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消失を彷徨う空中庭園
二部 私のこと
着替えて髪を乾かすと、テーブルの上の携帯電話のランプが点滅していることに気付いた。画面を開くと、着信一件、メール一件の表示が表れた。丹治は、目覚まし時計に気付かなかったばかりか、着信にもメールの音にも気付かなかったらしい。いつもなら疲れてても反応してしまうのに。こんなことは今までにはなかった。
着信はやはり会社からだった。こんなに遅刻しても、たった一度しか鳴らされなかったことが、少し恐縮だった。メールを開くと、職場の伊藤先輩だった。「休暇届出しておいたから、今日は休め。」と、短い文章があった。時刻は「8:01」とあった。始業と同時にそこまで気を遣ってくれた先輩に恐れ入った。思わず携帯電話を握りしめながら頭を下げていた。
丹治は、自分のことながらおかしくなった。何もかもが狂ってしまった。今まで、大体どんなことがあっても動じずに生きてきたと思う。それが、恋愛の失敗くらいでこうまで何もかも変わるとは思わなかった。
丹治は再びベッドに横たわった。いつもだと仕事をしてる時間だ。そろそろ、会社からまたその日の現場に出かける時間だ。今日の仕事の予定はまだ昨日時点で未定だったから、おそらくそれほど忙しくないはずだろう。しかし、皆が働いてるときにこうしてると何だか落ち着かなかった。
丹治は、腹ごしらえをしようと思った。冷蔵庫の中に少しだけ残しておいたスーパーの惣菜をおかずにご飯を食べた。しかし、全く足りなかった。仕方ないので水をたらふく飲んだ。
椅子の上に白いタオルがあった。この空間でそれだけが浮いているようだった。一瞬、誰の物だったかと考えた。ふと、昨晩のことを思い出した。そういえば自分がもらったものだったのだ。それも、見ず知らずの女から。そう思うと、ただのタオルも何か得たいの知れない物に思えてきた。新品のそれは、この部屋で目立って清潔な物体だった。
丹治の半生で、女から声をかけられることはほとんどなかった。それも、能動的に美しい女が声をかけたのだ。あんな惨めな状態の丹治なんかに。どうかしてる。同情であったかどうかは置いても、丹治には印象的な出来事だった。
それなのに、優奈は自分を捨てた。あんなに色々なことを話した。ほんの少し前までは幸せだった。ずっと二人は変わらないんだろうと漠然と思ってた。あそこまで積み重なった何かが、決壊は一瞬であった現実に丹治の想いは行き場をなくしていた。
そろそろ会社が昼休みの時間だった。丹治は伊藤先輩の携帯に電話した。
「もしもし、丹治か?」
コール音が鳴るやいなや繋がった。
「はい。先輩、ありがとうございました」
「おう。届け勝手に書いちゃったんだけどさ。お前が遅刻はしないだろうと思って」
「助かりました。爆睡してたんで」
「あんま根詰めるなよ。昨日のお前、おかしかったぞ」
「すいません。明日はまた復活しますんで」
「おう。じゃ、今日はゆっくり休め」
「ありがとうございます」
「じゃな」
先輩はどこまでも気を遣える人だ。真に優しい人なんだと思う。改めてお礼をしなければなるまい。丹治は大きな借りを作った気分だった。
結局自分に足りないのはそういうことなんだろう。他人に対しても自分に対しても、優奈に対しても優しくなりきれなかったように思う。それでいいと思ってたし、それ以外のやり方ができなかった。だけど、何もよくなかった。それを伊藤先輩の優しさで痛感させられた。
午後になると落ち着かなくて出かけたくなった。いっそ知らない場所に行きたい衝動に駆られた。丹治が行く場所にはいつも優奈との思い出があった。もう戻らない日々だった。 丹治は思い出すことを中断した。だが、どうしてもまた考えてしまう。昨日、あれだけ暴れたのに、やりきれなくてまた暴れたい衝動に駆られた。
ふとまたタオルをくれた女のことを思い出した。変な女だったが、親切を受けたので何かお礼をしたかった。だが、おそらくもう会うことなんてないだろうからお礼を返す機会はないだろう。仮にどこかで会っても、その時には昨晩のことなんて覚えてないかも知れない。自分にすら親切をするのだから、誰にでもああいうことをしてるんだろう。だから、気にする必要もないのだ。そんなように丹治は自分に言い聞かせた。
「待てよ」
思わず呟いた。丹治は白いタオルに手を伸ばした。それをピンと広げた。端の方に赤い文字で「野尻慈愛院」と書かれ、下に住所と電話番号が記されていた。これは手がかりになるかもしれない。調べると、野尻慈愛院とは福祉関係の施設の法人名で、老人介護なんかの施設らしい。場所もそう遠くない。
丹治は今からそこに出かけてみることに決めた。決めるとすぐに部屋を出た。電車で昨日の駅まで行くとバスに乗り換えた。
バス停から記憶した道の通りに歩いた。別に複雑な道ではない。ほどなくして目的の施設はすぐに見つかった。白い鉄筋コンクリートの造りで、三階建てになっていて思ったより立派な建物だった。庭園が歩きやすいように工夫され、人が何人もいた。家族連れも見えた。意外とオープンな雰囲気で、誰が入ってもよさそうに思えたので、丹治も門を越えて敷地内へ入っていった。特に誰もそれを気にしている様子もなかった。建物の入口まで来ると、丹治は立ち止まった。丹治は、昨晩の女の姿を探した。しかし外から中を窺っても、昨日の女がここにいるかどうかなど全くわからない。そもそも、この中にいるという根拠は乏しかった。丹治は引き返そうかどうか迷った。迷ったまましばらくそこで呆然とした。
「あの、何かご用ですか」
振り向くと、いつの間にか職員らしき若い女性がそこにいた。
「あ。いえ」
「面談ですか?」
丹治はすっかりあわてふためいた。職員らしき女は、好意的な笑顔で応対していた。
「ご家族の方ですか。お部屋ご案内しましょうか」
「あ、すんません。俺、そんなじゃないんですので」
丹治は急いで踵を返した。自分が全くの部外者であることが急に恥ずかしく、とても女を探しに来たなどとは言い出せなかった。何をしに来たのかわからなくなって混乱した。すっかり顔が熱くなった。
しかし、丹治は急に振り返った。さっきの女性はまだこっちを見ていた。丹治ははっきり届くように大声で話しかけた。
「すいません、あの……」
「はい」
丹治は鞄の中から急いで白いタオルを取り出した。それを、掲げて文字の所を伸ばして持った。
「このタオルここのですよね。あの、夕べ、俺これ人からもらって。えと、それで人探してるんですけど。もらったものなんで。あ、いや、手ぶらで来ちゃったんですけど。えと、何言ってるんだ俺」
焦ってうまく言えなかった。だけど、それを聞いている職員の人は冷静にそれを聞いてた。
「はい」
「えと、このタオルくれた人に親切にされたもんで一言お礼を言いたかったんですよ。それだけなんすけど。あの、俺、もしかしてここで働いてる人なのかなぁと思って。えと、髪がこのくらいで、身長が大体160くらいで、20代前半くらいで、白いコート着てて……」
その時、建物の中から一人の女性が出てきた。
「私のことですよね」
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