remi's room

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ビートルズ[1965-1967]


ザ・ビートルズ
[1962-1967]22歳-27歳


[デビュー] -4人が力を合わせれば、間違いなく成功する-

1962年6月、ビートルズはEMIレコードのオーディションを受けるチャンスをつかみます。プロデューサーのジョージ・マーティンは、ビートルズの持つかリスマ性とユーモアのセンスを高く評価し、デビューさせることにしました。
デビュー曲のレコーディングの直前にドラマーが突然交代、 リンゴ・スター が仲間に加わることになりました。この年の10月に発売された最初のレコード「ラヴ・ミー・ドゥ」は、チャート17位まで上昇し、期待の新人グループとして注目を集めました。
1963年1月に発売された2作目の「プリーズ・プリーズ・ミー」がチャートの1位に輝くのは時間の問題でした。2作目以降、ビートルズのレコードは次々と1位を獲得し、その人気はイギリス全土に広がり、ビートルズ・ブームは一種の社会現象となりつつありました。

[成功] -僕らこそ世界で最高にいかしたバンドだと思っていた-

イギリスのグループがアメリカで成功した前例がなかった時代に、ビートルズの5作目の「抱きしめたい」がアメリカでチャートの1位を獲得したことに世界が注目しました。アメリカでもたちまちビートルズ・ブームが巻き起こり、チャートの1位から5位までを独占するという驚異の記録を樹立しました。
アメリカでの成功がきっかけとなって、ビートルズは世界各地でコンサートを開催するようになり、殺到する観客のためにコンサート会場は巨大化し、野球場が使われるようになりました。コンサートの合間をぬって製作された2本の主演映画も世界中で大ヒットし、イギリス王室からは外貨獲得の功績により勲章が授与されることになりました。
1966年には日本公演が開催され、日本にもビートルズ・ブームが上陸します。

[ビートルズのコンサート] -まるでハリケーンの目の中にいるようだった-

ビートルズのステージでの演奏時間は30分、演奏曲目は11曲前後、アンコールには応じない、きわめてシンプルなものでした。
演奏中のビートルズに向かって、興奮した観客が走り出したり、失神した観客が医務室に運び込まれるなど、熱狂の嵐でした。観客の声援に演奏がかき消されることもたびたびで、ジョンは次第にコンサート活動に疑問を持ち始めました。

[内面の変化と苦悩] -おれは負け犬さ、そうは見えないだろうけど・・・-

夢にまで見たビートルズの成功。しかし、実際にその獄中に身を置いてみると、それはジョンにとっては不自由で退屈極まりないものでした。世界中どこへ行っても熱狂的なファンに取り囲まれ、ホテルとコンサート会場の往復という同じ日々の繰り返しでした。コンサートはファンの声援で演奏がかき消され、観客がステージに殺到したために中断することもありました。ジョンは自由を束縛され、求めていた音楽から遠のいていく自分にいらだちを感じ、苦悩しはじめました。
1965年も半ばになると、今までのポシティブなラブ・ソングから一転し、人間の内面を見つめるフレーズが歌われるようになり、ジョンの曲に少しずつ変化が表れてきます。このころの曲「アイム・ア・ルーザー」は、「おれは負け犬さ、そうは見えないだろうけど」という歌い出しで始まっています。また映画の主題歌「ヘルプ」(Help!)には、切実に助けを求めるジョンの叫びがありました。

[コンサート活動の終焉] -今や、僕達はキリストより人気者だ-

1966年3月、ジョンがイギリスの新聞のインタビューで「キリスト」について発言したことがアメリカで大きく報道され、7月にアメリカでビートルズ排斥運動が巻き起こりました。8月に入るとビートルズはアメリカ各地で予定されていたコンサートを行ったが、熱狂するファンと排斥運動のために混乱が生じ、それが直接のきっかけとなってコンサート活動の停止を決断、ビートルズのひとつの時代が終わりました。
1966年、9月、コンサート活動を停止してまもなく、ジョンは反戦をテーマとした映画「僕の戦争」(How I Won The War)にビートルズを離れて初めて単独で出演しました。
トレードマークの長髪を切り、メガネをかけて、戦争の犠牲になって死んでいく一兵卒を演じ、これまでのイメージから脱皮、自身を見つめ直す大きな転機となりました。

[オノ・ヨーコとの出会い] -想像の釘を打たせてくれるなら、僕は想像の5シリングを君にあげよう-

「僕の戦争」の撮影終了から2日後の1966年11月9日、ジョンは日本人の前衛芸術家、オノ・ヨーコと出会います。
ヨーコの個展「未完成の絵画とオブジェ」の会場でジョンは、ヨーコの作品を見て回り、ヨーコと会話を交わすうちに、自分の求めていた世界がふたりのなかにあることを感じとりました。運命的なこの出会いは、ビートルズの成功と苦悩のなかでジョンが見い出した新たな出発をも意味していました。

[ビートルズの音楽革命] -このアルバムは僕らの人生において大きな意味があった-

1967年4月、ビートルズは5ヶ月におよぶ長期のスタジオ・レコーディングを経て、アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を完成させました。ビートルズは、このアルバムにおいて数々の実験的な手法を試み、当時のレコーディングの常識や限界を超えるサウンドを作り出し、「ビートルズの音楽革命」とさえ呼ばれました。
ビートルズは、人気だけでなく、音作りの面においても20世紀を代表する「アーティスト・グループ」へと見事な変革を遂げました。

[愛こそはすべて] -口で言ってるだけじゃだめさ。必要なのは愛なんだ-

1967年6月、ビートルズは世界初の世界同時衛星生中継特別番組「アワー・ワールド」(Our World)にイギリスを代表して出演しました。それは新曲「愛こそはすべて」(All You Need Is Love)のレコーディング風景を同時生中継で全世界に向けて放送するという、今までにない試みでした。「愛こそはすべて」は、デビュー以来ビートルズが歌ってきた君と僕の「ふたりの愛」を「人類への愛」にまで高めたジョン自身の愛のメッセージでもありました。





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