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王に命を狙われている状況下で水軍を指揮して戦死した李舜臣の苦悩を書いた物語。●あらすじ慶長の役の際に李舜臣は三道水軍統制使だったものの、加藤清正の首を狙う朝廷の無謀な命令に従わなかったので投獄されて拷問され、代わりに部下が指揮した水軍は壊滅して、出獄して一兵卒として従軍していると、再び水軍統制使になるように王から指令が来る。王は強い将帥を恐れて謀殺し、兵士や百姓は賄賂で不正したり逃亡したりする中、李舜臣は残った12隻で敵将来島の300隻を迎撃し、来島の相手をさせられた娼婦の死体を見つけると、それはかつて李舜臣の相手をした女真だった。王に戦果を報告すると、王は李舜臣が脱走兵を匿って謀反の兵を育てていると疑い、免死帖を寄こしただけだった。来島を殺したことで李舜臣の家族が狙われ、三男が戦死する。しばらく敵襲がなかったので船を建造して態勢を立て直すものの、李舜臣は王と敵の両方に命を狙われて死について考え、捕虜の安部を殺すのをためらう。明の軍隊が派兵されるものの積極的に戦うわけでもなくて役に立たず、先王の陵墓が敵に盗掘されてもどうにもならずソウルを捨てて逃げ、明皇帝から自力で対処しろと言われて王は泣く。敵が捕まえた百姓を最前線に配置して迫ってくるのを防戦していると、明と日本の講和が進んでいるという噂が耳に入り、明軍から朝廷を差し置いて部隊を解散して故郷に帰るように指示する手紙が来たので、李舜臣は徹底抗戦の返事を書いて、王に殺されるより敵と戦って死ぬことを選ぶ。秀吉が死んで敵が撤退を始め、明軍の指揮官は小西行長から首を2千個もらう代わりに敵船を見逃してやり、李舜臣は死に場所を求めて敵が撤退してしまう前に戦いを挑んで戦死する。●感想李舜臣の一人称の回想形式で、6-10ページごとに細かく章立てしている構成。歴史小説で一人称をやるのはチャレンジだけれど、著者は李舜臣が好きで構想30年の末にこの小説を書いたそうで、李舜臣の内面を書きたくてあえて一人称にしたのだろう。戦場の死体の臭いや音などを描写して五感に訴える点は一人称ならではの特徴が出ている。しかし中盤の「乳臭さ」の章では自分がその場にいなかった出来事も目撃したかのように書いていて、一人称の視点が徹底されていない。さらには最後に語り手が死んでしまうとナラトロジーとしては矛盾した語りの形式になり、いつ、誰に対して、なぜ語っているのかという説明がつかなくなる悪手。いくら一人称にして人物像にリアリティを出そうとしても語りの形式の矛盾でリアリティがなくなっては結局意味がないので、ナラトロジーの始末ができないなら一人称にするべきでなかった。李舜臣の人物像も矛盾していて、冒頭では無謀な作戦で部下を無駄死にさせたくないと朝廷の命令に背いて現場の判断を優先した指揮官ぶりだったのに、終盤では部下を一切省みずに講和する予定で撤退する敵を相手に無意味な戦いを仕掛けて部下を道連れにしている。李舜臣は理想の戦死ができて満足しながら死んでいったけれど、自分の死に方にだけ関心を持って部下の身の振り方や国家や国民のの行く末については考えないというのはもはや指揮官の器ではなくなっている。李舜臣が孤立して苦悩して死に場所を求めたはずだという結論ありきで作者が書きたい人物像に当てはまるように人物像をゆがめていったような不自然さを感じてしまい、作者の妄想を読んでいると意識してしまうと物語世界に没入できなくなって興ざめする。プロットとしては前半に出てきた娼婦の女真がその後の伏線になるわけでもなく、李舜臣と女真の濡れ場も脱線気味。なんでわざわざそんな脱線したのかと勘ぐると、日本人が朝鮮人の女を手篭めにしたということを強調したかったのかもしれない。悪役としての日本人を強調することで韓国人読者のウケ狙いを優先して物語としての完成度を犠牲にした感じ。2001年に韓国最高の文学賞である東仁文学賞を受賞して、ノムヒョンが愛読して話題になって50万部のベストセラーになったそうだけれど、風景描写などの短い文章は良くかけていても構成に難があって、長編小説として出来がよいわけでもない。この作者は長編より中短編のほうが向いてるんじゃなかろうか。★★★☆☆【中古】 孤将 /金薫(著者),蓮池薫(訳者) 【中古】afb
2016.12.30
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安土桃山時代の24人の戦国武将に焦点を当てて盛衰を書いた話。1989年刊行の本の文庫化だけれど、特に古さは感じない内容。一人につき20ページ程度だけれど、全体で523ページあるのでけっこう読み応えがある。歴史の教科書で史実をつらつら書かれているだけだとつまらないけれど、松永秀久は破滅型だとか朝倉義景は女好きだとか、各武将の人間性を知ると歴史が面白くなる。文章自体は淡々としているものの、家臣や兄弟が跡目を争ったり、駄目な主君に愛想を付かして裏切ったりといった波乱万丈な内容なので、物語として面白く読める。その反面、作者の推測まじりの人物像で、年表や索引もなく、伝記としては信憑性は乏しい。地名や役職とかの用語の説明はせず、脚注もなく、すべての武将の名前にふりがながあるわけでもなく、読者にある程度予備知識があることが前提で書かれた本になっているので、その点は不親切。黒田孝高、直江兼継、伊達政宗などの人気武将も取り上げているので、武将とか戦国時代を舞台にしたゲームとかが好きな人はそのままで面白く読めるだろうけれど、そうでない人は日本史をおさらいして主要人物の人間関係を整理しておいたり、資料を参照しながら読むほうがよいかもしれない。というわけで山川出版社の『詳説日本史図録』を参照しながら読んだのだけれど、これはどの地方をどの武将が支配していたのかという図が載っていてわかりやすくて便利なうえに、値段も手ごろなので日本史の資料を探している人にお勧め。★★★☆☆武家盛衰記新装版 [ 南条範夫 ]山川詳説日本史図録第7版 [ 詳説日本史図録編集委員会 ]
2016.12.22
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文学や批評についてのエッセイ集。●面白かったところ1 善悪二元論の限界あらゆるものに利と毒が両方あり、文学を読めば感性が豊かになると言われているけれど文学にも固有の毒があり、毒が回って世間的に役に立たない人になることもあるし、自分の毒に責任をもつべき。2 批評眼について読んだ全部の人が「俺だけにしかわからない」と感じる文学には普遍性があり、読者に感じさせるのが一流の作家で、時代を同じくした人間にはわかるだろうという印象が響くのはややいい作家で、初めから人を喜ばせよう、感心させよう、共感させようと思って書いていると感じる作家はだめ。ものを書く人は他人から何かを言われることは覚悟の上だと考えるのが普通で、自分にとって大切なものだと思っているうちは他人見せずに、距離を置いて見ることができるようになってから公表したほうがいい。3 本物と贋物川端や谷崎の時代の昔の作家は文学的な成熟とともに生活人としての成熟を待ってくれる世相があったのでそのときのレベルにおいて文学的な感覚と人間性が一致した作品を生み出すことが可能だったので大家の風格を身に着けたものの、今の時代は頭が切れて感覚が優れている作家に対して人間的な成熟を待ってくれないため、今の作家は人間的に成熟することができず、生涯少しずつ進歩していくという時間のかけ方をしながら人生を送る人がいなくなった。将来作家になりたいから出版社に入りたいという人がいるけれど、編集者は近いようで一番遠いところにある職業で、編集者には編集者の毒があって安原顯みたいに目高・手低になって自分の技量との落差に気づかなくなる。4 生き方は顔に出る外見を気にするのは人間が持っている動物性の名残で、老人は若くみえる工夫をしたほうがよい。育ちの悪さは母親や母親代理による乳児のときからの扱い方で決まる。5 才能とコンプレックス人の気づかないところに気づいてそれを描写することが自分にとっても慰めになり、それを書くことによって一時的でも開放的になって読者に同じ開放感を与えられたらいいなと考えて作品を一生懸命書く人というのは子供のときにあまり幸福ではなかった人が多い。6 今の見方、未来の見方戦争の当事者は両方が正義を主張するけれど、一方に正当性が合って一方に正統性がないということはなく、戦争に正義はなくすべて悪。●感想文学の話だけでなく、ホリエモンやミラーマンや政治家やスポーツの時事批評や仏教の話や少年期の母親の愛情が云々といった各章のテーマに合っていない脱線が多く、雑談感覚の軽いエッセイ集という感じ。文学に詳しい人には物足りない内容だけれど、これから小説や批評を書くつもりの人には心構えとしては参考になるところもあるかもしれない。3章の生涯少しずつ進歩していくという時間のかけ方をしながら人生を送る人がいなくなったというのはその通りで、時代の流れが速すぎてコツコツやる人は損をするようになり、YouTuberにしろITベンチャーにしろ時流に乗った稼ぎ方で若いうちに手際よく目立つことをやってちゃっちゃと稼ぐという生き方になっている。小説家だけでなく、経済界にも渋沢栄一みたいな倫理感と実績を伴って老成する大家あるいは偉人と呼べる人がいなくなって、ブラック企業の成金が政治に口をだして国家や国民を私物化しようとする有様。西郷隆盛は「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」と言っていたけれど、資本主義社会では功績を出した人が禄と地位を独り占めしてしまって、徳がある人の出番がなくなってしまい、コンプライアンス違反を指摘しようものなら閑職に追いやられる始末である。ソフトバンク孫やユニクロ柳井やワタミ渡辺やパソナ竹中やSBI北尾がいくら功績をあげた金持ちだからといって、彼らが国家の運営をするようになったら日本はモラルのない国になってしまって、外国人労働者の増加と共にテロも頻発するようになるんじゃなかろうか。93ページでは天皇は最初に国家ができたときに神道の頂点に立つ神主で、天皇を政治的な立場からはずしても縁日で金魚すくいをやって神道の名残が残るように天皇の名残も残ると言っているけれど、私は別の理由で天皇は残ると思う。というのも天皇は地位と徳を両立しうる存在だからで、もし天皇が国家の象徴として徳を体現しなければ、政治家や企業家に徳がなく、仏教も生臭坊主が多いので国家の求心力がなくなる。神道は宗教としては規則がゆるいので、イスラム教みたいに規則でがちがちに固めて自由を制限するわけでもなく、葬式仏教ほど金に汚いわけでもなく、ふんわりと国民をまとめることができる便利な宗教である。昭和初期に政治が腐敗して首相を暗殺した五・一五事件が起きたり天皇親政を目指した二・二六事件が起きたように、神道の最高権力者である天皇の徳は国家の求心力になるけれど、金や地位は求心力にならないどころか腐敗の原因になる。社会が腐敗して混乱したときにどこに国家の求心力を求めるかといえば、国家の起源である神道と天皇にいきつくだろう。しかし天皇が欲を出して政治に口を出して民主主義を否定したり私腹を肥やしたりして徳に外れる行いをすれば、当然ながら不適格な存在となりうる。タイではしばしばクーデターが起きても故プミポン国王への国民の信頼は一貫していたけれど、次の国王になる息子は豪遊していたとかであまり信頼されていないらしい。天皇にしろ王族にしろ、地位を約束されている立場の人は地位にふさわしい徳を身に着けなければならない。「いまの日本国は何をやっても最低に近い」(P245)「時代の発達のスピードが速すぎて、もはや、武士道や男気で何とかするというやり方では間に合わないほど、現状が進んでしまったからなのです」「道徳を復活させるというのは、単なる懐古的な考え方にすぎなくて、それでは到底間に合いません」(P248)と著者は道徳を放棄するような悲観的なことを言っているけれど、私は道徳を懐古的とは思わない。著者が言う戦前の武士道や男気みたいな道徳が唯一の道徳ではなく、現代は昔とは違う道徳がある。携帯電話からスマホに移行してコモディディ化しても次世代の製品はなくappleは代わり映えしないiPhoneをモデルチェンジするだけになり、CPUの性能も頭打ちになって、科学の進化のスピードはどんどん遅くなっている。戦前生まれのアナログおじいちゃんから見れば時代の発達のスピードが速すぎるように見えるのだろうけれど、すでにコンピューターがある時代に育った人にとっては時代の発達スピードが早いどころか失われた20年の間ずっと停滞しているようにさえ見える。そして観光に来る外国人が期待するのは日本人の古来の道徳で、落し物をしても盗まれずに戻ってくるとか、ごみのポイ捨てがなくて道路がきれいだとか、奈良公園のシカさえ礼儀正しくお辞儀するとか、外国人の視点から見れば日本は何をやっても最低というわけではなく、庶民の道徳観念と平和ボケ具合については世界でもぬきんでている。政界や経済界のトップの道徳は資本主義のなかで腐敗しても、庶民に根付いた道徳観がいまだに日本という国の価値を支えているのだ。日本の問題は道徳がある人がつくべき地位についていないことで、「道徳を復活させる」のではなく、非道徳な人たちが要職につかないように、政治家の贈収賄や利益誘導やブラック企業の労働基準法違反を取り締まることがまず必要だろう。悪人の取り締まりは時代の発達のスピードとは関係ない話である。★★★☆☆真贋 [ 吉本隆明 ]
2016.12.13
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このブログは主に文学について書いているブログだけれど、なぜ私がキュレーションサイトの問題を取り上げるのかというと、このままキュレーションサイトがのさばるようでは文学を含めたコンテンツが全般的にだめになっていくのではないかと懸念しているので、キュレーションサイトのどこが問題なのかを考えることにしたのである。●キュレーションサイトとは何かキュレーションサイトというのは博物館のキュレーターが展示物を整理するがごとく情報を整理して提供するサイトで、カタカナのおしゃれな言い方をしているけれど要するに情報のまとめサイトである。サイトの信用度を比較すると、・信用できるサイト:実名の専門家による記事、出典が明らかなオンライン百科事典・それなりに信用できるサイト:コンテンツアグリゲーター、口コミサイト、wiki・あまり信用できないサイト:キュレーションサイト、匿名の個人ブログ・信用できないサイト:2chまとめアフィブログ、匿名Q&A、匿名掲示板という順番だと個人的には思っている。キュレーションサイトは企業が運営しているものの、実質的には匿名のライターが記事を書いていて監修者や編集責任者がいない場合が多いので、匿名の個人ブログと大差ない。じゃあ個人ブログと大差ないような信頼度が低いサイトがどうして検索結果の上位に表示されるのかというとSEOのからくりがある。2000年代は相互リンクやキーワード詰め込みのブラックハットSEOを駆使したサイトが検索結果の上位に来ていたけれど、2010年代はグーグルのパンダアップデートやペンギンアップデートで旧来の低品質サイトが駆逐されて、代わりに台頭してきたのがキュレーションサイトである。グーグルの検索アルゴリズムがどうなっているのかは私はわからないものの、記事を丸ごとコピペするのは付加価値のない内容としてペナルティを受けるのに対して、複数の記事からちょっとづつコピペしても「まとめ」という形になっていればペナルティを受けないらしい。それにウェブの情報や画像のコピペなら剽窃か否かを判断しやすいけれど、本や雑誌などのウェブに公開されていない媒体から剽窃されてしまうと、第三者には剽窃かオリジナルかの判断はつかなくなる。というわけで今の検索アルゴリズムだと文章や写真が著作権侵害や剽窃なのかをうまく判断できないようで、人間なら直感的に黒だなと思うような内容でもペナルティを受けないようである。キュレーションサイトはそうやってSEOを優先して、検索エンジンに情報量が多くて価値がある内容だと誤解させた結果として検索結果の上位に表示されるようになったというだけで、検索結果の上位に表示されるからといって必ずしも信頼性が高い人気のメディアだというわけではない。私はキュレーションサイトは著作権侵害を平気でやってページビューと広告収入を増やすやり方はブラックハットSEOと同類のモラル違反だと思っている。しかしDeNAや他のIT企業は楽してページビューを増やして広告費用を稼げるビジネスとしてキュレーションサイトに目をつけたわけだ。そこで起きたのがDeNAが運営するWELQが信頼性が低い医療記事を掲載してサイトを非公開にした問題で、これは単に不正確な医療記事を提供したという些細な問題ではなく、大手上場企業が大規模なコンテンツ窃盗団を組織して成長事業扱いしていたという今後の日本のウェブ産業やコンテンツ産業に影響を与える大事件である。以下にTHE PAGEのDeNAの謝罪会見の動画を張っておく。3時間くらいあるけれど、ウェブ業界に興味ある人やDeNAが嫌いな人には面白く見れる。ただし村田マリがいないので、村田マリを連れてきてからもう一回記者会見をやるべきだと思う。●キュレーションサイトの問題点・著作権の問題キュレーションサイトというのは名ばかりで、キュレーターと呼べるような専門家が編集しておらず、匿名の記者がソースも出さずに記事を書いているというのがそもそもの問題である。フリーランスの仕事発注サイトとかに1記事あたり数百円で記事を書く依頼がでていて、そこで仕事を請け負った有象無象の人たちが専門知識もないまま他のサイトから集めてきた情報をまとめているわけである。まとめ方にしても引用箇所を明らかにしてソースを明記するならまだましなほうで、てにをはや言い回しを変えてあたかも独自記事のように剽窃する場合がある。DeNAの記者会見のビデオの16-17分ごろで元の記事と同一にならないように作成するマニュアルがあると言っていたけれど、それこそ悪質な剽窃の指示で、グーグルからペナルティを受けないためのSEO目的でコピペがばれないようにわざわざ改変するわけである。専門知識を身につけるのには金と時間がかかるし、独自の記事を書くのにも時間がかかる。その手間と費用を惜しんで手っ取り早く儲けるための手段が剽窃、著作権侵害なのである。DeNAや他の企業がキュレーションサイトをいったん非公開にしたのはよく言えば健全化のために対応したといえるし、悪く言えば著作権侵害の証拠固めをされて訴訟を起こされる前に閲覧できなくして逃げたとも言える。DeNAは問い合わせ窓口を設けると言っているけれど、閲覧できなければ剽窃された記事を確認できないではないか。・検索結果汚染の問題ウェブ上のどこかからかき集めた情報をひとつの記事にまとめるだけでは、その記事はたいして付加価値を提供しない。観光情報、医療情報、○○市のラーメン屋など、何かの情報を検索するたびにSEOに強いキュレーションサイトがづらづら検索結果の上位に表示される事態になっているけれど、別の記事から集めた情報に過ぎないので、情報源の多様化につながっていない。たとえばFind Travelの○○市のおすすめラーメン20選とかの記事はライターが自分で食べ歩きしたわけでもなく、ラーメンデータベースや食べログなどからユーザーレビューをぱくっておすすめしているという具合。グーグルの検索アルゴリズムだと10選とか20選とかの数が増えるほど選択肢や情報量が多いと判断しているようで、最終的にキュレーションサイトの○○市の△△のおすすめ××選情報は食べログとかで評判がいいランキング上位をそのまま転載しているような形に近づいていき、情報を選別するというキュレーションサイトの本来の目的から逸脱して情報を垂れ流すようになる。おすすめ観光地やおすすめ飲食店とかの情報にしても、現地住民と旅行者の感想は違うし、性別や年齢によっても感想が違うし、値段やサービスや雰囲気や味や待ち時間や駐車場の有無や駅からの距離など、何を基準にしておすすめしているかという多様性が大事である。SEOを重視してランキング形式で大勢の人に役立つものをごっちゃにして列挙するサイトばかりになってしまうとかえって情報の多様性がなくなってしまい、情報としての価値がなくなる。・運営責任の問題たいていのキュレーションサイトは情報の正確性は保証しませんとかの言い逃れの文言をサイトに載せているけれど、そもそも責任を取りたくないなら責任が発生する行為をやるなという話である。観光地の名前がちょっと間違っている程度ならたいした問題にならないけれど、法律や医療の情報が間違っているのは実害が出かねない大問題である。グーグルのガイドラインではYour Money Your Lifeに関するページで専門性がない場合はペナルティを与えているけれど、事業責任者の村田マリがそれを知らないはずがない。ユーザーに被害がでかねないことを承知の上で金儲け優先で運営していて、運営者の責任でなく記事を書いたライターの責任だと責任逃れしているから悪質なのである。DeNAが運営するWELQは間違った医療情報を載せていることを批判されてサイトを非公開にすることになったけれど、そもそもユーザーに役立つコンテンツを提供しようという意思がなく、手っ取り早く儲けるために低賃金ライターにぱくらせてコンテンツを充実させようという設計思想からして間違っているので、遅かれ早かれサイト運営は行き詰っていただろう。社会にとって有害なもので利益を出すことを目指してはいけない。DeNAが複数のキュレーションサイトを非公開にしたのをきっかけにして他の企業のキュレーションサイトも慌てて記事の見直しをし始めたようだけれど、いまさら健全化を目指しているふりをしてもサイトの信頼回復にはつながらない。ただでさえIT企業はグレーゾーンのうさんくさい虚業で稼いでいてベンチャーの買収やマザーズ上場がやくざのマネーロンダリングに使われているというマイナスイメージがあるのに、反社会的な企業倫理が改善するとは誰も期待していないだろう。DeNAは第三者委員会に企業倫理の問題点を調査させると言っているけれど、成長事業扱いしていた事業が問題だらけだったという自覚がない時点で企業としてはもうだめだろう。それに責任者の村田マリが記者会見から逃げているのに、反省して健全化するといってもまったく説得力がない。コンプガチャにしろ、キュレーションサイトにしろ、DeNAは問題が出るたびに反省する姿勢は見せるけれど、腐った木に彫刻はできないという孔子の格言が当てはまる例である。●コンテンツの価値の低下の危機キュレーションサイトは情報を人寄せの撒き餌として使い、ページビューを増やして広告で稼ぐというビジネスモデルで、人が集まりさえすれば撒き餌は味噌でも糞でもかまわないわけである。しかしその情報に本当に価値があるのかというと、大勢の人がたいして価値のない情報に誘導されて無駄な時間を費やしている一方で、価値のある情報からは遠ざかっていることになる。たとえば医療情報ならNTTタウンページが運営するメディカルタウンでは医師が直接記事を執筆していてそれなりに信用できる情報源だけれど、WELQがSEOに強いがゆえに検索結果の上位に表示されるとメディカルタウンの記事は検索に表示されにくくなってしまう。低品質なコンテンツがあふれるようになると、悪貨が良貨を駆逐するように価値のあるコンテンツが手に入りにくくなる。仕事の無駄をはぶいて効率化していくと、最小限の労力で最大限儲ける手段として他人の成果を奪うようになる。猫は海に潜って魚を取るより釣り人から魚を盗むほうが楽だし、正社員は自分で作業するよりも派遣社員に仕事を丸投げして成果を横取りするほうが楽だし、IT企業は一から仕事を立ち上げるよりもベンチャー企業を買収してコンテンツを盗んでページビューを稼ぐほうが楽なのである。しかし剽窃や著作権侵害で生み出されたコンテンツがいくら増えようが、コンテンツが劣化していってコンテンツビジネスの衰退を招くことになる。剽窃はいつの時代もあるけれど、コンテンツがデジタル化して剽窃が容易になったせいかどんどんコンテンツの中身がなくなりつつある。情報サイトはキュレーションサイトやまとめサイトだらけで一次ソースを探すのさえ難しくなり、音楽はPVやらジャケット写真やらで洋楽をパクっているし、デザイン業界は佐野研二郎のパクリ問題が起きたし、漫画業界はしょっちゅうトレースパクリが起きているし、ライトノベルはパクリがパクられて猫も杓子も転生ハーレムになっている。一昔前は個々人が独特のホームページを持っていてサイトのデザインに個性があったけれど、今ではホームページもブログもテンプレート化していて、見やすい反面デザインの面白さはない。そんなこんなでどこかで見たコンテンツやら大手メディアが資金にものを言わせてごり押しするコンテンツやらがあふれて、ユニークで面白いと思えるようなコンテンツはなかなか見つけられなくなってしまった。さて小説はどうなのかというと、又吉や押切もえの未熟な作品が話題優先で賞レースごり押しされているものの少なくともパクリではないようなので他の分野に比べたらまだましかもしれない。剽窃は儲かるからこそやるわけで、地方文学賞や新人賞レベルだと数十万円程度の賞金目当てに剽窃する人がいるようだけれど、そもそも斜陽産業である文学で剽窃をしたところで儲けはたかが知れているので剽窃する価値もないともいえる。●資本主義の終わりと芸術の可能性資本主義社会だと人生のあらゆる行為を金儲けに結び付けないといけないと誤解しているひとがいるようで、金にならないことをしていると馬鹿にされることさえある。しかし芸術の目的は金儲けではない。真善美といった金以外の価値の追求が芸術なので、芸術家も生計を立てるために金は必要なものの、金儲けを目的として芸術が創作されると品質が劣化してしまうし、うまくパクるほうが儲かるなら金と時間をかけて苦労して独自コンテンツを作ろうとする人がいなくなってしまう。ゆとり世代が大学生の頃にはレポートや論文がウィキペディアからのコピペだらけになってコピペをチェックするソフトさえ導入されたようだけれど、キュレーションサイトの場合は大手IT企業がライターに金を払って、大量に記事を用意するためにコピペを推奨するようにさえなってしまった。この不景気の時代に儲からない独自記事を一生懸命書くより、手軽に儲かるまとめ記事が流行るのはしょうがないけれど、記事を読む読者にとって役に立たず、書いたライター本人にさえ役に立たない記事なら、それは金をもらってもやる価値のない仕事である。楽して儲かるけれどやる価値のない仕事を断るどころか、うまく儲けようというモラルのない人が多いからこそWELQのような悪質なキュレーションサイトが台頭してきたわけだ。このような楽してずるして稼ぐ姿勢はキュレーションサイトだけの問題ではなく、東証一部上場企業でさえ倫理観がなく、東芝の不適切チャレンジ会計のように帳簿上で儲かれば仕事の中身はどうでもよいという社会になりつつある。経営者に金儲け以外の価値観を持つほどのモラルも教養もないなら、その下で働く従業員が経営者よりモラルがあるはずもない。格差問題が深刻化して資本主義社会は終わると言われているけれど、私にはビジネスパーソンのモラルのなさが資本主義の終わりの一端だと思う。資本主義社会では資本家が社会を動かすけれど、資本家にモラルがなければ社会が混乱することになる。一生懸命働いて金を稼げば生活が豊かになって幸せになれるよというのが資本主義の建前だけれど、金を稼ぐために倫理を捨てた人生を豊かな人生と呼べるだろうか。現代の芸術も方向性がなくなって行き詰っているけれど、中身のないコンテンツがあふれる金儲け優先の社会だからこそ、その反動として金に左右されない本物の芸術や教養の価値が見直されることもあるんじゃないかと私は思う。生きるためには金が必要だが、金儲けだけが生きる理由ではない。芸術は何を考えてどう生きるべきかという価値観の形成に役に立つだろうし、モラルがない社会だからこそ、思想や倫理に直結する文学が存在意義を示すべきだろう。今文学が力を発揮できないならいつ発揮するというのだというくらい今回のDeNAのキュレーションサイト事件は文学や出版業界にとって追い風なので、無料で低品質なウェブの情報と違って、金を出してでも買う価値のある魅力ある本を出版するように作家や編集者にはがんばってほしいものである。
2016.12.08
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1994年頃に発表した原稿をまとめた本。「わが転向」は学生運動をする左翼を理解できたけれど考えが違うと思っていて、1972年に日本社会の大転換が起きて旧来の左翼が成り立たなくなって自分の考えと乖離していったので、左翼から右翼へ転向したわけではなく自分を「新・新左翼」と定義したという話。「日本における革命の可能性」は二次産業は経済全体の3割に過ぎず、個人消費が国民所得の6、7割なのだから、景気回復の指標は設備投資より個人消費の増減に求めるべきで、経済は個人消費に支えられているのだからみんなで無駄遣いをやめれば政府をリコールして革命が起きる可能性があるよという話。「都市から文明の未来をさぐる」は東京の都市論と出身地の月島の話。「時代という現場」はグルメ番組、死刑、ごみ当番、ファッションショー、村上春樹、核兵器などについて書いた4ページ程度のエッセイ集。●感想現代社会はどうたらこうたらだからこうすべきだという類の本は出版してから何年かたってから読むとその人が時代をよく考察していたかどうかがよくわかるので、古い本を読むほうがかえって突っ込みどころが多くてある意味面白い。「日本における革命の可能性」で第三次産業を公共投資のメインターゲットにするべきだといっているけれど、「たとえば百貨店業界に、国家が無償で一千億円を貸与する。一千億円の配分は、百貨店協会の役員と政府責任者の合議に委ねればいい。デパートはそのお金で、仕入れに工夫を凝らしたり、売り場を改装したり、従業員の給与を増やしたりする。」(p37)というところは見通しが甘い。偉い人に大金を委ねて使い道を考えてもらおうなんていう性善説的な考え方は泥棒に追い銭をやるのを推奨するようなもんで、左翼とは思えないほど政府や資本家を信用しすぎているように見えるし、自分の懐が痛むわけじゃないから無償で一千億円を貸与だのという無責任なことが言えるのだろう。今では日銀の黒田総裁がいくら金融緩和をしようがトリクルダウンが起きず、偉い人の役員報酬と企業の内部留保は増えても従業員の給与は増えず景気も良くならないと実証されてしまったし、リーマンショックやら東日本大震災やらで中流階級が振り落とされていってもはや日本人は総中流でさえなくなり、労働集約型の三次産業は労働者を使い捨てにする長時間労働低賃金の惨事産業になってしまった。二次産業に公共投資するか三次産業に公共投資するかの問題ではなく、どの産業に投資するにせよ資本家に中抜きされてしまっては個人消費は増えないので景気刺激策としては意味がないのである。それに著者が言うように三次産業に投資したところで研究開発がされるわけでもないので長期的な経済発展にはつながらないし、デパートの仕入れに工夫を凝らすにしても、設備投資と技術開発がなければ独自の商品は仕入れられない。たとえばニットだと島精機製作所の機械でニットを立体的に編むホールガーメントが高級ブランドに採用されて好調だけれど、島精機製作所は二次産業である。第三次産業に投資すれば個人消費が増えるというのは短絡的な考え方に見える。吉本隆明って昔流行したらしくて帯に「思想界の巨人による、率直無比な自己表明」と書いてあるけれど、経済に関しては素人の私でもこれじゃだめだろうと思うような論旨を展開していて、こんな程度で思想界の巨人扱いされていたのかとびっくりした。思想界の巨人がこの程度の思想しかなかったんなら社会がよくなるわけないではないか。もう死んだ人に文句を言ってもしょうがないのだけれど、発言力がある立場の人が晩年に手を抜いた仕事をしていたというのは残念。★★★☆☆【中古】 わが「転向」 文春文庫/吉本隆明(著者) 【中古】afb
2016.12.05
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ぼくがテレビを見ないことにする話。●あらすじ古文書学者のぼくは妻子がバカンスに行っている間、ベルリンで奨学金をもらいながらティツィアーノとカルル五世の研究をしていて、アパートの上の階のドレッシャー夫妻から旅行中の植物の水遣りを頼まれるものの水遣りを忘れ、テレビを見ないと決心して、論文を書き始めて、妻に電話してテレビ見ない自慢をしたら妻も見てないといわれ、友人のジョンにテレビ見てない自慢をしたらジョンはテレビを持ってなくて、暑さで植物を枯らしてしまってシダを冷蔵庫に突っ込んでテレビを見ると論文を書く気をなくしてしまう。ドレッシャー夫妻がバカンスから帰ってきたので冷蔵庫のシダを発見されないようになんとかごまかす。数週間してジョンの彼女のウルズラが飛行機に乗せてくれるというので家に行くもののウルズラが寝ていたのでテレビを見て待ち、ウルズラが起きたので空港に行って飛行機に乗る。次の週に美術館に行き、帰りにプールに寄って奨学金をくれた財団の理事長のメヘリウスと偶然会うとテレビ番組を見たかと話を振られたので見てないという。9月に妻と子供がベルリンに戻ってきて、息子を幼稚園に送った後でショーウィンドーを見て小型ポータブルテレビを衝動買いしてしまうもののテレビの音で仕事に集中できなくなり、テレビを見ていた妻が上の階のドレッシャーが討論番組に出ているのを見つける。●感想一昔前の一人称小説という感じで、なぜこの語り手はテレビや私生活について語るのかという語りの動機がなく、ナラトロジー上の整合性がついていない。さらには括弧で自分にツッコミを入れる小説的饒舌が鼻について、自分では面白いとうぬぼれているひねくれた人物の語りに延々とつき合わされるのはイライラする。内容としては文章量が多い割には中身がないようなどうでもいい日常生活を改行せずにつらつら書いて、隣人の植物を枯らしたり飛行機に乗ったりしたというだけでプロットが面白いわけでもなく、普通の小説ならば削られるような内容を200ページ程に引き伸ばしていて、小説というよりは長いデッサン。エッセイをデッサンのように書くのならまだわかるけれど、小説でこの内容をこのやり方で書くメリットはなく、プロットにもテーマにも関連しない無駄な場面が増えて冗長になるデメリットのほうが目に付く。ミュッセの『ティツィアーノの息子』が云々と研究内容を延々と語るくだりではミュッセが誰なのかということを読者に説明しないまま語るので退屈で読み飛ばしたくなるし、結局ミュッセはプロットに関係するわけでもない。それに現代人にとってはテレビという装置がもはや古いのでテーマ自体も面白くない。ユーモアが唯一の売りなんだろうけど、ユーモアを徹底し切れておらず、自分語りに夢中で他人の観察をしておらず、他人の反応をまたずに自分につっこんで自己満足でエピソードを終わらせてしまうので、シチュエーションコメディにもなっていない独りよがりになっている。訳者の野崎歓は「これはまさに新しいタイプの私小説、というよりいっそトゥーサン氏の生活と意見といった類の書物」で、「トゥーサンという作家の美質がもっとものびのびと表現された作品であり、いつ読み返しても思わず微笑みが洩れてしまうような、稀有な喜びに包まれた小説」と絶賛しているけれど、私にはまったく笑えなかったし、筒井康隆のテレビネタのスラップスティックSF小説のほうがこの小説よりもよっぽど面白い。保坂和志グループの作家が好きな人ならなんでもないようなことを書いた小説が幸せだったと思うのかもしれないけれど、私の日常には十分面白い出来事があるので、わざわざ金を払ってこの小説を読むほどの価値がない。帯と裏表紙にも傑作長編という悪質な誇大広告が書いてあったのでそのぶん評価を減らした。ちなみに1997年にベルギーでもっとも名誉ある文学賞であるルーセル賞を受賞したらしいけど、この程度の小説に名誉ある文学賞をあげないといけないほどの人材不足ならもうベルギー人は小説書かないでチョコだけ作ってればいいよ。この小説に108円もの大金を払うくらいならチョコを食べたほうがましだった。★☆☆☆☆【中古】 テレビジョン 集英社文庫/ジャン・フィリップ・トゥーサン(著者),野崎歓(訳者) 【中古】afb
2016.12.02
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