「源義経黄金伝説」 飛鳥京香・山田企画事務所           (山田企画事務所)

第5回■黒田の悪党がたくらむ!


   作 飛鳥京香
(C)飛鳥京香・山田企画事務所

5.一一八六年 黒田荘・東大寺荘園

奈良にある黒田荘(ショウ)(現三重県)は東大寺に属している
。先月の東大寺があげての伊勢神宮参詣もこの地で、重源を始め多数の僧が宿をとっている。いわば東大寺の情報中継基地である。

 あばら家の中、どぶろくを飲んで横たわっている二人がいる。太郎佐。そこに弟の次郎佐が訪れる。


「兄者、兄者はおられぬか」
「おお、ここじゃ、次郎左」
「何じゃ、なぜそんな不景気な顔をいたしておるのじゃ」

「これがよい顔をしておられるか。お主、何用じゃ俺に金の無心なら、無用じゃ」
「兄者、よい話じゃ。詳しい話は、ここにおる鳥海から聞け」

蓬髮で不精髭を生やした僧衣の男が汚らしい格好で入ってくる。
着物など頓着して
いない様子なのだ。
顔は赤銅色に焼けてはいるが、目が死んでいる。

鳥海は興福寺の僧兵として、かなりの腕を振るったものである。

園城寺、比叡山との僧兵たちとの争いでも、引けを取らなかった。

が、東大寺炎上の折りから、腑抜けのようになっていた。一人生き延び、この太郎左、次郎左のところに転がり込んでいいのである。

 鳥海は、話を始めた。
「太郎佐殿は、先年、東大寺が焼き払われたこと、ご存じでござろう」
「おお、無論、聞いておる」
「東大寺の重源、奥州藤原氏への勧進を依頼した。さて、使者は西行法師」
「たしか先月、重源と、、そうか、あのおいぼれ。確か数え七十ではないか」
「供づれはおらぬ。いかに西行とて、この黒田悪党のことは知るまい」
「ましてや、みちのく。旅先、七十の坊主が死んだとて、不思議はあるまい」

「お前、東大寺勧進の沙金を…」
太郎佐は言う。
「そうよ、奪えというのじゃ。この話し、京都のやんごとなき方から
聞いた。ほれこのとおり支度金も届いておる」
「さらば、早速」

「まて、まわりがおかしい」
太郎左が皆を圧し止めた。動物のような感がこの男には働くのである。

「ようすを見てみろ」
次郎左が命令を聞き、破れ戸の隙間からまわりをみやる。鳥海も他の方向を覗き見ている。
「くそっ、お主ら、付けられたのか。馬鹿者め」

 まわりは、検非違使(けびいし)の侍や、刑部付きの放免(当時の目明かし)らが、十重二十重に取り囲んでいる。検非違使の頭らしい若侍が、あばら家に向かって叫んでいた。
「よいか、我々は検非違使じゃ。風盗共、そこにいるのはわかっておる。おとなしく、縛につけ。さもなくば討ち入る」

「くくっ、何を抜かしおる」太郎左、次郎左は、お互いをみやって笑った。戦いの興奮の血が体を回り始めているのだ。
「来るなら来て見ろ。腰抜け侍め」大声で怒鳴った。
「何、よし皆、かかれ」若侍が刀を抜き言った。
「ふふっ、きよるわ。きよるわ」

「よいか、次郎左。ここは奥州の旅の置き土産。一つ派手にやろうぞ」
「わかったわ」

太郎左と次郎左は、後手に隠してあった馬に乗り、並んで頭の方へ駆けていく。侍は、急な突進にのぞける。
「ぐわっ」

太郎左の右手、次郎左の左手に、握られていた太刀が交差した。
 瞬間、検非違使の頭が血飛沫を上げ、青空に飛びあがっている。

後は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
「ふふっ、少しばかり、馬をいただいておこうか」
 三人は逃げ去る侍の方へ目がけて駆けていく。

 近畿地方の馬と、阪東や泉王国の馬とは、種類が違っていた。
脚力、体長とも、平泉の馬が勝っている。近畿の馬が、軽四輪ならば、平泉や関東の馬は、四輪駆動である。
 太郎左たちは、関東に入りつつ、盗みを立ち働いていた



太郎左たちは、関東に入りつつ、盗みを立ち働いていた。まず、第一の目的はよい馬を得ることである。 関東平野の何処か・屋敷武者の家が焼けている。中には多くの死人。そこから阪東の馬に乗り飛び出してくる三人の姿がある。
「さすが阪東の馬よのう。乗り心地、走りごこちが違う」
 次郎佐は叫ぶ。「それはよいが、次郎左、屋敷に火を放ったか」 太郎佐が、その言葉を受ける。
「おお、それは心得ておる。この牧の屋敷は、もうすぐ丸焼けじゃ」
「行き掛けの駄賃とはよう言うわ。地下に埋めたあった金品もすべてこちらがものよ」
 鳥海が言う。鎌倉の方に向かう三人だった。


第1章5 一一八六年 鎌倉・頼朝屋敷

 驟雨が鎌倉を覆っている。
頼朝の屋敷の門前に僧衣の男が一人たっている。
老人である。
その老人を尋問する騎馬が二騎現れていた。二人は、この僧を物乞いかと考え、追い払おうとしている。
「どけどけ、乞食僧。ここをどこと心得る。鎌倉公、頼朝公の御屋敷なるぞ。貴様がごとき乞食僧の訪れる場所ではない、早々に立ち去れい」
語気荒々しく、馬で跳ねとばさんばかりの勢いである。
「拙僧、頼朝公に用あって参上つかまつった」
「何を申す。己らごときに会われる、主上ではないわ。どかぬと切って捨てるぞ」
ちょうど、頼朝の屋敷を訪れようとしていた大江広元が、騒ぎを聞き付けて様子を見に来る。
「いかがした。この騒ぎは何事ぞ」
 広元が西行に気付く。
「これは、はて、お珍しい。西行法師殿ではござらぬか」
「おお、これは広元殿、お久しゅうござる。みども乞食僧と呼ばれおるか。何卒頼朝公にお引き合わせいただきたいのです」
「何と。天下の歌詠み西行殿とあれば、歌道に詳しい頼朝様、喜んでお会いくだされましょう」
 広元が武者に向かい言う。
「この方をどなたと心得る。京に、天下に有名な歌人、西行殿じゃ。さっさと開門いたせ」 広元は西行の方を向かい、
「重々、先程の失礼お詫び申す。なにしろ草深き鎌倉ゆえ、西行殿のお名前など知らぬやつばら」
「私は、頼朝殿に東大寺大仏殿再建の勧進のことお頼み申したき次第でございます」
「何を南都の…東大寺の…」
広元の心の中に疑念が生じた。その波は広元の心の中で大きくなっていく。
「さよう、拙僧、東大寺勧進重源上人より依頼され、この鎌倉に馳せ参じました。何卒お許しいただきたく」

 頼朝と西行が体面している。横には広元が控えていた。
「西行殿、どうでござろう。この鎌倉の地で庵を営まれましては」「いやいや、私は広元殿程の才もありませんでな」
「それは西行殿、私に対するざれ言でござりますかな」
「いえいえ、そうではございません」
「西行殿、わざわざこの頼朝が屋敷を訪れられたのは、歌舞音曲の事を話してくださるためではありますまい」

西行の文学的素養は、絢爛たるものがあった。母方はあの世界史上稀に見る王朝文学の花を開かせた一条帝の女房である。 西暦一千年の頃、一条天皇には「定子」「彰子」という女房がいたが、定子には「枕草子」を書いた清少納言が、また彰子には「源氏物語」を書いた紫式部などが仕えていて、お互いの文学的素養を誇っていた。

「さすがは頼朝殿、よくおわかりじゃ。法皇様からの書状もっております」 西行ははっとしたが、頼朝に書状をゆっくり渡す。 頼朝、それを読む。
「さて、この手紙にある義経が処置いかがいたしたものか。法皇様は手荒ことなきようにおっしゃっておられるが」
「義経殿のこと、頼朝様とのご兄弟の争いとなれば、朝廷・公家にかかわりなきことなれど、日々戦に明け暮れること、これは常ではございますまい」
「それはそれ。このことは私にまかされたい。義経は我が弟なればこそ、命令に逆らいし者、許しがたいのです。……」
 頼朝は暗い表情をした。しばらくして、表情が変わった。

「西行殿、これから行かれようとしている平泉のことだが……」
 西行は、平泉のことを意を決してしゃべる。
「ようぞ聞いてくだされた。秀衡殿は、平泉に将兵を集めて住まわせることなどはしておりませぬ。よろしゅうございますか。藤原氏の居館は、城ではございません。平泉の町には、軍事施設はないのでございます」
「では兵はどうするのじゃ」
「いざ戦いがあれば、平泉に駆けつけると聞き及びます。秀衡殿、頼朝殿に刃向かうつもりなどないのでございます」
 頼朝は、この西行と藤原氏の関係をむろん疑っている。聞ける情報はすべて聞き出そうと考えていた。広元も先刻、西行と会う前に、耳元で同じ旨を告げていた。この西行、果たして何を企む。頼朝は、頭をひねりながら、西行の話を聞く。平泉は城ではないというのか。まるで平泉全体が大きな寺ではないか、と頼朝は思った。
「初代清衡殿は中尊寺、二代基衡殿は毛越寺、三代秀衡殿は無量光院をお造りになったと聞いております」
「それでは、すべて寺院ばかりではないか」
「さようでございます。平泉は仏都でございます。中尊寺建立の供養には、こう書かれているのでございます。これは初代清衡公のお言葉。長い東北の戦乱で、多くの犠牲者がた。とくに俘囚の中で死んだものが多い。失われた多くの命の霊を弔って、浄土へ導きたい。また、この伽藍は、この辺境の
蕃地にあって、この地と住民を仏教文化によって浄化することである。こう書かれているのでございます」
 頼朝はふふうという冷気を浴びせるようなな視線を、西行に浴びせている。

「西行殿は平泉がお気に入っておられるか」
頼朝のその質問に、西行の頭の中に、あるイメージが浮かんでいた。平泉・束稲山の桜である。
「私は花と月を愛しますがゆえに」

 頼朝屋敷は夕刻を迎えている。
「が、なぜ、西行殿、秀衡殿を庇いなされる。ただ東大寺がために勧進とはおもわれぬ。聞くところによれば、西行殿と、秀衡どのとは浅からぬ縁あると聞くが……」
 頼朝は矛先を、藤原氏と西行とのかかわりに向けてきた。この質問に、西行はいささか足元をすくわれる感じがした。この頼朝という男、さすがである。
「いや、それは単なる風聞でございましょう。私は唯の歌詠み。東大寺のために、沙金をいただきに秀衡様のところへ参るだけでございます」
「それならば、そういうことにしておきましょう。で、西行殿」頼朝はかすかに冷笑した。その笑いの底に潜む恐ろしいものを感じ、わずかに言葉がかすれている。
「何か」
「西行殿は、昔は北面の武士。あの平清盛と同僚だったとも聞き及びます。なにとぞ、この頼朝に弓の奥義などお聞かせいただきたい」
「よろしゅうございます」
 話の矛先が急に変わったことに、西行は安堵した。頼朝は、これ以上、西行を追い込むことを避けたのだ。あまりに西行を追及すれば、この場所で西行を殺さねばなるまい。殺さずとも、閉じ込めねばなるまい。今、それは政治的にはマイナスであろう。無論、広元もその案には賛成すまい。
 ここは少しばかり話を流しておくことだと頼朝は思う。一方、西行は虎穴に入らずにはと考えたが、頼朝という男は虎以上に恐ろしかった。このことすぐさま、法皇様に書状をもって報告せねばなるまい。この男の扱い方は、義経殿のようにはまいらぬ、そう考えていた。頼朝は、西行がある程度、義経の行方を知っていると考えている。

第2章1 1186年 鎌倉
 西行は、奥州藤原氏のことをしゃべり終わると、急に無口になった。頼朝は、話題を変えた。歌曲音舞、そして弓道のことなどである。頼朝はこの伊豆に住みながら、いつも京都のあのきらびやかな文化を、生活を恋い焦がれていた。
 武士という立場にありながら、京の文化を慈しみ愛していた。それゆえ、その京の文化に取り込まれることを恐れていた。 義経は、京の文化、雰囲気という、得も知れぬものに取り込まれ、兄頼朝に逆らったのだった。同じように義経より先に都に入った義仲も、京都という毒に当てられて死んだ口だった。
 京都は桓武帝以来、霊的都市であった。藤原道長のときの安倍晴明を始祖とする土御門家が陰陽師として勢力を張っていた。 京のことを懐かしむ頼朝に、西行は佐藤家に伝わる弓馬の術などを詳しく述べていた。これを語る西行は、本当に楽しげであった。

 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には西行と頼朝、夜をあかして話し合ったとある』

(続く)
作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
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