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コルソン・ホワイトヘッドというアメリカの黒人作家の書いた『地下鉄道』という小説を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 これ、2016年度のピューリッツァー賞、全米図書賞、アーサー・C・クラーク賞などを総嘗めにした話題作なんですけど、これを何故私が読んだかと申しますと、書評を頼まれたからですな。 で、読んだのですけど・・・パッとしないねえ・・・。ま、最近のアカデミー賞作品賞や監督賞を取るような映画レベルの出来ですよ。世評は高いが、大したことないという意味で。 本作がどういう小説かというと、19世紀前半、まだアメリカ南部でまだ奴隷解放がなされていない頃の奴隷の娘コーラの話。祖母アジャリーの代にアフリカからアメリカに連れて来られ、ジョージア州にあるランドル氏のプランテーションで働かされているのですが、コーラがまだ10歳かそこいらの頃、母親メイベルがこのプランテーションからの脱走を図り、奴隷狩り人が捜索したにも拘らず行方不明となるんですな。つまり娘のコーラを捨てて自由を取り、奴隷制のない北部へ逃げたらしい。で、コーラは、母親に捨てられた状態でプランテーションに置き去りにされたと。 当然、10歳程度の小娘にとっては、保護者を失ったわけですから、奴隷社会の中の身分も一気に低下し、それまで住んでいた家も追い出されて、奴隷の中の最下層の連中が共同で住む家に暮らすようになり、奴隷の仲間の中でも蔑まれる状態になってしまう。 で、それでも逞しくサバイバルしていたコーラなんですが、ある時、無邪気な男の子の奴隷が白人の奴隷主に殴打されるのを見てたまらずこの子をかばったために、コーラ自身が手ひどく殴打されることが起こるんですな。で、めった打ちにされたコーラは、これが我慢の限界と、以前からプタンテーションからの逃亡を誘われていた若い男の奴隷シーザーと共に逃亡を図る。 で、シーザーとコーラは、シーザーのかねてからの計画に従い、アメリカの地下に縦横に建設されていた奴隷逃亡用の地下鉄に乗車してジョージア州を脱出、サウス・カロライナ州の駅で下車してしばらくここに滞在することに。 サウス・カロライナは進取的な州で、白人と黒人の共存が実現しており、シーザーもコーラも、さらに北部へ逃げる計画を一時中断して、ここに留まります。ところが、この進取的な州の黒人対策というのが実に陰険なもので、実は州をあげて黒人の断種が計画されていたんですな。これ以上黒人が増えると、白人社会が脅かされるというので、秘密裏に黒人に不妊手術を施していたわけ。 で、こりゃひょっとしてやばいところに自分は居るのか? と薄々気づき出した頃、サウス・カロライナでも黒人を狩る民警団が組織され、危ういところでコーラはこの州を脱出します。が、シーザーは運悪くここで命尽きることに。 で一人再び地下鉄の乗客となったコーラは、今度はノース・カロライナ州の駅で下ろされるのですけれども、ここはサウス・カロライナとはまた打って変わって保守的な州で、コーラはとある白人の駅長の元に身を寄せるものの、さらに北部へ向かう地下鉄の便もなかなかなく、周囲では常に逃亡奴隷に対する社会の目が光っているので身動きが取れなくなってしまう。かくしてコーラは駅長の家の屋根裏で秘密の生活を強いられることに。 しかし、結局、コーラの滞在はバレてしまい、駅長もその妻も惨殺され、コーラは奴隷狩り人のリッジウェイに捕まってしまいます。リッジウェイは、かつてコーラの母親メイベルが逃亡した時もランドル氏から奴隷狩りを請け負い、これに失敗していた。そういうこともあって、コーラだけは絶対に捕まえてランドル氏に引き渡すと誓っていたんですな。 で、リッジウェイに捕まったコーラは、馬車に鎖でつながれた状態でジョージア州へ戻る旅路につくのですけれども、途中、ロイヤルという名の奴隷解放運動に従事している黒人男性とその仲間に奪還され、リッジウェイの手を離れて再び地下鉄道の客となる。そして向かったのがインディアナ州にあるジョン・ヴァレンタイン氏の農場だった。 ヴァレンタイン氏は、白人と黒人の混血なんですが、ぱっと見は白人にしか見えない。そこで、彼は白人になりすまし、この地に農場を作って南部からの逃亡奴隷を受け入れ、一種のパラダイスのような場所を作っていた。で、コーラもこの農場でようやく人間らしい生活を手に入れたと。 が! 好事魔多しで、このパラダイスにも魔の手が伸びます。黒人の一団に襲われてコーラを奪還されて以来、奴隷狩り人としての評判ががた落ちになってしまったリッジウェイが、復讐に燃え、執念でコ―ラの居場所を突き止めて、徒党を組んでヴァレンタイン氏の農場を襲ったわけ。この襲撃で、コーラとちょっといい仲になりかけていたロイヤルも殺されてしまいます。 しかし、ロイヤルに教わった地下鉄の駅をリッジウェイに教えるフリをして、駅の階段でリッジウェイを突き落としたコーラは、再び逃亡を図る。コーラが逃げ込んだ地下鉄の線路がどこまで続くのか、またそれを伝ってどこまで逃げられるか分かりませんが、小説はコーラの再度の逃亡で幕を閉じます。 まあ、そんな話よ。 基本的に主人公は逃げる、悪役は追っかける、という話ですから、それなりにスリルのある話になるわけで、そういう意味で面白くなくはない。だけど、まずもって今、21世紀の今日に黒人奴隷の苦難と逃亡の話をする意味がどこにあるのか、って話ですわ。最近でも、黒人が警官から不当に射殺されちゃったりする事件が頻発していますから、アメリカにおいて白人と黒人の間の緊迫した対立関係が無くなったわけではないことは分かる。にしても、今更奴隷制時代の話をされてもねえ。 しかも、本当の史実から言ったら、この小説に書かれていることよりもっともっと別次元にひどいことがなされていたわけですから、その意味では大分、甘々に脚色されているじゃんということにもなる。で、さらにまた白人を一方的に悪者扱いしたんじゃまずいだろうってんで日和見したのか、白人の中にもいい人は居たし、黒人の中にも悪い奴が居た,的なところもあちこちに盛り込んであって、ぱっと見、白人が悪い、黒人はひどい目に会った、というような内容でありながら、もしその点を批判されたら、「いえいえ、白人のいい人も登場させているじゃないですか、黒人にも悪い奴がいたってちゃんと書いてあるじゃないですか」と言い訳できるようにしてあるわけよ。だから、黒人側からの思い切った白人への抗議、というスタンスにもなってない。 要するに、腰が引けているわけだ。 で、そういうことも含めて、しかしそれよりもさらに腹立たしいのは、この小説が、まるっきりトニ・モリスン作品の二番煎じであること。 私はノーベル賞作家,トニ・モリスンの小説が本当に、心の底から嫌いなものですから、その痕跡にはすごく敏感なんですけど、そういう私から見ると、もうこの小説は文体から何からトニ・モリスンそのものなんですわ。 それはもう冒頭からそう。 例えば最初の方にある「ジョージア」という章の冒頭の一節を見てよ。「ジョッキーの誕生日は、年に一度か二度来るだけだった。」とある。これが冒頭だよ。 この冒頭の一文、これこそ「トニ・モリスン節」なのね。誕生日というのは、誰にとっても年に一度しか来ないわけでしょ。それを「年に一度か二度来るだけだった」と書く。それによって、読者に「え? 一体どういうこと?」と思わせつつ、この空想上の特異な黒人奴隷社会の妙ちきりんな世界に引き込もうという安っぽい手法。もう、最悪だ。 大体、「コーラ」っていう主人公の名前自体、トニ・モリスンっぽいんだよなあ。モリスンの小説にも、似たような名前の主人公が居たぞ。ピコーラとかスーラとか、そんな感じの名前の奴が。 あと、19世紀前半ですから、まだ地上にもろくに鉄道が敷かれていない時代にあって、アメリカ全土の地下に蒸気機関車が走る鉄道網が敷かれていた、それも逃亡奴隷を逃すためだけに存在していた、というあり得ない設定。そのあり得ない設定を、あたかも当然のように小説内に組み込んでしまうというところ。こういうのもまた、トニ・モリスン的三流マジカル・リアリズムなんだなあ。嫌だねえ・・・。馬鹿みたい。そんなはずないだろう。誰が掘ったんだよ、それ。でまた、どうしてそんなものが白人に見つからないで済むんだよ。 とまあ、この小説のどこを切っても、トニ・モリスンが顔を出すという。先ほど指摘した「日和見」的なところも含め。もちろん、そんなの誰が読んでもそう思うので、アメリカで出たこの小説に対する書評を読むと、皆、異口同音に「『地下鉄道』はトニ・モリスンが『レ・ミゼラブル』、あるいはテレビドラマの『逃亡者』を書いたらきっとこうなる、といった小説だ」と評してある。実際、その通りですわ。 どうした、コルソン・ホワイトヘッド。お前はトニ・モリスンになりたいのか? それとも大御所に目をかけられたいのか? どうなんだ、おい。 というわけで、この小説、私から見ると、単なるトニ・モリスンの焼き直しの三流サスペンス小説としか言えまへん。 ということで『地下鉄道』という小説、私にはひどく癇に障る、虫の好かない作品だったのでした。しかし、いつも言いますが、私の意見はほぼ世間の意見の真逆なので、私が低評価ということは、普通の人はすごく高い評価を下すものであることは間違いない。だからこそのピューリッツァー賞であり、だからこその全米図書賞なんだから。 ですので、逃亡奴隷サスペンスに興味のある方、トニ・モリスン好きな方には是非、おすすめ! と言っておきましょうかね。地下鉄道 [ コルソン・ホワイトヘッド ]
March 31, 2018
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今日、司法書士の先生のところに伺って、家の登記書き換えの手続きがようやく終了したという。結構、時間掛かったなあ・・・。 しかし、親が死ぬと、司法書士とか税理士とか、普段だったらお目にかからないような先生方にご厄介になるわけでありまして、いい経験になりました。これも人生勉強だったのかもね。 だけど、普段は気づかないけれど、気づいてみると、税理士とか司法書士の先生ってのは沢山居るのね。比較的大きな駅だと、実は駅前のあちこちにそういう先生方の事務所の看板があることが分かる。今まではただの風景として網膜に映っていたので、見てはいても気がつかないのだけど、気づいてみると、そこら中にそういう事務所がある。 今回、我が家がお世話になった先生は、まだ40代そこそこくらいだと思いますが、立派にとあるビル内に事務所を構え,秘書さんを一人雇っているのだから、大したもの。一国一城の主ですよ。 私が若い頃、「そうだ、大人になったら司法書士になろう!」っていうことを一度も考えたことがなかったから、そうならなかったわけですけど、親戚のおじさんとかにそういう業界の人がいたら、分からないですよね。他人の部下にならず、自分の好きなように仕事が出来るのだったら、そういう方がいい、と思ったかも知れない。 将来どういう職種につくかなんて、実はあんまり考えないでなんとなくその道に入っちゃった、ってことの方が多いんじゃないかな。私の場合はまさにそうだし。そこそこ勉強できるし、研究職になるんだろうな、くらいなテキトーな思いで今の道に入っちゃった。 たまたま今回お世話になった司法書士の先生が、私の高校の後輩だったこともあって、余計、「こういう道もあったのかな」という思い・・・まあ、私のようないい加減な人間には勤まらない職種ですけど・・・が去来したのかもしれません。 今生ではもう無理ですけれども、もし次、生まれ変わったら、この次はもっと色々な可能性を検討してから、職業を決めたいな。
March 30, 2018
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はーい、実家に戻って参りました〜。今日から約1週間、これがワタクシの春休みね。昔は大学の春休みって言えば、2ヶ月くらいあったものですけど、最近はこれですわ・・・。 近年では珍しく、差し迫った仕事ってのがなく、まあ、強いて言えば書評を一つ頼まれているのだけれども、これも既に4分の3くらいは読んだし、締め切りはまだ先だし、その意味ではのんびりしております。 ということで、目下の関心は、そろそろダイエットしようかなと。 冬からずっと食べたいだけ食べていて、結構、体重増えたんじゃないかなと。怖いから最近測ってないけど。 で、今、関心があるのが「タバタ式」って奴。たった4分間の運動で、1時間やるのと同じだけの有酸素運動ができると評判なんですけど、ご存知? で、家内に習ってやってみたのですが、これがキツい,キツい。確かにあっという間にバテる。 ま、筋肉ついちゃいそうなので、これやったから劇的に痩せるもんでもないようですけれども、このところなまったカラダに活を入れるにはちょうどいいのかなと。 だけど・・・、まあアレか、実家でやるこたぁないか。名古屋に戻ってからでいいか。 とまあ、なんとなく後回しになりそうな気配もありますが、いずれ頑張ります。
March 30, 2018
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藤井聡太さんの大活躍で将棋界が妙に面白いですけれども、「ハッシー」こと橋本崇載さんってのがね、面白いのよ、キャラクターとして。例えば、このインタビューはどうよ! ↓羽生さん? 強いよね まあね、これだけ見ると、なんのこっちゃと思いますけど、これ、元ネタがありまして。そこには佐藤紳哉さんというもう一人のキャラクターが係わっているという。これこれ! ↓豊島? 強いよね もう、将棋界、人材豊富だねえ・・・。 ちなみにハッシーにはもう一つ、傑作のインタビューがあるので、これもお楽しみ下さい。これこれ! ↓ハッシー独壇場 こういうの見ると、将棋界って、楽しそうなところだなと。ちょっと羨ましいな。
March 29, 2018
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私はそもそも男が白髪隠しに髪を染めるというのがすごく嫌いでありまして。 やっぱりどこか不自然なわけよ。染めた黒髪ってのは。政治家とかで、たまに居るでしょ、それ、髪染めてますよね、ってのが。そんなにしてまで若く見られたいの? みっともない・・・。 一方、私自身は若白髪体質でありまして、若い時から随分白髪がある。ので、歳をとって段々白髪が増えても、まあ、そういうもんだと思っていたわけ。で、そのうち真っ白になったら、それはそれでいいかなと。 ところが。 なかなか真っ白にならないんだ、これが・・・。中途半端に黒髪と白髪が混ざった状態がいつまでも続く。で、その中途半端さ加減が、段々、嫌になってきた。 そんな折。今、テレビでCMやっているじゃない。カラーリンス。タッキーが出ている奴。 これこれ! ↓メンズビゲン カラーリンス ナチュラルブラック 白髪用 160g/ホーユー タッキーに「染めない理由って、逆に何?」って聞かれると、ねえ・・・。確かに、って言うしかないじゃない。 ということで、衝動的にこれを買ってしまったワタクシ。「これは、白髪染めじゃないんだ、あくまでリンスなんだ」と自らに言い訳しながら。 で、実際に使ってみた。 とね、これがまた割といいのよ。 決して白髪染めのように白髪が不自然に黒くなるわけじゃないのですが、なんとなくグレーになるので、目立たなくなるわけね。近くでみると、明らかに白髪だらけなんだけど、遠目に見ると、あれ、ちょっと白髪が目立たなくなった? っていうところまで行く。 すると、これが不思議なんだけど、久々に黒髪の自分を鏡で見ると、気分までちょっと若返るのね。自分で体験してみて、ようやく髪の毛を黒く染める壮年男の気持が分かりました。彼らは黒髪を欲していたというよりは、若々しい気分を欲していたのだと。 ということで、なんとなく、あくまでなんとなくですよ、でもとにかくなんとなく、髪の毛から若返ったワタクシ。ちょっとね、この若い気分で、この先、頑張ろうかなと、まあ、そんな風に思っているわけでございます。
March 27, 2018
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先日、片岡義男さんの『英語で言うとはこういうこと』という本を読んで割と面白かったので、これに味をしめて同じような本をもう一冊読んでみるかと思い・・・これを英語で言えば「Kataoka-san's book gave me a taste for more of the same.」ですな・・・やはり片岡義男さんがお書きになった『英語で日本語を考える』という本を読んでみました。 ちなみに『英語で言うとはこういうこと』が2003年初版の本であるのに比べ、こちらの『英語で日本語を考える』は2000年が初版。つまりこちらの方が先に出たんですな。だから、というべきなのか、『こういうこと』と比べると、今回の『考える』の方が、やや難しいです。それに『こういうこと』は、「1フレーズ1ページ」というルールを確立していますが、『考える』の方はページ構成に関係なくダラダラと綴られている。そういう違いもあります。要するに、『こういうこと』の方が、この手の本としてはより進化している、と言えるかも知れません。 しかし、内容的には両者よく似ていて、いかにも日本語っぽい表現をまず挙げ、それと同じことを最終的に英語で言うために、どういう思考回路を経たか、ということが説明されている。だから、結果(=解答)としての英文を読むことも大事ですけど、むしろそこに辿り着くまでの思考の過程を読めと。その思考過程の中に、日本語と英語の違いが出ているのであって、その違いを味わうことで、日本語と英語の頭の切り替えの仕組みを、読者自身の頭の中に組み込めと。 例えば、片岡さんが挙げている例題を一つ、挙げてみましょうか。 「考えていたものと、ちょっと違うんですけどねえ」、はい、これを英語で言ってごらんなさいと。 で、その思考過程なんですけど、片岡さんはこう仰っておられます: 「『違う』という言葉を英語に移そうとすると、日本語における『違う』の用法にからめとられ、英語の側に移ることができないままになりやすい。『違う』という言葉を使わずにおなじ意味のことを言うなら、頭のなかにあったものにいま少しおよばない、というような言いかたになる。 和文英訳よりも、日常の日本語のこなれた言いかたのなかから意味だけを取り出す和文分解の練習のほうが、英語の勉強に役立つはずだと僕は思っている。 『考えていたものとちょっと違うんですけどねえ』は、自分の頭のなかにあったものにいま少しおよばない、と言いなおせば、それは日本語で言った英語のようになる。英語では次のような言いかたなのだから。 Well, it's not quite what I had in mind.」(88ページ) 「和文英訳」じゃなくて「和文分解」だ、というところ、なかなかいいでしょ? 日本語ってのは、基本、饒舌なところがあって無駄な付け足しが沢山ある。そういうのをとりあえず全部とっぱらって、エッセンスだけにして、そこから英語に直すことを考える。そういうやり方を片岡さんは提唱しておられる。 だから、「あなたの性格でもっとも特徴的な部分はなんですか?」という日本語を英語に訳すとなったならば、まず我々が考えなければならないのは、この中の無駄な言葉を見つけて、それを省くことなんです。となると、「部分」はいらないなと分かるはず。「あなたの特徴的な性格は何か?」というところまで単純化して、それを「What is your most marked characteristic?」と英語化すればいい。 同じく、「現実性のある話というよりも、それはまだ夢の段階だと言ったほうがいいですね」だったら、「夢の段階」というフレーズのうちの「の段階」はいらない。それは「現実」と対比された場合の「夢」なんだから、「夢」の一語でいい。また「現実性のある話」という部分も、日本語的ではあるけれど、英語にはならないので、そこは考えるとして、文全体としては「That would be more a dream than an option.」のように英語になるのではないかと。 後ね、片岡さんのお考えでは、日本語より英語の方が動詞的な表現が多く、またそれに伴って動作主をはっきりさせる表現が多いということで、「すべての人を満足させる解決策なんて、ないですよ」という例題には「No one solution will please everyone.」という英語を、また「これにめげずに、今日も頑張って」だったら、「Don't let this spoil your day.」という英語を当てている。英語ってのは、そういうもんだと。 で、そういう片岡さんの御説を、はあはあ、なるほどなあ、と読み進めて行くうちに思ったのですけど、結局、この考え方を押し進めて行くと、英語の勉強というのは、演繹的にはマスターできない、ということなんじゃないかなと思えてきます。理屈じゃ英語はマスターできない。そうじゃなくて、まず英語の文例というものを1万も2万も覚えて、その上で帰納的に、英語っていうのはこういう風に言うよね、というものを学習者各自が掴む以外ない。 だってさ、「人が画面いっぱいになるように撮ればいいんですよ」という日本語を、「Let the people fill out the frame.」に訳せるかっていうと、そりゃ、無理でしょ。理屈で勉強して、この英文を思いつくかっていうと、思いつくはずない。 逆に、英語では普通、こういう時はこういう風に言う、というのをまず学んで、それから帰納的に、英語っていうのは、こういうシンプルな表現をするよね、動詞的な表現、主体が明確な表現をするよね、というのを後から体得する、という順序にならざるを得ないのじゃないかなあ。 つまり、片岡さんの『英語で日本語を考える』という本は、理屈を言っているようでいて、本当の主張はその逆なんじゃないかと。この理屈が分かるくらい、英語の表現をまず何万例も頭に入れておきなさいよと、そういうことなんじゃないかと。 人から本を借りて、もうそろそろ返さなきゃいけないんだけど、まだもう少し借りていたい。そういう時に、「もう少し借りていてもいいかな?」と尋ねる時、英語では「You aren't missing it?」というそうですが、そんなの知らんもん。理屈では、こんな英文、出てこないですよ。 だから、結局、「英語では、こういう時、こういう」というのを無限に知っている、という状態にならなきゃ、英語はマスターできないよと。まあ、そういうことですな。道は果てしない・・・。 そういう覚悟を、そういう腹を、固めさせてくれる厳しい本だよ、ということを含んだ上で、この本、教授のおすすめ! としておきましょうかね。 なお、現在、『英語で日本語を考える』は絶版で、ただしその「単語編」というのは現役で売られているようです。【新品】【本】英語で日本語を考える 単語篇 新装版 片岡義男/著
March 26, 2018
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ステイシー・ホーンという人の書いた『超常現象を科学にした男 J. B. ラインの挑戦』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 そもそも何でこの本を読んだかと申しますと、自己啓発本の研究をしていると、ある種の自己啓発本が、オカルトの方向に向かうということが明らかになってくるからでありまして。何しろ人間の思考の力を過大評価するのが自己啓発思想ですから、もともと思考という目に見えないものに、実はとてつもない物理的な力があると信じる傾向がある。そうなると必然的に「目に見えないものの実在」に関心が平行移動していくわけでありまして、そこから魂の不滅とか、死後の世界の存在とか、輪廻転生とか、そっち方面に触手が伸びてしまうわけですよ。 しかし、それはある意味仕方のないことでありまして、というのも、自己啓発思想の根源とも言うべき17世紀の神秘主義者エマニュエル・スウェーデンボルグが、死後の世界に自由に行き来できる人で、魂の不滅を確信していたから。つまり、もともと自己啓発思想というのは、そっち方面に根っこを生やしていたのであって、だから現代の自己啓発本のある種のものがそちらに熱を入れるのも、先祖返りというか、素質というのか、とにかく十分予想できる事態なわけ。 しかし、それはそれとして、20世紀という時代に、本格的な科学者が大真面目に超常現象を科学しようとしてその生涯を費やしていたとなると、これはやっぱり「何事?」ということになる。そうした興味から、私もこの本に手を伸ばしたという次第。 そもそも超自然的な心霊現象というものが話題になり出したのは19世紀末でありまして、1882年にはロンドンに「心霊研究協会」が、また1885年にはボストンで「米国心霊研究協会」が設立されている。なお、自己啓発思想にも大きな影響を与えたアメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズは1893年にこの心霊研究協会の会長に就任しております。あと、アメリカ作家のマーク・トウェインも晩年はテレパシーなどの超常現象に取り憑かれ、「メンタル・テレグラフィ」なんてことも言い出していたとのこと。 ちなみに日本でも井上円了(哲学館、のちの東洋大学の創立者)が1886年に「不思議研究会」を設立していて、名前はダサいけどこの分野では日本も世界に足網を揃えていたんですな。ま、日本も幽霊がやたらに出る国だからねえ・・・。 で、心霊ブームというのは、以後、周期的にアメリカ社会を見舞うわけですけれども、1920年代半ばのアメリカも、心霊ブームに湧いていた。心霊ブームっていうか、霊媒ブームね。ま、おそらくは第1次世界大戦の影響で、若い息子を失った人たちってのが沢山いたものだから、せめて今はあの世に居る自分の息子の声だけでも聴きたいとか、そういうのがあったんでしょうな。そうそう、シャーロック・ホームズで有名なイギリスのアーサー・コナン・ドイル卿が晩年、心霊現象に血道を上げたのも、第1次世界大戦で死んだ息子と交信したかったからでございます。 で、そういうブームの中、元々は生物学や植物学が専門だった J. B. ライン(とその妻、ルイーザ)は、これら超常現象は科学研究の対象になるんじゃね? という直観に従って、交霊会に参加したりしながら、研究を始めるんですな。 で、そうこうしているうちに、元ハーバード大学の教授で、後にデューク大学に移籍し、超常現象を研究し始めた実験心理学者ウィリアム・マクドゥーガルの招聘によってラインはデューク大学に移籍、ここを根城にして大真面目な超常現象の研究が幕を開けると。 ラインの最初の研究テーマは、ジョン・トーマスなる人物によってもたらされます。彼は妻エセルを亡くした悲しみから逃れられず、何とかして死んだ妻と交信したいと願ったんですな。で、彼はミニー・ソールという霊媒によって妻と交信するのですが、驚くべきことに、トーマス夫妻の間でしか知らないはずの事実を、霊媒ミニー・ソールは次々と言い当てた。もちろん、トーマスは夢中です。で、さらにこの路線で研究して、妻の魂が不滅であることを証明してもらいたいがために、トーマスはラインのもとを訪ねてくる。で、ラインも夢中になってこの問題に取り組むことになる。 だけど、ラインは死後の世界のことには興味がなかったんですな。トーマスとラインは、同床異夢を見ていた。 じゃあラインを夢中にさせたものはなにかと言いますと、ESP、もっと端的に言えば「テレパシー」です。 ちなみに、アメリカの著名な作家、アプトン・シンクレアの奥さんのメアリー・クレイグ・シンクレアってのが千里眼の持ち主で、アプトンもそれをテーマにした『メンタル・ラジオ』なんて本を1930年代に書いたりしている。だから、遠く離れていても、互いに超自然的な交信をして互いの情報を交換することは可能なんじゃないかというのは、この時代、結構マジで信じられていたんですな。 で、トーマスの事例を知ったラインは、これはあの世の存在を証明するものではなく、トーマスの頭の中にあった妻の思い出をトーマスが無意識のうちにテレパシーとして発信してしまい、それを霊媒が受け取って、妻のことをあれこれ言い当てたのであろう、と解釈したわけ。かくして、ラインは以後、テレパシーをはじめとするESPの研究に打ち込んで行きます。 しかしラインは、世間の怪しげな似非科学者とはわけが違う。本格的な科学者として、厳密な実験と、その後の統計処理もバッチリやり、ESPの存在を証明しようと頑張ります。例えば衝立の向こうから、カードの絵柄を当てさせる実験とかね。ちなみに今でも使われることのある「ESPカード」(丸、四角、プラス、星、川の5つの絵柄からなるカード)は、この実験のためにカール・ゼナーという心理学者の助力を得てラインが開発したもの。もっとも、ゼナーは後に、このカードの開発に携わったことを自分の黒歴史と考えていたみたいですが。 で、この「絵柄当て実験」を色々な被験者を使ってやってみたところ、ヒューバート・ピアースという学生が、異様に当てちゃうことがわかった。たとえば連続10回当てるとか、もう統計的には考えられないような確率で、カードの絵柄を当てちゃうわけ。 つまり、この世にはESPを使って透視できる奴がいる、ということが、科学的に証明されちゃったと。 で、このような厳密な科学的実験に基づき、ESPの存在をアメリカ社会に知らしめたのが、1934年にラインがボストンの米国心霊研究協会から出版した著書『超感覚的知覚』だったんですな。これはもう、めちゃくちゃインパクトがあった。かのカール・グスタフ・ユングがラインと文通を始め、「魂が持つ時間と空間に関連する奇妙な性質にとても強い興味を持っている」と言ってきたのもこの頃のこと。 で、なんでこの本がインパクトがあったかと申しますと、1930年代ってのはまだ「ラジオの時代」なわけですよ。アメリカの民衆はラジオに夢中になっていた。目に見えない何かが空中を飛んで、遥か遠くまで声を届けたりするわけでしょ。だったら、やり様によっては、テレパシーを受け取ることもできそうだし、さらには死者と会話することもできそうだ・・・なんてことが考えられていたわけですよ、一般的には。そこへ持ってきて、ラインが厳密科学的にESPの存在を証明したとなったら、あーた、そりゃ、大騒ぎになりますわな。事実、彼が次に学術出版社ファラ&ラインハートから出版した『心理学の新世界』(1937年)は、ブック・オブ・ザ・マンス・クラブの推薦図書にもなっております。 で、これだけ話題になると、賛否両論、色々出てくる。一般読書人からはすごいすごいの大合唱ですが、その一方、学会では大半の人がラインに批判的。しかしラインの実験手法や統計処理手法に隙がないため、批判者の意見もまた大勢にはならないという状況。そんな中、デューク大学の中に、ラインをトップに据えた独自の超心理学研究所まで出来て、ラインはさらに超常現象の科学的解明に邁進することとなる。 またそうなりますと、この研究所に宛ててアメリカ全土から様々な超常現象が報告され出す。第2次世界大戦後の1950年代もまた、超常現象ブームだったんですな。 で、そうした報告の中でも多かったのは「ポルターガイスト」現象ね。これ、今までにも報告はあって、従来はカトリックの坊さんが悪魔祓いをしていた。いわゆるエクソシストですわ。映画『エクソシスト』のモデルとなった事件なんかもラインの元に相談を寄せられたりする。その他、UFO(1947年頃からブームに)だの、超能力で行方不明者を探すだの、生まれ変わり(ブライディ・マーフィー事例が有名、かのカール・セーガンも生まれ変わりがあり得るとのコメントを残している)だの、そういうのが雪崩をうって超心理学研究所に報告されるわけ。 でまた時代は超常現象にさらなる注目をし始めることになります。というのは、第二次世界大戦を経て米ソ冷戦の時代になると、アメリカもソビエト連邦も、これまた大真面目で超常現象を国家プロジェクトとして研究し始めるから。そりゃ、そうでしょう。ESPを使って相手国のミサイルの発射ボタンを無効に出来るんだったら圧倒的に有利だし。あと、テレパシーや千里眼の使い手を養成してスパイにしたら、もう、国家機密なんて筒抜けになるわけだし。 だけど、ライン自身はそういうのは嘘っぽいと思っていて、あまり取り合わないんですな。彼は、実験室で再現実験出来るような分野だけに注力する。その辺が、彼の時流に合うような合わないような、損な性格なんですけれども。 一方、オルダス・ハックスリーによるメスカリン実験(『知覚の扉』1954年)や、1960年代初冬にハーバード大学のティモシー・リアリーやリチャード・アルパート(=ラム・ダス)なんかがLSDを使った精神拡張実験を始めるようになると、ラインもまた一時的ではあったとはいえ、こうした薬物や、あるいはある種のキノコなどが人間の能力拡張を助ける鍵になるのではないかと考えた時期もあったらしい。 で、1978年、アメリカ陸軍は霊能者によるスパイ組織「スターゲイト」を組織し、これは1995年まで続くのですが、しかし、そうこうしている内に、そういった超能力で冷戦を有利に進めるなんてことが、現実問題としては無理っぽいということが分かってしまう。また、量子力学の進展によって、例えばデイヴィッド・ボームが「宇宙のすべてのものはひとつの親密圏(ラポール)であるということかもしれない」と述べるなど、そちら方面からのサポートもあるやに見えた時期もあったものの、実際に超心理学と量子力学の研究者がジョイントで研究する、といったところまではいかず。 で、ライン自身は1965年にデューク大学を定年で退いた後、「ファーナム」というデューク大学内の別の研究組織で研究を続けるのですけれども、それまでラインの研究を支えてきた各種寄付も次第次第に少なくなり、デューク大学も彼らの研究に興味を示さなくなってくる。例えば、自己啓発本界のスター、ナポレオン・ヒルのパトロンで、自らも自己啓発本を書いた保険会社の大物クレメント・ストーンも、ラインに研究資金を長く提供していたようですが、そういう奇特な人も少なくなってくるわけですな。加えてラインと一緒に研究をしてきた研究者仲間もだんだん年老いて、亡くなっていく人も出てくる(1970年アイリーン・ギャレット歿、1979年ゲイザー・プラット歿)。 かくして、ラインの晩年は、やや不遇なものになってしまうわけね。かくして彼は不遇のうちに1980年に84才で亡くなります。 結局、ラインは、その生涯を通じて「人間はその本質のなかに、自己理解に用いることができるどんなツールを有しているのか」ということを真面目に追究し、その尻尾をわずかに掴んだところでこの世を去ったというわけですな。 だけど、彼の研究生活が本当に無駄なものだったのかは、今の所はまだ不明でありまして、ひょっとしたら人間の能力というのは、今考えられている以上のものがあるのかも知れない。ひょっとしたら、テレパシーは実在し、人間の思考が物質に影響を与えることがあるのかも知れない。ひょっとしたら、ラインは心理学界のアインシュタインだったのかも知れない。それは、今後の科学の進展によって、あるいは証明されるのかもしれない。ラインの研究が意味あるものだったかどうかは、今後の科学の発展によって判定されるべきものなのであろう・・・。 本書の内容はざっとそんな感じでございます。 ま、全体として面白くないわけではないのですが、これだけ面白そうな素材がある割に、それをうまく生かし切って面白いストーリーに仕立て上げられてはいないな、という感じも少々。あれかな、主題となっているライン本人があまりにもマジな男だったので、どう扱ってもそこまで面白い話にはならなかったのかな。 でも、ところどころで参考になる記述はあったので、私としては読んでよかったです。おかげで、さらに読むべき本が増えちゃったけどね。ということで、この方面に興味のある方には、一応、おすすめ、と言っておきましょうか。超常現象を科学にした男 J.B.ラインの挑戦 [ ステイシー・ホーン ]
March 25, 2018
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今日は我ら夫婦にとって結婚記念日! 98年に結婚したので・・・20年目か! 早いですのぉ。 例年ですと今日はおめかししてどこかステキなレストランで外食・・・なんですが、今年は狙っていたレストランの予約が取れず、お祝いは明日に順延することに。しかし、何もしないのもアレなので、夕方、二人でテクテク近所のケーキ屋さんまでケーキを買いに出かけました。 で、それはいいんですけど、ケーキ屋さんへの道すがら、とあるパン屋さんが閉店していたことに気付いたという。まあ、頻繁に通っていたわけではありませんが、時々買っておいしかったですし、私の認識では人気店なんだろうなと思っていたわけ。実際、午後遅く行くと、もう商品のパンの大半が売れてしまっていて、買いたいものが残っていない、なんてことも多々ありましたので。 で、家に帰ってから、そのパン屋さんのホームページを覗いて見たのですが、そしたら、そこに悲しい話が載っておりましてね。 今を去ること3年ちょい前、希望に胸脹らませてオープンしたそのお店。ご主人と奥様、そして息子さんの名前を混ぜ込んだ店名にして、張り切って開業したものの、オープン当初はまったく客が入らなかったそうで。 それでもいつかお客さんがついてくれるに違いないと、一生懸命頑張って、その甲斐あってか、少しずつ常連さんも増えてきた。またマスコミに取材された後はどっと客も増え、一時はこれでどうやら軌道に乗ったと確信した時期もあったのだとか。 しかし、昨今の炭水化物ダイエットブームで今、パン業界は全体的に低迷しており、それに追い打ちを掛けるように国産小麦、砂糖、バターの値段が急騰。一部の食パン専門店などで一斤400円以上の商品を売ってそこそこうまくやっているところもあるけれど、オーナー的にはそんな高いパンは庶民のパンじゃないという思いがあって、そういう流行に乗るつもりもなく、そうなるともうとにかく心をこめて美味しいパンを作って、薄利多売で頑張るしかない。 で、オーナーは毎日4時間睡眠で頑張ったと。しかもまともに休めるのは月に一日か二日程度だったとか。 しかし、ついに限界が来た。3年間、必死で足掻いたけれども、もう店を畳む以外ないというところまで来た。で、2月の終わり頃、店じまいをされたということらしい。その最後の数日のブログを見ると、無念さと、常連客に対する感謝で、痛ましいほど。 テレビでは、列をなす客で話題のパン屋さんなどが取り上げられることがしばしばありますが、その一方で、このお店みたいに味もいいし、良心的に頑張っているのに、力尽きて店じまいするところもある。なかなかうまく行かないものですなあ。 それにしても、我が家だってたまにそのお店で買っていたのだから、せめて最後にもう一回、パンを買ってあげればよかった。オレンジ風味のチーズクリームの入ったクリームパンとか、カスタードのコルネとか、私は好きだったのに。 個人経営のお店をやっていた人が、店を畳むとなると、その人はこの先、どういう形で生計を立てていくのか。他のパン屋さんとかに就職するのか。その辺は判りませんけれども、いつか、どういう形でもいいから、もう一度、自分の店を開けるようになったらいいんですけどねえ。
March 24, 2018
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今日は所属大学で卒業式と謝恩会がありました。 時ならぬ雪が降るほどの寒さがあったり、雨が続いたり、天候の点で心配させられましたが、私の日頃の行いがいいせいで今日は快晴。ちょっと風が冷たかったけれども、まずまずの卒業式日和でしたかね。 で、今年も私の最愛のゼミ生たちが5人、巣立っていきました。そして卒業式後の謝恩会も、うちのゼミ生たちが中心になって動いてくれただけに、細かいところまで目の行き届いた、上品ないい会になりました。 一年のうち、この日ばかりは、先生と呼ばれる職業に就いていて良かったと思えるかな。 ゼミ生たちにはよく言い聞かせておきましたが、人と人とがつながる縁ってものは、一旦結ばれたら切っちゃいかんのよ。それは奇跡みたいなものなんだから。だから、卒論指導を介してつながった絆はこの先一生モンだと思わないと。義理が廃れたら、一寸先は闇よ。 明日から、今年度の可愛いゼミ生たちに会えなくなるのかと思うと辛いけど、あの連中もきっと、人生の節目節目でワタクシのもとに帰ってきてくれることでありましょう。その時を楽しみに、今は寂しさをぐっとこらえて、彼・彼女らの明日の活躍を期待することにいたしましょう。
March 24, 2018
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2週間ほど前に出版社に入稿しておいた今年度の紀要が完成し、今日、納入されました~! で、早速、全国の大学への発送を済ませ、所属大学の図書館にも納入、あわせてリポジトリ登録も済ませた次第。これで、二、三週間後にはネット上でも読めるようになることでありましょう。 この紀要は、何せ私が編集から何から担当しているので、その途中経過については誰よりもよく知っているわけですが、そんな私にしてからが、やっぱり印刷・製本された紀要を手にとると、嬉しいんだねえ・・・。 この感覚、分かるかなあ。自分の文章が活字になるということの嬉しさ。これはね、たまらないのよ。 多分、釣好きの人が、何であれ魚を釣り上げた時の嬉しさと同じなんじゃないかと思うんですよね。もう何千回も釣ったんだから、慣れちゃって喜びも薄れるでしょ、と思うのは間違いで、釣り人はやっぱりその都度、嬉しいんだと思う。飽きないのよね。それと同じで、出版ということが好きな人間にとっては、何度やっても、自分の文章が活字として出てくると、その都度嬉しいの。 というわけで、今日は紀要をめぐってパタパタと忙しく立ち働いていたのですけれども、胸のうちのどこかをくすぐられているような、つい頬が緩んでしまうような気分を十分に味わっていたワタクシなのであります。
March 22, 2018
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いやあ、最近、英語の学習辞書に読みふけるのがすっかり面白くなっちゃいまして。もちろん、この場合の辞書というのは、最近の私のお気に入りの『Eゲイト英和辞典』のことなんですが。 この辞書のいいところは、最初に「コア」と称して、その言葉の根源的な意味やイメージを明確に規定しているところ。 例えば昨夜、寝る前に「stand」という動詞の項目を読んでいたのですが、冒頭にこう書いてある:「stand 立っている 立ち上がる動きも表すが基本的には立っている状態を示す」 なるほど! って思いません? つまり、一般に普通の日本人は「stand」という動詞を思い浮べた時に、「立ち上がる」という動作の方が最初にイメージに上ってくるんじゃないかと思うわけよ。だけど、実際にはそうじゃない。立ち上がるという動作に先だって、立っている状態を示すのがこの動詞だと。 だから stand という動詞に対して、人やモノが威風堂々と立って、周囲を睥睨しているようなイメージをこそ、抱くべきだったんですな。 で、そういう、威風堂々屹立して周囲のものを眼下に見下ろしているイメージをしっかりつかんでおけば、例えば次のような英文の意味がより明確に分かるわけだ: The NASDAQ now stands at a record high. (ナスダックは空前の高値をつけている=どうだ、俺より背の高い奴はおらんだろう、と言わんばかりのイメージ) He stood accused of robbery. (彼は強盗の疑いで告訴された=憤然と立ったまま告訴状を聞いているイメージ) The ship was standing northward. (船は北に進路をとっていた=脇目も振らず、北の方を睨んで進んでいるイメージ) My offer still stands. (私の申し出はまだ有効だよ=何事にも揺らがず、屹立していつでも出番を待っているイメージ) 上の例のどれも、とにかく「不動の姿勢でドーンと立っている」イメージを持つと、なぜここで stand という動詞が使われるのか、よく分かりますよね。 英語教師として、今頃、こんなことを言っているようじゃいかんのかも知れませんが、今更ながら、「辞書って、いいこと書いてあるな」としきりに感心しているワタクシなのであります。 それにしても『Eゲイト英和辞典』、いい辞書だったねえ・・・。【中古】 Eゲイト英和辞典 携帯版 /田中茂範,武田修一,川出才紀【編】 【中古】afb
March 21, 2018
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私の書斎の机・・・というか、机の痕跡とでも言った方がいいシロモノですが・・・は、読みかけの本やら、無雑作に置かれた書類などが積み重なってほとんど地が見えないほどになっておりまして、机の役割を果たしておらず、単なる物置になっていたという。 で、昨日・今日と思い切ってこの酷い状態の机をなんとかしようとし始めたのですけれども、こういうのもやり始めると逆に止まらなくなりものでありまして。 で、机の上に覆いかぶさるように暗い影を落としていた4段式の手紙受けから手を付けて、要らない手紙を処分し始めた。手紙には住所が書いてあったり、その他色々ありますから、捨てるにしても全部細かく引き裂かなくてはならないし、結構大変よ。で、その紙屑が大きなゴミ袋一杯分に。どれだけ溜めていたか、判ろうというもの。 それから今度は机の奥にある書棚にしまってあった各種書類に手をつけ、必要のないものをどんどん処分。で、開いたスペースに机の上に置いてあった本を納めたら、机の上がようやくすっきりして、どうにか机らしく見えるようになってきた。 家内には、「この状態がいつまで続くかしら?」と冷やかされましたけど、まあね、またごちゃごちゃになった暁に、意を決して片づけをしましょう。 ところで、様々な書類を整理していると、ビックリするようなことが多々ある。 というのも、自分でも忘れかけていたようなプロジェクトの残骸が出てくるんですわ。 例えば、10年以上前に大学生向けの英語教則本を出版したことがあったのですが、それに気を良くして、それよりももうちょい易しい、一般向けの英語教則本を書いてみようという意図が当時の私にはあったらしく、途中まで書きかけたその原稿が出てきた。読んでみると、それなりによく書けているのですけれども、これも途中で別な仕事が入って忙しくなってしまったのを機にお蔵入りし、その後、今日まですっかり忘れていたんですな。 で、途中で挫折したプロジェクトというのが、これだけじゃなくて、もっと他にも幾つもある。・・・というか、幾つもあったことに自分で気づいたというね。 ホーソンの「痣」という短編で、天才科学者の研究部屋に、これまで失敗した実験の記録が山ほどあって、それを見た妻が仰天し、また感動するというシーンがあるのですが、それになぞらえるのもおこがましいとはいえ、我が書斎も失敗の記録の連続であるなと。 まあ、そういうもんでしょう。 でも、そういうことを思い出しただけでも、書斎や机を整理整頓した意味はあったかな。 とにかく、今、私の部屋は明窓浄机。来たる新学期に向けて、いい感じでございます。
March 21, 2018
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今日は竹の山にあります洒落乙なレストラン、「Farmer's Kitchen the gram」というお店でランチをしてきました。 ここ、前は「イースト・パラダイス」というカフェで、私も出版社との打ち合わせなんかでよく使っていたのですが、突然、閉店になってしまったんですな。立地もよく、それなりに繁盛していたようなので、何で閉店? と不思議に思っていたんですけど、そしたら半年程前に大幅な内装工事を経て「the gram」というレストランになったという。 で、開店した当初からえらい人気で、こりゃ当分、様子見だなと思っていたのですけど、今日、たまたま遅目のランチになったので、この時間ならさすがにすぐ座れるだろうと、このお店に初見参となった次第。 で、2時過ぎの入店となったのですが、その時間でもまだ満席。店自体、相当広いキャパがあるのに満席なんですから、相変らずの繁盛ぶり。しかし、割と早く順番が回って来てあっさりテーブルを確保。 ランチは何種類かあるのですが、ここの仕組みはまずトレイを持ってサラダコーナーに行き、3種類くらいあるサラダの中から一つを選ぶ。そして次、今度は10種類くらいある前菜の中から2種を選ぶ。この2種の前菜の他に、キッシュも一つ付きます。そして次はその日のメニューの中から肉料理か魚料理を1品選びます。私は肉料理でローストビーフを、家内は魚料理でカジキを選択。ここまでのものがワンプレートに盛られます。そして次に3種類くらいの中からスープを選び、もれなくついて来るコーンパンを受け取ったらお会計。その後、飲みものとしてコーヒーなどを選択して、それで肉ランチ1500円、魚ランチ1300円也。 で、この値段にして内容盛りだくさん、ボリューム満点、インスタ映えバッチリ、店内の雰囲気もお洒落となると、これは確かに人気が出るはずだわ。 で、食べてみると、これがね、結構おいしいの。何もかも抜群に旨いとは言いませんが、すべての料理が及第点以上。で、ランチを食べた人は、割安にデザートを食べることも出来て、私たちはケーキを2種選んだのですけど、このケーキも美味しかった。となると、またリピートしもいいかなと。 ちなみにこういう洒落乙系かつ割安なお店ですから店内は若い女性ばっか。近くに淑徳、椙山、愛知学院、名古屋外大など、4つも大学がありますから、その辺の学生さんも多いのかな。ま、さすがに私の所属する大学とは距離があるので、ここでうちの学生に出くわすことはないだろうけれども。 というわけで、今日はちょっとのんびりした午後を過していた私なのであります。
March 19, 2018
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今日はほぼ一日、本を読んで過ごしていたのですけど、2冊読了して、そのうちの1冊がタナハシ・コーツの『世界と僕のあいだに』で、もう1冊がテリー伊藤と清水草一の共著になる『爆笑 中古車がみるみる欲しくなる!』だったという。まず、この取り合わせが、我ながらスゴイ。 まずタナハシの方から片付けようか。 タナハシ・コーツっていうのだから、ひょっとして「棚橋コーツ」っていう日系人かと思うでしょ? 思わないか? でも全然違くて、1975年生れのバリバリのアメリカ黒人さん。『世界と僕のあいだに』は、2015年度の全米図書賞(ノンフィクション)を受賞した大ベストセラーでございます。 で、この本は昨年翻訳もされて、読書家の間では評判になり、私も買うだけは買ってあったの。前にこのブログでもちらっと書きましたが、これは父親から息子への書簡形式の本なので、その筋の自己啓発本の流れの中に位置づけられるかなと思ったもので。 で、買ったまま放ってあったのですけれども、なんでそれを急に読みだしたかと言いますと、今、書評を頼まれている本が、やっぱりアメリカ黒人の書いた小説なもので、それを読む助走というか、準備として、久しぶりにアメリカ黒人ナラティヴに慣れておこうかなと思ったから。 ちなみに、アメリカ文学をやる人って大概そうですけど、キャリアのどこかの時点で、黒人文学に夢中になるもんなんですわ。で、私もその例に洩れず、大学院くらいの時に、リチャード・ライト、ラルフ・エリスン、ジェームズ・ボールドウィンという「黒人文学三種の神器」を熱心に読みつつ、黒人問題についてあれこれ調べては憤慨したものでございます。この地球上で、それもさほど遠くない過去に、白いアメリカは黒人の同胞に対してこれほどの仕打ちをしたのかっっっ!と。 だけど、これやると疲れるの。とっても。そりゃそうだよね! アメリカに住んでもいない、しかも決定的なことに、黒人でもない日本人のワタクシが、アメリカに腹を立てたとしても、そりゃあ、他所ん家のもめごとに赤の他人が口を出すようなもんだからね。アメリカとアメリカ黒人の双方から、「お前の出る幕じゃねえ!」って言われるような気がするし。 そう。だからね、ワタクシは止めました。この方面。だから、本当に久しぶりですよ、この種の黒人エッセイ読むの。 で、その世評の高い『世界と僕のあいだに』を読んだわけですけれども、まあ、驚きましたね。何に驚くかというと、ワタクシがこの方面から目をそむけた30年ほどの間、アメリカは何も変わっていないんだということに。今でもアメリカでは、黒人たちが意味もなく官憲によってバンバン殺され、殺された側は泣き寝入り、殺した側の官憲はなんのおとがめもなく平然と大通りを歩いていると。ま、その辺のことは、最近のマイケル・ブラウン事件、フレディ・グレイ事件などの報道もあって、まったく知らなかったわけではないけれど。 で、メリーランド州ボルティモアで子供時代を過ごしたタナハシも、幼少の頃からこのアメリカ社会の構図の中で息を詰めるようにして暮して来たわけですな。 白人・・・と言っても人種的な白人という意味ではなく、「黒人ではない者」としてアメリカ社会の中に生み出されたカテゴリーの人間という意味ですが・・・からの重圧に怯える黒人たちは、その重圧をはねのけるため、自分たちが暮らす黒人街の中では、ストリート・ギャングとなり、突っ張って生きていかなければならないと。せめて黒人社会の中で力を誇示するため、銃を持ち、徒党を組み、という形で。だから、黒人街の中で黒人が生きるというのも、けっこうしんどいわけですよ。ちょっとした仲間内の喧嘩から、銃で撃たれたりするのだから。 で、そういう息づまるような暮らしを耐えたタナハシは、長じてアメリカの名門黒人大学であるハワード大学へ進学する。 ハワード大学のキャンパスで、タナハシはようやく一息つきます。そこは全国から、あるいは世界から黒人のエリートが集まるところですから、文化的だし、同胞意識も強い。で、そこでタナハシは猛烈に勉強し、黒人としての誇りを身に付ける。しかし、アカデミックな勉強を続けて行くと、「黒人は一方的な被害者だ」という幻想も、実は正しくないことが分かってくる。アフリカでとある黒人部族が他部族の者を奴隷として使っていた史実、あるいはアメリカの奴隷商人に黒人を売った連中が、やはり黒人であったことなども分かってくるわけですよ。だけど、アカデミックな教育プログラムの中に組み込まれたそういう反証的なものを鵜呑みにしたからと言って、現実が変わるわけでもない。 で、アメリカで、自分と世界を隔てている壁、それはタナハシの言葉によれば、白人社会が長い時間をかけて築き上げてきた「ドリーム」というものなのだろうけれども、その壁の実態を把握し、その現状を知った上で、自分はどう生きていけいけばいいのかを突き詰めていくためには、ハワード大学のキャンパスに安住していたんじゃだめだと気付いた彼は、大学を中退し、NYでライターとして生きて行くことを決意する。その過程で彼は結婚し、今は14才のサモリという息子もいるのですが、そうなってくると彼の探求はもはや自分の為だけでなく、次世代を担うサモリの為でもある。そこで彼は息子に対して自分の経験を語り、アメリカの現実を語り、息子に自分の到達した地点を示して、彼にはそこから出発してもらいたいと願う・・・これがこの本の内容でございます。 で、それによれば、アメリカは人種的にではなく、文化的に白人と黒人の間に一線を引き、白人には自由と豊かさというドリームを見せつつ、一方、黒人を虐げることで、たとえドリームが達成できなくとも、最低の白人でも、黒人よりはマシだからな、というセーフティー・ネットを作り上げてきたと。だからこの仕組みは、アメリカの夢を維持するためにどうしても必要なものであって、だからかつてキング牧師が夢見たように、白人の子供と黒人の子供が手に手をとって・・・なんて未来が来るはずがないんですな。それが現実であり、その現実の中で黒人たちは、自分自身のかけがえのない身体すら守れない状況にある。 だから、戦うしかない、用心して戦え、というのがタナハシの結論であり、息子サモリへのメッセージなわけ。 それは、かつてボールドウィンが喝破した「アメリカには黒人問題なんてない。白人問題があるだけだ」ということも思い起こさせるし、マルコムXのことも想起させる。事情は1ミリも進んでなかったと。 もう・・・読むだけで疲れるわ~。 こういう本って、どう扱っていいか判らないですよね。アメリカじゃあ評判で、タナハシは多額の奨学金みたいなものまでもらったといいますが、この本の扱いって、そうあるべきものなの? 「絶望の狭間で戦え」って言っている本に対して「はい、よく書けました。お金あげるね!」でいいの? 肩バンバンでいいの? もっとも、「それじゃよくない」と言ったところで、アメリカはそういう仕組みで出来ているって、タナハシ自身が言っているわけだから、この先もアメリカが変わるはずもなし。未来永劫変わらないとは言えないけれど。 だから、どうしようもないんだよね・・・。もう、日本人のワタクシとしては、「ま、そっちでどうにかして」って言う他ないじゃん、そうなってくると。無責任なようだけど、ワタクシにはアメリカの責任までとれないもん。 とにかく、疲れる本でした。世界と僕のあいだに [ タナハシ・コーツ ] さて、もう1冊読んだ『爆笑 中古車がみるみる欲しくなる!』ですけど、これはまたこれでスゴイ本でありまして。テリー伊藤さんと清水草一さんが中古車の魅力を対談した本なんですけど、こんな感じ:司会:さて、話を戻しますが・・・。絶版スポーツでぜひ欲しいクルマはぁ!?テリー:絶版スポーツといえば!! オレが買いたいのはパジェロ・エボ!!清水:あれはスポーツですか!!テリー:そうですよ。あれはスポーツですよ!!!!清水:いやぁぁぁぁぁ・・・・。そうですか。そういや今日、骨董屋の「アンティーク山本」にパジェロ・エボが停まっててですね、忘れてたんですけど、よ~く見るとリアウィングがテールフィンなんですね!! あれは。テリー:そうですよ!!清水:いやぁぁぁぁ~~。あれ、どういう考えで付けたんですかね?テリー:あれはアートですよ!!清水:あれはアートですか?! 確かに突き抜けてますけどね。あの時代錯誤。テリー:いやいや、何言ってんですか!!!! 時代がまだ追いついてきてないだけですよ!! こんなのが延々続くんです。 私にとっては、この時点で既に超面白いんですけど、一般人のためにもう少し弁護しますと、こんな調子でありながら、時折、なかなかの卓見が飛び出すところも本書の魅力。たとえば・・・:司会:テリーさんはファントム(注:ロールスロイスのこと)との距離感近くないですか?テリー:近くないよぉぉぉ!! でもホントのこと言って、自動車評論家はファントムに乗らないとダメだね。このクルマに乗る稼ぎがないとダメだ。自分の稼ぎでこのクルマに乗る。それは芸能人でもスポーツ選手でもそうなんだけど、ファントムを買うくらいの存在にならなきゃ。普通のクルマは300万円とか400万円じゃない。それでも人生の中で家の次に高いものでしょ? それを買うことって実は大変なことじゃない。なのに、ファントムを持ってないと、自動車評論家に憧れなんて抱けないよ!! 理想としては、試乗会にファントムで乗りつけて、ムーヴ(注:軽自動車)に乗って帰っていく。そしてそのムーヴの評論が的確ならそれこそプロだと思うんだよ。試乗会にムーヴできて、ムーヴに乗って帰って、”オレはムーヴのことはよくわかってんだぁ!!”って言っても、そりゃあ素人と同じだよ! だって、それならさ、素人でもできるじゃない!」 いやあ、さすがテリー伊藤、言っていることが核心を突いております。 とまあ、そんなところもありーの、ご陽気な本なわけですよ。 で、思うのだけど、タナハシ・コーツの本とテリー伊藤&清水草一の本を同日に読める。これが今、ワタクシが生きている日本だなと。このたまらないシュールさはどうよ。 しかも、この2冊のうち、どちらが自分により近いかというと、正直、『爆笑』の方なんだよね。これはもう、仕方がない。逆に「いや、私にとっては『世界』の方が近い」という日本人が居たら、ワタクシはその人の正直さを疑ってしまう。ホントかよ、と。 だからどう、ってこともないんですけど、そんなことをふと思った次第なのでございます。
March 18, 2018
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いつの間にやら、家の周辺に巨大モールが林立する事態になってしまった我が家。こと日常の買い物にかけては、何一つ不自由のない恵まれた状況でございます。 で、そうなりますと、逆に、じゃあ、どこで買い物をするのがベターなのか、という選択肢が出てくるわけでありまして。 ちなみに、我が家の選択肢は4つ。すなわち、「イオン系」で買い物をするか、「アピタ・ピアゴ系」で買い物をするか、「セブン・イトーヨーカドー系」で買い物をするか、はたまた「西友系」で買い物をするか、の4択。それぞれのスーパーにプライベート・ブランドがあり、取扱い商品にも傾向がある。「この商品はこっちのスーパーでは売っているが、こっちのスーパーでは売ってない」的なことがしばしばあるわけですよ。 で、それだけ恵まれた選択肢を順繰りに回って、しばし考えてみた。我が家にとって、「つまるところ、このスーパーが一番いいんじゃね」印を押せるのは、一体どこなのかと。 結論はどこになったと思います? これがね、意外や意外、「西友系」なんですな。 例えば「紅茶」を考えてみましょう。 紅茶好きの我が家では、専門店のルピシアからフレーバー・ティーを何種も取り寄せて愛飲しているのですが、忙しい朝は出来合いのティーバッグで済ませることが多いんですな。だけど、ティーバッグの紅茶っていうのは、なかなか美味しいのがない。リプトンや日東紅茶、あるいはそれぞれのスーパーのプライベート・ブランドのティーバッグをよく買うのですけれども、どれもみんな不味くてね。トワイニングのはそこそこ美味しいけれど、値段もそこそこするので、毎朝無雑作に淹れるのに使うには少々もったいない。 そんな時、西友で発見したのがコレ。 ↓国太楼 セイロン紅茶三角ティーバック 25P 「国太楼」なる、聞ーたことないブランドのティーバッグで、西友以外のスーパーでは見かけない(少なくとも我が家の近くでは)のですが、これがね、実に旨いんだ。まさしく紅茶らしい味がする。値段も25個入りで270円くらいだからね、まあ、かなり経済的。これに変えてから、毎朝、紅茶を飲むのが楽しみになっちゃって。 で、紅茶に限らず、結構、そういうのがあるのよ。西友にしか売っていない商品で、我が家の嗜好にぴったりというのが。 というわけで、我が家的には、一番楽しいスーパーは西友だ、という結論に至っているのですけど、どうなんでしょう。やっぱり、それぞれの家には、それぞれ贔屓のスーパーがあるんでしょうかね?
March 17, 2018
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『アナ雪』のエルサが警察車両を助けたって話、御存知? これ、ウケるわ~。 ↓エルサはやっぱり雪の女王だった さてさて、我が家のダイニングの椅子の座面の合皮の部分が大分ダメになってきたので、今日は椅子を買いに行って来ました。 とは言え、椅子と言っても色々ありますからね。イケアとかも含め、このところ思いつく度に家具屋さんを回って、椅子探しをしていたのですけど、どれを見ても「絶対これしかないっ!」というほど気に入るものがなく・・・。 でも、あまりいつまで引き延ばしていてもアレかなと思い、今まで見た中では一番良かったのをもう一度見に行き、結局それに決めてしまいました。ま、決めてみれば、結構、気に入ってきたかな。合皮にちょっと懲りたので、今回は布地のものにして、デザイン的には北欧テイストのモダンなヤーツー。お値段的には予算の2~3倍になっちゃったけど、まあ、何年も使うものだからね。 ところで、家具屋さんに行く前に、今日はランチを外食することにしまして。我らが向かった先はくら寿司でございます。 うちの近くにはスシローがあって、たまに食べに行くのですけれども、くら寿司って今まで行ったことがなかったんですよね。でも、今、すごい人気だっていうし、最近ではハンバーグのような洋食メニューまであって、色々工夫があるらしいじゃないですか。だったら、一度、行ってみようということになった次第。 で、実際、色々食べてみました。噂の「竹姫寿司」とか、「糖質オフ・ラーメン」とか。各種寿司ももちろん。ま、おいしいですよ。 だーけーどー。 スシローと比べてこっちの方が断然おいしいかっていうと、うーん、そうでもないんじゃね? スシローのラーメンも食べたことありますけど、ワタクシ的にはスシローの麺モノの方が好きかな。 ということで、わざわざ遠くまでくら寿司を食べに行く、っていうほどではなかったかな。回転寿司だったら、家の近くのスシローで十分と見た。 とはいえ、くら寿司って、5皿食べる毎にガチャポン的なゲームが出来るようになっているじゃん? あれで、一個、『コナン』とコラボしたチャーム当てちゃったんですけど、それは嬉しかったぜ! でも50半ばのおっさんが、コナンのチャーム、何に使えばいいの?
March 16, 2018
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今日は年度最後の教授会で、教授会終了後、この3月末をもって定年を迎える退任教授の先生方を送るためのセレモニーがあったのですが、これがまた寂しいものでね。 昔は・・・って、私が赴任した頃は、という意味ですが、その頃のこのセレモニーは、結構、ハート・ウォーミングなもので、盛大なもんだったんですよ。 ところが、ここ数年はもう見る影もない。 大体、教授会が終わった途端、半分くらいの先生方が帰っちゃうんだよね。昔はほぼ全員がその場に残ったのに。だから、送る側もスカスカですわ。 でまた、そんな調子だから、送られる側の先生方も、先手を打って、セレモニーに参加しないという選択をする。今年も15人の先生が辞めるというのに、セレモニーに参加したのはたった5人だよ。 送る側も送られる側も、すっかり白けちゃって、セレモニー自体が形骸化しとりますな・・・。 私は、ほれ、根がマフィアだからね。縁とか恩とか、そういうのは重視するわけよ。だから、たとえあまり関係のなかった先生であっても、ずっと同じ大学に勤めていた先輩を送るとなれば、リスペクトはするわけ。だけど、私よりよほど年下の先生方が、何のためらいもなくセレモニーに参加しないで帰ってしまうのを見ると、寂しいなあと思うわけね。 あんたらだって、いつか送られる側になるんだよ、その時、後輩がどんどん帰ってしまったら、寂しいと思わない? ま、今、うちの大学、全体的に求心力ないからね。一体感のかけらもない。だから、こういう風になっちゃうのも仕方ないんだけど。 それでも、私のような昔気質の人間からすると、寂しい気がしますね・・・。
March 15, 2018
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イェーイ! 某新聞社から、書評依頼があったぜ! 先日、このブログにも書きましたが、今、私は「軒下の仁義」の名シーンにはまっておりまして、「手前、昨今の駆け出し者でございます」という名セリフをいつかどこかで使ってやろうと思っていたんですけど、早速、その機会がやってきた。 だもので、新聞社文化部のご依頼者様には「手前、昨今の駆け出し者ですが、ご依頼、ありがたくお引き受けします」って速攻で返信しちゃった! ちなみに、この新聞社からの依頼は2回目なんですが、センスいいよね、ワタクシを使おうとするなんて。 逆に、ワタクシを使わないという意味が分からないよ。 だってさ、基本的に書評依頼は断らないし、締切・字数ともに完璧に守る。それに何よりも文章超うまい(爆!)。昨今の売文業界の中で、これほどコスパのいい人材いないよ、はっきり言って。 売文業界の中で! これほどコスパのいい人材! いないよ! はっきり言って!! 二回、言っちゃった。もう一回、言おうか? もういいか・・・。 というわけで「売文業界の拝一刀」こと拙者釈迦楽、冥府魔道を歩みつつ、子貸し腕貸し仕る。子は貸せないけどね。
March 14, 2018
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先日から少しずつ読んでいた片岡義男氏の『英語で言うとはこういうこと』を読み終わりました。ので、ちょっと心覚えをつけておきましょう。 これ、各ページの上端に一つ、日本語のちょっとした文が「課題」として掲げられ、そのページの一番下に、その課題の英語訳が書いてある。で、その上端の日本文と下端の英文にサンドイッチされるような形で、日本文が英文に変換されるまでにどのような思考を経たのか、その思考の道筋みたいなものが書いてあるわけ。で、各ページに1例、本全体で200例掲げられた和文英訳の思考過程を熟読すれば、「英語で言うとは、こういうことでしょ」というのが読者にも分かるはずだと。まあ、それがこの本のキモでございます。 で、レベルから言うとですね、中級から上級の感じですね。英語の文法だとか、英単語とか、ある程度よく分かっているのだけど、いざ英語でしゃべろうとするとなかなか口をついて英文が出てこない、というような人にうってつけっていう感じ。でもそのレベルの日本人って沢山居ると思うので、この本を面白いと思う人も沢山居ると思います。 じゃあ、私がどうやってこの本を読んでいたかと申しますと、各ページ冒頭に掲げられた日本文を、「自分だったらどういう風に英文に訳すかな?」と思い、まず最初に自分なりの英文をつくるわけ。で、その後で片岡さんの解説を読み、最後に「解答」を見て、最初に自分が考えた英文とどのくらい違うかをチェックし、もしかなり近かったら「わーい」と喜び、全然違ったとしたら、片岡さんの解説をもう一度じっくり読み直して、「英語で言うとは、こういうこと」というのを理解しようと務める・・・ま、そんな感じで読んで行ったわけ。 でもね、自分の考えた英文と解答の英文が全然違い、ぎゃふんと言わされることも多々ありまして。 例えば「列車を一度乗り換えて、あとはタクシーかバス。乗り継ぎがうまくいけば四時間ほど」という課題。電車を乗り換えるのだから「change trains」だろ、それから・・・なんて考えたわけですけど、片岡さんの「解答」を見たらビックリよ。 どんな解答だったかと言いますと、「Two trains, a taxi or a bus will get you there, about a four hour trip if the connections are good.」というの。「Two trains」というシンプルな名詞に「電車を乗り換える」という動詞的表現を担わせるなんて、思いつきもしませんでした。 あと、こんなのどう? 「彼は反論しなかった」という日本文。これを「英語らしい英語」にするとすると、どんな感じになると思います。片岡さんの「解答」は、こんな感じ:「He didn't have any argument about it.」なるほどね、って思うでしょ? で、この日本文→英文変換についての片岡さんの解説がまたいいのよ。以下、引用しましょう: 「反論」という便利な一語に該当するひとつの単語を、英語のなかに探そうとするのは、やめたほうがいい。英語の勉強として、それは方向が間違っている、と僕は思うからだ。仮になんとかひとつ見つかったとして、次は「しなかった」に該当する英語の言いかたを、探してしまうことになる。日本語から英語への、横滑り直訳の練習をするだけに終わる。 ではどのような方向が正しいのかというと、argue あるいはその名詞形である argument という言葉の使いかたを、数多く接する具体例のなかで、ひとつずつ知っていくことだろう。 argument には、意見の衝突、言い争い、論争、といった意味もある。without argument と言えば、異議なしという意味だと、辞書に出ている。この argument を使って文例のように言えば、彼からの反論はなかった、という意味の定型的な言いかたになる。(121ページ) ま、そうだよね。納得。 あと、こういうのもありましたよ。課題は「不幸があった」で、解答は「There was a death in the family.」だったんですが、その解説が素晴らしかった: 「不幸」と日本語では言い習わしているけれど、現実にあった出来事は、誰かひとりの人の死だ。だから英語では a death と言ってしまう。ひとつの死、つまり、ひとりの人の死、という意味だ。 誰それのところで、つまり誰それの家でひとりの人の死があったのだから、 There was a death in the family. と言えば、それは英語の言いかただ。 There is a book on the table. という文例が、中学校の英語の教科書にあったのを、いまでも僕は憶えている。ほとんど意味のないこういう文例よりも、彼のところに不幸があった、There was a death in the family. という文例のほうが、より強い実感をともなって記憶されるのではないか。 死、という意味の名詞に不定冠詞の a をつけると、この課題文で言うところの「不幸」を、言いあらわすことが出来る。(156ページ) 特に後半の部分、日本の英語教育界は片岡さんの御指摘を拳拳服膺すべきなんじゃないのかい? 片岡義男と言えば、私にとってはアメリカのカウンターカルチャーを軽やかに語った『10セントの意識革命』の著者だし、『ロンサム・カウボーイ』『スローなブギにしてくれ』といった数々の小説で片岡さんのことを覚えている人も多いことでしょう。私の師匠・大橋吉之輔先生は、日系三世として生れ、広島の原爆を目撃し、さらにハワイで育った片岡義男氏が、まだ「テディ片岡」と名乗っていた頃のことを覚えていて、結構高く評価していましたっけ。 とにかく、そういうバックグラウンドを持ち、日本語と英語を深く識った人から英語を習うのって、ちょっといいと思わない? 少なくとも、どこの馬の骨か判らないような、予備校の英語講師上がりといった著者の英語教則本読むより・・・なんて、ちょっと言い過ぎか。 ところで、この本の154ページ、「ふたりはまったく対照的」という課題に対し、「They are a vivid study in contrasts.」という解答が付けられていて、なるほど「study」という言葉を「典型」みたいな意味で使うんだな、と思った途端、その次のページに片岡さんが「study という言葉は、スタディしておくといい。なんとなく知っているのは、勉強という意味だけ、という状態の人が圧倒的に多いはずだ。(中略) 辞書を開き、名詞としての study の意味を初めから検討していくと、a という不定冠詞をつけて a study とすると、研究対象、研究の価値あるもの、見もの、といった意味があげてあるのに遭遇する。a vivid study in contrasts という使いかたは、study をこのような意味で用いた例だ。」と書いてあるのを読み、うーむ、やっぱり辞書というのは、しっかり読まなくちゃいかんなと思いまして。 で、これ以後、ちょっと気になる単語・・・それは難しい単語という意味ではなく、ごくごく簡単で日常的によく使われる単語、という意味ですが・・・に出くわす度に、学習用辞書でその言葉を引き、その解説と例文を全部読むようにしたんですわ。するとね、やっぱり勉強になるんだな、これが。 で、その際に使ったのは、『E-Gate英和辞典』ね。これ、こういう風にして読むとなると、すごくためになることが書いてあるのよ。あらためていい辞書だなと思いました。既に絶版ですが、古本で買っておいても損はありません。逆に、こういう風に使うとなると、電子辞書って、まるで使い物にならないね。【中古】 Eゲイト英和辞典 /田中茂範(編者),武田修一(編者),川出才紀(編者) 【中古】afb ま、そんな感じで、片岡さんのこの本を読んだおかげで、色々と勉強になりました。この本、既に絶版かも知れませんが、ネットではまだゲットできると思いますので、興味のある方は是非! 【中古】 英語で言うとはこういうこと 角川oneテーマ21/片岡義男(著者) 【中古】afb10セントの意識革命改版 [ 片岡義男 ]日本語と英語 その違いを楽しむ (NHK出版新書) [ 片岡義男 ]【新品】【本】英語で日本語を考える 単語篇 新装版 片岡義男/著
March 13, 2018
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「軒下の仁義」ってご存知?これこれ! ↓「軒下の仁義」 『昭和残侠伝』の一シーンなんですけど、この池部良の格好いい事ってどうよ。しびれるわ~。 893映画も、この頃が良かったねえ・・・。 それにしても「稼業、昨今の駆け出し者でございます」って、いいなあ。「昨今の駆け出し者」かぁ・・・。 今度自己紹介する必要が生じた時、この言い回し使おうっと。 あ、あと「手前、粗忽者ゆえ、仁義前後間違えましたる節はまっぴらご容赦願います」とか、「手前、生国は大日本帝国日光筑波関東は吹き下ろし、野州は宇都宮でござんす」なんてのもいいねえ。 それから、仁義を切る間、まったく目瞬きしないのもいい。そういうもんなんでしょうな。 今日は入試業務やら何やら色々あってすっかり疲れてしまったのですけど、ぼんやり、こんな仁義を見ながら、元気を出そうと務めているワタクシなのであります。
March 13, 2018
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アメリカ文学史の期末試験を採点していたら、一つ、面白い答案がありました。 アメリカの小説をなんか一つ読み、感想を書け、という問に対する答案だったのですが、当該の学生はJ・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を読んだというのですな。 しかし、もともと小説を読み慣れていなかったので、例えばこの短篇集の冒頭に来る「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んでも、最初、何が何だかよく分からなかったと。 まあ、それは分かるような気がする。あれは、よく分からないよね。 しかしこの学生、ここからアニヲタ・パワーを使い始めるんですな。つまり、サリンジャーの作品を自らの脳内でアニメ化してみたと。 で、「バナナフィッシュ」の主人公、シーモア・グラースは、少女と遊んでくれるほどの優しさを備えつつ、狂気に近い賢さを持ったオーラ全開のイケメン・キャラに仕立て、それにふさわしい声優もあてがってみたと。すると・・・ ・・・萌えたと。 これで勢いがついたこの学生、「バナナフィッシュ」の少女シビルは黄色い水着が似合う正統派で、ロリ・ショタにはたまらない魅力を持っているし、『コネチカットのひょこひょこおじさん』のラモーナは眼鏡をかけた不思議ちゃん、『笑い男』の少年はやんちゃ系、『小舟のほとりで』のライオネルは大人しくナイーブな美ショタ・・・ってな具合にどんどん役を当てはめては、その魅力を理解していったらしいんですな。 で、なかでもとりわけ萌えたのは、『エズメのために』の姉・弟コンビ。賢くクールなお嬢様と幼くひょうきんな弟となると、アニヲタから見れば「要素盛り盛りで凄すぎる」のだそうで。で、これほどあらゆるタイプのロリショタを描けるサリンジャーは天才以外の何ものでもなく、「私は負けた」と。 かくして『ナインストーリーズ』を堪能したこの学生、しまいには「この際、『ライ麦畑でつかまえて』をアニメ化してはどうか」と逆提案。 なるほど! サリンジャーはアニメ化に耐えるものだったのね・・・。 というわけで、サリンジャーをアニヲタ目線で読むという斬新なアプローチを披露され、いささか圧倒されつつ、妙に納得してしまったワタクシなのであります。もちろん、この学生には、いい点出しときましたけどね。 ナイン・ストーリーズ33刷改版 (新潮文庫) [ ジェローム・デーヴィド・サリンジャー ]
March 11, 2018
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今年のアカデミー賞で作品賞を受賞した『シェイプ・オブ・ウォーター』を観てきました~。以下、ネタバレ注意ということで。 時代設定は1962年、米ソ冷戦時代のお話。冷戦時代ですから、アメリカとソビエトが互いに科学技術で競いあっていたわけですが、そんな中、アマゾンで発見された半魚人がアメリカ政府の極秘研究施設に連れて来られ、その生態の研究が行われることになるんですな。 で、たまたまその施設で掃除婦をしていたイライザは、偶然、この半魚人を目撃してしまう。 で、半魚人は、いかにも半魚人っぽい、不気味な姿かたちをしているわけですけれども、どういうわけか、イライザはこの半魚人に惹かれてしまいます。 というのは、イライザ自身、耳は聞こえるけれどもしゃべれない、そういう障害を持っていたゆえか、引っ込み思案で適齢期を過ぎても独り身の境遇。辛うじて友達と言えるのは、アパートの隣りに住むこれまた孤独な年老いたゲイの画家と、職場の同僚の黒人女性ゼルダのみ。そんな孤独なイライザには、アマゾンから強制的に連れて来られ、実験材料にされようとしている半魚人が、他人のようには思えなかった、ということなのでしょう。 以来、イライザは隙をついて半魚人と密会するようになるのですが、そうなると半魚人も段々慣れてきて、手話も介しながら、意思疎通ができるようになってくる。そうやって、少しずつ他人から友達になっていく中で、二人の密会は「デート」のようになってくるわけ。 しかし、この研究施設の責任者のストリックランドというのが冷酷で支配的な悪い奴で、こいつが手柄を立てたいがために、この半魚人の解剖を計画し出すんです。 それを知ったイライザは、半魚人を救おうとするのですが、それに手を貸してくれたのが、研究所のホフステトラ―博士。博士は、実はソビエトのスパイなんですが、科学者としての矜持もあって、半魚人を殺すことには大反対。プラス、アメリカ側が半魚人を解剖することで、その生態解明に成功するくらいだったら、それを阻止する方がいい、ということもあって、博士はイライザをサポートして半魚人を逃がすことに手を貸してくれることになる。 かくして、イライザは研究所から半魚人を連れ出し、自宅アパートに匿うことに成功する。もちろん、そうなれば二人の仲は一層進むことになり、イライザの愛の生活が始まるのですが、しかし、イライザもこの生活がいつまでも続くと思っているわけではなかったんですな。いつかは彼を海に返す日が来る。それはイライザにとっては辛いことですが、しかし、半魚人にとってはそれが一番だということも分かっている。イライザは、彼を海に逃すのに一番いい、雨の季節の到来を待ちます。 が、無論、悪漢ストリックランドが黙っているはずもなし、ついに半魚人の居場所を突き止め、半魚人奪還にやってくる。果たしてイライザは、ストリックランドの魔の手を逃れ、半魚人を逃がすことが出来るのか?! ・・・みたいなお話。 まあね、大人版の『E.T.』ですよ。 で、この映画に対する私の評点は・・・・ 「47点」です! 観る価値なし! 残念!! いやあ。アカデミー作品賞受賞作ですからねえ。期待していたのですが、そんなものではなかったですなあ。 大体、『シェイプ・オブ・ウォーター』というのだから、もっと曖昧な「水の精」みたいなのかと思っていたのよ。そしたら、完全な着ぐるみの半魚人じゃん。鰓付きの。笑っちゃうよ。それに、いい者と悪者がハッキリ色分けされていて、ストーリーに深みもないし。大体、政府の極秘研究施設だって言っているのに、そこの掃除のお姉さんが半魚人と毎日ランチを一緒に食べられるって、どういう警備システムになっているんだって。ソビエトもソビエトだ。アメリカがアマゾンで半魚人発見できたのなら、自分たちもさっさとアマゾンに行って、半魚人釣って来いって。一匹しか居ないってことはないだろうに。 というわけで、私にしたら、笑ってしまう半魚人映画。同じ半魚人映画だったら、私は『ビッグ・フィッシュ』の方を100万倍、高く評価するな。ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション [ ユアン・マクレガー ] まあ、今年度のアカデミー賞の選考委員は、歴史に汚点を残したね。もっとも、これが最初の汚点ではないし、最後の汚点でもないだろうけれども。 ところで、この映画の中で、私が興味を惹かれたシーンが一つありまして。それは悪漢ストリックランドが、仕事中に本を読んでいるシーンなんですが。 悪漢が何を読んでいたかと言いますと、『The Power of Positive Thinking』という本で、ノーマン・ヴィンセント・ピールが書いた自己啓発本のベストセラーなんです。まあ、自己啓発本の研究者としては、当然、そこに目が行くわけで。【新訳】積極的考え方の力 成功と幸福を手にする17の原則 [ ノーマン・ヴィンセント・ピール ] ではなぜ、この冷酷で人種差別的で女性差別的な最低の男がこの本を読んでいたのか。 実は、この本、トランプ大統領の最大の愛読書としても有名なんです。 だから、トランプさんに批判的なハリウッドが、ストリックランドにこの本を読ませた意味が分かるでしょ? トランプも、ストリックランドと同様、人種差別的で女性差別的、支配欲満々の最低な奴だと。そう言いたいわけだ。 これは批判というより、皮肉だよね。しかも、皮肉にしてはあまりにも明白過ぎてレベルが低い。折口信夫が言っているじゃないですか。皮肉というものは、それが向けられた人を怒らせるだけだし、それを発した人の人格のレベルも晒すことになるから、言わない方がいいと。 っていうか、デル・トロ監督の自己啓発本に対する認識のレベルがそもそも低いな。自己啓発本というものを、ストリックランドのような最低な人間が手にするものだと思っているわけじゃん? 実に愚かしい。物事を表面的にしか見てないってことですよ。 デル・トロよ。言っておくけど、個々の自己啓発本の内容がアホみたいだからと言って、自己啓発思想自体がアホだということにはならないのだよ。そもそも人間に自己啓発思想がなかったら、あんた自身も半魚人と同様の生活をアマゾンでしてたかもしれないんだぜ。 ということで、この映画、ワタクシ的にはまったくおすすめできない作品なのでした。 もっとも、私の意見というのは、大抵、世間のそれとは真逆になりますので、私が駄作という以上、世間的にはとってもいい作品だということになりますね! さ、映画館へ急いで急いで!
March 10, 2018
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今日、寝覚めにふと思ったのだけど、この間死んだル・グインの『闇の左手』っていいタイトルだなと。私はSFが苦手なので、この有名な小説を読んだことがないのだけれども、タイトルだけは知っている。いいタイトルだと思います。 つまりね、本来、「闇」というものに「手」はないのよ。だけど、ないものを、あたかもあるように言われると、なんだかゾッとするじゃない? ましてや、この場合、ただの「手」じゃなくて、「左手」だからね。闇に手がある、って言われた時点でこっちは相当ビビっているのに、そこに追い討ちをかけて、「それも左手だかんな」って言われたらもう、失禁ものだよ。 で、考えたのだけど、ハインラインの『夏の扉』もそうだよね。 「夏」に「暑さ」はあるだろうし、「陽炎」とか「青空」とか「驟雨」とかならありそうだけど、「扉」はないでしょ。だけど、「夏の扉」と言われると、もしある夏、自分の前にパカっと扉が開いて、そこにふらふらっと入ってしまったら、一体どういうことになるんだろう? という不気味さがじわじわと迫ってくる。 だから、あるモノに、そのモノが本来持っていないはずの付帯物をくっつけると、それは「うまいタイトル」になるんじゃないかと。 で、その路線で考えてみると、『シェイプ・オブ・ウォーター』というタイトルにも、同じ法則が当て嵌まるんじゃないかしら。 「水」には「形」がない。むしろ「形がないこと」こそ水の本質でしょ。なのに、「水の形」って言われちゃうと、え・・・水には形があるの? 形のある水が目の前に現われたら、わたしゃどうすりゃーいいの? って思うじゃん。 だから、このタイトルもいいタイトルなんだろうなと。 ということで、今日の夜は、レイトショーでこの映画を観てこようかなと思っている次第。また後日、映画の感想を記しますね!
March 9, 2018
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期末試験の答案を採点していると、たまに授業の感想などを書いてくる学生がいてなかなか面白いのですが、最近「お!」と思ったのは、ある学生が書いてきた次のような「おたより」。 この学生(現在2年生)がこの大学に入学してきた時、たまたまコース代表だった私が入学ガイダンスの際にスピーチをして、「大学に入ったら友だちを沢山作ろうなどと考えるなよ」という趣旨のことをしゃべったんですな。 で、当該の学生は、その時のことを持ち出して、「あのスピーチはすごく良かったです」と。 今、SNSだのラインだの、人とつながっていないと不安、という風潮がある中、その学生はそういうのが嫌いな上、友達も少なく、周囲に居るきゃぴきゃぴな新入生の中で、一人浮いているようなところがあったらしいんですな。そんな時、私がいきなり「大学では友達を作る必要なんかない」と獅子吼したもので、それを聞いてすごくホッとするところがあったんですと。 おお、そうかい、そうかい。じゃあ、私のスピーチも無駄ではなかったのね。 ちなみに、あのスピーチは、私自身の体験でもあるんです。私も、大学に入ってから、努力して友達を作ろうと思ったことは一度もなく、特に1年生とか2年生の時は、大学に居る間に誰か同級生と話をすることがほとんどなかった。私は自分のための勉強をしに行っていたので、他の学生は赤の他人であり、まったく眼中になかったんです。そういうもんだと思っていたしね。 ま、3年生になってゼミに入ると、さすがに「同じ釜の飯を食う」的な感じになりますから、同じゼミの人たちとは仲良しになりましたけれども、それ以外の人脈ってほとんどない。部活とかもやってなかったし。 それで、何の不都合もなかったよ。 不都合がないどころか、それで良かったと思っています。4年間、バッチリ自分自身と向き合えたからね。 どうせ卒業すれば、職に就かざるを得ず、そうなったら否応なく他人と付き合っていかなければならない。人と交わるってのは、勿論楽しいところもあるけど、辛いことも多々あるわけですよ。何しろ人間の悩みってのは、9割方対人関係だからね。だったら、せめて大学の4年間くらい、人とではなく、自分自身と付き合うことをやっておいた方がいいんじゃないの・・・? ・・・っていうのが、私の入学ガイダンスのスピーチの真意なんですが。 翻って今時の学生さんたちを見ると、可哀想だよね。一人で居ようったって、ラインとかがあるから、なかなか一人になりきれないもんな。 でも、そういうご時世だからこそ、敢えて友達を作らない。敢えて、一緒に居るだけの知人を持とうとしない。同じ志、同じ感性を持っていて、一生の友だちになれそうだなと思えるような人と偶然出会ってしまった場合を除いて、いわば「連れション要員」みたいな知人を増やさないってことを自分の指針にした方がいいんじゃないでしょうかね。 というわけで、少なくとも一人、私のスピーチに力づけられた学生がいたということが分かって、ちょっと気分のいいワタクシなのであります。
March 9, 2018
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入試業務に携わっていると、普段、あまり付き合いのない他の科の先生方と一緒に仕事をするようなこともあって、そういう先生方から案外面白い話を聞くことが出来たりする。まあ、入試業務の余滴みたいなもんですな。 で、最近もそういうことが一つありまして。 心理学系の若手のM先生とお話する機会があって、その先生は今、初の著書を出そうかどうしようか、考え中ということだったんです。 そう聞いて、「おお、いいじゃないですか」とけしかけると、その先生曰く、高校時代の友人に、今、バリバリと仕事をしている売れっ子の学者がいて、その人の活躍を見る度に、自分も本を出して、少しはいいところを見せたくなる、というのですな。 で、「ん? その友人というのは誰?」と尋ねると、「千葉雅也」とのこと。 え、千葉雅也って、『勉強の哲学』を書いた人? あらまビックリ。そうなんだ。 で、さらに詳しく聞いてみると、M先生と千葉雅也氏は宇都宮高校での同級生だったと。さすが栴檀は双葉より芳し買ったらしく、千葉さんという人は高校時代から人並みはずれた抜群の頭の良さだったそうで。 で、ジル・ドルーズとか研究しちゃった揚句、『勉強の哲学』書いて、世間的にも有名になったわけですが、私にとって面白かったのは、千葉さんという人が『勉強の哲学』を書くに当たって、自己啓発本の文体を研究した、という話。要するに、難しいフランス哲学のことなんか書いたって本は売れないので、売れる本を出すには、自己啓発本的なものにするのが一番、という戦略を、千葉さん自身が持っていたと。 っていうことは、ワンフレーズ毎に改行するってことでしょうな。 実際、『勉強の哲学』を見ると、段落が短くて、結構一文毎に改行していたりする。なるほど、これはそういう理由なのね。 ま、とにかく、『勉強の哲学』の背後に自己啓発本あり、ということが、千葉さんの高校時代の友人の口から聞けたのは、ちょっと収穫だったかも。 だ・け・ど・・・。 実は私自身、ごく最近『勉強の哲学』を買って読もうとしたんですけど、ちょっとね、読めないんだよね。 何だろう、年齢差なのかな。ああ、若いな、って思うだけで、啓発はされないわけ。この歳になると、なかなか同時代の若い人の本は読めませんな。若くても、昔の人の本ならいいんだけどね。例えば幸田露伴が40歳の時の本、とかだったら、啓発されるだろうからね。 ま、とにかく、入試業務にかこつけて、今まであまり話をしたことがない先生と話をしたのは、ちょっと面白かったですな。
March 7, 2018
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今日、ちょっと小耳に挟んだのですけど、「T字路」っていう言葉があるじゃないですか。 あれ、本当は「丁字路」って言うんだってね、日本語では。「てぃーじろ」ではなく、正式には「ていじろ」。 それで不安になったんだけど、「Tシャツ」は「丁シャツ」じゃないよね? 閑話休題。 不安と言えば、今日、随分昔の知人から突然、妙なメールをもらいまして。 当時とて別に特に親しいわけでもなかったのですが、とにかくその人は今、何かお悩みのようで、苦しい現状が書き並べてある。しかしどうも内容が変で、大学時代に犯した罪を今だに後悔しています、とか、釈迦楽さんはまだミサを行なっていらっしゃいますか? とか。しかも、発信時間が早朝だよ。 これ・・・やばい奴じゃない? 完全に病んでない? こんなメールもらっちゃって、わたしゃどうすればいいの? 返事をするにも、なんと返事すればいいかわからないし、返事をしないとなると、それはそれで逆恨みとかされないか不安。 仮に返事をするとして、「ひょっとして精神科にかかった方がよろしいのではないですか?」って書いていいのかなあ? あと、「ミサはしてません」でいいのかな? っていうか、ミサって何? 教会の? それとも「黒魔術」的な? 名前が「釈迦楽」だから、ミサっぽいと思ったのかな。やってないよ、ミサ。 いずれにせよ、私の手には余る感じ。 なんかね、私、そういう方面の人から理由なく慕われることが多いのですけど、どっちかって言うと、むしろ苦手だからね。 困るわ~。どうしよう・・・。
March 6, 2018
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信じられないような事態なんですけど、今日、私は最後の授業をやって参りました。3月のこの時期にまだ授業って、どういうこと? そう、うちの大学、夏休みを3ヵ月にしたおかげで、春休みが1ヵ月しかなくなっちゃったのよ。普通、大学って、1月末くらいに後期の授業が終るものですが、何せ夏休みが終わるのが10月末なもので、その後のスケジュールが全部、1ヵ月ずつずれるわけ。 だから大変よ。普通の授業やりながら、入試やるんだもの。それだけじゃなくて、学年末の様々な雑用が全部、後ろに倒れて行くので、事務方の皆さんも大変。 このクレージーな学事スケジュール、今年からなんですけど、学長のリーダーシップで、勝手にそう決めたんです。 一応、事前に学内でアンケートは取ったのよ。夏休みを8月頭から10月末までとする案どうですかって。で、教授陣全員が「はんたーい! 意味わかんなーい!」って答えて、それでこの件は流れたのかと思ったわけ。 そしたら、学長の鶴の一声で、「当初の案通りにします」って。 まあ、教授陣も事務方も相当困ってますけど、学生の評判も最悪で。そりゃそうだよね。 でも感心なことに、学生たちも分かっているんですわ。このアホな状況をもたらしたのが誰か、ってことは。 いっそ、学生がデモ行進で学長室とかに乗り込んでくれないかな。座り込みとか。アメリカの大学生だったら、やりそうじゃん。 そうなったら、差し入れするよ~。
March 6, 2018
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このところずっと取り掛かっていた紀要論文、ようやく脱稿しました~! 紀要そのものの編集を私が担当しているわけですけれども、これで全員分が揃い、版下まで私が作成しましたので、あとは印刷所に入稿するのみ。終わった、終わった~! これがこの時期最大の私の仕事なので、これが終わるとホッとするわ~。 私の論文の出来? まあまあ、かな。でも、それなりに面白いものに仕上がったのではないかと。少なくとも、いずれ書きあげる次の本の一章になる程度のものにはなったので、そこそこ満足よ。 そう、私にとって紀要論文は、本の下書きだからね。ワハハ。 で、いつもそうなんですけど、論文一本、書き終わった時ってのは、ものすごくやる気が出るのね。だから、今、私は次の論文のテーマに向けてやる気満々。もう、次のテーマも決まっているし、読むべき資料も揃えてあるので、すぐにでも始められる。 だけど、他にもいくつかやりたいことがあるんだよな~。 で、それに関連して、本を読んでいるのだけど、これがなかなか面白い。 今読んでいるのは、片岡義男氏のこの本。【中古】 英語で言うとはこういうこと 角川oneテーマ21/片岡義男(著者) 【中古】afb 英語の発話法というより、発想法についての本なんですけど、なかなか読ませるんですな。 なんでこの本を読んでいるかと言いますと、これから小学校英語が始まるでしょ。で、私もそれに関する授業を受け持たないといけないんだけど、それには英語教育系の業績が必要なのね。業界用語ですと「課程認定のために必要」ということになるんだけど。 で、どうせこの方面の業績を作らにゃならないのであれば、ある程度、面白い業績を作りたいわけね。というわけで、英語教育関連の本、特に小学校英語に関する本をぼちぼち読まなければならないのだけど、その一環になるかなと。 というわけで、やる気満々の今、色々な方面に食指を伸ばしている元気いっぱいの私なのであります。
March 4, 2018
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今日のお昼は、お気に入りのレストラン「シェ・モンアミ」にゼミ生を集めて「忘卒論会」を開催いたしました。 卒業式まであと3週間という時期、最後の悪あがきで学生生活最後の休みを堪能しているゼミ生諸君ですが、今日は一日、この1年間のゼミ生活の総括として皆で再結集して、卒論執筆時の苦しかった事々などを笑いに変えて振り返りながら、おいしいランチをいただいた次第。 今年のゼミは5人態勢で、例年と比べるとちょっと人数が多く、その分卒論指導は大変だったのですが、大変だった割に楽しかった思い出の方が多かったのは、やっぱりゼミ生の出来が良かったのでしょうかね。 で、最後に皆から集合写真つきの色紙と、思いのこもったプレゼントの品を贈られ、私も感無量。特に色紙は私の勲章として、大切に研究室に飾ろうかな。 学生の彼&彼女らに会うのは残すところあと1回、卒業式&謝恩会の時になりますが、もうその1回だけかと思うとちょっと寂しいところもあり。私は自分のゼミ生を可愛がるものでね。他の先生方ではなく、私を選んでゼミに入って来てくれた子たちなのですから。 ということで、忘卒論会の後、しばらく自分の研究室で仕事をしていたのですけれども、土曜日の誰もいない研究室棟で一人作業をしながら、何となくもの寂しい思いに堪えていたワタクシなのであります。
March 3, 2018
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昨日の山中慎介選手のボクシングのタイトルマッチ、残念でした。 私は昨夜、柔術の稽古があったので、試合の模様は録画しておいて、帰宅してからすぐに見たのですけど、2Rでのノックアウト負けはまったく予想外。私は山中選手がきっちりリベンジを果すと思っていたもので。 ちなみに、私の「山中選手観」というのは、このブログでも既に披露しているのですけど、こんな感じ: 私が思うに、山中選手って、ボクシング技術自体は発展途上というか、結構危ないパンチをもらったりしてヒヤヒヤさせられることも多いのですけれども、しかし、「神の左」と呼ばれる左パンチ、これはもう破壊力が桁違い、いや、桁が三つほど違うんじゃないかと思う位のもので、これが一発でも当たればその時点で試合が終ってしまう。 だから、山中選手の場合、たとえ途中のラウンドでダウンをくらったとしても、あるいはポイントでリードされたとしても、たった一発で逆転できる、そういう魅力がある。これは、ボクシング・ファンとしては、たまらない魅力です。(本ブログ2016年9月17日エントリー) つまりね、一撃必殺の左があるけれども、ディフェンスがイマイチ、という見方なのね。 で、昨日の試合はまさにその弱点を突かれましたかねえ。 しかし、それにも増して残念だったのは、前回の試合と今回の試合、両方を通じて一度も山中選手の破壊的な左のパンチが、ネリ選手にヒットしなかったこと。あれほど「当て勘」のいい山中選手にして、一度も相手に左をお見舞いできなかったというのは、余程ネリ選手の圧力が上回っていたのか。 一発でも当たっていればね・・・。その一発で試合の流れが変わることは確実なのですが。 で、特に今回の試合は、あまりにもいいところなく敗れたので、山中選手が引退を決意したのも分からぬでもないのですが、問題は相手のネリ選手。 前回は違反薬物の使用、今回は規定体重オーバーと、プロの選手とは思えないようなていたらく。そんな最低な選手と対戦して敗れ、自分のボクシング人生の幕引きをしなければならなかった山中選手の心中を思うと、なんとも言えません。山中選手、そして彼を支えてきた家族やスタッフからすれば、忸怩たるものがあるでしょうなあ。 しかし、「神の左」と呼ばれた山中選手の輝かしいボクシング歴がこれによっていささかも傷つくわけでなし、今後は後進の指導に腕を振るってもらいたいものでございます。
March 2, 2018
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相変らず論文書き。今朝方は、夢の中でも論文書いてました。もうすぐ終わるんだけど、最後の詰めが詰め切れない、みたいな時によくあることで。 さて、そうやって根を詰めて論文書いている時、時々気晴らしがしたくなるんですけど、最近のちょい気晴らしのお供は、意外なことに「釣り」なんです。 と言っても、釣りに行けるほど暇じゃなし。YouTube の釣りサイトで、ヴァーチャルに釣り体験をするわけ。 で、そういう時、豪快な海釣りなんかだと、あまりにも現実と違い過ぎて熱中できないのね。そうじゃなくて川釣り、それも素人が竹竿なんかで釣るような、子供の遊びみたいな釣りの映像がいいんですわ。それこそ、その辺の田んぼの脇の用水路とか、近くの野ッ原を流れる小川なんかで、モロコ(=クチボソ)とか、マブナとかコイとか、はたまたタナゴなんかを釣る。そういう映像が最高。例えば、こんな感じ。 ↓小物釣りの映像 昔、中学生の頃、一時期釣りに熱中した時期がありましてね。春の小川に友達と釣りに行ったことなんか、思い出すわけよ。 こういうYouTube映像って、それこそ5分とか6分くらいのものでしょ。そういうのを一個見て、また論文書きに戻って、しばらくして煮詰まると、また釣り映像見て、ってのを繰り返していると、割といい感じ。少なくとも、今はそういう気分。 でも、あれだな。春一番が吹いたようだけれども、もう少し暖かくなって、もう少し閑になったら、本当に近くの小川でのんびり釣りでもして、小魚相手に遊びたいな・・・。どうせ実現はしないんだろうけれども。 こういうの、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』気分っていうのかな。
March 1, 2018
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