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ヨーロッパで修辞学の古典となっているキケロが中世から近代までどう評価されてきたかということを書いた本。キケロの生い立ちや思想を知りたいという人は他の本を読んだほうがよい。●まとめ中世ヨーロッパでは高等教育の修辞学のテキストとしてラテン語散文の模範であるキケロの『ヘレンニウスに与える修辞学書』や『発想論』が使われていた。しかし当時ギリシャ語を知っている知識人は乏しく、キケロの著作は逸散したり欠けたりしていて、古典の翻訳も進んでいなかった。ペラトルカは1345年に『アッティクス宛書簡集』を発見したことで敬愛するキケロが保身のために考え方をころころ変えてポンペイウス側についたりカエサル側についたりする首尾一貫しない人物だと知って幻滅する。一方で初の本格的なギリシャ語の教師マヌエル・クリュソラスがフィレンツェに招かれ、門下生のレオナルド・ブルーニが1390年代にプルタルコスの「キケロ伝」のラテン語訳をするものの、キケロの肯定的な部分を強調して翻案して、「ローマの雄弁の最高の父」と「軽佻浮薄な不幸な老人」にキケロ像が分裂する。1422年にジェラルド・ランドリアーニ司教がキケロの『弁論家について』の完全版の写本を発見して、ルネサンス初期の人文学者の間で人気になって、「このように」「にもかかわらず」「かどうか」「同じように」を使って流暢に文章を構成する新種の文体に関心が集まり、アルベルティの『絵画論』の絵画構成法の理論にも影響を及ぼす。その後キケロを模倣する人が大勢出てくるものの、ロレンツォ・ヴァッラの登場で盲目的なキケロ主義から脱却して、16世紀のエラスムスの『キケロ主義者』でキケロの修辞学は再び哲学的英知の次元に戻る。18世紀の啓蒙主義の時代になるとコンヤース・ミドルトンが1741年に刊行した『マルクス・トゥッリウス・キケロの生涯の物語』が西洋各国で翻訳されて本格的なキケロ伝を手にするようになり、ミドルトンはキケロの否定面を払拭したので、プルタルコスの翻訳から形作られた日和見主義で自惚れ屋というキケロ像が一変して、雄弁の父として文明開化の象徴的存在になる。悲劇作家のクレビヨンがカティリーナがキケロを暗殺しようとした「カティリーナ弾劾」を劇にして、それに対抗してキケロを敬愛するヴォルテールもキケロを悲劇の主人公とした劇を作るものの、どちらも史実からはかけ離れていた。イプセンが1850年に書いた処女作「カティリーナ」ではキケロがほぼ忘れ去られる。1819年にヴァティカン図書館学芸院長のアンジェロ・マイがキケロの「国家について」の全体の4分の1相当の断片を発見して骨格が明らかになったことでプラトンの「国家」と比較されるようになる。西洋では過去の文化の積み重ねから成っていてギリシャ古典やラテン語を教養にしていて、言論を重視するのでキケロが伝統的地盤としての地位を保っている一方で、日本では明治時代の富国強兵と実用主義のために英仏独の国別に思想と文学を縦割りに研究したせいでラテン的・イタリア的側面をないがしろにして西洋文化の包括的な研究がされないままでいる。●感想個人的に面白かったのはキケロが『弁論家について』で「誰にせよ、長いあいだにわたって、また、多くを書くという行為をなさなかったならば、即席のそうした言論をいくら躍起になって練習してみても、それを手に入れることはできないだろう」と言っているところ。脳科学ではブローカ野とウェルニッケ野が弓状束でつながっていて別々の言語機能を果たしているとわかっているけれど、ウェルニッケ野は普通の文法を処理していて、ブローカ野のほうはもっと複雑な文法を処理しているらしい。つまりは普通の単純な文法で日常会話する程度ではあまりブローカ野を鍛えることにはならず、書く行為で複雑な文法を処理できるように長年ブローカ野を鍛えていくと複雑な文法を使いこなした流暢な弁論ができるようになるのだ、と考えるとキケロは科学的にけっこう正しいことを言っているのかもしれない。しかし日本人はレポートだの会議用資料だので文章作成をたくさんこなしているにもかかわらずスピーチが下手なのはいったいなんなんだろう。コピペで済ませてしまうから脳が十分に鍛えられてないのだろうか。★★★☆☆キケロ [ 高田康成 ]価格:712円(税込、送料無料)
2016.04.27
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美人の未亡人ワンダに惚れた変態マゾ男ゼヴェリーンがワンダの奴隷になる話。●あらすじ私は毛皮を着たヴィーナスと愛について会話する夢を見て、変人貴族ゼヴェリーンにその夢を話すと、夢で見たヴィーナスが鞭を持ってゼヴェリーンを踏んでいる絵が部屋に飾ってあった。ゼヴェリーンは女を革鞭で躾けて飼いならしていて、私に「ある超官能者の告白」を読ませる。「ある超官能者の告白」の内容。ゼヴェリーンはティツィアーノの「鏡に向かうヴィーナス」の写真を本に挟んだまま保養地の館の女主人に本を貸してしまうと、絵に生き写しの24歳の美人の未亡人ワンダ・フォン・ドゥナーエフが私に興味を持ったので一緒に住み、女専制君主のようなワンダをどうしても自分のものにしたいので奴隷になることにして、昔縁戚の毛皮を着たゾボール伯爵夫人に鞭で打たれたことを話して、鞭で打ってもらって喜ぶ。本格的に奴隷になるために契約書を作ると、いったん躊躇するもののワンダに捨てられそうになったので奴隷になることにして、ワンダの従僕グレゴールとしてフィレンツェに行く。ワンダは若いドイツ人画家に自画像を描かせることにして、ワンダに惚れた画家を縛って鞭で打って最高の絵を描いてもらう。ある日ワンダは美青年のギリシア人アレクシス・パパドポリスに一目ぼれして結婚したがるものの、ゼヴェリーンはワンダに見捨てられてもフィレンツェを去れずにワンダにすがりついてついに逆上してワンダを引き倒すと、ワンダはゼヴェリーンの男らしさを認めて今までのは演技だったのだといってゼヴェリーンと普通の関係に戻ることになる。そしてフィレンツェを去ることになってゼヴェリーンがワンダに呼ばれて部屋に行くと、ワンダはゼヴェリーンを縛り、部屋に隠れていたパパドポリスが出てきてゼヴェリーンを鞭で打って、ワンダとアレクシスはゼヴェリーンを置き去りにして行ってしまう。ゼヴェリーンはこの話の教訓は、女は男の奴隷になるか暴君になるかいずれかで、絶対にともに肩を並べた朋輩とはなり得なく、女が男の同行者になれるとすれば、女が権利において男と同等となり、教養も労働も男に匹敵するときがきてはじめて可能で、鞭を打たれるものは鞭を打たれるのにふさわしい人間でしかないと私にいう。●感想私の一人称で、作中作のゼヴェリーンの告白を展開する形式。私の夢からゼヴェリーンの本につなげるやり方が強引で、私もゼヴェリーンの告白もどちらも一人称の私で展開していて構成がわかりにくい。私の存在意義がほとんどなく、シンプルにゼヴェリーンの告白だけにしたほうがましだったかもしれない。一行あきが多くて場面が飛び飛びになっていて、描写も雑になっている。ワンダに対するゼヴェリーンの崇拝で小説が成り立っているので、ワンダの描写を手抜きしているのはよくない。マゾヒズムというテーマはよいとしても、描写の雑さで面白さを損ねているので、もっとねちっこく描写したほうがいい小説になっただろう。物語の見所はゼヴェリーンが奴隷になるか否かという葛藤を書いているところで、途中でちょくちょくゼヴェリーンとワンダが正気にもどって主従関係を続けるか否か迷ったりして、それがゼヴェリーンがワンダに弄ばれて捨てられるというどんでん返し的なクライマックスにつながっている。しかしその一方でゼヴェリーンが奴隷になりたがったり普通の恋人扱いされたがったりして態度が一貫しておらず、結局ゼヴェリーンがどうしたいのかよくわからない。あるいは常識と非常識に葛藤する性的倒錯者の心理を書いたのだととらえることもできるかもしれないけれど、私にとってはゼヴェリーンの一貫性のなさがつまらない。ワンダがゼヴェリーンを夫に値しないとして見捨てたように、読者としてもゼヴェリーンのような人間的魅力がなくてめんどくさいかまってちゃんを見捨てたくなる。訳者の種村季弘のあとがきによると、マゾッホは知人の医師の奥さんのアンナに恋愛して、離婚したアンナと同棲したものの、自称亡命ポーランド人のうさんくさい伯爵にアンナを奪われたという事件がこの小説のモデルらしく、さらには作者はこの小説を書いたあとに妻のアウローラをワンダとして育てて、無理やりマゾッホの前で他の男と姦通させて嫉妬の快楽を叶えて、さらには小説同様にワンダを他の男に取られて落ち込んだそうな。体験を元に小説を書いてその小説に沿った体験をしたというパターンは初耳で、小説の終わりに教訓まで書いたくせに作者は全然反省していない。マゾッホの生涯のほうが小説よりも面白いんじゃなかろうか。★★★☆☆毛皮を着たヴィーナス新装版 [ レオポルト・フォン・ザッヘル・マゾッホ ]価格:680円(税込、送料無料)
2016.04.20
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少年たちが別の学校の少年たちと抗争したり、クリスマス用の劇をしたりする話。●あらすじ高等中学の高等科一年生のジョーニー・トロッツは『飛ぶ教室』という劇を書き、絵がうまい優等生のマルチン・ターラーやボクサー志望のマチアス・ゼルプマンや臆病者のウリー・ジンメルンたちと宿舎で劇の稽古をしていると、実業学校の連中に襲われたフリドリンが来て、ルディ・クロイツカムが捕虜になって書き取り帳を取られたというのでみなで宿舎を抜け出して、禁煙車を改造して住んでいる30代の喫煙さんに相談して、腕ずくでルディを取り返すことにして、ゼバスチアン・フランクが敵のリーダーのエーガーラントに無条件で捕虜と書き取り帳を渡すように交渉するものの交渉は決裂し、全面戦争になりかけるものの、禁煙さんに止められて代表者がタイマンすることになり、マチアスがバベルカを倒すものの、実業学校の連中はリーダーの言うことを聞かずに捕虜を渡さないというので、雪合戦で敵の注意をひきつけている間にマチアスとマルチンがルディを救出するものの、書き取り帳は燃やされていた。学校に戻ると上級生の室長の美少年テーオドールにベク先生(正義先生)のところに連れて行かれるものの、いかなる犠牲を払っても友人を助けたことを褒められて宿舎を抜け出した罪は情状酌量になり、ベク先生が少年時代に病気の母親に会うために規則をやぶって寮を抜け出したときに身代わりになって罰せられた親友がいたけど消息不明になった話をするとテーオドールは下級生への態度を改めて寛容になる。その晩上級生たちはおばけに仮装してかゆくなる粉を撒いていく。翌日マルチンは書き取り帳を燃やされたことをルディの父親のクロイツカム先生に報告する。マルチンとジョーニーはベク先生と禁煙さんが知り合いだと推測して二人を合わせると、禁煙さんはベク先生の親友ローベルトだった。演劇のけいこを再開すると、ウリーは勇気を示すために傘を持って高いところから飛び降りて足を折ったので、代役を中等科三年のシュテッカーに頼む。マルチンは母親が旅費を送れなかったのでクリスマスに家に帰れないことになって落ち込む。休暇前の最後の授業をして演劇は成功して、翌日皆が学校を出て行くと、ベク先生は学校に残っているマルチンを見つけて事情を聞いて旅費をあげ、マルチンは家に帰って両親と会う。●感想三人称。まえがきで作者が内包された読者(子供)にクリスマスの小説を書くよと語りかけておいてから本題に入り、さらにあとがきで作者がジョーニーと会話して実在の人物を書いたように仕上げていて、文学的小技が効いている。各少年は絵がうまいだの臆病だの空腹だのとステレオタイプ気味にキャラ付けされていて各少年に見せ場があり、テーマは少年の友情や男気に絞られているので物語自体はわかりやすい。高等中学校(ギムナジウム)の高等科一年生は16歳らしいものの、その割には傘をパラシュートにして飛ぶとかクリスマスに家に帰れないから泣くとかやることが幼稚。16歳なら政治経済や哲学に興味をもちはじめて社会や大人を批判したがる年頃だろうに、先生が理解ある人ばかりで少年が大人と対立しておらず、テーオドールが一瞬で改心するあたりとかベク先生と禁煙さんの再会とかは問題が簡単に解決してしまうご都合主義的ないい話で物足りない。1932に書かれた本で、当時ナチスが自由主義の作家の本を出版させなかったので、内容がぬるくなるのはしょうがないのだろう。それに私が大人だから物足りないのであって、単に感動的ないい話を読みたい子供にとってはこれでいいのかもしれない。児童文学のカテゴリーになっているけれど、藤子不二雄A原作の映画「少年時代」とか、世界名作劇場のアニメ「ロミオの青い空」とか、ノルウェーの映画「孤島の王」が好きな人は大人でもそれなりに面白く読めると思う。私は「孤島の王」のようなハードボイルドな少年の物語のほうがよい。気骨ある少年は大人を信用せずに社会に抗って新しい国を作るべきである。★★★☆☆飛ぶ教室 [ エーリヒ・ケストナー ]価格:534円(税込、送料無料)
2016.04.15
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2001-2006年に書かれた短編20作とショートショート10作の短編集。「漫画の行方」は昔書いた漫画の原稿を編集者に預けたら行方がわからなくなる話。「余部さん」は原稿の余白を見ると怒る余部さんの怪談。「稲荷の紋三郎」は横恋慕されて困っているお民が願掛けしたら、狐の紋三郎が貞操を守りに来る話。ポストモダン的なオチになっているものの、どたばたを封印してしまったせいで筒井の良さが生かしきれてなく、エンタメに徹して普通に書ききったほうが面白かったかもしれない。「御厨木工作業所」は木工所でSF的な装置を作っている話。ストーリーらしいものはなく、木工所と近未来的な雰囲気のギャップを楽しむ雰囲気小説。「TANUKI」は狸の狸吉郎一家が残飯をくれる柏原家の子供がいじめにあっているので人間に化けてなんとかしようとする話。「迷走録」は友人に裏切られたり失恋したりして死ぬ気になった男が死ぬ気になればなんでもできると思って復讐する話。「建設博工法展示館」は建設博の事務局長のところに工法を展示したい妖怪が来たり、ボジョジョ蚊が大量発生して襲われたりする話。「大人になれない」は子供っぽい大人の拓也がパロッタ君という架空の木製ロボットに相談しながら玩具開発をしていて社長秘書に恋する話。オーソドックスな発想だけれど、叙述トリックが巧みで設定がオチにつながっているのはよい。「可奈志耶那」はホームレスから普通の生活に戻ったものの、他人の残飯が食べたくなる男に居酒屋の娘が共感して結婚する話。「遠蘇魯志耶」はおれがゴルフ友達の独身女の家に誘われたらその家の猫のとらが嫉妬して襲ってくる怪談。「優待券を持った少年」は奇妙な優待券を持った少年が満席のコンサートホールに入ろうとする話。「犬の沈黙」は挨拶ができないいまどきの青年編集者が義父の家にインタビューにくるもののろくに喋れない話。「出世の首」は大河ドラマの雑兵役の二人が役に没入して大将を殺す話。「二階送り」は敵の大将を招く武芸で武勲を立てた猫の又兵衛が大将になり、家が子供でいっぱいで狭いので誰かを二階送りにすると言い出して、二階送りを逃れるために三毛六が必死に面白い話をしようとする話。「空中喫煙者」は老人が喫煙すると体内にヘリウムガスが発生するようになって空中で喫煙していると台風が来る話。「鬼仏交替」は穏やかなのに急にやくざ口調の暴言を吐く人格に交替してしまう難病の魚沼氏の人格交替の周期が徐々に早まっていく話。「虎の肩凝り」はインドで虎に襲われた老人が虎の肩をもむ話。「春の小川は」神宮前の小川が「春の小川はさらさら行くよ」の小川だったので今風ならどんな詩かなという話。「長恨」は二人の評論家があんな駄作をなぜ傑作というのかとお互いに批判する対談。「恐怖合体」は吸血鬼が麻薬中毒患者の血を吸って麻薬中毒になる話。「おれは悪魔だ」はおれの顔が悪魔に似ていたので誰かを脅かす話。「秘密」は自分のせいで友人の祖母が死んだことを秘密にしておく話。「便秘の夢」は便秘のスマ子さんがえんえんと大便を出す話。「土兎」は教頭が埋めた仔ウサギが土兎になって生きていた話。「取りに来い」は振り込め詐欺の電話がかかって来た老人が取りに来いと言う話。「便意を催す顔」は便秘と下痢を繰り返す体質の男がある人の顔を思い浮かべると便意を催す話。「狼三番叟」は老優宮本が三番叟を踊れる俳優のオーディションに応募したり俳優協会の俳優仲間と会話したりする話。「耽読者の家」は読書家の伯父の家を遺産でもらった男の家に後輩が訪ねてきて二人で読書しながら生活していたら美人の従姉妹の女子大生も来る話。小説というよりは小説形式のほっこりした読書ガイド。「店じまい」は店じまいをするレストランの残りの食材でオーナー一家が食事をする話。普通の人情小説。「逃げ道」は三上の坊ちゃんが親と喧嘩して三上家に奉公していた婆やを訪ねてきて甘えて飲み食いするものの、貧乏な婆やと息子は困って坊ちゃんから逃げる話。普通の人情小説で、物語の終わらせ方がよい。合計30作で380ページほどあり、メタフィクション、怪談、時代小説、SF、下ネタ、現実と非現実の混交、動物、どたばた、まじめな人情小説と作風のバリエーションに富んでいて読者を手玉に取る手練手管が発揮されているので短編集として飽きずにわしわし読めてよい。駄菓子の詰め合わせをわしわし食べるような幸福感である。しかし夢オチにしたりメタフィクション的な言い訳をしたり脱線したり矛盾したりしてプロットを放り投げて終わるポストモダニズム風のトリッキーなオチがいくつかあるので、普通の小説を読みたいという人は面白くないかもしれない。エログロは控えめでさすがの筒井も歳を取って丸くなったような感じだけれど、筒井のファンなら買って損はない。個人的に印象に残ったのは猫がかわいい「二階送り」とギャグなしでまじめに人情を書いている「逃げ道」。ポストモダニズム風のオチの小説はプロットが完結していないうえにアクロバティックな手法のほうが目立ってしまうせいか物語として記憶に残らないので、やはり普通に書かれた小説のほうが面白い。人間の脳は物語を記憶しやすい仕組みになっているので、人間の脳の仕組みに逆らって奇をてらうやり方は長期的に見たら損な手法かもしれない。★★★☆☆壊れかた指南 [ 筒井康隆 ]価格:648円(税込、送料無料)
2016.04.14
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第146回芥川賞受賞の表題作と「松ノ枝の記」の短編集。「道化師の蝶」は架空の新種の蝶をつかまえて「○○で読むに限る」シリーズの本をヒットさせた道化師エイブラムス氏のエピソードを無活用ラテン語で書いた友幸友幸の小説「猫の下で読むに限る」を訳したりレポートを書いたりして、友幸友幸を追うエイブラムス私設記念館のエージェントとして報酬を得ていたら、字を書いているうちにいつのまにか喪われた言葉の国にいて老人と蝶について会話して、わたしは人の頭の中に着想を植えつける蝶だったという話。語り手のわたしの一人称。わたしはエイブラムス氏の小説を書く→わたしは友幸友幸に興味がある→わたしは実はエージェント→わたしは実は友幸友幸→わたしは実は蝶→と語り手のわたしが転々としていく仕掛けになっているものの、語り手が誰に対して何を語りたいのか、物語をどういう方向に進めたいのかがはっきりしないので、読者としては興味を維持できない。いちおう最後にわたしは蝶だと明らかにすることでオチをつけているものの、たとえばミステリで探偵がいなくて誰も捕まえてくれないから犯人が「実はわたしが犯人だったのだ、デデーン!犯行動機はあれだよ、ほらほらすごい犯行だよね」と自己主張するようなもので、このやり方は興ざめする。三本腕の人にしか読めない本とかの小道具はボリス・ヴィアン風のシュールなナンセンスで特に面白い発想というわけでもなく、冗長なギャグをぐだぐだ展開しているようなつまらなさ。円城塔のファンにしか読めないナンセンス小説を書くという体を張ったギャグだったんだろうか。「松ノ枝の記」はわたしが彼の小説を翻訳したら違う内容になったので彼も私の翻訳を翻訳する間柄になり、彼の自伝的小説「Branches of the Pine」を翻訳した「松ノ枝の記」を書くと、彼の傑作だという5作目が届かず、自称松ノ枝の姉という人物と会ってなんやかやして5作目を手に入れる話。わたしの一人称。「わたしは彼の翻訳者であり、彼は私の翻訳者である。」という文章から始まるものの、彼が何者なのか、わたしが何者なのかがまったく言及されないまま話が進み、いつの、どこの、誰の話なのかがはっきりせず、外面描写も内面描写もなく、物語に具体性がない。この不親切で情報不足で独りよがりな語り手に付き合っても面白いどころかストレスしか感じないので途中で本を捨てたくなる。エレモテリウムが何なのかはどうでもいいからまず登場人物についてちゃんと説明しろっつーの、読者はエスパーじゃねーっつーの、という愚痴が読み進めるにつれて増えていき、結局松ノ枝家がなんだろうが興味を持てないまま流し読みした。二作とも書くことについて書くという小説で、作者は最初から人間を書くつもりがないのだろう。しかし人間を書かないことで、人間がなぜ文章を書くのかという重要な動機に肉薄しないので読み応えがなくなっている。いくら衒学で装飾したところで知識を得られるわけでもないし、感動して記憶に残るような文章もない。難解だのつまらないだのという前評判は知っていたものの、実際に読んでみたら想像以上につまらなかった。それにこういうへんてこな小説は大作家がやるもので、普通の小説をろくに書いていない新人作家が取り組むべきテーマではない。たとえばピカソはへんてこなキュビズムに至る前は普通の写実的な絵を書いていたし、イタロ・カルヴィーノはへんてこなアンチネオリアリスモの小説を書く前は写実的なネオリアリスモの小説を書いている。巨匠たちは普通の表現技法を極めた先にあるものを目指して独自のすばらしいへんてこさを手に入れたのであって、新人が普通の作品を丁寧に作るという過程を飛ばしていきなり巨匠のすばらしいへんてこさを手に入れようとしても無理むりかたつむりである。いきなり変な作品を書いて目立とうとする横着な新人や、そういう新人を担ごうとするくだらない編集者や選考委員がのさばっているから文学は衰退の一途をたどっているんじゃなかろうか。さてこのつまらない小説を睡眠薬代わりになるといって芥川賞に推したのは島田雅彦だけれど、私はこの小説を読んだ数日後にワインをラッパ飲みして空ビンで島田雅彦を殴るという愉快な夢を見た。夢の中で酒を飲めばお金がかからないし、二日酔いもないし、島田雅彦も殴れるし、いいことづくめだ。島田雅彦は夢の中で殴るに限る。★★☆☆☆道化師の蝶 [ 円城塔 ]価格:604円(税込、送料込)
2016.04.11
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第26回太宰治賞受賞の表題作と、書き下ろし「ピクニック」の短編集。「こちらあみ子」はあみ子がのり君に惚れたものの、継母が死産したり兄が不良になったり中学で孤立したりして、のり君に告白したら殴られて歯が折れて、両親が離婚して引っ越すことになる話。あみ子視点の三人称。「あみ子」を「私」に変えてもほとんど成り立つような外面描写の乏しい文章。頭の鈍いあみ子視点にして読者に対して情報不足ぎみにすることで読者をだましつつ叙述トリック的にプロットにオチをつけるためにこの小説は三人称でなければならなかったのだろう。読者に対する情報不足を叙述トリック的に利用するやり方は私は好きではない。丁寧に描写すればこの種の叙述トリックは成り立たないので、ある意味文章が雑だということになる。冒頭は祖母と暮らすあみ子が前歯がないのはのり君に折られたというくだりから始まり、父と継母と兄と暮らしてのり君と会った小学生時代へと移り、いったん中学生時代まで飛ばして、継母と初めて会った日を描写して、また中学生時代に戻るという構成で、短編内で何度も時間を移動するのは構成がよくない。物語内における現在は引越し後に祖母とくらしている時で、物語としては現在から時間が動いていない。両親の離婚後に痛い失恋を経験したあみ子がどういう大人になって生きていくのかということのほうが小説としては重要なのに、プロットを優先して過去の失恋の物語として小さくまとまってしまった。子供の話として完結してしまうと発達障害をプロットのダシに使ったあざとさが出てしまってよくない。思い出を扱いつつも過去の物語に収まらずにうまく行った例はスタジオジブリの『おもひでぽろぽろ』で、主人公のタエ子の子供時代の1966年の東京の思い出を踏まえつつも27歳のタエ子が生きている1982年の山形が物語における現在として物語が展開して、タエ子が大人としてどう生きていくのかが表現されている。27歳のタエ子は映画版オリジナルの設定らしく、高畑勲監督はレトロな過去を懐かしむものにはしたくなかったからそういう設定にしたらしい。登場人物たちが現在をどう生きるのかということに繋げてこそ過去を書く意義が出るし、さらに物語が終わった後もその物語や登場人物の未来がどうなるのかという余韻も残せるようなら物語としては大成功である。ただ過去を書いただけというのでは物語としては不完全な感じ。他の欠点としては、両親も教師もあみ子を放置しているあたりは不可解。死産で精神病になった母親や母親の看病が大変な父親があみ子を放置することはありうるものの、教師はあみ子が数日風呂に入ってなくて異臭を放ってガリガリに痩せていればネグレクトを疑う事案だろうに、何もしないで無視しているのはおかしい。プロットとしては、のり君に殴られた理由、あみ子だけが聞いている騒音の原因、継母の死産の3つがある。短編の中で3つプロットがあるのは文章量の割には多いけれど、各プロットが相互に関係しているわけでもなく、実は○○は××だった、だから何なの?的な肩透かしをくらう。ただプロットがあるというだけでテーマの収束に繋がっておらず、この点でも構成はよくない。メインのプロットであるのり君のエピソードに絞ったほうがよかったかもしれない。良い点としては、あみ子に名前を覚えてもらえない朗らかな同級生の男子の性格がよい。「ピクニック」はローラーシューズを履いてビキニで接客する店に七瀬さんがバイトにやってきて、お笑いタレントの春げんきと14年付き合ったいきさつを先輩のルミたちに話すと、春げんきがアイドルと結婚したので、ルミたちは七瀬さんを放っておいてピクニックを楽しむ話。ルミたち視点の三人称。三人称なのに七瀬さんと敬称をつけるあたりは余計。ルミたちは視点を提供する猿回し役にすぎず、登場人物としての存在感がない。「ルミたち」と複数形にしたのが作者なりの工夫なのかもしれないものの、ルミたちが6つ子だとかクローン人間だとかの面白い設定があるわけでもないし、複数形にしたことでモブ感が強調されてしまう悪手。この作者は登場人物の視点を使わないと三人称を書けないのだろうか。ルミたちを物語の主役にするのでないなら、プロットの中心人物の七瀬さんを普通に神の視点の三人称で書いたほうがましだったかもしれない。とある掲示板で評判でamazonの評価もいいようなので読んでみたものの、発達障害のテーマが目立つだけで技術的にはそれほど良い出来というわけでもない。新人の割には野心がなくこぢんまりしているあたりはいかにも女性作家という感じで物足りない。★★★☆☆こちらあみ子 [ 今村夏子 ]価格:691円(税込、送料込)
2016.04.09
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経済学における資源(生産物形成の源泉となり得る自然物)としての農業資源について考察した本。水は蒸発するとか土地は有限だとか農薬は有害だとか、わざわざ言うほどでもないことを論じていて、各トピックが短くて内容が薄い一般論程度。さらには農業資源と関係ない石油の資源論だとか、経済と関係ない農業論だとか、脱線が多くて「農業資源経済論」としての論旨が一貫していない。内容の割に値段が高いので買う価値はない。●まとめ農業資源は直接的資源としては土地、大気、気象、水、微生物、野生動物などで、間接的資源としては森林、潮流、河川、地下水など。第二次世界大戦後は民族独立運動によって植民地体制が崩壊して、他民族を直接支配して無権利状態にして資源を収奪することができなくなったが、アメリカ主導の先進国資本主義国の毒船体がドル機軸の固定相場制による貿易・資本の自由化を推進して、民族独立を認めながらも実質的には従属させて経済的に収奪する新植民地主義を展開して、安く手に入れた資源を大量に用いて大量生産するようになって資源を浪費するものの、石油危機で再び資源の希少性が意識されるようになって資源ナショナリズムが起きる。さてこの本があまりにつまらなくて特に感想がないので、農業資源とは関係のないコンテンツビジネスについて考えることにした。資源が乏しい国が生き残る手段として、金融や工業品の輸出だけでなくコンテンツビジネスも重要な産業となるわけで、考え方によっては関係なくはないかもしれない。日本はかつて高度成長期に資源を浪費して大量消費社会になって公害が発生したという反省もあって、今では車や家電が省エネやエコを意識するようになっている。その一方でコンテンツビジネスはどうなっているかというと、コンテンツの大量生産大量消費というクリエイターの浪費が起きていて、これが改善される兆しがないどころか悪化している。時間をかけていいものを作るクリエイターより、ぽんぽんと配置して量産するパクリエイターがもてはやされるようになり、ラノベや無料漫画サイトや深夜アニメやソーシャルゲームの数こそ増えているけれども、質の悪いコンテンツが氾濫して自由時間の奪い合いをしているコンテンツデフレとでもいうような状態で、コンテンツが充実しているとはいえない。ただでもいらないような無料コンテンツというのは結局はコンテンツ扱いするに値しないのだ。少子化が進んでいる中でクリエイターが育成されずに浪費されているというのは由々しき事態だ。少子化で人材の奪い合いが起きているなかで、コンテンツビジネスは就職しそこねた落ちこぼれの受け皿になっているのかもしれない。人材自体は枯渇しなくても質を伴っていないのでは枯渇したようなものである。コンテンツとして特に枯渇した分野が物語と絵だろう。世界中の神話や聖書からエピソードを引用して、中世やら近代やらあらゆる時代を物語化して、バーテンダーやら救命医やら消防士やら自衛隊やら現代のあらゆる職業を取材して、日常生活の喜怒哀楽を物語化して、あらゆる物語が分析されてテンプレート化して、新しい物語が少なくなっていった。義経やら信長やら武蔵やら竜馬やら新撰組やらの日本の主要な偉人の物語化はやりつくされて、ヒストリエやヴィンランド・サガやイノサンのように外国の偉人の周辺人物や歴史の隙間の出来事の物語に移行している。NHKの大河ドラマもネタ切れになったのか、マイナーな人物を主人公にするようになった。ワンピースやナルトなどのファンタジーにしても結局は人間の物語なので、誰かと誰かが対立したり恋したり死んだりする類型的な物語展開で、舞台設定を変えたところで物語自体が新しくなるわけではない。絵にしても、ポケモンやら妖怪ウォッチやら、キャラクターが何百体も登場するキャラクタービジネスがコンテンツの枯渇を早めているだろう。昔のアニメならプーさんなら熊と豚とか、ミッキーマウスならネズミと犬とアヒルとか、一作にせいぜい数種類のキャラクターしか出てこないものの、キャラクターのコレクションが主体になっているゲーム発のコンテンツでは一作で数百から千以上のキャラクターが登場する。そのせいで神話上の人物も実在の偉人も動植物も、売れるイラストのテンプレートに沿ってコンテンツ化しつくされようとしている。コンテンツは無限ではなく、クリエイターの想像力は枯渇するものなので、一作一作を丁寧に作ってほしいものである。コンテンツを浪費した挙句にしぼんだ産業としては映画産業がある。時代劇だの西部劇だのアメコミヒーローだのサイコホラーだののヒットのパターンが出尽くして、あとは続編だのリメイクだのオマージュだのを延々と繰り返すマンネリになってしまって、テレビが安価になって普及して昼ドラとかバラエティとかの新しくて柔軟なコンテンツが出てくると客を取られてしまった。その一方で時間をかけて一作一作が丁寧に作られたスタジオジブリの映画が日本でも海外でも人気があるように、コンテンツビジネスは量を増やすよりも質を高めないといけない。スタジオジブリが儲かるのが確実な続編ビジネスをやらないで毎回新しいタイトルに挑戦するあたりはクリエイターの矜持だろうか。延々とエヴァをやっている人は見習ってほしいもんである。実写映画やアニメ映画はいくら没落しても、俳優/声優ごっこしたい芸能人の実績作りに使われるので廃れることがなさそうだという点では文学よりもましかもしれない。資源が有限であるにも関わらず世界の人口が増えていて、所得格差が大きくなっているということは、物を持つことで幸せになるライフスタイルが庶民には不可能になる日がいつか来るということだ。そのときは物を持たなくても精神的な充足を得て幸せになれるコンテンツビジネスが脚光を浴びるときがくるのではなかろうか。インドのボリウッド映画やナイジェリアのノリウッド映画のようなスラムがあるような途上国で映画が盛んなのも、映画というのは物を所有しないで消費するコンテンツで、それゆえに物がない国で流行るのだろうと思う。戦後の物不足のときに日本映画が全盛期を迎えたのも同じ状況だっただろうけれど、テレビが普及したら映画館は用済みになってしまった。消費者はテレビやPCやスマホやキンドルのようなコンテンツを表示するための小さな装置があれば満足するようになる。日本ではロハスやミニマリストや片付け方指南といった物質主義から脱却するためのマインドセットの変革ブームがちょくちょく起きていて、物の充足から精神的充足へと幸福の尺度が変化しつつある。ところが現在のコンテンツビジネスは精神の充足を得る手段というより、限定版アイテムをわんさか買わせたりして物質的に充足させる手段になっているので、この物欲を刺激する浪費型のコンテンツビジネスは消費者の変化についていけなくなっていずれ破綻すると私は思う。コンテンツビジネスはグッズでやタイアップで儲けるよりもまずコンテンツ自体が価値があるものでなければならないはずだ。私はredditの翻訳板でアメリカ人の15歳の少年が日本語のメモを残して失踪したので翻訳してほしいという依頼を見たことがあったけれど、そのメモは少年の遺書で、けいおんが好きだけどグッズを全部買えないので死にますということが下手な日本語で書いてあった。かなえられない欲望を持ってしまったがゆえに死ぬことでしか欲望を消す手段を見出せなかったのだろう。コンテンツビジネスでは節操なくキャラクターを増やし続けていて、欠点がなくて二次元女子との擬似恋愛とか、コンプガチャとか、欲望を刺激するビジネスが本当に人類の幸福に寄与しているのかどうかクリエイターは考えるべきだろう。コンテンツが真善美に寄与せず、精神的な充足のための手段でなく精神的な快楽に浸るための手段に過ぎないのであれば、コンテンツビジネスは金儲けのために中毒性のある麻薬を売っているようなものだ。麻薬でも医療用に使えば人の役に立つけれど、逆に合法なコンテンツでも人を死に至らしめることもある。結局はコンテンツを扱う人の志が重要なのだ。コンテンツが人類にとっての貴重な資源だと認識されるときがくればよいのだが、金儲け優先になっている現状では無理だろうな。★★☆☆☆農業資源経済論 [ 酒井惇一 ]価格:3,460円(税込、送料込)
2016.04.08
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阪神・淡路大震災、三宅島二〇〇〇年噴火、新潟県中越地震の被災者20人が災害発生時にどういう行動をとったかを書いた本。「生死を分けた三分間」というタイトルは詐欺的で、表紙で「三分間」のフォントを大きくして強調しているにも関わらず、内容は災害発生直後の三分間に焦点を当てているわけではないし、生死を分けたというほど危機的状況でない被災者もいる。サブタイトルの「そのとき被災者はどう生きたか」のほうが本の内容に合っている。地震と噴火をひとくくりにするあたりは大雑把。本のコンセプトが固まっていないか、あるいは売り上げ重視でタイトルのインパクトを優先したのだろうか。被災体験を書籍として残すこと自体には意義があると思うものの、20人というのは災害規模に比べて少なすぎるし、災害発生時に生き残る確率を上げるためにどう行動するべきだったのかという専門家のフィードバックがあるわけでもないし、地図や災害発生時刻とか当時の耐震基準とかの客観的なデータがあるわけでもないし、どうやって被害から回復したかを書いてあるわけでもないし、実用的な付加価値が乏しいただの聞き書き集で終わってしまっている。これでは読者が防災や復興の参考にするために手元に置いておくほどの価値はない。それに今となっては東日本大震災の地震と津波とメルトダウンのコンボのほうが強烈で被災の記憶が上書きされているので、そのぶんこの本の存在意義も薄れている。過去の災害を風化させずに教訓として活かすためには相応の工夫をするべきだった。★★★☆☆生死を分けた三分間 [ 被災者 ]価格:1,620円(税込、送料込)
2016.04.08
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