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三角猫の巣窟
自殺しないために考えること
私は無宗教のリバタリアン的な考え方なので、他人の自由は尊重しているし、生きるのが肉体的・精神的につらくてよく考えた末に自殺を選んだ人は自殺すればよいと思うし、安楽死にも賛成である。しかし死にたいと弱音をいう人は本当は死にたくないから死にたい(ほどつらい)と助けを求めているのであって、死にたくない人は死なないほうがよいし、自殺しないですむように問題の解決方法を考えたほうがよい。
私の友人が自殺未遂をして、私は彼女が自殺しないようにするためにどうすればよいだろうかと考えていて、相談相手がいないようなコミュ障の人や、死にたがっている人に相談されて困っている人の役に立つかもしれないので、この記事を書くことにした。私はカウンセラーでもないし、他人を救えるとうぬぼれているわけではないけれど、文学者たるものは人間の生を肯定して人類の役にたたねばならないのである。ちなみに私自身は貧乏でぶさいくで足が短いコミュ障なので人によっては終わってると思うような人生だけれど、自殺したくなることはほとんどない。例外は便秘と下痢の挟み撃ちにあって腸が破裂しそうなときで、迷走神経反射で冷や汗が出て血圧が低下して意識が遠のいてけつ丸出しで床に倒れ込んでこの苦しみが続くなら死んだほうがましだと思うけれど、30分くらい悶絶してうんこがでれば治るので、まだ死んだことはない。
上記の自殺未遂した友人とは別に音信不通になった友人がいて、どうやって安否確認をすればよいかもまとめたので、興味がある人はこちらの
音信不通の際の安否確認の方法
の記事を読んでください。
●自殺しないための行動
・セーブポイントを何箇所か作っておく
セーブポイントというのはゲームとかでよくあるやつで、失敗してもそこからやり直すことができる場所のことである。死にたいという人は家庭だとか学校だとか職場だとか、生活の基盤となる場所が崩壊していることがあるので、その場所以外の安全な場所に避難してからやり直したほうがよい。どこにも逃げ場がない人はストレスから逃げるために自殺してしまう。
一週間くらい泊めてくれる兄弟/親戚/友人/先輩/後輩/上司/部下の家とか、しばらく引きこもれる実家とか、居心地がいい漫画喫茶とか、キャンプ場とか、車中泊とか、泊まり込みのリゾートバイトとか、そこを生活を立て直すための拠点にする。都内ならTOKYOチャレンジネットが住所不定の人の居住支援や就労支援などのサポートをしている。家出した未成年を泊まらせるかわりに手籠めにしようとする危ない大人もいるので、ネットで知り合った初対面の人を頼るのはやめたほうがよい。
児童虐待なら児童養護施設、学校でのいじめならフリースクール、DVならシェルターといった原因別の避難場所やホットラインを自治体や社団法人やNPOが用意しているので、家族や友人で頼れる人がいないという場合はそういうのを使うとよい。鎌倉市の図書館のように学校に行きたくない子供を見守る姿勢の場所もある。
・賞味期限切れのタラレバを捨てる
もし~だったら自分の人生はうまく行っていたはず、と実現しなかった過去の幻想を追うことに何の意味もない。もし好きな相手と結婚できていタラ、もし希望の会社に就職できていレバ、もし第一志望の大学に行っていタラ、もし高校受験で失敗しなけレバ、もし金持ちの家庭に生まれていタラというように、失敗の原因を過去の出来事になすりつけようとしてどんどん過去をさかのぼっていくと、最終的には生まれてこなけレバよかった、もし生まれ変わっタラ、というところに行きついて、叶わなかった希望を理想視するほど現実への幻滅が広がっていって自殺につながる。賞味期限切れの過去のタラレバは腐っていて食べられないので捨てないといけない。過去の失敗を引きずってネガティブなままだと脳のパフォーマンスも落ちて、ますます現状がうまくいかなくなる。人生で一度も失敗しなかった人はいないし、過去の失敗は終わったとことして受け入れて、これから何をしたいか、それを達成するためにはどうすればよいか、未来の目的と手段を考えるべきである。
・問題を具体的にする
どうにかしたいのにどうしていいかわからないという漠然とした状態で不安を募らせたところで、無駄に心労が増えるだけである。日本人にはいわゆる不安遺伝子というのがあるので、不安に感じること自体はしょうがない。そこでなぜ不安なのかを掘り下げていって漠然とした問題を具体化していけば、あとは問題解決のために行動するだけになるので無駄に悩む必要はなくなる。生活環境に問題があるなら場所を変えて、仕事に問題があるなら転職して、人間関係に問題があるならろくでもない人とは縁を切って、メンタルに問題があるなら治療を受けるというように、原因が具体的になれば具体的な対策を取れるようになる。問題を具体的にしないまま放っておくと、問題がどんどん積み重なっていって、そのぶん対処も難しくなる。例えば汚部屋を掃除するときにどこから手をつけていいのかわからなくなって結局掃除できない人がいるけれど、そうなる前に個々の問題を具体的にして、問題が小さいうちにひとつずつ片付けていくのが大事である。
死ぬ寸前まで苦しんでいる人はストレスで頭がうまく働いていない状態なので、周りの冷静な人に状況分析を頼むほうがよい。一般的には女性よりも男性のほうがセロトニンの量が多くてストレス耐性があって、問題が起きても冷静に対処できるので、困ったときは父親、兄弟、男友達などに相談すると問題解決がはかどるかもしれない。しかし他人にも他人の人生があるので、相談相手に頼ろうと思っても相手にも余裕がないことだってありうるので、死ぬほどストレスをためて精神がまいってしまう前に早めに自分で手を打っておくに越したことはない。知人に頼る相手がいない場合は自治体の自殺予防ゲートキーパーに相談すると、問題解決のために専門機関を紹介してくれたりする。
富士山が噴火したらどうしようとか、隕石が落ちて地球が滅亡したらどうしようとか、個人で対策がとれないような問題は不安がってもしょうがないので、不安に思うだけ無駄である。発言小町かどこかに旦那の年収が2000万円だけど将来が不安だと相談している主婦がいたけれど、現在が切迫した状況でもないのにもし~ならどうしようと仮定の状況を不安に思うのは暇人の杞憂である。現在を生きることに集中して、勉強や仕事などのやるべきことをやっていればそういうくだらない不安を考える暇はなくなる。
・妥協点を探す
問題が具体的になっても、そこでいきなり自分の理想通りの仕事や家庭環境を望んだところで手に入るとは限らないので、現実的な落としどころを見つけないと問題が解決しない。ちょっとでもいやな思いをするくらいなら働かないといって安全なセーブポイントから出てこれないひきこもりになってしまうと、それはそれで別の問題になる。セーブポイントは冒険のやり直しをするために体力を回復したり装備を整えたりする拠点であって、冒険を辞めて一生ひきこもる場所ではない。
理想通りでなくても最低限この程度ならストレスに対処できるという妥協点を見つけることで問題が解決する。例えば、会社がパワハラ激務の超絶ブラック(問題の具体化)→仕事を辞めて実家に帰る(セーブポイントに戻る)という段階で終わらずに、若干ましな会社に転職するという妥協点を見つけると次の冒険に出発できる。そこで妥協しないでストレスがない理想のホワイト企業を探そうとしてしまうと、あれもだめこれもだめと粗さがしばかりしていつまでも次の冒険に出発できなくなるし、何もできないまま理想と現実のギャップが開いていってますます再出発しにくくなる。一部が気に入らないからと言って全部だめだという極端な考え方をする人は発達障害や人格障害の可能性があるので、カウンセリングをうけるなりして考え方を変えるほうがよい。
●自殺しないために考え方を変える
いますぐ自殺したいわけでもないけどたまにうつっぽくなったり気力がなくなったりする人は、考え方を変えると自殺するまで追い込まれずに楽しく人生を生きられるようになるかもしれない。
・ちょっとずうずうしくなる
自己評価が低い人は自分なんて役に立たないし迷惑をかけるだけだからいないほうがいいのだと考えてしまうけれど、そういう謙虚な考え方をしている人は本人が思っているほど周囲の迷惑になっているわけでもない。
自分は価値がない役立たずな存在なのだと嘆く必要もない。人間はせいぜい100年程度しか生きないので、その短い期間の尺度で物事の価値を計ろうとする。同級生が自分より稼いでいるとか、隣の奥さんがブランド物のバッグを持ってるとか、そういうつまらない比較をして自分の価値を計ろうとする。しかしもっと大きい尺度で物事を見ると、世界は違った見え方になる。かつて国を治めた王の名前だって今では忘れられているし、釈迦やキリストや名前を出したら怒られるあの人だって100万年後には忘れられているだろうし、数十億年の宇宙の時間の流れの中ではすべての人類が取るに足らないゴミカスのような存在である。自分だけが特別に取るにたらない存在というわけではないのだから、貧乏でもぶさいくでも気にすることはない。
仕事ができなくても、頭が悪くても、金を稼げなくても、優しい人は周りの人を幸福にしている。ISISもボコ・ハラムの戦闘員も周りに迷惑を振りまきながら無慈悲に元気にゴミカスのような人生を生きているというのに、謙虚で優しい人が死に急ぐことはない。
・目的と自尊心を持つ
思想や行動に自由がなければ、誰かの言いなりになって生きるしかなく、それでは自尊心が生まれない。自尊心がなければ自己評価が低くなり、どうせ自分は生きていても役に立たないのだと自分の命を大事に思わなくなる。たとえばオーストラリアではアボリジニの若者の自殺率が平均の二倍で、白豪主義政策で文化的トラウマを抱えていて、アボリジニ文化の継承に失敗して自己肯定感が低いことが自殺率が高い原因のようだ。
この自尊心というのは非常に大事で、今では侮辱罪というのは罰金を払って済むけれど、昔の欧米なら侮辱されたら決闘で殺し合いをしたし、昔の日本なら侍を侮辱したら切り殺されるし、現代でも居酒屋で上から目線で心無い説教をして殺される人がいるし、某宗教を侮辱したら死刑になったり殺し屋が送られてきたりする。自尊心が自分の存在を支えているので、その自尊心を攻撃する敵は自分の存在を殺そうとしているのと同様なので、命がけで倒すのである。自尊心が大事とはいえ、自尊心の塊みたいな人は付き合うのがめんどくさくて嫌われるので、ちょっとだけ自分にも何かしら誇れるところがあるという程度で十分である。そのほんの少しの自尊心の種を自分に植え付けて大事に育てていかないといけない。自分自身を好きになれない人が他人から好かれることを期待したり、自分に自信がない人が他人から認めてもらおうとしたりするのは横着である。まずは自尊心を持つことから他人との関係が始まる。
医者の家庭に生まれたから医者になるとか、みんなに認められたいから東大に行くとか、他人から押し付けられた目的でなく、自分の人生の目的を自分の基準で見つけないと生きがいはない。自分がどんなときに幸せを感じるのか、何をやりたいのかを考えて目的を設定すればよい。何か目的を達成するために行動をはじめれば、やがて同じ目的を持った人と出会って協力もしてもらえて、誠意や努力を認めてもらえて自分を誇れるようになる。私の知人で、学校でいじめられてパニック障害になって死の恐怖に苦しんだものの、その後人前にでるように努力してパニック障害を克服して、自転車に乗るのが好きだったので競輪選手になった人がいる。競輪選手としては成績を残せずに引退したけれど、今も元気にしているようだ。目的があると人は努力して強くなれるのである。
大企業に就職した人が非正規貧乏人を見下したり、美男美女がぶさいくな人を笑ったり、明るい人が暗い人をいじめたりするけれど、こういう人は自分に自信があるのではなく傲慢なのであり、自信がないからこそ自分の人生に何の関係もない他人にわざわざ絡んで蔑んで優越コンプレックスを満たさないと自我を保てないのだ。自分の人生に目的をもって努力している人は他人にちょっかいを出すほど暇ではない。こういう傲慢な人の蔑みだとかマウンティングだとかを真に受けても時間の無駄なので、絡まれても無視して自分の人生の目的のために邁進すればよい。誰しも欠点はあるし、ぶさいくで足が短いとかで自分自身を好きになるのが難しい人もいるかもしれないけれど、何かしら自分を誇れる点があれば、自分を好きになるとまではいかなくても嫌いにならない程度には妥協できるかもしれない。
自分は何もできないと自信喪失するのをアイデンティティ・クライシスというけれど、逆に目標に向かって自分の価値を高めていくことをアイデンティティ・キャピタルという。子供の頃から勉強したり運動したりして、やれることを増やしていくことで自尊心がついていくけれど、いじめで高校を中退したり、なんとなく大学に行ったけれど興味がなくて中退したり、仕事をくびになったりして、いつの間にか周囲と比べて自分が置いてけぼりになったように感じて目標をなくして自信を喪失するけれど、自分はだめなのだとやらない言い訳を探してひきこもったところで自信はつかない。目標を見つけてひとつずつ知識や技術を身に着けて、自分がやれることを増やしていくことで自信がついていく。
2千年前の人間は医療知識もなく戦争も頻発していたので30年も生きれば長生きの部類だったけれど、現代は寿命が大幅に伸びて80年も生きられるのだから、そのぶん自分の目的達成のために費やせる時間も増えている。人生のうちの10年くらいを費やせば、よほど才能が必要な分野でない限りはその分野のプロや専門家になれる。10年パン屋で修行すれば金をためて独立して自分の店が持てるし、10年手芸を続けていればセミプロレベルになって手芸教室を開いたり本を出版したりできる。いつの時代も生きるのが楽な時代はないし、知識も経験もない若者は何度も困難に遭遇するけれど、現代社会は自由が尊重されて自分の目的を選べるという点でだいぶましな人生である。
若い人の自殺で私が覚えているのは目的がなくて自殺をするパターンで、女子高校生が野猿(とんねるずの音楽グループ)が解散してやりたいこともないから自殺した件と、金持ちで何の苦労もせずに育った女子高校生が志望大学にあっさり合格して人生が順調すぎてつまらないから自殺した件は、苦労を感じないほどの豊かな人生を歩んでいながら自殺をしたので印象に残っている。
やりたいことというのは別に生涯をかけて打ち込む仕事である必然性はなく、親への恩を返すこととか人格を磨くとかの道徳的な目的だっていいし、グルメを極めたいとか囲碁を上達したいとかの趣味や道楽だっていいし、エロフィギュアのコレクションをしたいとかのくだらない目的だっていい。何かをやりたいという動機があるから生きがいが生まれるし、最初は些細な目的でもやがて自分一人が幸せになる自己満足では物足りなくなって、もっと大きな目的を目指すようになる。やりたいことがないから自殺するというのは子供らしい自殺の動機で、子供のうちは親に食費も学費も小遣いも払ってもらってサービスを一方的に受ける側だけれど、大人になるということは自分の意思で文明の建設に参加するということである。誰かに目的や娯楽を与えてもらうのではなく、自分の行動で自分の人生を面白くするのだ。
戦前の親は子だくさんで放任主義だったけれど、今は少子化で過保護な親が子供に口出ししすぎるせいで子供の自主性がなくなって、進学も就職も親の言いなりで親の顔色を窺って自分でやりたいことがわからない子供が育って、大人になっていきなりハードモードの社会に放り出されるから大変である。子供は親に頼るのをやめて自分の人生を生きないといけないし、反抗期をそのチャンスとして活かすとよい。やりたいことを見つけたときに親が応援してくれるならそれでよいし、親が反対するなら自立して成長するいい機会である。
・目的と手段を混同しない
例えば大学受験に失敗したから死ぬ、新卒で就職活動に失敗したから死ぬという人がいるけれど、それは目的と手段を混同している。何のために大学に行くのか、何のために働くのか、何を成し遂げたいのかのかという目的のほうが大事なのであって、手段にこだわる必要はない。想定していた手段が使えなくなったら代替手段を取ればよいだけである。たとえばA大学でしか教えていない特殊な分野の学問Xを勉強したいのであれば、A大学を受験しても合格できなかったら、A大学の授業で使われているテキストを買って独学するとか、A大学の提携大学に入学してA大学の授業を聴講するとか、A大学の学生と友人になって授業の内容を教えてもらうとかの別の手段で目的を達成できる。単に有名大卒の学歴や一流企業の肩書きがほしいというのが目的なら、その目的設定自体が間違っている。しかし現代の親は子供をとりあえず有名大学に行かせて有名企業に就職させることを目的にしてしまって、子供は人生で何をしたいのかという本来の目的がないまま先に勉強や学歴という手段だけ与えられてしまい、進学しても授業に興味がなくて結局大学を辞めたり、受験で燃え尽きて大学での授業についていけなくなったりする。本来はなぜその大学に行きたいのか、何を研究して何をやりたいのかという目的を先に考えるべきなのだ。
芸術家の肩書きがほしいというだけで小説家やイラストレーターを目指すような人も目的設定を間違っていて、そういう人ほど芸術のセンスがなく、盗作して芸術家ぶる人さえいる。目的設定を間違うとやりがいにはつながらない。
・失敗の本質を理解する
人生に目的があると、人生における失敗とは何かというのもわかるようになる。目的と失敗は表裏一体で、例えば家族をないがしろにして仕事ばかりきた人が家族に愛想をつかされてからようやく人生の目的に気付くように、失敗から目的が分かることもある。
人生の目的設定を間違うと、高給だけを目的に就職してやりたくもない仕事をやったり、世間体のために好きでもない人と結婚したりして、後で失敗に気づいたときに時間がたてばたつほど人生を立て直すのに大きな代償を伴うので、こういう人生の目的に関する失敗に気づいたら早めに軌道修正するほうがよい。
すでに人生の目的があって、それをまだ達成できていないのは決定的な失敗ではない。例えば小説家を目指しているけど文学賞の選考で落ちたというのは、失敗ではなく未熟なのである。その自分の未熟さに気づくことで成長できる。コンペで負けてもそこから成長のヒントを見つけられたのなら、それは将来の成功の一部を手に入れたと言える。よく匿名掲示板で文学賞に応募して落選した人が選考委員を罵っていたりするけれど、自分の未熟さに気づかない人はそこで成長が止まる。新しいことをやって技術的な問題でうまくいかないのは当たり前で、失敗したくないからチャレンジしないというのでは失敗から学べる成長もない。リスクとリターンは背中合わせで、失敗するリスクをとらなければ得られるものもない。人生のあらゆる行為は人生の時間の一部を費やすという意味では命がけの行為である。失敗を恐れて言い訳ばかり言って何もしない人がいるけれど、何もしなくても寿命を消費しているし、何もせず何も得られないことに命を費やすというのは非合理な選択なので、失敗しようが何かの行動するほうがましである。一回の行動でいきなり目的を達成するということはありえないのだから、ミスを責められたり失敗して恥をかいたりしたりしても怖気づかずに行動して知識と経験を積んで成長していく人が最終的に目的を達成するようになる。失敗を機に目的達成のために行動するのをやめたのなら、それは決定的な失敗である。
自己愛性人格障害の人は成功を求める誇大化した自己像と現実とのギャップでうつ病になって、成功して金持ちになって有名になって周りから称賛されないなら死ぬという極端な考え方をするけれど、成功しないのは失敗だという考え方は間違っている。こういうの肯定と否定の二分法はロゴスの考え方によくある間違いで、複雑な人生を考える時は肯定と否定のどちらでもある、どちらでもないというレンマの考え方をするべきである。まだ人生の目的を達成できていないのなら、それは失敗ではなく、成功でもなく、どちらでもないという状態なので、死に急ぐ理由はないはずである。
あるいは世俗的な勝ち組・負け組という拝金主義的な価値観だと、貧乏な人や独身の人や子供がいない人は人生に失敗した人というレッテルを張られる。しかし人生の目的が世俗的な勝ち組になることでない人にとっては、金がないことや結婚しないことや子供がいないことは失敗ではない。
一度しかない人生で文明の建設や維持に参加せず、文明に寄生して汚職や賄賂で儲けたり、文明を破壊したりする人は、いくら高い地位について金を稼ごうが、人生の目的がないまま無為に生きて無為に死を迎えていて、それこそ人生に失敗した人だと私は見なしている。
・惰性で生きないで向上心を持つ
人生に目的を持っていたとしても、仕事にしろ家事にしろルーチンワークになりがちで、日々の雑事に追われているうちにどんどん時間がすぎてしまい、いつのまにか目的を忘れて家と会社を往復するだけになって何のために生きているのかわからなくなってしまうことになりかねない。
未成年のうちは学校卒業の節目ごとに目的を設定して自分の成長を感じられるけれど、大人になってからはルーチンワークの作業が増えて時間が過ぎるのはあっちゅうまである。年をとって物覚えがわるくなって自分の成長が感じられなくなってしまうと、大人のくせに何もできないだめ人間だと自尊心をなくしてしまう。しかし学ぶのに遅すぎるということはないということわざがあるように、年をとっても新しいことは覚えられる。
個人的には3ヶ月に1個のペースで何か新しい知識や技術を覚えると、仕事の合間にこつこつやっても無理のないペースで自分の成長を感じられると思う。資格の勉強をするとか、ギターで一曲弾けるようになるとか、懸垂を10回できるようになるとか、人見知りの人が行動範囲を広げていきつけの店をひとつ増やすとか、お茶の作法を覚えるとか、何かの食材のレシピを研究するとか、少しずつでも自分の成長が自覚できれば、歳をとるにつれて自分の成長を追うのが楽しくなる。私の場合は知識を得たり考えたりものを作ったりするのが好きなので、まずは文学から勉強を始めて絵、音楽、哲学、歴史、言語学、認知心理学、脳科学、生理学、生物学、解剖学、農業と周辺分野にちょっとづつ興味の対象を広げているし、ミシンでいろいろ縫ったり、LINEスタンプを作ったり、作曲したり、いろいろできるようになったものの金儲けにはつながらず、まさに器用貧乏のお手本のような貧乏具合だけれど、それなりに楽しいもんである。最近は郷土史をちまちま調べていて、故郷のとある行事が市役所の郷土史に書かれていなくて、ネットにもまったく情報がなくて一部地域の高齢者しか知らない謎の儀式だったことがわかったので、もっと調べてそのうち情報をまとめるつもりでいる。
・何かを始めたらある程度継続する
どんな事でもやり始めときが一番難しい。たとえばギターを始めたら指が思い通りに動かないし、コードを押さえると指がもげそうになるし指先も赤くはれて痛いし、楽譜も読めなくて教本のページがなかなか先に進まないし、成長を感じられないとフラストレーションがたまる。新しい分野の学問を勉強しようとしたら古典の基礎知識や今までの議論を一通りおさらいしないといけなくて、最先端の面白い研究にはなかなかたどりつかない。ジョギングを始めようにも、息は苦しいし体は重いし靴擦れするし、つらいだけで何が楽しいのかわからない。しかしその時点でやめてしまうのはもったいない。一番最初のつまらなくて疲れる基礎部分を乗り越えると、ギターで思い通りに指が動くようになり、最先端の研究を理解できるようになり、ジョギングのフォームが安定して息を切らさずに長く走れるようになって、ようやくその分野ならではの面白さがわかるようになる。そこまでいけば、その先はやりたいことがやりたいようにできて楽しいことばかりである。
飽きっぽくてすぐに趣味を投げ出して他の趣味に手をだしたり、仕事が合わないといってすぐに職を転々として結局何のスキルも身につかなかったり、ダイエット器具を買ってもすぐ運動をやめて器具を使わなくなったり、恋人と付き合ってちょっとでも合わないと思うとすぐに別れて合コンで他の相手を物色するのを繰り返したりする人がいるけれど、そういう人は自分がより幸福になれるチャンスをみすみす捨ててしまったようなもので、もったいない生き方をしている。マシュマロ実験だと自制心があってマシュマロを我慢できる子供がすぐにマシュマロを食べた子供よりも優秀だという結果が出たけれど、勉強や仕事や人間関係でも最初の困難であきらめて楽なほうに向かわずに、我慢するほうがスキルが身についてより大きな快楽や人生の充実につながる。
あるいは始めたことを途中で辞めるにしても、基礎を覚えてから辞めれば他の分野の発想のヒントになったりする。人間関係もすぐに縁を切らないである程度友人づきあいをしておけば、友達の友達から良縁が来たり、仕事の取引につながることもある。ゲームでいうところのスキルポイントをためてスキルをアンロックしてから他のスキルツリーの開拓をするようなものである。たとえとるにたりない基礎スキルでも、積み重ねていくとオールラウンドに何でもできるようになったりする。
私はギターの練習で伸び悩んだ時にベースの基礎テクニックを取り入れたら壁を超えることができて、ますますギターが面白くなった。
・効率よく生きるのをやめる
何かをやろうとするときに、「それ何の役に立つの」と斜に構えて、すぐに役に立たないことを何もやろうとしない人がいる。資格の勉強とか仕事の役に立つとわかっていて金儲けにつながることだけやって、仕事の役に立つ人とだけ交流して、役に立たないことを時間の無駄と考えて一般教養や娯楽には興味がなく、試行錯誤せずに要領よく最適解を求めて、効率よく目的を達成しようとする。仕事ならそのやり方でよいけれど、人生は仕事ではない。そういう人は会社をくびになったり定年退職したりして、キャリアや仕事上の人間関係をすべて失ったときに職能以外の人間的魅力を築いていないせいで地域社会で人間関係を築けず、自分が何のために生きているのかという最適解のない問いに直面して、自分が会社に必要とされずに社会でも何の役にも立たないと悲観して自殺したりする。目先の仕事の役に立つことだけをやってきたせいで視野が狭くなっていることに本人が気づいていないのである。
人間はわかりやすいものを真実だと思い込む処理流暢性があるので、広告屋や自己啓発屋が宣伝する勝ち組負け組というわかりやすい上昇志向を鵜呑みにして、人並みに以上に金を稼いで地位を得ることを人生の目的にして、他人の評価を成功の基準にして、そこからはずれたらだめだと思い込んでいる人がしばしばいる。しかし哲学者や宗教者が何千年も思考を積み重ねているように、人生や文化や歴史や文明は参考書を見て簡単に理解できるものでもないし、自分で試行錯誤することなしに腹落ちするものでもない。
何の役にたつかわからない初めての経験やセレンディピティを楽しんで、失敗するのもいい経験として学習して、仕事の役に立たない他業種の人と会って視野を広げて、損得を度外視して人助けやボランティアをやって、回り道したからこそ見えた景色を眺めて、生きるのが面白いから生きるというのでよいではないか。
・恋愛が人生のすべてではない
生物学的に遺伝子レベルで本能として残っている目的として、あらゆる生物には自己の複製を残すという目的がある。人間は細胞分裂では増殖しないので、異性と子孫を残すことで自分の遺伝子を半分コピーする。その本能である性欲が強烈なので、だれしも性欲の制御に苦労することになる。恋は盲目というけれど、恋愛しているときは脳内麻薬が出てラリっている状態になる。恋愛していると幸福でいられる反面、恋愛に依存して情緒不安定になったり、失恋のショックで自殺したりする。私のようなぶさいくで足が短い貧乏人でも人の子なので、恋もするし失恋したらやはり落ち込む。
では失恋にどう対処するのかというと、恋愛するときは自分の幸福をおすそ分けのつもりで恋愛すればよい。たとえ失恋して一人に戻ったところで、もとの幸福な状態に戻るだけである。もし一人の状態で不幸なら恋愛する態勢になっていないので、相手のことを気にするよりもまず自分をなんとかするのが先である。自分が不幸なまま恋をしている人は不幸をばらまいていることに気づいていないのだ。
不幸な人が幸福な人に恋をすると、片思いの人にストーカーしたり、別れたがっている恋人を束縛してDVしたりする。無理やり望みをかなえようとしても、相手を不幸に引きずりこむだけで、誰も幸福にならない。不幸な人同士が恋愛してしまうと共依存になって、失恋したときのショックが大きくなったり、子供を束縛する毒親になったりしてしまう。もともと自分が幸福なら、たとえ失恋しても他に自分の幸せを共有できる人をみつければいいやと思えるし、相手が他にいい人を見つけて幸せになるのも素直に祝福できるのではなかろうか。
・愛がなくてもよい
愛というのはもともとキリスト教の概念で解釈がいろいろあるけれど、日本だと家族や友人や異性との親しさという意味でとらえられているのではないかと思う。誰でも自分自身に対する自己愛があるので、自分が誰かを自分と同等以上の大事な存在として愛した時、なんで相手は同じくらい自分を大事にしてくれないのだという愛の非対称性が憎しみになる。愛が非対称になるアイドルはしばしば憎しみの対象になって殺害予告されたり襲われたりする。この種の愛情は相手を愛したいというよりも、自分を愛してほしいという自分に対する執着である。その憎しみに対処するために自己犠牲して自己愛を捨てて神に奉仕しろというキリスト教的な考え方が出てくるけれど、自己愛を捨てるというのも大変なことである。愛を人生の目的にすると愛を求めるあまりに憎しみにも振り回されることになって、しばしば憎しみのために殺人にも至るけれど、そんなに苦しいなら愛などなくてもよいではないか。恋愛ソングなんかだとやたらと愛を至上のもののように喧伝して愛をくださいウォウウォウとか言っているけれど、ハイになるドラッグの副作用を隠して売りつけて中毒にしているようなもんで危ない。それに永遠の愛を誓って結婚した人たちでも3組に1組は離婚するし、愛なんてそんな一時的なもんである。
誰からも愛されていないから自分は生きる価値がないやと考える人がいるけれど、そもそも毎日誰かを愛して誰かに愛されて幸福で満たされないと満足できないこと自体が贅沢なことである。毎日和牛のステーキや大トロを食べられないなら死ぬというようなもので、そんなものがなくたって粗食で生きていける。では愛情がない孤独な人が何のために生きるかというと、死ぬまでにあの仕事や研究をやりたいという自己実現や、大義を貫きたいという使命のために生きるのである。歴史上の偉人は周りの人に愛されてちやほやしてほしくて偉業をなしたわけではない。自分の命や愛情がもたらす幸福感よりも大事なものを見つけて、妨害や困難に屈せずに生涯を費やした結果として偉人として尊敬されて愛されるようになるのである。
あるいは偉人になるのは目指してないし孤独は嫌だという人は、愛がなくても徳があれば孤独になることはない。「徳は孤ならず、必ず隣あり」と論語にあるけれど、これは愛情とは異なる徳に基づいた人間関係の作り方で、誰かに助けてもらった恩義に報いて、優れた恩師の忠告を素直に聞いて、悪事を働かずに良いことをしていれば、社会的に孤立することはない。例えば親から愛されなかった子供時代を送ったとしても、親に愛されなかったから親を憎むのでなく、親とは性格や考え方が合わないから家を出て距離は置くけれど産んで育ててもらった恩には報いて、無知で無教養な親の代わりに勉強して親に人の道を諭してやるというように反面教師にして建設的な人間関係を作ることもありうる。
・執着を捨てる/依存しない
執着が苦しみの原因になっている場合がある。叶わない望みを抱き続けて悶々としたところで結局望みは叶わないのだから、苦しみから逃れるには執着を捨てるしかない。新卒で入った会社がブラック企業なのですぐにでも辞めたいけど大企業総合職正社員の肩書きは捨てたくないという矛盾している執着があるときは、どちらかをあきらめないと解決しない。アイドルに恋をしたけれどどうやっても付き合えそうにないと悶々としているなら、さっさと理想をあきらめて現実的な相手を探すほうが幸せになれる。見栄っ張りでブランド物の服やかばんを買いあさっているけど借金苦だという人は、見栄を張るのをやめて収入相応の服を着ればいい。ゲームに飽きて辞めたいけどやりこんで高レベルになったアカウントを捨てがたくてイベントのたびに惰性でログインしているのがつらかったりオンラインゲームの人間関係が面倒だったりするなら、ゲームを辞めてイベント情報とか掲示板とかも一切みないようにしたり一人でプレイできるオフラインゲームをやればいい。何かに執着することで得られる幸福よりも苦しみのほうが多いなら、その執着は本当に自分の人生を豊かにしていて必要なものなのか考え直すべきだし、別の目的を見つけるほうがよい。
執着が原因で自殺した人で私が覚えているのは、redditでアメリカ人の少年が日本語の書置きを残して失踪したので翻訳してくれというスレッドがあって、その書置きにはけいおんが好きだけどグッズを全部買えないので死にますということが拙い日本語で書いてあって、彼は結局自殺していた。これはデュルケームが自殺論で言っていたアノミー的自殺で、資本主義社会で欲求が無制限に肥大して理想と現実の落差が苦痛になって自殺するパターンである。彼が青年になったら「けいおん!」より気に入るアニメが見つかったかもしれないし、彼が大人になったらアニメにのめり込んだことは黒歴史として忘れて現実の彼女に夢中になっていたかもしれないし、あるいはアニメのクリエイターになったかもしれない。彼は「けいおん!」に執着したがゆえに他の幸福を得る機会さえも自分で捨ててしまって、いかにも子供っぽい稚拙な判断である。金さえあれば誰でもできることというのは人生を捨ててまで追及する目的にはならない。
苦しみの元になっている煩悩を捨てるために出家して俗世間を離れる人もいるけれど、宗教はそれ自体に依存してしまう問題があるし、弱みに付け込んで金を巻き上げたり修行と称して洗脳するエセ宗教者もごろごろいるので、私は出家はお勧めしない。新興宗教じゃない大手の宗教で長年付き合いがあって信頼できる宗教者がいる場合ならその人を頼って出家してもよいかもしれない。宗教は人生のガイドラインとして参照する程度なら役に立つこともある反面、のめりこむと価値の一元化につながって状況の変化に対応できなくなるし、自分で考えないまま宗教指導者に答えを教えてクレクレするようになって物事を考える力がなくなりかねないので、宗教も良し悪しである。
・価値を一元化しない
ひとつの価値に人生をゆだねるというのは、命綱が一本しかないような状態である。変化が乏しくて安定した時代なら宗教のような一本の太い命綱があれば十分かもしれないけれど、科学がどんどん進歩して世界規模の戦争やテロがおきる激動の現代では、命綱はすぐに切れてしまう。日本だと寄り道をせずにひとつのことを極めるプロフェッショナルがかっこよくて、広く浅くやる人は飽きっぽい半端者として扱われているけれど、逆に言うとひとつのことしかやらない人は視野が狭いがゆえに、挫折したときに立ち直れなくなる。スポーツ選手が引退後に普通の生活ができなくて転落することが多いように、ひとつのことで成功したからといってそこで幸福の絶頂のまま人生が終わるというわけではないのだから、様々な体験をして多様な価値観を取り込むほうが総合的に豊かな人生になる。
金だけに価値を見出している人は株で失敗して破産したら新小岩にダイブするし、地位だけに価値を見出している人は失職したら会社のビルから飛び降りるし、恋だけに価値を見出している人は失恋したり死別したりしたら自殺するし、X JAPANのHideだけに価値を見出している人はHideが死んだら後追い自殺するし、「けいおん!」だけに価値を見出いしている人はグッズが買えなくて自殺するし、神だけに価値を見出していた人は神がいないとわかって自殺するし、戦争の勝利だけに価値を見出していた愛国者は太平洋戦争で日本が敗戦したら自殺するし、共産革命だけに価値を見出していた左翼は学生運動が失敗して自殺したりする。価値を一元化してしまうと、挫折してその価値がなくなったときに再起の手がかりがなくなってしまう。
猫の世話をしないといけないとか、畑の野菜の収穫が楽しみだとか、ハンターハンターの続きが読みたいとか、ギターで好きな曲を弾けるようになりたいとか、自分が価値を見出していて幸福になれるものをいくつか分散しておくと、そのうちのひとつがなくなっても他の価値を手がかりにして再起することができる。
・価値を継承する
私の友人の主婦は子供がいてそれはそれで幸せなのだけれど、人生がむなしいと言っていた。女性は男性に比べて早い年齢で仕事と出産の選択を迫られて、自己実現できないまま家事と育児に追われて自分の時間が持てなくなり、何のために生きているんだろうとか、女性に産まれて損だとか考えるようである。
モデルや女優なんかが典型的だけれど、家事や育児に追われて自己実現できないことに我慢できず、自分の承認欲求を満たすために家事や育児を放棄するタイプの女性がいて、芸能人同士の結婚はしばしば生活が破綻して離婚したり子供がぐれたりしている。自分一人の幸福を最大化させようとすると結婚も子育てもしないで、他人に労力を使わずに自分の事だけを考えたほうがよいという結論になるけれど、皆がそうすると人類は滅亡する。
そもそも親や教師が手間暇かけて育ててくれたので自分が存在する。子育てや教育というのは自分が価値があると思うものを継承して、次の世代に託すということである。どんなすごい実業家や芸術家がいても、弟子を育てて知識や技術を継承しなければ一代限りで終わって、その後の発展も洗練もなくなる。自分の知識や財産を次世代に託すことが結局は自分が価値があると思っているものの長期的な価値を保つということにつながる。
歴史上には滅びた国がたくさんあるけれど、一時的にどんなに領土を拡大しようが、民族や国家としての集団の価値を継承できなくなったときには先祖の苦労が無に帰する。日本は数世代にわたって通時的に価値を継承してきたからこそ朝廷や幕府や民主主義で権力者が変わっても言語や文化の同一性を保持できている。自分が祖先や親や教師から継承した知識や技術を子供や他人に継承することに意味があるので、自分が価値を担っているという自覚があれば、生きることにむなしさは感じないもんである。
・視野を広げる
若い時は経験不足ゆえに視野が狭いのはしょうがないけれど、無謀な夢を持ちがちである。しかし夢に敗れてもうだめだと思い込んでそこで自殺してしまうのはもったいない。若者のたいていの夢は適わないもので、若いうちに頭角を現して世間に認められる人なんて環境に恵まれたごく一部の人だけで、大半の人は挫折して当然なのである。
小説家になるのをあきらめて出版社や本屋で働く人もいるし、ミュージシャンになるのをあきらめてレッスンプロになったりイベント会場設営をしたり楽器屋で働く人もいるし、アスリートが病気や怪我で現役を続けられなくなったらパラリンピックに目標を変えたりトレーナーをやったりスポーツウェアの会社で働いたりしている。女優の広瀬すずが馬鹿にした照明や音声の人だって他にやりたい仕事はあったかもしれないけれどプロフェッショナルとして立派な仕事をしている。花形の職業の裏方的な仕事にも一流の人がいて世界で活躍する人たちを支えているし、無謀な夢をあきらめて実現可能な目標に変えることでかえって才能が開花することだってありうるのだ。
・自分以外のものにあまり期待しない
自分はこんなに苦しんでるのに家族や恋人はわかってくれない、という類の悩みは誰でも若い頃に経験したことがあるかもしれない。しかし他人は所詮他人であることに大人になると気づくようになる。周囲が一生懸命世話をしてくれるのは子供のときだけで、大人になったら自分で自分のことをやるのが当然で、誰かが自分のために何かをやってくれて当然という状況はない。他人は自分とは違う経験をして生きてきて、自分とは違う考え方に基づいて行動している。誰も自分をわかってくれないと嘆いたら周りの人は一時的に慰めてくれるだろうけれど、その人たちだって結局何もわかっていない。障害や持病があるなら、経験したことのない他人にはその苦しみはわからない。私は足にできた血栓が肺に詰まって肺塞栓になってちょっくら実家で療養しようかと思ったら、怠けてないで働け、実家に帰ってこないで東京で野垂れ死ねと親父に言われた。ひどい親がいるもんである。というわけで親に頼れないし、近所の医者もやぶだったし治療費も高そうだったので、納豆とたまねぎを食べて自力で肺塞栓を治した。
自分で物事の是非を判断して、自分の力でできることを増やしていくことが人の成長である。自由というのは自分に由るということである。自分自身が自分の一番の理解者なので、まずは自分で自分を助けなければならない。生まれてから死ぬまで、自分を理解して自分を支えるのは自分自身しかいない。自分ができもしないことを他人に期待してはいけないし、自分でどうにもならないことや不確実なことをあてにすると、そこから人生計画が狂っていく。宝くじが当たればわいの人生逆転できるんやと全財産で宝くじを買う人とか、万馬券があたればわいの借金がチャラになるんやと借金して馬券を買う人とか、作家になって芥川賞をとれば印税がっぽりで周囲を見返してやるんやと仕事をやめて小説を書き始める人とか、尊師の教えに従えばわいは幸せになれるんやとカルト宗教に入信する人とか、うちらが結婚して子供ができればダーリンも作家を目指すのをやめて心を入れ替えてまじめに働いて借金を返してカルト宗教の洗脳からも抜け出してうちは幸せになれるんやとダメ男と結婚する人とか、自分でコントロールできないものに根拠のない期待して人生を委ねてしまうと人生を立て直すどころか破滅にまっしぐらである。
・他人を変えようとしない
自分以外のものに期待しないということと似ているけれど、自分が幸福になるために他人を変えようとすると徒労に終わる。例えば結婚したり子供ができたりしたら相手も金遣いの荒さとか夜遊びとかの生活態度を改めるだろうと見込んで結婚して、やっぱり結婚生活がうまくいかなくて相手を変えようとしてすったもんだしたあげくに離婚したという話は珍しくない。子供ならまだしも、大人の価値観は他人に言われて変わるものでもない。生きづらいときには他人を変えようとせず、自分が生きやすいように自分の価値観や行動を変えないといけない。例えばブラック企業の社長の考え方を変えて働きやすい職場にしようと頑張るよりもスキルを身に着けてもっと良い会社に転職したり起業したりするほうがよいし、同居する毒親を真人間に変えようと頑張るよりも家を出るほうがよい。
他人の価値観を変えて自分の価値観に従わせようとするのは横暴な考え方で、他人や社会が自分の思い通りにならないことを憤るのは時間の無駄である。ネットだと右翼も左翼も四六時中政治を批判して生きづらいと愚痴を言っているけれど、自分の理想通りの社会にしたかったら極左やオウム真理教のように国家転覆をして独裁者になるしかない。しかし独裁者になったところで北の将軍様だってアメリカや中国のご機嫌取りをしないといけないわけで、他人を自分の思い通りにできる社会というのはありえない。自分が思い通りにできるのは自分自身だけである。日本は最悪だと愚痴っている人はもっといい国に行ったり、自分が政治家や経営者になって社会をよくすればいいのに、自由の意味を知らないので必死に他人を罵倒して、自分が正しくてお前は間違っているのだと他人の価値観を変えようとする。有名人のブログに粘着して批判コメントを書き込むアンチも自分の時間を無駄にしている。むかつく人や間違った人がいたとしても、そういう人を説伏したり懲らしめてやろうとしたりしてむきになったところで疲れるだけで自分の幸福につながるわけでもないので、この人とは思想や価値観が合わないし相手しても時間の無駄だと思ったら無視したり離れたりしたほうがよい。知り合った人たち全員と喧嘩して自分に従わせようとしたら世界チャンピョンでもスタミナ切れして生き残れないので、敵か味方かの二分法ではなく、関わらないという選択肢も生きるためには大事である。他人や社会を変えるには大義が必要だし、支持者も必要だし、膨大なエネルギーも必要である。人生の時間もエネルギーも有限なので、他人を変えるための労力や時間をまず自分の幸福のためにつかうほうがよい。自殺を考えるほど疲弊している人なら、なおさら他人の事より自分のことを考えるほうが先である。
・人生の主導権を他人に与えずに自律する
人生がうまくいっていない人は、他者への金銭的・精神的依存、あるいは他者による束縛で、人生の主導権を他人にとられている場合がある。毒親やパワハラ上司やモラハラ恋人とかに人生の主導権をとられてしまうと、何かをするごとに他人の顔色を窺わなければならなくなって自分の人生の目的を達成するために行動するのが難しくなるだけでなく、病気になっても適切な治療を受けられなかったりして状況が悪化しかねない。そこで自分の人生の主導権をとるためには自律しないといけない。
自律というのは規範を決めて感情や行動を自分でコントロールすることである。食べるものや食べる量を自分で決めて、寝る時間を自分で決めて、体調を自分で管理して、収入や支出を自分で管理して、付き合う相手を自分で選んで、自分の意思で日々の生活の主導権を握ることで他人への依存を断ち切って、他人からの理不尽な命令や束縛を断れるようになると、自分の人生の目的を達成するために自発的に行動を起こして人生を充実させることができるようになる。
自分の人生の目的を達成するために援助してくれる人なのか、あるいはただ甘やかしてだめにする人なのか、人生の目的を達成するために𠮟咤激励してくれる人なのか、あるいはただ罵倒する人なのかを良く見極めて人づきあいを考えるほうがよい。
・人生は毎日充実しなくてもよい
平日は仕事や勉強をして、夜は飲み会に誘われて、誕生日には友人が大勢集まって、バレンタインデーやクリスマスイブは恋人とすごして、連休は旅行の予定がびっしりで、SNSは写真だらけなのが幸福な人生のステレオタイプのように扱われているけれど、そういうのはドラマ向けのリア住のスケジュールなのであって、人生はそんなに充実しなくて良い。他の人と比べて友達がいなくて孤独だの予定がなくてつまらないだの金がなくて不幸だのと気にする必要もない。若い人は陰キャラとして馬鹿にされていじめられるのを怖がって無理に明るく振舞ったりするけれど、他人と比べて他人に認められることより自分自身が納得して満足する生き方が重要なのである。自分の人生の目的と一致しない行動はたとえ他人に評価されたところで無駄な時間である。たとえば内気でインドア派の人が、好きでもないバーベキューに参加してウェーイウェーイ叫びながらあまり仲良くない人たちとアホ面の写真を撮ってSNSに写真を投稿してリア充の仲間入りをしたところで、それで人生が充実するわけではない。家でひとりで手芸に集中したほうがましで、手芸作品をブログに載せたりするうちにうわべの友人ではなく共通の趣味や目的を持って人生を共有できる友人ができる。そういう友人とはたとえ数ヶ月や数年に一度しか会えないとしても、そういう友人と過ごす充実した数時間はうわべの友人とスケジュールを埋めるためだけに過ごす空疎な日々よりもよっぽど価値がある。
・自分の限界を知る
私は学生のときにできるだけたくさん勉強しようと焦って、午前中に言語学の本を一冊読んで、昼に認知心理学の本を一冊読んで、夜に記号論の本を一冊読んで、という具合に毎日専門書を千ページくらい読んで、理解が追いつかないまま無理やり本を読んでいたら、二週間で脳の情報処理のキャパシティを超えて文字を見るだけで起き上がれなくなるほどのひどい偏頭痛が起きるようになったので、そこで私の物理的限界を知って、脳の限界を超えて知識を詰め込むのは間違いだとわかって無理に知識を詰め込むような勉強の仕方をやめた。丸一日何もしないで寝ていたら偏頭痛は治ったけれど、その一日の休養は無為に過ごした無駄な時間ではない。もし偏頭痛が治らなかったら私は一日どころかその後の人生で何万時間も無駄にすることになったかもしれない。私は脳にどのくらい負担がきたら危ないのかという限界を身をもって知ったので、無理をしようとせず、適度に負担量を調節して仕事をもちこしたりさぼったりできるようになった。
まじめな人は手を抜くことを悪いことだとみなしがちだし、プライドが高い人は自分の限界を受け入れようとしないけれど、引きどころを理解しないで我慢するのは非合理的である。若い人は高い目標を掲げて無理をしがちだけれど、現実世界ではジャンプ漫画のように都合よく限界を突破して才能が開花したりしないし、人体が物理的限界を超えたらそのぶん怪我するだけである。たとえばアスリートが肉体の限界を超えるまで練習し続けたらその分筋肉がつくかわけではなく、筋肉が断裂したり疲労骨折したりするので、それではトレーニングとして意味をなさない。物理的に無理なことを精神論でできるはずだと押し通そうとすると、ワタミのように過労自殺が起きる。いくら人体に自然治癒能力があるとはいえ蚊に刺された程度でさえ跡が消えるのに二週間くらいかかるし、虫歯のように自然に治らないものもある。脳もまた物理的なものなので、ストレスでメンタルがやられると治療に時間がかかるし、外傷と違ってメンタルには正確な治療方法があるわけでもない。たった数年しか在籍しない学校や会社の用事で一生モノの怪我をしては大損害なので、これ以上は無理だと自分の限界を察知したならそこから撤退して戦略を練り直すのが一番賢い戦略である。撤退するのは物事を始めるよりも勇気がいる決断で、撤退した人は失敗者や臆病者や逃亡者のレッテルを張られがちだけれど、それでも撤退しないままずるずる状況を悪化させるより被害を最低限にとどめるほうがよい。
自分で疲労の負担量を調節できるなら限界に気づきやすいけれど、チームでノルマや納期を決められていて自分で負担をコントロールできない場合もある。そのときに自分が休んだら回りに迷惑をかけるとか、会社を辞めたら次の就職先がみつからないかもしれないとか、デモデモダッテとなんやかやと理由をつけていつまでも休みを取らないまま肉体の限界を超えると、うつになったり過労自殺をしたりする。しかし無理なものは無理なのだから、限界を超えて我慢したところで好転するものでもない。スポーツならベンチの選手が必ずいるし、控えのプレイヤーがいないのはマネジメントの問題であってプレイヤーの問題ではないので、もう体力的精神的に限界だと思ったらさっさと休むべきである。限界になって頭に血が上っている本人は合理的な決断ができないけれど、それは自分が命を削るほどの価値がある仕事なのかを冷静に考えれば、たいていの仕事はそれほどの価値はない。たとえばワタミの接客や電通の広告作りに命をかけるほどの価値はないのに、命をけずらないと現場が回らないようなマネジメントをしている経営者がおかしいので、自分が能力不足で努力不足なのだと考えずにマネジメントを非難するべきである。休養して同僚に遅れをとったり退職してキャリアが途切れるのはサンクコストとして割り切って、限界がきたら立ち止まって次の目標を見つけるほうがよい。
・死に様より生き様のほうが大事
最近は若年層はほぼ全員スマホを持っているし、そのせいか動画を撮影しながら自殺する人がいる。自殺動画なんて見せられても見たほうはどうしようもないし、不幸を振りまくだけで誰の幸せにもつながっていない。孤独でかまってほしくて自殺を中継しようとしたのかもしれないけれど、そんなことをしたところで面白がって自殺を煽るサイコパスを呼び寄せてかえって自殺に追い込まれる。ロシアでブルーホエールというオンラインゲームが流行っていて130人以上のティーンエイジャーの自殺の原因になったけれど、他人を操って自殺に追いやることを楽しむサイコパスがいるのである。自殺した人たちは人生の一番最後に会う人が家族や友人でなく、縁もゆかりもないネット上の人でなしで満足できたのだろうか。
自分がどう死んだのかということよりも、自分が何を考えてどう生きたのかを他人に見せるべきである。キリストの死は人類の罪を背負った象徴として弟子に語られる一方で、孔子の死は弟子に語られていないけれど、これは孔子や弟子の儒学者が死そのものを重大なことだとは考えていないからである。孔子にとっては道を説くこと、その道の完成を後世に託すことが重要だったわけで、孔子の死は孔子の生き様を見てきた弟子にとって取るに足らないことだった。孔子のように自分の死を超越するというのは一見難しく見えるものの、実際のところはバカなYouTuberでもバカなりに生き様を残していて、誰でもできる簡単なことである。
●自殺しないためにストレスコントロールをする
健康な人でも思春期や更年期や生理の時にはホルモンバランスがくずれてイライラしてストレスがたまる。まったくストレスなしで生きるということは不可能なので、どうにかストレスと付き合っていかないといけない。
・運動する
運動というのは散歩したりジョギングしたりストレッチしたりして体を動かすことだけでなく、喋る、笑う、泣く、歌う、楽器を弾くというのも一種の運動である。運動するということは意図的に筋肉や感情を刺激して負荷をかけたり負荷を緩めたりするということで、意図的にアドレナリンやセロトニンを分泌ということである。つまりは運動はストレスをコントロールする特訓なのである。日常的に運動して、筋肉や感情を動かしてホルモンの分泌を促すことでストレスに対応しやすくなる。さらには運動して適度に疲れると、悩み事を忘れてぐっすり眠れるようになり、充実した眠りもストレス解消になる。
・趣味を持つ
重大な問題や課題があるときは、どうにか対処しないといけない、失敗できない、ということだけを考えてストレスで疲労困憊してしまう。そうなるとかえって思考が鈍くなったり、仕事のパフォーマンスが落ちたりする。趣味に集中している間はストレスの原因になっている問題を考えずにすみ、いったん頭を冷やして、また問題に立ち向かうためにも適度な気分転換が必要である。趣味というほどでなくても、テトリスやマインスイーパーのような暇つぶしのパズルゲームや、近所の公園を散歩するだけでもストレス解消になる。
・自分の責任でないものまで抱え込まずに適度に責任転嫁する
自殺を考える人は自己肯定感が低く、まじめで失敗を自分のせいにしてしまって悩みやストレスを溜め込んで、コミュ障で友人がいなくて孤独だから自分は生きる価値がなくていないほうがましだと思うようである。しかし社会や会社は分業で成り立っているので、失敗が一人だけの責任ということはあまりない。取り返しのつかない失敗というのは人命にかかわることくらいで、物を壊したとかの金銭的な失敗は埋め合わせができる。トップアスリートだってオリンピックの大舞台で失敗するし、天才投機家ジェシー・リバモアやビクター・ニーダーフォッファーだって投機に失敗して財産を失うのだから、我々凡人が些細な失敗したところでくよくよしてもしょうがないではないか。
新自由主義とともに自己責任論も蔓延して氷河期世代の練炭自殺や硫化水素自殺に拍車がかかったけれど、自己責任論は政治や企業の社会責任を放棄して個人に責任転嫁しているので、個人の側はその自己責任論を真に受けて自分をせめずに社会の責任を追及していけばよい。仕事が見つからないのは労働者が無能だからではなく政治家が無能なのだ。不景気の氷河期世代がいきなり無能になったり、好景気の新卒たちが急に優秀になったわけではなく、就職できるか否かは景気の問題で個人の責任ではない。福利厚生がないのは会社の責任なので、ブラック企業をすぐに辞めたからといって堪え性がない怠け者というわけではない。
個人や社会の不正を目の当たりにしたときに、我慢して自分を責めても相手の人は図に乗るし、やさしい人が自分の無力を責めながら理想の社会を思い描くだけではいつまでも社会は変わらない。自分に対する叱責を相手や社会に対する怒りに転化して、抗議したりデモをしたりストをしたり訴訟したり投票したりして行動を起こすことで社会は変わっていく。日本人はなまじ切腹の文化があるので自殺をすることを責任をとることだと思っている人もいるようだけれど、責任を取るということは自殺することではなく、問題解決に向けて行動することである。アメリカにはナット・ターナーという黒人奴隷の反乱を指導した人物がいて英雄扱いされているけれど、黒人奴隷たちが誰も何も行動を起こさないまま自殺していたら黒人奴隷の怒りは白人には理解されなかったかもしれないし、奴隷解放も行われなかったかもしれない。アメリカ人は奴隷制度と黒人差別の歴史があるので行動することの重要性を知っていてしばしばデモやストライキをするけれど、日本人は忠臣であることを美徳としているせいか、社会を変えるために権力者を批判して行動するという気概が足りないようである。
ちなみに私はしばしば仕事でミスをするけれど、ミスが起きるようなあいまいな指示の仕方をするのが悪いと開き直ってくよくよしないので、他の人に比べて仕事上のストレスが少ない。
・小説を読む/書く
古典純文学には様々な国や時代を生きた人たちのみじめな失敗の記録や逆境での奮闘が書かれている。たとえばスタインベックの『怒りの葡萄』は大恐慌で食い詰めて一家離散して流浪するアメリカ人の物語だけれど、みじめにがんばって生きる姿が書かれている。それに比べたらリーマンショックで失業して家を売ってもまだたいしたことないと思うかもしれない。人間は数々の飢饉や天変地異や内戦を乗り越えてきたタフな生物なのだということを小説を読むことで思い出せる。読書に即効性はないけれど、こういう逆境の人間の心理を書いた小説を読むことは自分の人生を相対化して客観的に見ることにつながる。
私の知人の青年が殺したいほど母親を憎んでいて、そのことを小説に書きたいけど書き方がわからないというので小説の書き方のアドバイスをしたことがあるけれど、彼のように小説を書いて自分の体験を物語化して感情を整理して客観視することもトラウマやストレスの昇華につながる。
・宗教芸術を鑑賞する
宗教芸術というのは政治がでたらめで戦争だらけで医療もでたらめでろくに食べ物もないという過酷な中世時代に不幸のどん底にいる民衆をなんとか慰めるために作られた芸術である。宗教を持っていない人が外国語の理解できない宗教芸術を鑑賞しても、宗教芸術には人生の過酷さに向き合うエッセンスがこめられているので、そこから何かしら感じるところはあるかもしれない。どこかの宗教に入信しろと言っているわけではないので、そこは勘違いしないでほしい。
キリスト教の宗教画や宗教音楽(賛美歌、ミサ曲、レクイエム、ゴスペルなど)は芸術として洗練されているし、仏教では仏像の完成度が高い。私は無神論者で無宗教だけれどフォーレのレクイエムが好きである。リベラメドミネ云々と神に死からの解放を祈るような歌詞で、昔の人たちはこういう風に死を消化したのだなあと感心するのである。神社仏閣めぐりをして神や仏にすがって生きる気力を奮い立たせた昔の人たちについて考えるのもよいかもしれない。今では歴史ある神社や寺は観光地化して豪奢になっているけれど、地元にある小さくて粗末な神社や寺だって苦しんだ民衆を支えてきたのである。
・悩みや苦しみを吐き出す
毒のある食べ物を食べたときはうんこやげろとしてすぐに体から毒を排出しようとするけれど、悩みは目に見える形で吐き出せるわけではないので、ちゃんと悩みを吐き出さないとストレスが蓄積してしまう。過食嘔吐やリストカットをする人はストレスの吐き出し方を間違っていて、食べ物を吐きだしたり血を出したりするのではなく、悩みを言葉にして口から出さないといけない。
アメリカだとアフガニスタンやイランに派遣した兵士が戦闘ストレス障害で自殺するのを防ぐためにカウンセラーが兵士から戦場での恐怖感を聞きだしてストレスを緩和している。精神医学の発祥はヨーロッパだし、カトリックは告解をする習慣があるので、欧米では誰かに秘密を打ち明けて楽になることにあまり抵抗がないのかもしれない。キリスト教としては自殺を悪とみなしているので、自殺を防ぐための方策がちゃんととられていてカウンセラーの数も多い。
しかし日本ではうつ病を脳の病気だと認めようとせずに甘えや怠けとみなしたり、家族が精神病を発症したら恥とみなして適切な治療を受けさせなかったり、精神的な弱さを他人に見せようとせずに強がるうちにストレスを抱えきれなくなったりして、精神病が重症化して自殺につながるようである。
精神を病むほどストレスを溜め込む前に友達にご飯をおごって愚痴を聞いてもらうとか、人生経験を積んだ上司や先輩に相談するとか、学校や職場のカウンセラーに相談するなりして悩みを吐き出すとよい。いきなり相手に具体的な問題の解決方法を求めるのでなく、まずは悩みを吐き出すのがストレス解消の第一歩である。デジタルネイティブ世代は何でもかんでもSNSに垂れ流すけれど、個人情報がだだもれになるしキャッシュに残って誰に見られるかわからないので、友人と直接会って話すほうがよい。人見知りだったり友達がいなかったりして誰にも相談できなくて溜め込むタイプの人は日記に書くとよい。匿名のQ&Aサイトや掲示板で悩みを吐き出したり誰かに相談したりする方法もあるものの、弱みに付け込んで慰める振りをしていかがわしいことをしようとする人もいるし、ネットで知り合った人が信頼できる相談相手かどうかを見極めるのが難しいので、ネットで見ず知らずの人に相談するのはあまりお勧めしない。もし匿名サイトで悩みを相談する場合は、一対一のチャット形式よりも利用者が多くて書き込みが全員に公開されているサイトのほうが変な人を排除しやすい。
・断捨離する
ものをため込んでゴミ屋敷にしたりペットの多頭飼育崩壊したりするのは強迫的ホーディングという精神疾患だけれど、ものが多いとそれだけ考えることが多くなって疲れてストレスがたまる。洋服は服の生地ごとに洗濯の仕方が違って手入れが面倒くさいし、パソコンやスマホはOSやらアプリのバージョンやらパーツ構成の違いやらでメンテナンス方法が違って面倒くさいし、ガーデニングに凝っていろいろな種類の植物や花を育てたら毎日水やりや雑草取りをしないといけなくて旅行に行けなくなったりする。本来は好きなものに囲まれることが幸せにつながるはずが、増えすぎると逆にストレスの原因になってしまうので、ストレスになるくらいなら捨てたほうがよい。
断捨離というのはミニマリストのように物を持たないということではなく、増えすぎて不必要になったものを減らして、自分にとって必要なもの、価値があるものを厳選して生活の質を上げるということである。ものを減らすとどうでもいいようなことについて悩む時間が減って思考の断捨離もできるので、やるべきこと、考えるべきことに集中できるようになる。
・動物と触れ合う
アニマルセラピーというのがあるように、動物を撫でたり世話したりするとストレスが和らぐ。ちゃんと世話されて飼われている動物は食べて遊んで寝て毎日幸せそうにしているので、その動物の相手をしている間は人間も自分の悩みを忘れることができる。友達がいない人が気のあう友達を作るのは難しいものの、ペットならお金があれば飼えるし飼い主に懐くので、孤独感を感じにくくなる。
ただしペットに依存しすぎてペットが生活の中心になってしまうと日常生活に支障が出るし、ペットをちゃんとしつけられないとペットの存在がストレスになりかねないし、ペットに癒される半面ペットロスでのストレスが後から必ず来るので、ペットを飼うだけの金銭的、精神的な余裕がないなら、無理をしてペットを飼うよりも猫カフェや牧場に行くなりして、落ち込んだときに一時的に動物と触れ合うほうがよい。
●死んだら他の人の迷惑になるということを考える
人ひとりが生まれるのが大変なように、人が死ぬのも大変である。遺体の火葬や部屋の片付けという物理的な後始末だけでなく、金銭的・法的な後始末もしないといけない。
死んだ人が自営業やフリーターなどの場合、遺族が代わりに確定申告をして税金を払わないといけない。知人に葬儀の案内をしたり、重要な仕事を引き継ぐために取引先にも連絡しないといけないけれど、たいていは携帯電話に連絡先が入っていて普段はロックがかかっているので、遺族がロックを解除するために業者に数万円を払わないといけない。先物やFXのポジションを持っていたりしたら、すぐにポジションを解消しないと強制決済されて大損することだってありうる。銀行の預金を引き出すためには死亡証明書だのの書類を用意して面倒な手続きをしないといけない。月額制のサービスはすぐに解約したり口座を凍結したりしないと死後も延々と料金を請求され続ける。こういう諸々の煩わしい手続きがあるので、遺族は家族を亡くしてストレスがかかっているところにいっそうストレスを抱えることになる。縁切り死をして身元不明遺体になった場合は遺族にとっては行方不明扱いになるけれど、そうなると失踪宣告をして死亡したものとみなされるまで7年かかってすぐに遺産相続ができないので余計に負担がかかる。
自殺するつもりがなくても事故や病気で突然死することがあるので、遺書を書いて預金や株などの資産や借金を明確にしておいたり、パソコンや携帯電話やSNSや銀行口座などの各種ログインパスワードを後始末をする人がわかるようにまとめておいたり、なるべく他の人の迷惑にならないように準備をしておいたほうがよい。
●まとめ
自殺はいつでもできるし、死にたくなくてもそのうち寿命で死ぬし、何万年後かには氷河期が来たりイエローストーンが大噴火したり隕石が衝突したりして、さらに何億年後かには太陽も地球も爆発してなんやかんやで人類も滅亡するし、夢も希望もない。飼っているペットも死ぬし、好きな人と結婚してもその人も死ぬし、好きな人と子供を作ってもその子供も孫も死ぬし、好きなアイドルやミュージシャンやスポーツ選手も死ぬし、いずれ皆死ぬのだから、自分が死ぬことも他人が死ぬこともあまり深刻に悩む必要もない。様々な理由で死んでしまうのはしょうがない。
死ぬのはいつでもできるけれど、生きるのは今しかできない。では生きている時間をどうやって充実させるのか、どうやって他の人たちと文明を建設していくのか、それを考えるために文学や哲学が存在する。いつか文明が滅ぶとしても、現在と少し先の未来で自分と周囲の人が幸福に生きる場所を見つけるのが建設的に生きるということで、そのために周囲の人たちと協力して文明を作っているのである。文明の建設に参加するということは、自分の幸福だけでなく他の誰かの幸福の土台を作るということで、サービス業のように直接客から感謝される仕事もあるし、コンサートホールの足場設営のような裏方の仕事もある。仕事だけでなく、スポーツを観戦したり手芸で小物を作ったりする趣味も文化への参加であり、文明に寄与している。何かしらの文明の建設に参加している人は地球のどこかで他の人とつながっていて、誰とも価値観が合わない孤独な人というのはいないはずである。
我々凡人の一人ひとりは微力だけれど、自分は微力だから存在しなくてもよいということにはならない。たとえば野球部の万年補欠の高校生が甲子園で持てはやされている選手との実力差に絶望して、自分なんかいなくても野球界には何の影響もないやと野球をやめてしまったとすると、彼一人やめたところで野球界には影響がないようにはみえるけれど、同じ考えで全国の野球少年が野球をやめてしまうと、競争が起きなくなり、観戦に行く人もいなくなり、野球そのものがなくなってしまう。たとえば売れない俳優がいなくなってしまうと、エキストラがいなくなって脇役もいなくなって同じ俳優が出ずっぱりになって飽きられて、名作映画も作れなくなる。どんなに微力でも文明を支える一員なのである。それは誇ってよい。無名か有名か、素人かプロか、権力があるかないかを誇る基準にするのではなく、文明の建設に真摯に参加していることを誇るのである。フランス革命を起こしたのは権力も財産もない市民だったけれど、貴族の言いなりで生きるのでなく自分たちが社会を作るのだと自覚した時に彼らはもはや無力な市民ではなくなった。権力や財産がないからといって無力なのではなく、文明の建設をやめたときに人は無力になり、理性のない猿に退化する。自分がこれから文明を建設するのだと自覚したときにこそ人間は才能を発揮する。
大人になるということは文明の担い手として自分や扶養家族に責任を持つということである。やりたいことをやって満足した大人が自殺を選んだとしても私は本人の選択として尊重するけれど、まだ社会に出ていない子供がいじめで自殺したり、社会に出たばかりの20代の若者が仕事や人間関係につまづいてやりたいことをやりきらないまま自殺をするのは見るに忍びない。生きていればそのうちいいことがあるよという漠然とした無責任なことを言うつもりはないけれど、文明の建設に参加しないうちに自ら死を選ぶのは決断が早すぎるのではないかと思う。
現代文明はいまだに未完成である。だからこそ宗教対立やら人種差別やら経済格差やらいじめやらの問題が起きるし、我々は自分が幸福になるために、さらには他人を幸福にするために、よりよい文明を築く作業に人類の一員として参加している。自殺を考えるほど苦労した人だからこそ人類の幸福のために役にたてるはずだし、優しい人が自殺してしまうのは人類にとっての損失だから、ぜひ生きて幸福になってほしいのである。それで余裕ができたらその幸福を他の誰かに分けてあげてほしい。そしたら社会はもっとよくなるよ。
2019/6/6 三角猫
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