YESMAN 白隠



白隠

寛大さ、ともいえる、
のではないのかと、
いつも心に残っていたこのストーリーです。
白隠については実はあまり知らない。
げげげげー。

ということで、OSHO ファウンデーションより
トランスフォーメーションタロットカードの
「ACCEPTANCE」 (受容)の和訳を
コピペ致しました。

お買い求めは、OSHO関連のセンターでどうぞ。

てへ。


Hakuin and the infant child


 生をあるがままに受け容れることです。
どんな理由ももたずに、楽しみましょう。


 偉大な禅のマスター、白隠が住んでいた村で、ある娘が妊娠した。
彼女の父親は、彼女をおどしつけて、恋人の名前を知ろうとした。
そしてついに、彼女は罰を逃れようとして、それは白隠だと告げた。

 父親はそれ以上なにも言わなかった。
だが時が満ちて、子どもが生まれると、
彼はすぐに白隠のところに連れて行って、子どもを放り出した。
「これはお前の子どものようだが」と彼は言い、
ことの不名誉に対してあらゆる侮辱とあざけりをまくしたてた。

 禅マスターは、ただひとこと、
「おお、そうなのか?」とだけ行って、その子を腕に抱いた。
それからというもの、彼はその子どもをぼろぼろになった長衣のたもとにくるんで、どこへでも連れて行った。
雨の降る日も、嵐の夜も、彼は近所の家々にミルクを貰いに出かけたものだ。
弟子の多くは、彼は堕落したと思い、反発して去って行った。
が、白隠はひとことも言わなかった。

 一方、母親は、自分の子どもから離れている苦しみに耐えられなくなっていた。彼女はほんとうの父親の名前を明かした。
彼女の父親は白隠のもとに駆けつけて、ひれ伏し、何度も何度も許しを乞うた。
 白隠は、「おお、そうなのか?」とだけ言って、彼に子どもを返した。


 これが受け容れることだ。これが"タタータ"だ。
生がもたらすものはなんでもオーケーだ。完全にオーケーだ。
これが鏡のような質だ――なにも良くはなく、なにも悪くはない。
すべてが神聖だ。生をあるがままに受け容れるがいい。
それを受け容れることで欲望が消える。緊張が消える。不満が消える。
それをあるがままに受け容れることで、人はとても楽しく感じ始める。
まったくなんの理由もないのに――。

 喜びに理由があると、それは長くはつづがない。
喜びになんの理由もなければ、それは永遠にそこにある。

Osho ZEN : THE PATH OF PARADOX, Vol.3, pp.175-176



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