歴史探検 (世界史と日本史との間)山田企画事務所

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面白歴史探偵

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2006年03月28日
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日本の時代史(14)
イエズス会日本占領計画2

さて「江戸幕府と東アジア」には
いままでと違った説がどんどんでてきます。

1.原城の発掘結果から、島原の乱は、あきらかにキリスタン反乱であった(ページ298)
指導者は、イエズス会影響下のキリスタンである。
2.原城は、廃城ではなく、幕府への届けは、廃城であってが、
修復後20年もたっていない城郭建築であった。(ページ299)

3、島原から江戸までより、琉球首里の方が近い。江戸と中国ニンポーと
同じ距離である。(ページ294)

4.籠城した約3万7000人。途中で5-6万人が入城していた。
この乱の30年前、慶長15年には、日本のキリスト教徒は約175人・人口の
約10パーセントであった。(ページ311)
籠城側は、日本全国に援軍を要請した。

5.日本が内乱状態になり、本当の援軍が到着する可能性があった。
中国にあるポルタガル領マカオがある。当時のポルトガルのアジア最大
拠点である。一揆側の援軍本命はポルトガルではなかったか(ページ311)

6。オランダはそのスペイン・ポルトガル国王ハプスブルグ・フエりぺ2世(スペイン、
ポルトガル国王をかねていた)
からの独立80年戦争(1581年から)の最中であった。

7.幕府は、オランダ船から原城を攻撃させた。また、同じ時期
インド、ゴア沖で、ポルトガルとオランダ艦隊の会戦が行われている。
(ページ312)

8.乱終了後、首謀者4名の首だけは、長崎出島橋、ポルトガル商館前に
さらされた。(橋を渡るのはポルトガル関係者のみ)

9.ポルトガル澳門側は、日本征服、アリマ・ナガサキ植民地化は
行われなかったが。幕府ーオランダ、一揆ーポルトガルの軍事同盟は
明瞭であろう。ポルタガルは日本から放逐され、長崎出島には
軍事同盟者としての役割があるオランダが入った。(ページ316)



以上、まとめ。ぜひこの本をお読み下さい。





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最終更新日  2006年04月03日 02時22分13秒


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