SALT OF THE EARTH

SALT OF THE EARTH

「マレーナ」感想文



気になっていた映画をやっとレンタルで観た。

12歳を過ぎた少年の初恋(片思い=究極の愛)と少年時代との決別、というおセンチなお話を
美しいシチリアの風景と共にお送りします、ではすまない話だ。

美しいがゆえに、戦地にいる夫の留守を独りで過ごしているわけがない、と街中の男たちの淫らな視線と女たちの興味本位と嫉妬の的であるマレーナ。
彼女の父親(教師)の生徒たちも例外でなく、ティーンエイジの初めの性の対象として、
マレーナを噂している。その入口にいるレナート少年。
男の子というのは、本当にこれほどのイマジネーションを駆使して、憧れの女性を妄想の中で自分のものにしているのか?正直羨ましい。女の裸、とかチラッと見える胸元やらで毎日マスターベーションできるのなら!

実は思い出した小説がある。山田詠美の短編「Me and Mrs.Jones」。
軍隊にいる夫の留守中に若い男と情事を楽しむ女と、その情事の相手に選ばれ、別れを体験することで大人になる少年。
ミセス・ジョーンズは若い「情夫」をとっかえひっかえし、快楽に酔っているかのようだがその心は離れている夫にあるのだった。

「マレーナ」がこのミセス・ジョーンズと違うのは、彼女は実際に夫以外の男と情事をすることはない。
街中で「情夫がいるはずだ」と噂される彼女が実は夫だけを愛していて、一人写真を抱いて踊っている、
そんな寂しさを知るレナート少年。
しかし、彼は何にしろまだ子供だった。
マレーナの悪口を言う奴らにこっそりいたずらをする程度しかできることはない。
戦争が拡大し、夫の戦死の知らせ、父親の死、未亡人になったマレーナに近づくのは親身を装いつつ、なんとか彼女をモノにしようとする男ばかり。
彼女は生きる術として男たちの慰みものになる。
自ら容姿を派手に変え「娼婦」になるマレーナ。
それは挑戦的なようだが、彼女はきっと感情をオフにしてしまったのだろう。
しかし街の女たちの敵意は更に増長される。
レナート少年はそんな彼女に涙する。彼女に失望するのではない。
誰にも理解されず、独りで哀しみを心に押し込め「闘って」いるマレーナは
少年にとって「大人」であり、その対極にいる自分が何の力もない「子供」だということ・・・

やがて戦争が終わり星条旗を翻し「解放軍」が街に現れる。
「ライフ・イズ・ビューティフル」でも同じ場面があった。あぁ、やっぱり米国は「解放軍」?
ちょっと物語とそれますが、ムッソリーニの独裁下、イタリアは負けて解放されたのか?
今のイラクのように?少なくとも人々はそういうふうに思っていたのだろうか。

そんな中、かねてからの女たちの悪意は頂点に達し、マレーナを「集団リンチ」する。
イラク人捕虜虐待のように、何でもない世の中なら平凡である人々が、戦争のせいで、といっていいのか、何か鬱積した悪意を噴出させ、わかりやすい対象にぶちまける。

この映画についていくつかネット上で意見を書いてるものを読んだ中で、
マレーナへの暴行がロバート・キャパの撮ったフランスにおけるある写真と同じだというのがあり、
あわてて自分の本棚から埃くさいキャパの文庫本を出してみた。
それは「フランス解放」後にナチに協力した女が髪を剃られ赤ん坊を抱いて通りを歩いているもの。連行されていくのか、周囲の人々は笑って彼女を見ている。
とっさに思う。私はどっちだ。
あの赤ん坊を抱いた女?嘲笑の視線を送る多くのうちの一人?
誰もがどちらにもなりえる。平和な場所からの非難は誰でも出来る。

少年は彼女を助けることも出来ず、街を出るマレーナとの別れで物語は終わるかのようだが・・・
ここから『ネタばれ』?
まだ話は展開するのである!これ、結構意外でした。
少し成長したからこそ出来たこと?少年はやっとマレーナにわずかながらも力を貸すことが出来た。
これは・・・「愛」です、まさしく。
そして、理解に苦しむのだが、街の女たちのマレーナの「認知」。なんなんだろう?
どう思ったらいいんだろう。
マレーナの根性を「シチリア女魂」として認めたのか、マレーナが疲労して輝きをなくしたから「敵」じゃなくなったのか?さすがに可哀相と思ったのか。いずれにしろこの映画でマレーナが楽しく笑う姿は出てこない。

単に甘酸っぱい初恋の思い出、に終始せず、人のいやーなところを見せてくれる映画。









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