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第1巻「細胞生物学」、第2巻「分子遺伝学」、第3巻「分子生物学」、第4巻「進化生物学」、第5巻「生態学」。各巻1500-1700円程度で300-400ページあり、値段と内容からしてかなりお得な感じ。値段が安くても紙質は安っぽくなく、サイズがコンパクトで手に持って読みやすいのもよい。MITとかのアメリカの大学が使っている教科書だというのも信頼性があってよい。生物学初心者の社会人でも理解できるようにカラーの図と写真がふんだんにあって、各トピックが簡潔にわかりやすく書かれていてよい。専門的な内容のため、ただ生物学的な雑学を知りたいという人が読んでもあまり面白いものではないものの、生物学に興味がある人なら買っても損はない。私は高校生のときには生物の成績は良かったものの、高校レベルの教科書だと概要しか教えてなくて、生物がどうやって栄養やエネルギーを体内で受け渡して生きているのかという本質的な部分は理解できなかったので大学レベルの教科書で勉強しなおすことにしたのだけれど、この本には知りたかったことが詳細に書かれているので満足している。知ったからといってどうなるというわけでもないものの、知りたかったのだ。私が買った時点では3巻までしか販売されていなかったけれど、4巻と5巻も今年発売されたようなので後で買うつもり。★★★★★【楽天ブックスならいつでも送料無料】アメリカ版大学生物学の教科書(第1巻) [ デイヴィッド...価格:1,512円(税込、送料込)
2014.10.30
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表題作「グッド・バイ」と他に「パンドラの匣」「トカトントン」「ヴィヨンの妻」「眉山」の短編集。「グッド・バイ」は色男の田島が数人いる愛人に別れ話をするために美人だけど食い意地がはっててケチでがさつなキヌ子に疎開した妻の役をやってもらううちにキヌ子を攻略したくなる話。未完だけれど、キャラ立ちしていてエンタメとしてはそこそこ楽しく読める。体言止めが多い文章は描写というよりも落語的な語り口調を意識したんだろうか(私は落語を知らないのでよくわからないけれど)。三人称としてとらえると一人称よりの語りでぎこちない文章に思えるものの、ユーモアのあるストーリーとこの独特の語り口は合っているように思える。[「おやおや、おそれいりまめ」わあ! なんというゲスな駄じゃれ。全く、田島は気が狂いそう。]というゲスな駄じゃれが気に入った。「パンドラの匣」は終戦時に血を吐いて療養しているひばりというあだ名のニートが友人宛ての手紙に療養所「健康道場」の様子を書く話。書簡体形式で、冒頭の作者の言葉でこれは手紙の形式で新聞小説には前例が少ないけど日本でも外国でもよくやってる手法だよ、と読者にたいして説明していて親切なのはよい。この書簡体形式は主人公から友人への手紙であると同時に、語り手から内包された読者に対する語りかけでもある。一人称小説は主人公が登場人物と語り手を兼任する際に語り手として説明的になりすぎて登場人物としてのリアリティを損ねて失敗する小説が多いものの、この小説では主人公は友人に対して療養所の様子を書くという口実があるため、説明がそれほどうそくさくならないで済み、ひばりは登場人物と語り手の二役をうまくこなしている。内容については、冒頭でいきなり病気や死の話が出たから陰鬱な闘病記かと思いきやそうでもなく、NHKのテレビ小説のようなほがらかでのんびりした展開で、施設の患者の喧嘩だの助手への恋心だのというちょっとした出来事を小出しにしていて、竹さんとマア坊という二人の女性を比較しながら性格や特徴を丁寧に描けていてよい。現代の小説に比べると展開がのんびりしすぎているようにも思えるものの、病気療養中という主人公の境遇からして、のんびりしている展開がむしろちょうどよく、形式、内容ともに均整がとれていてよい。おそれいりまめ級の小説といっても過言ではない。「トカトントン」は幻聴が気になる男が詩人に相談の手紙を出す話。書簡体形式ながらも「パンドラの匣」とは違って、ただの登場人物間の書簡の往復で、手紙を送られた作家の人物像が見えず、オチの聖書からの引用もよくわからない。「ヴィヨンの妻」は放蕩詩人の夫が飲み屋でツケを貯めたので妻がその店で働く話。ただの一人称で、妻が誰に対して語るのか、なぜ語るのかというナラトロジー的な始末ができておらず、技術的に失敗している。「眉山」は小説家の「僕」が眉山とあだ名の飲み屋のアホ店員トシちゃんを便所が近いだの足音がうるさいだのと嫌っていたら、トシちゃんは腎臓結核でもうじき死ぬという話。一人称で小説家「僕」がトシちゃんのエピソードを語るという形式で、語り手の「僕」が誰なのか明示されないまま自分語りをするのはナラトロジー上の欠点。一人称でありながら自身の心理を掘り下げるわけでもなく、語り手としても登場人物としても中途半端で、作家が身辺の出来事を垂れ流すという私小説の悪い側面が目立つ。「グッド・バイ」以外はすべて一人称で、これは純文学というと私小説的で主人公が自分語りするものだという当時の文壇の定石なのかもしれないけども手法がワンパターン。この短編集では「パンドラの匣」だけが技術的に成功しているようにみえる。形式はワンパターンながらもよい点もあり、言文一致した自然な口語体で書かれていて、文学を勘違いした新人作家が使うような何を言いたいのかよくわからないような似非文学的比喩は一切でてこない。作為的で不自然な言語を使わないで同時代の言葉で同時代の物語を書いたうえで文体にユーモラスな特徴を出そうとする姿勢はよい。★★★★☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】グッド・バイ改版 [ 太宰治 ]価格:561円(税込、送料込)
2014.10.30
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温暖化と海面上昇について書いた本。著者は1989年の刊行当時28歳のアメリカ人の科学ジャーナリストで、様々な本や論文からの引用によって自然は環境破壊の限界を超えて回復力を失って終焉するという論を展開していく形式。ソローやレイチェル・カーソンを引用したりしてアメリカ人的視点の自然観と環境破壊が語られる。・環境破壊の現在は地球温暖化、オゾン層破壊がおきているという話。・環境破壊の近未来は海面上昇で各地が水没して、オゾン層破壊で皮膚がんが増えるという話。・環境破壊を防ぐための著者の意見は、エネルギー効率化、樹木の保護と植林、化石燃料の消費量削減、人口安定化、利便性をあきらめること。水田や牛のメタンガス、フロンガス、古タイヤ、チェルノブイリの放射能、バイオテクノロジーやらいろいろな話題に触れるものの、掘り下げて記述されているのは温暖化問題だけで、環境破壊に関する話題を寄せ集めたような感じで各話題の掘り下げが足りない。また著者が科学ジャーナリストのせいか、話題が科学の有害さの強調に偏っていて、アグロフォレストリーのような農業と環境保全を両立する試みが全く語られていないというのも視野が狭い。温暖化が主に取り上げられているテーマなのに、世界の気温の変動のグラフなどの具体的なデータがまったく提示されないのも説得力がない。アメリカの林野庁の無茶な伐採計画といったアメリカ内の問題と、温暖化や海面上昇といった世界規模の問題がごっちゃになっているのもよくない。大半がアメリカの話題なので、アメリカの自然の終焉というタイトルのほうがむしろ本書に似合っている。著者は科学のせいで環境が破壊されて急激に地球温暖化になったのだと科学の危険性を訴えたいようだけれど、そもそも科学が発達する前から環境破壊は起きていて、ヨーロッパでは大航海時代に船を作ったり、植民地で森林を開拓して牛や豚を放牧したりプランテーション化したりして、ヨーロッパや南北アメリカの森林を壊滅させている。万物は人間のために作られたというキリスト教(プロテスタントと資本主義)の考え方は人間のために自然を破壊してもいいという正当化に使われて環境破壊の原因になったのだから、それこそ非難されるべきだろう。WASPを敵にしたくないのか、あるいは歴史に自覚がないのか、この点を無視してるのは気に入らない。★★★☆☆【送料無料】自然の終焉 [ ビル・マッキベン ]価格:1,677円(税込、送料込)
2014.10.24
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アイと呼ばれるテレビカメラが町中に仕掛けられていて誰もがテレビに出たがってカメラを意識して行動している時代に、テレビマンの折口は葬式で泣かなかった外務大臣の娘の暢子に会ったことでテレビの欺瞞に気づくものの、李承晩ラインを巡る日韓の対立が起きてテレビ用の戦争に行くことになって、韓国は約束を破って日本を倒しに来て船が撃沈されて泳いで帰って、五年後に暢子に告白するもののテレビ的なエンディングシーンで終わってしまう話。三人称。登場人物の書き分けができていないというか、キャラ立ちしていないというか、登場人物が皆キチガイというか、筒井が一人芝居をしている感じがしてしまってよくない。1965年に書かれた小説で、物語の舞台を同時代に限定しているのはよい。まだテレビが憧れだった時代だからこそ、視聴者がカメラを意識してテレビに出たがるというこの小説のSF的設定が成立する。ネットで誰でもウェブカメラで自由に世界に配信できる現代だとこうはならない。マスコミが真実としてテレビに映し出そうとするものを演出された虚像として大げさに強調する皮肉は成功しているものの、すでにテレビの影響力がなくなった現代に読んでも賞味期限切れという感じ。書かれた当時に読めばもっと面白かったのかもしれない。★★★☆☆48億の妄想 -【電子書籍】価格:324円
2014.10.14
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「もぐら」というあだ名のオタクが廃坑を核シェルターに改造して船員として昆虫屋をスカウトしたら、昆虫屋の雇ったサクラが勝手に乗船してしまったり、死体の処理を頼まれたり、便器に足がはまったりしてごたごたして方舟を乗っ取られたので核戦争が起きたふりをして坑道を爆破して便器から足を抜いて逃げる話。主人公の一人称。主人公が物語内で現在起きている状況とそのときの自分の心理を説明する形式。エンタメによく使われる素人だましの語りの手法で、この語りには技術的欠点がある。語り手はなぜ読者に向けて語っているのか、いつの時点で語っているのかという点が考慮されておらず、ナラトロジーとしての語り手の設定が矛盾している。時系列的に物語内容が起きた後(この小説ならばもぐらが方舟を脱出した後)で語り手がこんなことがあったのだと後置的に語っているのならば一人称で語っても問題ないものの、物語内容の生起と同時にその状況を語る場合はなぜこの語り手が読者に向けて語っているのかという点が説明されなければ状況の整合性がとれず、その分リアリティはなくなる。たとえば警察の事情聴取を受けて自分の体験の一部始終を語るとか、一人称の語り手には語る理由があるべきである。映画の主人公がカメラ目線で視聴者に向かって自己紹介したり自分の心理を説明したりするのが不自然なように、この小説の主人公は登場人物でありながら本の向こう側の読者に向かって直接語っていて、最初の自己紹介から最後まですべて不自然。架空の存在や架空の事件を実際に起きた出来事のようにリアルに描写したり、普段の生活を非日常的として異化したりするのが作家の腕だけれど、この小説では物語自体が突飛なのに加えて語りの手法も整合性がとれていなくて全体としてリアリティがなくなってしまってよくない。構成は1章につき10-20ページ程度で25章ある構成。昆虫屋とサクラ二人と出会って乗船するまでに100ページかかり、そこから船内紹介に50ページかかる。船内に何者かが潜入しているらしいと判明してサスペンスが始まるときにはすでに物語の半分に差し掛かっていて、無駄な会話や脱線が多くて前置きが長すぎて飽きる。後半になるとほうき隊だのルート猪鍋だのといったグループが出てきて急に登場人物が増えてプロットが動き出すものの、今度は人物描写が雑になっていて物語構成のバランスが悪い。物語内容については、なぜ核戦争が起きるのか、どの国が日本を狙っているのかという社会状況が説明されていないのはよくない。核シェルターの必然性も不明で、登場人物たちが本気で方舟に乗りたがっているのかどうかも不明で、箱舟への乗船をめぐるやり取りが茶番に見える。登場人物たちは生き延びる資格について議論するものの、何のために生き延びるのかという視点が欠落しているのもよくない。64ページと65ページの間に立体写真の見方の説明図を載せたり、216ページのオリンピック阻止同盟のくだりでいきなりレイアウトを変えるのは意図的に脱線をしているんだろうけど、そういうポストモダン的な脱線は物語そのものの面白さにつながっていない。ユープケッチャだの立体写真だのというガジェットへのこだわりも物語の面白さにつながっていない。最終章の透明な日差しだの透明な人間だの透明な街だのが何を指しているのかもよくわからない。そもそも透明なら何も見えないだろう。1984年に発表されたので冷戦の最中に書かれたようだけれども、その割には核戦争という物語の大前提となる部分にリアリティがないし、語りにも緊張感がなくて読み応えがない。1980年代のポストモダン全盛期にはこういうのがウケたんだろうか。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】方舟さくら丸 [ 安部公房 ]価格:637円(税込、送料込)
2014.10.10
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昭和17-31年頃に作者が17歳-31歳のときに書かれた短編集。表題作の「ラディゲの死」はラディゲが死んでコクトーががっかりして阿片に手を出す話。伝記というほど内容の密度はなく、コクトーがラディゲに接する態度がなにやらホモくさい感じがして、実在の人物をモデルにしたやおい小説を読んでるみたいでげんなりした。ラディゲがシャツを脱ぐ場面は「脱がれることに抵抗しているシャツは、身悶えしている白い鳥の翼のようにそこに映り、やがて脱ぎ捨てられて静かになった。」というふうに書かれていて、その後のラディゲの病死を暗示していて比喩としてはよい。しかし物語として短い上に、詩の引用で話が中断されていて、オチも詩の引用で終わるのは詩の印象のほうが強くなってしまってよくない。コクトーの本か評論か何かをネタ元にしたのだろうけど、小説としてエピソードを編成しきれておらず、コクトーがラディゲを見取ったエピソードを事実に基づいて伝記的に紹介したいのか、コクトーとラディゲの師弟愛をフィクションとして書きたいのか、作者のスタンスが中途半端な感じなのもよくない。この短編が書かれた1953年にはまだコクトーは存命だったのだけれど、存命中の人物のエピソードを外国人作家が勝手に小説にするのは作家のモラルとしてどうなんだろう(勝手に書いたかは知らないけど)。「輓近の評論家R・M・アルベレースによると」「後年コクトオはこう書いている」という形の引用をせずに、コクトーに直接会って取材して書くべきじゃなかろうか。直接取材しないで他の本の情報をまとめただけなら伝記としては手抜きだろうし、実在の人物に対して言ってないことを勝手に付け加えてフィクションにしたとしたらそれも問題だろう。モームがゴーギャンをモデルにして『月と六ペンス』を書いたように、コクトーとラディゲをモデルにした完全なフィクションにしてしまうやり方のほうが良かったんじゃなかろうか。その他の短編は平安貴族の書簡体小説「みのもの月」、ダンス教室で生徒をナンパするダンス教師「山羊の首」、大臣の就任演説「大臣」、安倍晴明が帝の恋愛を見守る「花山院」、巨体姉妹「偉大な姉妹」、妹の幽霊と会う「朝顔」など、様々な時代を舞台にして様々な展開方法を試みているので、飽きずに読めてエンタメ短編集としてはよい。過去をモチーフにした「みのもの月」や「花山院」よりも、同時代を舞台にした「山羊の首」「魔群の通過」「箱根細工」等のほうが時代を反映しているぶんだけ人間がうまく書かれている。しかし「大臣」「日曜日」「復讐」などは昭和が舞台でもプロットありきのようなエンタメ的な仕上がりで、三島の器用な一面が見えるのは三島ファンにとっては面白いだろうけど、私は三島にエンタメを期待しているわけでもないのでいまさら読んで面白いというものでもない。短編集としてはそこそこ面白いものの、個々の短編の完成度としてはこれといって際立ったものがなかった。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】ラディゲの死改版 [ 三島由紀夫 ]価格:596円(税込、送料込)
2014.10.03
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