「源義経黄金伝説」 飛鳥京香・山田企画事務所           (山田企画事務所)

第11回■義経、奥州平泉にて安堵する!


■義経黄金伝説■第11回
作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
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■■第2章4
 1186年(文治2年)10月 鎌倉の大江屋敷。
 西行法師、佐藤一族の屋敷は、油小路二条のあたりにあり、神泉苑に近かった。
 佐藤氏は平将門を討った俵藤太…藤原秀郷の末裔である。祖先は藤原北家である。
 藤原秀郷五世の孫公清が左衛門尉に任じられ、左衛門尉藤原を略して「佐藤」とした。秀郷は鎮守府将軍となった。
 平安初期の鎮守府将軍が坂上田村麻呂であり、奥州という異国に対する大和政権側の侵略側の大司令官である。
 秀郷の長男千時が鎮守府将軍を受け継ぎ、その末流が奥州平泉王国を作り
上げる藤原清衡と繋がっていく。西行の血はこの秀郷の五男千常の系であり、
この頃は衰退していた。 この佐藤家の傍系は、関東地方を中心に上野、下
野、上総、相模、駿河、三河、尾張、近江、伊勢にも広がっていた。西行は
藤原氏、源氏、平氏と並ぶ豪族佐藤氏の一員だったのである。
 奥州では、さらに奥州侵攻のための兵站基地としての関東での勢力拡大を
はかったのが、後から来た源氏であった。関東、奥州で根を張っている佐藤
一族の勢力を食い散らかして、武門の頭領となったのが、源氏であった。
 古代の豪族であった佐藤氏末裔の西行が、関東、奥州を旅行する際、助け
を得たのは、この秀郷を祖とする佐藤(藤原)一族の人々であった。
 当時の旅は、知人を頼っていくのが常識であり、いわば関東、奥州は佐藤
一族のネットワークがすでに張られていたのである。
そのような佐藤一族と源氏との長い争いがあり、 西行は源氏をひどく嫌っ
ていた。

 北面武士のとき同僚であった平清盛とは、その全盛期昵懇であった。その
清盛の息子重盛が、東大寺の大仏を偶然とはいえ焼き払ったのである。
 聖武天皇以来滅びることのない仏教聖地が滅びたのである。青天の霹靂で
あった。世の中は地殻変動が起こっていた。その象徴的なものが大仏焼失で
あろう。大宝律令以降の古代の貴族支配は、終わりを告げようとしていた。

国分田を耕す者とてなく、荘園が日本中に広まっていた。西行ですら、佐藤
家の持つ高野山近くにある荘園のあがりを弟仲清から送り届けられていた。

そして、西行が属していた武士の台頭である。保元・平治の乱を通じて、
この世の中を動かしているのは、武力であり、つきりは武家階級が日本を支
配し始めようとしていたのである。

 京都に設けられた平泉第は、いわば平泉の大使館であった。清衡の頃より設
けられた平泉第は平泉と陸路、海路を通じての黄金ルートが発達していた。
 この時期の黄金は現在ほど価値はない。この頃の日本は銀本位制であった。
 また貨幣流通経済は発達しつつあったが、貨幣は中国の宋から輸入された宋
銭が通貨として利用されていた。

 海の交通は、現在想像する以上に活発であった。
奥州に住む人々は、京都に住む公家にとって誠に異国人であった。白河の関よ
り先は異国であった。
 京都から平泉までの荷駄隊が、吉次に指導され出発する。

鎖国期の江戸時代のイメージから、日本人が海洋民であることを忘れてしま
いそうになるが、日本に大和政権が発生する昔より海洋文化は発達していた。
 いわば、日本国家の設立は大いに海洋によっていた。
 すでに平安時代後期には、対馬海峡や東シナ海を自由に航行する和船が数多
く存在した。 金売り吉次に代表される平泉と京都を行き来する商人たちも、
陸上の道以外に海上の道を多く利用していた。

 太平洋航路京都から平泉までの主な港は、以下のとおりである。
 由良湊、和歌裏、牟婁湊、新宮湊、尾鷲浦、鳥羽浦、畠湊、焼津、三保浦、
江之湊、下田湊、御崎湊、鏡浦、置津、御前湊、那珂湊、菊多湊、松川浦、
逢隈湊、国府津湊、牡鹿湊。 平泉までは、牡鹿湊からは北上川を北上する
である。

■■4 一一八六年(文治2年)10月 鎌倉の頼朝屋敷。
 日本を古代から中世へと、その扉を開こうとしていたのは、西行の嫌いな源
氏の長者、源の頼朝であった。
 また頼朝の側にいるのは、貴族階級の凋落を見、新しい政治を求めて鎌倉と
いう田舎へ流れていった貧乏貴族である。その代表が大江広元である。
頼朝は西行の背景にいる後白河法皇に憎しみを滾らしている。

「あの大天狗、私を騙そうと言う訳か。広元、大天狗にひとあわふかせるべく
手配を致せ」
 頼朝が広元に命令する。
「いかように取りはからいます」
「西行へ藤原氏よりいだされる沙金を奪え。が、平泉から鎌倉までの道中にて
ぞ。鎌倉についてしまえば、これから先は鎌倉の責任、黄金を奪う訳にはいか
ぬ」
「さようでございます。また、よくよく考えますればこの沙金、奈良まで着き
ましたならば、西国にいまだ隠れおります平家の落人たちに渡るやも知れませ
ん」
「あの大天狗の考えそうなことよ。北の奥州藤原氏と西の平家残党から、この
鎌倉を挟み撃ちにしようとな」

「では、義経殿もこの謀に加わっておられると」
「可能性はある。実の子供よりも、義経を考えておった藤原秀衡殿のことであ
るからな。また、後白河法皇もいたく、義経が気に入っておった。あやつは法
皇の言うことなら何でも聞く」
「頼朝さま。やはり、沙金を必ず奪い取らねば、我が幕府の痛恨となりましょ
う」
「さっそく梶原と相談し、しかるべく手配をいたせ」
「わかり申した。すでに手は打って御座います。
私、京都におりました時より、東大寺にすこしばかり手づるがございます」
 広元は、東大寺の荘園黒田荘への使者をすでに旅立たせていた。

■■5一一八六年(文治2年)10月 平泉

奥州の黄金都市平泉にはすでに初雪が舞っている。10万の人口を抱える中心に
ある藤原秀衡屋敷が騒がしかった。多くの郎党が玄関先に並んでいる。
「我が子よ」
 義経と秀衡は、お互いの体をがっしりと抱き締めていた。それは親子の愛情
よりも、もっと根深いものであった。いわば、お互いに対する尊敬の念であろ
う。が、この二人の仲むつまじさが、秀衡の子供たちの嫉妬を義経に集めたの
である。
「よくぞ、ご無事で、この平泉まで」
義経は肩を震わせている。それは平氏を打ち破った荒武者の風情ではない。
「遠うございました。が、秀衡様にお会いするまでは、この義経、死んでも死
にきれません」
「死ぬとは不吉な。よろしいか、この平泉王国、ちょっとやそっとのことで
は、
頼朝を初めとする関東武士には、負けはいたしませんぞ。おお、どうなされ
た、
義経殿」
義経は涙を流し、秀衡の前にはいつくばっていた。
「くやしいのでござる。実の兄の頼朝殿の振る舞い。それほど、私が憎いの
か。
疎ましいのか。一体、私が平家を滅ぼしたのが、いけなかったのか。私は父の
敵を打ちたかっただけなのです。おわかりでございましょう」
 秀衡は、義経の肩を抱き、慰めるように言った。
「おお、そうでございますよ。よーく、わかっております。その願いがなけれ
ば、あなたを戦の方法を習わせに、女真族の元まで、いかせるものですか」
奥州の帝王、藤原秀衡はゆっくりと義経の全身を見渡し、顔を紅潮させてい
る。
「そうなのです。私の戦い方は、すべてこの奥州、さらには秀衡様のお陰で渡
れた女真の国で学んだものでございました。おもしろいほどに、私は勝つこと
ができたのでございます」

義経は、頼朝のことも忘れて、目をきらきらさせて、戦の話始めていた。義経
の圧倒的な戦い方は、日本古来の戦法ではなかった。外国、特に騎馬民族から
学んだ戦い方、異なる戦い方をするということが、坂東武士から嫌われる原因
の一つともなっていたのである。

 義経は、純粋の京都人でありながら、平泉王国という外国へ行き、そこから
またもう一つ遠くの女真の国へ出向き、新しい地平を見たのであった。
 義経は、自分の力を試したかったのだ。自分の力がどれほどのものか。外国
で培った戦術がこの日本で、どれくらい有効なのか。義経は、そういう意味
で、
戦術の技術者であった。技術者同志ということで、不思議と冶金の技術者であ
った金売り吉次と気があったのかもしれなかった。もっとも、吉次は、今は商
人という技術者だが。
 義経は京都人であった。ましてや、源氏という貴人の血を持っていた。また
義経は十五歳以降源頼朝の元へ参じる二十三歳までは、奥州人でもあった。奥
州は京都から見れば、異国である。義経はいわば奥州という外国生活をした訳
である。後年、戦術においては、それまで存在していた戦い方を一変させた義
経の戦闘方法は、いわば奥州という外国製である。

義経にとって育ての親は、藤原秀衡である。秀衡は当初義経を京都に対する
政治的道具として使おうとしたであろう。が、義経の素直さ。また何とも人を
引き付けるいわば少年のような健気さをこの奥州の帝王は愛したのである。
(続く)

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