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ギタリストやらベーシストやらが恋愛したりする短編集。「worried about you」はギタリストの女の熊井望(28)が健康診断に行って心臓の再検査に不安になったり、同級生だったベーシストのTTを心配したり、塩垣とつきあって別れたりする話。三人称。現在の中にTTの回想をちょくちょく挟む形式。短編なのに一行あきを多用して場面が飛び飛びになっていて構造がよく練られておらず、物語における現在がどこなのかわかりにくく、不整脈のような文章で読みにくい。TTが男性なのか女性なのかはっきりわかるように書かれておらず、情報不足にイライラする。塩垣についてもどう付き合ったのかを読者に提示する前からろくでもなくて別れたと結論を先に言ってしまっていて興ざめする。オチを最初にばらしてしまってその後に蛇足エピソードを延々と語るという女性の話し方によくある悪い癖がそのまま出ていて、こういうところに無自覚なのはよくない。「sympathy for the devil」は辰也と付き合っているブスの貴子が自分語りする話。一人称。貴子が誰に向かって語っているのか、なぜ語っているのか、何を語りたいのか、ナラトロジー的な処理ができていない。自分語りするにしても、自分用の日記なのか、他人が読むことを前提に書かれたブログなのかでも語り手の動機は違うはずで、ナラトロジー的なリアリティのなさゆえに語り手にもリアリティがない。貴子の名前が出てくるのも遅く、語り手についての情報が乏しいまま自分語りされても興味を持てない。「moonlight mile」は遠井が昔ふられた同級生の神原美雪が悪性リンパ種になったので会いに行って安楽死を考える話。三人称。オーソドックスな恋愛闘病譚。ヒロイン神原を牛似のオレ女にして悲劇のヒロインとして美化しないあたりが工夫といえば工夫かもしれない。神原が死ぬかどうか、遠井がふられるかどうか結末を書かないで闘病中のまま終わらせることでラストシーンに余韻を残している。この種の仄めかしエンドは婉曲的表現を好む日本文学の常套手段で、この点もオーソドックス。「before they make me run」はパチンコ中毒の遠井の弟(俺)、貴子に内緒で浮気をする辰也(わたし)、会社を辞めようとする高田(私)がそれぞれ自分語りする話。一人称。ナラトロジー的な処理ができていない。「もう時間だ。ジーパンを穿いて外に出る。」と現在進行形で自分語りしているあたりは、動画で私生活を実況しているのでもなければ語り手の整合性がとれずリアリティがない。最後に三人称でパチ男を書く点は工夫というよりは作者はナラトロジー上の欠点に無自覚なのだろうか。「worried about you」の熊井がベーシストを探しているという話題が出てくるけれども、サイドストーリーとして発展するわけでもなく、短編としてつまらない。いかにも女性作家が男性の思考を想像したというような一人称で、男性像にリアリティがない。パチンコ中毒の男が遠井の弟だという文章は短編中にはなく、他の短編の文脈から判断しなければならず情報不足で不親切。「miss you」は持田が姉の結婚式のブーケ作りを辻森さん(41歳)に頼む話。一人称で改行が多いポエム文体。ナラトロジー的な処理ができていない。お花畑アホ女のポエム文体模写によって語りのリアリティを出そうとしたのだろうけど、そもそも語りのリアリティを出そうとするならまずはナラトロジー上の整合性をつけるべきだろう。それに小説家なら自分の文体であらゆるテーマを書くべきで、柳原可奈子みたいな素人を真似する芸には感心しない。読者は文章の面白さを求めてわざわざ金を出して小説を買うのに、素人の下手糞な文章を模写されるんなら小説なんか買わなくても素人のブログや2chまとめサイトを読めばいいやという話になる。語り手の持田は仕事をしているらしいから成人らしいものの、情報不足と語り手のアホさ加減にイライラする。中学生かよといいたくなる幼稚さ。話の流れと関係なく唐突に辰也の話が出てくるのもわけがわからない。作者が他の短編と関連付けようとして無理やり辰也の話題をねじ込んだんだようで、その部分が物語から浮いている。「back to zero」は会社をやめてひきこもっている遠井が辻森さんの写真展に行ったら高校で一緒にバンドをやった熊井のヌード写真があって嫉妬する話。三人称の途中で遠井の一人称になる構図。ナラトロジー的な処理ができていない。遠井や辻森の意識の流れを書こうとしているのかもしれないものの、一人称の部分が説明くさくてリアリティがなく失敗している。「beast of burden」は熊井が偶然TTに会って同居してたら神原からTTに電話がきて嫉妬して、友人の高田と旅行に行ってTTに妊娠を告げるか悩む話です。ですます調の一人称です。ナラトロジー的な処理ができていないです。全体の感想としては、つまらない女性の話が小説になったようなつまらなさ。内容がまとまっていない、話題があちこちに飛ぶ、一方的に話す、感情的、等々、男性読者としてはつまらないのを通り越してつまらない語り手につきあうストレスでイライラするけれども、女性読者ならこんなのが面白いのかもしれない。フェミニズム批評なら登場人物のちょっと変わった女性たち(オレ女神原とか)について何かしら生産的な批評ができるのかもしれないけれど、私にとっては見所がない。タイトルはローリング・ストーンズの曲名らしい。ローリング・ストーンズを引用することにどんな意図や工夫があったのかは知らないものの、テクスト内の情報だけで理解できるようには書かれていない。テクストに書かれていない情報を読者側で補完しないといけないというのでは作者の独りよがりなこだわりに過ぎず、小説としての工夫にはなってない。短編だから構成が雑でもまだ読めるものの、女子会トークの書き起こしじゃないんだから小説としての技術的完成度を高めてほしいところ。純文学作家なのにナラトロジー上の欠点が放置されているのはだめだろう。2005-2006年に小説すばるに連載されていたようだから、純文学でなくてエンタメとして書かれたのだろうけど、エンタメとしても面白くない。解説では佐々木敦が絲山秋子は抜群に小説がうまい「泣ける純文学」だと大絶賛していて、Amazonでも評価が高いようだけれど、私には抜群に下手糞に見えた。この程度で抜群に巧い純文学扱いされるならもう日本の純文学は読まなくてもいいやと失望を深めた読書体験になった。★★☆☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】ダーティ・ワーク [ 絲山秋子 ]価格:463円(税込、送料込)
2015.07.29
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仕事とキチガイ妻とふたつのものに賭ける岳夫にじゃじゃ馬令嬢の美音が惹かれて不倫する話。●あらすじ金持ち社長貝塚弥彦の孫の美音はじゃじゃ馬で縁談を断っていたが、弥彦はがんで死ぬ前に愛人の息子の岳夫を紹介する。岳夫は鉄道会社で地質調査をしていて妻の千波と息子の明日夫と暮らしていたが、千波はかつて自殺未遂や堕胎をしているヒス女で、育児を放棄してファッションモデルをやって知り合った写真家の小関デートしていたが、岳夫は千波に不満を持ちつつも自分が必要だと考えて共依存して、仕事でもどこに線路を作るかで上司の田丸と対立する。そんな苦労人の岳夫になぜか美音が惹かれてエッチして、千波が気づくものの、美音は妾になって子供を産むつもりでいる。田丸が岳夫を恨んで自殺して、美音が岳夫をなぐさめてエッチして、岳夫と美音が千波に話して修羅場になり、千波は岳夫に捨てられると悲観して明日夫と川に飛び込んで心中しようとするものの助かり、岳夫は相変わらず千波と離婚するつもりもなく美音と付き合っている。●感想三人称。600ページ弱の長編の割には各章15-30ページ程度で、会話文が多くてさくさく読める。しかし年齢や容姿などの人物の背景情報や外面描写が乏しく、長編小説で登場人物が多いのに人物像を把握しにくく、文章には目だった瑕疵がない反面、冒険をしておらず魅力もなく、つまらなさが最大の欠点ともいえる。プロットを進めるための誰が何した、~と言ったという文が淡々と展開していて比喩も演出もなく、物語が退屈すぎて読み進めるのが苦痛になる。117ページでようやく美音と岳夫が初めて会い、172ページで二回目に会い、220ページで三回目に会い、292ページで4回目に会うものの、物語の半分を過ぎてもまだ世間話をするだけで恋愛のプロットが進展しないので飽きて途中で放り出したくなる。古い小説なので連載小説なのか書き下ろしなのか情報が見つからないけれども、細かく章立てしてあるからたぶん連載小説として結論を考えないままうだうだ中間部分を書いていたんじゃなかろうかと思う。どうでもいい会話やら食事やらの場面は端折って物語の展開を早めてほしいところ。小説としての主な見所は嫁姑問題や三角関係の修羅場なのだろうけれど、現代人ならネットでよく見る話なので特に目新しくもない。美音はじゃじゃ馬と呼ばれる割りにはシェイクスピアのじゃじゃ馬のように積極的に行動してプロットを荒らしまくるわけでもなくおとなしくしていて、美音が主人公と思いきや千波のキチガイぶりのほうが目立ってしまって、誰が主人公なのか、誰の心情を書きたかったのか焦点がわからない。三人称にして視点を変えているのはよいけれど、美音をもっと書かないと三角関係の物語としてバランスが取れないし、美音は岳夫の浮気相手役として千波が子供と無理心中するプロットの引き金役として都合のよい人物として配置されただけのようでご都合主義的で人間味がなく、美音が岳夫に惚れる理由もわからないし、美音の言う「真の愛」が妻にならずに妾でいいやという程度のもので、「真の愛」がなんなのかを物語として表現できていない。美音に片思いしていた従兄弟や千波のデート相手の小関も途中からフェードアウトして存在感がなくなっていて登場人物が多い割にプロットは雑で単調。ラストに心中する流れも紋切り型の終わり方で、切った張ったしたからといって物語が面白くなるというわけでもなく、キチガイが自滅しただけで悲劇としてのカタルシスもなく、キチガイ連中に付き合わされた徒労感が残る読後感。物語の背景事情も曖昧。この小説が出版されたのは1965年らしく、新幹線が200キロ出たとか、オリンピックのバレーで感動したとか書いてあるので東京オリンピック後の日本がそのまま物語の舞台なんだろうけれど、社会背景があまり書かれておらず、時代感覚のなさがつまらない。岳夫が鉄道会社で働いていたり、千波がファッションモデルをやっていたりするけれど、業界の掘り下げが浅くて当時の鉄道業界やファッション業界を知るための資料としても役に立たない。名前は知っているものの読んだことがない作家なので読んでみたものの、構成に工夫もなく特徴もなく雑に仕上げたという感じの凡作。wikipediaで調べてみると生活のために大量に通俗小説を書いて1年に4-5冊というハイペースで刊行していたようで、それだけの量を書くのはたいしたものだけれど、その分雑になっているのだろう。他の小説も似たような出来栄えならいまさら読む価値もなさそう。★★☆☆☆
2015.07.25
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はじめに断っておくと、私は『火花』を読んでいない。私は超絶貧乏で新刊の本を定価で買う金などないので、芥川賞だのなんだのという騒ぎはいつも遠巻きに眺めている。何年かしてブックオフで100円で売ってたら読んで感想を書くかもしれないけれど、今回は『火花』の感想ではなく、文學界が純文学を活性化するのにこのやり方でよかったのかということを考えた。巷では文學界に小説が掲載されるのはすごいことだ、掲載されたからには『火花』は一定水準以上の品質があるはずだという扱いだけれど、文學界がすごい雑誌だったのは小林秀雄とか永井龍男とか評論家や作家として名を残した人たちが編集者をしていた頃の話で、近年の文學界は新人の墓場と化していた。文學界は文芸春秋社の文芸誌なのに、文芸春秋が主催する芥川賞でさえ候補止まりという期間が10年ほど続き、新人賞をとってもろくに話題にもならないような駄作が掲載されていたのである。文學界新人賞では選考委員の角田光代は変な応募作ばかり読まされたのか、普通の小説を書けと選評で愚痴っていたし、選考委員を辞める際も受賞作の中でめぼしい作品はなかったというようなことを言って辞めた。これは角田光代の審美眼が悪いのではなく、最終候補を選ぶ編集者と下読みの選考基準がおかしいということだ。それでも編集部の意向で受賞作なしにはできないので、無理やり受賞作を選んでいたのだろう。そして受賞作は単行本にもならず、新人は未熟児として産声をあげながらも誰にも育てられずにひっそりと消える。しかし2014年に武藤旬編集長(エリンギがメガネをかけたような知的な風貌から某掲示板ではエリンギという愛称で呼ばれている)に代わってから、敏腕編集長の手腕発揮とばかりに文學界には急激に変化しはじめる。雑誌のレイアウトが変わり、文學界新人賞の選考委員が変わり、新人賞は年に2回から1回になり、新人賞への応募も8月からウェブ応募が可能になるらしい。漫画の新人賞ではとっくにウェブ応募が一般化しているので、ウェブ対応が遅すぎたともいえる。そして文學界2015年2月号の『火花』掲載である。芸人がエンタメ小説でなく純文学を書いて雑誌に掲載ことが話題になり、文學界は史上初の増刷となった。私は文芸誌が増刷して読者が増えることがないまま純文学は衰退するだろうと思っていたので、私の予想は外れたことになる。芸能人の小説は雑誌に掲載しないでいきなり単行本にしても売れるし、実際に『火花』が芥川賞の候補になる前に単行本は初版で15万冊も売れてすぐ増刷されてベストセラーになっている。それなのにわざわざ文芸誌に載せたということは賞レースに参加させるつもりだったのだろうし、三島賞候補になって落選したあとに芥川賞を受賞して、案の定話題になってミリオンセラーになって、文芸春秋はウハウハである。この賞レース絡みの話題づくりも敏腕編集長の計算のうちなのかもしれない。巷では哲学系漫画がブームで、又吉は読書芸人としての認知度が高まっていて読書感想文やエッセイだけでなく本格的創作への期待もあり、又吉が純文学デビューする時期としては最適だった。しかし文學界の編集者たちはそのやり方でよいのかと私は疑問に思う。私が気になったのは、又吉の担当編集者の浅井茉莉子(31歳)が又吉の芥川賞受賞で「又吉さんによって純文学は活性化しましたし、純文学を読むことへの憧れが一般的な読者にもまだ残っていると教えられました」と言った件。裏を返せば、有名な又吉だから純文学を活性化できたけど、羽田とか島本とかのぼんくら連中じゃ純文学は活性化できないし、誰も憧れないと言ってるようなものだ。若い編集者が手柄をあげて一時的に得意になっているのかもしれないけれど、斜陽の業界でいくらがんばっても話題にもならず、へたくそだのつまらないだのと批判の矢面に立っているかわいそうな作家を裏方の編集者が後ろから刺すようなことをしてはいけない。そもそも純文学の活性化というのは、ヘミングウェイのハードボイルドだとか、フォークナーのサーガ形式だとか、ロシアフォルマリズムだとか、サルトルの実存主義だとか、デリダの脱構築だとか、ジュリア・クリステヴァの間テクスト性批評だとか、新しい描写技法や哲学や批評理論の出現によって作家や批評家が互いに影響を受けたり批判したりして創作や文学研究が活性化して、文学の品質が高まるものじゃなかろうか。出版不況は再販制度にあぐらを書いてゴミ本を手形代わりに乱造した出版社が招いた事態だし、純文学がつまらないと見向きもされないのはわけのわからない前衛小説をありがたがって読者への解説も怠ってきた文壇の自業自得だろう。本を売って終わり、後は読者が好きに解釈しろ、面白さがわからないやつはエンタメでも読んでろ、という純文学の高飛車な姿勢が読者を遠ざけてきたし、『火花』自体が何冊売れようが文壇の腐った体質は変わってない。それに又吉が宣伝した本の売り上げが上がったところで、本の価値が変わるわけでもない。地道に本の品質を向上させて、読者サービスを充実させて、純文学が娯楽や教養として価値のあるものとして認識されることなしに純文学の活性化はありえないと私は思うのだ。「純文学を読むことへの憧れが一般的な読者にもまだ残っていると教えられました」というのがそもそも上から目線で読者を馬鹿にしているように見える。純文学を読むことへの憧れってなんだ? 斜陽の純文学にブランド品みたいな価値があると思っているのか? 一般的な読者ってなんだ? リテラシーの低い馬鹿な読者といいたいのか? つまり純文学は馬鹿が見る豚のケツなのか? 芥川賞の話題性につられて芸術性があると思い込んで理解できないくせに背伸びして純文学買うバカがまだ大勢いてマジウケる、という本音がにじみ出ているんじゃないか?新人賞の存在意義はあるのかという疑問もある。文學界は新人賞を開催しているけれど、文學界新人賞の応募規定では原稿用紙換算で70枚から150枚までの短編しか受け付けていない。かたや『火花』は230枚程度の中篇小説だという。同じ新人でも文學界新人賞を取った新人と又吉は純文学デビューの条件が平等ではない。枚数が多いほうがより長いストーリーでより濃密な描写ができるから、当然作品のできばえは良くなる。そもそもなぜ上限が150枚なのか。賞金額は決まっているので原稿料の問題ではないだろうし、雑誌掲載のページ数の都合でもないだろう。となると枚数を少なくして下読みの手間を省きたいだけじゃないのか。又吉を230枚で新人としてデビューさせたのだから、新人賞は何枚だろうが内容が良い小説を選べばよいではないか。作家を目指すなら独力で作品を完成させて出版社が主催する新人賞に応募するよりも、有名になってから編集者とコネを作って添削してもらって本を出版したほうがいいということになれば、純文学の活性化というより純文学の門戸を狭めて不活性化することにならないだろうか。又吉が芥川賞を取ったところで、10年くらい文學界では新人が育っておらず、編集者にも新人を育てる能力がないということは変わらない。ちなみに別冊文芸春秋で新人発掘プロジェクトというのをやっていたけれど、雑誌の電子化でリニューアルするとかで第3回で新人発掘はやめたらしい。新人発掘する気がなく、編集者に文学を見る目がなく、文芸春秋や文學界は自力では衰退する純文学の立て直しをできないから知名度のある人に小説を書かせることにしたんだろうかと勘ぐってしまう。それに最近は政府が国公立大学から文学部をなくそうとして議論がされているけれど、文学部が廃止されれば純文学の衰退は加速するので、又吉がミリオンセラーになって純文学が活性化したぜヒャッホーイと浮かれている場合じゃないと思うのだ。文学博士は仕事につけなくなって研究者や批評家がいなくなり、学生は小説を読まなくなり、他学部の学生が文学部の授業を聴講して刺激を受けることもなくなり、古典や哲学方面の読書経験が豊富な読者もいなくなり、外国から日本文学と伝統的文化を学びにくる学生もいなくなる。京大はミステリ研究会が有名だけれど、純文学だけでなくエンタメ小説にも影響が出るだろう。政府が文学を日本文化として継続して研究する価値がないものとみなせば、それは長期的に見れば文学は教養としての価値がなくなり、いずれは純文学もただの娯楽としてエンタメに吸収されることになるかもしれない。出版者は漫画が売れれば小説が売れなくても事業を継続できるだろうけど、純文学はマーケットとして終わる。『キャプテン翼』ブームでサッカー業界が活性化したり、『スラムダンク』ブームでバスケ業界が活性化したり、『ヒカルの碁』ブームで囲碁業界が活性化したのは、漫画を読んだ子供が実際にサッカーや囲碁をやるようになって、その後プロで活躍する人が出てきたからだ。これらの漫画は漫画業界を活性化したわけではなく、漫画というすでに活力があるメディアをつかって別の業界を活性化したわけだ。一方で『火花』が話題になったからといってそれで小説家を目指す人が出てくるわけではないし、むしろ芸人を目指す人が増えるんじゃないかと思う。純文学という斜陽メディアを使って又吉が活性化したのは純文学ではなく、テレビで飽和状態で飽きられつつあって別分野への進出先を狙っていたお笑い業界なんじゃなかろうか。というわけで、文學界の編集者たちは商売人としてはうまくやったけれど、本当に純文学は活性化したんだろうかと私は懐疑的なのである。編集者の批判ばかりしても生産的でないので、もし自分が編集者で純文学を活性化するとしたらどうするか、どうやったら純文学を人気にして、作家や出版社が儲かるようにして、作家志望者を増やして、純文学の底上げできるかという案を実現可能かどうかは無視して一応考えてみる。・編集者は名前と担当作品名を公表して編集者としての責任を明確にする。・全作家、全作品をデータベース化して、小説、批評、エッセイ、翻訳を全部対象にして作家としての総合能力を評価するランキングを作る。ランキングに応じて年金を支給して作家の生活の足しにする。・新人賞の落選作は一部をウェブで読めるようにして、誰が選考したのか、どこが良いか悪いか短評を載せて、新人賞の選考を透明化する。落選作でもユーザー投票で評価が高いものはウェブで公開する。・純文学の本は賛否両方の解説をセットにして読者に見所と欠点をわかりやすく伝える。前衛小説や実験小説を解説もなしに売りっぱなしにしない。・「傑作」「珠玉の短編集」などの紋切り型の宣伝文句を廃止する。売り手都合の評価を読者に押し付けず、価値判断を読者にまかせる。・文芸誌のウェブサイトをスマホ対応に作り直す。・単行本と電子書籍の住み分けをする。短編小説は0円-100円の電子書籍として安く売り出して、短編集や長編小説の単行本に興味を持ってもらうための宣伝として使う。・オンライン読書会を定期開催する。・四年に一度芥川賞直木賞の受賞者が両国国技館にあつまって真の芥川賞直木賞決定戦をやる。司会は田原総一郎で、選考の様子やエンタメ対純文学の乱闘を朝まで生中継する。・作家が出題されたテーマや技法に沿った小説を書いて対戦するトーナメント戦形式の文学賞を作る。マジックリアリズム名人戦とか、意識の流れ王座戦とか、私小説竜王戦とか、将棋のタイトルみたいに連覇可能なシステムにする。・純文学の本や雑誌を買った人に1等1億円の図書券が当たる純文学振興くじをあげる。・作家カードバトル型のスマホアプリを作る。俺のターン、ドロー。太宰を生贄にして又吉を召喚。芥川賞の効果ベストセラー発動。とかやって遊ぶ。文芸誌を買うとレアカードがダウンロードできる。・地域振興をもくろむ自治体とタイアップして、小説の舞台にして宣伝する。・売れない作家の副業として文学まんじゅうを売る。
2015.07.24
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表題作と他3篇の短編集。「タンノイのエジンバラ」は失業中の男が団地の隣の部屋の小学生女児を一時的に預かってタンノイのエジンバラという父の形見のスピーカーでCDを聞く話。失業中の男(俺)の一人称。スピーカーのおかげで子供との接点ができ、芽生えかけた愛情の揺れ動きを書こうとしたのかもしれない。「「よくないもん」来週、引っ越すんだもん。」というように鍵括弧の外側に会話文を書くことに何の意味があるのかよくわからず、工夫というほどの工夫になってない。ラストシーンでは子供が最後に来たときにパソコンのCDトレイに忘れていったCDを一週間以上たって見つけているけれど、bootの起動優先順位はたいていCD>HDDだろうから、パソコンを起動したらCDの読み込みが始まってトレイにCDが入れっぱなしになっていることに気づくはずで、一週間に一度もパソコンを使わなかったのだろうかと疑問が残る。リアリティに疑問が残るようなラストシーンはよくない。「夜のあぐら」は姉と弟がいるアラサー次女が姉や弟と会話したり、会社社長の父親が癌で死に掛けていて、父親の後妻ミドリさんが実家を売ろうとするので金庫を盗もうとする話。次女(私)の一人称。ミドリさんと反目している姉や、ミドリさんとトラブルがあった弟を語り手にしてしまうと物語の客観性がなくなってしまうため、トラブルから一歩引いている次女が語り手役なのだろうけれど、作家が安易なやり方を選んだという打算が見えてよくない。語り手役をやりやすい冷めた人物を語り手に選んだせいで、遺産相続のごたごたに緊迫感がなくなって面白みもなくなっている。「バルセロナの印象」は猫がいなくなった姉を励ますために妻とバルセロナを旅行する夫の話。夫(僕)の一人称。やまなしおちなしで、ただの海外旅行エッセイなの?というくらい小説としての見所がない。「三十歳」は元ピアノ講師の秋子がパチンコ屋でバイトして、新入りの安藤とセックスして捨てられる話。秋子視点の主語なしの一人称的な三人称。秋子を私に変えてもたいした違いがなく、三人称にする必然性がない。本来一人称で書くべき文章を無理やり三人称にしたせいか、文章がぎこちなく読みづらい。全体の感想としては、文体がよくない。作家が私小説と私生活を作品にするのはわかる。しかしこの本の語り手たちは小説家でもないのになぜ自分の生活を語っているのか?誰に対して語っているのか?という疑問が残る。一般人でも得意な体験をすれば友人に語ることはあるし、日記に書き残すこともあるし、誰かに話を聞いてもらいたくて掲示板で自分語りをすることもある。しかしこの本の語り手には自分語りの動機がなく、その点についてのナラトロジーとしての工夫がないがゆえに、日常を書いていながらもこの語り手にはリアリティがない。語り手兼登場人物を装った作者の姿が見えてしまっているので、作者が隠れる必要もないし、一人称で語らなければならない必然性もない。一人称であるにもかかわらず出来事に対する語り手の心理が掘り下げられてない。作者は様々な語り手を用意して彼らの日常生活を語らせようとするものの、そこに書かれた日常生活のリアリティも、リアリティがあるっぽく書かれた似非リアリティ。これは素人だましの似非一人称で、エヴァンゲリオンだのSPEEDだのの固有名詞を出して市民生活をリアリティがあるっぽく書けばブンガクになるんじゃねーの?という勘違いによって書かれた似非純文学。リアリティに向き合うためには同時代の社会背景やら思想やらといったコンテクストをテクストに反映させるべきだけれど、この本では作者がコンテクストを提供せずに読者にコンテクストの補完を頼っていて、アラサーの無職やフリーターを登場させて有名な固有名詞を列挙して登場人物の周辺の似非リアリティを取り繕っただけで、書かれてから時間が過ぎれば過ぎるほど時代遅れになって似非リアリティのめっきがはげている。似非リアリティを書いた似非純文学を読むくらいなら自分の目で現代社会に起きてることを直接見て、自分の知識と想像力に頼って社会を考察するほうがましだわさ。それにどれも似たような日常報告で、短編集としては読者を飽きさせないための工夫がほしいところ。これが書かれた2002年当時は新人だからしょうがないかもしれないものの、テクニックの引き出しが少なく読み応えがない。しかしAmazonでは高評価のようで、素人だましとしてはこんな程度で十分なのだろう。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】タンノイのエジンバラ [ 長嶋有 ]価格:545円(税込、送料込)
2015.07.13
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第135回芥川賞受賞の表題作と、他の短編2つ。「八月の路上に捨てる」は脚本家志望で自販機補充のバイトをする佐藤敦が妻の智恵子とまもなく離婚予定で、トラックドライバーのバツイチの水城さんと仕事しながら結婚生活について会話する話。三人称で、一日の出来事の合間に敦の過去の出来事を挿入する構図。三人称だけれど視点は敦目線で一人称的で、「敦」を「俺」に変えてもたいして違わない。智恵子が呼び捨てな一方で、水城さん、キクさんと他人をさん付けしているのも一人称的。エンタメ小説ならこんなもんでもよいけれど、純文学として芥川賞をとったというのだから張り切っていちゃもんをつけることにするぜ。いちゃもんが好きなんだろ? ブンブン!芸術では大まかに「何を表現するか」「どう表現するか」の二点が肝心で、「何を表現するか」は離婚に直面した敦の心境だろう。離婚は月並みなテーマだけれど、書き方次第でよくも悪くもなるから、月並みなテーマを選んだ以上は表現手法に工夫をしてしかるべきである。たとえば筒井康隆は日常生活をテーマにしても多種多様な文学的テクニックやギャグを用いてきっちりエンタメ小説としての見所を用意している。しかしこの小説では「どう表現するか」が練られておらず、月並みなテーマを月並みに書いただけになってしまっている。そもそも脚本家志望の男が主人公なのだから一人称で思う存分自分語りをして心理を掘り下げればいいのに、三人称にする必然性がない。三人称にしてしまったことで自己の思想や心理を掘り下げる一人称の利点をなくしてしまっている。その上三人称にしたにもかかわらず視点の自由さを活かすわけでもなく、視点と思考を敦に固定してしまって語りの幅を狭めてしまっていて、三人称の利点も活かせていない。登場人物を客観視できていない一人称的な三人称のせいで、リアリティがなくなって夫婦喧嘩の場面に緊迫感がなく、心理小説と呼ぶほど心理を掘り下げているわけでもなく、小説の特徴がなくなっている。43ページの「二人でとろとろとした蜜に浸かり、身体をくねらせて泳ぐ。敦はそんな様を妄想しながら彼女を抱いた。やるせなさが、愛しさと背中合わせになっていた。」とか、83ページの「奥から、シャワーの音が聞こえた。音は、耳の奥でくすぐったくはじけた。」とか、気取った自己満足的な文章をこれ見よがしに投入してくるのがうざったく、かといって全体を気取った文章にするほどの大胆さもなく中途半端。作為的な文章であるほど読者は語り手への信用をなくすし、やるならやるでイタロ・カルヴィーノやミラン・クンデラや筒井康隆くらいに大掛かりに作為的にならないと純文学では芸にならない。登場人物の心理表現として必要不可欠なら妙ちくりんな文章が多少あってもいいけれど、この小説では文学的雰囲気を演出するためのただの飾りになっていて、気取った文章が何を表現しようとしているのか考えれば考えるほどわけがわからなくてワケワカウッヒャーである。枝葉末節を飾る前に表現の本質を追及するべきだろう。素人が2chに投稿する離婚報告よりは文章が整ってるぶんましという平凡な展開で、その平凡さを「何もかも本気だったのだ」と敦の感情に転化してラストシーンを印象付けたおかげでなんとか小説として成り立っているけれど、よく読むと44ページで敦と水城が勤務中にふざけているので、「俺は一時たりとも遊んでなんかいなかったぞ」という敦の思考は本気というより逆切れに見えてよくない。全体として作者独自の表現を追求するための挑戦をしないまま既成の小説の概念に沿った小さな物語にまとめていて、見所のない凡作。芥川賞でどの選考委員がこの小説を評価したんだろうと思って芥川賞のすべてのようなもので選評の要約を見てみたら、○を入れたのは私が似非純文学作家とみなしている高樹のぶ子だった。こういう恋愛小説もどきは芥川賞でなく直木賞でやれといいたい。「貝から見る風景」は淳一がスーパーで「ふう太郎スナック」について投書した女について妻の鮎子と話して意気投合して、自分は一人でなくて貝の中で暮らしている二匹のエビだと思う話。一人称っぽい三人称。貝だのエビだのがまたもや妙ちくりん。調べてみるとタイラギという20センチくらいの大きな貝の中に1センチくらいのカクレエビがつがいで暮らしているらしい。貝の中で暮らしているエビが淳一と鮎子の仲良し夫婦の比喩なのだろうけれど、カクレエビは貝と共生しているから、貝もエビと一緒にいるはずなのだけれど、貝の中身はどこにいったのと考え始めるとワケワカウッヒャーでやっぱり比喩としておかしい。この夫婦が誰か他人の家に居候しているならまだ比喩としてわかるけれども。「安定期つれづれ」は妊娠した娘の真子が家にきたので、英男が禁煙の様子をブログに書く話。三人称。妙ちくりんな文章がないぶん他の短編よりましだけれど、文体に工夫もなく見所もない。全体の感想としては純文学というよりエンタメ小説。テーマが夫婦やら家族やらと平凡で退屈で、主人公の男がうだうだしつつ孤独やら夫婦やらを考えるという似た展開で、短編集としても物語のバリエーションが乏しい。平凡なテーマを書くなら書くでいいけれど、そこで新しい世界の捉え方や人間の新しい一面を開拓するまでに至らず、読者にとっての刺激がない。日常を書きながらもリアリズムでもなく、既視感のある「あるあるネタ」止まりで、小説にするほどの内容でもない。以前『指輪をはめたい』を読んで一人称がナラトロジー的に矛盾していると書いてこの作家はダメだと思ったけれど、芥川賞をとったというからその時点からいくらか進歩したのかと期待したものの、期待はずれに終わった。いかにも文藝出身作家っぽい幼稚さが漂う雰囲気文学で、テーマ、技法ともに純文学としての魅力がない。私は今後この作者の本を読むことはないだろう。★★☆☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】八月の路上に捨てる [ 伊藤たかみ ]価格:514円(税込、送料込)
2015.07.11
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15歳の田村カフカが家出して生き別れた母や姉とセックスしたりする話。●各章あらすじカラスと呼ばれる少年:カラスと呼ばれる少年と僕が父の書斎で会話。砂嵐を想像する。1:父の書斎から金を盗んで15歳の誕生日に家出して四国に行くことにする。2:国民学校教師岡持節子にインタビューした米軍の極秘資料。森で子供たちが集団失神する。3:夜行バスに同乗した年上の女が話しかけてくる。4:内科医中沢重一へのインタビュー。子供たちは意識を回復したが原因不明。ナカタサトルだけ意識が戻らない。5:バスが高松に着いて女と別れる。女はさくら、僕は田村カフカと自己紹介。カフカは甲村記念図書館に行った後ホテルに泊まる。6:影が薄い初老のナカタが黒猫のオオツカと会話。ナカタは三毛猫のゴマを探している。7:ホテルと図書館を往復する生活の様子。8:精神医学教授塚山重則へのインタビュー。集団催眠の可能性。ナカタが覚醒した。9:神社の林で意識を失っていて、シャツに血がついていたが何が起きたか覚えていない。さくらに電話してアパートに行く。10:ナカタと猫のカワムラが話すものの理解できず、シャム猫のミミが手伝う。空き地で背が高い男が猫を連れて行くというので男を待つ。11:カフカとさくらの会話。カフカの母は養女の姉を連れて家を出た。眠れないのでさくらが手こきする。置手紙をしてアパートを出る。12:岡持節子の手紙。戦地の夫とセックスする夢を見て月経がはじまり、捨てた手ぬぐいを拾った中田を殴った。13:大島の助手になって図書館で寝ることにするものの、当面は高知の大島の兄の小屋に泊まる。14:ナカタはコイズミの猫探しの仕事をしている。白黒ぶち猫のオオカワは事情をしゃべるとやばいという。ナカタは黒い犬についていってジョニー・ウォーカーと会う。15:小屋での生活の様子。16:ジョニーは猫の魂を集めて笛を作るために猫を殺していた。ジョニーはナカタが自分を殺せばゴマを返すといって捕まえた猫を殺し始め、カワムラが殺され、ミミも殺されそうになったのでナカタはジョニーを殺す。17:大島が小屋に迎えに来て佐伯の過去を話す。佐伯は『海辺のカフカ』というヒット曲のレコードを出していた。18:ナカタが目を覚ますと猫と会話ができなくなっていた。ゴマをコイズミに届ける。警官に人を殺したと話すものの警官はとりあわず、ナカタの予言どおり空から魚が降ってきて彫刻家の死体が発見される。19:図書館で働いているとフェミニスト二人がいちゃもんをつけるものの、大島が性同一性障害の女性のゲイだといってやり返す。20:ナカタがヒッチハイクをして峠口やハギタの車で東名高速を西に移動し、バイカーのリンチを止めると空からヒルが降ってくる。21:殺された田村浩一はカフカの父だった。父はカフカが父を殺して母と姉と交わると予言した。22:ナカタは星野と食事して四国に行く。星野は仕事をさぼってナカタにつきあう。23:少女の幽霊は15歳の佐伯だった。『海辺のカフカ』のレコードを聴くと歌詞が事件と関連しているようだった。24:ナカタと星野は旅館に泊まる。ナカタは34時間熟睡したあと星野の腰骨のずれを治す。25:少女の幽霊が『海辺のカフカ』の絵を眺めているのに嫉妬する。佐伯が母親だという可能性について大島と会話。佐伯に家出の理由を話す。26:ナカタは高松で入り口の石を探しに図書館に行く。星野は風俗の客引きのカーネル・サンダーズに声をかけられ、ついてきたら入り口の石について教えるという。27:警察が図書館にやってくるが大島がやりすごす。カフカは自分の中に別の誰かがいるようで学校で暴力沙汰を起こしていた。28:星野は神社に来た女とホテルに行く。神社の林の中に石があるという。29:さくらに電話して事情を話す。さくらはカフカが好きで弟みたいだという。佐伯が寝たままカフカのベッドに入ってきてセックスする。30:カーネルは実体のない観念的客体だった。星野は祠から石を持ち出す。31:佐伯と父の死と佐伯が母であるという仮説について会話。君と佐伯がセックスする。32:ナカタの予言どおり雷が鳴り、影を取り戻すのに石がいると星野にいう。石をひっくり返して入り口が開く。33:カフカはチェコ語でカラスだと佐伯にいう。佐伯は失われた時間を埋めようとしているとカフカはいい、その夜エッチする。34:ナカタは疲れて眠る。星野は喫茶店に行く。35:警察がナカタを追っていた。カフカは高知の小屋に行く。36:カーネルが星野に電話して、ナカタが警察に追われていると知らせる。37:高知の小屋に行って佐伯のことを考える。38:星野がレンタカーを借りて高松市内を適当に走り、甲村記念図書館を見つける。39:森に入ってみる。さくらの夢を見て、さくらの夢の中に入って寝込みをレイプする。40:ナカタは佐伯と入り口の石について話す。41:森の中核に入る。42:ナカタは佐伯の原稿を焼くように頼まれる。佐伯は死ぬ。43:森で会った兵隊が入り口が開いているというので中に入る。44:ナカタは原稿を燃やして入り口をふさぐ時期がくるまで眠るものの死んでしまう。星野は石とナカタをどうするか悩む。45:兵隊についていって建物に入る。目を覚ますと15歳の佐伯がいた。46:星野は石に女の話をする。猫と会話できた。カラスと呼ばれる少年:カラスと呼ばれる少年がシルクハットの男を攻撃する。47:大人の佐伯がやってきて入り口が閉じる前にここを出て元の生活に戻れという。カフカは『海辺のカフカ』の絵を譲り受け、自分を捨てた母を許すことにして、佐伯の血を飲んで森を出る。48:星野と猫のトロが会話して、ナカタの口から這い出ようとしている白いものを攻撃するが効かないので入り口を閉める。49:大島の兄に図書館に送ってもらう。カフカは大島に東京に戻るといい、さくらに電話して別れを告げる。●感想奇数章はカフカの物語で、偶数章はナカタの物語という構成。カフカの部分は一人称だけれど、15歳が書いた文章として見るとリアリティはない。冒頭から「僕はうなづいた。」を何度も繰り返して文章にリズムを作っているあたりは技巧的であるがゆえに、15歳のカフカが自分について書いたというナラトロジー的リアリティはなくなる。上巻321ページで「僕は真っ裸でポーチの椅子に座り、光の中でまどろんでいたので、近づいてくる彼の足音に気づかない」という文章があるものの、大島に気づいてないカフカがこの文章を書けるはずがなく、ナラトロジーとして矛盾している。カラスが二人称で語りはじめると、一人称の部分は完全にリアリティをなくしてしまい、結局はカフカでなく作者がこの物語を書いているというメタ情報が読者に意識されてしまって、語り手の存在が疑われたら一人称としては失敗だろう。文章自体は単純で、誰が何したという情報の羅列と会話で展開する中にうんちくやメタファーがさしはさまれる。リアリティのなさは会話に顕著に出ていて、登場人物全員が村上春樹的というか一様に台詞が不自然に丁寧で人為的。四国が舞台なのに方言すらでてこないし、兵隊も戦時中の言葉を使わずに現代日本語を話している。殺人事件とエロ描写でなんとか読者の興味をつなぎとめる程度のプロットはあるものの、やたらと冗長で退屈。父親の予言どおりに物語が展開して、ご都合主義的で意外性もない。そのうえプロットがすべて回収されるわけでもない。この世界に居場所がないカフカがアイデンティティを探そうとするのにこの世界に向き合おうとしないことも気に入らない。父親殺しの罪をナカタに押し付けたまま社会復帰せず、自分で父親を殺すべきである。村上春樹はしばしば薄っぺらいと批評されるけれども、私も同様の印象を持った。作者には左翼的な思想があるし、主義主張がまったくないエンタメ小説に比べたらこの世界に居場所がない人のアイデンティティー探しのテーマ自体は薄っぺらいというほどでもない。太田光は村上春樹は海外小説のパクリだと批判したそうだけれど、明治以来日本の作家も海外の小説を真似つつ日本文学を作ってきたのだから、海外小説のまねをすること自体は特に悪いことでもない。となると薄っぺらさの原因は英語的な文体にあるのではないかと思う。「翻訳者は裏切り者」という言葉がある。言葉というのはひとつの単語に複数の意味があり、隠喩、冗談、同音異義、押韻などを考慮して、文章の中の他の単語との兼ね合いにも気を配って作者はあるひとつの単語を選んでいる。翻訳の際にはその含意がある程度失われてしまうから、翻訳者は裏切り者というわけだ。逆に村上春樹が容易に外国語に翻訳可能な日本語で小説を書いたということは、日本語の表現としては含意がなく薄っぺらいということになる。村上春樹の小説は英語だけでなく中国語にも翻訳しやすいらしい。言語によって思考が影響を受けるという言語的相対論(サピア=ウォーフの仮説)というのがある。この言語の思想への影響は言語芸術においては重要なことで、翻訳によって意味が失われてしまうからこそ研究者や評論家等は原書を原語で読んで作者の思想を理解する必要がある。それゆえにミラン・クンデラが亡命先のフランスでチェコ語でなくフランス語で小説を書いたとか、ユダヤ人のアイザック・シンガーが亡命先のアメリカで英語でなくイディッシュ語で小説書いたいうことが重要なのである。日本語からすんなり外国語に翻訳できてしまう村上春樹の小説は日本語特有の思想を含んでいないから薄っぺらいともいえる。逆にあえて好意的に考えてみると、作者が日本的なものからの逃避として日本社会の落伍者を主人公にして、ノンポリ無宗教な童貞がなぜか周囲に受け入れられてモテモテでセックスしまくりという非日本的でリアリティのない世界を意図的に書いているのだととらえることもできるかもしれない。のんびり長編小説なんか読んでるやつはたいてい社会の落伍者で、それゆえ村上春樹の小説は大勢の落伍者に支持されているのかもしれない。しかし深刻な社会の落伍者たる実存主義者の私はこの現実逃避を評価しない。村上春樹的な世界観には、ディズニーランドにはまる大人とか、サンリオのキャラクターグッズを集める大人とか、乳離れできない大人に授乳してあやしているような気持ち悪さがある。村上春樹の場合は掘った穴を埋めなおして充実感を得るようなハルキランドのエレクチオンパレードを登場人物を変えて何度も演じているようなもので、もともと何も喪失していなかったのだ。この小説も猫、クラシック音楽、料理、エロ美少女、夢、孤独、やれやれ、セックス等がちりばめられていて、初めて読むのに既視感のあるハルキランドである。ハルキランドのキャストたちはミッキーがハハッと笑って手を振りまくるように、台本どおりにやれやれと言ってセックスしまくらないといけないのだ。デフォルメされたアニメキャラにリアリティがないと批判する人はいないように、ハルキランドは不可侵なファンタジーの世界という暗黙の約束でなりたっているのだから、客はその世界にリアリティがないと批判してはならないのだ。ハルキランドのファンはこういう非現実的アトラクションが用意されているのだと理解して定番のエレクチオンパレードを求めているのだけれど、その他の客は素人だましの人形劇があほくさくて愛想をつかし、ハルキストとアンチ村上春樹に評価が二分するのだろう。この小説を読んだらクリスチャン・ラッセンのイルカの絵が思い浮かんだ。オシャレでファンタジックでぱっと見うまく見えるけどリアリティーはなく、わかりやすいオシャレさの提示がかえってダサい。技術的に下手ではないけど芸術としては感動する点はない。評論家からは相手にされない一方で大衆に人気。海辺のカフカというか海辺のラッセン。ちょっと待ってお姉さん、海辺のラッセンって何ですの。サーファーなジグソーパズル作家ですのよ。そんな感じ。★★☆☆☆
2015.07.07
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蜜三郎と妻は鷹四と四国の谷間の村に行くと、鷹四がフットボールチームを率いて曽祖父の弟が起こした百年前の一揆を再現しようとして朝鮮人経営のスーパーを略奪したり蜜三郎の妻と性交したりするものの、村の女をレイプしようとして殺してしまい、蜜三郎に妹の自殺の真相を話して自殺したので、蜜三郎と妻はやりなおすことにする。●各章のあらすじ1 死者にみちびかれて根所蜜三郎(蜜)は右目を投石でつぶされ、友人は顔を朱色に塗って尻にキュウリを刺して縊死し、妻の菜採子(菜採)は酔っ払い、赤ん坊の息子は障害があって養護施設に預けている。蜜の弟の鷹四(鷹)はアメリカで演劇をして学生運動家役を演じるものの劇団を抜け出そうとしていて、蜜の友人は鷹が梅毒の薬を買おうとしているところで声をかける。2 一族再会アメリカから戻る鷹の出迎えに蜜と妻は空港に行き、鷹を崇拝する星男(星)と桃子(桃)に会って鷹について議論する。やがて鷹がやってきて、蜜が障害児と現在の生活を話すと、鷹はスーパーマーケットチェーンのオーナーに倉屋敷を売って四国で新しい生活をしようと蜜にいう。3 森の力蜜と妻は故郷の森の谷間の村へのバスを途中下車して鷹に迎えに来てもらう。子守女のジンは大食病で太っていて、鷹は徴兵を逃れて森に住んだ狂人義一郎(隠遁者ギー)に会ったと話す。4 見たり見えたりする一切有は夢の夢にすぎませぬか蜜は倉屋敷を解体して売ることにしてジンに責められる。蜜の兄のS次の骨がある寺に行き、村の養鶏やスーパーの話や、S次が復員後に朝鮮人部落を襲撃して撲り殺された日の記憶を話す。5 スーパー・マーケットの天皇青年グループが養鶏に失敗して、スーパーマーケットの天皇の指示で死んだ鶏を燃やす。蜜の東京の家では凍害で植物が腐っていたのを思い出す。妻はジンに「楽便器」をあげる。蜜の父の死因は不明。鷹は青年グループを鍛えるフットボールチーム(サッカーでなくアメフトのほう)を作るので蜜に寄付しろという。6 百年後のフットボール蜜は竹やりでアメリカと戦う夢を見る。妻はジンに教えてもらってチマキを作るものの、昔のやりかたと違っていて朝鮮人の影響で大蒜が入っていた。蜜は死んだ友人と共同で翻訳していた作業を始め、住職と万延元年の百姓一揆について話す。蜜の曽祖父は弟に万延元年の百姓一揆を起こす工作をさせて、倉屋敷で銃で応戦し、一揆をおこしたグループは殺されたが弟は生き延びた。住職はひとりだけ生き延びた曽祖父の弟を気にかけたS兄が一人だけ殺される役割を引き受けたと解釈する。蜜たちは鷹のフットボールの練習を見に行く。7 念仏踊りの復興谷間に人が住み始めてから孟蘭盆会では「御霊」をまつる念仏踊りが行われていたが、5年ほどやっていない。蜜は鷹のフットボールが新しい型の念仏踊りだという。大晦日の前日に鷹と青年グループは川に流された子供を救助していて、鷹の訓練が有効に役立っていた。蜜が助役と話すと、鷹が蜜をだまして家だけでなく土地も売っていたことがわかり、蜜は村に無関心なので東京に戻ることにするが、妻は残るという。雪が降り始めたせいで当分村を出れないので、蜜は雪がやむまでひとりで倉屋敷で暮らすことにする。8 本当のことを云おうか大晦日に鷹は青年たちに百姓一揆の様子を話して、青年たちは笑って聞いている。蜜は青年たちに馬鹿にされながらヤマドリの下ごしらえをして、焼かれている黒人を思い出す。死んだ友人がアメリカで鷹に声をかけたとき、鷹は焼き殺された黒人の写真が載った公民権運動のパンフレットを見ていた。鷹は自分が本当のことをいうときは蜜に証人になってほしいという。9 追放された者の自由蜜はジンに元旦の挨拶をする。村では男たちが殴り合っていた。村では何か異常なことが起きていて、鷹が関わっていると蜜は推測する。スーパーでは一人一品無料で商品を配っていたが、鷹がそこに酒をまぎれこませて混乱と略奪を引き起こしていた。深夜にフットボールチームの若者が桃を誘惑しようとして、鷹に殴られて森に逃げて隠遁者ギーに救助された。鷹は百年前の先祖の一揆を谷間に呼び戻して再現したいという。10 想像力の暴動鷹の一味は時期はずれの念仏踊りをして、スーパーを略奪しない家を回っていて谷間の人間が平等に恥をかくことを強制して略奪を管理していた。ジンはスーパーの支配人や谷間の朝鮮人に敵意をむき出しにする。スーパーの支配人は軟禁から解放され、子供たちに雪玉をぶつけられていた。蜜が鷹と話して石油をもらった帰りに、住職は百姓がスーパーを襲撃したことを面白がる。11 蠅の力。蠅は我々の魂の活動を妨げ、我々の体を食ひ、かくして戦いに打ち勝つ。翌朝、スーパーマーケットの天皇は谷間を逃げ出して暴力団を呼びに行き、鷹たちは応戦するために武装する。星は鷹が菜採と性交するのを止めようとして規則違反で追放されたと蜜に話し、「御霊」に扮した念仏踊りの一段が倉屋敷にやってきて、鷹は菜採と結婚するから干渉するなという。蜜は鷹の暴動が成功するかもしれないと思うものの、その夜鷹が谷間の女の子をレイプしようとして殺してフットボールチームは鷹を見捨てたと妻が知らせに来る。12 絶望のうちにあって死ぬ。諸君はいまでも、この言葉の意味を理解することができるであろうか。それは決してたんに死ぬことではない。それは生まれでたことを後悔しつつ恥辱と憎悪と恐怖のうちに死ぬことである、というべきではなかろうか。蜜たちが母屋に行くと、返り血を浴びた鷹がレイプしようとして殺したいきさつを説明して隠遁者ギーが目撃者だというが、蜜と星は鷹はレイプしていなくて事故だと言う。妻は鷹が言う事を信じて、鷹がリンチで殺されるか死刑になるかを望んでいるように見えるという。鷹と蜜は倉屋敷でふたりきりになり、鷹は白痴の妹の自殺について本当のことを話しはじめる。鷹は妹と習慣的に性交していて妊娠させて、妹は知らない男にレイプされたと鷹の指示どおりのうそをついて堕胎して、堕胎直後に性交を求めてきたのを鷹が拒んで殴ったら妹が自殺したという。蜜は鷹が死んだら角膜をくれるというのを拒み、逃げ道を用意しているから死なないはずだと言って鷹のヒロイックな幻想を壊すと、鷹は「オレハ本当ノ事ヲイッタ」と書いて銃で自殺する。13 再審蜜には就職先候補として私大の英文講師とアフリカの通訳の仕事がくる。星と桃は結婚することにして村を出て行く。スーパーマーケットの天皇ペク・スン・ギは何事もなくスーパーを再開した。蜜はペクにジン一家の退去を待ってもらう。倉屋敷を解体すると、床下に地下牢があり、蜜は曽祖父の弟が森を逃げたのではなく地下牢にいたのだと発見して、蜜は鷹が妹と性交したことは妻には秘密にしていて、鷹が曽祖父の弟を恥じることはなかったのだと妻に言うものの、妻は蜜が鷹を恥じさせて追い詰めたのだと敵意を見せて、鷹の子を産むことにする。妻と蜜はやり直すことにして、蜜がアフリカで通訳をする間、妻は実家に帰って子供を育てることにする。●感想主人公根所蜜三郎の一人称。各章が30ページくらいでひとつの場面を書くという構成で、物語が整理されていて状況を理解しやすい。これは群像の連載小説だったようで、それゆえ各章のページ数が似た分量で区切りのいい場面だけを書くという形式なのだろう。章の終わりごろになにか事件が起きて、読者に次の章への期待を持たせるやりかたは連載形式としてはよい。文章は自意識を掘り下げていくいかにも純文学な凝った言い回しの文体。夢や記憶を効果的に使って物語内の現実を異化している。平易な表現にならない詩情はあるものの、そのぶん読みにくい。物語はあちこちが重層的で、蜜三郎の曽祖父と弟の万延元年の百姓一揆と、蜜三郎と鷹四の反目は二つの時代の似たような兄弟関係が書かれていて、顔を朱色に染めて縊死した友人と、赤鉛筆で顔を書いて自殺した鷹四の死に方も似た部分がある。しかし何でもかんでも重層的になれば面白いというものでもなく、曽祖父の兄弟と蜜三郎と鷹四の兄弟を重ね合わせるだけでも大掛かりなのに、そのうえ友人の死と鷹四の死を重ねるのは作為的すぎてやりすぎな感じ。白痴の妹と障害児の息子もキャラ被り気味で、白痴の妹と性交した鷹四の子供が障害児の息子の弟か妹になるというあたりも将来の禍根になりそうな仄めかし。田舎の土地柄、社会からの疎外、没落する家系、血族の諍い、暴力、黒人、白痴、レイプ、リンチといったフォークナー的な要素に加えて、第二次世界大戦、学生運動、朝鮮人、障害児という左翼的大江健三郎要素もあり、大江健三郎的テーマがてんこもりになっている。しかしラーメンのトッピングの全部乗せが一番うまいというわけでもないように、盛り込みすぎで舞台設定に文章を費やしてプロットがごちゃごちゃしてわかりにくくて中途半端になってしまうのはよくない。白痴やインセストなどのフォークナー的な要素が大江的要素よりも強くなって、大江のオリジナル小説というよりもフォークナーのパスティーシュっぽい。Amazonでこの小説を大絶賛している人は元ネタのフォークナーを読んでいないんだろうし、フォークナーの真似で絶賛されるなら褒められるべき作家は真似されたフォークナーである。メインのプロットである蜜三郎と鷹四の反目と、百年前の百姓一揆の曽祖父の弟の行方についてはちゃんとオチがついているものの、派生的なプロットである蜜三郎と菜採子の夫婦関係については根所家について詳細に説明される反面、菜採子の素性や思考がよくわからず、菜採子と鷹四の不倫の場面でも菜採子がどうやって性的なものの不可能な感覚を克服したのか不明。というかなんで結婚したの?菜採子は仕事もしないで普段何やってんの?と情報不足で疑問だらけで、本来ならば悲劇からの再生という感動のラストシーンなのだろうけれど、菜採子は鷹四と結婚するつもりで鷹四を自殺に追いつめた蜜を恨んでいるくせに、ちょっと考えただけで蜜とやりなおそうとした所で都合のいい寄生先を探しているように見えてしらける。鷹四が女をレイプしようとして殺したのか、あるいは事故だったのかという最終的な結論も出ていない。鷹四が「オレハ本当ノ事ヲイッタ」と書き残して死んだので、妹の自殺のことだけでなく女をレイプしようとしたというのも本当のことを言ったと鷹四が主張していると解釈できる。ここで科学的な死因を特定しまうとヒロイックな幻想が壊れるからあいまいなままにしておいて解釈の多様性を残しておくのは味のあるやり方で、普通の小説ならそれでよい。しかしそもそも鷹四のヒロイックな幻想を壊して自殺まで追い詰めたのは蜜三郎なので、やるなら徹底して幻想を壊して検死結果を出してほしかった。被害者の女の家族が出てこないのも不自然で、殺人事件として捜査が始まってないのもおかしい。なんで鷹四の葬式やって一件落着みたいになってんの。鷹四と青年グループがスーパーマーケットを略奪する村人対朝鮮人のプロットのほうでは、青年グループの人数や年齢がはっきりせずモブ扱いなのは雑でよくないし、鷹四の自殺でこっちのプロットはあっさり終了してしまって消化不良気味。表題になっているフットボールチームよりも鷹四のインセスト告白自殺がクライマックスになってしまい、あちらを立てればこちらが立たずというちぐはぐな感じ。星男はプロット上の役割があったから存在意義があったものの、桃子は単なるお色気要因で存在意義がない。村人以外での鷹四の崇拝者という点で星男と桃子は独自の立場を持ちえただろうに、結局は思想らしいものもなく鷹四に付きまとう脇役でしかなかった。プロットが多様な割に人物描写が追いついておらず、もう100-200ページくらい増やして妻や脇役たちの背景や思想もちゃんと書けていればもっといい小説になったかもしれないけれど、蜜が他人に興味を持たないまま大掛かりな兄弟喧嘩で終わってしまった。★★★★☆
2015.07.02
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