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サイボクハムの代表取締役だった笹崎龍雄の伝記。農家に生まれて子供の頃から豚の世話を任され、父親から進学を反対されながら名門の駒場農学校に進学して、陸軍獣医部委託学生となって士官候補生として従軍して、敗戦で食料で負けたことを痛感して、近江商人の久星の小林庄平に出資してもらって雇われ農園長として牧場を始めて米軍の残飯で豚を育てるものの久星の経営が傾いて独立して、どこかの中小企業の社長が兼業で社長をするものの放漫経営をしていたので笹崎が土地を売って借金を返済して、昭和50年に社長に大金を払って退陣してもらって笹崎が代表取締役になってミートピア構想を展開して、養豚のバイブルとなっている『養豚大全』を出版したりして養豚に尽力する。この本では出資会社が久星となっているけれど、サイボクの歴史ページだと九星になっていて、どっちが正しい表記なのかよくわからない。それから放漫経営をして笹崎に濡れ衣をきせた創業時の社長の名前が本の中に書かれておらず、サイボクの社史を見ても名前が載っていない。このあたりの詰めが甘く、事実に関する情報があちこち不足しているので伝記としての出来はあまりよくない。戦争の描写の部分は伝記というより下手な小説みたいになっている。畜産業や屠畜について調べていくとベジタリアンが肉食禁止を訴えるブログとかをけっこう見かけるけれど、その人たちは体格が劣る生物は淘汰されてきたということを忘れているというか、考えもしないのだろう。笹崎龍雄はアメリカ兵との食事と体格の違いで敗戦したことを痛感して戦後の養豚を推進していったけれど、敗戦を直接経験せずに飽食の時代に育った現代のベジタリアンにはそうした危機感がまったくないようである。戦後に食事が欧米化して日本人の体格が年々よくなり、日本各地で豚肉を使った郷土料理なりB級グルメなりで町おこしができたのも戦後の養豚業者の奮闘があったおかげなのだ。いちどサイボクに行ってみたいのだが、私にはブランド豚などという贅沢なものを食べるほどの金がないのである。★★★☆☆
2016.08.31
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派遣社員の男がレワニワというUMAを生き返らせてベトナム人と恋愛する話。●あらすじ派遣社員の安賀多真一(アガタ、ガタ)は小学校のとき外国人が多い向洋台団地に住んでいて、同級生だったベトナム人のティアン(グエン・ティ・アン、町村桂子)と職場の鴨電コールサービスで再会して、上司の徳永がティアンを鴨ネギファイターズの試合の応援に誘うと、ティアンが安賀多を呼んで3人で船に乗って向洋台球場に行き、おばあさんが海に荷物を落としたのを拾おうとして徳永が海に落ちたのでおばあさんの家に着替えに行くことになり、同級生のチュオン・キム・ハン(山本泉、ハナちゃん)と再会する。安賀多が試合に加わっている間にティアンが知り合いと会っていなくなり、安賀多がティアンを探しに行くとハンと会い、ベトナム料理店でヒエンと会って話している間に知らない老人に凝視されて、帰るときに角倉タクヤに二度と来るなと怒鳴られる。安賀多が母親の再婚相手の連れ子で23歳のひきこもりデブの2ちゃんねらーで猫語を話す福山充(コテハンはコヒビト)に会いに行くと、コヒビトは鴨電スレで暴れていた。ティアンがうそをついて会社を休んでいたので、徳永に頼まれて安賀多は総務の三浦さんにティアンの住所を教えてもらって訪ねる途中にハンと会ってティアンの父親が病気だと聞くもののティアンは留守だった。翌日ティアンが出勤してきていつもと様子が違い二ヶ月たったら話すという。安賀多の父親は高校の生物の教師でホラ話をよくしていて、レワニワというインドシナ半島の奥地に住む謎の生物の幼生が目撃されたと言い出して、レワニワは言葉を教えてくれた人の願いを叶えるものの巨大化して人間化して人食い鬼になるので願い事をしてはいけない存在で、ベトナム難民のクアンがレワニワをポケットに入れて日本に来て放流したことを話し、小学生だった安賀多は妖精だと誤解して、吉田君やヒエンととレワニワ探しをするうちにレワニワが大きくなっているといううわさが広まり、大人サイズで人間に変装しているレワニワ狩りをしたら森島君の母親の不倫現場を目撃してしまう。安賀多がヒエンに会うと、ハンは宗教団体がバックにいる会社で何かのボランティア活動をしていて団地住民と揉めているらしいと聞く。安賀多が人妻あみーとエッチすると旦那が転勤するからこれで最後だといわれる。安賀多が母親と母親の夫と食事をすると、コヒビトに妹の風呂を覗いた疑惑がかかったので同居してほしいと言われ、断るもののコヒビトが安賀多のアパートに来てしまう。徳永がコールセンターから外れることになる。安賀多はティアンに養殖のレワニワのホラ話をしたことを思い出す。ティアンが急に退職して連絡がとれなくなったので、タクヤにハンについて尋ねると戸籍を買ったり生活保護を受ける手助けをしているという。ハンに話を聞きに行くと、ハンはティアンを会社に誘って断られたという。昔住んでいた部屋の下の階のチャウさんに会うと、レワニワを捕まえたから責任をもって殺せといわれる。ハンからクリスマスパーティーにティアンがくると連絡がきたのでパーティー会場に行くと、ティアンはベトナムに語学留学に行くという。安賀多は帰りにハンの仲間に襲撃される。三浦さんにふられた徳永からコンサルに転職するので会社を辞めると電話が来る。年末にコートのポケットをみるとレワニワらしき燻製肉が入っていたので、ぬるま湯で生き返らせて自分の人生を語り、何のために自分が生きているか教えてほしいとレワニワに願い事をする。翌朝ノートパソコンには安賀多そっくりのレワニワが人生の意味は恋することで、ベトナム行きの飛行機を勝手に予約したという告白を書き残していた。安賀多はヒエンにコヒビトは隠れ難民だから雇ってほしいと頼み、徳永とティアンを探しにベトナムに行き、レワニワを生き返らそうとするものの失敗してレワニワスープを捨てる。徳永が自分の服を着た青年をみつけて追いかけて車に引かれて、安賀多が話を聞くと彼は安賀多に似た人に服をもらったといい、レワニワがサイゴン川に行くとメールしてくる。安賀多はティアンと会って日本に帰る。安賀多がコヒビトとバッティングセンターにいると、あみーが自殺したとあみーの父親から電話があり、ティアンが日本に戻ってきたのでコヒビトを紹介し、安賀多がティアンに告白する。●感想安賀多の一人称。作家でもない安賀多がなぜ語るのか、誰に語るのか、いつ語っているのかという一人称のナラトロジーの整合性がついていない。安賀多はFラン卒の底辺だと自称しているけれど、そもそもFラン卒の語学力だと論理的に文章を書くことさえできないだろうから、安賀多が底辺を気取ったところで論理的に話を進めて卒なく行動していて底辺らしさがないので人物像にリアリティが出ない。ベトナム難民や会社がらみで社会性がある話なのに語りにリアリティがないのではテーマと手法が合っていないし、日常部分にリアリティがないのではレワニワという想像の部分が際立たなくなって物語で十分に活かされなくなってしまう。構成としては、草野球観戦というどうでもいいイベントを導入部分にしてちゃちゃっと主要登場人物の関係を書いて時折過去のエピソードを挟んで詳しい説明をして人物像や人間関係補強していくあたりはベテラン作家らしくて手馴れている。しかし長編の冒頭としてはインパクトが薄く、ティアンの知人絡みのトラブルをほのめかしてティアンが会社を休んだ理由を安賀多が調べていくという形でプロットが展開していくものの、安賀多はティアンを好きだけど恋愛感情があるわけでもなく心配しているという程度で動機が薄い。たいして親しくもない元同級生の上司が会社を辞めようがマフィアに拉致されて海に沈められようが他人事なんだからほっとけばいいじゃんと私は思うのだが、そうすると小説が終わってしまう。その程度の些細な出来事がプロットの中心なので読者としては興味をもてないし、肝心のレワニワの概要がわかるのが170ページあたり、レワニワが安賀多の姿で活動するのが終盤からで展開が遅く、テンポがよくない。レワニワに関する問題、安賀多の家族の問題、ティアンとハンのベトナム人グループの問題、鴨電社内の問題が交互に展開していくものの、それぞれのプロット自体が特に面白いわけでもなく、各グループを超えて人間関係が交錯するわけでもなく、交互に展開することで各グループのプロットがぶつ切りになっていてそのぶん読みにくくなっている。ハン絡みのトラブルは解決しないままほったらかされたままだし、あみーも存在感がないし、中途半端にするくらいなら書かないほうがましだった。現在-過去のいきさつの説明-現在というやり方で場面転換するのは作者の癖なのか、このやり方を多用しているけれども、読みにくくて物語がわかりにくくなる悪手なのでふつうに時系列順に書いたほうがまし。描写のテクニックとしては、ベトナム人の本名と日本名とあだ名、アガタ、ガタ、オガタの呼称を使い分けていて、登場人物間の親しさや認識のずれを呼称で際立たせているのは小技が効いている。ミステリなら叙述プロットが仕込まれてるんじゃないかと警戒するところだけれど、特にプロットに関係するわけでもなく、たいして物語の面白さに寄与するわけでもない。レワニワが人に化けるにしても、ベトナム名と日本名の二つ名前があるティアンやハンあたりに化けたほうが面白い展開になったかもしれない。結局のところ全体的に面白くない。主人公の個性なり、プロットなり、何かひとつでも面白い部分があればよいのだけれど、一人称の長編小説で主人公に人間的魅力がなく個性もないつまらない人物だというのは一番きつい。レワニワ自体はホラーにもファンタジーにも展開できるポテンシャルがあるのに、恋愛のアドバイスをしただけで去っていくというのではレワニワの存在意義も乏しい。ティアンは物語に登場する場面が少なくてめんどくさい女という印象だけが残り、ヒーローとヒロインの両方に魅力がないので恋愛小説としてもつまらない。2009年に書き下ろしで刊行されたようだけれど、作家が歳をとるほど同時代の若者を書いても感性がずれていて、派遣社員の若者が主人公なのに若者向けの小説になりきれていない。安賀多は年収200万円以上あって持病も借金もないくせに自称底辺を気取って人生に悩んだりしていて、私の知っている底辺とはずいぶん違う。私の知っている底辺は中卒で健康保険料を払っていなくて刑務所を病院代わりに使ったり、同僚に金を借りたまま逃げたり、朝から開店前のパチンコ屋に並んだり、パキシルを飲んではしゃいだり、FXで大損ぶっこいたり、地下カジノでバイトしたり、カントーレンとドラゴンにいじめられたり、やくざの組長の娘と外国に駆け落ちしたり、やくざに拉致されたり、15歳で子供を作ったり、ゲイの愛人になったり、社員全員が前科もちの会社で働いていて社長が覚せい剤で逮捕されて会社がつぶれたり、怪しげな治験で金を稼いだりするので、私が見聞きした話と比べたらこの小説はフィクションのくせにずいぶんぬるい世界だなと思ってしまって、派遣のコールセンターがどうのこうの安月給だの友達も恋人もいないだの人生の意味が知りたいだのという自称底辺自慢の坊ちゃんの愚痴に興ざめしてしまう。小説よりも現実のほうが面白いのでは、わざわざお金をだしてつまらない小説を読む理由はない。★★☆☆☆【新品】【本】ポケットの中のレワニワ 伊井直行/〔著〕
2016.08.17
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ゲーム、アニメ、漫画、オカルト、現代アート、やおい、変態等についてのゼミでの講義録。1996-97年に講義したのを97年に単行本にして、2008年に文庫にしたらしい。●オタクの定義ファンは対象が好きでたまらなくて好きなモノの悪口を言われるのが勘弁ならない。マニアは対象そのものよりもそれに対する研究や収集にのめり込んでいく。オタクは対象と自分との関係を振り返って、一方的に愛情を注いだり闇雲にデータを集めたりするだけでなく、それが自分にとってどういうものなのかを考えて再配列して、なぜそれが自分にとってすばらしいのかを自分の言葉で語る知性が要求される。●感想ガイナックスでアニメやゲームを作った創作の裏側を明かしていて、ナウシカでゴムを使って王蟲の動きを表現していたとか、アメコミの創作は下書き担当やペン入れ担当に分業化していて日本とは違うとか、漫画の翻訳出版のプロセスとか、アメリカの超能力者に喧嘩を吹っかけたマジシャンのジェイムズ・ランディーの活躍とか、薀蓄としてはそれなりに面白い。しかしゲームやアニメや漫画はそのテーマで一冊の本になるようなジャンルなだけに、一章だけでちょろっと説明するだけで情報が包括的でないのはよくない。固有名詞がばんばん出てくるのに注釈が少なく、サブカルの知識があるのを前提にしているのもよくない。鉄オタやドルオタ等についての言及がまったくないのもよくない。東大の講義というからちゃんとした内容かと思ったら、オタク講師とオタク学生が内輪のオタクネタで盛り上がってるというのもよくない。後半はゲストとの対談ばかりで、ゴミ漁りとか核武装とかゴーマニズム宣言とかオタクとたいして関係なさそうなトピックなのもよくない。第十二講で唐沢俊一と変態について対談しているのに、自身が愛人をとっかえひっかえしていた変態性には言及しないのもよくない。1996-97年の講義録なのに文庫の表紙が痩せた後の著者の写真になっているので、新しい内容なんじゃないかと誤解させるような表紙になっているのはよくない。裏表紙には1996-97年の講義だと書いてあるけれど、ネット書店だとたいてい表紙しか載せていないのでネットで買う人は情報が古い点に注意したほうがよい。結局は著者の人間性に問題があるのがよくないのだろう。★★★☆☆【中古】 東大オタク学講座 講談社文庫/岡田斗司夫【著】 【中古】afb
2016.08.10
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経済小説のモデルとなった企業や事件を解説した本。第一章 経済小説はなぜ読まれるのか高度経済成長がかげりを見せて中高年サラリーマンの受難が始まった1977年頃から経済小説人気が高まり、文学青年でなく怨恨をためたビジネスマンが作家になった。経済小説作家は取材に苦労している。第二章 最近の経済小説1990年代に人気だった経済小説についての解説。第三章 テーマ・業種別読書案内各業種を題材にした経済小説のモデル解説。第四章 経済小説のモデルたち経済小説のモデルになった人物や作者への取材。第五章 五人の経済小説家経済小説の作家を「日向派(普遍派)」、「暗部派」、「怨念派」の3タイプに分類して、男のロマンを描く城山三郎、魅力ある悪人を描く山崎豊子と盗用事件、企業内幕小説のパイオニアの清水一行、童話作家になりたかった高杉良、金融の世界を描く幸田真音について論じる。●感想今ではネットで会社の内情が暴露されて愚痴から告発まであちこちの掲示板に書き散らされるけれど、ネットがない時代を生きてなおかつ終身雇用で一つの会社しか知らない中高年だからこそ経済小説という形で自分が勤めている会社や上司に対しての積年の愚痴を小説として昇華して、それが中高年サラリーマン読者の興味を引いたのだろう。そして銀行やら商社やらの有名企業をモデルにして問題点を告発するような経済小説がヒットして、モデル企業を取材して小説にするスタイルの経済小説家が出現したのだろう。『小説経団連』とか『小説円投機』とか、小説○○というなんのひねりもないダサいタイトルが多いのはよくわからない。当時はそういう安直なタイトルが流行ったということなんだろうか。「小説では、やはり人間を善悪いずれかに類型化せざるをえないからだろうが、「経済小説」を読む場合には、モデルを“突き止め”た上で、それから離れて読むことが必要だろう。そうしないと、劇作家の菊田一夫との対談で、当の山崎豊子が言っている、「日本人は小説を(小説として)読む訓練がいちばん足りませんね」というセリフを繰り返させることになる」(p25)と言っているあたりはおかしい。佐高信は文芸評論家ではないのでニュークリティシズムや構造主義は知らないのかもしれないけれど、この辺は文学好きな人からすれば何をいまさら言っているんだという感じで、小説として読むならモデルを突き止める必要さえなく、現実と同じ固有名詞を使っていようが現実とは別の可能世界での出来事としてとらえればよい。しかし佐高はあの小説のモデルはあの事件だとモデルの解説をし始めて小説単体として批評しておらず、モデルから離れて読むという自分で言っていることを実践できていない。そもそも経済小説はモデルを突き止めないといけないという理由が不明で、モデルが誰それで云々というのは経済小説の批評ではなく、経済小説を通じて現実を批評しているにすぎない。というわけで文学論としては特に面白い点はないものの、経済小説のモデルを解説した読書ガイドとしてみれば、何か面白そうな経済小説を探しているという人にはそれなりに役に立つかもしれない。さて経済小説というとエンタメ小説扱いされて文学批評の対象にならなくて、文学部では扱わない。博報堂の小説の消費行動調査によると経済小説が好きなのはほとんど中高年男性で、文学部で経済小説で卒論を書こうという学生がいないのもそのせいなんだろうか。佐高信が悪い例を示したように大抵はモデルの企業の話になって、経済小説そのもののテーマだとか技巧だとかプロットだとかの話にならないし、経済小説論みたいなものをググっても見つからない。経済小説だと社会経験が乏しい純文学作家が扱わないテーマを書いているので私は興味があるので、いつか暇と金があれば自分で経済小説の研究をしようかと思うけれど暇と金がないので困ったなう。★★★☆☆【中古】 経済小説の読み方 増補版 現代教養文庫/佐高信(著者) 【中古】afb
2016.08.04
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