慶文堂 ひま人日記

慶文堂 ひま人日記

 (参考)新しい歴史教科書『日露戦争』

【新しい歴史教科書『日露戦争』】より

第4章 近代日本の進出>3.立憲国家の門出>53
国家の存亡をかけた日露戦争/p220



親露か親英か

 19世紀末から20世紀のはじめにかけて,日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では,単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に,生き残る方法はなかった。三国干渉のあと,日本は,同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。
 両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは,容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知っている伊藤博文らの元老(天皇の政治顧問[こもん]。昭和初期まで存続し,維新の功労者が任命された)は,ロシアと結ぶ親露政策を,小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は,イギリスと結ぶ親英政策を主張した。
 両者の論争の焦点は,ロシアについての見方だった。ロシアは,1900年に中国でおこった義和団<ぎわだん>事件を口実に,満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み,そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話しあいがつくか,ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは,小村寿太郎が提出した意見書だった。


日英同盟締結

 小村意見書は,日露条約と日英条約の利害得失を論じ,日英条約が優位であると主張したものであった。
 小村意見書は,1901年,政府の方針として採択され,それに基づいて交渉した結果,1902(明治35)年,日英同盟が締結された。当時,ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから,小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間,日本の安全と繁栄に大きく役立った。



日露条約の問題点(小村意見書)

1.一時的には東洋の平和を維持できるであろうが,ロシアの侵略主義は到底これに満足しないから,長期的な保障とはならない。
2.満州とシベリアは,将来は別として,現状では経済的利益は小さい。
3.最近清国人は,上下ともに日本に対して友好的な感情をもってきているが,ロシアと結ぶと清国人の感情を害して,清国における日本の利益を損ずることになる。・英国の海軍力に対抗しなければならなくなる。


日英条約の利点(小村意見書)

1.アジアにおける英国の目的は領土拡張でなく,現状維持と通商利益であり,英国と結べばロシアの野心を制して,比較的長く東洋の平和を維持できる。
2.したがって,日英条約は平和的,防衛的なものとして,国際世論からも支持される。
3.英国と結ぶと清国はますます日本を信頼するようになり,日本の利益を増進する。
4.韓国問題を解決するためには,他の強国と結んで,ロシアがやむをえず日本のいうことをきくようにするほかはない。英国は同盟を結ぶのにもっとも適当な国である。
5.英国と結べば,日本の経済についての国際的信用を高める。また,英国人は,同盟国の共通利益ということで,日本に財政上,経済上の便宜をはかるだろう。
6.大英帝国とシベリアでは,日本にとっての通商上の価値は比較にならない。
7.ロシアの海軍力は,英国の海軍力よりも対抗するのが容易である。



日露開戦と戦いのゆくえ

 ロシアは,日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。ロシアは満州の兵力を増強し,朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば,ロシアの極東における軍事力は日本が到底,太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて,ロシアとの戦争を始める決意を固めた。
 1904(明治37)年2月,日本は英米の支持を受け,ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)。戦場になったのは朝鮮と満州だった。1905年,日本陸軍は苦戦の末,旅順を占領し,奉天(現在の瀋陽[しんよう,シェンヤン])会戦に勝利した。
 ロシアは劣勢をはね返すため,バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は,アフリカの南端を迂回し,インド洋を横切り,8か月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は,兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ,世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。


世界を変えた日本の勝利

 日本海海戦に勝利したとき,日本はすでに,外国からの借金と国債でまかなった,国家予算の8年分に当たる軍事費を使い切っていた。長期戦になれば,ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白だった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは,日本にもっとも有利な時期を選んで,日露間の講和を仲介した。アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果,1905(明治38)年9月,ポーツマス条約が結ばれた。この条約で日本は,韓国(朝鮮)(1897年,朝鮮は国号を大韓帝国と改めた)の支配権をロシアに認めさせ,中国の遼東半島南部(のちに,日本は関東州とよぶ)の租借権を取得し,南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け,南樺太の領有を確認させた。一方,賠償金を得ることはできなかったので,戦争を続けようにも国力が限界に達しているという事情を知らない国民の一部は,これを不満として暴動をおこした(日比谷焼き打ち事件)。
 日露戦争は,日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して,自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が,当時,世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは,世界中の抑圧された民族に,独立への限りない希望を与えた。しかし,他方で,黄色人種が将来,白色人種をおびやかすことを警戒する黄禍<こうか> 論が欧米に広がるきっかけにもなった。



日露戦争と独立への目ざめ

 「日本がロシアに勝った結果,アジア民族が独立に対する大いなる希望をいだくにいたったのです」(中国革命の父・孫文)
 「もし日本が,もっとも強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば,どうしてそれをインドがなしえないといえるだろう?」(インドの独立運動家でのちの首相・ネルー)
 「立憲制によってこそ日本は偉大になった。その結果かくも強き敵に打ち勝つことができたのだ」(イランの詩人・シーラーズイー)
 「日本人こそは,ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」(エジプト民族運動の指導者・ムスタファー=カミール)


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