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3,11から四年やるだけやったらバカになってしまいそうでした。まあそんなものでしょう。結局は自分なんだから。だから今日は自分の日。二年前は震災忘れる日なんて書いたりしたけれども、自分労う日で良いと思う。千あることの一言えた。それでも私は核廃棄物や住む場所に苦労したことは無い。この幸せに包まれて失神してしまいそうだ・・・・
2015年03月11日
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震災一周年。未だに取り残された部分というので、我がお墓が映されていました(汗)しっかし報道騒ぎ過ぎ。この日ばかりは楽しく過ごそうと、級友と呑むこと7時間半。来年も再来年も311はハッピーに過ごすぞ!
2012年03月12日
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お地蔵さんがこんな所まで歩いてきましたね。もっと中央にあった気がしたけれども。「電気もガスも水道も出ません。ここは地獄ですっ!」3月中旬、涙声の叔母とソフトバンクの電話でやっと通じ合えた頃、私は駆け回った挙句の果て、足立区に抗議文を提出していました。何をしていたのだろう?私の要望(わがまま!)通りに、足立区HPは修正されたところで、支援はスムーズでないまま。ミネラルウォーターを横流しする、職場への憤りも治まらず、まあ踏んだり蹴ったり。私のその有様は、津波でも放射能でも浴びてこいと、言わんばかりだったようです。計画停電って何?情報が遮断されていた東松島では、津波の映像を見たのも、随分先だったようでした。東京の端にまで、故意に行われていた停電や、それに伴い乾電池やティッシュの製造業まで、ストップせざるを得なかったこと。ほとんどの電池は被災地に送られ、手に入らず、明りの無い世界には、意を決するしか対策がなかったことなど、ポチリポチリと話していっています。後でゆっくり泣こうと思いながら、10ヵ月も経ってしまったね。石巻市立病院跡数万も塵と散った中で、機能しないまでもお世話になったこの病院と我が家のお墓が、無事というか外観を成せている幸運。不思議なような、申し訳ないような。まだまだ書くよ。
2012年01月06日
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震災から4ヶ月。先日、東松島の親戚一同が訪ねてきました。義援金を無理したのか、手みやげが一杯。「あんたらのために畳み敷いたからござい!」はい、行かせてもらいます。でも瓦礫一枚も片付けられません。避難所の方々とすれ違うのも怖い。震災直後は、仙石線が復旧するまでは行かないと、決めていました。宮城の親戚たちも、同じ思いだったはずなのに、いきなり瓦礫のある内に、見に来て欲しいとのこと。焼きただれたお墓に近づけるかも、分からないんだよ。一体、彼女らがどう思い直したか、探る気は無いけれども。再来週を宮城で過ごしているのか?例年に無く未定、悩んでいます。そういえば去年、こんな非現実的な誘いに、背中を押されていました。震災予知していた?また助けてよ、お義父さ~ん・・・
2011年08月01日
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「コーンスープおいしがったわぉう!」うどんスープだってば。(汗)震災から2ヶ月半。自宅避難グループからやっと開放された叔母たち。ヘドロまみれでも我が家が一番と、やっと食欲が出てきたらしい。10人で避難生活を送った叔母は、ほとんど私からの支援でありながらも、他所様宅というだけで、食事は遠慮し続けたらしい。11箱も送ってから、やっとおいしいの声が聞けるるなんて・・・たいしたレトルト食でも無いのに、おいしいを繰り返す声に涙が。先日はトイレットペーパーと、下着の配給を受けたそうだ。東松島ってまだこんななの?本当の支援はこれからとは、思っていたけれども、海沿いの住人らしい、頑固な味覚を取り戻してあげたいよ!
2011年05月24日
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10歳は老けたという叔母のために、化粧品を探しにアメ横に。どうにか家電が揃い、大工さんが待ち遠しいという叔母にも少し元気が戻った。「街中が痩せ細っちゃっ!」私もだよ。そう心に潜め、少し涙ぐむ。さてと12個目の荷には、中古品も入れちゃいましょう。「何にもないのぉ~」だからって親に古着は着せられないと、散々問屋巡りしてきたけれども、そろそろ遠慮は要らないかな。古い湯沸かし器を磨きながら、ぐっと縮まった距離にちょっと照れ笑い。今回の震災で、私にも東北魂が少しだけ授かった?早く義援金あげて~
2011年05月13日
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