しんの米国神学生日記

しんの米国神学生日記

2003年10月29日
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私は今、教義学の教科書「キリスト者の信仰」を読んでいるが、だんだんと興味深く思えてきた。本音をいうと私は、実際、「組織神学」といわれる分野に位置するこの教義学が好きではない。少なくとも、日本の神学校で聴講していたときの教義学は好きではなかった。神の遺棄の問題や義認に関する問いなど、どうでもよく、あまり興味をもてずにいた。どちらかと言うと、私は「聖書学」に向いている。聖書研究がそもそも好きだから・・・。ところが、セントルイスで学ぶこの教義学は、聖書を教えるうえで必要な問題を、ひとつひとつ考えてゆくという感じなのだ。

例えば、もし身近に、赤ちゃんを流産でなくしてしまった女性がいた場合、どのように慰め、聖書的に理解するのか。「本当に神様はいるのでしょうか。なぜ、このように悲しまなければならないのでしょうか」と問われた際に、どう対処するのか。これが、教義学でいう「罪と悪」というテーマでもあるのだ・・・。

ルター派神学では、簡単にいうと、二つの罪があり、また二つの悪がある。罪とは、まず、初め人間アダム氏が“善悪の知識の木”の実を食べて以来、継承されてしまった原罪がある。それと、旧約聖書の語る「神の掟の書」に違反するという罪。有名なモーセの十戒、律法などである。いずれにしても、人には到底、犯さないではいられないのが罪なのだ・・・。

一方、悪というのも厄介だ。悪とは、人の内面を支配する悪(無気力、罪意識など。)と外側の悪(他者との別れ、死など。)がある。いずれにしろ、このような説明では、たとえ信仰者であっても、慰めることはできないであろう。しかし、神を疑わざるをえないような出来事があるときこそ、神に立ち返るときであり、神を神として認め、御言葉に聴くときなのだろう、としか今の自分には言えない(2コリント7:10)。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(2コリント1:4)





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Last updated  2003年12月27日 05時37分44秒
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突き男@ 腰痛くなるまでやってきました 綺麗な顔しててあんなに激しいなんて、正…
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コースケ@ お、俺のおtmtmがぁ――!! もう、もう……なんも出まへぇーん!(TT…
鳥蘭丸@ うにゅぅぅぅぅ…… 可愛がってもらうだけ可愛がってもらって…

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