純粋一元性の世界(我こそは神)



rose

さりながら愛欲もその究極に達すれば

愛はそのまま転じて憎しみとなる




という句がある。
一同が師にこの句の意味の解明をお願いした。

師は次のようにおっしゃった。

愛情の世界に比すれば憎悪の世界は狭い。
人が憎悪の世界を厭うて、愛情の世界に遁れようとするのを見てもそれが分かる。

けれど、その愛情の世界も、
愛憎二つながらの源である”かの”世界に比すればまだまだ狭い。
愛情と憎悪、信仰と不信、そういうものは二元論に陥ることを免れぬ。

なぜなら、不信とは否認することであり、
否認するには否認されるべき相手がなければならない。
同様に信じる人は信じる相手がいなければ成立し得ない。

してみると、
和合も不和も共に必ず二元論に導くものであることが分かる。
そして、”かの”世界は信仰と不信の彼方、愛憎の彼方にあるということも。

このように、愛情ですら二元論の源である。

他面、二元性の跡もなく、純粋一元性の世界も存在する。

とすれば、その一元性の世界に到達した人は、
愛も憎しみも共に超えた人でなければならない。

その世界には二元性の入る余地は全然ないのだから、
そこに至った人も完全に二元性を超越しているはずである。

従って、まだ二元性の支配していた最初の世界、
つまり愛情や友情の世界は、
今やその人が移ってきた一元性の世界に比すれば、
どうしても下等で低級と言わざるを得ない。
だからそんな下等な世界にはもう用がない、
いや敵視さえするようになる。


例えばマンスールだが、神への思慕の情が極限まで達した時、
彼は己れの敵となり、己れ自身を無にした。
そして絶叫した、「我こそは神!」と。
すなわち、「私は消滅した。神のみがあとに残った」という意味だ。
これこそ自己を卑下するの極みであり、神に対する恭順の至りである。
神が在る、神のみが、というのだから。


実は「汝は神、私は僕」ということこそ、真の傲慢不遜なのである。

なぜなら、これは人間が自分自身の存在を、神と並べて措定することだから。
そうなれば当然、二元論である。

「彼こそは神」と言うこともまた二元論である。

なぜなら、”我”が立てられない限り”彼”は立ちようがないからである。


だから(マンスール・ハッラージュの場合)「我こそは神」
というのは神自身の発言である。
神以外には一物も存在せず、
マンスールは完全に消えうせてしまっているのだから、
神自身の言葉でしかあり得ない。


形象の世界は、概念や知覚の世界よりははるかに広漠たる世界である。
人間の心に浮かぶ一切のものは、全て形象の世界に淵源するものであるから。

しかし、その広漠たる形象の世界も、
全ての形象が淵源してくる”かの”世界に比すれば狭いのである。

言葉で説明できるのは、まあこの程度までだ。
実在の真相は到底筆舌を以て解き明かせるものではない。




この時、誰かがこう質問した。
では言葉や言語的表現は一体なんの役に立つのでございましょうか、と。


師は次のようにお答えになった。


言葉の機能は人を鼓舞して探求に駆り立てることにある。
探求の対象まで言葉で把えられるわけではない。
もしそうでなければ、何もこんなにまで苦労して、
自己を無化したりする必要がどこにある。

言葉というものは、
譬えば遠くに何やら動くものを認めた人が、はっきり見定めたいと思って、
走って追いかけてゆくようなものだ。

ただ向かうが動いているだけでは、それが何であるのかつかめはしない。

人間の言葉も内的には正にそうしたもの。

目には見えぬ”何か”を
見えないながらも追い求めてゆくように人を駆り立てる力、
それが言葉である。



以下 略・・・・・・・・・・・

tree



*注釈: マンスール・ハッラージュ
    「我こそは神」は普通、傲慢不遜の極地と考えられている。
     またその故にハッラージュは処刑された。

MANSOOR
PICTURE:OSHO トランスフォーメンションタロット


「ルーミー語録」訳 井筒俊彦


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