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先日、『あの日、「ライ麦畑」に出会った』という本のことを書きましたが、あの本に先立つこと8年、1995年に『「ライ麦畑」に出会った日』という本がまた別に出ておりまして、人が『ライ麦畑』とどういう風にどういう風に出会い、どういう感想を持つのかが知りたかったもので、こっちも読んでしまいました。 が! どうもこの本の趣旨を、この本に寄稿している人達は理解しているのかどうか・・・。 だって、本の趣旨がそういうものであるならば、基本、『ライ麦畑』がいかに好きだったか、ということを語って欲しいわけじゃないですか、読者としては。なのに、「昔読んでさっぱり分からなくて、今度、原稿を書くために読み直したけれど、やっぱりよく分からなかった」的なことを書く人が結構いるんだよね。じゃあ、寄稿するなよ、って感じ。他にも、「この小説は男性であることに対する長い言い訳だ」みたいな、すごく批判的なことを書いているフェミニストみたいのも居て、男の『ライ麦畑』ファンとしては読んでいてすごく不愉快。 というわけで、すっごく幻滅させられた本だったのですが、一つだけ、本当に掃き溜めの鶴みたいな素敵な原稿があった。 それは吉元由美さんという作詞家の方の文章で、この人がご自身と『ライ麦畑』との出会いを綴った文章は、とてもとても素晴らしかった。この部分だけで、この本を読んだ甲斐があったというもの。 でね、吉元さんは、まず大学時代に『ライ麦畑』について書いたレポートのことから語り始めます。それは英文で書いたレポートなので、日本語に直すと多少拙いところはあるのですが、しかし、私が見るところ、十代の若い読者がこの本を読んで抱く感想として、とても素直で実感を伴っている。もしこれをホールデンが読んだとしたら、ニコッと笑ってくれるだろうなと思われるようなものなんですな。 で、それ自体もそうなんですけど、それ以上にステキだなと思ったのは、その昔書いたレポートを、『ライ麦畑』のペーパーバックと共に吉元さんが大切に保存し続けたこと。吉元さんは、この自分の行動について、こう語ります: どういうつもりでとっておいたのかわからない。まさかいつか何かの役にたつと見込んだわけでもないだろう。たぶん「ライ麦畑」を持ち歩くことで、何かとつながっているような気がしたのだと思う。 その何かとはいったい何なのだろう。それを解き明かすには、私がこの小説に出会った頃のことを話さなくてはならない。もしかしたらその頃が現在の私の〝種” のようなもので、ある意味で私はそこから出発したような気がするのだ。(124頁) と書かれている。 そうだよ! これだよ! これこそ、この本のあるべき姿だよ! そして、ここから吉元さんは高校時代、他人からは「気楽な人」と思われていたようだけど、実際には自分の中にも色々葛藤があって、他人からの評価と自分のありようの狭間に存在していた、というような話をされていく。 例えば、吉元さんと同じく『ライ麦畑』を読んでいた親友の一人が、17歳のクリスマスの日に吉元さんの家に泊りに来て、その日を共に過ごすのですが、その時、その親友がぽつりと「私ね、煙草吸っちゃったんだ」と言ったと。 たかが煙草、だけど17歳の女の子にとっては一つのジャンプだったはず。その辺り、吉元さんの文章を引用しましょう: とにかく彼女の「煙草吸っちゃったんだ」という告白はクリスマスの粉雪にふさわしいほどのインパクトがあった。どういうことかと言うと、善と悪があるなら、私でも悪になれるということだ(私たちにとってその頃煙草は“悪”の領域だった、もちろん自分たちが吸うという点において)。悪いことをしてはいけない・・・・という環境、また自分自身で作り上げたルールを破る快感があった。ルールを作るということは、自分たちはこうありたいという幻想を同時に作ることだ。私も彼女もまさにそんな幻想の中にいたのだと思う。それは次第に殻のようになり、ちょっとやそっとのことでは飛び出せないような気がしていた。(127頁) ひゃー! なんて瑞々しい! これこそ、ホールデンの世界そのものだよ! それから吉元さんは、ホールデンの嘘つき癖について触れながら、自分にもそういう経験があると言うんですな。その頃、同じクラスに他人のことばかり気にするクラスメートがいたと。そこそこ成績優秀だったのだけど、試験が近くなると、やたらに「ねぇ、勉強している?」と聞きに来る。もちろん「全然してない」という答えを期待しているのが見え見えなんですな。 で、そういうのに我慢できなくなった吉元さんは、試験間近のある日、その子が例によって「由美、勉強している?」と聞いてきた時、大嘘をつくわけ: 彼女は私の机の端にもたれて、私のノートをのぞき込んだ。私はそのとき憎悪にも似た感情にかられ、彼女の目を見て〝言ってやった”のだ。 「毎日百時間くらい勉強していてクタクタよ」 そのときの彼女の顔を思い出すと今でもおかしくなる。鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目をぱちくりさせて息をのんだまま立ち尽くしていた。そして「あら、そう」とひとこと言って自分の席に戻って行った。どんな答えを期待していたか知らないけれど、私は内心おかしくて笑いが止まらなかった。つまり彼女は〝インチキ”で私はすごい〝嘘つき”だった。だけど私の方はなんとなく気持がすっとして、楽しい気分になったものだった。(133頁) まさに! これが『ライ麦畑』の世界だと言わずして何と言おう。世界がインチキだというのは、こういう意味だし、ホールデンが嘘つきだというのは、こういう意味でしょう。だから、吉元さんにはホールデンの気持が完全に理解できているんだと、私は思いますねえ。 で、先に吉元さんは、『ライ麦畑』やそれについてのレポートをずっと捨てずに持ち続けたのは、何かにつながりたかったからだけど、その何かって何だろう、という問いを発せられていたわけですけど、色々考えた挙句、それは神さまにつながりたかったのではないか、という答えを導き出すんですな。それは宗教的な何かというわけではなく、例えば生まれたばかりの赤ん坊が神さまとつながっているとしか思えないように、そういう風に神さまにつながっていたい気がしたのではないかと。 なぜなら、人は一人では淋しいから。 そして、吉元さんは大学時代のそのノートの余白に、「前にもこんな夏があったような気がする。時間がくるくると巻き戻されて、気がつくと私はいつも同じ場所に立っている」と書いていたことを発見するわけ: 自分でも忘れ去ってしまった自分がいる。こんなふうに私たちはこれからも膨大な過去を置きざりにして生きていくのだろう。憶えていることもあれば忘れていることもある。それはそれでいいのだろう。それが生きていくということで、悲しむようなことではないのだから。ただあの頃に関してこれだけは言えるのは、私は『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいる自分がとても好きだったということ。同じ頃に読んだ友達のことも。淋しいのは彼女たちが今ここにいないということだ。(144-145頁) とこの文章を結ばれる。ちょっと出来過ぎだけど、分かるねえ・・・。 あとね、吉元さんの文章の中でもう一つ共感したのは、この小説のタイトルの日本語訳が『ライ麦畑でつかまえて』であることについてのコメント。 この野崎孝訳のタイトルだと、「ライ麦畑でつかまえてね、私のことを」という意味に取れるというんですな。それが期せずしてこの小説の魅力になっていると。 本来、『The Catcher in the Rye』というのは、「ライ麦畑でつかまえる人」という意味だから、本来は捕まえる側なんだけど、野崎訳ではそれが逆に「捕まえて下さい」と、捕まる側に感じられてしまう。そこが、すごくいいと。 あー、わかる、それ。不安定なティーンエイジャーにとって、私のことを誰か捕まえていて、と言いたくなる気持ってあるよね~。 というわけで、この吉元由美さんの文章は、これ自体、一つの『ライ麦畑』だと言いたいくらい、素晴らしい出来だと、私は思います。他の文章があまりにもひどいので、その分、余計に素晴らしさが目立つ。いわば、フォニイな世界に一つ取り残されたイノセントな小島みたいなものよ。 ということで、吉元由美さんの文章だけを読む、という条件付きで、この本、教授のおすすめ!に決定!『中古』「ライ麦畑」に出会った日
November 30, 2018
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前に健康のためにアマニ油を買った、というようなことを書きましたが、あれから順調にアマニ油生活をしております。 夕食の時とかに、小さじ一杯分のアマニ油を何かにかけて食べるのですが、段々それが習慣化してきて、「今日は何にかけて食べようかな」的な楽しみが出てきた。まあ、基本、無味無臭なので、何にかけたっていいのですけどね。迷ったら味噌汁にでも入れちゃえばいいわけですし。 で、そんな話を先輩同僚のアニキとしていたら、アニキはもっと上手だった。 なんと、アニキは『ためしてガッテン』を見てアマニ油に興味を持った瞬間、家の近くのスーパーに電話をかけ、「アマニ油を一本、キープしておいて」と頼んだ、というのですな。 で、その行動の素早さに私が驚いていると、「そんなの常識。テレビで取り上げられれば、皆が一斉に買いに行くに決まっているのだから、先手を打って電話しちまえばいいのさ」ですと。 ひゃー、ワタクシなんぞ、今の今まで、スーパーに電話するなんてことをやったことがない。さすがアニキ。 ところで、アマニ油の他にも、アーモンドが身体にいいっていうじゃないですか。ビタミンEが豊富とかで。肝臓にもいいらしい。 で、私もたまにローストされたアーモンドを買ってぽりぽりと食べたりもしたのですが、最近、さらに良い物を見つけちゃった。これこれ! ↓ハニー バター アーモンド 250g 1袋 韓国大ヒット商品 お菓子 おつまみ 韓国お菓子 話題 大人気 カシューナッツ パッケージを見れば韓国製と分かるのですけど、かの国で大評判のお菓子なんですと。 で、買って食べてみたのですが、これがけっこうイケる。基本、甘いのですが、バターが入っているので、バターの塩気もあって、そのあまじょっぱいところが何とも。ちょっと高いようですが、かなり沢山入っているので、むしろお得感も高いです。 ということで、最近の私はアマニ油とアーモンドですわ。 これで、人間ドックがますます楽しみになってきた。昨年より数値が改善していたらいいな!
November 29, 2018
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先日もご紹介した『『ライ麦畑』の正しい読み方』の巻末の「『ライ麦畑』小辞典」をパラパラめくっていてははーん、と思ったのですが、それによると「現代のライ麦畑」という形で紹介される本が多いというのですな。 例えばブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』とか、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』は「80年代のライ麦畑」だし、ダグラス・クープランドの『ジェネレーションX』や『シャンプー・プラネット』は「90年代のライ麦畑」と言われた。さらに金城一紀の『GO』は、「21世紀のライ麦畑」と言われた。 あと、他にもこういうのがあるよ。アルダシール・ヴィキルの『ビーチ・ボーイ』は「インドのライ麦畑」、ワット・ワンラヤーンクーンの『マプラーオの薬草』は「タイのライ麦畑」、アルノン・フルンベルクの『月曜日はいつもブルー』は「オランダのライ麦畑」と呼ばれたそうで、各国にライ麦畑がある。(この本には挙がっていないけど、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』も、日本のライ麦畑と呼ばれたんだっけ。) さらにウェス・アンダーソンの『天才マックスの世界』とか『バッファロー66』など、「ライ麦畑的」と評価された映画も多いと。 で、こういう現象って、私の解釈の路線から行くと、「サリンジャーに会いたい」現象の一部なんじゃないかと。つまり、読者はサリンジャーの次の作品を読みたい読みたいと思っているのに、彼が何も書かないから(発表しないから)、代理的に他の作家の作品をサリンジャーの作品に見立てて読もうとした。その意味で、これらはすべてサリンジャー恋しの行為、サリンジャーに会いたい読者の心根から出たことなのではないかと。 どう? これ? サリンジャーの他に、「○○年代の○○」って呼ばれる作家っているかなあ? どうなんだろ。「2000年代のドス=パソス」とか。ないよね。 ま、とにかく、こういうことが言われる作家であるということも、サリンジャーの特質の一つなんじゃないでしょうか。その辺、原稿に書こうかな。
November 28, 2018
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今日は3年ぶりに年賀状を買いましたよ。 一昨年・昨年と不幸が続いて、年賀状を出さない年が2年続いたのですが、幸いなことに今年はそういうことがないので、久しぶりに年賀状を買った次第。 でも、2年連続して書かなかったものですから、ちょっと感覚が取り戻せなくて。たしか、師走の忙しい時期に、結構時間を取られるんだったよな・・・。 で、定年を間近に控えた先輩同僚に聞くと、「そろそろ年賀状も制限し始めたよ」と。 年賀状を書くのも手間だし、お金もかかるので、近年、出す相手を絞っているのですと。で、その先輩曰く、「釈迦楽さんも、2年も年賀状出さなかったのなら、絶好のチャンスじゃん!」と。 要するに、2年間お休みしていたのを機にフェードアウトしてしまえと。 まあ・・・ね。 日本全体で見ても、ピーク時から比べると年賀状の配達量も半分くらいになっているんですってね。まあ、若い人なんかラインで済ませちゃうんでしょうし。 でもなあ・・・。 年賀状だけの付き合いなんて切っちまえよ、という考え方もあるでしょうが、年賀状だけの付き合いこそ大事にした方がいいような気も、ワタクシはちょっとするんだよなあ。 まあ、私も定年が近くなったらわかりませんが、今の所はもう少し頑張って、今まで通り出そうかな。
November 28, 2018
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なんか家の周りに「24時間フィットネス」の店が急増しているんですけど、あれ、大丈夫なんすかね? 私の家の周辺だけの話なのか、とにかくお店とかコンビニとかが潰れると、その後にたいてい「24時間フィットネス」が入るんですわ。だから、今や我が家の周辺にはそんな店が7軒くらいあるよ。24時間営業だから、夜でも煌々としているんだけど、人はそんなに24時間、体を鍛えたいと思っているのかい? 聴くところによると、夜は従業員はいなくていいらしく、トラブルがあればアルソックのような警備会社に丸投げなんですってね。だから、フィットネスマシンを並べれば、あとは放置するだけで、会員になった人からの会費だけがどんどん入ると。まあ、そんな仕組みらしい。 だけど、そんなのがあっちこっちに出来ちゃって、それで元がとれるとは到底思えないな。既に市場は飽和しているんじゃないかしら。 よくわからん。 わからないと言えば、貴乃花の離婚もわからないなあ。親・兄弟・妻・職場、すべてと絶縁して、あの人は一体何がしたいのか。得体の知れない人だねえ・・・。 ま、他人のことはいいか。
November 27, 2018
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この週末、修論指導・卒論指導であっぷあっぷ。特に卒論指導の方は、学生の方もまだ論文の書き方に慣れていないものだから、提出された草稿を添削するのも一苦労よ。真面目な学生ほど一生懸命、あーだこーだ書いてくるんだけど、書き方自体はめちゃくちゃだから、そのあーだこーだを一旦解きほぐして、すっきりとした順序で言いなおすのも大変でね。 ところで、そうした卒論指導の傍らで、私は私でサリンジャー関連の連載の準備で大忙し。 私もひところは一廉のサリンジャー・ファンでしたから、研究書の類はたーくさん持っているんだけど、今になってそれらを再読すると、これがまたえらくつまらないものばっかなのよ。 いや、そのつまらなさといったら、もう、目も当てられないほどのものよ。世に出回った昔のサリンジャー論ほどつまらないものはないっていう位、つまらない。 よくあるのが「フォニイ論」で、大人の社会のインチキを、サリンジャーが糾弾していることの是非を問う的な奴。 どーでもいいじゃん、そんなの! あとね、これまた嫌になるほど沢山あるんだけど、「禅」アプローチね。 サリンジャーは後年になるに従って禅をはじめとする東洋思想にかぶれ、それが作品に反映して、「隻手の音」なんてのを作品のエピグラフに掲げちゃったりするんだけど、それを針小棒大に取り上げて云々するってのが、このタイプ。 日本人だから禅は得意、だからこのアプローチなら、アメリカ人よりいい論文が書けるはず! とばかり、得意になって「サリンジャーと禅」みたいなタイトルの論文書いちゃう人がいるのよ、沢山。アメリカ文学者の中にもそれをやる人はいるけど、例えば雑誌社の人が、雑誌でサリンジャー特集組む時に、「東洋思想に強い系」のライター連れてきて、門外漢だけど禅アプローチでサリンジャー分析させちゃった、みたいなのも多い。 あ、あと「精神分析論」ね。まあ、『ライ麦畑』のホールデンは、多少、精神的に行っちゃっているから、その辺りをユングとかを援用して分析しちゃおう、みたいな論。秋山さと子とか、岸田秀とか、そういう門外漢だけど精神分析に強い奴を連れてきて雑誌の特集号で書かせるわけ。 今、上に挙げたような論文、全部ひっくるめて言うけど、超つまんねー! 時代の風化に耐えず、完全に劣化したような論文ばっかだよ。 で、思ったんだけど、はっきり言おう。サリンジャーは論じてはいけない作家なんだと。 この人はね、もう、論じたらダメ。分析したらダメ。 じゃ、何すればいいの? 共感でしょ。 サリンジャー、いいよね~! え? 君も分かるの? じゃあ、僕と君は仲間だね! って言っておしまいにする。そういう作家だと思う。マジで。 あとは、情報の交換。 「サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』って、ビーチボーイズの『ペット・サウンズ』みたいじゃない?」「あー、なるほど!」っていう。 あるいは、思い出に浸る。「僕が最初に『ライ麦畑』読んだのは、大学受験の直前でさあ・・・」みたいな。 それでいいんだ。 ・・・いいのか? いいとは思うのだけど、それだと連載、もたないよね・・・。 で、もう一つ思うのは、サリンジャーってのは、論じたくはないけど、会いたくなる作家ではあるよねと。 で、ことここに思い至ると、ハッと悟るわけよ。あれ、サリンジャー以外で、会いたい作家って居る? と。ひょっとして、いないんじゃね? 例えばフォークナー・ファンの君に聞こう。君はフォークナーに会いたいかね? ヘミングウェイ・ファンの君にも聞こう。君はヘミングウェイに会いたいかね? そういうと、私もヘミングウェイには会ってみたい気はするなあ・・・。多分、ヘミングウェイは私のことは気に入ると思うし。釈迦楽版『パパ・ヘミングウェイ』とか書いちゃうよ。 だけど、ちょっと違うんだよなあ。サリンジャーに会いたいというのと、ヘミングウェイに会いたいっていうのでは。その感じ、わかる? 例えば「サリンジャーに会いたい」っていうことをテーマにした映画がどんだけあるかと。ヘミングウェイに会いたいっていう映画なんかひとつもないでしょ。 そこに違いがあると思うわけ。あるよ、あるある。 それが、今回の連載のテーマだ!
November 25, 2018
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『モンキービジネス』って雑誌、御存知? 翻訳家としても有名な柴田元幸先生が責任編集されている文芸雑誌で、今はもうないのですが、まあ、何と言っても柴田先生肝煎りの雑誌なので、アメリカ文学関係者は当然、一目置いていたというもの。 とか言って、ワタクシは一冊も読んだことがなかったのですが(爆!)。 しかし、この雑誌が2008年にサリンジャーを2度に亘って特集していたということに気付き、今更ながら取り寄せて読んでしまったという。 もっとも、取り寄せてみて分かったのですが、そのうちの一冊である2008年の第3号は、サリンジャーの短篇集である『ナイン・ストーリーズ』の柴田先生による全訳(新訳)なのね。別にそれの解説とかがあるわけでもなく、雑誌一冊まるごと訳。で、その次に出た「2008年第3.5号」の方に、解説などが少し載っていると。 ということで、今の時点では柴田先生の新訳がどうのというより、解説の方が読みたかったので、とりあえず「3.5号」の方を熟読・・・ ・・・したのですが、うーん、どうかな・・・。「ナイン・ストーリーズ号」と銘打っている割に、関連する原稿が少なすぎるのではないかと。どうなんすか、柴田先生? で、本号の目玉は、柴田先生と岡田利規さんという私より十歳ばかり年下の劇作家の方の対談なんですけど、面白くなくはないとはいえ、今私が必要としている情報があまりなかった、という意味では、ちょっと期待外れだったかも。 ただ、一つだけ唸ったことがありまして。 それはね、岡田さんの発言なのですが、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の読後感が、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』のそれに似ている、と言っているところ。ネガティヴな意味ではない「虚しさ」のようなものを感じさせるという点で、両者は近い、と。 あと、『ナイン・ストーリーズ』の最後を飾る「テディ」という短編の、そのまた最後のシーンでテディが空のプールに身投げをし、それを観ていた妹が悲鳴を上げる。その悲鳴によって『ナイン・ストーリーズ』は終わるのですけど、そこもまた『ペット・サウンズ』の最後の踏切の音と犬の鳴き声、あの感じに似ていると。 はあ~。なるほどね! 上手いことを言いますなあ。 以前、このブログにも書いたように、私がビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』を聴いたのはごく最近のことでありまして、だから岡田さんの言っていることは、今の私にはよく分かる。すごくよく分かる。『ペット・サウンズ』を実際に聴き込んでいなかったら、何のことかよく分からなかったでしょうけれども。 それに、言われてみれば、サリンジャーとブライアン・ウィルソンって、確かに似ているところがあるかも知れない。 もっとも、学問的には『ナイン・ストーリーズ』と『ペット・サウンズ』が似ているとか、サリンジャーとブライアン・ウィルソンが似ているとか言ったところで何の意味もないんですけどね。ああ、そう、の一言で終っちゃうよ。 でも、サリンジャー愛好家にとっては、岡田さんのこのコメントは結構、価値があるんじゃないかな。「ああ、そう」じゃなくて、「そう、そう!」って反応が返ってきそう。 というわけで、当初の私の目的にはかなわなかったけれども、『ペット・サウンズ』という補助線が一つ、手に入ったことだけで、この本・・・っていうか雑誌を読んで良かったかなと。 ま、学問は効率じゃないからね。
November 24, 2018
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先日、たまたまNHKの『ためしてガッテン』を見ていた時、血液サラサラ成分たるオメガ3を豊富に含んだ「アザラシ油」ってのが身体にいいんだという話をしておりまして。 とはいえ、「アザラシ油」なんてそうそう売っているものではない。その代り、「えごま油」だとか「アマニ油」は、アザラシ油に似た成分が含まれていて、この油を日々スプーン1杯くらいずつ取り続けることで、痩身効果や心臓病の予防にテキメンの効果があると。 で、ふむふむ、いいじゃないの、と思ったわけですよ。私はもともと心臓に爆弾・・・というほどでもないけれど、ネズミ花火くらいは抱えていて、一応、ニトロ錠を持ち歩いている身だし、痩身効果だってもちろん大歓迎。 ということで、今度、買い物に出かけた時にでも、えごま油かアマニ油か、どっちか買っちゃおうかな、なんて考えていたわけ。 で、たまたま今日、近くのスーパーに買い物に行く用事があったので、あ、そうだそうだ、えごま油・アマニ油を見てみようと思ったんですわ。 そしたら。 空っぽよ、カラッポ。棚がまるごと。食用油が置いてあるコーナーで、えごま油とアマニ油の棚だけほぼカラッポ。 すごいね、日本人。ちょっとテレビで「これがいいよ」とか言われると、すぐ飛びつく。そのフットワークの軽さというか、好奇心というか、ポリシーのなさというか。まあ、ワタクシ自身も買おうと思ったんだから、自分のことも含めて言っているのですけれども。 だけど! ほぼ空っぽだった棚の片隅に、少しだけアマニ油が売れ残っていた。ちょっと高いブランドなんですな。だから、辛うじて完売を免れていたと。 おーし、それならば、ワシが買ってやろうじゃないの! ってなわけで、結局、アマニ油をゲットしてしまったワタクシ。夕食の時に早速ひと匙、使ってみた。味噌汁とかにチロッと。 旨い! ・・・かどうかは不明。ただ、チロっと入れるくらいなら無味無臭なので、これをかけた食べ物の味を変えるというものでもない。まあ、サプリを飲むくらいのつもりで、毎食、チロッと何かにかけて食べる体のもんですな。 しかし、問題は味より機能よ。果たして、これを摂取したことで、今度受ける人間ドックの結果にいい影響が出るのかどうか。今はそれを楽しみに、こいつを色々なものにチロチロとかけてみましょうかね。ニップン アマニ油プレミアムリッチ(100g)
November 23, 2018
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現在、とにかく、手に入るそばからサリンジャー関連本を読み漁っているのですけれども、そういや『アメリカ文学紀行:マーク・トウェイン、ヘミングウェイからサリンジャーまで』とかいう本を持っていたな、あの本にはサリンジャーゆかりの地についての情報があるんだろうか・・・などと思って、書棚の奥の方からこの本を掘り出し、サリンジャー関連のところだけ読んでみたわけ。 そしたら、これがまた箸にも棒にも掛からないシロモノでして、そもそも著者は文学研究者ですらないという。新聞記者上がりが定年後の暇つぶしに、アメリカ文学ゆかりの地を半年かけて経めぐってみました、という本で、内容はまったく無し。自分の好きでそういうことをするのはいいけれど、それを本にして市場に出す意味がどこにあるのか。大体、この人はサリンジャーの『ライ麦』を50過ぎくらいになって読んだそうですが、その際、ところどころで「吹き出した」と書いてある。『ライ麦』を吹き出しながら読むというそのセンス。否、センスの無さ――下衆。大体、この本の副題は「名作ゆかりの地をさるく」というのですが、「歩く」ではなく「さるく」とは何事。 サリンジャー関連本をむさぼり読むということは、時にこの種の下衆本を読むことをも意味するのであります。いやはや。 で、次に手にしたのが『「ライ麦畑」の正しい読み方』という本。執筆は「ホールデン・コールフィールド協会」ですと。 おお、これまた下衆本か・・・。 ・・・と、こわごわ読み始めたのですが、これがね、意外と収穫の多い本でありまして。さすが、サリンジャーをこよなく愛す者たちが5人集まって、あれやこれや情報を集めたり掘り出したりした成果だけのことはある。 そう、この本には「情報」があるのよ。そして、今、私が欲しているのは、他人の解釈ではなく、サリンジャーについての情報なのね。その意味で、この本は、今、私が読むべき本だったのかも。 じゃあ、私がこの本からどのような情報を引き出したかといいますと・・・面倒臭いから箇条書きでいこう:〇『ライ麦畑』の訳者・野崎孝の文体は『ライ麦畑』の雰囲気をよく再現したものとして評価されているが、あの文体のルーツは植草甚一が『マンハント』という雑誌に書いていた「夜はおシャレ者」というコラムではないか。そもそも植草の文体が、例の散歩調に変わるのが1956・7年から59年にかけて。そして60年から始まる件のコラムで、野崎が訳出したホールデン口調そっくりな文体になるという。〇植草の『ワンダーランド』誌が1973年に『宝島』となっていくわけだが、1975年に出版元が晶文社から宝島社に変わり、北山耕平が編集長となった時、本誌はシティー・ボーイ路線に舵を切る。その際、北山による新生『宝島』の冒頭評論は、ホールデン論だった。そして新生『宝島』の読者層も、サリンジャー世代であったことは、読者欄からもうかがえる。その後、この野崎孝的サリンジャー文体は、北山が創刊した『ポパイ』に受け継がれるが、そこではもはや、モノの紹介に使われるのみ。サリンジャーのあの口調は、高度経済成長期の日本の消費文化の片棒を担がされていくことになる。〇ところで、北山耕平は、そもそもどこでサリンジャーに出会ったかといえば、なんと、付き合っていた彼女から16歳の誕生日プレゼントとして『ライ麦畑』をもらったことがきっかけだった。そして、この小説のフィービーに参ってしまったことから、北山の世界観はがらりと変わる。後に北山は、サリンジャーの口語体の影響について、「声」ということに注目している。北山曰く「言文一致というのを推しすすめたという感じはしたけどね。ただ、ほんとにしゃべるように書くんじゃなくて、バランスをとって「頭のなかで声が聞こえるように書く」というのが必要なのだという認識はあったからね。「読む」のじゃなくて「声がきこえる」という」。この北山のサリンジャー文体論は、非常に、非常に、非常に素晴らしい。確かに『ライ麦畑』の読者は、サリンジャーの文を読むのではなく、その声を聴くのだろう。〇この「声が聞こえる」、しかも作者は「君」だけに呼び掛けているという側面が、マーク・チャップマンやジョン・ヒンクリーを,凶行に駆り立てたのかもしれない。〇ピーター・フォンダは高校時代、『ライ麦畑』を愛読した。(彼の『イージー・ライダー』は、『ライ麦畑』と合わせて考えるべきものかも)〇サリンジャーではないかと間違えられた作家は、ピンチョンの他に何人かいる。例えばゴードン・リッシュ、ウィリアム・ウォートンなど。〇2000年の『小説家を見つけたら』、2001年の『ライ麦畑をさがして』など、サリンジャーを探す映画が沢山ある。(そういえば、今公開中の『ライ麦畑で出会ったら』、2019年1月公開予定の『ライ麦畑の反逆児』など、ライ麦畑関連の映画が2000年代以降、目白押しだ・・・)〇サリンジャーが映画嫌いになったいきさつは、サミュエル・ゴールドウィンの『虹を掴んだ男』に詳細が語られている。〇『ライ麦畑』のタイトルは各国の翻訳版で異なる。イタリア版『男の人生』、ノルウェー版『みんなひとりで、早い者勝ち』、スウェーデン版『いざという時の救済者』、フランス版『心の捕え人』、ヘブライ語版『ぼくとニューヨークとそのほかすべて』、ロシア語版『ライ麦畑の崖の上で』等々。なお、最初の日本語版では『危険な年齢』になっていた。〇フランシス・コッポラも、16歳の時にミリタリー・スクールを抜け出し、NYをさまよった経験があった。彼はサリンジャーに、「将来、映画を作る仕事がしたい。そして『ライ麦畑』を映画化したい」というファンレターを書いたが、返事はなかった。〇ホールデン・コールフィールドのネーミングは、俳優のウィリアム・ホールデンと、女優のジョーン・コールフィールドを掛け合わせたらしい、という説がある。〇エリア・カザンが『ライ麦畑』の映画化を夢見ていた時、ホールデンのキャスティングはボブ・ディランだった。 ・・・まあ、ざっとこんな感じかな。ま、今の私にとって興味のある情報、という意味ですが。 ということで、この本、期待しなかった割に、結構面白く読んでしまったのでした。 そういう意味でおすすめ、と言いたいところですが、この本、今ではなかなか手に入らない。アマゾンに一冊、古書があるけれど、値段が高くて買えやしない。私は大学図書館を通じて、明治学院大学の所蔵本を借りたのですが、そういう風にして読むしかないかもね。
November 22, 2018
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サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳された村上春樹さんと、それを学者として(あるいは翻訳家として)サポートされた柴田元幸さんが、この完遂した翻訳作業をめぐってあれやこれやと話しをする『サリンジャー戦記』という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 ・・・っていうか、この本、もうずいぶん前に一度読んでいて、今回再読してその内容を改めて確認したって感じなんですけど、さすがに凡百のサリンジャー本とは違って、内容の濃いものでありました。 で、その中身について細かく触れることは、ちょっと面倒臭い(あまりにも精妙な話をしているので・・・)ので、ここでは止めておきますが、一つだけ特に印象に残ったのは、『キャッチャー』という小説の本質について、村上さんが「だからイノセンス自体は、この小説を読む読者にとっては、もはやキーポイントではないんじゃないかと思うわけです」(175頁)と言っているところ。 で、この村上発言を受けた柴田さんは、即座に「なるほど」「この小説、イノセンスがポイントではないというのはちょっと衝撃的ですね」と反応している。 この村上さんの発言と、それを受けた柴田さんの反応が、すごくいいと、私は思うんだなあ。多分、柴田さんは村上発言に一瞬ビックリしながら、すぐにその意味を呑み込んだんじゃないかと。 この点について、私も村上さんと同意見なのよね~。言っとくけど、この村上発言を読んで同意したのではなくて、昔からそう思っていたという意味で。 『キャッチャー』の古典的な解釈というのはひどく単純で、「ホールデン=イノセンス」vs「世間(あるいは大人の社会)=フォニー(インチキ)」という対立項を立てる、というものなんですわ。で、イノセントなホールデンが、フォニーな世間・大人の社会に腹を立て、反抗を試みるけれども、その前に敗れたんだ、と解釈する。そうそう、イノセントな人って弱々しいもんだよね、っていうね。 だけど、わたしゃー昔から、「そんなわけねーだろ」って思ってたわけですよ。 だって、それって、要するにホールデンは正しくて、世間・大人の社会がゆがんでいる、っていう解釈なわけで、いわばホールデンが「正義」、世間・大人の社会が「悪」で、「正義」対「悪」の闘いで「悪」が勝つ、という図式になっちゃうじゃん。 もしそうだったら、正義が悪に負けて、悔しいね、って話になってしまう。 そんなわけないじゃん。「悔しいね」の話のはずがない。 むしろ逆よ、逆。世間とか大人の社会ってのは、「普通」ですよ。正しいか間違っているかどうかは別として、そういうもんだ、という意味で。 で、その「普通」のものに馴染めないって言っているんだから、ホールデンの方がおかしいのは明明白白。だから、この小説に対立項を立てるとしたら、「世間・大人の社会=普通」vs「ホールデン=クレイジー」になるはず。 よござんすか、『キャッチャー』を書く前にサリンジャーが書き上げた『キャッチャー』のショート・ヴァージョンみたいな短編のタイトルは「I'm Crazy」ですからね。ホールデン自身、「自分は頭おかしい」って自覚しているんですから。 だから、頭おかしいホールデンが、普通の世間・大人の社会で通用しない、って話なんだから、この小説は「悔しいね」の話ではなくて、「哀しいね」の話になるわけさ。 この小説の味は、「哀しさ」でしょ? そうなんじゃないの? で、本来「哀しいね」の話である『キャッチャー』を、「悔しいね」の話だと誤解すると、どういうことになるか分かる? 悔しいから、正義の側に加担して、悪を糺そう、という発想になるじゃん。それが、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンの発想であり、レーガン大統領を銃撃したジョン・ヒンクリーの発想ですよ。この二人は『キャッチャー』を読んで、それに触発されて、そういう行為をやってのけたわけですが。 私は、彼らの『キャッチャー』解釈は間違っていると思う。誤読したんですよ、二人は。 そういうことも含め、ホールデン=イノセントっていう解釈はおかしいし、そもそもこの小説はイノセンスの話じゃない、と、私はずーっと思っていたわけ。それを村上さんがずばりと言ったから、私は「ほほう」と思ったわけよ。さすがに分かっているなと。 柴田さんも、そこに感心されたから、素早く「なるほど」と相槌を打ったんじゃないのかと。 ま、そんな感じで、この本、私としてはかなり「納得」しながら読み進めることが出来たのでした。いい本ですよ。ここまで『キャッチャー』を追いつめた本って、なかなか無いような気がする。サリンジャー戦記 翻訳夜話2 (文春新書) [ 村上春樹 ]
November 22, 2018
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ライ麦畑についての原稿を書く上で、何か参考になることはないかと、『あの日、「ライ麦畑」に出会った』という本を読んでみました。 色々な人が・・・っていうか、大半が女性作家さんですが、とにかく色々な人がサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』とどういう形で出会い、どういう風に読み、どういう感想を得たか、といった、この本との関わりを綴ったエッセイを集めたものなんですが。 で、ざっと読んで驚いたのですが、ここで筆を執っている大半の方々に共通した『ライ麦畑』との出合い方ってのがあって、それは「恋人/ボーイフレンド/ガールフレンドが読んでいたから」というもの。中学生くらいの時に、初めて異性の部屋に入ったら、その書棚にその本があった、的な。 で、「へえ、こんな本、読むんだ」的にちょっと驚いたりした揚句、とりあえず借りてみて、ちょっと読んではみたけど、あんまり面白くなかった、的な。 だけど、その後、大人になってから再読して、ちょっと分かる気がした、的な。でも、分かるのがちょっと遅すぎた、的な。 お前ら、そこへ直れっ!! って、ちょっと思う、個人的には。 で、思うんだけど、『ライ麦畑』って、ひょっとして女性には理解しがたいところがあるのではないかと。そういうこと言うといかんのかも知れないけれど。 だけど、この本にエッセイを提供している人達って、名のある作家さんばっかりですよ。なのに、このレベルの感想か、っていう印象は否めないな。 それはね、村上春樹さんと柴田元幸さんがこの本をめぐって対談されている『サリンジャー戦記』という本と比べるとよく分かる。いい歳したおっさん二人が『ライ麦畑』を熱く語りあっているその内容と比べると、こちらの本は如何にも軽い。まあ、軽いエッセイと『サリンジャー戦記』とでは、本としての狙いが違うから、単純な比較は出来ないのかもしれないけれども。 ただ、この本を読んでいて一つだけ、私にピンと来たのは、冒頭の角田光代さんのエッセイ。 角田さんのエッセイの冒頭の一節がすごいよ。以下、引用します: 十五歳で出会ってからずっと、ホールデン・コールフィールドは、私にとってパンク音楽みたいなものだった。正確に言えば『ライ麦畑でつかまえて』という小説は、なのだが、そんな区別は意味がない。小説『ライ麦畑でつかまえて』はホールデン・コールフィールドそのものだし、その小説がくるまれていた白水Uブックスのあの青とベージュのブックカバーも、もうホールデン・コールフィールドそのものなのだ、私にとっては。(11頁) ・・・ううむ、すごいな。さすが角田光代だ。ブックカバーをホールデンの表象として捉えるとは・・・。これは別にからかっているのではなく、そこまで入れ込んでこそ、この本を読む資格ありと、私自身も思っているものでね。 ここだけは、要チェックだな。 ということで、まあ、全体としてはあまりおすすめできる本ではなかったかなと思いますが、それはそれとして、人はこうして『ライ麦畑』に出会うんだ、ということと、『ライ麦畑』に対する女性読者の標準的な感想がどういうものかということは理解したので、個人的には読んだ甲斐はありました。【中古】 あの日、「ライ麦畑」に出会った /角田光代(著者),加藤千恵(著者),久美沙織(著者),桜井亜美(著者),下川香苗(著者) 【中古】afb
November 20, 2018
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急に予定外の連載原稿を書くことになったので、このところ資料をバンバン買い集めているのですけど、そういう場合の常として、資料が古本としてしか買えないことも多く、アマゾンなどを通じて様々な古本屋から本を買うことになるわけよ。 それで気づいたのだけど、アレだね、最近、やばい古本業者がネット上に横行しておりますな。 たとえば、アマゾン経由で各古本業者からの出品本を眺めていると、「1円」という値付けのものが結構ある。 で、そういうタダみたいな値段の古本は、本そのものではなく、送料の部分で業者は儲けるわけですよ。 で、ちょっと前まで、そういう場合の送料って一律「257円」とか、「350円」とか、まあ、そんな程度だったんです。 ところが。 最近、その送料を「1000円」とか、「1800円」とかに設定している古本業者がチラホラあることに気付きまして。 「1円」の古本に送料1800円なんて、そんなの、ありえんじゃん! 新本で、送料無料で買った方がよほど安いわ! で、私もこれまで「1円本」で「送料257円」という本を随分沢山買ってきたので、そのつもりでポチしようと思って、ふと送料が「1800円」とかになっているのに気づいて、急遽、購入を取りやめることが増えてきた。危ない、危ない。 いやあ、こんな「鷺」業者に引っかかったらヤバいよね・・・。 やだね・・・。せめて古本の世界くらい、鷺フリーにしようよ・・・。
November 20, 2018
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アーサー・ペル著『D・カーネギー 自己を伸ばす』という本を読了したので、心覚えをつけておきましょう。 が、その前に。 これ、ちょっと前に家の近くのブックオフで確か108円で買っておいたものなんですけど、読み始めたら、前の持ち主の書き込みがありまして。 まあ、書き込みというか、読み仮名がね。 で、またその読み仮名の字がまるっきり子供の字で、例えば「月賦」「臨む」「顧客」なんて字の横に、それぞれ「げっぷ」「ノゾム」「こきゃく」とか、書いてある。ま、読み仮名がふってあるのは、最初の方のページだけなんですが。 想像するに、親が子供の「自己を伸ば」してやろうとこの本を買い与えて無理やり読ませたのだけど、当該の子は、とりあえず努力して読み始めたものの、続かなかったと。そんな感じかな。まあ、内容から言うと、子供向けの本じゃあないな。 ところで、この本、ちょっと詐欺的なところがあって、本の表紙には『D・カーネギー 自己を伸ばす』とデカデカと書いてあるんだけど、実はこの本、カーネギーが書いた本じゃないのね。著者はアーサー・ペルという人で、カーネギーはまるでタッチしていない。 要するに、これは「カーネギー・トレーニング」という自己啓発セミナーの広報本なのよ。宣伝、宣伝。私もすっかり騙されてしまった。 だけど、転んでもタダでは起きないワタクシ。そんな本でも全部読んで、吸収できるものは吸収し、使える情報はすべてチェック。 まず本書によると、デール・カーネギーが今日なお存在するカーネギー・トレーニングを設立したのは1912年(大正1年)だったということ。最初の教室はニューヨーク市125番街。以来、この自己啓発プログラムは日本を含む世界50カ国で行われ、ここを卒業した人は200万人以上だと言うのだからすごい。ちなみに現在、デール・カーネギー本部はニューヨーク市ガーデンシティにあるらしい。そして現在、4つのコースを提供していて、その4つとは「セールス・コース」「マネージメント・セミナー」「顧客との関係コース」「人材養成コース」から成るんですと。 しかし、このカーネギー・トレーニング、最初はパブリック・スピーキングを教える学校だったんですな。 じゃ、なんでデール・カーネギーはよりによってパブリック・スピーキングの教授をやろうと思ったのか。 もともとミズーリ州の片田舎の貧しい農家に生まれたカーネギーですが、高校卒業後、同州ウォーレンスバーグにある州立師範学校に行って教職免許をとるんですな。だけど結局教職に就くことはなく、セールスマンになる。で、そこそこ優秀なセールスマンになるのですが、彼の本当の目標は俳優になることだった。で、ある程度金を貯めたところで、それを学費にしてニューヨークの俳優学校に入学してしまう。 ところが残念ながら俳優の才能は彼にはなかったんです。で、うだつが上がらないでもがいていた23歳の時、自分が本当にやりたかったのは本を書く仕事だったんじゃないのかと思い至り、俳優になる目標を捨てて、大学での教職を求めて活動する。しかし、当然のことながら、どこからも断られてしまうと。 で、そうこうしている内に、自分が今までに受けてきた様々な教育の中で一番役に立ったのはパブリック・スピーキングのクラスだったことを思い出すわけ。人前で話をする訓練を受けたことで、自分に自信が付き、それがセールスの仕事で役に立ったと。 で、彼はYMCAに教室を借りて、パブリック・スピーキングを教える小さなクラスを始めてみた。そしたらこれが大当たりで、受講者が増えたためについにはかの「カーネギー・ホール」で講演するほどになる。そしてそこから彼は、YMCAとは縁を切り、独自でトレーニング・プログラムを考案、今日のカーネギー・トレーニングの原型が始まると。 ちなみに、カーネギーのパブリック・スピーキングの練習法は、技術論ではないんです。そうではなくて、とにかく人前で話をさせる、というところに重きを置くんですな。何故ならば、人前で話をすることが出来るだけの「勇気」こそがパブリック・スピーキングの要であって、この勇気さえ身に着ければ、他の細かい技術的なものは後から自然についてくるとカーネギーは考えていたから。だからカーネギーの教室では、とにかく各タームに何度か受講生に教室の前に出てスピーチをさせる(題材は何でもいいのだけれども、自分がよく知悉していることについて話すように促したとか--その方が話し易いから)。そしてスピーチ後、他の受講生とともにそのパフォーマンスを評価するのだけど、何しろ人前に立つことが怖くて仕方がない連中が受講しているので、評価に際しては常に好意的な評価をして自信をつけさせるというのが眼目だったとのこと。 ちなみに、カーネギーは、一人の人間が日常生活に必要な勇気を獲得する一番手っ取り早く、かつ確実な方法は、大勢の人の前で自分の意見を披歴することだ、と思っていて、その意味で彼にとってパブリック・スピーキングの訓練は、そのまま自己啓発の訓練でもあったわけね。 で、そんな感じでカーネギーはスピーチのトレーニングを続けていくのですが、その傍ら、彼は本を書くようになり、最初は失敗続きだったものの、リンカーンの逸話集たる『Lincoln the Unknown』が成功し、1926年には『Public Speaking: A Practical Course for Business Men』(1931年に『Public Speaking and Influencing Men in Business』に改定)を出版、次いで例の『人を動かす』が1936年に、またラジオ講演をもとにした『Little Known Facts About Well-Known People』が1943年に、さらに『道は開ける』が1948年に出る、と言った調子で、本の方もバンバン売れるようになると。 もっとも『人を動かす』(1ドル98セントで販売)を書いた時、最初はそんなに売れるとは思わず、初版5,000部(1936年10月)だったんですと。ところが企業の重役向けにダイレクト・メールで宣伝したところ、これが功を奏してそのうち1日5,000部売れるようになっちゃった。で、1年で50万部売れる大ベストセラーになったと。 ところでこの『人を動かす』を書いた時のエピソードが面白くて、それによるとカーネギーのトレーニングに通う人たちというのは、高邁な思想ではなく、明日活用できるような自己啓発の知恵を欲して通ってきているのであって、そういうものをズバリ提供しなければ、たちまち教室は閑散としてしまうだろうという怖れをカーネギーは抱いていたというのですな。そこで彼は図書館に通って参考図書を探したのだけれども、驚いたことにそういう本は一冊もなかった。だったら自分でそういう本を書いて、自分のトレーニング・プログラムの教科書にするしかない! そこでカーネギーは専門の調査員を雇い、一日8時間、18カ月もの間、過去の本やら雑誌やらをひたすら読ませて、どうすれば友人を獲得できるか、どうすれば人に影響を与えることができるか、といったことに関する記事を探させたんです。例えばその調査員は、テオドア・ルーズベルトの伝記だけでも20種くらい読んだとのこと。 で、そこでかき集めたエピソードを使って、カーネギーはトレーニングの受講者に、「ルーズベルト大統領はこういうことをした、ベンジャミン・フランクリンはこういうことをした、リンカーン大統領はこういうことをした。そうやって彼らは成功したのだから、あなた方も同じことをしてみてはいかが?」と、そういう教え方をしたんですな。何しろカーネギーはジョン・デューイの教育哲学の信奉者で、「実践によって学ぶ」ということを重視していたので、とにかく実際に自分で試してみろと。 だけど、そこで終らないのがカーネギーのすごいところで、カーネギーがそうやって教えたことを、受講者が実地で試して、それがどの程度の成功を納めたのかをクラスで発表してもらったというのです。そしてそれがどうして成功したのか/失敗したのかを、受講者と一緒に検討する。 つまり、カーネギーのトレーニングのクラスは、いわば「人間関係の実験室」となったわけですよ。 かくして、もともとはパブリック・スピーキングのクラスとして始まったカーネギー・トレーニングは、ヒューマン・リレーションのクラスへと変貌していったと。これが、カーネギーが「パブリック・スピーキング」の先生から、「ヒューマン・リレーションズ」のグールーへと変貌していったプロセスなわけ。 面白いねえ! だけどさらに面白いのはここからで、カーネギーが教科書として使えるような本を自分で書いて出版しようとしていた頃、カーネギー・トレーニングのニューヨーク州ラーチモントの教室に通っていた生徒に、レオン・シムキンが居たと。レオン・シムキンって、アメリカの出版業界のことに詳しい人間にはピンとくる名前なんですけど、「サイモン&シュスター」という当時の新興出版社のお偉いさん(になる人)なのよ。で、カーネギー・トレーニングで使われていた教材が素晴らしいというので、シムキンが是非うちの出版社で出させてほしいとカーネギーに申し出た。それで『人を動かす』は、サイモン&シュスターから出されたわけ。カーネギーは同社から最初に9万ドルの小切手を受け取った時、呆然としてしばらくそれを机の引き出しにしまっておいたのだとか。 ちなみに、サイモン&シュスターとつながりのあるペーパーバック・出版社が「ポケットブックス社」(「サイモン&シュスター社」のリチャード・サイモンと「ポケットブックス社」のロバート・デ・グラフは友人関係にある)で、それで『人を動かす』のペーパーバック版は1940年にポケットブックスとして出たわけですな。 かくして、カーネギーは人間関係のプロになるわけですけど、じゃあ、カーネギーが辿り着いた人間関係学の最重要理念は何かというと、聖書の黄金律、すなわち「人からしてほしいと思うことは、人にもその通りにせよ」であって、カーネギーの教えのすべては、最終的にはここに行きつくと。(カーネギーの奥さん、ドロシーの言) その他、カーネギーの教授法のベースには、ゲシュタルト的発想(個々の技術ではなく、総体としての人間性を重視する)や、エミール・クーエ的な自己暗示法の応用があったとか。あと、ウィリアム・ジェイムズは「人間の根本的な欲求は、人から認められること」と述べていて、これもまたカーネギーの人間関係哲学に影響を与えているらしい。 なるほどね。一々納得だわ。 その他、本書から私が得た情報としては・・・○『人を動かす』は、これまでに1000万部以上売れている。○ゲリー・ヤンカーとジャック・ホワイトという人が『Improving Yourself』という本を書いていて、様々な自己啓発セミナーを実際に受講し、本当に役に立つのかを実証しているのだが、その中でカーネギーのコースは高く評価されていて、ヤンカー曰く「カーネギーが掲げている諸原則は、どれも健全であり価値のあるものばかりだと信じている」とのこと。○カーネギーが1944年に結婚したドロシー・プライス・バンデルプールはカーネギーの助手として旅回りもし、経営管理に手腕を発揮した。彼女の書いた『夫を成功させる法』(How to Help Your Husband Get Ahead in His Social and Business Life)や『女性の魅力』(Don't Grow Old--Grow Up!)も何カ国語にも訳されるようなベストセラーとなった。○ノーマン・ビンセント・ピールとカーネギーは親交があり、ピールの世話でカーネギーはマーブル大学教会で説教をする機会を与えられている。この際、カーネギーは子供時代の貧しさを語りながら、彼の母親には「神が私たち家族を飢えさせるはずがない」という固い信念があって、これに救われたというい感動的な話をしたという。○カーネギー・トレーニングの受講者は「ゴールデンブック」と呼ばれる小冊子をもらうが、これはカーネギーの『人を動かす』と『道は開ける』から抜粋した箴言集である。○日本でのデール・カーネギー・トレーニングは1963年から始まった。初代スポンサーは望月幸長、二代目が山本徳源、三代目は徳源の妻・悠紀子。女性のスポンサーは世界で2番目だった。 ・・・ま、こんな感じかな。 108円で買った本から、これだけ引き出せば十分でしょ。 ということで、この本、カーネギーが書いた本ではないですけど、カーネギー・トレーニングの何たるかを理解するためには、役に立つ本と言えそうでございます。【中古】 D・カーネギー 自己を伸ばす カーネギー・トレーニング /アーサーペル(著者),香山晶(訳者) 【中古】afb
November 18, 2018
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話題の映画『ボヘミアン・ラプソディ』を、レイトショーで見て参りましたよ。 で、ちょっと驚いたんですけど、金曜日とはいえ、平日のレイトショーにも拘らず、結構、座席が埋まっていたこと。最近、洋画を見に行って、こんなに沢山の観客がいたのを見たことがないくらい、お客さんが入っていたんですわ。 で、クイーンの映画を観に行くなんて、私と同じ50代ばっかりかと思いきや、若い人も結構いて。中には私と同世代の親父さんとお袋さん、それに大学生くらいの息子さんの3人で仲良く観に来ている、なんてのもいたりして、あらま、クイーンが一家団欒に貢献しているじゃん。 で、映画としては、この種の実録映画にありがちな構成で、地元でそこそこ人気のバンドがあって、その中のボーカルが何らかの理由で抜けて、新しいボーカルを探しているうちにドンピシャの奴がいて、それで最初のレコード契約が出来て、どんどん人気が出て、そのうち仲間内で喧嘩や軋轢が生じて解散寸前になって、だけど何かの理由で再び団結して・・・っていうね。例えば、イーストウッドが「フランキー・ヴァリとフォーシーズンズ」を描いた『ジャージーボーイズ』なんかと比べても内容的にはほとんど同じという。 だけど、それでもまあ観てしまうのは、やっぱりクイーンの曲がね、圧倒的にいいわけよ。そもそも全曲知っているわけだから。私より先にこの映画を観た同年代の同僚は、「映画観ながら、自分でも歌っちゃうよ」って言ってましたが、まさにその通りでありまして。 ポワポワポワ・・・(過去回想) あれは私が小学校5年生の冬、すなわち1974年から75年にかけての冬、突如「ラジオ」なるものに興味を抱くようになった私は、自分用にポケットラジオを買い、それで洋楽を本格的に聴くようになったんですな。で、そんな時、よくかかっていたのが、キャプテン&テニールの「愛ある限り」とか、スタイリスティックスの「愛がすべて」、もうちょっと後ではポール・マッカートニー&ウィングスの「あの娘におせっかい」とか、そういうの。その中で、クイーンの「キラー・クイーン」もかかっていて、私はこれを聴いてすごいなと思ったわけですよ。クイーンってバンドはいいなと。 だもので、その2年後くらいにベイシティ・ローラーズの「サタデーナイト」が日本でもヒットして、私の友人たちがようやく洋楽に目覚め始めた時、既に2年ほど先んじていた私は、こんなへなちょこバンドにイカレテいるようでどうすんだ、イギリスには遥かにすごいクイーンってバンドがいるじゃないかと、先輩面しておったわけ。その意味で、私は日本で最初にクイーンを評価した小学生だったと思います。 で、「キラー・クイーン」は、クイーンにとって最初の大ヒットであり、このヒットをきっかけにバンドとして上昇気流に乗るわけだから、私の洋楽歴は、まさにクイーンと共にあったと言ってもいいでありましょう。 だから、今回のこの『ボヘミアン・ラプソディ』はね、私とクイーンの合作と言ってもいい(わけないだろうっ!!)。 ポワポワポワ・・・(現実に戻る) というわけで、クイーンに対しては冷静を保てない私、劇中でかかる28曲(だったかな?)の全曲を、胸を弾ませながら聞き惚れていたわけですよ。 しかし、フレディが亡くなったのが1991年だとすると、もう、あれから四半世紀以上経ったのか・・・。「フレディがエイズにかかった」というニュースが入ってきた、そのわずか数日後くらいに、今度は「亡くなった」というニュースが入って来て、衝撃を受けたのを今でもよく覚えていますけどね。 ま、ちょうど今、期せずして「アメリカ・ロック史」という授業をやっていて、先週、ボブ・ディランのところまで来たのですけど、あと数回後には1970年代半ばの話になると思うので、その辺りでクイーンの話が出来ればいいなと思っております。その頃まで、この映画、上映していてくれるといいな!シアー・ハート・アタック [ クイーン ]オペラ座の夜 [ クイーン ]クイーン/イニュエンドウ 【CD】
November 17, 2018
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長年愛用してきた私の iPhoneちゃん(iPhone 5)ですが・・・今朝方、絶命されました・・・。 もう、しばらく前からカメラが使えなくなり、やがてメールが使えなくなり、ネットにもほとんどつながらなくなり、ほぼ電話だけの機能しかなくなって、とても「smart phone」とは呼べない、むしろ「idiot phone」とか「moron Phone」と呼ぶべきではないか、というところまで落ちぶれていた我が iPhone ちゃん。しかし、電話さえ使えるのであれば、それでいいじゃないか。もともと携帯電話というのは、そういうものなんだから、と、今日の今日まで使い続けていたワタクシ。 しかし、ついにその電話機能すら使えなくなり・・・というか、そもそも電源をオンに出来なくなり、私の iPhone ちゃんは静かに息を引き取られたのでございます。 で、さすがにそうなると、すぐにでも新しいスマホをなんとかしないと、ということになりまして。 今や、スマホのない生活って、あり得ないもんね! 例えばの話、私のようにやたらにクルマで移動する人間が、どこかで事故ったとするじゃないですか。その場合、公衆電話がほとんど壊滅した日本社会の中で、SOSも呼べない、警察も呼べない、救急車も呼べないというのじゃ、途方に暮れるしかない。私、今でも1年に1回くらい、スマホを家に忘れたまま通勤してしまったりするのですが、そんな時、途中で気付いた時点で若干パニクるもん。 というわけで、早速、機種変しに行きましたよ。 で、私が何を買ったかと言いますと・・・最新機種の「X」シリーズではなく、「8」でございます。まあ、私のような使い方だと「X」は宝の持ち腐れだし、サイズも大きすぎなもので。今買える一番小さい機種が「8」なので、それでいいかと。あ、色はシルヴァーね。シルヴァーと言っても、かなり白に近いシルヴァー。 で、「8」を買ってきて、とりあえず使ってみると、まあ、サクサク動いて気持がいい。そりゃ、瀕死の「5」と比べたら、そうなりますわな。 だけど、デザインとしては、依然として「5」の方が好きだな・・・。あの、ちょうどいい小ささで、ちょっと厚みがあって、角のところのエッジの効いたデザインが良かったので、今の薄くて、大きくて、角のとれたデザインは、あんまり好みではない・・・。もうちょっと早く「SE」を買っておけばと、後悔するばかり。 だけど、まあ、いいや。自分のものになったのだから、当分、この新しい iPhone ちゃんと仲良くしましょう。 そうそう、ケースも買ってあげないとね! 生まれたての裸ん坊じゃ可哀想だ。
November 16, 2018
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デール・カーネギーの『話し方入門』(原題:How to Develop Self-Confidence and Influence People by Public Speking, 1956)という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 ところでデール・カーネギーって、1888年生れの1955年没ですので、1956年に出版されたこの本は、死後出版になる・・・わけですけれども、そもそもこの本はカーネギーの二番目の奥さんだったドロシーさんが編纂したもので、その意味ではカーネギーの本であると言っていいのかどうか、って感じです。 とはいえ、カーネギーが話し方の本を書いていなかったというわけでは決してなく、その種の本はいくつか書いております。例えば1926年の『Public speaking: a Practical Course for Business Men』とか、その改良版である『Public Speaking and Influence Men In Business』(1937) とか。だから、『話し方入門』も、その延長線上にあると考えれば、カーネギーの本と言っても間違いではないと。 ここがね、カーネギーの本を云々する時にいつも問題になるところで、彼の本ってのは、彼の死後もどんどんリバイズ版が出ちゃうわけよ。例えば2005年にも『Public Speaking for Success』という本が出ていますが、これは Arthur Pell というライターが、カーネギーの本に手を入れて現代風にしたもの(らしい)。こうなってくると、カーネギーの本ってのは、いわば「成長する武器」みたいなもんなのよね~。 だけど、それはまた、彼の本が、ちょっと装いを変えれば、今でも十分通用するということでもありまして、それは大したものなのかなと。それに、そもそもカーネギーというのは、スピーチ学校の先生として頭角をあらわして行ったのであって、その意味ではこの本こそカーネギーの原点、と言うこともできるかも。 で、そういうことも踏まえた上でこの本を読むと、まあ、それなりに、役に立つことが書いてあるっちゃー、ありますね。 だけど、基本、カーネギーの話し方指導は、「練習、練習、また練習」だからね。王道なし、っていうスタンス。優れた演説家になりたかったら、一にも二にも練習だっていう。ナチュラルに演説したければ、ナチュラルに演説できるようになるまで練習するんだっていう。準備を怠って、いいスピーチなんかできるわけないっ!っていうね。 でも、それだけだったらさすがに指導法にならないので、やはり「コツ」的なことも伝授しております。 例えば「冒頭に、ユーモラスな話でもして、聴衆を笑わかせてやろう、などと夢にも思うな」とか。人を笑わせられるような才能というのは天性のものなので、素人がそんなことをやろうとしても必ず失敗する。かと言って、「私はこれから○○についての話をします」と宣言するのも、あまりにもつまらない。笑いを取ろうとしないまでも、聴衆の好奇心を掻き立てるような話題、それも出来るだけ具体的な話題をまず持ってくることを心掛けよ、とかね。 もっともな指導であります。その他、役立つ小ネタを列挙していきますと・・・○抽象的な言葉を使わず、誰にでも分かる言葉を使え。年号を言う時は、ただ「1780年」と言うのではなく、「アメリカ独立から4年後」と言え。○誰もが知っている著名人の言葉を引用するのもいい手である。○最初に聴衆に質問をするのも、いい手である。○重要な言葉を長く、強く発音し、そうでもない言葉と言い方を変えろ。○一回のスピーチに、話題を盛り込み過ぎるな。○スピーチを丸暗記しようと思うな。目の前にいる聴衆の様子を見ながら、対話をするように話をしろ。○聴衆と目線を揃えるよう、出来るだけ演台は使わない。また聴衆の注意力が散漫になるから、ゲストを演台の横に座らせたりしないこと。○関心は伝染するので、情熱を込めて話をすること。自分でも興味のないことを話題にしてはならない。また本当にそう思っていないのに、人を褒めたりしない。○人間は、自分のことにしか興味がない。だから聴衆の誰もが気になっている「自分のこと」に係わることを話題にすること。○重要なことは、言い方を変えて何度も反復すること。○スピーチの終り方は、印象的にすること。コツとしては、要点をまとめるか、行動を起こすよう訴えるか、聴衆を心から褒めるか、笑わせるか、スピーチの内容にあった詩句・聖書の文言を引用するか、最高潮に盛り上がる話で切り上げるか、そのどれかを選べ。一番やってはいけないのは、「これで私の話は終わりです」といって引き下がること。こんな素人丸出しの終わり方をやってはいけないと。 ・・・とか、そんな感じ。で、これらのスピーチのコツを、ただ淡々と述べるのではなく、優れた演説家の実例を挙げながら説明する、というところがカーネギーらしいところ。特に、テオドア・ルーズベルト大統領とリンカーン大統領の演説にまつわるエピソードなんかがやたらに出てくる。カーネギーは、この二人の大統領がことのほかお気に入りだったんでしょうな。 あ、あと、ウィリアム・ジェイムズの引用も多いねえ。エマソンも多少出てくるけれども、それよりウィリアム・ジェイムズがこう言っている、ああ言っているという話がやたらに出てくる。 それからもう一つ、演説中に自分の話を見失った時、どうするか、ということに触れている箇所があって、スゴイなと思ったんだけど、例えば、「並みの社員が成績を上げられないのは、自分の仕事に対し本当に興味を持つということがほとんどなく、積極性を発揮することも皆無に近いからです」と言い終わったところで、次に何を言うのだったか忘れてしまったとする。で、忘れてしまったからといって、そのまま沈黙したらもうこのスピーチは死んでしまう。 そこで、カーネギーが薦めているのは、連想法ね。最後に自分が言った言葉の中から、何かを拾えと。 例えば、先の例の中に「積極性」という言葉が出てくる。これを拾って「積極性とは創造性であり、自分から進んで何かをやることです、いつまでも人の指示を待っていないで・・・」みたいなことをいいながら、内心では「何を言うつもりだったんだっけ?」ということを必死で思い出せと。 で、それでもまだ思い出せなかったら、さらに拾うわけ。先に「指示を待つ」ということを言ったから、これを拾って「何ら想像的思考をしようとしない社員に向って、休みなく指示を与え指導し激励する、そういう時のいら立ちには想像を絶するものがあります」とか言って先を続ける。それでもまだ思い出せなかったら、「想像力ーーこれこそ欠くべからざるもの。ソロモン曰く、『想像力なきところ、民族は滅ぶ』と。」などと続ける。これを延々と繰り返している内に、何とかごまかせるだろうと。 すごいな、このコツ。ホントにこれでうまく行くのかね??!! ま、そういう仰天のアドバイスも含め、カーネギーはなかなか良いことを教えてくれております。 で、まあ、そんな感じで「ふんふん、なるほど」とか思いながら本書を読んでいたわけですけど、ふと我に返って、「何じゃこりゃ」って思うわけですよ。 つまりね、日本人として普通に生活している限り、スピーチをする、ということってあんまりないじゃん? まあ、披露宴で祝辞を述べるとか、そういうことはあるかも知れないけれど、だからといって、「スピーチに上達しなければ、出世できん!」とか、思わないでしょ、普通。 だけど、アメリカ(あるいは西欧)だと、スピーチってそんなに重要なのかな・・・。上達したい!、本を買ってでも! って思うのかな・・・。 思うのかもね。 例えばトマス・ペインの『コモン・センス』とか、あれはさ、ある意味、スピーチじゃん。で、そのスピーチが、つまるところ、アメリカをイギリスから独立させちゃったわけだよね。 あるいは、シーザーを暗殺したブルータスを褒めながら弾劾するスピーチをしたマルクス・アントニウスの例もあるしね。歴史が、スピーチで決まるという。 そう考えると、果たして日本の歴史で、スピーチが歴史を変えた、ってことはあるのかしら。 まあ、その辺がスピーチというものについての、日・欧米の考え方の違いになって現われてくるのかもね。 というわけで、スピーチに重きを置かない日本において、果たしてカーネギーの知恵がどこまで役立つのか、イマイチ分かりませんけれども、いい本であることはあるので、おすすめです。カーネギー話し方入門 文庫版 [ D・カーネギー ]
November 15, 2018
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大学院で翻訳の授業をしているのですけれども、文学作品の翻訳ってのは、難しいもんですな。読めばわかる英文であっても、それをきっちり日本語に訳そうとすると、まあ、難しい。 例えばヘミングウェイの「インディアン・キャンプ」の一節に、「His hand came away wet.」という英文が出てくる。 シチュエーションとしてはですね、あるお医者さんが、寝ている男の毛布を剥ごうと思って手を差し入れたら、その男がカミソリで喉を掻き切って自殺していて血まみれだったもので、差し入れた手が真っ赤に染まっていた、という場面でございます。 そういうシーンでもって、「His hand came away wet.」をどう訳すか。これが難しい。 例えば「手を引き抜いたら、濡れていた」とするか? だけど、私はそれはおかしいと思うんだなあ・・・。何がおかしいかというと、手を引き抜いてから濡れていることに気づいたはずがないから。何の気なしに手を差し入れたら、何か濡れたものに触れ、「何だ?」と思って引き抜いたら、血で染まっていた、っていうことでしょ。だから、濡れたことに気づいてから、手を引き抜いたとしか考えられんのよ。 だけど、英文は極めてシンプルに「His hand came away wet.」としか書いてない。これを一体、どう訳せばいいというのか。 まあ、私案としては、「何か濡れたものに触れて、彼は手を引っ込めた。」としてみたのですが、果たして、これでいいのかどうか・・・。因みに、私の恩師の訳だと「手を引っ込めると濡れていた。」となっていて、シンプルに訳してある。ううむ、その方がいいのか・・・。 こういうのをいちいち気にしていると、翻訳なんかできないね。 で、今はトルーマン・カポーティの「ミリアム」という短編を院生と翻訳しているところなんですが、これがまた難しい。ヘミングウェイとはまた別な意味で難しい。特に冒頭の数節、普通の作家だったら、ピリオドを使うであろうところで、カポーティはコロンとかセミコロンを使うんです。だもので、コロンとかセミコロンでいくつかの文章が緩やかに関連付けられながら、どこまでも並列に並んでいくのですけど、これが訳しにくい。ピリオドのように切っていいのか、それとも、どうにかこうにか接続詞をくっつけて並べていくか。 でも、カポーティはもちろん、意識的にコロン・セミコロンを使っているはずですからね。そこを汲まないというのは、カポーティに申し訳ない、と思い始めると、途端に翻訳の筆が止まるわけよ。 翻訳作業って、英語の小説を読む上で、すっごく勉強になるけれど、それを職業としてやろうとは思わないな・・・。
November 14, 2018
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後期の大学院の授業に、ミャンマーからの留学生(女子)が一人、聴講に来ているのですが、時々、チラッと祖国の話を聞くと、なかなか大変なところのようですな。 一言でミャンマーとかビルマと言ったところで、実は多民族国家なわけですよ。各部族によって習慣なども全然違う。それを無理やり一つの国にしちゃったものだから、部族間の対立がすごいらしい。またイスラム教徒主体のバングラデシュと隣接しているものだから、これが例の「ロヒンギャ問題」(現地語では「ロヒンジャ」だそうですが)の火種になっていて、これまた大変なのだとか。 で、その留学生は、まさにバングラデシュとの国境付近の村の出身で、彼女は「ロヒンジャ族」なんですが、隣国からやって来たイスラム教徒が自分たちに同化しようと勝手にロヒンジャを名乗っていて、困っているのだとか。彼女に言わせれば、本当のロヒンジャは自分たちなのに、と。 で、そういうごたごたがあるものだから、その留学生も、叔父さんだとか従兄弟なんかが、何人も殺されているんですと。ひゃー。 とにかく、大変なところみたいですよ。 で、それはさておき。 私の研究室でやっているその授業が終って帰ろうとしている時、その留学生が、研究室に飾ってある私の道着姿の写真に目を留めまして。 で、「センセイ、これなんですか?」と聞くので、これこれ、こういう武術を習っているのだ、と答えると、「私、それ、興味あります。今度、道場に行っていいですか?」とのこと。 故郷が物騒な国だから、日本の護身術を身に着けたいと。なるほど、切実だねえ・・・。 ということで、練習場所と練習時間を教えておきましたが、さて、彼女は本当にやる気があるのでしょうか。 ま、日本に留学しているのだから、日本の古武道を習うなんてのは、いいことだと思いますけどね。
November 13, 2018
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日本テレビ、日曜夜の『今日から俺は!!』御覧になってます? 『勇者ヨシヒコ』のスタッフが作ってますから、当然、面白いわけでありまして、愚考するに、今シーズン、見るべき価値のあるドラマって、これだけじゃないかと。 で、基本、ツッパリ不良系学園ドラマなので、その時点で面白いのですけれども、時代設定が80年代なわけですよ。 だもので、このドラマに女子高生役を演じる女優さんたちが聖子ちゃんカットで登場する。 で、今見ると、この聖子ちゃんカットがすごく・・・新鮮。っていうか、斬新に映るわけですよ。 思い返せば私自身の高校時代も80年代初頭であって、私自身は男子校だったのでアレですけど、中学校時代の同級生の女の子たちが、高校に入ってほぼ全員が聖子ちゃんになったのを、驚異の目で遠くから見守っていたのでした。だから、私自身、聖子ちゃんカットなるものをリアルタイムで経験しているわけね。 しかし、今から思うと、この聖子ちゃんカットという髪型は、ある意味、素晴らしかったのではないかと。 つまり、可愛らしい子は可愛らしく、そうでない子もそれなりに、という意味で、すぐれて平等主義的な髪型だったのではないかと。当時の女子の制服みたいなものでしたからね。それにしちゃえば、何とかなるという。 いい時代だったのかもね。 あと、ツッパリ男子たちの、短ランっていうの? あれも、今見ると斬新。 ああいうの、今、パリコレとかに出したら、めちゃくちゃ受けるんじゃないかなあ。学生服をあそこまで個性的に改良・・・じゃなくて改変か・・・するって、すごくない? ってなわけで、80年代の高校生ファッションが再現されていることへの懐かしさに涙しながら、ツッパリたちの動向から目が離せないワタクシなのでありました、とさ。
November 12, 2018
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今週末はほとんど修論・卒論の添削で終ってしまったのですが、少しは息抜きもしなきゃ、っつーことで、『Spy』という、日本では公開もされず、ビデオスルーされたスパイ映画を観てしまいました。 が! これが案外面白かったという。 何しろこの映画は「魅惑のM字ハゲ」ことジュード・ロウと、「そのまんまセクシー・ハゲ」のジェイソン・ステーサムが出ているスパイ映画なわけですよ。二人共主役級じゃん? どんなに男性ホルモンたっぷりな映画かと思うでしょ? ところが全然違ったという。 実はこの映画、メリッサ・マッカーシー演じるおデブのCIAエージェント、スーザン・クーパーが主役だったのでありまーす! っていうか、メリッサ・マッカーシーって誰? それはともかく、ネタバレ覚悟で本作の粗筋をちらっと言っておきますと、コンパクトで持ち運び自由な核爆弾がボヤノフというギャングの親玉に盗まれて、それがテロリストの買い手を探して売りに出ているという情報がCIAにもたらされるんですな。で、華麗なるCIAエージェント、ジュード・ロウ演じるブラッドリー・ファインがボヤノフの家で行われていたパーティに潜入、ボヤノフに銃口を突き付けて、核爆弾の隠し場所を白状させようとした・・・ ・・・んですが、花粉症だったファインは、ボヤノフに銃口を向けたままくしゃみをし、その拍子にうっかりボヤノフを射殺してしまうんです。 何ソレ? で、銃声を聞きつけたボヤノフの手下がファインを殺そうと襲ってくるのですが、CIA本部でファインのバックアップをしていた有能な内務官、おデブのクーパーの適切なガイドで窮地を切り抜け、無事、脱出することに成功する。 しかし、爆弾の在り処を知っている唯一の人物をうっかり射殺してしまったので、CIAとしては超困ったことになったわけですが、しかし、どうやら爆弾のテロリストへの売却の手筈はそのまま進行しているように見える。実は、ボヤノフの一人娘のレイナが、父の跡を継いで組織のトップとなり、爆弾の売却を進めているらしいんですな。 そこで一度しくじった失敗を挽回しようと、ファイン捜査官はクーパーのバックアップを受けながら、レイナの屋敷に潜入し、爆弾の在り処を探り出そうとするのですが、一枚上手だったレイナに待ち伏せされ、ファインはあえなく殺されてしまう。長年ファインとコンビを組んできて、実はファインのことが好きだったおデブのクーパーは、遠隔監視とはいえ、目の前でファインを殺されてしまったことに衝撃を受けると。 で、CIAとしては、死んだファインに代わって、レイナの動向を探る新しいスパイを派遣することにするのですが、その候補の一人がジェイソン・ステイサム演じるフォード捜査官。ところが、秘かにファインのことが好きだった内務班のクーパー捜査官が、ファインの弔い合戦として、自らこの任務に立候補するんです。 実は、訓練生時代、クーパーはものすごく有能なスパイの才能を示していたのですが、ファインと組むようになって、彼から「君は内務向きだ」と言われたため、この言葉に素直に従って、ファインをバックアップする内務班に勤めるようになっていたわけ。 で、上司のクロッカーは、クーパーの提案を受け入れ、彼女にレイナ監視の役割を与えるのですが、これに立腹したフォード捜査官は、CIAに辞表を提出、その実勝手に爆弾取り引きの阻止にしゃしゃり出ることに。 かくして、おデブで間抜けそうだけど、実は超有能なスパイの才を持つクーパー捜査官と、超有能そうに見えて、実はドジなフォード捜査官、それに現地でクーパーのサポートをすることになったイタリア人スパイのアルドも交え、パリやブダペストを舞台に派手な捜査が始まる・・・。さて、彼らはマフィアの若き女ボス・レイナを取り押さえ、テロリストに核爆弾が渡るのを防ぐことが出来るのか?! みたいな話。 で、結論から申しますと・・・ この映画、超面白れ~! ドタバタのようなところもあるのだけど、結構、凝った、しかもしっかりした筋書きがあって、スパイ映画としてちゃんと成立している。それでいて、細かいところまで行き届いたギャグの連続で、笑える、笑える。 で、何よりも主役クーパー捜査官を演じるところのメリッサ・マッカーシーが実にすばらしい演技をしているのよ。 で、映画を観終わった後、メリッサ・マッカーシーって誰? と思ってググったところ、エミー賞なんかもとっている実力派のコメディ女優だったという。いやあ、アメリカの芸能界って人材豊富だねえ。まだまだ日本で知られていないすごい俳優がぞろぞろいるじゃないの。本作のイタリア人エロ親父スパイ・アルド役を演じたピーター・セラフィノーウィッチュもいい感じだったし。 ということで、『Spy』という映画、映画ファンなら観ておいて損はないB級映画なのではないかと。さあ、レンタル・ビデオ屋に急げ! ・・・いや、今は「アマゾン・プライムへ急げ!」かな?SPY/スパイ【Blu-ray】 [ ジェイソン・ステイサム ]
November 11, 2018
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先週、実家に帰っていた時に母と話をしていてははーん、と思ったことがありまして。 それはコンビニに関することなんですが、最近、母はよく近くのコンビニを利用するようになったと。 以前、母はコンビニなるものに無関心で、そこに立寄るということが殆どなかったわけ。スーパーで必要なものを買えばいいので、コンビニに用事がなかったんですな。 ところが。 やはり86歳という年齢は怖ろしいもので、最近、自分一人のために昼食とか夕食を作るのが面倒臭くなってきたと。それで、コンビニに行けば、各種お弁当的なものを売っているということに気付き、それを利用するようになったというのですな。 ふうむ・・・。なるほど。 で、今日もちょいと様子を聞こうと思って夕方電話したら、「ちょっと出かけていて、さっき帰ったところ、これからコンビニで買ってきたお弁当を食べるのよ~」とのこと。 今までコンビニというと、どちらかと言えば若者のものというか、少なくとも現役世代の人が利用するもんだとばかり思っていたんですけど、そういう母の言葉を聞いて、コンビニってのは、これからますます老人向けのものになっていくのかなと。老齢化社会ですからね。 だとしたら、コンビニ業界も、これからは今以上に老人向けの対策をしないといけないんじゃないですかね? 例えば、老人が買って食べるのにふさわしいようなメニューのお弁当も置く、とかね。あるいは、少な目の量のお弁当とか。 あと、雑誌コーナーも、若者向けの・・・その・・・そういう雑誌じゃなくて、お達者倶楽部的な雑誌を置くとか。『月刊ゲートボール』とか、『淡交』とかね。 それにしても、おじいさん、おばあさんがコンビニにたむろする時代が来るのかなと思ったら、少し笑えてきた。 で、ふふふと思ったんですけど、次の瞬間、ハッと思いまして。 一人寂しくコンビニ通いしているのは、お前の母親じゃないか・・・。 母上・・・申し訳ない・・・。
November 10, 2018
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11月3日はわれら夫婦の結婚(式)記念日! だったんですが、たまたま帰省する用事があって当日にお祝い出来なかったものですから、今日、祝い伸ばしにしてあった記念日をお祝いするディナーを食べに行ってきました。たまたま最近ジャケットを新調したものですから、ちゃんとネクタイを締めて。 で、それも目出度いことなんですが、丁度、レストランに向けて出かけようとした折、メールが入ってきまして。何かと思ったら、某雑誌から原稿の依頼ではないですか! 内容は得意のサリンジャー・ネタ、しかも半年の連載というお話し。 当然、受けるでしょ。 ってなわけで、突然、降ってわいたようないいお話しをいただいてウホウホよ。 で、ハッと思い当たることが。 最近、ホ・オポノポノに凝っているものだから、例の魔法の呪文、「I love you.」「I'm sorry.」「Please forgive me.」「Thank you.」の4語を思い出す度に呟いて、記憶のクリーニングを続けているのよ。それで天からチャンスが降ってくるならお安いもんだと思って。 そしたら、これだもん。 ほらね。信じる者は救われる。何でも疑わずにやってみるもんだねえ・・・。 というわけで、今日は一日、気分のいい日となったのでありました、とさ。読者の皆さんも、どう? ホ・オポノポノ。きっといいこと、ありますよ!
November 9, 2018
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今日は昼からの出勤だったので、午前中、床屋に行って髪をさっぱりさせてきました。 あ、それで思い出したのだけど、先ごろ滞在したポートランドって、すっごく床屋の多い町でね。もう、石を投げれば床屋さんに当るくらい沢山ある。ちょっと盛りましたけど。 多分ね、ポートランドって、髭を生やしている人が多いのよ。それで、髭の手入れをする必要があってのことなんだろうと思うのですが、それにしてもこんなに床屋だらけの町も珍しいなと。 ま、それはともかくといたしまして、ここ日本でのお話し。 最近、私が気に入っているのは、近所にある「3Qカット」。いわゆる「1000円カット」のお店でありまして。 前にも書きましたが、わたしゃ床屋っつーものが嫌いでね。髪の毛切るのに1時間近くかけるなんて愚の骨頂って思っているので、シャンプーなし、髭剃りなし、10分ほどのカット時間で1000円、なんて床屋さんが出来たのは大歓迎。もっとも、わが3Qカットさんは、8月からちょい値上げして、料金1200円也なんですけどね。でも、それだって十分安い。 で、ああいうところって、シャンプーをしない代わりに、髪の毛を切った後、掃除機みたいなホースで、髪の毛の切りくずを吸うじゃん? あれが結構好き・・・。 まあ、そういう退廃的な趣味のことはさておき。 こういうところで髪を切るようになって、ふと気づいたのですけれど、客の中に案外、女性客が多いなと。 普通の床屋に行っていた時は、となりの椅子に女性客が座るってことがほとんどなくて、だから床屋ってのは美容院と違って純粋に男の領域なのかと思っていたわけよ。だけど、この1200円カットの店では、大概、女性客と一緒になる。そうでないことの方が珍しいくらい。 まあ、女性客と言っても、大概はおばさまですけどね。 女性も貫禄のある「おばさまクラス」に出世すると、えーい、髪の毛切るのに○千円もかけるなんてしゃらくさい! 10分1200円で上等だ! って感じになるんでしょうか。 でも、賢いよね! 私はそういう女性、評価するわ。 それに、10分でカットするったって、結構、上手だよ。店から出ていく女性客をチラ見すると、センスよくこぎれいに見えるもん。 ま、そんなことを考えながら、ワタクシもボサボサ髪の毛から小ざっぱりしたいい男(?)に変身したのでしたとさ。
November 9, 2018
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来年度の授業をどうするか、そろそろ決める時期なんですけれども、教務委員の先生から「教育関係のオムニバス講義を一回分(90分)だけやってくれませんか?」ってなご依頼を受けまして。 教育関係の授業? ワタクシに? わたしゃ、アメリカ文学が専門なんだぜ?! 教育のことなんかしらないよ! しかし、「そこを何とか一つ」と仲良しの先生から頼まれると、無碍に断るのも悪くて。 でも、教育関係の授業って何やればいいの? まあ、アメリカに関することが期待されているのだろうから、アメリカの学校制度について、ちょっとしゃべればいいのかしら・・・。 とはいえ、アメリカの学校制度自体、よく知らないしなあ・・・。 で、何かいい本はないかとアマゾンで検索してみたけれども、これが意外にないのよ。教育学の先生で、ちゃんとアメリカの小中高の教育がどうなっているか、体系的に調べている人って、いないのかね? で、困ったなと思いながら、さらにネット・サーフしていたら、ネット上にはそれなりにアメリカの学校制度についての情報があることが分かりまして。 ま、要するにアメリカの場合、文科省的なものがあるわけではなく、教育問題は各州に任されているし、また州政府は州政府で、地方地方の教育委員会に任せているらしいんですな。だから、「アメリカの学校制度はかくかくしかじか」って、一概には語れないわけね。多分、だからこの話題に関する本が少ないのでしょう。 だけど、それでもなんとなく共通する理念というのはある。 例えば、教師は教科教育しか担当しない、ってのは、ほぼどこの州、どこの教育委員会でも共通する方針らしい。クラス運営とか、放課後にクラブの面倒を見るとか、そういうのは先生に任されているわけではないのね。 じゃあ、生徒の中で問題行動を起こす奴が現われたらどうするか? それはね、すべて校長先生の仕事なんだって。要するに悪ガキは、校長先生のところに送られ、そいつをどう処分するかは校長先生の所掌事項であると。 ふーん。そうなんだ。なるほどね。 あと、そもそも「義務教育」という概念がないので、学校に行く権利はあるけど、行かない権利もある。だから、行きたくなければ行かなければいいので、「不登校」という状況はありえないと。 はーん。そうなんだ。なるほど、なるほど。 なんか、調べているうちに、面白くなってきた。結構、いい制度じゃん、アメリカの学校システム。 まあ、付け焼刃で一コマ丸ごと15回分の授業をやるのは無理だけど、そのうちの1回分だけやれというのなら、やれなくもないかな。それに、アメリカの小学校、中学校、高校がどういう風に運営されているのかを知るのは、小説を読む上でも参考になることがなくはないだろうしね。 ちょっと、やってみますか・・・。
November 8, 2018
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いよいよアメリカ中間選挙の投票が始まったようで、トランプ政権2年間の通知表が出ますなあ・・・。 でもね、ワタクシ、あんまり興味ないの。だって、よその国のことだから。ってか、日本国内の政治すらあんまり興味ないんだもん。だから文学者なんだし。 だけどワタクシ以外のアメリカ文学会の人たちって、トランプ・ネタがすごく好きなんだよね。みんな口角泡を飛ばして論じ合っているよ。どうしてだろう? しかも、ほぼ全員が反トランプという。 今回、上院だけでなく下院まで共和党が勝ったら、みんな憤死しちゃうんじゃないの? ま、ワタクシはそうなる可能性は十分あると思うけどね。 でもさ。そんなのどっちでもいいじゃん? 仮に今、トランプが勝ったって、それでアメリカがどうなるもんでもないって。もっと文学者らしく、大所高所からアメリカのことを見て、信じていなさいよ。植民地時代のアメリカなんて魔女狩りやってたんだぜ! 奴隷制もあったし。ベトナム戦争やってたこともあった。たまにアホなことやるのがアメリカじゃないの。トランプ一匹ぐらいでゴタゴタいいなさんなって。 というわけで、トランプが勝つか負けるかにはあまり興味がないんですけど、人と反対のことをするのが好きなので、今回の選挙では敢えてトランプの勝ちに賭けようかな。日本でトランプの勝ちに賭けているのは、木村太郎とワタクシの二人だけだと思いますが、その分、ハイリスク・ハイリターンに期待するってことで!
November 6, 2018
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はーい、名古屋に戻ってきました〜。 さて、今回の帰省ではたまたま姉も一緒だったのですが、姉のところの現在のマイブームは「タルティーヌ」だという話を聞かされまして。 タルティーヌってご存知? タルティーヌってのは、まずフランスパン(バゲット)を輪切りではなく縦に切ってトーストすると。で、焼き上がったバゲットにたっぷりバターを塗り、そこへさらにたっぷりイチゴジャムを乗せると。まあ、これがタルティーヌの基本形たる「コンフィチュール・エ・ブロ」なんですが、ここで重要なのはその食べ方ね。 そう、タルティーヌはカフェオレとセットなのでありまーす。先ほど作ったタルティーヌを、カフェオレに浸して食べる。で、これが典型的なフランス人の朝食であると。カフェオレに浸すので、フランスパンの方は少々堅くなっていても大丈夫。おそらく、夕食などで食べ残してしまったパンを、翌朝になって美味しく食べる工夫だったのでありましょう。 で、姉の指導に従って私もタルティーヌとやらをカフェオレに浸して食べてみたのですが、これがなかなか旨い。フランスパンってのは単体で食べると堅いですが、反面、水分を吸収し易いので、カフェオレに浸たすとたちまち柔らかくなって、食べ易くなるわけね。だから、結構な大きさのものでも、ペロって食べちゃうよ。 で、姉の受け売りですが、この場合、使用するイチゴジャムは,遠慮会釈なく甘いものの方が美味しいと。ほら、最近のイチゴジャムって、甘さ控えめが人気じゃないですか。もちろん、それはそれでいいのだけど、タルティーヌとして食べる時は、カフェオレの味に負けないほど甘い方がいい。例えば「明治屋」のジャムなんか糖度60以上ですから、そういう古風なジャムの方がいいかもです。 あと、バゲットを浸すという意味では、カフェオレもなるべく広口のコップ、出来ればカフェオレ・ボウルで飲むのがいい。ひょっとして、カフェオレ・ボウルがああいうお椀状なのは、タルティーヌとか、あるいはクロワッサンなどを浸すことが前提になっているからなのかもね。 ま、とにかく、そんな感じでフランスの朝を演出するのが、今回の帰省で面白かったところでありましたとさ。名古屋でも、ちょっとやってみますかね。
November 5, 2018
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ペネロペ・ラシアノフという人が書いた『「なりたい自分」になれる本』(原題:When Am I Going to Be Happy, 1988)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ちなみにこの本、訳者は斉藤茂太さんなんですが、何故、著者を「P・ラシアノフ」にしたんですかね? 「ペネロペ」でいいし、その方が著者が女性であることが分かっていいと思うのですが。 ま、それはともかく、本書は1980年代に数多く出た女性心理学者による「対人関係改善系」の自己啓発本でございます。 で、本書冒頭、著者ラシアノフの若かりし頃のエピソードが出てくる。それによるとラシアノフは、14歳の時点で身長188センチ、体重45キロという、かなり特徴的な体型・・・つまりガリガリのノッポだったそうで、隠しようのないこの体型にものすごいコンプレックスを感じていたと。 で、それが影響してずっと引っ込み思案の少女期を過ごすのですが、大学で心理学を学び、カウンセラーとなった後までもその影響は尾を引いていた。で、ある時、メンターの医者に、「君はヘッドライトを後ろ向きにつけたクルマで闇夜を走っているみたいだ。自分のことばかり気にしていないで、ヘッドライトを前に向けて走りなさい」とアドバイスされ、これを機に、コンプレックスから解放される。もちろん、コンプレックスが完全に無くなるわけではないけれど、それはそれとして、並外れて背の高い自分の容姿を受け入れる気構えが出来たというんですな。 ま、そういう自分自身の体験があるからか、ラシアノフは、何らかのコンプレックスによってネガティヴになっている人に、その呪縛から逃れる方策を授けることに長けた心理学者になったと。 で、その際のラシアノフの中心的な概念というのは、「ネガティヴさというのは、DNAに刷り込まれた何かではなく、単なる習慣であって、習慣である限りは必ず矯正できる」という信念でございます。こういう明確な信念ってのは、アメリカっぽいねえ。迷いがないよ。 というわけで、本書はネガティヴ人間を救うための様々なノウハウ・・・それは文字通りのノウハウであって、難しい理屈ではなく、「こういう風にしなさい」という具体的な方策・・・を教えてくれる本なのでありまーす。 例えば、誰かをテニスに誘ったけど、相手から色よい返事が返ってこなかったとする。 こういう場合、ネガティヴな人はすぐに相手の行動をネガティヴに解釈する。「自分が相手を好きなほど、相手は私のことを好きではないから、色よい返事をくれないんだ」とかね。 こういうネガティヴ思考に取り付かれている人に対し、ラシアノフは「一つの行動について、3つの解釈を考えて見なさい」というアドバイスをする。 先ほどの例で言えば、確かにこの人がパッと解釈した通り、「自分が相手を好きなほど、相手は自分のことが好きではない」という可能性はある。 だけど、その他にも解釈はあり得るわけですよ。「たまたまこの日、相手の体調が悪かった」というのもその一つ。さらに「別な用事が急に入った」というのだってあり得る。 さらに、相手には相手の都合があって、自分の誘いを断る権利がある、ということも踏まえれば、一度誘いを断られたからって、それをすべて悪く(あるいは自分を責める方向で)解釈する必要などないことが分かるだろうと。 ま、そんな感じ。 怒りっぽい人に対するラシアノフのアドバイスは、怒り出す前に「自分は何を望んでいるのか」を考えろ、というもの。 例えばオフィスで配置換えがあった時、今までの部屋より狭い部屋があてがわれた、なんて場合に、怒りっぽい人はすぐに怒り出す。「冗談じゃない、私はこの会社で十分成果を出しているのに、なんで格下げにならなきゃいけないんだ! 上司に断乎抗議してやる!」みたいな。 だけどこういう人にラシアノフは、「・・・それであなたは、そういう行動をとることによって何を望んでいるんですか?」と問うわけ。 するとその怒りっぽい人は「私は、他人から馬鹿にされたくないんです」と答えたと。 それに対してラシアノフは「それは『何を望んでいるか』の答えになってない。『馬鹿にされたくない』というのは、『何を望んでないか』の答えでしかない。そうじゃなくて、あなたの望みはなんですか?」と重ねて問う、というのですな。 で、相手が「出世です」と答えたのを聞いてラシアノフはこうアドバイスする。「上司に対して、ものすごい剣幕で、『冗談じゃない!』と猛抗議することが、『出世』というあなたの望みを叶える最良の道だと思いますか?」と。 で、そうやって諭した上で、ラシアノフはわき起こる怒りへの対処法を伝授する。曰く、怒りがわき起こって来たら、深呼吸せよ。あるいは10を数えよ。あるいは、自分のクルマの中だけで怒りを思い切り爆発させ、すっきりしてから相手に向かえ、等々。 あるいは、対人関係でつい相手を攻撃しがちな人に対しては、「You」を主語にした文で相手を攻めるのをやめて、「自分の立場ではどう思うか」ということを穏やかに相手に伝えろ、とアドバイスする。 まあ、一般論として「You」を主語にした攻撃文ってのはキツいわけですよ。「あなたは、なんて自分勝手なの!」とかね。だけどそれを攻撃的に言ってしまったら、相手だって防御的に反撃してくるのであって、後は無意味な言い合いで終わってしまう。そんなことをするくらいだったら、まず「あなたは・・・」という言い方を止めようと。 その代わり、「私の立場からすると」という言い方をする。「私の立場からすると、あなたにこうしてもらえると助かるんだけどなあ・・・」とか、「私がこういう行動を取ると、あなたの立場からするととても不都合かも知れない。だけど、私の立場からすると、どうしてもそうしたい理由があるのよ」とかね。そういう風に言えば、その先に話し合いの余地が出てくると。 またいつも他人の言いなりになってしまう人へのアドバイスとしては、しっかりと自分を保持し、相手の言いなりにはならないということを、毅然とした態度や言葉できっちり表現することが重要だ、とか。 ま、そんな感じで、こういう場合にはこう、こういうタイプの人だったらこう、という風に、ケース・バイ・ケース、あるいは性格別に、「こういう風にしなさい」というのを明確に教えてくれるわけ。 で、私が思うに、ラシアノフが本書の中で提案している様々な対処法は、それぞれに有効だろうなと思います。実行可能な、良い提案だと思う。 そういう意味では、先日、このブログで紹介した「ホ・オポノポノ」のように、ある特定の言葉を繰り返し唱えるだけで問題はすべて解決、みたいなのを信用できない人には、こちらのタイプの自己啓発本の方が合っているかなと。 逆に、私のようにネガティヴさが欠片もない人にとっては、この本に書かれているアドバイスは、ほとんど使う必要がないものばかり、ということにもなる。まあ、そういう人は、そもそもこの本を買わないだろうけどね。 いや、そうでもないか。私はネガティヴではないけれども、怒りっぽいところはあるからな。ラシアノフのアドバイスに従って、「いまここで怒りを爆発させて、それでお前の望むことが実現するのか?」と自分自身に問うことは必要かも。そして深呼吸して、10数えますか。 というわけで、少なくとも何らかのコンプレックスやら、幼少期のトラウマとかがあって、ネガティヴなものを抱え込んでいる人にとっては、この本はかなりのお役立ち本でございます。その意味では教授のおすすめ! ただし、本書でいう「なりたい自分」というのは、「お金持ちになりたい」とか、「スターになりたい」とか、そういう意味での「なりたい自分」じゃないからね。そういう意味での「引き寄せ系自己啓発本」をこの本に期待しちゃダメよ。【中古】「なりたい自分」になれる本 (知的生きかた文庫——わたしの時間シリーズ) P・ラシアノフ; 斎藤 茂太 ところで、この本、最初に述べたように、訳者は精神科医の斉藤茂太(しげた)さん、つまり歌人の斉藤茂吉の息子であり、作家の北杜夫の兄貴ですけど、この本、本当にモタさんの訳かねえ・・・。そんな偉い人が、こういう本を自ら訳すのかなあ。勝手な想像だけど、誰か名も無い下っ端が下訳をして、そんなに出来が悪くなければ、そのままモタさんの訳ということにして世に出しているんじゃないの? というわけで、本当は誰の訳か分かりませんが、一つだけ、クルマ好きとして指摘したいのは、本書の96ページ、「オンボロクルマの六九年型カーマン・ガイアは、もうほとんど廃棄処分ものだ」という一節。「カーマン・ガイア」なんてクルマはありません。これはね、「カルマン・ギア」というの。少なくともドイツではそう呼ぶし、日本でも昔からそう呼びならわされている。モノの名称って,訳においては重要よ。モタさんだか誰だか、猛省しなさい。
November 4, 2018
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今日は高尾山の麓、狭間というところにある「ギャラリー 白い扉」というところで開催されている岡崎武志さんの素描展を見に行って来ました。 岡崎武志さんって、ご存知・・・ですよね? 古本とか本のことをよく書かれる文筆家ですが、最近ではそれだけでなく、散歩を愛した作家たちの評伝とか、地方から東京へ上京してきた作家たちのこと、あるいは昭和30年代の人々の暮らしのことなど、そういうところまで色々お書きになっておられる。 だけど、もともと挿絵画家を目指していた時期もあるくらいですから、絵も上手いんですな。ご自分の本の挿絵なんかもご自身で書かれることもあるくらいで、それはもう達者なもの。 そんな、単なる手遊びとは言えないほどの絵の腕前を持つ岡崎さんが、今回、素描の展覧会を催されるということで、ならば行ってみようかなと思った次第。 しかし、我が家からだと、京王線の狭間駅まで意外に遠いんですな・・・。 まず小田急線で永山へ出て、京王相模原線に乗り換え、調布へ出て、そこから北野まで下り、さらに各駅停車で数駅乗りますのでね。でまた、狭間駅から展覧会の会場である「ギャラリー 白い扉」まで、距離的には短いのですが、そこそこ迷うという。しかも、今日はたまたま日本対ニュージーランドのラグビーの試合が味の素スタジアムであったものだから、京王線が混む、混む。 で、とにかくギャラリーまで到着したわけですよ。 で、週末だけの展覧会ですので、ひょっとして岡崎さんご本人がいらっしゃるかなと期待したのですが、さすがにそれはなく、感じのいいギャラリーのオーナーが迎え入れて下さいました。年齢的にはどうだろう、私と同世代くらいですかね。 で、ギャラリー自体は一部屋なんですが、そこに所狭しという感じで岡崎さんの素描が飾ってある。 多色で描かれたものもあるのですが、大部分は青い色鉛筆で描かれていました。で、絵のモチーフとしては映画に材を取ったものが多かったかな。邦画・洋画を問わず、おそらく岡崎さんのお好きな映画の一場面を描き出したものとか。あるいは、俳優さんや女優さんを単体で描いたものとかね。 でも、私が一番気に行ったのは、小さな港の跳ね橋の間を出て行く漁船を描いた絵。シンプルなんだけど、なんだか気に入りまして。だから、買っちゃった! 今回展示されていた絵はすべて売り物で、値段的にも十分、私に買えるものでしたのでね。「絵を評価する一番いい方法は買うこと」だって言うじゃない? というわけで、岡崎さんご本人に会うことは出来ませんでしたが、その絵を独り占め的に楽しむことが出来たし、ギャラリーのオーナーさんとも親しくお話させていただけたし、その上、気に入った絵を買うことも出来たので、十分満足であります。 この展覧会、土日のみのオープンで、来週末までですが、明日は岡崎さんのトークライブも開催されるようですし、お近くの方は是非。これこれ! ↓岡崎武志・素描展
November 3, 2018
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ジョー・ヴィターリの書いた『人生が変わるホ・オポノポノの教え』(原題:Zero Limits: The Secret Hawaiian System for Wealth, Health, Peace, and More)という本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 ジョー・ヴィターリ(ジョー・ビタリーという表記もある)というのは、業界では有名な引き寄せ系自己啓発ライターでありまして、一時はホームレスにまで落ちるところまで行きながら、そこから自己啓発ライターとして才能を発揮、引き寄せによって今じゃ超有名なセレブで高級車を乗り回してまーす、みんな俺に続け〜、みたいな感じの人。 で、そんな感じで調子こいている時に、彼はある噂を耳にする。極悪の精神異常犯罪者が収容されている施設に派遣されたある心理学者が、その施設にぶち込まれていた多くの犯罪者を、わずかな期間内にほぼ全員更正させるという奇跡を起こして去って行ったと。しかもその人は、その極悪犯罪者たちに一度も面会すらしていない、というのですな。 なんじゃ、そりゃ〜! で、そんなことが出来るものか、不思議に思ったヴィターリ氏は、色々探った挙げ句、その人というのが、イハレアカラ・ヒューレンという名の男であることを探り当てるんですな。で、そんなスゴイ技を持つんだったら、是非、彼からノウハウを学びたいと思って、何とかして彼に連絡を取ったと。 まあ、アレですな。ヴィターリも商売っ気のある人ですから、このへんてこな名前の男にアプローチしたら、そこから何か新たなビジネスが出来るんじゃないかと思ったんでしょうな。 で、ちょっとした連絡のやりとりがあった後、ヒューレンを自宅のあるテキサス州オースチンに呼び寄せ、人を集めてセミナーを開くわけ。ヒューレンから自分も学びながら、参加者からセミナー料とって儲ける。ヴィターリ、抜け目なし。 だけど、呼び寄せたヒューレンって奴、これがまた、やり手のヴィターリも驚くほどの、破天荒な人だったと。 ま、本ブログでもちょっと前に「ホ・オポノポノ」についての本を紹介し、そこでイハレアカラ・ヒューレンについてもちょっと触れましたが、この人はハワイの伝統的な争いの解決法である「ホ・オポノポノ」をモダン化した「Self I-Dentity Ho Oponopono」(略称SITH)の創始者にしてハワイ州の人間州宝モーナ・ナラマクー・シメオーナの弟子。現代におけるホ・オポノポノの伝道者ですな。 で、この人・・・というか、ホ・オポノポノの何が破天荒かと言いますと、この世の問題は、記憶を消去(クリーニング)することですべて解決する、と言っているところ。 ヒューレン自身の説明を引用しますとね、例えばコンピュータの中に要らないプログラムとか、ファイルとかがあったとする。それ、要らないから消しますよね。だけど、消したからと言って、そのプログラムなりファイルなりがコンピュータから完全に消滅したわけじゃない。表面上は消えたけれど、実はまだコンピュータ上のどこかに残っているわけですよ。いわば、記憶として。 で、ヒューレン曰く、人間も同じだと。人間の脳で処理できる事柄ってのはものすごく少ないけれど、人間の脳が認識している情報ってのは、その何千倍、何万倍なわけ。で、それが毎秒、毎秒、脳の中に蓄積されていくわけだけど、人間はそれに気づいていない。しかし、人間のほとんどの思想や行動というのは、実は気づかないまま蓄積されているとんでもない量の記憶によって引き起こされているのだと。その意味で、人間は自らの意志で行動しているようなつもりになっているけれども、実は無数の記憶によって操られているだけなんですな。 で、こういう一杯一杯の状態では、人は創造主からのインスピレーションを受け取ることができない。 じゃ、どうすればいいか。脳に蓄積された無数の記憶をクリーニングし、余計なものを消去するしかない。そういうゼロの状態(いわば、宇宙がビッグバンによって生じるその一瞬前の状態、すべての可能性がある状態)に戻すしかないと。(これが本書のオリジナルのタイトルである『ゼロ・リミット』の意味。) で、その際、クリーニングするための道具が4つの言葉、すなわち「I love you.」「I'm sorry.」「Please forgive me.」「Thank you.」の4つなわけ。この4つの言葉をひたすら、マントーラのごとく唱えることで、人間はゼロ・リミットに戻れる。そこに戻りさえすれば、すべては癒され、すべての可能性が開かれると。 ・・・と、まあ、ここまではいいじゃん? これも理解できないという人も居るかも知れないけれど、まあ、自己啓発思想にそこそこ慣れた人であるならば、大抵、ここまではすんなり理解できる。 理解が難しくなるのはここからよ。 このホ・オポノポノの思想の重要な側面というのは、このクリーニングによって、自分の身に起こるあらゆることに責任を負う必要が生じる、という点。 例えば、どこかの国で戦争が起こって、沢山、無辜の人が死んでいると。そういうニュースを耳にするとするでしょ。そしたら、それを耳にした時点で、その戦争は、その人の責任になるんです。その戦争は遠くで起こっているものではなく、その人自身の中で起こっていることになるわけ。 だから、その戦争についての記憶を先ほどの4語でクリーニングしなきゃいけない。 あるいは、自分の孫がガンに掛かった場合を考えてみましょう。その場合、普通、人は「孫の病気が治りますように」と祈るでしょ? だけど、それはホ・オポノポノ的には大間違いでございます。ホ・オポノポノの思想からすれば、孫の病気を耳にした時点で、その責任はその人自身のものになるわけね。だから、自分の問題として孫の病気という記憶を消去しないといけない。そしてまず自分が癒される。すると、それによって孫も癒されると。 つまり、「世界の問題」とか「他者の問題」なんてものは存在しないわけ。自分の問題しかない。世界の責任は全部、自分で負わないといけないんです。 なぜなら、世界なんてものはないから。あるのは自分だけ。世界はすべて自分の中にある。だから、そこで起こることすべてに、あなた自身が責任を負わなければならない。 はーい。この理屈が分かる人、手を挙げて〜! 大分、少なくなると思うな。 だけどね、この理屈も、自己啓発思想的にはなんら不思議なところはない。自己啓発思想というのは、もともと、この世で起こっていることはすべて自分の創作だ、という考え方をするものですからね。だから、自分を変えれば世界が変わるという。 ホ・オポノポノの思想も、それと同じですよ。自分を癒せば、世界が癒されるというね。そういう意味では、ホ・オポノポノは自己啓発思想の一変種というより、むしろその突き抜けた延長線上の思想という感じがする。全然、道から逸れてない。 だからね、私は全然、理解しちゃうの。っていうか、ヒューレンと不肖・釈迦楽がどこかで出会ったら、めっちゃ意気投合できそう。 だけど、可哀想なのはジョー・ヴィターリよ。っていうのはさ、ヴィターリは、それまでに書いた自己啓発本の中で、「人間の意志にはすごいパワーがあります。その意志を発動すれば、あなたのすべての願いは叶いまーす!」と繰り返し主張してきたんだから。 一方、ヒューレンは、「人間の意志なんか、何の意味もない。ひたすら4つの言葉を唱えて、自分をゼロに戻せ。そうしたら、創造主が適当に、良きに計らってくれるよ」と教えているわけだから、もし仮にヴィターリがヒューレンの軍門に下ったら、それまでの自分の本をすべて否定しなくちゃいけなくなる。困りましたね。 だけど、そこがまたヴィターリなのよ。彼はこういう言い方をし始める。「私が過去に教えてきた『強い意志を持て』というのは、自己啓発のレベルから言うと『ステージ2』に当たる。そしてこれをマスターした人は次に『ステージ3』として、クリーニングの秘技をマスターせよ」と。 あらま! なんだかうまいこと言いくるめて、自己啓発お得意の「段階式上達法」を導入し、過去の自分の黒歴史を覆い隠しちまったぜ! さすがだな、ヴィターリ。 ま、とにかくヴィターリは、ヒューレン・システムというか、ホ・オポノポノに帰依したらしいです。 というわけで、分かる人にはかなり強烈なインパクトを与えるこのホ・オポノポノという思想を知る上で、この本は結構、役に立ちます。というのは、ヴィターリ自身が最初のうちは半信半疑で、だけどヒューレンの人となりを知れば知るほど、この思想の虜になっていく様子が、この本では割と素直に描かれているから。だから、ある程度自己啓発思想の本を読みあさった人が読むと、賛同するしないは別として、ホ・オポノポノのことはよく分かるようになるとは思いますね。そういう意味でオススメです。 ワタクシですか? もう、数日前から「I love you.」「I'm sorry.」「Please forgive me.」「Thank you.」のマントーラを唱えっぱなしですよ。近いうち、世界平和が訪れると思いますが、それ、ワタクシのおかげですから! 多分、安田さんが解放されたのも! 人生が変わるホ・オポノポノの教え (PHP文庫) [ ジョー・ヴィターリ ]
November 2, 2018
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今日は所用があって錦糸町まで出かけたのですが、実家からですとまず小田急線で新宿へ出て、新宿から総武線で一本という感じになる。 しかし、山手線ってのは比較的よく使うけど、総武線とか中央線みたいな、新宿から東京へ横に突っ切る線ってあまり縁がない。ましてや日頃名古屋に居るとなると、そうそう使うことがないわけ。 だから、なんか車窓の景色が楽しくてね。懐かしくもあり、珍しくもありというか。 例えば「信濃町」なんて駅を通過すると、30年くらい昔、私の恩師がこの駅の近くの病院に入院していて、よく見舞いに行ったなあとか。そんなことが思い出される。 あと市ヶ谷のお堀ね。釣り堀があって。子供の頃、母の友達が市ヶ谷に住んでいて、たまに遊びに行ったなあとか。その人は一生独身を貫いた人で、シマリスを飼って可愛がっていたものだから、そのシマリスみたさに母にくっついて遊びに行ったのですけどね。 あと、いつのことだったか、大学時代のゼミ仲間と市ヶ谷で待ち合わせて、芝居だったかコンサートだったかを見に行ったことがあったなあとか。 逆に目新しかったのは「両国国技館」とか、「江戸東京博物館」とか、スカイツリーとか、そういうのね。私が子供の頃にはこんなものはなかった。そもそも私が子供の頃は,相撲と言えば「蔵前国技館」でしたからね。 でまた、錦糸町の駅前もなんだかモダンになっちゃって。で、その割に駅前の通りがやけに広々しているのは、あれは都電が走っていた名残りですかね。 まあ、しかし、色々なものが様変わりするのも無理ないか。自分だってもう半世紀以上生きているんだから。それだけ時間が経てば、東京の景色も変わるわけだ。 その一方、今日は「ニット」という喫茶店で人と会っていたのですが、この「ニット」という喫茶店が激渋で。ここだけ昭和が残っている感じ。そのギャップがなかなか面白かった。 ってなわけで、変わる東京、変わらない東京、その両方を見て、感慨にふけっていた今日のワタクシなのでありました、とさ。
November 1, 2018
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学科の会議に出てから、今日は足を伸ばして実家に戻りました〜。実は明日、ちょっとした野暮用が東京であるものでね。まあ、それをしがてら、親の顔を見て来ようというわけで。お盆の頃に帰省して以来、ちょっと間が開いてしまったこともありますし。 で、この時期に帰省する時は、お土産は決まっているの。そう、栗きんとん。中津川の栗きんとんは、東京ではなかなか食べられないし、季節的にも、この時期しか食べられないものですから、これを持って行くと喜ばれるのよ。 父も栗が好きだったからねえ。生きていれば喜んでくれただろうに。 それはともかく、週末までは東京に滞在する予定。しばらくは東京からのお気楽日記、お楽しみに〜!
November 1, 2018
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