鵜沼の山師

鵜沼の山師

仲間の感想2



                   田辺元祥

 私は海外遠征ははじめてである。はじめてこの話を聞いたときは、「行きたい、色々見てきたい」というのが半分、「たいした技術もないのに大丈夫だろうか」というのが半分で、実際行けば何とかなるだろうといいかげんな気持ちで参加した。
 日本を出発してからデリーそしてマナリまでは順調にいった。しかしマナリに入ってすぐ“大雨によるロータン峠に通じる道路の寸断”というとんでもない情報が飛び込んできた。先発隊はもうスピティに入っている。何とかして行かなければと鈴木隊長は情報収集に奔走した。申し訳ないとは思いながらも我々下っ端にはいい時間ができ、マナリを十分散策し、インドに慣れる時間を持つことができた。
 状況把握と準備のために3日かかった。そして1日でいけるところを東に大きく迂回し、スピティに入るということが決定された。そのためさらに3日かけて目的地のカザへたどり着くといった大幅な予定変更となった。しかし私にとっては幸運であった。緑豊かなサトレジ川の谷を遡行し、ヒマラヤを横切る大峡谷を抜け、乾いたスピティへとさまざまに変化する自然を満喫し、自分のわずかながらの自然、ヒマラヤに関する知識と照合し、確認しつつ旅を続けることができた。また、外国人のあまり訪れたことのない町では、人懐っこい子供たちの写真を撮ったり、子供に撮ってもらったり、また、キバールからのキャラバンも楽しい日々の連続であった。
 すばらしい景色、乾いた大地の谷間に広がる麦とエンドウの緑のじゅうたん。谷へ降り、せせらぎに沿って咲き乱れる色とりどりの高山植物を見たとき、“ここは高山だ”と初めて気がついた。
ドュムラを後にしてからは、仲間もポニーも馬方も皆置き去りにし、ひたすら丘を登り続けた。頭にはキバールの茶店で見たアンモナイトしかなかったような気がする。あれは高度障害かバカになりきっていたのか、今考えると笑いがこみ上げてくる。しかし、執念が実を結んだ。タルタに入る直前、とうとうアンモナイト産出層を見つけたのである。黒々とした石炭のずり山のようなザクザクの頁岩層からアンモナイトを見つけたときは、何ともいえない興奮と感動をおぼえた。タルタに着いてからもアンモナイトが頭から離れず、たくさん集めたところでどうこうなるというわけでもないのに、ひたすら探し回った。
 タルタからは登山の領域に入った。ガスがかかる薄暗い崩壊したパラン峠方向の山域を望むとき、いったいどこへ入っていくのかと背中に冷たいものを感じたが、ここまで来たからには行くしかないと覚悟を決めた。他の隊員はどう感じていただろうか。頭上にのしかかってくるような崩壊した急崖を縫うパリルンビ川の支流を落石を気にしながら遡行し、U字谷の底にあるボロゲンについたときは、緑こそないがなんともいえない安堵感にひたった。
 雪のパラン峠を越え、氷河を下り、BC,ABC、そしてACへたどり着いたのは8月5日であった。そこは平らな雪原の小さな島。静寂の中にインド人スタッフの声だけがしていた。周りは雪に覆われた岩山ばかり、空が異様に青く、真っ白な雪峰が浮き上がっていた。
 ここもヒマラヤか。自分の頭には荒々しい氷壁の迫る荒々しい世界しか描かれていなかったが、落ち着いた静かなヒマラヤが強く心に焼きついた。目の前にはこれから上るドゥン(現地では計画していたラカンと思い込んでいた)の雪壁が迫っている。楽そうに見えるものの落ち始めたら下まで一気かと一瞬不安を感じたが、インド人スタッフのルート工作にすべてを任せた。。
 8月6日、未踏の聖域への入山を感謝しつつ、登頂を目指した。







-ハンディキャップを乗り越えて-

インドヒマラヤ・スビティ北部の
未踏の谷にそびえる峰々
ドゥン(6200m)初登頂

田中守之

11時10分、とうとう目の前の白い壁が切れ、向こう側の山々が現れた。四方八方見渡せる広い頂上だ。真っ先に着いた頂上は静寂そのものだった。風の音さえ聞こえず、自分の息づかいだけが耳に入る。高度計は6200mを指していた、続いて渡辺、鈴木総隊長、志賀の順で登頂。サポートしてくれたガイド、高所ポーター違とも初登頂を喜び合う。
無風快晴。360度の展望の中で、ウムドン・カンリ峰を探す。ほぼ真北のパリブンビ峰の右に、ひときわ高くそびえていた。丁度この目、ウムドン・カンリ峰隊も初登頂したのだった。その右手にはインド隊の執拗なアタックの後、ようやく初登頂されたばかりのギャ峰。東には名も分からないスピティ、キンナウルの山が限りなく続き、南にはコルをへだてて雪の帽子をかぶったラカン峰、西は無名の6000m級の未踏峰が十座ほどそぴえている。このパノラマを、しっかり頭に刻み込んだ。
人生70歳にして楽しみの一コマがまた一つ増えた。
 インドヒマラヤに魅せられたのは1993年のメントーサ峰トレッキングである。メントーサとは、現地語で「花園」という意味であると聞いていたが、まさにその通りであった。ベースキャンプに向かう途中には、赤、青、黄、色とりどりの高山植物が咲き乱れ、足の踏み場に困るとは、このことかと驚いたのが印象に残っている。
このトレッキングに出かける前年、登山中に左足膝内側の靱帯を裂断した。整形外科医から、は、裂断は治すのに時間がかかるから大腿四頭筋を鍛えるようすすめられた。これがトレーニングをまじめにやるきっかけとなった。トレッキングといえども、遠征隊についていくからには迷惑がかからないよう、それなりの体力が必要だったからである。しかし、その年の11月に受けたメディカルチェックでは左右の足の強さの差が目立っていた。
 トレッキングは、べ-スキヤンプまでというのが当初の条件であったが、C1まで登ってみてはと誘われ、登山隊員の後からっいていった。クレバスを渡り、もぐる雪を踏み締め、あえぎながら初めての5200mに立つことができた。頭痛に悩まされ、ムーンフェイスにもなったが、耐えられない程でもなく、もしかするとこの年齢でも高い山に登れるかも知れないと希望がもてた。

 1994年6月、私はメントーサ峰トレッキングに気をとられ、二年ほど受診していなかった人問ドック検査で胃ガンを知った。翌年、ストック・カンリ峰の遠征隊に加わりたいと考えていた矢先である。ガン告知、そして全摘手術のショックよりも、術後の体力回復をどうしたらよいのか、一年で元の体力に戻れるのか、そんなことはかり気にかけていたことを思い出す。
 40年程前に、私は肺結核にかかり、右上葉肺切除の手術を受けている。その時の外科医からは、手術をすれば治ったと同じだから早く病院を出なさいと言われた。その言葉に望みを託したが、胃ガンの術後は、それ程簡単には済まなかった。1ヶ月程で退院したが、すぐ腸閉塞をおこし再入院。退院したときは、体重が10キロ減り、骨と皮ばかりのスケルトンになっていた。
 出発まで10ヶ月足らず、翌日から自分なりのトレーニングを始め、2週間後、近くの山(232m)に登った。冷汗がどっと出て苦しいばかり。やはりだめかと弱気が脳裏をよぎったが、思い直し、その後も毎週のように山登りを続け、筋力トレーニングも実行した。
 出発の3ヶ月前に受けたメディカルチェックでは筋力の衰えは見られるものの、体重当たりの最大酸素摂取量は44.6ml/分と、2年前と大差はなかった。
 この遠征については、妻は一言もいわなかった。病後で、家の中にごろごろされ、病人ずらされるよりもまだましと考えていたのかもしれない。あるいは、インドヒマラヤへの夢が回復を早めると思ったのだろうか。出発をひかえ、登山中に少しでも体調に不安を感じたら、すぐ断念することを妻に約東した。
 胃の全摘手術によって、ダンピング症候群という後遺症が人によって現れるといわれている。私の場合は、貧血のような浮遊感や頭のふらつき、脱力感など自律神経失調のような症状と、食べたり飲んだりしていると突然つかえ、腹におさまらなくて苦しくなる症状が時々出た。術後直後はこの後遺症に悩まされたが、山へ行ったり、好きなことをしている時は、不思議なことにこれが起りにくくなってきていた。しかし、遠征中にこれが出たらと心配であったが、その時はその時と腹をくくった。
 ストック・カンリ峰登山は、今後も高い山に登れるかどうか、私にとっての試金石であった。





  「テーマ」

  山口 宏

1993年のメントーサ峰遠征の準備途中のことだが、「テーマがない」とメンバーの一人I氏が眩いたことがあった。日頃に似ず歯切れのわるい彼の言動に「気がすすまないのなら、皆に迷惑をかけないように早めにハッキリさせたほうがいい」と少々キツめに言ったのに対してかえってきた言葉だ。
88年の「ヤン」、90年「ガングスタン」と経て、3度目の中高年によるインドヒマラヤ遠征となるメントーサは、91年には「チョー・オユー」で8000㍍峰に登頂し、94年に「エベレスト」を控えていた頃には、遠征につきものの煩わしいさまざまな障害をおしまででかけるだけの必然性を見つけることができない、ということだったように思う。
しかし結局、彼は悪天候のなかを1週間余りねばって、ズタズタのクレバス帯のなかにルートを見つけ、軽々と登頂してくることになるのだが、今回の遠征に対しては、私もまたテーマが見つけられないでいた
勿論、今回目指すスビティ谷は初めてだし、未踏峰というのも魅力の一つだ。ラダックのレーへは前々から再訪したいと思っていた。二度の山行を共にしたマナリのハイポータ一たちとも会いたいじ、バザールの喧騒も懐かしかった。
しかし、前回からはもう七年も経っている。六十歳をとうにこえて、時として右膝には痛みがあるし、糖尿病、痛風、高血圧などなど年齢相応の生活習慣病には不足していない。もう一つ、私はもう既に二度6000㍍峰を登っている。単に6000㍍を超える高度に立つということだけだったら、それは繰り返しにすぎない。口分の最高の登山は七年前に終わった、という思いもある。自分の体力気力と、ルートの厳しさを含めた山の魅力とが丁度うまくかみ合った素晴らしい登撃は、もう二度と再現できないのではないかという気もしていた。
こういう不安やためらいをおしてまで、一体自分には出かけて行く意味はあるのかというのが、(I氏の場合とはレベルがずいぶん違うが)私のテーマ喪失の中身だ。
結局のところ、私を一歩前に進ませたのは、「消去法」だった。いろいろな事情によって、準備の過程で参加を諦めていった人達のことを考えると、まことに申し訳ない気がするのだが、行けない理由を一つ一つ潰していくと、行くという結論しかないということになるのだ。曰く、もうリタイアしてしまっているから時間はいくらでもある。二人の息子は既に独立をして、家庭的にもまあ心配はない、現在、僅かな年金しか収入の道はないが、経済的にも何とかできる。体力的にも今ならまた何とかなりそうた。

C2を出発する朝は快晴で風もなかった。1二へ続く尾根は、雪がかたく締まり全く快適で、呆気ないと感じられる位の短時間で尾根上の最高点に到着した、しかし、そこから山は小さなギャップを挟んで右手に大きく直角に曲がり、その先に二つのピークを立ち上げていた。そのとき私には一つ目のピークは随分急峻に、そして二つ目のピークのほうが高く、一つ目とはずいぶん距離が隔たっているように見えた。行けるかもしれないが、そうすると多分自分は今日中には帰れないだろう、というのがそのときの私の判断だった。この快晴だと昼過ぎには雪がクサって往路の何倍もの労力を要するだろうが、私にはもうそれに耐えるだけの体力は残っていない筈だ。何の疑問も遼巡もなく、とまどっているパートナーのファテチャン・タゴールに無理やり握手をして、回れ右をした。
この「冷静さ」を後で振り返って、私は私が「テーマ」を持たなかったことと結び付けられることに気づいた。「テーマ」とは、具体的にいえば「動機」だ。困難や危険や矛盾や不条理を乗り越えさせるエネルギーであり、私の場合テーマの喪失はエネルギーの枯渇の謂だったのだ。マナリに帰って、私は旧知のハイポーターに、自分の装備品のすべてを渡した。冬の日の昼寝のためにと思って、寝袋だけは残した。




      あきらめ

                  柳原徳太郎

 5000mの峠、谷、川、氷河を越え、ほんとうにBaseまで長い道程でした。
いい天気にめぐり合えず、何かいつもどんより。時々カミナリ、ヒョウが降り・・・・・。
足どりが重く、順応がうまくいっていないままBaseまで・・・・・。
今思えば「カザ」で2,3日じっくり順応していればよかったと(日程的に無理かも)。
日々気がめいり・・・・・。その他色々・・・・・、色々・・・・・。
 8月4日、どんよりした中C1に出発する。ほんとうに登頂できるのだろうかと思う。
 8月5日、C1からC2へ。5700mの所で設営する。
8月6日、ホワイトアウトの中、3時頃出発。いい天気になることを願いながら、ただひたすら上に上にと・・・・・。
8時頃平らな稜線に出たが、視界がきかず右往左往。
1時間ぐらい待機して、あきらめC2へ・・・・・




急性高山病と私

小野久光

 ウムドン・カンリ隊の先遣隊に同行してマナリを出発。その日はロータン・パスを越え、チョタダラ(3760m)に宿泊。翌日クンザン・ラ(4551m)を越えガザ(3680)に到着した。この日は、普通に夕食をとり就眠した。
 翌朝、同室の山口宏隊員に顔面の浮腫を指摘された。それまで自分の体の変化について、自覚的なものは全くなかった。山口宏隊員の常備薬から、ラシックス20mg1錠を服用。(マナリ→ガザ間に、目まい、頭痛、倦怠感、食欲不振はなかった。脈拍、呼吸数も正常範囲内)
 増井(え)隊員が、パルスオキシメーターで、動脈血中酸素飽和度測定→著名な低下(40以下と記憶)。直ちにスポーツ用酸素シリンダーより酸素吸入を開始した(この携帯用酸素カートリッジは、1本に18Lの酸素が充填されていて、全開で9分間使用可)。吸入開始により、観察者からみて顔色が良くなり、パルスオキシメーターの数値も90台に上がったとのことである。
 増井登攀隊長以下、先遣隊の隊員の協議にて、直ちにガザ国立病院に入院。準備出来しだい、翌朝ジープにてデリーへ戻る手続きをとっていただいた。病院の内科医の診断は、高所順応不応による急性高山病であった。
 病院で酸素吸入を受けたが、コンプレッサーによる酸素供給システムのため、長時間のモーターの使用は過熱破損となり、時々コンプレッサーを停止したり、停電したりして酸素の供給が停止されることがあった。そのたびに、必然的に血中酸素飽和度の低下をきたした。増井(え)、山口(宏)隊員が添ってくれ、ありがたかった。
 翌朝、ジープにてデリーに戻る。ガザを出発して約2時間、高度も2000m台に下がり、どの程度血中酸素飽和度が回復してか知りたいところ。この血中酸素飽和度に関して、増井(え)隊員が、ガザにおいて、現地の人(病院従業員)、及び高所ポーター達の測定をしたが、殆どが、私以外の隊員より低値を示していた。
 急性高山病について個人差もあるが、私の場合、外的変化に気がっかなかったことである。幸い同室の山口宏隊員に指摘していただき、更に増井登攀隊長をはじめとする先遣隊の皆さんの迅速な処置で、急性高山病の進行を阻止できた。携帯用の酸素シリンダーは、入院までに3本使用した。デリーまでのジープでは使用しなかった。
急性高山病は、夜間病状が悪化する場合が多いと言われている。そのため、朝の「おはよう」のあいさつと共に、まず同室(同テント)内の仲間の表情、動作をチェックするよう鈴木総隊長から言われていたが、私の場合、まさに的中した実例であった。





     カザからの帰還

菊 地 啓 一

 予想外の雨のため、予定より1日遅れて7月19日の夕方、われわれ日本人隊員6名は、リエゾンオフィサー(インド政府連絡官)のダラム・キルティ、ダージリンシェルパのサンゲ・シェルパらとともに先遣隊として、インドヒマラヤ、スピティ地区の中心地カザ村(3600m)に入った。

 登山隊にとってはここが屋根のある宿舎(ホテル)に泊まることができる最後の集落である。ここからキバールを経て、氷河を登りつめ、パラン・ラ(峠)(5600m)を越してゆくキャラバンとなる。

 夜、ホテルに宿泊しているロシア人たちが中庭の丸テーブルを囲み、ギターの伴奏でロシア民謡を歌いはじめた。私は、高山病の症状もなく、明日はマナリに帰るだけなので、仲間に入れてもらい、「カチューシャ」、「モスクワ郊外の夕べ」、「ポーリュシュカ・ポーレ」などをリクエストし、夜の更ける11時過ぎまで一緒に過ごした。
翌7月20日朝6時、私は先遣隊と別れ、雨の中、インド人運転手らとジープ3台でカザを出てマナリに向かった。途中のクンジュン・ラ(峠)(4551m)付近から道路の状況は悪くなり、落石をよけながら何とか昼過ぎにチョタダラ(3690m)まで辿り着いた。トラックやジープが停車しているので事情を聞くと、ここから先は地滑りで進めないとのことである。標高が高く乾燥地帯であるこの地域は、地表を覆う草木がないため、少しの雨でも道路が崩壊してしまう。

 街道沿いには所々に政府のレストハウスがある。レストハウスとはいっても、雨露を凌げるだけの簡素な避難用施設である。いつ開通するのか見当もつかないまま、とりあえず雨を避けてレストハウスにもぐりこんだ。チャイを飲んでいると、薄暗い中から「キクチサン」と話し掛けてきた男がいた。目を凝らしてみると、カザで先遣隊に合流する予定のマナリのハイポーター、ピアレ・ラルである。2年前に共にクーラ峰の初登頂を果たした男である。不安げな顔つきで、しかも全身ずぶ濡れである。2年ぶりの再会を喜ぶ状況ではなかった。

 ピアレ・ラルの話では、「ここから15㎞先のチャトルまで車で来たが、それ以上進めないため歩いてきた。沢が道をえぐり、いたるところで地滑りがおき道路が寸断されている。崩壊の状況から少なくても1週間は開通しない。ファテ・チャンはまだ着かない。」とのことである。ファテ・チャンも2年前にクーラに一緒に登ったマナリのハイポーターである。

 午後2時過ぎに外に出ると、雨の中をファテ・チャンが上がってきた。「沢を渡れない人を助け出す。」といって、ロープを手に引き返して行った。4時頃には、救出したスウェーデン人のトレッカーたちとともに戻ってきた。一緒に上がってきた登山隊のポニーマン(馬方)、テンジンをファテ・チャンから紹介された。ファテ・チャンもテンジンも、寒さでがたがた震えている。すでにポニー20頭は、カザの近くに入っており、残り30頭はこれから上がってくるとのことである。

 夕方、いつのまにか雨はみぞれに変わった。周囲の6000mを越える山々は下の方まで雪線が下がってきている。明日はどうなるのか、天候は回復するのか、引き返せるのか。不安な夜を迎えた。気圧は、いったん少し上昇したが再び下降してきた。部屋で一夜を過ごすのは、カザから一緒のドライバーのプリタム、われわれの仲間で前日カザを発って足止めを食っているニッカ、そしていつのまにか入り込んで床に寝転がっているポーランド人一家5人の計8人である。このポーランド人一家はいたって陽気である。家族が一緒であれば怖れるものはないということか。一方で、私は孤独と不安に耐え、ビスケットを口に入れ、精神安定剤をのみ、シュラフにもぐりこんだ。
翌21日も朝から雨である。ジープで前進するのは不可能、カザへ戻るのも昨日の状況から危険と判断された。インド人スタッフたちは、道路が開通するまで待つと決めた。朝7時50分、チャトルへの15kmの道のりを歩くことを決心し、ピアレ・ラル、ファテ・チャン、テンジン、プリタム、ニッカらと手を振って別れた。チャンドラ川沿いの道をチャトルまで下る長く危険な1人旅である。食料はビスケット30枚、それとカザから持ってきたミネラルウォーター500ccである。

出発してすぐに大きな岩が道路を覆っているところに出た。これを見れば、当分開通しないことは明らかである。道路を寸断した沢の手前でイスラエル人の2
人連れに追いついたが、女性が怖がって徒渉できない。彼女の徒渉を助け、旅は道連れと思い、しばらく一緒に歩いたが、2人のペースが遅いのでいつのまにかまた1人になってしまった。途中でラマの僧服を着たドイツ人の修行僧と一緒になり、高巻きや徒渉を繰り返して進んだ。眼下には水量を増したチャンドラ川の濁流が逆巻いている。休憩するとドイツ人ラマ僧が寒さでガタガタ震え出すので休むに休めない。歩き出すと必死になって後ろからついてくる。午前11時30分、ようやくチャトル(3360m)に着いた。

しかし、そこには期待していたジープもトラックもなかった。雨は止むことなく降り続いていた。車が来るのを1時間程待ってみたが、いつまでも待てないので、午後0時20分、次の目的地グランプー(3230m
)までの17kmをまた歩きはじた。グランプーはロータン・パス(峠)(3978m)の入口にあり、そこまで行けば峠の先のマナリ(2050m)へはすぐである。マナリの本隊はこの日の朝にはロータン峠を越えてこちらに向っている予定であるが、この雨では待機をやむなくされているはずである。マナリで会えるのでないかというかすかな期待をもってグランプーを目指した。道路は、歩くのに支障はなかったが、道を覆い谷に激しく流れ落ちる沢の徒渉を7、8回くりかえした後、夕方4時10分グランプーに到着した。ところが、ロータンパスも道路の崩壊で通行止になっていた。現地の人に聞くと、ここは軍用道路なので、天気さえ回復すれば明日は開通するということだったので、雨が止むのを祈りつつ、毛布にくるまって休むことにした。

 しばらくうとうとしていると、車が走る音が聞こえ、開通したことが分かった。早速、ジープをつかまえ、午後6時頃マナリに向けて出発した。レーに向かうというドイツ人ラマ僧とはここで別れた。「あなたがいなければここまで歩けなかったかも知れない」というと、「私もだ」という。ロータンパスまでは順調だったが、下りに入ったところでマナリから上ってくる軍徴用の民間トラック150台の通過待ちを強いられた。カシミールへの軍需物資の補給路であるため、民間車両は後回しである。周りはすでに漆黒の闇である。われわれのジープは左の路肩ぎりぎりに止まり、雨の中、いつ崩れるかも知れないがけの縁で5時間以上の停滞を余儀なくされた。信じられないことに、暗闇の中を無灯火で上がってくるトラックもあった。接触すれば、数100m下の谷へまっさかさまである。落石と転落の危険をようやく脱して、深夜2時頃、寝静まったマナリの宿舎に着いた。

翌22日朝、隊員たちと再会して道路状況を伝えた。日本人1人で下りてきたことをインド隊のクライミングリーダー、アルン・ロイ・チャウドリに話すと、「You are brave.」と言ってくれた。しかし、決して勇敢だったわけではない。2日間にわたる孤独、不安、緊張のため、情けないことにストレス性の胃潰瘍になって帰ってきた。高山病が発症しなかったのは幸運であった。

 カザにいる先遣隊からは、われわれがジープで出たまま消息不明であること、また、われわれがカザを発った20日に小野ドクターが高山病で現地の病院に入院した後、デリーに搬送中であるという情報が入っていた。私の報告を受けて、ロータン峠越えを諦めた本隊は、23日早朝、小雨降る中、シムラを経て3日目にカザに入る予定で出発し、私もジープで、気の遠くなるような600kmの道のりをデリーに向った。

 14時間に及ぶジープの旅を終え、夜、デリーのホテルで1人で食事をしていると、パルスレーサー(エージェント)のムクンドに付き添われて小野ドクターが戻ってきた。高山病も完全に回復し、元気そのものであったが、途中で行動を打切らざるを得なかった無念さがにじみ出ていた。

 翌24日夜、小野ドクターを残してデリーを発ち、成田経由で25日午後、無事帰宅した。





あるフランス人と
                     田中守之

 スムドのチエックポイントで、チエックの終わるのを待っていたときのことである。ジープの中で3000mの高地なのに、日差しが暑そうだなと外を眺めていた。と60代の外人がこちらへ寄ってきて、流暢な日本語で話しかけられた。
「日本の方ではありませんか。」 とっさのことで日本語が出てこない。日本語を使うのは隊員に限られている。ましてやインドの地方で日本語が聞けるはずがな刈ったからである。一瞬間を置いて。「え、そうです。」 「私は日本に35年いて、東北大と山形大でフランス語の教師をしていました。仙台の駅前にはよくいきましたよ。このトレッキングが終わったら、日本へ行き、亡くなった先輩や同僚の墓参りをしてきます。」 道理で日本語がうまい。飲み屋まで通ったとは恐れ入る。
 そう云えば、もうすぐ8月、義理堅く日本の風習を守るフランス人に対し、我々は何と言う種族なんだろうか。来年は伝統を守り、お盆を迎えねばと反省する。





私のトレーニング
                     田中守之

 60歳の体力は20歳の人の半分といわれる。それだけではない。加齢と共に更に劣化が強くなる。
 体重65kgが骨と皮ばかりの65kgになった術後の自分の体を鏡で見たとき、果たしてもとの体に戻すことができるのかと、暗たんたるものであった。これまでのトレーニングはすべてなく、0からの再出発であった。始めた当初は大変だったが、身が軽くなった分、動きやすく、思ったより早くトレーニングの軌道にのることができた。
 私の考えたのは、筋力強化、大腿四頭筋の強化、心配機能のアップで、種類は次のようにあくまで我流で、理にかなったものではなさそうである。
1. 亜鈴10kgを持ちスクワッド30回
2. 果汁0kgの片足踵上げ30回ずつ
3. 腰掛けた姿勢で片足5kgを加重し、足伸ばし
20秒を20回
4. 縄跳びの要領によるその場とび20分
5. ジョギングは時速10kmで標高差70mの団地内
の道30分
6. 団地内の232mの三峰山登り
 体の状況でこれらの二つか三つを選び、時には一つだけでも週2~3回行った。しかしトレーニング中、関節が痛くなったり、過労を感じたらその場で中止し、治してから再開した。無理をすると、治療が長引き、トレーニングができず、何のためにトレーニングを下のかわからなくなってしまう。これに週一回、山歩きをするように心掛けた。
体力つくりには食物も考えなくてはならない。油っこいものは口に合わないので、高カロリーにこだわらず、チーズを毎日29~30g摂るようにしている。
  胃がないと、人並みに食べ溜めすることができない。のべつ幕なしに食べるようにしているが、未だよい方法がわからないでいる。





は、予定より7日遅れの8月4日だった。
 7月29日に、パレ・チュ川左岸4811mにBCを設営した先遣隊は、悪天候にもめげず西稜にルートをのばし、岩稜上5370mにC1、5800mの雪稜上にACを設営して、アタック態勢を作りつつあった。5日の交信で、明日頂上を目指すと連絡してきた。
 6日、増井、柳原、増井(え)は、連絡官、BCマネージャー、高所ポーター2名と頂上を目指したが、ホワイトアウトの西峰(6400m)で引き返した。
 7日には、水野、山口(宏)、囲村、青戸、高所ポーター2名がC2へ上がる。C1の前後はボロボロの岩稜帯。歩きにくいが、約3時間で雪稜上のACに到着。私と旧村は風邪気味で、夕食も取らずに就寝。興奮のためか零時には目が覚め、それ以降眠れなかった。
 8日、いよいよアタック。食事は全て行動食とし、5時10分出発。風もなく映晴。体調はいまいちだったが、8時25分、一次隊が6日に立った西峰に到着。残念ながら山口(宏)、田村は体調が悪く引き返し、頂上へは、水野、青戸と高所ポーター2名で目指すことにした。
 一度一気に下り、その後は45度前後の雪稜を登る。強烈な太陽で雪がくさり、ラッセルに苦労する。12時に「あと10分程度で頂上に着く」と交信じたが、それからが大変、ラッセルと偽ピークで、ようやく13時26分、初登頂。ACの増井からの祝福の言葉に目頭が熱くなった。快晴、無風の頂上。これ以上の条件はない。頂上直前よりビデオを回し、頂上からの大パノラマを収める。東には鋭峰ギャがそそり立ち、南は、南峰越しに名も知れないスピティの山々、東は、6300m級の未踏峰を見下ろし、北は荒涼たるルプシュの山々。360度の展望を楽しんだ。この日は、母の88回目の誕生日。少しは恩返しが出来たと自画自賛。頂上でのセレモニーの後、生徒たちの写真と一緒にビデオに収まり、松川氏の絵も埋めた。
 20年前の夏、悪天候で断念した、パキスタンのガンバル・ソムの雪辱ができ嬉しかった。今回は絶対登りたいと思っていただけに、嬉しさもひとしおである。先遣隊のメンバーが、キャンプをのばしてくれていたこピ、登頂日が好天に恵まれたこと(好天はこの日のみ)、快く送り出してくれた家族、全てが登頂成功につなげてくれたと感謝した。



   初めてのインド、初めての6000m

                   山口 孝

学術調査隊の看板に、登山隊ではなく、トレッキングをしながら、さまざまな風物に触れ、記録し 自然、民俗、文化、宗教等についてレポートするようなイメージで参加してみようと思い立ったのであるが、現実には、登山行動が主となった。計画当初のミーティングから、 トレーニングへと準備が 進行するにつれ、 登山経験の浅い僕にとってみれば、「話がちがうぞ。」と言いたいところでしたが 、「乗りかかった船」に変わっていき、 「行けるとこまで行ってみよう」と、出発日を迎えました。
 初めてのインド、初めての6000mと、期待を背負っての出発でした。 雨もあって、ゆっくりとしたペースでの行動が、体調的にも心理的にも余裕があり、良かったように思います。順調に目標を達成出来たのも、さまざまな条件が整っていたからです。自分で整えることも当然でしたが、 周辺の諸 条件も予想以上にうまくいったように思います。唯一の反省点として、 パランラ峠への下見を兼ねた高度順化の行動で、 薄曇りに気を抜いて、サングラスを忘れ、その夜、雪盲になったことです。 国内でも、一度も経験のないことでした。何事も、注意を怠ってはいけないと、あらためて肝に命じています。インドヒマラヤの自然も充分に堪能しましたが、何より、登山隊のメンバーをはじめ、インド人スタッフ、現地で出会った人達との交流が、大変有意義であり、収穫でした。帰国後、 写真やVTRを見返す度に、現地のこと、人々、空気が鮮明に思い出されます。機会があれば、ぜひ再び、出かけたいのですが、6000mより高い峠を越さなくてはなりません。 毎日が高度順化のトレーニング になりそうです。 



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