食事がね、カッコつけている割に味がいまいち平凡というか。どうせならもっと徹底的にクールなフランス料理出すとか、あるいは逆に素朴な地元料理出すとかすればいいのに、とは思いましたが。 というわけで、四国旅行三日目の夜は暮れたのであります。さて明日は四日目の模様をレポート。お楽しみに!
June 16, 2010
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四国旅行三日目。さて、今日は今回の四国旅行最大の山場であります。今日は松山から宇和島を経て足摺岬までの道のりですが、その途中、二か所ほど立ち寄るべきところがありまして。 一つは宇和島の東、県道31号線沿いにある「仏木寺」、ここは四国霊場88ヶ所のうち、第四十二番目であります。 では、何故私が敢えてこの寺を訪れることにしていたかと申しますと、これが長い話でありまして、実は私の大学・大学院時代を通じての恩師、故・大橋吉之輔先生にゆかりの寺だったからなんですな。 大橋先生が亡くなられたのは1993年ですから、もう17年前のことになりますか。晩年は腎臓を悪くされ、数年の間、辛い人工透析に耐える日々が続いたのですが、ご自身でも先行きの長くないことを予感されたのか、亡くなる1年ほど前から精力的にご自身の生涯を振り返るようなエッセイを書かれるようになりましてね。とはいえ、それはいわゆる「自伝」のような体裁をとることはなく、どれもほんの短いエッセイばかりでしたが、しかしそれらはいずれも「自分が体験したことの中で、これだけは書き残しておきたい」というような、先生の人生の中で濃密な意味を持つ瞬間だけを切り取ったような、静かな調子の中に激しい内容を秘めた、読めば身の毛がよだつようなものばかりでした。 で、その中の一つに「宇和島へ」と題されたエッセイがあるんですな。『三田文学』という雑誌の1992年秋季号に掲載されたものですが、分量的にはわずかに2ページ半ほど。その短いエッセイの、さらに後半の三分の一ほどですが、それを以下に掲げておきましょう。 (前略)八幡浜から宇和島までは、右手に宇和海を見ながら、のどかで平坦な山裾の道がつづく。宇和島も旧い城下町で、闘牛でも有名だが、この場所が私たちに特別の意味をもつようになったのは、ボウエン夫妻(注:マーリン&ルース・ボウエン。マーリン・ボウエンさんはシカゴ大学名誉教授。当時、日本に招聘されて慶應大学と筑波大学で教鞭を執っていた)来日の二年前のことだった。その年の秋、大学院でシェイクスピアを専攻していた私たちの長男が、突然、自ら進んで鬼籍に入っていった。二十五歳だった。そのことの委細については、いずれ詳しく書きつけておこうと考えている。 その事件とほとんど同じ頃、宇和島近郊にある四国四十二番の札所の小さな山寺が、山津波の災害にあって荒廃してしまい、若い住職がその復興に懸命の努力を傾けている、ということを風の便りに聞いた。私たちは特に信心深い仏教徒でもないが、その風の便りを聞いたとき、長男に寄せられた香料の一部を、その寺の復興のために寄進しようと決め、簡単に事情を述べて送金した。翌年の春、寺から報告がきた。無事に復興も完了し、その記念に小さな六地蔵を建立することもできた、その六地蔵のうちの一体は、私たちの長男のつもりである、暇があったら見にきてくれ、とある。私たちは春休みを利用して、宇和島に出かけた。初めての伊予路だった。 寺に着いて山門を入り、ゆるやかな石段を十数段上がると、その左手に六地蔵はあった。いずれも身長が一メートル二十ぐらいで、真新しい赤い頭巾をかぶり、赤い頭陀袋を首にかけていた。親切なお遍路さんが、頭巾や頭陀袋が古く色褪せてくると、すぐに着せ替えて下さるのだそうだ。六地蔵のうち、向っていちばん右にいるのが、私たちの長男のようだった。その地蔵の台座の石に、寄進者として私の住所氏名が記してあった。<おい、来たぞ。変わりはなかったか?>と、私たちは手を合わせる代わりに、声をかけた。円満な地蔵顔は、表情を崩さなかった。そのときから、伊予路は私たちにとって格別なものになり、その年の夏休みにも、また訪れた。 ボウエン夫妻とその伊予路を辿ったのは、その次の年の、夏休みもやがて終ろうとする頃だった。どういうわけだったか、その一週間ほどの旅行には、家内が同行できなかったが、夫妻は、いつものように、道中の素晴らしさを充分に堪能してくれた。ただ、宇和島の寺のことは、何も語っていなかった。寺に到着して山門を入ったとき、私ははじめてぽつりと、実はこの寺に私たちの長男がいるので逢ってやってくれ、と言った。私たちの子供は、東京にいる息子と娘だけだと思いこんでいた夫妻は、まるで狐につままれたような顔をしたが、それ以上の説明は拒否するような表情を私は浮べていたらしい。押し黙ったまま、私たちは石段を上っていった。 六地蔵の前にくると、私は一番右にいる地蔵を指差して、あれが私たちの長男だと言った。夫妻は一瞬、きびしい顔付きになって、その地蔵を凝視していたが、不覚にも私が涙を流しているのを見ると、夫人のルースは体を寄せてきて私を抱きかかえるようにし、ハンカチを取り出して、涙をぬぐってくれた。マーリンは、上着の内ポケットに手を入れて、札入れを取り出し、何枚かの紙幣を引き抜いて、ティッシュペーパーにくるんだ。そして、それを私に手渡しながら、これは、お前の息子がお世話になっていることに対する自分たちからのお礼の気持ちだ、寺に差上げてくれ、と言った。(了) ま、すべてはこの短い文章が語っているのではないでしょうか。 というわけで、このエッセイに感銘を受けていた私は、今回、四国を旅することにした時、宇和島へ行ってこの寺を訪れ、自決された恩師の息子さんの生まれ変わりのお地蔵さんに挨拶することを、一つの目的にしたのであります。 かくして前日に宿泊した道後温泉を後にしたわれら夫婦は、松山ICから再び松山自動車道に乗って西に向い、伊予、内子、大洲の町を通過しながら終点の西予宇和ICで高速道を降り、そこから県道を進んで仏木寺を目指したと。それは自動車一台がようやく通れるほどの、対向車が来たらすれ違うのに苦労しそうな細い、うねうねとした山道で、しかし仏木寺へ行くにはこの一本道しかなく、お遍路さんはさぞかし難儀するだろうと思われるような道でありました。 で、その細い山道がにわかに開けたところに、四国霊場第42番札所が姿を現したのであります。私は飛び出すようにしてクルマを降り、逸る気持ちを抑えながら山門をくぐって、目当ての六地蔵を探しました。 それは大橋先生がお書きになったまさにその通りに、十数段ほどの石段を上がりきった左手にありました。今は一つ大きなお地蔵さんが加わって七地蔵になっていましたが、その一番右にあるお地蔵さんが、先生の息子さんであることはすぐに分かりました。 これが・・・。これが先生がその前に立って泣かれたお地蔵さんか・・・。そして何も言わずに事情を察したボウエン教授の奥さまのルースさん(私はボウエン教授ご夫妻のこともよく知っているのです)が、小柄だった大橋先生を抱きかかえた、そのお地蔵さんか・・・。そう思ったら、私も泣けてきて、思わず地蔵に飛びついて抱きつきそうになりましたけどね。 というわけで、私はいつか宇和島で、恩師の息子さんに対面するという、長年果たしたいと思ってきた思いの一つを遂げたのであります。 ああ、もう涙でパソコンの画面が見られない。四国旅行三日目の後半は、また明日!
June 15, 2010
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今日は四国旅行二日目の模様を一席。 昨日、琴平駅前のホテルに宿泊したところまで書きましたが、翌朝、ここを後にして我らが向かったのは、もちろん金毘羅様でございます。 ところで私、自慢じゃないですけど知識の方向性に極端なムラがありまして、金毘羅さん=階段という予備知識がまったく無かったという・・・。ですから、いきなりの階段攻めにしばし呆然。そしてあっという間にバテバテ。なるほど、同じく金毘羅さんを目指している善男善女たちが手に手に杖みたいなのを持っているわけですな・・・。 それでも休み休み、何とか上までたどり着きましたよ。うーん、達成感! そして絶景。もちろん金色のお守り袋も買っちゃいました。金運よ、上がれっ! で、せっかく頂上まで来たのだからと周辺をうろうろ見て回ったのですが、見ると金毘羅さんの本堂の隣に変なお堂があって、そこには額入りの船の写真なんかがべたべたと飾ってある。どうも海運会社や漁師さんなんかが、ここで建造した船の安全祈願をするらしいんですな。で、説明を読むと、あらま、金毘羅さんって船の航行の守り神なんですって? ああ、それで「金毘羅フネフネ」って言うのか・・・。と、勝手に解釈して納得。 とまあ、そんな感じでとりあえず「一生に一度はお参りをすべき」という金毘羅参りを無事終えた我ら夫婦は、次に参道にあるうどん屋さん、「金毘羅うどん」に向かいました。家内の親友の御主人がこちらのご出身とのことで、あらかじめどのお店がいいか、おススメしてもらっていたんですよね~。 で、やはり基本を押さえるべきだろうと、お店でも一番シンプルなうどんを注文することに。すると出てきたのは、どんぶりに茹で立てのうどんが盛られ、その上に花かつおとかネギとか、そんな感じのがどさっと乗っているもの。汁はかけてなくて、これに直に醤油をかけて食すものらしいんですな。釜玉うどんの、卵抜きみたいな感じ。 で、食べてみたらば、やっぱりうまいもんですな! 三重県の伊勢にも「伊勢うどん」と言って、これに近い食べ方をさせるものがありますが、讃岐うどんの場合は、伊勢うどんで使う醤油とはちょっと違って、もう少し薄味の、出汁が若干加わっているのかな、と思わせるような穏やかな醤油を使うんですが、これがまたいいお味で。さすが本場の讃岐うどん、堪能いたしましたっ! ちひちひ、情報感謝です~! かくしておいしいうどんにすっかり満足した我らは、勢いに乗って、はす向かいにあった「灸まん」のお店に入り、この辺の名物らしき灸まんとやらも食べてしまいました。灸まん1個と羊羹二切れ、それに煎茶がついて200円という良心的な灸まんセット。で、この灸まんですが、譬えて言えば「小さな銘菓ひよこ」みたいな感じのお菓子でありまして、サイズが小さいだけでなく、味もひよこよりもっとずっと素朴。なかなか好感のもてるお菓子でございました。 さて、そんな感じですっかり金毘羅さんを味わい尽くした我らが次に向かったのは、松山・道後温泉。善通寺ICから再び高松自動車道に乗り、川之江ジャンクションで松山道へ。松山ICまでは1時間半くらいの道のりです。 で、インターから直接道後温泉に向かっても良かったのですが、私の希望でちょいと寄り道し、反対方向の砥部の街へ向かいます。 砥部ってのは、陶器の町でしてね。と言っても、砥部焼というのは芸術性を追求したものと言うよりは、日常使いの陶器が主なんですが、旅先でちょっとした焼き物を買ったりするのが好きな私としては、むしろそういう方がいいのでありまして。で、とりあえず砥部焼伝統産業会館に立ち寄った後、窯元めぐりの散策です。 で、実際に歩いてみると、砥部ってのは何だかのんびりしたところでね。小さな窯元が並んでいるという点では愛知県の常滑の街みたいなところがあるんですが、常滑と比べても遥かに商売っ気がないというのか、ま、ほんとに静かな田舎の町、という趣です。 で、町の一番奥の高台に「陶里ヶ丘」というところがあって、若手の陶芸家たちの窯元が並んでいるところなんですが、その辺を中心に見て回ることしばし。しかし、うーん、町並みと同様、今ひとつ押しが弱いというのか、「これは買いたいなあ!」と思わせてくれるような陶器には結局出会わず。そこはちょっと残念でしたが、それでも静かな焼き物の里を散策して、のんびりした気分になっただけ、良かったかな、と。 というわけで、砥部の街を楽しんだ後、いよいよ道後温泉に向かいます。 我々の今日の宿は、漱石の小説『坊っちゃん』で名高い「道後温泉本館」のすぐ隣。ということで、宿で夕食を楽しんだ後、浴衣に雪駄という出で立ちで道後温泉本館へ。 さて、この道後温泉本館。行ったことのある方はご存知と思いますが、坊っちゃんの時代と同様、料金に上・中・下がありましてね。私たちはもちろん、迷わず「上」を選びました。坊っちゃんの時代は八銭だったそうですが、今は一人1,500円、二人で大枚3,000両です。 しかし、結果から言いますと、ここに来たら1,500円払ってでも「上」コースを選ばないと駄目。道後温泉本館を堪能するには、これしかありません。 とにかく、「上」は扱いが違うんですよね。まず案内人がつく。で、由緒あるこの本館の中を案内してもらえるわけ。天皇陛下や皇族の方々が入る風呂とかね、そういうのを案内つきで見せてくれる。 そして何と言っても「上」では8畳か10畳ほどもある畳の個室を貸してくれるんですよね。これ、すごくないですか? で、この個室で一旦専用の浴衣に着替え、「上」の料金を払った人だけが入れる「霊の湯(たまのゆ)」に入れると。この贅沢、この優越感。これはね、1,500円払う価値はありますよ。しかも、湯から上がった後、係の人がお茶と「坊っちゃん団子」を部屋まで持ってきてくれるサービス付き。 というわけで、気分はしばし坊っちゃんの時代、明治時代に飛んで、最高に贅沢なくつろぎ感を堪能できると、まあ、そういう次第なんですな。帰りに、本当に漱石が使ったという「坊っちゃんの間」も見学できますしね。 とまあ、そんな感じで、道後温泉本館、実に面白かった。四国旅行の二日目は、これに尽きる感じがしましたね。まだここを訪れたことのない方、是非一度いらして見て下さい。教授の熱烈おすすめ! です。 さて、二日目もここで終了、明日は三日目の模様をお伝えします。が、明日は涙なしには読めないですからね。ハンカチをご持参の上、ご来場下さいませませ~!
June 14, 2010
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はーい、しばしの御無沙汰、皆様、お変わりございませんか? 四国旅行から戻って参りましたよ。かなりの強行軍ゆえ、相当疲れましたが、その分収穫も多い旅でございました。ということで、今日からしばらく、四国旅行日誌を綴って参りましょう。まずは旅行初日の模様から。 初日の目標は、「とりあえず四国の土を踏む」。未だ四国に行ったことのないワタクシとしましては、そのことだけでも結構楽しみです。で、問題は名古屋からクルマで四国入りするのに、どのルートで行くか、ということですが、行きに関しては「新名神」を使うことにしました。というのも、この道路、まだ走ったことがないもので。今年の私のテーマは「今までやったことのないことをやる」ですから、こういうところもこだわるわけですよ。 ってなわけで、名古屋東部にある我が家を11時頃出発、まずは豊明から伊勢湾岸道に乗り、名古屋港を左に見ながら名古屋を西向きに横断。三重県に入って四日市ジャンクションから東名阪道に乗り、次に亀山ジャンクションから新名神へ。新名神、さすがに新しい高速道路だけに走り易いですなあ。で、途中、土山サービスエリアで昼食。私は「スタミナ豚丼」をチョイスしましたが、男って「スタミナ」と名のつく食べ物に弱いですよね・・・。味は・・・まあまあですね。 さて昼食後、新名神をさらに西へ進み、草津ジャンクションで名神高速に乗り換え、吹田ジャンクションで中国道、神戸ジャンクションで山陽道と乗り換えながら、神戸西ジャンクションで神戸淡路鳴門道に入ります。で、これが海に掛かった橋の上を走る道でございまして、ここを走るのが今日のハイライト。何しろ鳴門海峡の上を走るわけですから、下を見ると本当に渦を巻いているのが見えるわけ。これはちょっと感動モノでしたね。で、淡路島に上陸してすぐのところにある淡路サービスエリアのスタバで、今渡ったばかりの橋を眺めながらしばしの休憩。売店でうわさの「玉ねぎドレッシング」も買っちゃいましたよ。淡路島は玉ねぎが名産ですからね。 で、休憩の後、さらに西へとクルマを進めて参りますが、淡路島を縦断するのに結構な時間が掛かりまして。島なんだからものの10分ほどで通過できるのかと思っていたらさにあらず。小一時間ほどは掛かりますね。 で、ようやくのことで淡路島を通り過ぎ、もう一度海に掛かる橋を渡っていよいよ四国入りしたのが4時前頃でしたか。そこから高松道を通ってさらに1時間ほど走行して善通寺ICに到着。そこから琴平まではものの10分というところ。ちなみに善通寺インターから宿へ向かう道すがら、電信柱という電信柱にすべて「灸まん」という看板が掛かっているのにビックリ。この辺の名物のお菓子らしいのですが、どんだけ宣伝しとるんじゃ、という感じで、結構笑える・・・。 それはともかく、今日の宿は琴平駅前にある某ビジネスホテルなんですが、ホテル到着は5時半頃でしたので、名古屋からここまで、昼食や休憩の時間も含め、トータルで6時間半ほどでしたかね。大体そんなもんだろうと思っていた通りの時間でした。 さて、宿に入ってしばし休憩してから夕食を食べに外へ。名物の讃岐うどんは明日の昼食にとっておくとして、他に何か地元の名物ってないのかしら? そう思ってホテルのフロントの方に尋ねてみたところ、この辺の名物は「骨付き鶏」だ、というのですな。 骨付き鶏・・・。はて。前もって読んでおいたガイドブックにはそんな料理の話はひと言も載ってなかったぞ、と思ったものの、そのがたいの良いフロントのお兄さんが人の良さそうな顔をニコニコさせながら「この辺の名物で、とってもおいしいものなので、是非食べていって下さい」と言うもので、それならいっちょう食べてやろうかと、「祥」というお勧めの店に行ってみることに。 で、実際に行ってみると、これがまたいかにも地元御用達の渋い店構えでありまして。洒落たところなんか一つもない。しかし、結果的に見ますとこれが大成功。琴平(というか、実際には丸亀なんですが)名物の骨付き鶏、これが実に旨いものだったのであります。 ま、要するに、クリスマスなんかで食べるあの鶏の足の部分を油で揚げたものなんですが、スパイスがいいのか、実に味わい深いものなんですな。見た目、油ギトギトですけど、食べてみるとそれほどしつこいものではありません。で、骨付き鶏には「オヤ」というのと「ヒナ」という二種類があって、その名の通り、雛鶏と親鳥の違いなんですが、ヒナは肉も柔らかく、身もたっぷり。オヤの方は噛みごたえのある肉を味わうというもので、私たちはその両方を注文。まあ、他所者の初心者にとってはヒナを注文する方が無難だと思いますが、隣のテーブルで食べていた地元の人達の中には迷うことなく「オヤ」を注文する人も居たりして、そこは好き好きなんでしょう。ということで、ガイドブックにも載っていない地元の名物を食することができ、四国最初の食事は大成功。骨付き鶏の名店「祥」、教授のおすすめ!であります。 で、ホテルに戻ってひと風呂浴び(私たちが止まったホテルは、ビジネスホテルではありますが、上階に展望風呂があり、しかも私が入った時には他の客もおらず一人占め状態)、かくして旅行初日が終わったのでありました。 さて、明日は旅行二日目、いよいよ本格的な四国観光のお話です。お楽しみに~!
June 13, 2010
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さあて、明日から四国旅行です。そろそろ旅行の準備をしなくちゃ! で、旅程ですが、まず初日は淡路島を通過するルートで香川入りし、琴平へ。ここで金毘羅さんにお参りすると同時に「うどん三昧」と参りましょうか。 そして翌日は道後温泉へ。名湯に浸かりながら『坊っちゃん』ゆかりの明治ロマンを満喫する予定。 三日目は宇和島で中学時代の恩師に再会した後、足摺岬へ。四国最南端の岬から、運が良ければホエールウォッチングができるか?! そして四日目は高知へ。ここでは土佐の皿鉢料理、そしてカツオの藁焼きが楽しみ。はりまや橋でかんざしでも買って旅の土産としましょうか。 そして最終日は来た時とは別なルートで名古屋へ。 とまあ、こんな感じの旅になるのではないかと。 しかし、少し欲張り過ぎたか、改めて地図上でルートを確認すると、結構な距離がありますなあ。移動に時間が掛かって慌ただしい旅行になっちゃうかも。 でも、とにかく初めて四国の土を踏む旅行ですから、とりあえず出来るだけ見どころをあちこち回りたいですもんね! というわけで、しばらくこのブログもお休みですけど、また帰ったら旅行の報告をしますので、お楽しみに! 道中の無事を祈っていて下さいね~!!
June 7, 2010
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スイーツの流行ってのは、ナタデココ的な「突発短命型」や、はたまたチーズケーキとかティラミス的な「外来定着型」など、色々あるわけですけれど、「定番やってりゃ、いつかは芽が出る」ってところがあるんじゃないかと思うんですね。 例えば永遠の定番としてやっぱりチョコレートはオールマイティーだし、キャラメル(例えば花畑生キャラメル)が復活してきたことは記憶に新しい。もちろん、アイスクリーム(例えばコールドストーン・クリーマリー)も。 そしてちょっと前だとプリン(例えばパステル)とかシュークリーム(例えばビアード・パパ)、ロールケーキ(色々)、バウムクーヘン(クラブハリエ)。そして最近ではドーナツ(もちろんクリスピー・クリーム)と。 で、ドーナツの後、何が人気再燃するかと考えていた時期がありまして。で、私の出した結論は、「次はパンケーキ(ホットケーキ)」だろう、と。 そしたら、今、パンケーキが来ているらしいじゃないですかっ! やっぱね。予想的中! 聞くところによると、500円で食べ放題やっているファミレスもあるとか。あと、私の家の近くでは、サンドイッチがおいしい「カフェ・ダウニー」で、デザートではなく食事として食べるパンケーキを提供していて、これがえらい評判なんだそうで。今度食べに行っちゃおうかなー、なんて。 ・・・ま、仕事に行き詰っていると、食べ物のことしか考えないってことですかね!
June 6, 2010
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ひゃー、仕事が全然進みましぇーん。 サバティカル休暇も早2ヶ月を過ぎ、そろそろ自分なりに形ある成果を出したいところなんですが、全然ダメですね。 これまでに書いた450枚ほどの原稿をこのほど読み直したのですが、文章にコクがないというのか、充実度が足りないというのか、我ながら情けなくなるほどの出来。文体も思ったようには決まってないし、うーん、駄目だねえ。 まあね。この時期だと、こんなもんかなあ・・・。 というわけで、仕事面ではいささか落ち込んでいるのですけど、こういう時こそ辛抱のしどころでね。 トルーマン・カポーティというアメリカ作家が『カメレオンのための音楽』という傑作短篇集を書いておりまして、この短篇集の「序文」というのが、これがまた本編に勝るとも劣らぬ名文なんです。で、その中でカポーティは、大作『冷血』を書いた時のことを、次のような文章で振り返っているんですな。 「たしかに、ポーカーで大博打をするようなもので、6年間神経をすり減らしながらも本になるのかどうかもわからなかったし、その6年間は長い夏と凍てつく冬の連続であったが、できるだけよい手札がくるように、カードを配り続けたのだ。」 このポーカーの比喩がいいんだよね! で、僭越ながら私、論文とか本とかを書いていて、思うように筆が進まない時、あるいは書いたけれども出来が悪くて、何度も書き直しをしている時など、よくこのカポーティの比喩を思い出すんです。ポーカーでは、今現在の自分の持ち札が最悪だったとしても、辛抱強くカードを引き続ければ、いずれ良い札が回って来る。それと同じで、今のところ自分の目から見て最悪の出来栄えだとしても、辛抱強く何度も書き直しを続ければ、いずれ調子が戻って来て、最終的には満足のいく文章になっていくだろうと。 だから今は辛抱だと。絶望しないで、文句を言わずに、書き直しを続けるんだと。 ま、そんなつもりで、今はカポーティの言葉を心の支えとして、仕事をしております。 でも、そう考えると、人の言葉って大切ですね。私にしたって一面識もないカポーティの言葉で、励まされているんですからね。
June 5, 2010
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深夜のテレビ番組というと玉石混交ですが、中には面白いものもありまして、最近の私は「ビーバップ・ハイヒール」という関西系の番組が気に入っております。 ま、「ハイヒール」のお二人を始めとして、お笑い系のタレントさんたちが司会をしたり、コーナーを担当したりする番組なんですが、必ずしもおふざけ一方というわけではなくて、内容的に感心することも多々ある。 で、昨夜もたまたまこの番組を見ていたのですが、テーマは対人関係における「印象」についてというものでありまして。 それによると、人間というのは、初対面の人に出会って最初の2分で、相手に対するファースト・インプレッションを決めてしまう、というんですな。だから、最初に「何だか自分とは合わない人だな」と思ってしまったら(思われてしまったら)、その後、その印象を覆すことは非常に難しいというわけ。 逆に言えば、対人関係を良くしたいと思ったら、最初の2分に命をかけるべき、ということにもなります。ふーむ、なるほど・・・。 で、例えば合コンなんかで、その最初の2分を支配するにはどうすればいいか、なんてこともやっておりましたが、この場合、自分を100%さらけ出さない、というのが正解なのだそうで、「最初のうちは相手に色々なことを質問したりして、相手に一方的にしゃべらせる」「最初の1分は頻繁に相槌を打つが、後半1分は相槌の間隔を間遠にして、謎めいた雰囲気を出す」「最後に少しだけ自分の内面的なことをチラッとほのめかす」等々、具体的な指南をしておりました。ま、その全てに首肯したわけではないですが、初対面の人に対して人見知りをする私としては、参考になることはありましたね。 それから、「悪い第一印象を与えてしまった場合、どうやって挽回するか」というテーマでも面白いことを言ってました。 例えば、「冷たい、嫌な感じの人だなあ」という印象を相手に持たれてしまった場合、どうやってその悪印象を挽回するか。 どうすればいいと思います? 普通、そういう場合、「自分のいい面を見せて挽回すればいい」と思うじゃないですか。でも、心理学的にはこれは不正解なんだそうで。 じゃ、正解は何かと言いますと、「別な種類の悪い面を、少しずつ沢山見せる」こと。 え? と思うでしょ? 悪い印象を改善する最善の方法は、自分の悪い面をもっと沢山見せることですって?? でも、心理学的に言うと、これは「悪印象でもって、他の悪印象を薄める」ということなんだそうです。 例えば、先ほどの「冷たい感じの嫌な人」という印象を相手に抱かせてしまった場合、例えば「おっちょこちょいなところを見せる」「音痴なところを見せる」「泥酔して、酒癖の悪いところを見せる」というような「小さな欠点」を沢山見せることによって、「この人、駄目な人だなあ、だけど、ひょっとしたら案外いい人なのかも」という風に第一印象を変えることができるのですって。 悪をもって悪を制す。うーん、なかなか深いじゃないですか。 あとね、同じく「自分と気が合わない人」と仲良くなるにはどうすればいいか、ということも言ってましたけど、これも説得力がありました。 そういう場合、相手の人があることに対して「嫌いだ」という意見を表明した瞬間、すかさず「私もそれ嫌いなの!」と言えば、相手は必ず自分に対して好印象を持つ、というのですな。つまり、敵の敵は味方、というわけ。だから、馬が合わない人と仲良くするには、その人が嫌いだと言ったことに同調すればいい。 相手が好きなものに対して「私もそれ好きなの」と同調するのではなく、相手が嫌いなものに対して「私もそれ嫌いなの」と同調する。その方が効果絶大だというのですな。 「なるほどー」って感じがするでしょ? というわけで、深夜のお笑い番組ながら、結構ためになることを教えてくれる「ビーバップ・ハイヒール」という番組、教授のおすすめ! でございます。
June 4, 2010
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もうすぐサッカー・ワールドカップですが、不思議なことに中国ってあんまりサッカーに関心がなさそうでしょ? あれは何故なのか。 何せ全世界の6人に1人は中国人という数的優位さがあるのですから、とんでもない才能を持った中国人サッカー選手がわらわら居てもおかしくないような気がするのですけど、実際はそうでもない。東アジアではまず韓国が強くて、日本がこれを追いかけて、というところでしょうけど、中国が、という話は聞きません。 何で? と、思っていたら、ある人から面白い説を聞きまして。 それによると、中国人は伝統的に身体が接触するような競技が嫌いだ、というのです。確かにサッカーはボールを奪いあうため、選手同士の身体がぶつかり合います。で、中国人はこういうのが嫌だ、というのですな。 は~。なるほどね。そう言えばサッカーだけでなく、ラグビーとかでも中国が強いなんて聞いたことがありません。身体の接触が基本の格闘技で言えば、モンゴル人の力士、韓国人の力士というのはいるけど、中国人の力士っていないですなあ。中国人のボクサーというのも、あんまり聞いたことがない。柔道だって、韓国人で強い選手はいるけど、女子柔道を除けば強い中国人柔道選手って、あまり聞いたことがないような気がする。 もちろん、カンフーをはじめ中国武術というのはありますが、例えばブルース・リーにしても、その動作を思い出すと、「お前らの身体に触れるのは嫌だ~! あっち行け~! えーい!」という感じで蹴り飛ばしたりしてますもんね。あと、ヌンチャクなんかを使って、出来るだけ敵の身体に直に触れないようにしているようなところもあるし。 その反面、身体の接触がない競技、例えば陸上とか、そういうのだと中国には強い選手がいます。例えばハードルの選手とか。 で、私が話を伺った方によりますと、中国人ってのは、大昔からそうで、例えば戦をするにしても、兵士一人一人の一騎打ちというのは嫌いなんだとか。 で、彼らが考え出したのが「飛び道具」だったと。 そもそも「火薬」の発明も中国ですが、その火薬を使って「ミサイル」の原型を作り出したのは、今から700年とか800年前の中国人。これも、身体の接触なしに戦に勝つための方法だった、というのですな。 だから、飛び道具を使う競技だと、中国はなおのこと強いわけですよ。卓球とか。テニスでも、以前、マイケル・チャンという中国系の強い選手が居ましたっけ。あと、同じく敵味方がネットで仕切られるような競技、たとえばバレーボールも強い。バレーボールのサーブとかスパイクなんて、ありゃ、スポーツ版ミサイルですよね。 ということで、真偽のほどは定かではありませんが、中国人は身体の接触を嫌う、という説、ワタクシとしては妙に納得させられてしまったのでありました、とさ。なかなか面白い説だと思いません?
June 3, 2010
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朝刊を読んだ限りでは続投かと思いきや、お昼前には辞任。日本の総理大臣もコロコロ変わりますなあ。 ところで私思うに、鳩山民主党政権、最後の方はグダグダなイメージでしたけど、まあ、見ようによっては見るべきところもあったんじゃないかなと。 例えば殺人など、重大犯罪について時効を無くした奴とか。時代の変化に対応して、いい改変をしたのではないかと思います。私としては、こういう感じの改革をじゃんじゃんやってもらいたかったんだよなあ。 後、事業仕分けだって、良かったんじゃないすか? なるほど、天下り禁止だなんて言ったって、まだまだこういう風にうまい汁吸っている奴らが沢山いるんだ、ってことを公の場で指弾したわけですからね。これ、自民党政権だったらやらないでしょう。 それから、個人的には高速道路料金の見直し、実効はまだですけど、これも評価するんですよね。土日だけ1000円というより、毎日上限2000円の方が本格的な料金制度だと思うので。私のように名古屋・東京間をクルマで移動することが多い人間にとって、今までの高速代が3分の1以下になるのは有難いし、これだけの引き下げって画期的ですよ。 羽田を国際線のハブに、という構想もいいですなあ。そりゃ都心に近いし、埋め立てれば滑走路もまだ増設できる。なんではるばる成田まで行かにゃーならんのか。自民党には成田を作った時のしがらみがあるのでしょうけど、それに国民が(あるいは外国からの観光客などが)付き合わされなきゃいけないなんて、ねえ・・・。 もうひとつ、教員の免許更新制度の取りやめ、これもまだ実効になってませんが、これも評価します。こんなバカバカしい制度、止めるの大賛成。 その一方、「子供手当」法案? あれは下らないね。麻生政権の時もお金をばら撒いたけれど、結局、なんということもなくお金が消えただけでしょ。今度だってそうなると思うのですけど、今度のはそれを継続するというのですから、壮大なお金の無駄だよね・・・。 あと、公立高校無償化もバカバカしいね。私はむしろ、高校進学率を半減させるような法律こそ望ましいと思っているので。日本国民のほぼ全員が高校進学なんて意味ないですよ。戦前みたいに、もっとヴァラエティ豊かな進路を用意した方がいい。 というわけで、この8か月の民主党政権、良かった部分もあり、駄目な部分もありですけど、少なくとも自民党政権の悪しき流れを少しは食い止めたという点で、評価できる部分も幾つかあったと思うのですが、普天間問題が命取りで、意外に短命でしたなあ。前の選挙であれだけ圧勝しておきながら、この短命ぶりって一体何なんだろう。よく分らんなあ。 分らないと言えば、普天間問題自体も、私にはよく分らないんだなあ。自民党政権のままだったら別にさしたる問題にもならず、そのまま通っちゃったようなもんでしょ? それを鳩山さんが下手に寝た子を起こすようなことを言ってしまったのでえらい騒ぎになりましたけど、それ以前、日本の国民の多くは、沖縄のことなんかあんまり考えてなかったんですからねえ。それに、沖縄を米軍から解放してあげなきゃ可哀想、だけどうちの県に来てもらっちゃ困る、というのが民意だとしたら、どんな首相だって、何か出来るってもんでもないでしょ。しかも、米軍はもう要りません、日本の防衛は日本が再軍備で対応します、というのも嫌なんでしょ、日本国民は。 加えるに、私の実家の近くだって厚木基地とか座間キャンプがあるわけで、沖縄だけが米軍の犠牲者ってわけでもないと思うのですが・・・。 日本の政治って、結局、いつもこういう感じで、本当に問題にしてもらいたいところではないことが原因で、グダグダとつぶれていくもんなんすかね。 で、次は菅さんですか。これまた変わり映えしませんなあ。鳩山・小沢・菅で回していくだけしか能がないのかね。私は、どうせ民主党政権が続くなら、リーダーシップは若い前原氏とかが取ればいいような気がしますけど、次の政権は短命だというのが分っているから、彼も敢えて出馬しないのかな。それならそれでいいですけど。 というわけで、あまり期待もしませんけど、とりあえずこの先どうなるか、しばらくは政局に注目しましょうかね。
June 2, 2010
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今日は6月1日、衣替えの日ですね。例年ですと、6月に入ればもういい加減夏という感じがするものですが、なんか今年は涼しいですよね、その割に。朝晩なんか特に。 しかし、暦は暦ですから、今日は何か夏らしいことをしたいということで、アレやっちゃいましたよ。必殺の夏アイテムを。 そう、「冷やし中華」。昼に食べちゃった。旨いねえ。いかにも夏って感じがしますな。 さて、それはともかく。 サバティカル期間中、何かいつもと違うことをやろうと思っているのですが、今考えているのは、四国への旅。私、わりと日本中隈なく旅行をしている方だと思いますが、何とこの歳まで四国に足を踏み入れたことがないという。そこで、この際、四国を一周してやろうかな、と。 で、最初は公共交通機関を使うことも考えたのですけど、調べてみると、案外便が悪そうなんですよね。そこで、今回はクルマでの旅にするつもりです。それもアルファロメオではなく、スバルR1の方で。ちっこいクルマでちょこまかと動こうかと。 で、行きたい場所・やりたい事として、「香川でうどんを食べる」「道後温泉に入る」「土佐でカツオを食べる」などが挙がっているのですけど、もうひとつ、「宇和島へ行く」というのがありまして。 じゃ、宇和島に何があるかと言いますと、実はここに中学校時代の恩師が二人おられるんですな。偶然ですが、中学1年の時の担任の先生と、副担の先生が、二人ながら宇和島におられるんです。担任のC先生は東京でのお勤めを定年で終えられてから終の棲家という意味で宇和島に移住され、副担のY先生は、お若いうちから東京を離れてこの地へやってきて、今は地元の中学校の校長先生をされているわけ。 私はこのお二人の先生とずっと年賀状の交換をしてきたわけですが、今、三十数年の時を経て、面と向かってお会いしようという計画なんです。 で、先日、校長先生をなさっているY先生にメールを出しておいたところ、今日、大歓迎との返信をいただき、もうなんだかすぐにでも飛んで行きたい感じ。三十数年ぶりですからね、先生方お二人とも、私の顔が分かるかしら? というわけで、6月の中頃、四国に行くぞ! という勢いで盛り上がっている釈迦楽家なのでありました、とさ。楽しみだな~!
June 1, 2010
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