信者は信者の鏡


D,Order

元来、言葉というものは、言葉に頼らなくては理解できない人の為にあるものだ。
言葉がなくとも理解できる人にとって、言葉の必要がどこにあろう。
実は天も地も、分かる人にとっては、全て言葉なのではなかろうか。
天も地も、「ただ、在れ、という(神の)一言で在る」・・・*[コーラン]
のであるからには、皆言葉から生まれ出たものではなかろうか。
低い声をも聞き分ける耳を持った人には、叫んだり怒鳴ったりする必要は無い。

・・・中略・・・

従って(また一般に何事にもよらず)、もし根源的意図を見極めるなら、
(現象的)多者性は消え去ってしまう。
現象的多者性は枝葉にすぎない。
実在の根源はただひとつだ。

神秘道で一派の長と仰がれるほどの人達もこれと同じこと。
外面的 形はいろいろに違っており、その精神的状態や言動は様々だが、
目指すところはただ一つ、真実在の探求ということにある。

例えば吹き渡る風のようなものか。
風が家の中に吹き込んでくると、絨毯の隅がまくれ上がり、
軽い敷物はばたばた動き、塵芥が空中に舞い上がる。
池の面はさざなみ立って千々に乱れ、木々は揺れ、枝はざわめき、葉は跳る。
吹く風に、かくも様々に違った状態が現出するのだ。
しかし、意図とか根源とか真実とかいう観点からみれば、
みんなただひとつのことにすぎない。
いろいろのものがいろいろに動くけれど、
要するに一つの風から出てくるものだからである。

誰かが「私は怠慢の罪を犯しました」と言った。
師はこうおっしゃった。

そういう考えが湧いてきて、それで人が自分を責め、
「ああ、なんたることだ。私としたことが、どうしてこんな事をやっているのか」
と、言うようになる。
そのこと自体(神が)その人を愛し、その人に関心を持っておられることの証拠である。

「責めなじる気持ちのある限り、愛の心はまだそこにある」

・・・*[アラビア詩句]・・・と、いうわけだ。

友達だからこそ責めたりなじったりする。
なんの関係もない他人を誰が責めたりするものか。

ところで一口に「責める」というが、実はこれにもいろいろ違った段階がある。

その一は、人がそれで痛みを感じ、それをはっきり意識する場合。
これは相手がその人に対して愛を抱き、その人に深い関心を持っている証拠である。
ところが、幾ら責められてもちっとも痛くない場合は、これは愛の証拠にはならない。

絨毯を棒で打って中の塵埃を叩き出す場合、
およそ正常な理性を持つほどの人はこれを「責める」とは呼ばないが、
我が子や愛する人を打擲する場合にはこれを「責める」と呼ぶ。
そして第2のような場合にこそ、愛の証拠が現れるのである。

従って、自分自身のうちに痛みを感じ、深く悔いるところがある限り、
それは神の、その人に対する愛と関心とを証しするのである。

もしそなたが自分の兄弟に何か欠点を見つけるなら、
それは自分自身のうちに、その欠点があるということだ。
それをそなたが、まざまざと見るのである。
他人はいわば、己れ自身の映像を見せてくれる鏡のようなもの。

正に 「信者は信者の鏡」 ・・・*[ハディース]・・・である。

直ちにその欠点を、己れから払い出すようにするがよい。
自分の兄弟に何か欠点を認めてそれが苦になる時、
実は、そなたは己れ自身の欠点を苦にしているのだ。

・・・・中略・・・・
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自分の中にあるのは少しも苦にならぬが、
他人の場合は、ちょっとでも目につくとそれを苦にして嫌気がさす。
そなたが嫌気がさすなら、他人の方でそなたに嫌気がさしても
当然のこととしなければならないはずだ。
そなたが、相手をいやだと感じるその気持ち自体が、
そなたに対する相手の気持ちを釈明して余すところがない。
そなたは相手をみていやだと思う、
その同じいやなものを、相手もそなたの中に認めるのだから。

「信者は信者の鏡」とはこのことだ。

だが、預言者は「無信仰者は無信仰者の鏡」とは言われなかった。
別に無信仰者は鏡を持っていない、と、いうわけではないけれども、
信仰の無い人は、自分の鏡に全然気づいていないからである。

・・・・・略

=抜粋=  ルーミー語録 [談話 その六] 


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