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循環型社会の合言葉って知ってますか?3Rともいわれるんですが・Reduce(リデュース)減らす、抑制。 ゴミを出さないようにすること。・Reuse(リユース)再使用。ものを大切に使うこと。・Recycle(リサイクル)再資源化。使い終わったらもう一度資源にすること。の三つ。とっても大事なことですよね。でも、どちらかというと消極的な感じがします。タバコ好きの男が1箱のタバコを持って無人島に到着したとしましょう。タバコ1箱には20本のタバコが入っている。当然吸えばなくなるが、なんとか長持ちさせたい。そこで、彼は考えた。・吸う量を1日1本にしよう。・吸殻が3個たまったら、ほぐして新しく1本作ろう。さて、男は何日間タバコが吸えるでしょうか?答え1・26日2・28日3・30日答えは30日間。20本のタバコを吸うと、20本の吸殻が生まれ、そこから6本のタバコができます。(吸殻あまり2)その6本のタバコを吸うと、6本の吸殻が生まれ、そこから2本のタバコができます。(吸殻あまり2)その2本のタバコを吸うと、2本の吸殻が生まれ、余っていた吸殻をあわせて1本のタバコができます。(吸殻あまり1)1本のタバコを吸うと、1本の吸殻が生まれ、余っていた吸殻をあわせても2本しかありません。ここまでで20+6+2+1で29日間。それじゃー答えは29日じゃん!ブブー。そこまでするタバコ好きの男が2本の吸殻を残しておくわけがない。ちゃんとした1本にならなくても必ず30日目に吸ってしまいます。脱線しましたが、循環型社会の合言葉である3Rとは、いわばこういう話です。やっぱ、大事だけども消極的ですよね。でも、後先考えずに1日に1箱吸って、吸殻を捨てていけば1日で終わりです。限りある資源をできる限り有効に無駄なく使うことも大切な知恵であることは間違いありません。よく、「限りある資源を大切に」といいますが、この限りある資源という定義も曖昧です。例えば石油は間違いなく限りある資源です。いつの日か近い将来なくなります。節約して使えば長持ちする、というだけのことです。では水はどうでしょう?確かに水にも限りがありますが、これは水の循環の中で供給されています。ですから、供給量の範囲で使う分にはなくなりません。でも、深層の地下水を大量に汲み出すのはすでに「食いつぶし」の始まりです。もうひとつ。森林資源はどうでしょう。確かに限りある資源には違いありませんが、その他の資源と大きく違うのは、人間の知恵で再生可能だということです。人間がコントロールできる唯一の資源が森林資源なのです。
2005/11/02
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さて、地球の資源は一体だれのものなのか?これは大きな問題である。もう半年くらい前になるかもしれないが、NHKスペシャルで「ウォータークライシス-水は誰のものか?」というのを放送していた。その中のひとつの話。インドの半乾燥地に井戸を掘り、そこからくみ上げた水でインドの人口増加のために増えた農作物需要はまかなわれてきたが、近年その地下水も不足し、さらに深く井戸を掘らないと水が出なくなった。インドの農家にとっては死活問題であるが、井戸を掘るには金がかかる。結果として、深い井戸を掘る金があるものが「水」を得て、金のないものは「水」が得られない。貧乏な農家は隣の農家からお金を出して水を買うのである。が、その地下水もいつまでもつか分からない状況らしい。地下水といっても、田舎にある「キコキコ」いわせながら汲み出す「生活用水」とはわけが違う。直径数十センチの太いパイプからドドドーーーと水が汲み出され、広大な農地に流される。見ていて恐ろしい気がした。一体その水は誰の物なんだ!お前が地下に隠しておいたのか?私は思わずテレビに向かってそう叫んでいた。(心の中で)地下水と一口に言うが、その深さによって蓄積された期間も違えば、地表に出てくるまでのサイクルも違う。何年、何十年、何百年、あるいは何千年もかけて地下に蓄積された水を近年猛烈な勢いで汲み上げているらしい。いわば、元金に手をつけてしまっているのである。こうしてみると、世界の人口爆発(悲しいかな日本は少子高齢化)を支えているのは何億年という長い間、地球がこつこつと蓄えてきた財産なのだということが分かる。水も森林も、そしてもちろん石油もそうだ。これではまるで墓泥棒ではないか。自分の財産でもないものを「探し当てて、掘り出し」だら自分の物なのか?現在人類が浪費、消耗している財産とは、もともと人類のものではないのである。しかし、その財産にも限りがある。かつで誰かが埋めた宝の全てを掘り返した時、人類は一体どうなるのだろう?大切な子ども達が路頭に迷う日は確実に近づいている。年金問題もさることながら、子ども達に残すべき、もっと大切なものがあるのではないだろうか?
2005/10/28
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循環型社会を理解するにあたり、生物が土に返ることのすばらしさや、人類が地球の財産を食いつぶしつつある現状について考えてみた。そこで、きわめて単純な法則に気づく。「収入よりも支出が多いと破綻がくる」ということだ。当たり前過ぎるが、一番大事なことでもある。今の世の中を動かしているものは「経済の論理」だ。それはすなわち、「儲けることはいいことだ」ということである。より儲けたものは勝者であり、貧困にあえぐものは敗者である。この原理はすべてのものを貨幣価値に置き換えることで成り立っている。価値のある人とは、お金を持っている人であって、みんなに愛されている人ではない。この「経済の論理」は「循環型社会」の原理と一番なじまないものなのである。循環型社会とは生態系、すなわち大自然の営みを基本とした社会である。大自然は確かに弱肉強食の世界だ。それだけ見ると「市場原理」に似ているようにも見える。が、一番の違いは欲望の方向性である。生態系の中では必要以上の欲望は発生しない。即ち欲望に限りがある。自然界の強者であるライオンは、満腹な時にはシマウマを襲わない。しかし人間は使い切れないほどに金を儲けても満足しない。腹の太ったライオンに、どうしたらもっと食べさせることが出来るかを考えるのが経済だ。1着のスーツが欲しい人に3着のスーツを売ることが出来る営業マンが優秀な営業マンなのである。循環型社会の基本は「足るを知る」ということにある。経済の基本は「欲望を増幅させること」にある。洗剤を流せば河川は汚れる。でも、洗剤が早く減れば洗剤メーカーは儲かる。極端な話、ワンプッシュで出てくる洗剤の量を5%増やせば売り上げも5%アップする。でも河川は5%汚染されるわけだが、その汚染を浄化するためにの費用を洗剤メーカーが払うわけではない。大自然が何億年もかけて蓄えてきた財産の代価は、一体誰が払うべきなのか?
2005/10/22
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循環型社会を目指す!というスローガンが掲げられるということは、現実はそうではないということだ。それでは、「非循環型社会」とはどういうものなのか?ということを考えてみれば循環型社会を理解しやすいと思われる。非循環型社会とは、簡単に言えば「使い捨て」社会である。生産→消費(使用)→廃棄そこで終わってしまう。作った分だけ廃棄物が溜まっていくわけである。産業革命が始まった頃、人間の存在に比べて地球は果てしなく大きな存在であったはす。ちっぽけな人間が黒い煙を巻き散らかそうが、汚いものを海に流し込もうが、全ては大自然がやさしく包み込んでくれるはずだった。そう信じた人類は、指差す彼方の栄光に向かって一直線。何十億年も掛けて生まれてきた石油を掘り返し、燃やし、そのエネルギーでもって人間は地球をどんどん狭くした。かつては何年もかかった地球の裏側への大航海が、今なら飛行機で1日もかからない。これはすなわち、短時間に大きなエネルギーを使っているということだ。そう考えると、人類の進歩とは、どれだけ段時間に、どれだけ大量のエネルギーを使うことができるかという「技術」の進歩なのだということが分かる。大きかった地球は、人類が使用するエネルギーの膨張(人口X一人の使うエネルギーの増大)によって相対的にどんどん小さくなっていった。そして、やっと「こりゃまずい」ということに気付いたわけである。後先考えずに放蕩を繰り替えし、限りなくあるはずだった財産の底が見え始めた金持ちのボンボンと同じである。「この調子で使っているとなくなってしまう!」これまで遊び呆けていたボンボンも、使うだけだといつかは無くなってしまうことにやっと気付いたわけだ。今の人類の状況に似ている。が、しかし、これまで放蕩癖が身についてしまって、働く気にもならなければ節約することもできない。これもまた人類と同じだ。分かっているけどやめられない。心の底では「なんとかなる」と思ってる。でもきっと、どうにもならないのだ。財産を使い尽くした彼は、「ご利用は計画的に!」を書かれたポスターが張ってあるドアを押す。このドアを押す前に聞きたい言葉だったが・・・・・。さて、人類はどうしよう?
2005/10/19
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「循環型社会」という言葉を聞いたことがあるだろうか?環境問題に関心のない人でも、どこかで必ず耳にしたことがあると思う。そう、環境問題用語である。「生態系」という言葉は誰もが聞いたことがあると思うが、具体的にその内容を知っている人は意外に少ないのではないだろうか。なにを隠そう、私自身が良くわかっていなかった。「いろんな生き物が暮らしている環境」という程度の漠然とした捕らえ方をしているケースが多いと思うが、それはそれで間違いとはいえない。が、その環境を保たれているのはなぜだろう?ここがミソなのである。個々の生き物は生まれ、成長し、死んでいく。それにもかかわらず環境が保たれるのは、そこにひとつのシステムがあるからである。そのシステムを生態系(エコシステム)という。「土に返る」という言葉がある。生き物が死に、腐り果てて、跡形もなくなることだが、これこそまさしくその一局面である。もし、人間が死んでも腐らずにそのままの状態で残るとしたら・・・・。想像するだにおそろしい。仏壇を開けると、何十世代も前のおじいさんやらおばあさんやら、早死にした子どもやらが並んでいる風景を想像してもらいたい。下手なホラー映画以上の怖さだ。でも実際にはそんなことは起こらない。なぜなら「腐る」からである。腐るというと悪いことのように考え勝ちだが、腐るからこそ「環境」が保たれている。そもそも腐るということは、有機物が無機物に分解される過程で起こる現象である。この現象を起こさせるのは菌類・細菌類である。ということで、これらを環境学的には「分解者」と呼ぶ。腐るからこそ、土に返る。土に返るからこそ新たな命も生まれてくることができるのである。先日久しぶりに父親の実家のある村に行った。そこには現在だれも住んでおらず、70歳の両親が時々訪問して野菜などを作っている。そこに野菜をもらいにいった。とうもろこしを収穫。その場で皮をビゲのむしりとる。何十本もあるので、皮とヒゲも山のようになる。「これ、どうするん?」と私が母に聞くと「横のほうに投げときんさい(広島弁)」という。見てみると、畑の隅には枯れた花とか、芋のつるとかがまとめてあった。私は「これって、町ではゴミだよな」と思いつつその上の重ねて置いた。大自然が生み出したものは大自然にかえっていく。たったこれだけのことだが、なにやら新鮮な驚きを感じたのである。それにしても、仏壇が実物大の先祖でいっぱいにならなくてよかった。
2005/10/18
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