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老人が戦後の子供時代を回顧して、家政婦が父親に惚れただの試験を受けただのなんだのという話。三人称。作者は読者に読まれることを意識した上で、黙読を邪魔するようにあえて漢字とカタカナを使わずにひらがなを使い、そのうえ固有名詞を使わないで回りくどい説明をする言文不一致の言葉遣いにして、さらに横書きにして、読みにくくしようとする意図的な仕掛けを多重にほどこしていて、いつの時代の誰について話をしているのか主題そのものがわかりにくくなり、各段落の時系列のつながりもわかりにくくなり、物語のメンタルモデルが形成できなくなり、結果として物語内容はほとんど読者に伝わらなくなる。この文章のわかりにくさは作者が意図的にやっていることで、その是非によってこの小説の評価は異なるだろう。芥川賞の選評では読者にゆっくり読ませる試みとして好意的にとらえて日本語が美しくて洗練されていると評価されて受賞したようだけれど、これは表現内容ではなく表現形式に対する評価にすぎない。では表現内容はどうなのかというと、苦労してプロットを理解したところで、誰だかわからない人の婉曲な回顧話はまったく面白くない。芸術の基本は自然や人間社会の観察と描写からなり、書き言葉の不自然さを取り除いて話し言葉に近づけて、作者が見た世界と作者の感動を忠実に描写しようとするのがリアリズムの基本姿勢である。明治時代から言文一致を目指して苦労してきた先達の努力があって、ようやく現代社会は言文一致が浸透して話し言葉でブログやツイッターを書けるなう、なのであり、無駄な形容詞を排除して簡潔な言葉で表現したヘミングウェイの文体や、南部なまりの言葉を用いてアメリカ南部の社会を書いたフォークナーの文体がリアリズムの行き着く先だ。だからこそヘミングウェイやフォークナーは、先日亡くなったガルシア=マルケスなど、世界中の作家に影響を与えたのだ。ところが、日本の現代純文学では普通の話し言葉でわかりやすく書いたのでは芸がないといわんばかりに、意図的に不自然に改変した文体で無理やり言文不一致にしてしまい、それが新しさとして評価されてしまう。この小説では人工的な言文不一致によって引き起こされる不自然な感じが常に付きまとう。この作者以外の誰も使ったことのない言葉遣いを新しいとか斬新と捉えることもできるだろうが、新しいという以前に不自然でリアリティがない言葉遣いである。私はこのリアリティからの積極的逃避を芸術の姿勢として評価しない。表現(expression)というのは外に(ex)押し出す(press)ものだ、と小林秀雄が言っていたが、本来は芸術表現というのは表現内容が先にあるべきものである。表現するべき内容があったうえで、それを最も効果的に表現できる技法を選択するのだ。表現するべき内容を伝え損なうような技法を使えば小説としては失敗である。フォークナーは「意識の流れ」の技法で白痴のベンジーの意識を描いたけれども、それは必然性があってその文体になっているのであって内容と技法が一致している。一方でこの小説はたいして内容がないうえに、その内容をこの文体で表現しなければならない必然性もない。もしこの小説が脳梗塞を起こして言語が不自由な老人の一人称の語りとかならばまだ必然性はあったかもしれないけれど、この小説は登場人物の一人称でなく三人称であり、ナラトロジーとしては語り手が意図的に読者に対して不自然な言葉で物語っている構図になり、読者は物語の登場人物と対峙するのではなく、妙な言葉を使う語り手と対峙することを強いられ、なぜ普通の言葉で語らずにこの不自然な言葉で語られなければならないのかと考えなければならなくなり、語り手への不信感から物語のリアリティへの疑念が生まれる。そのリアリティのなさが、この物語は読者の体験している現実世界とはつながりが乏しくて読者の琴線に触れるものではないというつまらなさとして捉えられ、この物語自体を読む価値がないという判断へと至る。これでは技術的失敗である。この小説は物語内容を読者に伝えるために書かれた言語芸術というよりも、文体の形式を維持するために物語内容の伝達を犠牲にした作者の独りよがりだろう。この小説は他に類似作品がない個性的な小説には違いないけれども、それだけでは肯定的に評価する理由としては不十分。この小説は値段をつけて一般読者に売るようなものではない。落語の「酢豆腐」みたいに知ったかぶりの若旦那に食わせてみる類のものだ。★★☆☆☆【送料無料】《第148回芥川賞受賞作品》abさんご [ 黒田夏子 ]価格:1,296円(税込、送料込)
2014.04.20
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ぼけかけた老人リーマンの尾形信吾の息子の修一が戦争で未亡人になった女と不倫して、娘の房子は子供をつれて実家に戻ってきて、修一の嫁の菊子が不憫で信吾がやきもきする話。信吾の視点の三人称。家庭内トラブルでやきもきするちょいエロ老人の様子を書いたホームドラマで、描写よりも会話文が多く、冗長で退屈。プロット自体に盛り上がりがなく、長編にするほどの物語の密度がない。物語内で起きる出来事というと、修一の不倫と、菊子の中絶と、房子の夫が不倫相手と心中することくらいしかない。信吾の視点でありながら、物語の中心は修一と菊子で、信吾自体が何か行動を起こすわけでもなくやきもきしているだけなので、ただでさえ山場にかける物語なのに信吾の視点を介することで婉曲的になって物語が一層つまらなくなっている。昭和24年(1949年)に書き始めて昭和29年(1954年)に発行されたようだけれど、戦後の社会の状況が書かれていない点で物語の下地作りが不十分。終戦後何年経ったかで人々の心理の移り変わりも違うはずなのに、小説内で戦後のいつの時代の物語なのか明示されていないというのがこの小説の決定的な欠点になっている。修一は戦争で価値観が変わったらしいものの、その思想や心理を掘り下げるわけでもない。終戦直後ならまだしも、戦後から何年たってもずっといじけ続けているのなら戦後気分を引きずりすぎだろう。いじけている割に完全に自暴自棄というわけでもなく、サラリーマンとしてきちんと働いているのも不可解。一方で菊子が中絶を決断した価値観も不明。当時の人にとって中絶は普通の選択肢だったのか、それとも中絶は悪いこととして考えられていたのか、社会状況がわからないと登場人物の心理も知りようがない。信吾が修一や菊子と対話するわけでもなく、各人が何を考えて行動しているのかがわからない。その心理のわからなさを些細な描写から推測させる点がこの小説が世間で評価されている理由らしいものの、私にはこれが良い点とは思えない。この小説の登場人物たちと同時代を生きた人には小説に描写されていない時代背景を直接体験しているし、登場人物の心理を推測できるだろうけれど、描写不足で現代の読者が理解できるように書かれていない。直接的表現をせずに婉曲的表現をしたほうが技巧的だと高評価されがちなものの、時代を経て仄めかしが伝わらなくなったら婉曲表現自体が無意味になる。読者が小説の外部の情報を利用して時代背景を予習してから読まないと理解できないというのでは小説の完成度は高いとはいえない。山本健吉の解説によると、日本の「家」の悲しさを書いた名作で戦後文学の最高峰らしい。しかし菊子は夫は不倫しているものの舅と姑には気に入られているし、「家」の悲しさというほど悲惨な状況でもない。むしろ夫婦の悲しさというべきじゃなかろうか。それに悲しいなら悲しくなくなるように状況を変えればいいのに、登場人物たちはろくに対話もせず、時が解決するだろうと状況を変えるために努力しようとさえしない。耐えればそのうちなんとかなると思っているまだるっこしさについていけない。★★★☆☆【送料無料】山の音改版 [ 川端康成 ]価格:637円(税込、送料込)
2014.04.18
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なぜ日本の純文学はつまらないのかに全文載せたけれども、長いので抜粋。●純文学の新人賞が機能していない・選考基準が不透明・出版社は新人を宣伝する気がない・新人が消えていく・新人賞の存在意義がない ↓不透明な選考基準で選ばれた新人作家がろくに宣伝もされないまま消えていって、純文学の新人賞が新人発掘の機会としてきちんと機能していない。次世代の純文学を担う新人作家がでてこない。●純文学を読む価値がない・日本の純文学は世界に相手にされていない・純文学の権威の失墜・マーケティングの失敗・新しさという逃げ道を追って袋小路にたどり着く・純文学とエンタメの境界があいまいになっている ↓純文学に商業的な価値がなくなり、出版社は小説の内容よりも話題づくりを優先する。しかしそんな小説は読者にとっては読む価値がない。●純文学の衰退・才能の縮小再生産・編集者の劣化・純文学業界は自浄作用が働かない ↓純文学業界人は内輪の利益だけ追求して読者のために仕事をしていない。利権化した文壇には自浄作用が働かず、人材が劣化して純文学は衰退した。
2014.04.18
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