「白いページの中に」


「白いページの中に」


 そのとき僕は二十歳だった。有希を連れて、田沢さんの住む海沿いの街を訪れた。
 田沢さんは昨年卒業した大学の先輩。有希は僕の女友達で、肉体関係はあったが恋人という認識はない。人聞き悪い言葉にすると、僕らは「セックス・フレンド」だった。

 午後八時過ぎ、仕事を終えた田沢さんと駅前で再会した。そのまま、近くのパブに足を運んだ。昔話に花が咲き、半分以上残っていたボトルがすぐに底をつきかけた。
「もうちょっと安い所へ行こう。給料日前で、ニューボトル入れる余裕がないんだ」
 田沢さんの泣きが入り、僕らは店を移すことにした。

 次はラーメン屋でコップ酒を飲んだ。有希はいつもの酒癖で、えへらえへらと笑いながら僕にしなだれかかった。それを見た田沢さんが、真顔でこう訊いてきた。
「おまえら、つきあっとるんか」
「それは分らんけど、ちゃんとヤッてるよ」有希が答えた。
「ふうん、やっぱりそうか。それで今井はどういうつもりだ、はっきりせいよ」
「知らん」僕はそっけなく答えた。
「こら、しらばっくれんな。女に恥かかすなんて最低だよなあ」田沢さんは、有希に相槌を求める。
「ホント、ホント……でも、今井ちゃんがんばってるよ。さいきん回数は減ったけど、前戯がねちっこくなったもん」
「こら」僕は、有希の首根っこをつかんで揺さぶる。有希はきゃあきゃあ喚いて、僕の腕を拳で叩く。そんな僕らを、田沢さんはショートホープをふかしながら面白そうに眺めていた。
 やがて、彼はひょんな提案を持ち出した。「これから海へ泳ぎに行かんか」
「えっ、いまから?」僕は思わず店内の時計をたしかめた。時刻は、まもなく午前零時を回ろうしていた。
「いいねえ、気持ちよさそう」有希は脳天気にはしゃいでいる。しかし僕は乗り気になれなかった。そろそろ有希とモーテルを探し、適当にセックスをして睡りにつく、それが僕の計算だった。
 だが有希の盛り上りようからすれば、そんな希望がかなう余地など無かった。ラーメン屋を出た後、僕は田沢さんの指示にしたがい、車を西に走らせた。

 駐車場を出て砂の坂をのぼった。それがまた長く急な坂で、酔いがてきめんに回ってきた。三人とも一歩ごとにヨタつき転びそうになる。途中で、僕と田沢さんが吐いた。へろへろになりつつも、僕らは砂丘のてっぺんに立った。そこには、酔いもさめるような光景が待ちうけていた。
 ゆるやかな水平線の弧に沿い、長く光の数珠が連なっていた。それはまるで、黒い海と月の無い夜空の境から洩れる、別世界の明りのようだった。
「あれ、ひょっとして漁火?」ひとりごとのように有希が訊ねた。
「よく分かったな。おまえにしちゃ上出来だ」
「やっほー」ひと声叫んで、有希は坂を下りだした。直後はあっけにとられた僕と田沢さんも、ふたり顔を見合わせてから彼女のあとを追いかけた。

 笑いながら、転げながら、僕らは砂丘を駈け下りていった。浜についた時、みんな身体が重くなるほど砂まみれだった。
「泳ぐぞ」と言って、田沢さんは身につけていたものをすべて脱ぎ捨てた。
「私も、私も」と、有希もTシャツとショートパンツを脱いだ。
「下着はどうするんだ」
「もちろん脱いじゃう、すっぽんぽん」有希は宣言どおり丸裸になって、渚でしぶきをあげる田沢さんの方に駈けていった。 
 僕は上着を脱いだだけで、海に入らなかった。漁火を背にして、黒い波と戯れる有希の裸身に、ひたすら目を奪われていたのだ。
 有希はけっして美人ではない。だが、高校時代の器械体操で培われた、しなやかなで均整のとれた肉体の持主だった。海水に濡れた尻や乳房の丸みが、ときおり微かな光を映して闇に浮かび上がった。頭でそれを美しいと感じながらも、僕は身体で欲情した。ズボンの下でこわばるペニスを持て余し、僕は砂の上に座り込んだ。おかしなことだけど、そのうち彼女の無心なはしゃぎぶりが、憎くてたまらなくなってきた。

 その後、三人で海岸道路沿いのモーテルに入った。部屋は和室だった。シャワーで順番に砂を流した後、川の字になって畳に身体を横たえた。
 明りを消して、うつらうつらしかけた時、隣の有希が身体を寄せてきた。
「ねえ、しようよ」小声で囁いて、彼女は僕の耳たぶを舐めた。
「ばか、何言ってるんだ」僕は彼女を押しのけた。
「いいから、しちゃおうよ。田沢さん寝てるよ」有希は、めげずにくっついてきた。今度は太股で僕の膝をはさみ、腰を何度も上下させた。
 たしかに先刻見た彼女の裸身が、まぶたの裏にちらついた。頭は、砂浜での欲情を思い出した。けれど身体は休息を求め、ますますだるくなる一方だった。
 僕はふたたび彼女を拒絶した。
「いい加減にしないか。頼むから寝かせてくれ」
 その直後、奥側の壁際で寝ている田沢さんの声がした。
「なあ、今井」
「ああ?」
「オレが有希ちゃんと寝てやろうか」
「やだ、田沢さんたら何考えてんの」と言い、有希は慌てて僕から身を離した。
「今井も有希もつらそうだから、オレが手伝ってやるって言ってるんだ」
「別にかまわんよ」ただ眠りにつきたい一心から、僕はそう返事をした。
「よっしゃ。有希、こっちこいよ」田沢さんの足音が近づいた。
「ちょっと、今井ちゃんまでどうしちゃったのよ。私のことなんだと思ってるの。ねえ、なんとか言ってよ」
 抗議の声をあげながら、有希は田沢さんにひきずられていく。僕はほっとして、壁向きに寝返りを打った。
 何か言い争う声がした。が、すぐにそれも止んで、「うっ、うっ」と噛み殺すような有希のうめきと、田沢さんの荒い息遣いが部屋に満ちた。
 それを夢うつつのうちに、あたかもボリュームを絞ったラジオのように聴きながら、やっと得た孤独な眠りに僕は身をまかせた。

             *    *    *

 翌朝、モーテルの駐車場で田沢さんと別れた。日曜だが仕事があることを思い出したらしい。もっとも今朝になって言い出したことだ。真偽の程は判らない。
 窓越しに「また来いよ」と言っただけで、田沢さんは車を発進させた。それを見送ってから、僕も有希と車に乗り込んだ。

 有希は、目覚めた時から黙りこくっていた。昨夜のことを怒っているのは分ったが、「それはおかしい」と言ってやりたかった。
 だいいち二人は恋人と決まった訳じゃない。僕以外の男に抱かれることも有希自身が承知すれば仕方ないし、自分がその結果にとやかく口を挿む権利は無い。むろん僕も、同じ寛容を彼女に求める。こうした自由があってこそ僕は彼女といて楽しいし、他の女にはない安らぎを得られる。常々、有希にそう言い聞かせて来たはずだが。

「海に行こうか」とりあえず訊いてみた。
「やだ、もう帰りたい」予期した通りの答えが返った。
「分った」ギヤを入れると、僕は思い切りアクセルを踏み込んだ。

 高速道路に乗り、最初のサービスエリアに立ち寄った。有希は車から降りようとしなかった。僕は仕方なく、自販機で買った缶コーヒーを彼女に渡した。
 ふたたび本線に戻り、車を加速し終えた時だ。どうも有希の様子がおかしいのに気がついた。助手席を見ると、彼女は、まだ封を切らない缶コーヒーの上に、ぽたぽたと涙を落としていた。
「どうしたんだ」
 彼女は何も答えない。子供みたいに肩でしゃくりあげている。僕は路肩に車を寄せ、ハザードランプのスイッチを入れた。
「泣いてるだけじゃ分らないじゃないか。言いたいことがあるなら、はっきり言え」僕は、彼女の肘をつかんで怒鳴りつけた。
「そんな風に言わないで。私、わたし・・・」
 無理強いは逆効果のようだ。煙草を吸いながら待っていたら、有希は自分から言葉をつなぎはじめた。
「私、もちろん自分が今井ちゃんの彼女だなんて、自惚れたことないわ。これまでのことを考えると、そんな自信持てないもの。だって今井ちゃん頭イイから、私みたいなバカと結婚するのはイヤでしょ。それに、むかし遊んだ男の人のことも知ってるし、風俗のバイトやってたことも知ってる。そこまで知ってて、私に本気になるはずないもの」
 僕の顔から血の気が引いた。すべてが彼女の言うとおりだったのだ。
「でもね、私にも意地はあるの。あなたを私のものにできなくてもいい、だけど私は、ぜったいに今井ちゃんだけのものだ、っていう意地が。だから、あなた以外の人から好き勝手に扱われたくない。今井ちゃんもそれぐらい解ってくれてると思ってた。なのに昨夜は・・・・・」
 嗚咽がぶり返した。僕は返す言葉も無く、額をハンドルにもたせかけた。ふとサイドミラーを見ると、赤色灯をつけた車が映っていた。県警の高速パトロールだった。降りてきた警官から、やはり質問を受けた。
「こんにちは、どうかされましたか」
「彼女が気分悪くなったんです」
「ご病気でしたら、病院まで先導しましょう」
「いえ、ただの車酔いです。とりあえず落ち着いたので、いま車を出そうとしてたんです」
「路肩は危険ですからね、サービスエリアかパーキングエリアで休んでください。じゃあ、本線に誘導しましょう」
「ありがとうございます」

 都合よく、車を走らす機会を得られた。しかし、車中の重苦しい雰囲気は変わらなかった。あとの道中、有希は眠ったように一言も口をきかなかった。

            *    *    *

 いま僕はひとり、砂の坂をのぼっている。一枚のハガキをこの手に握りしめながら。
 あれから一年あまりの時が流れた。有希とも、田沢さんとも、縁が切れた僕をここへいざなったのは、あの漁火を見たいという願望、ただそれだけだった。
 空には十三夜ほどの月。月明りの沁みた砂地は白く、窪地がところどころ、墨汁のような翳を湛えていた。
 歩きながら、ふと頭に歌が浮かんだ。――長い長い坂道を今登ってゆく――そんな歌詞だった。高校時代、よく深夜ラジオで聴いた歌だ。何という題名だったろう。 
 考えるうちに頂上が近づく。波の音がはっきりと耳に迫る。すると荒い息の下で、いつのまにか僕の唇は、そのリフレインを口ずさんでいる。

 曲名を思い出した瞬間、瞳が水平線に連なる火を捉えた。月にきらめく砂丘が、波音が、風が、この夜の景色を形づくるあらゆるものが、強く僕の胸を打った。
 僕は渚まで駈け下った。砂まみれの衣服を脱ぎ捨て、ゆっくりと海に入った。月影を溶かす銀色の波が、やさしく膝小僧を撫でてくれた。不思議なほど、気分が落ち着く夜だった。
 漁火が、沖合いの人影を照らし出した。波がしらに立つほど高く跳ねている。しなやかな身体の線をみとめたとたん、切なくて心がちぎれそうになった。

 思えば、彼女と過ごした時は、すべて休日の午後に似た安らぎに満ちていた。ここから引き返してしまえば、二度とそれを取り戻す術は無い、おそらくこれが最後のチャンスとなるだろう、そんな予感がした。
 僕は後ろを振り返り、砂丘の白さをたしかめた。そしてまた海に向き直り、沖へ沖へと足を踏み出していった。ハガキは海風にさらわれて僕の手を離れた。もはや、その行方を目で追うほどの未練もない。
「はやくおいでよ」彼女が手を振った。許された、僕は彼女に許されたんだ。何の意地を張ることもなく、ふたりがいた時の中に帰ろう。

 向こうから季節はずれの大波が打ち寄せてきた。のろまな僕を、一気に彼女のもとへと運ぶつもりらしい。目を閉じて手脚の力を緩め、僕は海の親切に身を任せた。

                           了

しょうせつろご


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